インドネシア便り──小松邦康


インドネシアで元宇高連絡船に再会──2008.8.8   第20回

 本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が開通して今年で20年経った。それまでは岡山県玉野市の宇野港と香川県の高松港の間を国鉄(現JR)の宇高連絡船が航行していた。
 その最後の連絡船「阿波丸」は1988年4月9日、宇高連絡船としての務めを終え、長い間、次の働き先を探していたが、93年インドネシアの船会社に売却された。そして「ティティアン・ムルニ(神聖な架け橋)」と名前を変え、現在もジャワ島のメラク港とスマトラ島のバカフニ港を結ぶフェリーとして「第2の人生」を送っている。
 瀬戸大橋開通20周年の記念事業としてJR四国が企画した「インドネシアで活躍する元連絡船・阿波丸を訪ねる旅」がこのほど実施された。
 高松港の近くで生まれた私は、瀬戸内海を行き交う船を見て育った。当時の高松港は日本一船の出入りが多い港だったという。私も何十回と連絡船に乗り、それがもとで旅が好きになった。国内を旅する時や海外に行く時も、連絡船で瀬戸内海を渡った。展望デッキには名物のうどん売店があった。船の上で瀬戸の島々の景色を見ながらうどんを食べている時間、私はとても幸せだった。
 連絡船にはいろんな人が乗っていた。大きな声で海に向かって歌っている人がいた。ひとりうつむき泣いている人がいた。うれしそうな新婚のカップルもいた。女性に怒鳴っている男もいた。しゃべり続けている女性グループもいた。明るい学生の笑い声も聞こえてきた。海を渡るということは、陸上を移動するのとは違う感情が働く。連絡船の中でそんな人たちを見ることも私は好きだった。
 私がジャカルタ暮らしを始めてすぐ、瀬戸大橋の開通に伴い、連絡船が廃止になった。仕方ないことだとはいえショックだった。しかし、その連絡船の1隻、阿波丸がインドネシアに売却されたという話が伝わってきた。そしてジャカルタから遠くないメラク港に行けば、阿波丸に乗れることがわかった。私は阿波丸に会いに行った。
フェリーに改造されため、以前は貨車を載せるため敷かれていたレールが取り払われ、うどん売店はイスラムの礼拝所に変わっていた。しかし「案内所」、「グリーン船室」、「便所」など日本語の表示はそのまま残っていた。「四国の民芸品」と書かれた棚にはインドネシアのお菓子が並んでいた。
船内にはダンドットが流れ、青年たちが腰をくねらせ踊っていた。デッキから海や島の景色を見ている人も多く、瀬戸内海を走っていた頃と同じゆったりした空気が漂っていた。私は「幼なじみ」の元気な姿を見てうれしかった。それからも何度も「阿波丸」に会いに行った。
そして今回、元船員など阿波丸に思い入れのある人たちが、ウキウキした気持ちでインドネシアにやって来た。「インドネシアで活躍する元宇高連絡船・阿波丸を訪ねる旅」のツアー参加者21名は、関西空港からバリ島を経由しジャカルタに着いた。高松からだと15時間以上の長旅だった。私もジャカルタからツアーに加わった。
しかしツアーが実施された6月末、阿波丸は西ジャワ州の港町チレボンのドックで改装工事中だった。そのためジャカルタからチレボンまで列車で3時間かけ移動しなければならない。とはいえ乗り物好きの参加者にとってインドネシアの鉄道に乗れるおまけが付いたため、不満の声は聞かれなかった。
列車の中では懐かしい阿波丸に再会できるという気分で盛り上がった。
「新婚旅行で乗ったんや」、「私は就職試験で乗った思い出がある」、「主人が船員やったから、海が荒れた時は心配で寝られんかった」、「高松駅も今と違い大きくて立派やった」、「友人の転勤を5色の紙テープを投げて見送ったなあ」、「瀬戸大橋ができてから、旅が味気なくなってしもうた」などと、讃岐弁で思い出を語り合っていた。
「瀬戸内海を行き交う多くの船の中でも、連絡船は花形でした。鉄道を乗せたまま走るんですからね。連絡船は日本人みんなの宝です。会うのがとても楽しみです」と兵庫県西宮市からツアーに参加した女性は声を躍らせた。
20年前阿波丸の船長だった合田功(ごうだ つとむ)さん(69)は、「阿波丸がインドネシアにいることは聞いていました。当時のままなのか、変わり果てた姿で働いているのか、期待半分、不安半分です」と心境を語った。
 チレボン駅に到着後バスに乗り換えドックに向かった。住宅の間から海が見えてきた。「あの煙突や。あのマストや。あれや、阿波丸や。うれしい」という声があがった。
船の全体が見えなくても、連絡船のファンは遠くから阿波丸を識別できるのだ。
 バスを降りてからの足取りも軽い。参加者の多くは六〇代以上だが、急な階段を自分の家のように駆け上がる。あちこち船内を動きまくり、「懐かしい。青春が戻ってきたわ」、「あのへんの椅子に座ったことがあるけど、そのままや」と子どものようにはしゃぎ、写真を撮りまくった。
 現船長のラハマットさん(33)が、元船長の合田さんを船長室に案内した。
「わしが寝よった頃の布団がそのままや」と合田さんは驚いた。
ドック入りの間もラハマット船長は船から離れず、この布団で寝ているという。シャワー室もそのままで、乗組員たちのマンディー場として使われている。
操舵室には靴を脱いで入った。清潔だった。計器の表示は日本語のままだ。乗組員は日本から技術者を招いて操縦を学んだという。
「大事に使って、安全運航を続けて下さい」と合田さんは船長と握手を交わした。
「わかりました。古い船ですが、ドックでお化粧直しをした後は元気に働けます」と船長は答えた。
 今回のツアーを企画したJR四国ワープ高松支店前支店長の大野修治さん(52)は、国鉄時代の最初の職場が阿波丸の航海士だった。
「新人時代の思い出がいっぱい詰まった阿波丸と再会でき、感激しました。船員もドックで働く人も、インドネシア人はみな親切でした。他の連絡船もまた見に来たいですね」と満足そうだった。


宇高連絡船(1910-1988)

本州と四国を結ぶ大動脈として活躍した国鉄(現JR)の連絡船。瀬戸大橋が開通するまで78年間に延べ2億5000万人を運んだ。阿波丸(総トン数3083トン)は67年に就航し、同型の伊予丸、土佐丸、讃岐丸とともに88年まで岡山県玉野市の宇野港と高松港約20キロを1時間で航行した。伊予丸以外の3隻はインドネシアに売却され現在も活躍中。

 
破壊進む熱帯雨林 スマトラ島リアウ州からェ──2007・12・24   第19回

 地球環境にやさしいといわれるバイオエネルギーの需要が世界的に伸びている。その原料となるパーム油が採集できるアブラヤシ(クラパサウィト)の農園開発が各地で拡大している。しかしそのため世界で2番目の面積を誇るインドネシアの熱帯雨林が伐採され、火が放たれているため、環境に大きな負担を与えている。
 バリ島で開催された国際気候変動枠組み条約締結国(UNFCCC)の第13回締結国会議(COP13)の期間中、日本テレビに同行しスマトラ島中部のリアウ州の熱帯雨林を訪れた。

豊かな森が伐採され、火が放たれた

 リアウ州の州都ペカンバルから車で4時間あまり、豊かな水量を誇るインドラギリ大河沿いに農業や林業で栄えた村クアラチナクがある。大河にはいくつもの支流が流れ込む。支流といえども薄茶色の大量の水が浮き草とともに蛇行しながら流れている。そこをポンポンと呼ばれるモーター付きの小船で進んで行くと、洗濯をする女性や水遊びをする子どもたちが手を振って迎えてくれる。
 川幅は5メートルくらい細くなったり、数十メートルに太くなったりする。日差しは強いが、水上なので涼しく風が心地よい。気持ちがいいので手のひらを水につけていると、「ワニが出るぞ」と船頭に驚かされた。乗っているポンポンより大きなワニが川に棲んでいるそうだ。ワニは見なかったが、猿の群れが木の上で遊んでいた。ポンポンが通り過ぎると、魚を獲りに木から降りて来ると船頭は教えてくれた。
 30分ほどして降ろされた所は広大な森が伐採され、その後草木を焼き払うため火が放たれた跡だった。切り株のまま墨のようになった木が無数に残り、地面の土も黒焦げになったままだ。無残に荒廃した大地は地平線まで続いていた。日陰がないので直射日光を受け、今までの涼しさと一転して汗が流れた。濃い緑のアブラヤシの苗が等間隔に植えられ、成長の早い薄い緑の雑草が育ち始めているが、生物が棲んでいる気配が少ない。 村長のマルシット・M・アリさん(45)によると、この森では住民が昔からゴムの木やトウモロコシなどを栽培し、生計を立てていた。しかし2005年の乾季、ジャカルタの企業が突然現れ、いきなり伐採を始めた。村人の森だから止めてほしいと訴えても、県知事から伐採許可を得ているから問題はないと言われた。
 2年間で村の約2000ヘクタールの森が伐採され、火が放たれた。最初は灯油をかけて点いた火が、乾季の風に煽られ、大きな赤い炎に変り山火事になった。夜も火は消えず、村中白い煙に覆われた。火事は数カ月続いた。鎮火したあとも地面はくすぶり続けた。煙を吸って気管支系の病気になった住民は20人以上いた。お金がなく病院に行けなかった住民を加えると、100人以上にのぼる。
 村人を集め県庁前で抗議行動をすると、警棒を手にした警官に怒鳴られた。インドネシアでは法律で焼き畑が禁じられている。村人が自分の畑で焼き畑をすると逮捕される。しかし企業が火を放った山火事は、煙害で住民に被害を与えても黙認される。煙は250キロ以上離れた州都ペカンバルにも達し、住民の健康や飛行機の運航にも影響を与えた。
「焼き畑と山火事は違うのです。どちらの罪が大きいですか。」
 村長の問いかけは重い。

このままでは森がなくなる

 農園開発をすすめる企業は、アブラヤシの生育を早めるため大量の肥料を使う。1本のアブラヤシが3〜4年後に実を付けるまで1〜3キロの肥料を投入する。その中の毒が川に流れ込み、川の水が飲めなくなり、発疹や腹痛の患者が増えた。エビや魚を獲って売ることも、食べることもできなくなった。
 村長はインドネシアを代表する環境問題のNGOワルヒなどとともに、バリ島で開かれた会議(COP13)にも足を運び、議長を務めたラフマット・ウィトラル環境相やインドネシアの環境問題の第一人者エミル・サリム元環境相に窮状を訴えた。彼らとは過去にも何度か会っているが、いつもまったく進展がないという。
 リアウ州には植物が湿地などで腐食せず炭化し、数千年以上堆積してできた泥炭地と呼ばれる地域が広がる。その面積は約400万ヘクタール、東京都の20倍ともいわれている。炭素を含んでいるので火が回るとなかなか消えず、大量の二酸化炭素(CO2)やメタンガスなど温室効果ガスを放出する。インドネシア全土の泥炭地から大気中に放出されるCO2は平均20億トン。日本の排出量13億トンを上回り、全世界で排出される量の8パーセントに相当するといわれる。
 クアラチナク村には、2メートルから9メートルの深さで泥炭地が広がっている。なぜそんな危ない土地の森が伐採され、火が放たれ、アブラヤシの農園開発が進むのだろう。 インドネシアでは作物がよく育つため、伝統的に野焼きや焼き畑農業が続いていた。だが移民入植者の急増とともに農地に適さない泥炭地も開拓され、野焼きが拡がった。アブラヤシは70年代から植林が進み、マーガリンや洗剤など「健康にやさしい植物性油」の原料になるパーム油の需要が伸びていった。
 そして近年の原油価格の急激な値上がりと環境意識の高まりとともに、「地球環境にやさしい油」としてパーム油が注目を浴び、生産のブームになっている。リアウ州の農民に聞くと、アブラヤシの実の1キロあたりの出荷価格は、5年前の450ルピアから1250ルピアに3倍ほど値上がりした。そのためこれまでのゴムの木やトウモロコシなどの栽培をやめ、アブラヤシ農園を始める農家が急増しているという。
 そして大規模な開発を進める企業は資金力で政治家や役人を動かし、伐採権を得て熱帯雨林をアブラヤシのプランテーションに変えていく。クアラチナク村に進出した企業は、ペカンバルにヘリポート付きの新社屋を建設した。クアラチナク村のあるインドラギリフル県の庁舎も大きく建てかえられた。
   このようなアブラヤシブームはアチェからパプアまでインドネシア全土に拡がり、政府も輸出を奨励している。NGO「サウィット・ウオッチ」によると、インドネシアのアブラヤシ耕作面積は、78年の25万ヘクタールから2005年には500万ヘクタールに伸びた。20倍も拡大したことになる。「もうすぐ生産量1位のマレーシアを抜く」と、カラ副大統領は胸を張る。
 今は雨季だ。しかし来年雨季が明けると森に火が放たれ、また山火事が起きると確信している。人は将来パーム油から何でも作ってしまうだろう。このままブームが続けばリアウ州の森は全滅すると、クアラチナク村の村長は言う。
 バリの会議(COP13)では、日本など先進国が熱帯雨林伐採防止のため、途上国に資金を供与することが決まった。しかしインドネシア政府が奨励するアブラヤシブームに伴う森林伐採をどうやって阻止できるのだろうか。インドネシアだけでなく、「地球環境にやさしい」パーム油を使う世界の人すべての課題だ。  

 
巨大津波から3年を迎えるアチェ──2007.11.16   第18回

初の国際線定期便就航

 11月6日昼、アチェ州の州都バンダアチェの空港にマレーシアのエアアジア航空エアバス320型機が飛来した。アチェにとって初の国際線の定期便だ。これで海外からジャカルタやメダンを経由せず、速く、安く、楽にアチェに行けるようになった。日本からもクアラルンプールを経由することで、半日以上時間短縮できる。独立派武装組織自由アチェ運動(GAM)とインドネシア国軍との紛争で戒厳令が敷かれ、外国人のアチェへの渡航が禁じられていた頃には考えられなかったことだ。
 2004年12月26日、アチェだけで死者17万人以上といわれる巨大津波が発生した。直後からシンガポール、マレーシアや日本などの輸送機がバンダアチェの空港に支援物資を運んできた。それがきっかけで外国人がアチェに自由に入れるようになった。国際社会の仲介で紛争の和平が急速に進み、治安の不安もなくなったことで、国際機関やNGOなどの復興支援活動が活発化した。あれから3年近くたち、国際線の定期便就航は紛争と津波というアチェの悪いイメージチェンジにもなるはずだ。
 アチェは昔から海外に開けていた。アチェの商人は中東やインドなどに交易に出かけ、富をもたらした。2000キロ近く離れたジャカルタより、マラッカ海峡を渡ればマレーシアやシンガポールなどの隣国だ。アチェはまたインドネシア初のパイロットを生んだ土地であり、人々はそれを誇りにしている。
 「アチェにとって初の国際線はうれしいニュースに違いない」と私は思い、バンダアチェを訪れた。しかしニュースは伝わっているものの、地元の人々の反応は冷めていた。飛行機に乗ることができる人が限られているからだろうか。ふつうの人にとってマラッカ海峡のむこうの外国よりは、州内の行き来の方が多いためだろうか。私は肩透かしをくらった感じがした。
 アチェの人たちはお祝い行事が好きだから必ずあると思った就航記念式典の催しも、当日はなかった。イルワンディ・ユスフ州知事(47)に質問しても、「そりゃいいニュースですよ。」と答えたものの、「格安航空のエアアジアにはエコノミークラスしかないから、お金持ちや国連関係者などはこれまでどおりガルーダ航空のビジネスクラスに乗るでしょう」と、素っ気なかった。
 それに引き換え当日の空港で目立っていたのは、マレーシア観光局の職員だった。飛行機の乗客全員に観光パンフレットのセットやTシャツなどを配り、マレーシア観光のPRに努め、歓迎ムードを盛り上げようとしていた。
 「今は週3往復だけの就航だが、いずれ毎日飛ばしたい。そして将来、1日に何往復もさせたい」と、ヌル・アダム・サムスディンさんは力強く語った。
アチェのパンフレットも置かず、法外な料金を吹っかけるタクシー運転手を放置したままの空港当局者に、マレーシアの意気込みを少しは見習ってほしい。
 エアアジア航空職員ファニー・メラニーさんは、ジャカルタからバンダアチェに応援に来て、乗客の誘導などを手伝っていた。
 「エアアジア航空はインドネシア国内では、ボーイング737−300型機を使用しています。でもバンダアチェ−クアラルンプール便は一回り大きい180人乗りのエアバス320型です。座席数が多いとコストを下げられ、安い料金が提供できます。クアラルンプールまでの料金は数千円です。賃金の高いマレーシアに出稼ぎに行く人たちにも歓迎されるでしょう。マレーシアの人にとっても、言葉の壁が少ないアチェに豊かな鉱物資源や農産物を求めて渡って来るには便利な直行便です。機体は新しいので安全です。格安航空は古い飛行機を使っているというのは、間違いですよ」と、自信ありげに説明してくれた。
 初の国際線定期便でクアラルンプールに飛ぶ乗客の多くはアチェの人たちなどインドネシア人だった。それに欧米からの観光客が数人混じっていた。
 「マレーシアの病院にメディカルチェックに行きます。クアラルンプールやペナンにはインドネシア人が多く治療を受けている病院があるんですよ。この飛行機にもそんな人がたくさん乗っているはずです。時間とお金が節約でき、うれしいです」と、女性客が教えてくれた。
 「メッカの巡礼客が乗る国際チャーター便は、これまでもバンダアチェの空港から飛んでいました。私も何度か乗ったことがあります。今回は国際定期便でマレーシアにいる親戚を訪ねます」と、男性客が話してくれた。
 「インターネットでひと月前にチケットを買ったら、28万ルピア(約3500円)という安さだった」と、アチェを1週間旅行したという英国人は喜んでいた。
 アチェにはインドネシア有数の美しい海や山の景色が豊富にある。料理や特産のコーヒーもおいしいので、うまく宣伝すれば外国人の観光客の誘致が可能だ。津波からの復興にはまだ時間がかかるが、いずれ外国の支援団体もアチェから撤退していく。外国人が減ったとき、その隙をついて、独立派とそれを阻止しようとするインドネシア国軍との抗争が再発する可能性があるとも言われている。しかし外国人観光客が多く訪れていれば和平の監視役になり、紛争に歯止めをかけることもできる。アチェの人たちが望んでいることは、多くの外国人がいることで、平和なアチェが続いてほしいということだ。数千円という破格の料金で乗れるエアアジア航空は、観光客増加に大きく貢献することができるはずだ。
 初日は搭乗手続きや出国審査などが少し手間取った。記念すべき国際線定期便第1便は、130人の乗客を乗せ15分遅れでバンダアチェ空港を飛び立った。クアラルンプールまでの飛行時間は1時間半。今は週3便のフライトが何便も飛ぶようになり、多くの観光客がアチェを訪れ、平和が続くことを期待したい。


潤うバンダアチェ

 私が前回アチェを訪れたのは昨年の12月。当時に比べバンダアチェ市内の自動車の数が増え、新車も多く走っている。空港から市内中心部まで冷房付きの路線バスが走るようになった。従来通りラビラビという小型の乗り合いバスもあるが、客が集まるまで出発しないので1時間以上かかっていた。それが30分で行けるうえ料金は1万ルピア(約120円)なので、外国人旅行者の利用も多い。
 市内には1泊30〜40万ルピアの中級ホテルがたくさん建った。これまであったホテルも改装してきれいになり、高いホテルの独占状態が崩れつつある。イスラム教の戒律が厳しいアチェでは飲むことが難しかったビールを出すレストランも増えたという。外国人のほとんどがバンダアチェで暮らすため、彼らが落とすお金で街が潤っている感じだ。
 日本政府連絡事務所のキャメロン・ノブール(39)さんによると、現在アチェ州内に約20人の日本人が暮らしている。国際移住機関(IOM)などの国際機関、アジア医師連絡協議会(AMDA)などのNGOで復興支援活動を続けている。ほとんどが女性で、みないきいきと仕事をしているという。しかし外国の支援団体も来年になると、規模を縮小したり、撤退していくようだ。100年に1度という巨大津波の復興は、長い時間がかかるはずだ。マスコミの報道も減り、アチェのことが忘れ去られていくのが心配だ。
 市内のあちこちに新築の豪邸が建ち並ぶ住宅地がある。アチェの人たちが国連機関など外国の支援団体に住宅を貸し、その賃貸料で建てたという。広い駐車場には新車が並んでいる。津波の被災者用の恒久住宅も増えているが、目標の半分しか建っていない。住民の所得格差はどんどん広がっている。州庁舎でイルワンディ知事の面会を待つ間、私が通された待合室の冷房の設定温度は18℃だった。知事室から面会を終えて出てきたアチェ人は、寒さで震えていた。バラックの仮設住宅で暑さに耐えて暮らす被災者とは雲泥の差だ。独立派武装組織自由アチェ運動(GAM)の元幹部で住民の支持を得て知事に当選して1年足らず、スーツを着て庶民感覚が薄れてしまったのだろうか。
 津波の被災地を視察するほとんどすべての人は、州都バンダアチェだけを見て帰る。空港から30分ほど車で走れば、海岸沿い巨大津波の傷跡を見ることができる。最大の被災地ではあるが、ホテルで泊まっても、レストランで食事をしても快適だ。しかしそれではほんとうの被災地を訪れたことにはならない。インフラが破壊されたまま復興が遅れている地方も見ることが必要だ。私は地震の震源地に近く、最も大きな津波の被害の受けたアチェの西海岸を車で移動することにした。去年もそこを走ろうとしたが、土地の賠償と政府の汚職に抗議した住民が道路を封鎖していたため通行できなかった。
 今は乗り合いのマイクロバスも運行しているので、バンダアチェ−ムラボ間約270キロを走ることにした。津波で被災する前にも何度か走ったことがあるが、当時は5〜6時間かかった。今回は午前10時に出発した。何時間かかるだろうか。9時間という人もいれば、12時間という人もいた。
 ムラボ出身の運転手ウディンさん(30)は、奥さんや子どもとムラボに住んでいる。津波前には1日1往復できたが、今は片道走るのがやっとだという。3年前の巨大津波が襲った日は、バンダアチェで出発の準備をしていた。大きな地震の揺れの後、しばらくして海から大量の水が押し寄せてきた。それが津波とは知らなかったのでとても怖かった。とても車が走れる状態ではなかったので、その日は運休を決めた。数日間道路に遺体や瓦礫が放置されたままだった。とても仕事はできなかった。ムラボの家族とも連絡が取れなかった。1週間後、山越えの道を通りムラボに行った。集落の住民1000人のうち700人の消息が分からなくなっていた。別の集落に避難していた家族を見つけることができ、再会を喜び合ったという。
 そんな話を聞きながら1時間ほど走っていたら、砂利道でタイヤがパンクした。近くの食堂に車を停め、タイヤを交換した。その先もガタガタ道の連続だった。バンダアチェ−ムラボ間のうち、バンダアチェ−チャラン間約150キロは米国が工事を請け負った。その先のチャラン−ムラボ間約120キロは日本が担当した。米国は片側2車線の高速道路を計画した。新しい道路を建設するため住民の土地を買収しなければならず、そのため予定外の賠償金と交渉に時間を取られているため、計画にある2009年までの開通は大幅に遅れそうだ。
 アチェ・ニアス復興支援庁(BRR)の役人が建設資金を自分の懐に入れているから工事が遅れているんだ。彼らはずっとバンダアチェの事務所から外に出ない。この道など通ることはないから気にしていないんだなどと、ワゴン車の乗客は不満を語る。 完成すれば立派な高速道路が開通することになるが、そもそもそんな道路が必要だろうか。破壊された町や村の復興には、一刻も早くふつうの道路を開通させ往来を活発にさせることが必要ではないだろうか。


ガタガタ道を八時間

 アチェの西海岸はインドネシアでも有数の景勝地だ。インド洋から押し寄せる荒波が多様な海岸線を形成する。白砂の海岸、波に削られた荒々しい海岸、雄大な海の青さも鮮やかだ。私はこの景色に魅了され、これまで何度もここを訪れた。
 そして今、巨大津波の傷跡もたっぷり見ることができる。海水に浸かったままの高い椰子の木、津波で倒された木々、海水が流れ込んだままの大きな池、アスファルトの道路がえぐられた跡、海岸が流され地形が変わってしまった跡。そして地中に埋まっている多くの犠牲者、家屋、船、大切な家族を失った人たちのことも想う。
 バンダアチェから50キロほど離れたラムノまで4時間近くかかった。州都との交通の便が悪くなった町は、津波前の賑やかさがなくなっていた。屋台のミーアチェ(アチェの焼きぞば)とコーヒーで休憩して、再びマイクロバスは出発した。しばらく揺られた後、ほとんど車が通らない道で、なぜか車の列ができていた。橋が津波で壊されたため、ラキットと呼ばれる筏で車を対岸に渡している。その順番待ちの列だった。そこには売店やカフェもできていて、時間潰しをしている人もいる。
 ガタガタ道を長時間揺られて来た私は、車を降り筏で川を渡るということに安堵感が芽生えていた。静けさのなか、筏のモーター音が響いていた。数分だが川の上から眺める山の景色にも見とれてしまった。
 筏で川を渡る箇所はもう一箇所あった。そこではロープを人力で引っ張り筏を走らせている。江戸時代にタイムスリップしたような気分になった。船頭たちは運転手から5万ルピア(約600円)くらいの通行料を徴収する。高すぎると声を張り上げているオバサンと僕たちは24時間ここで働いているんだと若い船頭たちが言い争っている。バンダアチェがあんなに潤っているのに、津波から3年経っても主要道に橋が架けられず、有料の筏が営業しているというのはおかしい。でも無料では船頭たちは働かず、川を渡ることはできないだろう。
 その先もガタガタ道の連続だった。そしてまたタイヤがパンクした。釘が刺さっていたようだ。同じ車で1日に2回パンクとは、ついていない。修理はすぐ終わったが、日が沈みチャランに着いたら18時半だった。バンダアチェから約8時間かかった。ここで270キロの約半分だ。
 この先は道路がいいので、ムラボまで2時間半で着くと運転手はいう。でもまたパンクしないとも限らない。夜道を走っても景色が見えない。チャランで1泊し、翌朝ムラボに向かうことも考えた。しかし大きな津波の被害を受けて以来、交通の便が悪くなり、活気がなくなったチャランで降りることも気が進まなかった。帰りもまたこの道を通るわけだから、景色はそのとき見ることができる。家族の待つムラボに早く着きたい気持ちは運転手にもあるはずだ。休憩せずそのままムラボに向かうという運転手に私は従った。
 この道は去年も通った。そのときは一部海岸線や道路のない砂地を走ったが、今回はずっと内陸部の道を通った。スピードはなんと100キロ以上出ている。これまでのノロノロ運転が嘘のような素晴らしい道路だ。このチャラン−ムラボ間122キロは日本が主導して工事を進めた。米国のように新しい道路を造るより、既存の道路を補修、拡幅、アスファルト舗装し、橋の架け替え早く完成させることを優先した。そのため土地の賠償問題もあまり起きず、今年1月に開通した。もともとインド洋側の西海岸は通行量が少ない。片側1車線で充分だと思う。
 運転手の言葉とおり、2時間半でムラボに着いた。バンダアチェから11時間、津波前の2倍時間がかかっている。21時を過ぎていたが、ムラボの街は店が開き、人通りも絶えていなかった。翌朝訪れたムラボの中央市場も津波前の活気を取り戻していた。魚も野菜も豊富に揃っていた。
 ムラボからまたチャランに引き返した。内陸部の道なのできれいな海の景色を見ることができないのは残念だが、また100キロ以上のスピードで飛ばした。この道はアチェで今、一番快適にスピードを出せる道だと思う。日本の援助が有効に使われているのを見て気分が良かった。しかしチャランから先はまたガタガタ道に戻った。今度はワゴン車が故障し、まったく動かなくなった。通りかかったトラックに乗り換え、2度筏で川を渡り、ガタガタ道を8時間以上かけバンダアチェに戻った。数日後ジャカルタに帰っても、しばらく疲れが取れなかった。

 



 











      
ジャカルタ−マニラ ミッドナイトエクスプレス──2007.6.12   第17回

 

衣類の運び屋


↑フィリピンの格安航空セブパシフィックは
国際線の路線も拡大し、人気上昇中

 深夜0時30分ジャカルタ発マニラ行きのフィリピン・セブパシフィック航空。運賃は片道90米ドルという安さ。現在、インドネシアとフィリピンの首都を結ぶ直行便は週3回のこの便だけだ。飛行時間は3時間半。私はこの「ミッドナイトエクスプレス」でマニラに飛んだ。
 出発から2時間ほど前、チェックインカウンターには長い列ができていた。若い乗客が多い。インドネシア人とフィリピン人の見分けは付きにくいが、欧米人も10人以上並んでいる。その乗客ひとりひとりに声を掛けている男がいた。私も声を掛けられた。
「荷物が少なければこの鞄をあなたの荷物として預けて運んでもらえませんか」
 私は彼に質問した。
「中味は何ですか。あなたはフィリピン人ですか」
「そう、私はフィリピン人です。ジャカルタで買った衣類が10キロほど入っています」 と、彼は答えた。
 彼もこの便の乗客の1人だが、荷物が20キロ以上だと超過料金を払わなければならない。だから荷物の少ない客に「協力」を頼んでいるわけだ。
 話の続きは待合室で聞いた。
 彼は8人の友人と3日間ジャカルタに滞在し、中央ジャカルタにあるタナアバンの繊維市場で安物のTシャツなどを仕入れた。それをフィリピンに運び、マニラや故郷のミンダナオ島の商人に売る。この「運び屋」の商売は、フィリピンの格安航空セブパシフィックがジャカルタに飛ぶようになった昨年末から始めたという。
 ジャカルタには月に2度くらい仕入れに来て、タナアバンのNというホテルに泊まる。飛行機代と滞在費を合わせると250米ドルほどだ。輸送費を抑えれば儲けが増える。そのためチェックインカウンター前で乗客ひとりひとりに声を掛けるため、3時間前から待つ。フィリピン人やインドネシア人は半分以上の人が「協力」してくれるので、衣類の入った10キロほどの鞄約20個をタダで運べるという。
 ほんとうは中国製衣類の方が値段は安い。だから他の格安航空で中国の広州や香港などに行くこともあるが、中国の市場では大量に購入しないと安く売ってくれない。しかしタナアバン市場では1着から売ってくれるため、大金がなくても仕入れができるから重宝するという。
 早朝にマニラ到着後、衣類の入った鞄は昼前には空港近くのバクララン市場の華人商人の手に渡り、彼の手にも現金が入るという。そして午後には彼の故郷ミンダナオ島に帰る。それもセブパシフィック航空で、片道30米ドルくらいだ。
 セブパシフィック航空は、フィリピンではナショナルフラッグであるフィリピン航空に次ぐ第2の航空会社で、インターネットで予約・購入ができる。私が乗ったエアバス319型機の機体は新しく、座席は革張りで座り心地はいい。客室乗務員もキビキビ働いていた。インドネシアの航空会社より快適だ。150ほどの座席はほぼ埋まっていた。その中に何人「運び屋」が混じっているのだろう。
 

バクララン市場


↑フィリピンのイエローマンゴは世界一おいしい。
マニラのバクララン市場では1個20円くらい。

↑マニラ空港に近いバクララン市場には
インドネシア製の衣類が山積みされていた

 フィリピンのイエローマンゴは世界一美味しい。そのうえどこの市場でも一個20円くらいで買える。
 マニラ空港の近くにあるバクララン市場に行ってみると、露天のマンゴ売り場のそばに インドネシア製の衣類が並んでいた。
外国のサッカーやバスケットの選手名が入ったシャツが、3枚300円くらいで売られていた。インドネシアで見慣れたムームーや短パン、バティックやプリントものの服もある。売っている人も買っている人も顔つきがインドネシア人と似ているから、マニラにいることを忘れてしまいそうだ。
「ここにあるのはインドネシア製と中国製がほとんどでフィリピン製はあまりない。安ければどこの国製でもいいんだよ」と、露天商は言う。
 店を構えて衣類を売っているのは華人が多い。
「最近はインドネシア製が増えています。ミンダナオ出身のイスラム教徒が、ジャカルタで仕入れて来るんです」と、経営者の女性は言った。
「ミッドナイトエクスプレス」の運び屋と繋がった。
 後日マニラからジャカルタに戻り、中央ジャカルタのタナアバン繊維市場に行った。8階建ての新しい大きな市場には、繊維問屋がぎっしり詰まり、多くの人で賑わっている。昔の市場と違い、冷房がよく効き清潔感もある。マニラで売られていたようなシャツなどを売っている店で話を聞いた。
「アフリカ人、パキスタン人、ロシア人などもいるが、客のほとんどはインドネシア人だ。フィリピン人の客もたまに来る。インドネシア語を喋る人やイスラム教徒もいるよ」
 他の店でも聞いたが同じようなことを言われた。しかしフィリピン人には会えなかった。
 繊維市場に近いNホテルに行った。ロビーには梱包された包みや鞄がたくさん置かれていた。フロントの係員が1人のフィリピン人客を紹介してくれたので、彼から話を聞いた。
 このホテルに泊まっているフィリピン人はみなミンダナオ島中部出身のイスラム教徒だ。今は格安航空を利用しているが、その前は船でスラウェシ島のマナドやマレーシアのサンダカンなどで商品を仕入れていたのでインドネシア語が喋れる。それが格安航空のおかげで、ジャカルタまで来れるようになった。
 今回は4日間滞在し、衣類やアクセサリーを仕入れた。月に2〜3回、マニラとジャカルタを行き来している。自分たちで持ち帰るだけでなく、コンテナで送ってもいるという。
 今日このホテルには14人のフィリピン人が泊まっているが、そのうち半分は今晩の「ミッドナイトエクスプレス」でフィリピンに帰る。ロビーに置かれた包みや鞄は彼らの荷物だ。出発の3時間前までに空港に行き、運び屋の協力者を捜すという。


 

睡眠薬強盗


↑マニラ中心部のマビニ地区はマニラ湾に近く
観光客も集まる

 

日本人旅行者Lさんが、マニラで睡眠薬強盗の被害にあった話をしてくれた。
 マニラの中心部マビニにあるホテルに泊まっていたLさんは、近くのマニラ湾沿いの遊歩道を散歩していた。フィリピン人の家族連れもたくさん歩いていた。夕方でも日差しは強かったが、海からの風が心地よかった。
 30歳過ぎの3人のフィリピン人女性に、「こんにちは」と、英語で挨拶された。怪しそうな女性ではなく、ふつうのOLのような感じがしたので、雑談をしながら30分ほど一緒に歩いた。
 一番若い女性はニューヨークのブロンクスで老人介護の仕事をしていて、今は休暇でひと月マニラに帰って来ていると言う。他の2人はマニラに住んでいると言った。その後売店でビールを買い、ベンチに座り4人で飲んだ。
 去年の暮れ、東南アジア一といわれる巨大なショッピングセンター「モール・オブ・アジア」が完成した。今マニラで一番人気の場所だという。そこに一緒に行こうと誘われた。夕食の時間までにはまだ少し時間がある。行くことにした。
 4人でジプニーに乗り10分くらい走り、「モール・オブ・アジア」に着いた。広大な敷地に巨大なショッピングセンターが建ち、大勢の人で賑わっていた。大道芸を見たり、一緒に写真を撮ったりもした。マニラ湾を眺めたり、館内のアイススケート場を上から見下ろしたりもした。
 1人がクッキー「OREO」をくれた。そういうお菓子を好きでないLさんは最初は断ったが、1つだけもらって食べた。そのクッキーに睡眠薬が入っていたようだ。その後もしばらく一緒に歩き、タクシー乗り場から車に乗った。3人の女性も乗り込んで来た。Lさんにその後の記憶はまったくない。
 気がついたのは深夜3時頃、泊まっていたホテルのベッドの上だった。
「あなたは昨夜泥酔して帰ってきました。心配だから電話しました。大丈夫ですか」というフロントからの電話だった。
「大丈夫です」と、Lさんは答えたが、睡魔に襲われそのまま寝た。
 昼前に目が覚めたLさんは、正気に戻った。現金、3枚のクレジットカード、ATMカード、カメラ、携帯電話が盗まれていることに気がついた。しかしパスポートや航空券は無事だった。そして何よりも命が助かった上、道端に放置されることなく、泊まっていたホテルまで届けられ、ベッドの上に靴を脱がされ寝かされていた。現金も500米ドルくらいは残してくれていた。だからそのままセブ島などの旅を続けることはできた。
 ホテルの従業員によると、Lさんは前日の夜7時頃タクシーの運転手に抱えられてホテルに戻って来た。一緒に部屋まで運んだという。しかしLさんはまったく覚えていない。
 クレジットカード会社に電話をしたら、事件の直後から何度かに分け合計70万円分くらいの買い物をされていることが分かった。カードのサインはふつうのフィリピン人には真似のできない漢字だ。犯行グループの中に日本人がいたことも想像できる。幸い日本で作ったカードは補償が効き、総額15万円くらいの被害で済みそうだ。
 Lさんはマニラの空港で警察に届けた。しかし空港から車で10分ほどの場所で起きた事件なのに管轄地域が違うと言われ、相手にされなかった。
 その話を聞いた後、私は「ミッドナイトエクスプレス」でジャカルタに戻った。マニラほど巧妙ではないが、睡眠薬を使った強盗はジャカルタでも起きているとインドネシア人の友人は教えてくれた。


インドネシアの航空機事故──2007.3   第16回

 また飛行機事故があり、21人が死亡しました。
 2泊3日でジョグジャカルタに行ってきました。行きは被害者の家族のためにガルーダ航空が用意した臨時便に乗りました。隣に座った女性が泣き出し、おえつが止まりませんでした。その隣の女性も涙が流れ、止まらなくなりました。大切な人を失ったことは想像できますが、それが誰なのかは聞けませんでした。
 帰りは花輪を供えた棺桶を積み込んでいました。家族がじっと下を向いていました。
 平穏な生活が一転するような事故や災害がインドネシアは多すぎます。
 事故が起きた3月7日深夜、ガルーダ航空は垂直尾翼のガルーダのマークを白いペンキで塗りつぶし、隠してしまいました。そして翌朝、警官や兵士ら約10人がロープで引っ張り、垂直尾翼を倒してしまいました。







ジャカルタの洪水──2007.2   第15回

 2月1日から降り続いている大雨で、ジャカルタ各地で洪水の被害が拡がっている。4日までに20人の死者と30万人以上の避難民がでている。
 昼間は晴れても毎晩強い雨が降り、川の上流のボゴール周辺でも雨がやまないのでしばらく水は引きそうにない。
 写真は2月3・4日に撮ったもの。







巨大津波から2年 南アチェの村から──2006.12.25   第14回

選挙集会ではアチェ音楽のバンド演奏もあった

バンダアチェのウレレでは、2年前の津波のままの風景が広がっていた。

12月11日アチェの首長選挙の投票が行なわれた

紛争でインドネシアの治安部隊に焼かれたままの
南アチェ県ティティポビエ ン村の小学校

ティティポビエン村で薬の補充をするAMDAの松浦佳月さん(左)

南アチェ県コタファジャール村でAMDAが建てた集会所

日本の援助で建設中のムラボ−チャラン間の道路で
トラックが立ち往生して いた

ムラボ−チャラン間の道路は津波で流されたので
、新しいルートを走る箇所 が多い

津波で大きな被害を受けた町チャランは復興が進んでいない

 紛争地だったアチェで初の首長選挙が行なわれた。二年前の巨大津波で十七万人以上という犠牲者を出した惨事の最大の見返りが和平の進展だ。戒厳令が解かれ、外国人の訪問も可能になった。紛争に巻き込まれ避難生活を強いられていた住民も、帰還した村で投票ができた。州都バンダアチェから南東に五百キロ以上離れた南アチェの村から報告する。

*紛争で焼かれた村

 バイクがやっと通れる木の橋を渡ったところにその小学校はあった。窓のある校舎は一つもない。屋根のある教室は六つしかない。机や椅子の数は少なく、黒板は全部の教室に揃っていない。それでも修復された後だという。
 南アチェ県のティティポビエン村は、インドネシアの治安部隊と独立派武装組織自由アチェ運動(GAM)との間で断続的に戦闘が続き、治安部隊に小学校や住宅が焼かれた。そのため住民の多くは二〇〇〇年頃から、県都のタパトゥアンや隣の北スマトラ州の州都メダンなどに避難生活を強いられた。
 村は海岸から離れているので、二年前の巨大津波の被害は受けなかった。
 十七万人以上という犠牲者を出した巨大津波で、紛争地アチェは国際的な注目を集めた。戒厳令が敷かれ外国人が入れなかったアチェに突然外国人が押し寄せ、世界中から援助資金が集まった。紛争が続けば国際社会からの非難と復興資金が得にくくなるということから、昨年八月フィンランドのヘルシンキで和平協定が調印された。そしてアチェの治安は回復していった。
 しかし、ティティポビエン村ではその後も戦闘は止まなかった。バンダアチェから車で十五時間以上もかかるアチェの辺境の村のため、外国人の目にさらされず、外国からの支援が届きにくかったからだ。
 避難生活を終え村に帰還が始まったのは、今年初めになってからだという。今、村の小学校には毎朝生徒が集まって来る。しかし校舎の崩壊はひどい。州都バンダアチェなどの学校が立派に改築されていくのとは正反対だ。
 居住環境も最悪だ。水道どころか井戸もなく、雨水を溜め使っている。洗濯が困難なため、着替えの回数が少なく、皮膚病の患者も多いという。豆や香辛料などの農作物を売って食べていくことはできる。しかし復興景気で湧くバンダアチェとはすべてが対極にあるアチェ最貧の村と言っていい。
 十二月十一日、この村でもアチェの正副州知事を選ぶ選挙が行なわれた。投票者九十六人中、八十五票を得たのは、GAM出身の候補イルワンディ・ユスフ氏とモハマド・ナザル氏のペアだった。
 投票した村の男性たちに聞いた。
「住民はGAM支持ではない。GAMのせいで国軍との戦闘に巻き込まれ、長い避難生活が続いた。帰還しても地方政府は村を見捨てている。誰がインドネシアを好きになれますか?」
「今の生活に満足している住民はいない。今までの知事は何もしてくれなかった。それを変えて欲しいので、新しい候補に入れた。独立したいんじゃない、平和なアチェがこのまま続いて欲しいのです。」
 もう紛争に巻き込まれるのはこりごりだ、これまでのインドネシアに「ノー」と言い、和平の継続を願い、時代を後戻りさせたくないという思いが伝わってくる。

*孤軍奮闘する日本のNGO

 ティティポビエン村のような紛争に巻き込まれた村を回りながら、活動を続ける日本のNGOがある。岡山市に本部がある国際医療NPO「AMDA」は、今年二月から南アチェ県の県都タパトゥアンに事務所を開き、松浦佳月さんはそこに八月から常駐している。
 それを聞いたとき、私は耳を疑った。県都とはいえ、タパトゥアンは歩いてもすぐ通り過ぎるほどの商店街があるだけの小さな町だ。そのうえ州都バンダアチェから車で十五時間以上かかる、アチェで一番アクセスが悪い県だ。紛争や災害が起きても、その情報が最も伝わりにくいアチェの辺境の地だ。
 私はこれまで、巨大津波前のタパトゥアンを三度訪れている。県都であるだけに、武装した国軍兵士や警官が目立つ。しかしアチェでは治安を守るはずの彼らが住民に対して威張り散らし、権力を悪用する事件がよく起こっていた。
 私が泊まったホテルでは、警官が職務と称して客の部屋に入り、金銭を巻き上げるということが起きていた。外国人と接触しただけで住民をGAM(独立派武装組織)とみなし、拷問を加えることもあった。私にとって印象のよい町ではなかった。そんな町に日本人女性が一人で住んでいるのか。
 AMDAが南アチェを活動の地に選んだ理由は、アチェで条件が一番厳しいからだという。バンダアチェはもちろん、アクセスのいい町は簡単に事務所が開け、生活も楽だ。しかしそれでは、取り残された僻地の住民を救えない。津波の被災者だけでなく、紛争に巻き込まれ困難に直面している住民も支援するためには、南アチェに事務所を開くことが必要だったという。
 ジャカルタから直行便も出て日帰りもできるバンダアチェには、メディアの取材も集中する。報道されることで活動資金を集めることもできる。しかしAMDAのタパトゥアン事務所には本部の人も訪れず、バンダアチェ事務所から日本人が訪れることもめったにない。
「寂しくはない。でも話し相手が欲しい。」と、松浦さんは言う。
 AMDAが南アチェで支援する四つの村は、どこも幹線道路を外れガタガタ道の先にある。増水すると渡れなくなる川の向こうにある村もある。それは奥地で紛争が起こっていたことを物語る。そこに看護婦を巡回させ薬品の配給をしている。子どもたちへのトラウマケアとして絵本を提供し、住民の憩いの場として集会所も建設した。今後も資金が続く限り、南アチェで活動を続けるという。
「仕事はインドネシア人のスタッフに任せています。私は一緒に付いて行っているだけです。」と、松浦さんは言うが、外国人が姿を見せることが村人の心の支えになり、悪事を働く国軍兵士や警官の抑止力になっているはずだ。松浦さんはどこの村でも暖かく迎えられていた。
 ティティポビエン村のジャワリヤちゃん(15)は、小学生のとき学校を焼かれ、その後避難生活を続けていた。今は家族で村に帰還し、五キロ離れた隣村の中学校に自転車で通っている。夢はAMDAの仕事を手伝える看護婦になることだという。
 ジャワリヤちゃんは私たちに村で採れたばかりのランブータンをたくさんくれた。私は車の中で食べ続けながら、夢を叶えて欲しいと願った。

*アチェの西海岸を走る

 アチェの面積は九州より広い。巨大津波が襲った西海岸の総距離は五百キロ以上にも及ぶ。津波の直撃を受け道路や橋が消失したりしてとくに被害がひどかったのが、震源に近いバンダアチェ−ムラボ間約二百五十キロだ。
 今回の旅で南アチェのタパトゥアンに行くことに決めたとき、何とかこの道を通って行きたかった。修復状況を見たかったのはもちろんだが、西海岸の景色は、私が旅したインドネシアの景色の中でも一番といっていいからだ。白砂の海岸、荒々しい岩場、色鮮やかな漁船が停泊する穏やかな港など、インド洋から押し寄せる荒波が多様な海岸線を作り出している。
 しかしバンダアチェで聞くと、今はまだムラボへは山越えが一般的だと言われた。バンダアチェから東海岸を南下しシグリに向かい、そこからスマトラ島の背骨のようにのびるバリサン山脈を横断し、ムラボに至る十時間ほどかかるルートだ。
 チャーターすれば別だが、ふつうは十人以上の人と荷物がワゴン車に満載される。きれいな海の景色は解放感に浸れるが、山越えは苦痛だ。ときどきそのルートを利用するAMDAの人たちは、長時間単調な景色を見て移動するより夜行に乗り目を閉じて耐えるという。私は景色の見えない夜行が嫌いなので、シグリとムラボで泊まり、タパトゥアンに行った。
 しかし帰路は海岸線の道路を走ることにした。ムラボを朝出発し、夜バンダアチェに着くという乗り合いのワゴン車を見つけたからだ。九時間以上と津波前の倍の時間かかるが、きれいな景色と津波後の町のようすを見ることができる。だが当日の朝になって、「今日は走れない」と言われた。バンダアチェに近いラムノで住民が道路を封鎖しているという。車も道路もあるのに走れない、それもバンダアチェまであと一時間という所で。
 ムラボから三時間ほど先のチャランまで行く車はあるという。私はチャランまで行き、その先は外国のNGOなどの車をヒッチハイクしたり、少しなら歩いてでもバンダアチェに向おうと思った。ムラボ−チャラン間の道路は日本の援助で建設が進んでいる。途中砂地で車を押したり、ガタガタ道をノロノロ走ったり、まだまだ完成にはほど遠い。しかし舗装されれば一時間余りで結ばれ、人や物の流れが復活する。
 大きな被害を受けたチャランはまだ復興が進まず、津波前の活気はない。政府が建てた住宅は電気が通っていないので人が住んでいない。しかし紛争の恐怖から解放された住民の表情は明るく、おいしいアチェのコーヒーを飲ませるカフェも賑わっている。二時間ほど待ち車を見つけ、一時間先のパテックまでは行けた。車窓からの海の景色は以前と同じく美しい。だがその先に向う車はなかった。
 残念だが来た道を十五時間以上かけて戻らなければならない。そのうえぎゅうぎゅう詰めの車しかなかった。唯一のとりえは、その土地に詳しい運転手や乗客と話ができることだ。しかし長時間の移動を強いられる被害者である彼らは、道路を封鎖している住民をかばった。
 援助を自分の懐に入れている地方政府の役人に対し、土地や家を失った住民が補償をしてくれと抗議する気持ちは分かる。どこでも起こり得ることだという。あんな政府だから選挙に負けたのだともいう。そして日本など外国の援助で道路ができたのに、その道を日本人が通れないのは気の毒で申しわけないと、疲れにくい席を譲ってくれた。
 ちょうどその頃ラムノで取材していた記者に後で聞いた。住民たちは斧などで車に襲いかかるポーズをみせていたが、話を聞いてみるといい人たちで納得できたという。
 インドネシア援助につきももの汚職の構造を変えていかなければ、アチェの将来も多難だろう。もうGAM(独立派武装組織)だとか、GAMじゃないとか言っている場合じゃない。人と金が集中するバンダアチェの恩恵を早く地方に回すことが必要だ。





香港のインドネシア人──2006.11.29   第13回

インドネシア・バンドン出身のアニさんはタイオウ暮らしが6年になる

インドネシア雑貨店にはレートのいい両替所もある

ビクトリアパークでは平日もインドネシア人が集まり、
インドネシア誌を読み、おしゃべりを楽しんでいる

 海外で自国の言葉を聞くと、耳を傾けたくなるものだ。香港ではいたるところからインドネシア語が聞こえてきた。私にとって自国の言葉ではないが、耳を傾けた。人口七百万の香港には、十一万人ものインドネシア人のメードさんが暮らしている。十三万人のフィリピン人に迫る勢いだ。

香港のカンプンで

 香港の最大の島ランタオ島(大嶼山)は、98年島の北部に新空港が開港し、昨年末、島の東部に香港ディズニーランドがオープンした。香港中心部から地下鉄が伸び、高層住宅が建設され開発が進む島である。
 島の西端には海や川の河口に張り出すように水上家屋が集まる村、大澳(タイオウ)がある。しかしここには高層ビルどころか自動車も走っていない。
 徒歩で移動する以外は、自転車と運河を行き交うボートが移動の足なので、いわゆる香港のイメージからは懸け離れている。イタリアの水の都ベネチアの香港版という人もいるが、芸術的で華やかなところなどまったくない。お年寄りが手押し車を押して歩いている、懐かしい空気が漂う村だ。
 しかし四十年ほど前には漁業や海産乾物製造で栄え、大澳の人口は一万人を超え、ランタオ島隋一の村だったという。棚屋と呼ばれる水上家屋が増えたのも、当時の移民の増加によるものという。だが現在は人口二千五百人に減り、高齢者が目立つ過疎の村だ。  とはいえ香港の中心部から二時間足らずで行けるので、静かな村と名物の海産物を目的に訪れる観光客も増えているという。
 私もそんな香港らしくない大澳を歩いていた。すると、土産物屋の店先からインドネシア語の会話が聞こえてきた。耳を疑ったが、紛れもないインドネシア語だった。店番をし、客の相手をしていたのは、二人のインドネシア人の女性だった。
「なぜこんなところにいるんですか」と、私は質問した。
「なぜって、ここで働いているんです。あなたの方こそ、なぜこんなこところに来たんですか。インドネシア人の観光客をここで見たのは初めてです」と、中部ジャワ出身の彼女は言った。
 私はインドネシア人でなく、日本人だと言ったので二人は納得したようだ。彼女たちは大澳に来て二年になるが、広東語もしゃべる。家事手伝いの仕事なので、海産物を売る仕事も手伝っている。他にもインドネシア人はたくさんいるという。
 香港にはフィリピン人のメードさんが多いことは知っていたが、インドネシア人からもたくさん来ているのか?
 商店街を抜け、水上家屋のある住宅地を歩いていたら、お婆さんの手を引いているインドネシア人らしき女性に会った。彼女はお婆さんとは私にはわからない広東語で会話をしている。
「インドネシア人ですか」と私はインドネシア語で声を掛けた。
「そうです。ちょっと待ってね。お婆さんを家に送って来るから」と、彼女からインドネシア語で答えが返ってきた。
 すぐに彼女は戻って来た。バンドン出身のアニさんは大澳暮らしが六年にもなる。家事手伝いの仕事は、高齢者の世話、買い物、荷物運びなど何でもしなければならないが、それほど大変ではないという。
「昔ここにはフィリピン人が多かったの。でも彼女たちは英語しかしゃべらない。私たちは英語ができないから、広東語を覚えたの。今、大澳にはインドネシア人が五十人くらいいるんですよ」と、アニさんは誇らしげに言った。
先週まで二週間、断食明けの休みを利用して、インドネシアに帰省して来たばかりだ。毎週日曜日にはバスと地下鉄を乗り継いで香港に行き、買い物やインドネシア人の友だちに会って来るという。
「ここは香港のカンプン(田舎)です。若者は町に働きに行き、高齢者が多く残り、刺激がない村ですよ。でもインドネシアに帰りたいとは思わない。いい職を捜すのが大変だからね」
 香港の辺境の村でインドネシア人に会って驚いた私は、翌日香港の中心部でもっと多くのインドネシア人に出会った。

香港の中心部で

 香港島の中心部銅鑼灣(コーズウェイベイ)は、かつて日本の百貨店が軒を並べていた繁華街だ。しかし今年の三越を最後にすべて撤退してまった。(そごう、西武は香港資本が経営)
 その銅鑼灣で何軒ものインドネシア雑貨のスーパーを見かけた。
 そのひとつ「ワルン・チャンドラ」はレストランも兼ね、「印尼美食館」と漢字の看板も架かっている。店内ではインドネシアのお菓子やインスタントラーメンが陳列されている棚に囲まれ、数人のインドネシア人女性がおしゃべりをしながらアヤムゴレンやガドガドなど故郷の料理をおいしそうに食べていた。
 レジの女性はバリ島出身のヒンドゥー教徒だ。
「豚肉料理はありますか」と聞いたら、「いいえ、ここでは豚肉は使っていません。お客のほとんどはイスラム教徒ですから」という答えが返ってきた。
 この店は三十年前にオープンした。もとは近くにあるインドネシア大使館の職員が利用するレストランだった。しかし香港でメードさんとして働くインドネシア人が増えたので雑貨を売るようになった。すると客層が変わってしまい、三年前にレストランのスペースを小さくし、スーパーに改装した。
 商品の値段はインドネシアの二割増しくらいだ。食品だけでなく、石鹸やシャンプーも置いている。安い中国製よりも使い慣れたインドネシア製が好まれるという。バティックのシャツや流行のインドネシアポップのカセット、一週間遅れの雑誌などインドネシアの匂いがプンプン漂う店だ。
 買い物に来ていた大使館員の男性に聞いたところ、今香港には約十一万人のインドネシア人がいるが、(日本人は約三万人)九十九パーセントが女性だという。仕事をしていて毎日増えている感じがする。彼女たちの世話でとても忙しいという。
 インドネシア人は香港の人たちに好かれているともいう。これまで多かったフィリピン人は英語をしゃべるが、広東語を勉強しようとしない。それに対しインドネシア人は難しい広東語を勉強して、香港の人と会話ができるようになるからだ。
 そして一番の違いは、例えば子どもの世話をして欲しいと頼むとフィリピン人はそれしかしないが、インドネシア人はその他の家事もお年寄りの世話も何でもする。そんな性格が香港の家族に愛されているという。

平日の公園で

 香港ではどこにいてもインドネシア語が聞こえてくる。市場に行くと買い物かごを持ったインドネシア人たちを見かける。
 私が泊まったホテルにも、インドネシア人のメードさんが働いていた。彼女は広東語だけでなく英語も勉強したので採用が叶ったという。
 しかしやはりインドネシア人が一番目だったのは、香港の原宿ともいわれる銅鑼灣(コーズウェイベイ)の中心部だった。
 シュガーストリート(糖街)には、インドネシア人相手に携帯電話を売る店がある。店番をしている二十五歳の女性はスラバヤ出身の聡明な美人だ。六年前にメードとして香港に来たが、二年前に香港人と結婚した。以来店を任されているという。彼女のように香港で結婚するインドネシア人女性も増えているらしい。
 メードさんたちにとっても携帯電話は人気商品で、プリペイドカードもよく売れるという。インドネシアのインドサットはサービスショップ「ムンタリ」を開き、香港で使えるカードを売っている。
 この通りはルピアの両替店、インドネシアへの送金を請け負う店も多く並ぶ。看板には、「一時間で送金できます」と書かれている。インドネシア人向けのヘアーサロンやインドネシアの銀行などが入ったショッピングセンター「銅鑼灣廣場」などもあり、どんどんインドネシア化が進んでいる。
近くのビクトリアパークには平日でも大勢のインドネシア人のメードさんが集まり、お喋りを楽しんでいる。遠くから来た人もいれば、近くで働いているメードさんもいる。
 スマラン出身のアシさん(26)は、うれしそうに七百香港ドル(約一万円)で買った新しい携帯電話を私に見せてくれた。
 メードさんの月給は一律三千四百香港ドルだという。香港では労働者の最低の賃金だそうだが、アシさんがインドネシアで前に働いていた工場の五倍以上の金額だ。仕送りをしても、残ったお金でいろんな買い物ができるという。そういえばみんなしゃれた服を着ている。
 彼女たちによると、中東諸国への出稼ぎは気候が厳しく大変だ、シンガポールはインドネシア人を見下しているので嫌だ、香港は自由があるので一番いいという。
 香港は中国に返還され九年になるが、中国政府は中国人が香港に急増することを避けるため移住を制限している。そのため外国人の出稼ぎを受け入れ、今女性はインドネシア人、男性は南アジアの人たちが増えているという。
 中国の急速な経済発展に世界が脅威を感じているなか、香港のインドネシア人パワーには目を見張るものがある。
 彼女たちは地方出身の素朴でまじめそうな女性が多い。優秀でも進学できず、インドネシアでは希望の職に就けなかった女性も多いはずだ。海を渡り香港に来て、広東語のジョークを交え楽しそうにお喋りしている彼女たちの姿を見て、エールを送りたくなった。



どこへ行く東ティモール──2006.8.17   第12回

西ティモールの街道でみかんを売る少女

西ティモールのソエでイカットを腰に巻き、正装して歩く男性

ティモール島各地で見られる伝統家屋

アタンブアのハリウェン村で暮らす東ティモールからの難民

インドネシアと東ティモールのモタアイン国境は
5月の暴動以降通過する人が減った

国境からディリに向かう幹線道路も通行量は少ない

ディリでインドネシア製の煙草を売る青年たち、値段は約2倍

乗り合いバスが不足しているので、
小さな車に人も物も満載される

独立から4年、相変わらず人気はインドネシアの音楽

ずっと東ティモールの歴史を見届けてきた
ポルトガル時代からの灯台

今年5月末のディリ暴動で放火された警察の寮

5月26日のディリ市内での銃撃戦の銃弾跡

5月末の暴動から2カ月以上経っても、
避難キャンプで暮らす住民は怖くて家に帰れない

ディリでは投石や喧嘩は日常茶飯事、
オーストラリアの警察が駆けつけた

ディリの海岸でサッカーをする若者も日没前に家路に戻る

 ティモール島は空気が乾き、吸い込まれそうな青い空が広がっていた。この季節、冬のオーストラリア大陸から吹いてくる寒気の影響で、日中は涼しく、朝晩は寒いくらいだ。
 ジャカルタから西ティモール(インドネシア領)のクパンまで2000キロ、一気に飛んできた。しかしここからは青い海、緑の山、道端に咲く赤いハイビスカスなど原色の自然の景色を見たくて、東ティモールのディリまで約400キロを車で移動した。
 私が初めて訪れた1989年は、橋が壊れていたりして20時間以上かかった。その後、何度もティモール島を旅した。今は半分以下の時間で着く。2002年5月、東ティモールが独立してできた国境を空路ではなく陸路で超えることも旅の目的だ。

怖かった西ティモール

 99年9月、私は西ティモールを訪れた。インドネシアからの独立の是非を問う8月30日の住民投票前後、東ティモール各地で騒乱が起き、数十万人が西ティモール避難してきた。その避難民の取材だった。どの難民キャンプも独立に反対する民兵たちの支配地域だった。紅白のインドネシア国旗がはためき、赤ん坊の泣き声が止まず騒然としていた。民兵たちは小銃を片手に、外国人狩りをしていた。外国人はみな独立を助けたとみなされていたからだ。
 あれから7年、私が怖い思いをしたクパンのノエルバキ難民キャンプも危険な雰囲気はなかった。途中のニキニキやケファなど町も平穏だった。外国人や国連の車が民兵組織によく襲われ、警察が機能していなかったアタンブアの町も、落ち着いていた。
 茅葺きの伝統家屋も見られるティモール島はイカット(絣織物)の産地が点在する。ソエの町で会った男性は頭や上半身にオランダ植民地時代のコインを飾り、イカットを腰に巻きさっそうとした正装姿で歩いていた。

東ティモールに帰れない

 しかし東ティモールに近いアタンブアには、今でも数万人といわれる難民が暮らしている。そのひとつハリウェン村を訪ねた。
 東ティモールのマリアナで小学校の先生だったウジャ・ゴメスさん(38)は、家族でアタンブアに逃げてきた。キャンプを転々とし、ハリウェン村に移り住んだ。妻や子ども3人と暮らし、ここでも先生をしながら、トウモロコシなどを栽培している。
「公務員なのでインドネシアから給料をもらい安定していた。だから独立には反対だった。マリアナには姉弟もいるが、まだ怖くて帰れない。私の仲間が独立派住民を襲撃したことを覚えている人がいるからだ。仕返しされる。帰っても怖くてまた戻ってきた者も多い」と話す。
 今、ハリウェン村は880世帯の難民が暮らす。3年前、国連やNGOが支援を縮小したので、900世帯がよその村に移っていったという。

娘を奪われた

 2002年7月、私は東ティモールのスアイを訪れた。そこで独立反対派の民兵幹部に娘さんを連れ去られた母親ドミンゴスさんに会った。
99年9月6日、神父や修道女が虐殺され教会が焼かれた、東ティモールで最大の「スアイ暴動」が起きた日のことだ。民兵組織ラクサウルの幹部マネックは、ドミンゴスさんに小銃を突きつけ、「おれの女房にする」と当時18歳だった長女ロラさんを奪っていった。1年後、NGOの仲介でアタンブアから手紙が届いた。「お母さん、男の子が生まれました。夫と3人で元気に暮らしています。私のことは忘れて下さい」と書かれていたという。
 今回、そのロラさんの消息を追った。今年6月までアタンブアに住んでいたという。その家を捜し、近所の人に話を聞いた。
「マネックの妻は5人いて、そのうち3人とここで暮らしていた。ロラとの間には2人の子どもがいた。3年前、マネックとロラは国境で母親に会い、結納金を渡した。だからロラはもう母親の元に帰れないだろう」
マネックは昔と同じように、博打の元締めで大金を稼いでいる。
「ここに住んでいた頃はヤクザが集まり怖かった。いなくなってほっとしている。マネックの弟は東ティモールに戻り、殺された。彼も仕返しが怖くて帰れない。国境に近い町ベドゥンに移ったが、新しい住所は分からない」
携帯の番号を教えてくれたが、何度掛けても繋がらなかった。

ディリを目指す

 西ティモールのアタンブアから東ティモールの会社が首都ディリまで、直通バスを走らせている。約100キロ、3時間かかる。料金は11米ドル。クパンからアタンブアまで300キロが5万ルピア(約600円)に比べ高すぎる。インドネシア時代、東ティモールはインドネシアのルピアを使っていたが、今は米ドルが公式通貨だ。
 直通バスでなく、国境のモタアインまでミクロレット(小型バス)に乗ると5000ルピア。約1キロ歩いて国境を越え、東ティモールのバスに乗り換えれば、そこから5米ドルで行けるという。新しい国の国境を歩いて越えるのも悪くない。
 アタンブアの市場で満員になるまで30分待ち、ミクロレットは出発した。乗客は市場で買い物をして家に帰る女性がほとんどだ。約1時間後、モタアインに着いたときは私ひとりになっていた。国境でまず警察に寄りパスポートを提示。その後イミグレーションでパスポートに出国スタンプを押され、税関と軍で簡単な荷物検査を受けた。
 海岸に沿った道を少し歩き、東ティモール側のバトゥガデ国境に着いた。1人の男がクロスワードパズルに熱中していた。パズルが終わるまで10分ほど待たされた。彼は税関の職員だった。インドネシア以上にのんびりしている。その後、入管でパスポートにビザのスタンプを押された。ビザ代は30米ドル。2年前から国境で3ヵ月有効のビザを発行するようになったという。私はその日、26番目の入国者で、日本人は久し振りだと言われた。多いときは1日100人以上がここから東ティモールに入国するが、最近は50人以下に減っているという。

バスがない

 国境を越えると14時半だった。独立した東ティモールはそれまでなかった西ティモールと1時間の時差ができた。同じ島に時差など必要ないと思うが、東ティモールは日本と同じ時間になった。ディリ行きのバスを待った。1時間近く待っても来ない。
 「もう今日のバスは終わった。ここで寝るか、オジェック(バイクタクシー)で30分の町に行き、宿を捜すしかない」と、売店の女性は言った。
 3年前、この国境に来たとき夕方まで何本ものバスが出ていたのに、どうしたことか。
 そこにインドネシアのトラックが通りかかった。ディリまで行くというので、乗せてもらえることになった。6台のトラックで80頭の牛をディリからクパンまで運ぶという。牛はその後船でスラバヤまで運ばれる。週に3回東ティモールに行くというから道路状況も把握しているので、安心できそうだ。しかし運転手は言った。
 「東ティモールの治安は半分しか回復していない。注意した方がいい」
 真っ青な海を見ながら快適に飛ばしていたら、小さな村に通りかかった。道路に青年が集まっていた。大きく腕を広げ、「止まれ」という。金を要求してきた。酒に酔っている青年もいた。運転手は断った。すると車体を叩かれた。運転手はアクセルを噴かし突破した。ディリに着くまで数回同じことが起きた。
 「何も仕事をせず援助を頼りにしたり、こうやって金を巻き上げようとする若者に金など渡せるか。僕はトラックの運転をして稼いでいる。その気になれば仕事はいくらでもあるはずだ。インドネシア時代に造った道路や橋が壊れている。彼らは自分たちで直そうとしない」と運転手は興奮して言った。

寂しい首都ディリ

 私は5月末に起きた暴動から2ヵ月以上たち治安が回復したと思っていたが、そうではないと運転手はいう。
 「ディリは外国の軍隊や警察がいるので危なくない。でもディリの外は警察の力が及ばない無法地帯だ。この車はインドネシアのナンバーだから安全だ。でも東ティモールの車やバスは彼らの検問を受け、気にいらないと何をされるか分からない。彼らは兄弟で戦争を始めたんだ」
 99年8月の独立の是非を問う住民投票の前にも、独立に反対する住民がこの道で検問を行ない、賛成派だと分かると暴力行為を働いていた。インドネシアの国軍や警察が渡した小銃を持っていた者もいたが、鎌のような農機具を振り回す者もいた。血だらけになった男が私の乗った車に助けを求めてきたこともあった。あのときの嫌な記憶が蘇った。
 バトゥガデ国境から2時間、ディリの入口に着いた。マレーシアの軍隊が検問をしていた。オーストラリア軍のパトロールも見かけた。ほっとした。しかし5月以降の騒乱で放火され、破壊された家屋がいたるところで無残な姿をさらしている。
 運転手は中心部のホテルまで送ってくれた。前には満室で泊まれなかったこともあるホテルだが、客が少なくひっそりとしていた。チェックインを済ませ、外に出た。まだ18時半だというのに多くの店がシャッターを降ろし、人通りが消えていた。タクシーもオジェックも走っていない。海岸通りまで歩き首相府に寄った。建物は立派だが警備の警官が2人いるだけで、まったく人気がない。蛍光灯に照らされた白壁にヤモリが張り付いていた。開いていたレストランで食事を済ませ、街灯の消えた真っ暗な道を1人で歩いてホテルに帰った。途中すれ違ったのは豚と野良犬だけだった。
「ディリでは毎日住民同士の衝突が起きています。だから日が沈むと、住民は怖くて家の外に出ないんです」と、ホテルの従業員は言った。
 誰もいないホテル前の道を、夜警をしているオーストラリアの装甲車が大きな音を立てて走って行った。インドネシア時代の89年から10回以上訪れているが、こんな寂しいディリは初めてだ。

東西対立拡がる

 8月5日夕方、ディリの中心部コルメラ地区で、何者かがタクシーの後部ガラスに投石する事件が起きた。失業者があふれ「暇人」が多いディリでは、あっという間に野次馬が集まってきた。しばらくして東ティモール警察に代わりディリの警備をしているオーストラリア警察などが駆けつけた。
 野次馬たちは私に、西部出身者が東部出身の運転手を狙い投石したと話してくれた。しかしそうではなく、運転手は西部出身で2人の乗客は東部出身だった。投石した者は逃げたので誰か分からず、乗客を狙ったのか、運転手を狙ったのかも分からない。警察は、今日はこれで投石事件が3件目だといった。
 私が遭遇した投石事件の話は尾ひれが付いて、あっという間に拡がっていた。友人宅やレストランなどで聞くと、ケガ人が5人とか、運転手は武器で反撃したとか嘘ばかりだ。ディリの住民が外出を控え、日没と同時にほとんどの店が閉まってしまうのは、こんな投石や喧嘩が起こるたびに悪い話が浸透し、不安が拡がってしまうからだ。
 人口100万人に満たない東ティモールで、国民が力を合わせて新しい国づくりを進めていかなければならないときに、国を二分する東西対立が拡がってきている。これまでは東のロスパロスとか、西のリキサというように生まれた地名を言っていた。
 しかし東部出身の「ロロサエ人」と西部出身の「ロロモヌ人」という聞いたとこもないような区別ができつつある。乗りやすい東ティモールの人たちを、誰かが扇動して東西対立を煽るっているのではないかとも思ってしまう。

自宅に戻れない避難民

 ディリには今、10万人の避難民が30以上のキャンプで暮らしているという。私の昔からの友人オリビオさん(27)は、5月末の暴動後、家財道具を山間部の親戚宅に移し、昼間はディリの自宅で暮らしている。夕方になると車を運転してキャンプに行く。食事が与えられるし、みんなで夜を明かした方が安全だと信じているからだ。
 妹のシルフィアさん(20)はインドネシアのジョグジャカルタに住んでいる。ちょうど中部ジャワを襲った地震とディリの暴動の時期が重なった。被災したシルフィアさんは生まれ育ったディリに戻りたかったが、ディリの方が危ないので帰省をやめさせた。今、シルフィアさんは元の生活に戻ったが、オリビオさんは2ヵ月以上たっても不安は消えないという。
 ザヌワリウ・シルバさん(43)は、港の前の避難キャンプで暮らしている。東部のフィケケ出身だが、家族と20年以上ディリで暮らしていた。5月末の暴動時、「お前はよそ者だ」と言われ、家の窓ガラスが全部割られた。そんなこと言われたのは初めてだった。家は徒歩15分のカイコリ地区にあるが、怖くて帰る気になれない。
 「大きな衝突は起きていないからニュースにはならないが、避難民がたくさんいることを忘れないで欲しい」と言う。
5月の暴動

 5月26日、ディリ市内各地で銃撃戦があった。日本人もよく利用する中華料理店「88」の店主曾徳源(ジョニー・チェン)さん(45)に話を聞いた。
 「ちょうど昼食時だったので店に客もいた。銃声が聞こえ、慌ててシャッターを閉めた。隙間から覗くと軍と警察の銃撃戦だった。婦人警官も混じっていた。店に向って発砲してきた。弾の跡が残っている」
 そのあと曾さんはマレーシア軍の飛行機でディリを脱出した。
 「2週間後にディリに戻って感じたことは、東西が対立しこれまで以上に住民に不安が拡がっていることだ。お得意さんだった日本人はまだ帰ってこない。それも仕方がない」
 国連の事務所近くでも銃撃戦があった。武装したグループに追われた警官が国連の敷地に逃げ込んできた。職員の平井はなよさんは、昼食をカフェテリアで取っていたとき銃声を聞き、60人くらいの職員と30分くらい床に伏せていた。その日は帰宅できず、事務所で泊まった。その後オーストラリアのダーウィンに避難したという。
 一連の衝突と暴動で30人以上の死者がでた。略奪も横行した。外国の治安部隊が展開するようになり治安が回復したが、それは首都ディリだけだ。東西の対立があるというのに、地方に外国の部隊はいない。東部の町バウカウなどでも多くの住民が避難所で暮らし、怖くて自宅に戻れない。
 私はインドネシア国境からディリまで2時間車で走っただけで、「無法地帯」を実感した。機能していない東ティモールの軍や警察を国民は信頼していない。国外に退避していた外国人もこれから戻ってきて、地方の復興に携わる仕事を再開する。国連も日本の外務省も東ティモールの危険度を下げたが、安心してはいけない。外国の治安部隊の全国展開が必要だ。

国連はどうするのか

 外国軍が撤退した後の治安が不安だとずっと言われ続けてきたのに、国連は昨年5月で東ティモールから治安部隊を完全撤退させた。そして今年になって表面化した政権内部や軍の権力闘争を傍観しているだけだった。そして5月末の暴動に発展した。今回の事態を招いた責任は重い。
 国連東ティモール事務所(UNOTIL)の代表は、日本人のH氏だ。ディリの人たちに聞いてみると、驚くことに誰もそんな日本人を知らないという。同じ日本人としてとても残念だ。以前ほどではないにしろ、東ティモールでの国連の存在は大きい。そのトップのパフォーマンス次第で、乗りやすく、扇動されやすい東ティモールの人々の心はつかめるはずだ。不安を解消し希望を持たせることは必要だし、国連の重要な仕事だ。住民投票時のマーチン氏やその後のデメロ氏は今でも彼らにとって英雄だ。国連に大金を拠出している日本は、もっと注文を付けていいはずだ。
 独立支援やその後の国造りなど多くの日本人が東ティモールに関わってきた。長期にわたり献身的なNGO活動を続けている人もいる。自衛隊も派遣され、インフラ整備に携った。5月末の暴動前には、100人近くの日本人が東ティモールで働いていた。東ティモールの人に記憶に残る日本人が増えて欲しい。
 ディリの市場ではインドネシア製の食糧や雑貨がたくさん売られている。カセット屋を覗くと相変わらずインドネシアの音楽が人気だ。インドネシアの煙草を売っている青年は言った。
 「評判の悪かったマリ・アルカテリ首相がラモス・ホルタ新首相に代わっただけで、暮らしがよくなるわけじゃない。そんなこと誰でも分かっているはずだ。だから小さな国で東西に分かれて戦っている場合じゃない。意味がないよ」




ジャワ島南海岸津波──2006年7月21日   第11回

ここまで水に浸かりました

パガンダラン役場の遺体安置所

この下を津波が襲った(ホテルのベランダから)

パガンダランの住宅街

助かった生後六カ月のスリスティアワティと父のサルノさん

壊れたボート

パガンダラン海岸のホテル街

津波の翌日から片づけが始まった

流された車

魚網を手入れする漁師

被災地へ急行

 ジャワ島の南海岸で津波が起きた7月17日の夜、私はたまたま毎日新聞のジャカルタ支局にいた。時間を追って死者の数が増えていく。信頼できそうな地元メディアは死者80人と伝えた。しかし地震発生から6時間以上たっても現地からの映像はない。
 多くの犠牲者が出ているパガンダランは、観光地とはいえ中部ジャワ地震のジョグジャカルタのように有名な場所ではない。アクセスが悪いということもあり、現地に「行く」か「止めるか」判断に迷う。
 翌日の朝刊の記事を送り終えた0時前、支局長の井田さんは東京の本社に相談し、「行く」ことに決めた。
 問題はもう1つあった。運転手を捜さなければならない。支局に勤める年配の運転手を夜通し走らすわけにはいかない。しかし電話で別の運転手を捜したが、深夜なので見つからない。
 ガンビール駅にいるはずだと私は思った。深夜に到着する列車やバスの客が利用するためのタクシーだ。私たちは3キロほど離れたガンビール駅に急行し、数人の運転手に面接をし、車を調べた。タクシーと言ってもいわゆる白タクだ。足元を見て値段を吹っかけてきた。その中で100万ルピア(約1万3000円)の値下げに応じた、故郷がパガンダランに近い運転手を選んだ。
 最初は不安だったが、結果的にはとても彼に助けられた。ジャカルタからパガンダランまで約350キロ、ひと休みもせず、安全かつ猛スピードで飛ばし6時間ほどで到着できた。夕刊用の取材が充分でき、記事を書き、東京に送ることができた。

 地震から一夜過ぎ、車の外が明るくなったのは、西ジャワ州チアミス県のバンジャールを過ぎた6時頃だった。パガンダランまで60キロ、朝もやのかかった水田にオレンジ色の太陽が昇った。制服を着て通学する小学生、客待ちのバス、バイクも車も普通に走っている。被災地に向かうときは得てしてこうだ。日常の風景が突然一転する。
 しかし1時間以上走っても、壊れた家どころか、負傷者さえ見かけない。結局パガンダランに着くまで、地震で被害にあった家を1軒も見なかった。それもそのはず、津波で破壊された家屋の前で聞いたら、驚くことに地震の揺れをまったく感じなかったという人もたくさんいた。
 パガンダランでは津波が突然襲ってきたようだ。泳いでいたり、砂浜で遊んでいたら、急に大きな波がやってきて流されたと言う人が何人もいた。アチェの津波以降、地震だと知れば海から遠く離れた場所にいても、慌てて逃げるのが今のインドネシア人だ。地震を感じていれば、もっと早く避難ができていたはずだ。自然は想定外に人を襲う。

漁民と移民が暮らす町

 私が初めてパガンダランを訪れたのは、1985年8月だった。最初にインドネシアを旅したとき、バンドンからジョグジャカルタに行く途中、立ち寄った。当時は漁村に安宿が点在する静かな町だった。その後も一度、海岸の近くに広がる自然公園にラフレシアなど珍しい植物を見に行った。
 しかし今回大きなホテルやレストランが増えているのを見て驚いた。ジャワ島の南海岸には小さな漁村は多いが、大きな町はあまりない。静かな漁村がこの10年余りで外国人も訪れる観光地に変わり、人口が増えていた。そのパガンダランで一番多くの被害者が出た。
 滞在中話を聞かせてくれた人も、よそから移り住み観光客相手に商売をしている人が多かった。
 モスクに家族で避難していたヤウジウさん(58)は、海岸沿いの店で西スマトラのパダン料理屋のオーナーだ。近所には家族が営む土産物屋が数軒あった。地震は感じなかった。突然津波に襲われ、海岸で遊んでいた息子と孫が行方不明になった。津波が来ることを察知しバイクで逃げ伸び、どこかで助かっていることを祈っている。 ワキジョさん(35)は家族と一緒に、50体以上の遺体が収容されている役場の近くで座り込んでいた。ジョグジャカルタ出身で10年ほど前から、観光客向けの衣料品店を経営している。5月末の地震の方が揺れは大きかった。あのときは心配で故郷の両親を見舞いに行った。今度はパガンダランで津波が起き、妻と自分の店を失ってしまったという。  サルノ(35)さんは、海岸沿いのホテルの経営を任されている。オーナーは西ジャワのバンドンにいる父親だ。その父と海で遊んでいた3人の子どもと奥さんが津波に呑まれた。ときどき大きな波が来るから、海では遊ぶなと言っていた。でも父親と一緒だから油断していた。サルノさんも、掃除をしていたから地震には気付かなかったと言う。
 父親は頭にケガしただけで、無事だった。夜浜辺で、木に吊るされるような格好で死んでいた次男を見つけた。そして奥さんも遺体収容所で見つかった。
 翌朝、海岸の木の下から大きな泣き声が聞こえた。生後5カ月の次女のスリスティアワティだった。見つけてくれたのは知り合いだった。かすり傷を負っていただけで、奇跡的に助かったが、母を亡くし、おっぱいが欲しいと泣き止まない。店が閉まっているので粉ミルクが買えないと言う。
 サルノさんは大切な身内を亡くしたのに、ホテルの片付けに忙しい。いつ再開できるかは分からない。泥だらけなり、汗だくで働いている。アチェの津波で客が減り、やっと回復してきたところに、また津波に襲われた。これから外国人客が増える時期だったのにと悔しがる。
 サルノさんに限らず、パガンダランでは片付けに負われている人の姿を多く見かけた。からまった魚網をたぐり寄せ、修理する漁師も見た。漁船の修理も始まっていた。
 中部ジャワ地震の被災地では支援を待つだけの人が目立った。しかしここでは自力で立ち上がろうという人が多い。体ひとつで移り住み、財を成してきた人のパワーなのだろうか。交通のアクセスが悪く、「ジャワの中心地」ではないため、今回の津波被害の支援はあまり期待できない。政府ももう予算がないなどと無責任なことをいっている。だがもしかすると、こちらの方が復興は早いかも知れない。

天災プラス人災

「災害は忘れた頃にやって来る」と言われる。だがそうではない。インドネシアは津波、地震、洪水、火山の噴火、旱魃などの災害に途切れなく襲われる、世界でも稀な国になってしまった。
 ユドヨノ大統領も気の毒だ。2004年10月に就任以来、自然災害だけでなく、バリなどで起きた爆弾テロ、飛行機の墜落や列車の衝突事故、船舶の沈没、鳥インフルエンザの被害などが相次いでいる。
 インドネシア人、とくにジャワの人たちは迷信や土着信仰を信ずる人が多い。彼らからは、「インドネシアは呪われている。大統領が代わらないと落ち着かない」と言う声も聞こえてくる。
 天災が続いているのは確かだが、人災の面もある。津波に襲われた後、「避難しなさい」と現地に電話を掛けている正副大統領の映像が繰り返し放送されたが、あれが住民の必要だった情報だとは誰も思っていないだろう。
 パガンダランのホテルでは津波の翌日から、大政党の地方議員や関係者が目立った。話を聞いてみると、被災者の援助のためとはいえ、ジャカルタから来る党首や有力者の視察を迎える準備で忙しそうだった。緊急支援をしなければならないときに、警察や国軍の人手を使い被災者を後回しにする無神経さにあ然とした。
 町はほとんど停電だった。しかし、自分たちの泊まっているホテルにはすぐ電気を通した。私にも蝋燭を分けてくれようとした。しかし、より大変な被災者のことは頭にあるのだろうか。
「支援物資を政府でなく、直接被災者に届けて欲しい」という声は、今回もまた聞いた。ジョグジャカルタでもアチェでも聞かされた。支援がどこかで止まってしまうという汚職構造は変わらない。
「全力で被災者の支援をする」と繰り返す大統領を見るたびに、またかという気にさせられる。言うばかりでなく、早く対策に講じこの流れを何とか変えて欲しい。
今回、アチェの津波以降日本が寄贈したという津波警報装置はまったく機能しなかった。恐れられていたインド洋での津波は起き、逃げ遅れて死ななくてもいい人までがまた死んでしまった。
パガンダランがあるチアミス県の副知事に会った。
「そんな警報装置など聞いたこともない」と言われた。
援助を受け取る側だけでなく、する側に問題はなかっただろうか。高度で高額な警報装置よりも、その前のレベルでの地震や津波に対する認識が低い人たちに、災害に備える知識をしっかり伝えていたとは思えない。
 地震が起きたのは17日の15時過ぎ、私はその夜ずっとテレビを見ていたが、深夜になってやっと現地の映像が放送された。ジャカルタで地震が起きると、パニックになった人たちの様子がすぐ映るが、情報が伝わりにくい地方で的確な情報を入れ、伝えるためにはどうすればよいか、対策は練られているのだろうか。
「住民同士で電話や携帯のメールで地震や津波の情報を交換していましたよ」と副知事は言ったが、それでは情けない。
 死者の数が増え続けている。発生から3日たった7月20日午後現在、525人という。一番の多いのはパガンダランがあるチアミス県だ。私は被害の翌日、遺体収容所になっているパガンダランの村役場で数十体の遺体を見た。集計では200体に迫っていた。しかし翌日から遺体は急激に減った。だが政府発表の数字は翌日以降急速に増えていた。不思議でならない。
 実はジャワ島中部地震でも、被害の一番大きかったバントゥール県の数字が、数日後突然増えたことがある。あのときも地震当日と翌日に最も多く遺体が見つかり、埋葬されていた。一緒に取材した記者はみな首を傾げる。ほんとうにこんなに死んでいるんだろうかと。
 数字が多い方が支援も増える。意図的に水増しされているとは思いたくない。「5700人の死者が出たジャワ島中部地震」というように、政府発表の数字は信頼され。一度使われると、ひとり歩きする。間違えがあってはいけない。



 インドネシア便りNo.1〜No.10  インドネシア便りNo.21〜No.32   ●文・写真:小松邦康