インドネシア便り──小松邦康


ジャワ島地震、現地からの報告──2006年6月19日   第10回

ジョグジャカルタ州バントゥル県バウラン村

同上

同上.手作業で瓦礫を撤去するレスキュー隊

ジョグジャカルタ州バントゥル県ドドタンバンバン村

中部ジャワ州クラテン県センゴン村

ジョグジャカルタ州バントゥル県ジェティス村
テントの中で夜を明かす子どもたち

中部ジャワ州クラテン県チャバアン村
校舎が崩壊し、テントの下で授業を受ける児童

中部ジャワ州クラテン県チャバアン村

ジョグジャカルタ市内カランクンティ地区
家を失い墓場にシートを張り、生活が始まった

ジョグジャカルタ州グヌンキドゥル県ブユンガン市場
市場が崩れ、炎天下で露天を開く人たち

ジョグジャカルタ州イモギリ県イモギリ町 商店街が崩壊した

ジョグジャカルタ空港の国内線ターミナル

地震で崩れた世界遺産のヒンドゥー遺跡プランバナン寺院

同上

地震で崩れたヒンドゥー遺跡プラオサンロール寺院
(プランバナン寺院から約3キロ)

地震で崩れた水の王宮タマンサリ ジョグジャカルタ市内



◆被災地へ急行


 地震発生から約2時間後の5月27日午前8時過ぎ、朝日新聞ジャカルタ支局から電話がかかった。
「ジョグジャカルタ周辺で大きな地震が起きた。現地にすぐ入りたいので、一緒に行って欲しい」
 私は支局に向かい、記者とカメラマンに合流した。通常ならばジャカルタから1時間あまりで飛べるのだが、地震でジョグジャカルタの空港が閉鎖されているという。施設が壊れているので空港再開のめども立っていない。
 最寄のソロかスマランまで飛び、車で2〜3時間かけてジョグジャカルタ入りする方法がある。しかし夜の便まですべて満席だという。もうひとつ10時間以上かけ陸路でジョグジャカルタに入る方法もある。私は迷わず「ジャカルタの空港に行きましょう」と提案した。
 昼前に空港に着いた。やはりどの便も数十人の空席待ち。そこにダフ屋が現れた。 「ソロ行きも、スマラン行きもあるよ」
 男は約4時間後に出発するソロ行きのチケットを持っていた。26万8000ルピアと書かれているのに、100万ルピアだと吹っかけてきた。足元を見られている。現地にいち早く入りたいという客は完全にカモにされている。
 「チケットの名前が違う。4枚買うから安くして欲しい」と私は言った。
 「名前などどうでもいいじゃないか。日本人なのに値引きしろというのか。さっきの男はいい値で買ったぞ。仕方がない、1枚80万ルピアにしてやる」とそのダフ屋は言った。彼は他のダフ屋に4人の客を取られるのを怖れていたようだ。
 私は「ユスフ」と名前が書かれたチケットで、17時過ぎ、ジャカルタからソロに向けて飛び立った。
 1時間でソロ上空にさしかかったが、狭い空港の駐機場は満杯だった。ジョグジャカルタ行きの便がすべてソロ行きに変更されたからだ。そのため30分あまり上空を旋回した。機上から見る限り、ソロの町に被害が拡がっている様子はなかった。ソロの空港に降り立ったときには、もう日が暮れていた。
 ジョグジャカルタに向けて車を飛ばした。暗闇の中では被害状況が分からない。幹線道路を1時間以上走り、ジョグジャから約15キロ手前のプランバナンの町にさしかかった頃、やっと壊れた家並みを確認できた。
 そのあとジョグジャカルタ市内の町に入ると壊れた家屋は少なくなった。しかし中心部にあるバテスダ病院には、朝から1000人近いけが人が運び込まれていた。そのうち20時までに98人が息を引き取ったという。廊下や病院の外まで患者が横たわり、足の踏み場もないほどだ。地面には血のりが付き、泣き叫ぶ声が響く、野戦病院さながらだ。
 「路線バスで骨折した義理の姉を運んできた。死者は埋葬されたが、身動きできない負傷者は村に取り残されている」と、隣接するバントゥル県のスギヤトさん(35)は訴えた。
 病院を出て、最も被害が大きいといわれた南部のバントゥル県に向け車を走らせた。停電が続き、信号も消えたままだ。あちこちで住民がランプを持ち寄り、集まって夜を明かしている。
 30分ほどで着いたバントゥル市の赤十字事務所も停電したままだった。暗闇の中ランプを照らし、患者がテントの中で治療を受けている。
 「薬はある。でも医者が不足している。それより患者を運んで来る車が全く足りない」と看護婦(18)は話した。
 取材を終えて深夜、ジョグジャカルタに戻った。私たちは開いていたホテルに泊まることにしたが、多くの住民は余震による家屋の倒壊を恐れ屋外で寝ていた。
 「怖くて眠れない。でもみんなで集まっていると少しは安心できる」と、シンタさん(20)は話した。
 朝日新聞は日本の新聞では被災地に一番乗りし、翌日の朝刊に現地ルポと写真を載せることができた。

◆破壊された地を訪ねる

 翌5月28日、まだ薄暗い朝6時前にホテルを出発した。それからもジョグジャカルタに滞在した約2週間、毎日早起きして被災地を回った。地震で家を失った人たちは早起きだ。電気のないテント生活は太陽が昇ると始まる。そして何よりも朝の涼しい時間に動いた方が楽だからだ。
 まず震源に近い海岸に向かった。不思議なことに幹線道路沿いには、あまり崩壊した家屋はなかった。しかしジョグジャカルタから30キロほど離れたパラントゥリティス海岸に着くと売店や海の家は様子が一転した。
 いつもの日曜日なら多くの人で賑わう海岸だが、この日はまったく人影がなかった。家屋が崩壊し、オレンジ色の屋根瓦が飛び散っていた。24時間以上たっても住民は津波を恐れ、丘に逃げたままだという。1年半前に起きたアチェの大津波の記憶がまだ鮮明だからだろう。海から遠く離れたジョグジャカルタの住民でさえ、津波来襲の噂で避難したというから無理もない。
 車のラジオからは、「バントゥル県のプレラット郡やジェティス郡で大きな死者が出ている」というニュースが流れていた。パラントゥリティスから1時間、プレラット郡のバウラン村に向かった。
 約600世帯、人口1500人の農村は、空爆を受けたような破壊が拡がっていた。ブルドーザーなどの重機はなく、レスキュー隊や国軍兵士がスコップや手で瓦礫を取り除いていた。長女を失ったバダウィさん(28)は、妻と生後10ヵ月の長男がまだ瓦礫に埋まったままだ。
 「生きている可能性は低い。神様に任せるしかない」と肩を落とした。
 「昨日までに43人の死亡が確認された。まだ30人以上が行方不明だ。昨夜は村人みんながテントで夜を明かした」とスマルディ村長は話した。
 村のサッカー場では遺体を埋葬する穴を掘る作業が続いていた。イスラム教徒は土葬される。しかし墓場が満杯で、腐敗を防ぐために急いで埋葬しなければならないからだ。
 その後、私たちは大きな被害がでているというプランバナン遺跡に向かった。ジョグジャカルタから15キロほど離れた所にある9世紀頃建てられたヒンドゥー教の遺跡群だ。ジョグジャカルタ北方にある仏教遺跡ボロブドゥールと並び、世界遺産に指定されているジャワ島観光の目玉だ。
 その美しい遺跡が悲しいほどに破壊されていた。原型は留めているものの、ブラフマ、シバ、ウィシュヌなどのほとんどの寺院が崩れていて、地面には直径1メートル以上の石がいたるところにごろごろ転がっていた。
 「観光客で賑わっていた時間に起きたら、多くの死傷者が出ただろう。開園前の早朝に地震が起きたのが不幸中の幸いだ。遺跡修復のめどはまったく立っていない」と、公園の責任者は話した。
 プランバナン遺跡から3キロほど北にある、プラオンサール寺院も大きな被害が出ていた。観光に大きな打撃になりそうだ。
 ジョグジャ市南部にある欧米のバックパッカーらがよく利用する、プラウィロタマン通りのホテルや商店も破壊された建物が目立つ。20軒ほどの宿に泊まっていた観光客らは幸いみな無事だったが、多くは営業再開のめどが立っていない。
 「天井などに穴があいた。欧米が旅行シーズンに入る7月までに復旧工事を急がなければならない」と、「ドゥタゲストハウス」のオーナーのジョコさん(52)は語った。
 プラウィロタマン通りの南に広がる住宅地も、破壊がひどい。家をなくした住民らは墓場を青いビニルシートで覆い、テント暮らしを始めていた。

「お墓で寝泊まりするのは気持ち悪くないですか」と私は住民に質問した。
「壊れた家の中で生活できますか。いつまで続くか分かりませんが、仕方がないでしょう」という答えが返ってきた。
 電気は復旧していたので電線を引き、子どもたちはテレビを見ていた。
 ジョグジャカルタや南のバントゥル県の被害の大きさが報道され注目を集めたが、東のクラテン県はそうではなかった。クラテン県はジョグジャカルタ特別州でなく隣の中部ジャワ州に属するため、後回しにされたようだ。クラテン県の被災地を訪れてみると被害の規模が大きいのに、支援が遅れていた。死者が5000人(*)を越え、負傷者が3万8000人という今回の地震は、かなり広い範囲に被害が拡がっていることも分かった。
*インドネシア国家災害対策調整庁の発表では5865人。社会省の集計では6234人だったが、統一され下方修正された。しかし私が被災地を回った限り、世界でも有数の人口密集地で起きた地震とはいえ、これほどの死者は出ていないように思う。めちゃくちゃに破壊された集落でも死者は数人と驚くほど少なかった。バントゥル県のバウラン村が100人に迫り一番多かったが、そんな村は他になかった。そもそも役人が集計に回ったという形跡がない。裏は取れないが、死者数を水増しして被害を大きく見せ、外国からの援助を多くもらおうと考えた役人がいるのかも知れない。

◆ゴトンロヨン

 倒壊家屋の多くは、煉瓦をセメントで積み重ねた建物だった。耐震性が低く、落下した瓦屋根や壁に押しつぶされて多くの死傷者が出た。死者の4割が幼い子どもという報告もある。瓦礫に埋もれ、自力で脱出する力がなかったからだ。
 ジョグジャカルタから東に20キロほど離れたクラテン県チャバアン村の小学校は校舎が全壊し、児童154人のほとんどが被災し3人が死亡した。
 5キロほど離れた自宅で被災したトリニンシ校長(46)は、すぐ小学校に駆けつけた。当日は試験日だったので、生徒が早くから登校し、地震に巻き込まれていないか心配だったからだ。幸い7時前の学校にはまだ誰も登校していなかったので、死傷者はいなかったが、崩壊した校舎の瓦礫の中に書類や教科書は埋まってしまった。
 校長が数時間後自宅に戻ると、悲しい知らせが届いていた。別の場所に住んでいた母親が家屋の下敷きになり亡くなったという。
 しかし自分の仕事は子どもたちから怖い地震の記憶を早く忘れさせることだと、気を持ち直した。子どもを学校に集め、歌を歌い、絵を描かせ、地震の前のような楽しい時間を過ごさせなければならない。小さな子どもに募金集めのような乞食のようなことなどさせてはいけない。教育を受けさせることが一番大事なんだという気持ちで、1日も休まず毎朝学校に通っている。
 校舎は壊れたままだが、テントの下に椅子を並べなんとか授業を再開した。テント生活を続けている子どもたちが、毎日100人以上集まってくる。それを聞きつけた大学生のグループが授業を手伝いにやってきた。心理学を専攻する学生らは交代でテントに泊まり込み、子どもたちから地震のトラウマを除くためサッカーや縄遊びをして遊んでいる。
 「家の片づけが大変で、親にかまってもらえない子どもがたくさんいます。私たちがそんな子どもたちの相手を大人に代わってしてあげているんです」と、大学2年のノリナさん(19)は話す。
 そして民間の団体が米などの食糧や衣料を配ってくれるようになった。ジョグジャカルタから車で30分しか離れていないが、幹線道路から3キロほど入った水田地帯にあるチャバアン村は支援が届くのが遅れていた。地震から5日目になってやっと最初の支援物資が届いたという。 しかしそれが返って幸いしたのかもしれない。援助に頼るより、自力で立ち上がらなければという意識が村人に働いたようだ。村の家屋はほとんど全壊しているが、子どもたちが集まる学校の再建が最初だと村人みんなで瓦礫の撤去を始めた。学校が片付くとみんなで個人の家の瓦礫を片付けた。
 私はジョグジャカルタに2週間滞在中いくつもの被災した村を訪ねたが、チャバアン村の復興の立ち上がりは他の村に比べ早かった。道端に立ち、募金集めをする子どもの姿もほとんどみかけなかった。
 インドネシアには「ゴトンロヨン」という住民同士の助け合いの精神が根付いている。同じ村の人も、遠く離れた町の人も地震で被災した人を「ゴトンロヨン」の精神で支えあっていた。その背景には行政主導の復興を期待していては、いつまでも大変な生活が続くという不安があるのも事実だろう。1年半たっても復興が遅れ、数万人ものテント生活者が残るアチェやニアス島の被災地のこともよく知っている。
 「支援物資を政府に渡すと、どこかで止まってしまいます。直接ここに持って来て下さい」
 そういう声はどこの被災地でも聞いた。何を支援し、何を支援しなくてもいいのかということも常に考えなければならない。
 今は十万人以上といわれるテント生活者のために、早く丈夫な住宅が再建できるよう支援するときだ。


復興が遅れるニアス島──2006年3月   第9回






 >> 2004年12月のスマトラ沖地震・津波と2005年3月の地震で大きな被害を受けた北スマトラ州ニアス島を再訪した。ニアス島は北スマトラの西海岸から約120キロのインド洋に浮かぶ和歌山県ほどの大きさの島(面積約4772平方キロ)で、人口は約72万人。宗教はキリスト教徒が多い。農業や漁業が主な産業で、出稼ぎ者も多い。島の中央は丘陵地で密林に覆われているが、南部には有名な巨石文化の残る集落やサーフィンの有名なスポットもある。北スマトラの都市メダンから島の中心地グヌンシトリまではプロペラ機で約1時間。または車と船を乗り継ぎ約20時間かかる。左の写真は、毎晩出航する定期船である。
 2005年3月28日の地震では850人もの死者が出ているが、スマトラ沖地震・津波の陰に隠れて注目されず、復興支援は大幅に遅れていた。

 >> 両親や妹弟を地震で失ったリカさん(24)は、1年経った今も親戚ら9人とテントやトラックの荷台で寝る暮らしが続いている。今年になってやっとキリスト教会の援助で自宅を改築できるようになった。地震で閉じ込められた部屋で生きのびていた中学生だった妹のメラニーさんは、携帯電話のメールで助けを求めた。しかし後回しにされ、8日後に遺体で見つかった(グヌンシトリで2月20日撮影)。

 >> ニアス島にはまだ1万2000人の避難生活者がいる(BRR=アチェ・ニアス復興再建庁調べ)。ニアス県庁近くのこの避難所にも130家族・683人が暮らす。テントは雨漏りし、日中は死ぬように暑く、夜は寒いという。BRRは昨年11月、3月末までに仮設住宅に移すと発表したが、実現のメドは立っていない。定職を失った男性はベチャ(人力車)引きになった。女性の多くは華人の家などで洗濯のアルバイトをしている。1日2時間毎日働いても、月に5万ルピア(約750円)しかもらえない(グヌンシトリ・アンペラ避難所で2月21日撮影)。


 >> ニアス島全体で地震で約1600の橋が壊れた。多くの橋が修復されず、島内の移動は困難を極める。この川に架かっていた橋は地震の後どんどん傾いていき、今年2月に通行止めになった。そのため下半身まで水に浸かり、川を渡らなければならない。しかし、これ以上水量が増えると渡れなくなる(ジダノガウォ川で2月21日撮影)。


 >> 地震で海岸線の地形が変わり、陥没した土地も多い。この集落では多くの住宅が海に流された。高い椰子の木も海水を被り、すべて枯れてしまった。道路や住宅が建っていた跡や壊れたままのモスクが残っているが、住民はほとんど戻ってきていない。満潮時には海水に浸かってしまうからだ(ボジホナ村で2月21日撮影)。


 >> 人口約72万人のニアス島にはガソリンスタンドが2軒しかない。営業時間中はいつもオートバイの客であふれかえる。スマトラ本島から約120キロ離れたニアス島は発展から取り残されている。物資の運搬にコストがかかり物価が高い。復興が遅れているのは、支援物資が届きにくく建築資材が高騰したままだという理由もある。アチェの復興も遅れが目立つが、ニアス島の比ではない(グヌンシトリで2月21日撮影)。


 >> 復興が遅れているニアス島で、日本のNGO(非政府組織)としては唯一「AMDA」(本部岡山市)が残って支援を続けている。島の南東部の3つの漁村で、今年中に約250棟の住宅を完成させるという。これまで他のNGOも調査に来たが、資材搬送などの難しさなどから事業化を諦めた。AMDAも遅れはしたが、作業が始まると避難民も村に戻って来て手伝っている。本業である漁業も復活し、現金収入を得られるようになったという(ボジホナ村で2月21日撮影)。




巨大津波から1年、追悼も大事だが──2005年12月26日・バンダアチェ   第8回


 バンダアチェから被害のひどかった西海岸を車で走った。
 アスファルト舗装は途中で途切れ、砂埃が舞った。大雨が降ると通れなくなる、急ごしらえの道だ。
 海岸が削られ地形が変わっている。巨木が倒れたまま、あちこちに転がっている。
 私は10年以上前から、何度もアチェの西海岸を車やバスで走ったことがある。砂浜あり、岩場ありのとてもきれいな海岸線の景色が続く。しかし1年前の巨大津波でチャラン、パテック、ムラボなどの町は大きな被害を受けた。
 海沿いの道路が流されている場所を何カ所も見た。200キロ以上に及ぶこの幹線道路を元通り修復しない限り、人や物資の輸送が滞ったままだ。
 日本やアメリカが修復するという。日本政府が寄贈し、数カ月バンダアチェに放置されたままのブルドーザーやパワーショベルなどの重機もここで使われるという。しかしまだ工事の槌音は聞こえてこない。
 バンダアチェから1時間、ラユンルスドゥ村は津波で住民1000人のうち300人が犠牲になった。道路や橋が破壊されたため数日間孤立状態になったという。
 1年前のことは仕方がない。でもそれから政府や国際機関の支援がほとんど届いていない。取り残されたままだ」と、ナシルさん(28)は嘆いた。
 村には数百人が埋葬されている共同墓地がある。ナシルさんの妻と2人の子どもは津波にさらわれたので、そこには埋葬されていない。しかしほとんど毎日墓参りに行くという。
 12月26日、バンダアチェの海岸ウレレやいくつかのモスクで一周年の追悼式典が開かれた。外国人の招待客も多く、このひと月あまりアチェ・ニアス復興支援庁(BRR)はその準備に追われ、本来の業務が後回しになっていた。
 BRRの駐車場には被災地には不釣合いの黒塗りの高級車が何台も停まっている。庁内は冷房がよく効き、職員は新品のコンピューターに向かって働いている。アチェだけでなく、ジャカルタなどからの職員も多い。
 「復興が遅れているんじゃないですか」と、私が質問をしたら、ムッとした表情が返ってきた。
 地図を広げ、被害の酷いバンダアチェ市内や西海岸の地名を出して話をしたら、「そんな所は知りません」と、何人もの職員が言う。
 被災地を見ていないじゃないか、彼らに復興事業を任せていいのだろうか、という疑問が湧いた。
 そのBRRによると現在、12万5000人が仮設住宅で暮らし、そのうちの6万7500人がテント生活を余儀なくされている。
 世界から、過去にない巨額の義援金が集まっている。日本政府だけで146億円という無償援助をしているが、被災者のために早く正しく有効に使われるよう監視するシステムはできているのだろうか。


放置された日本の援助──2005年11月26日・バンダアチェ   第7回


  昨年末、市街地の3分の1を巨大津波にのみ込まれたアチェ州の州都バンダアチェを再訪した。スマトラ沖地震からもうすぐ1年たつが、被災地からは復興の槌音が聞こえてこない。
 土砂に埋まったままの住宅地、海水に浸かってしまった水田、破壊された住宅、生産を止めた工場など、依然無残な姿をさらしたままだ。国連援助機関やNGOなど海外からの支援組織を拠点に活動している外国人は増えている。30年以上続いていた独立紛争が、インドネシア政府と独立派武装組織(GAM)との間で停戦・和平協定が結ばれ、治安が改善されているからだ。
 しかし世界中からインドネシア政府やインドネシア赤十字に寄せられた70億米ドル(約8000億円)といわれる巨額の復興支援金の多くは、どこかに保留されたまま、災害復興の現場には十分に届いていない。
 ユドヨノ大統領直轄の「アチェ・ニアス復興再建庁」のクントロ長官は4月の就任会見で、「義援金には子どもがお小遣いから出してくれたものも含まれている。国民や国際社会からの信用を守るためにも、透明性を持って実行し、使途も報告したい」と述べていた。しかし雑草が伸びたままの復興再建庁の敷地には、日本から寄付されたパワーショベル8台、トラック8台、ブルドーザー2台が放置されている。どの車体にもナンバープレートもなく、座席はビニールを被ったままの新品だ。
「たくさん置かれたままですね」と職員に聞いたら、「一番最初に寄付してくれた日本に感謝している」と言われてしまった。
 ラムリ・イブラヒム副長官は22日、「2カ月ほど前にここに届いた。どこに配置すればいいのか検討中だ。来月中旬までには稼働させたい」と述べた。
 バンダアチェには日本政府の連絡事務所もあり、JICA(国際協力機構)などの職員も駐在している。21日から22日にバンダアチェを訪問した飯村豊日本大使はジャカルタで23日、「インドネシア側には最大限にプレッシャーをかけているが、難しい問題だ」と語った。
 1日も早い復興を願って集まった善意の積み重ねが、被災者のために有効活用されるよう、日本政府や支援関係者は監視を怠らないで欲しいと切実に思った。
 壊滅状態になったアチェの被災地が復興するには5年から10年かかると言われている。最近はメディアの報道も減り、日本人の関心も薄らいでいる。日本のNGOも撤退が進み、活動する若者たちの姿もほとんど見られなくなった。





バリ島同時爆弾テロから二週間──2005年10月20日   第6回

 10月1日の同時爆弾テロから2週間たったバリ島を訪れた。
 10月15日は朝からヒンドゥー教のクニンガンの儀式が行なわれていた。先祖の霊を迎え神に対し祈る、日本のお盆のような日だ。観光客といえども1日中外出できないというニュピのような儀式でなく、心が浮かれるお祭りのような日だともいう。
 しかし爆弾テロの影響は大きく、いつも賑やかなクタでは観光客が減りひっそりした雰囲気が漂っていた。オーストラリア政府がテロ再発の危険情報を発令しているクタの北、スミニャックではほとんど人を見かけなかった。3年前クタで起きたテロの後も観光客が減ったが、これほど寂しい感じではなかった。
 その日は土曜日なので夜はディスコなどが賑わうはずだが、空車のタクシーだけが目立っていた。翌日の日曜日も人通りが少なく、多くの商店は日が沈むと店を閉めてしまった。

 テロ現場を見に行った。破壊の規模は想像よりずっと小さかった。クタビーチに近い商店街クタスクエアにあるレストラン「ラジャス」は、屋根は黒焦げだが建物はそのまま残っているので、改装すればすぐに店を再開できそうだ。3年前のテロでは自動車に仕掛けられた爆弾が爆発し、道路に大きな穴があき、周辺に燃え広がった炎で大火事になった。
 だがここでは隣の眼鏡店や向かいのブティックは割れたガラスを修理して、1週間もたたずに商売を始めている。眼鏡店の隣にある旅行会社HISも店を開け、日本人客を待っている。近くのマタハリデパートなどに向かう人が手を合わせて祈ったり、写真を撮ったりしている以外、表面的にはテロの前とあまり変わっていないようだ。
 クタから南へ約10キロ、ジンバランのムアヤビーチに面した現場は焦げた跡も残っていない。10軒ほど並ぶシーフドカフェのうち、「メネガ」と「ニョマン」という2軒がテロの犠牲になったが、両方とも修理が終わっていた。海岸にはいくつかの花輪が備えられている。その中には東ティモールからのものもあった。東ティモール出身の従業員が犠牲になったのかも知れない。波静かなビーチで泳ぐ観光客もいて、言われてみないとテロ現場だとは分からないほどだ。
 しかし3年前に続き2度もバリでテロが起きたことと、商店街やシーフードカフェという外国人だけを狙ったテロではないようなので、バリに暮らす人の多くは以前よりも不安が拡がっているようだ。

 今回のテロは国際テロ組織アルカイダと関係があるとされる、東南アジアのイスラム教過激派組織ジャマー・イスラミア(JI)の関与が濃厚だといわれている。国際的観光地で起こったため、日本を始め多くの外国メディアがバリ島を訪れた。インドネシアの国家警察も、毎日外国人記者向けに記者会見を開いた。そのため海外で起きているテロと関連付け、「国際テロ組織の犯行」というニュースの流れができてしまった感もある。
 この3年で爆弾テロがバリで2回、ジャカルタで2回という多さだが、その間スラウェシ島のポソやマカッサルでもテロは起きている。インドネシアの記者しか取材に訪れないと「国内のテロ組織」の犯行だといわれ、外国人記者が集まるバリやジャカルタだと「国際テロ組織」だと発表されるのが不思議だ。今回自爆したテロ実行犯の身元がまだ判明していないのに分かるのだろうか。

 破壊の規模が小さかったことや、海外からの旅行者よりもインドネシア人の犠牲者の方が多かったことから、バリで暮らすインドネシア人や外国人の中にはJIの犯行ではないという人もいる。
 犯行グループが何であれ、なぜ外国人客の比率が多い店でなくインドネシア人客もよく行く店が狙われたのだろうか。クタでテロの標的になった「ラジャス」のオーナーはスラバヤ出身の華人Rさんだ。スラバヤではインテリア関連の仕事をしていたが、15年ほど前バリに渡り商売を始めた。今バリで何軒ものレストランを経営する成功者だ。Rさんには会えなかったが、同じスラバヤからバリに来て20年、ホテルなどを経営するSさんに話を聞いた。
「Rとは毎日電話で話し、昨日も会った。親友といってもいい。でもRはバリ人やジャワ人の悪口を言ってばかりいる。イスラム教徒に対しても馬鹿にした態度が目立つ。テロのあった日、娘さんの結婚式がジンバランであった。犯人はクタの店とジンバランの結婚式会場を同時に狙った。でもジンバランは場所を間違えたんじゃないか」
 警察はRさんから何度も事情を聴取している。今Rさんは外に出ることを怖れているという。
「Rは嫉妬され、狙われて当然だった。でも真相は分からない」と、Sさんは付け加えた。

 事件の真相は分からない。なぜインドネシアだけこんなにテロが繰り返されるのだろうか。汚職がはびこる社会への不満や貧富の格差などの閉塞感が、ごく一部だが若者をテロリストに駆り立てる。そして彼らを過激な思想に洗脳する組織が存在するのだろう。これまでの政府の怠慢が最近の大幅な石油価格値上げ、物価の高騰を引き起こしたりもする。日常生活から生まれる不公正がテロリストを生む温床になっていることをインドネシアに暮らす人は分かっているから、今後もテロが起こる恐怖から離れられない。その悪循環をつぶしていく努力に迫られている。




巨大津波から半年のアチェ──2005.7.12   第5回

被災地は変わっていなかった。

 町の3分の1が巨大津波に流されたインドネシア・アチェ州の州都バンダアチェ。まだたくさんの瓦礫が残る荒野が広がったまま、生々しい傷跡をさらけ出している。
 ユドヨノ大統領直轄の復興機関「アチェ・ニアス復興再建庁」が発足したのが4月末だった。アチェ州だけで17万人弱の死者と行方不明者が出た。全半壊した民家11万6880戸、津波に流された居住地の総面積17万3673ヘクタール、そのうち35%が完全に破壊された。全長2万6017キロの道路と2267の橋が不通になった。巨大津波から半年たった6月末、そういった統計の発表はあった。
 しかし、現実には、53万人以上がテントやバラック建ての避難所生活をしており、そのうち25万人が老朽化したテントから抜け出せない。15万人がNGOなどと建てた仮設住宅で暮らし、他は親戚の家などに身を寄せているという。政府は今年度中に約3万戸の住宅を完成させたいというが、これまでにまだ1000戸の仮設住宅しか建てていない。復興の槌音が聞こえてこないのだ。1日も早い復興を願い、海外から集まった70億ドル(約8000億円)ともいわれる義援金は有効に使われていないようだ。被災地はこのまま見捨てられていくのだろうか。

 バンダアチェの空港には、4月に訪れた時には目立ったインドネシア国軍兵士の姿がほとんどいなかった。丸腰の兵士が数人日陰で座っているだけだった。客待ちのタクシーも暇そうで、10キロあまり離れた市内中心部まで5万ルピア(約450円)と、津波直後の3分の1ほどに値を下げていた。ラビラビと呼ばれる乗合いの小型バスも運行を再開していた。津波前同じと3000ルピアだったので乗ることにした。ふつうは30分くらいで着くところが、乗客が少なく、客待ちのため1時間近くかかった。
 道端に死体が放置されたり、空き地に無数の死体が埋められていたり、強烈な死臭が漂う「地獄」はもうない。地平線まで緑が広がる水田や豊富な野菜や果物が並ぶ沿道の市場は津波前の姿に戻り、「豊かなアチェ」が復活していた。ガソリンスタンドの長い行列も消えていた。運転手によると、一時高騰した生活必需品は津波前の値段に下がったという。
 バンダアチェにはメーターのタクシーはなく値段交渉が必要になるが、オートバイ付のベチャ(サイドカー)がたくさん走っているので競争上値段は高くない。移動にあまり金がかからなくなったことも、日常生活の立て直しには役立っているようだ。
 ホテルも営業を再開していた。中心部にある私の常宿だったホテルメダンは海岸から2キロ以上離れている。ホテルの前に巨大津波で流されてきた大きな船が打ち上げられていたが、それも撤去されていた。顔見知りの従業員は、「久し振り」と迎えてくれた。アチェに戒厳令が発令される前以来2年振りの再会だった。まだ全部の部屋が使えるわけではないが、客は戻ってきたという。部屋は少しヒビが入っていたが、エアコンもお湯も使えた。
 瓦礫と泥に埋もれていた近くの中央市場も活気を取り戻していた。津波で多くの漁師が犠牲になった。2ヵ月前には野菜や果物に比べ魚が少なかったが、今は魚も豊富だ。沖合いでとれた車えびはアチェ以外の州にも売られていくという。売り子の表情は明るい。
 商店も片付けが終わった地区から営業を再開している。名物のミーアチェ(アチェの麺)やコーヒーの店も夜遅くまで賑わっていた。屋台には家族連れの姿が多く、治安はいいようだ。インドネシアのふつうの町と変わりはない。
 しかし津波の直撃を受けた地域に行くと様相が一転する。瓦礫が撤去され少しずつ雑草が伸びてきた地、海水に浸かったままの地、そしてまだ瓦礫が放置されたままの地など、見渡す限りの荒野が広がっている。ブルドーザーなどの重機で町を再建している所が見あたらない。復興の槌音がまったく聞こえてこない。インフラ整備から始めなければならないのにその気配もない。実際にはバンダアチェの3分の1の地域がこのような状態だ。
 バンダアチェに次ぐ大きな被害を受けた西海岸の町ムラボに通じる200キロ余りの道路は、2ヵ月前インドネシア国軍が補修した。しかし、やっとオートバイが走れる状態で、強い雨が降るとすぐ不通になる。その後の工事は止まったままだ。だから遠回りして山道を10時間かけて行くか、週1度の定期船に乗るしか方法はない。
 その道をバンダアチェから少し走ってみた。何ヵ所もあるテント村にはまだまだ多くの被災者が暮らしていた。各国のNGOが建てたバラックの仮設住宅でさえ足りていない。井戸にはバケツを持って水を汲みに来ていた女性たちが集まっていた。
「この生活はいつまで続くのだろうか。政府は何もしていない。私はバナナの木を植えて現金を稼いでいる。自力でたくさんお金を稼いだ人だけが家を建てられるのよ」と、アミナさんはあきれた顔で話した。
 確かにぽつぽつと家が建っていたが、電気や水道が通るのはまだまだ先のようだ。
 救いは、500ともいわれる外国の支援団体が活動し、外国人が目立っていることだ。国軍と独立派武装組織(GAM)と戦闘が続く戒厳令下なので、外国人を退去させるともいわれた。しかしその戒厳令も解除され、外国人の渡航も厳しくない。外国人が蛮行を繰り返した国軍の監視役になっていることを、アチェの人たちは歓迎している。生命を脅かされる心配はなくなったからだ。
 しかし欧米からの外国人に比べ、日本人の数は少なく影が薄い。日本政府がアチェへの渡航延期を勧告しているからか、NGOの数も取材している記者も少ない。日本政府は復興の緊急援助としてインドネシア政府に146億円を支払った。しかしこれまでに工事の入札を経て契約が成立したのは3億3000万円だという(外務省発表)。不正使用や汚職の噂が絶えないインドネシアで、そのお金がちゃんと復興に使われるよう日本政府は監視を怠らないで欲しい。   

 >> 行方不明の子供のポスター。

 >> 客が戻ったバンダアチェの市場。

 >> バンダアチェ郊外のテント生活者。

 >> バンダアチェ郊外の仮設住宅ではしゃぐ子供。

 >> アチェ名物のカフェも復活。

 >> クルマエビも州外へ売れるようになったと喜ぶ魚市場の男。

 >> 巨大津波に襲われたままの住宅地。

 >> 巨大津波に襲われたままの海岸の村。

 >> 巨大津波で消失した海岸の村へ向かう道。

 >> 空港で売っていた津波Tシャツ。





バンダアチェより・写真報告──2005.1.29   第4回


 >> 武装した国軍兵士が日々増えるバンダアチェ。

 >> 後片付けする人も増えている バンダアチェ。

 >> バンダアチェの再開した市場で。

 >> 季節の果物ランサ バンダアチェ。

 >> 瓦礫を運ぶトラックの車列 バンダアチェ郊外。

 >> こんな田園風景が続いていた バンダアチェ。

 >> 津波に流された水田跡 バンダアチェ郊外。


              

                
「アチェを忘れるな!」小松邦康   第1回

 インドネシア・スマトラ島沖の巨大地震と津波の死者は世界50ヵ国で15万人を越えた。私は発生から4日後の12月30日、震源に近いアチェ州の州都バンダアチェに入った。
 死体が腐っていくにおいを初めて嗅いだ。体全体がしびれ、動けなくなる。最初は息を止め、遺体にカメラを向け、シャッターを何度も押していた。
 バンダアチェ空港の近くではバナナ畑をつぶし、パワーショベルで穴を掘って、埋葬所を作り、2000体の遺体を埋めたという。これから埋められる数十体の遺体の山ができていた。服はそのまま、頭髪は埃をかぶり、目はこちらを向いている。大量虐殺現場のようだ。

 津波の水が引いた水田には、腕や足が大きく膨れ、こげ茶色に変色している遺体。瓦礫の下から突き出した手。水路にはうつぶせになったまま浮かんでいる遺体。小さな子どもの遺体が半数以上ある。これでもか、これでもかと視界に入ってくる。
 私はいつの間にか遺体にカメラが向けられず、見ることも避けるようになっていた。瓦礫の積み重なっている場所が果てしなく続く。歩きながらあのにおいがしてくると、前を歩いている人に、「右か左か」と聞く。「右」と答えが返ってくると、「左」に目をやり、前へ進む。しかし遺体を見ずに町を歩くことは不可能だ。
 私がバンダアチェに入ったのは被害から4日目の12月30日だった。車がないので砂埃の舞う炎天下を1日歩いた。食事は避難所で、炊き出しのインスタントラーメンを恵んでもらった。
 中心部にあり、町のシンボルでもあるバイトゥラフマン大モスク周辺では瓦礫を取り払う作業が始まっていた。しかし海岸沿いの村は家がすべて流され、村全体が壊滅状態。ほとんどの地域で死体が手付かずのまま、放置されている。破壊の規模が広範囲に広がり、全く回収作業が追いつかない。
 その後、外国の軍隊が瓦礫や泥の下の遺体の撤去作業を始めた。しかし2週間過ぎても、まだ無数の遺体が埋まっている。
 そのうち町全体でコレラなど伝染病が流行し、また数万人の死者が出るのだろうか。恐ろしいことが始まりそうだ。
 バンダアチェは震源から300キロ離れている人口20万を超える大きな町だ。そこで1月10日現在、2万人以上の住民の死亡が確認された。しかし、その数には、放置されたままの遺体や瓦礫や泥の下に埋まっている人、津波に流されてしまった人など未確認の死者は含まれていない。バンダアチェだけで何万人の人が死んだのか分からない。
 バンダアチェから250キロのインド洋側のムラボは、震源地に一番近い町だった。町の8割が巨大津波に流され、人口3万人のうち1万人以上が死んだ。しかしこの数字も連日数千人単位で増えている。電話はもちろん、道路や橋が破壊されているので、全く情報が入らなかった。
 3日目になって脱出した住民の話がやっと伝わった。
「生き残った人たちを助け出すのはヘリコプターしかない。しかし全く足りない」
 その後、外国の軍やNGOが入り、救援物資を届けることができるようになった。
 アチェ州の面積は日本の九州より広い。海岸に近い町や村が完全に流され、砂浜に変わってしまった場所は無数にある。
 日本のメディアはタイのプーケット島やスリランカで死亡や行方不明になった日本人の安否に関する報道が多かった。観光地で被害が拡がったので、観光客が撮影したビデオなどの衝撃的な映像が世界に流れた。しかし震源地に最も近いアチェからの映像はなく、被害の大きさがほとんど伝わらなかった。インドネシアのメディアが現地に入り、電気が復旧し、情報が少しずつ伝わりだすと、死者の数が万単位で増えていった。そして今十万人を超え、毎日増え続けている。
 情報が伝わらず、救援体制つくりが遅れたことで、死者が増えていった。日本の自衛隊がアチェに入ることになったが、本格的に作業が始まるのはまだ10日以上先の1月末だという。
 アチェではこれまでインドネシア国軍による独立派壊滅作戦が続いていた。石油や天然ガスなどアチェの恵まれた資源はインドネシア政府主導で海外に輸出されている。LNG(液化天然ガス)の一番の買い手は日本だ。しかし富は地元にあまり還元されず、貧しさから抜け出せないという不満から、インドネシアから独立すれば国軍の恐怖からも解放され、確実に豊かになると考える住民が増えていった。おもしろく思わない政府は国軍を増強し、武力でアチェの独立派を押えようとした。2003年5月、アチェ州に戒厳令が発令され、以来1年半余りで住民を含む2000人以上の死者が出ている。
 しかしアチェの惨状は国際社会にほとんど伝わっていない。「忘れられた紛争」とも言われている。
 そして、今度の巨大地震と津波だ。アチェの悲劇は続く。
 アチェを「忘れられた地」にしてはいけない。



 インドネシア便りNo.11〜No.20  インドネシア便りNo.21〜No.31   ●文・写真:小松邦康