インドネシア便り──小松邦康


楽園に戻ったアンボン----2010.8.7 第31回

 インドネシアで一番好きなところはと聞かれると、私はマルク州のアンボンと答える。豊かな自然に囲まれ、ゆったりした空気が流れ、日本人から見ると楽園のような暮らしをしている人がたくさんいるからだ。野菜や果物や魚が新鮮で料理がおいしく、町の至るところから音楽が聞こえてくる。そんなアンボンをこれまで私は10回以上訪れている。今回もそんなお薦めのところなら一緒に行ってみたいという友人を連れてジャカルタを出発した。

直行便で3時間あまり
 ジャカルタを深夜1時に飛び立ったバタビア航空は、時差が2時間(日本時間と同じ)あるアンボンに早朝6時過ぎに着いた。これまではスラウェシ島のマカッサルなどを経由していたが、直行便の就航でフライト時間は約3時間になった。私はジャカルタから約3000キロ離れたアンボンまで船で4〜5日かけて行ったことが何度もあるので、3時間という短縮された時間は隔世の感がする。今年6月からガルーダ航空も路線を再開した。ジャカルタからは他にもライオン航空、スリウィジャヤ航空など4つの航空会社が就航しているため、価格競争で料金も片道約50万ルピア(約5000円)へと下がり、安く行けるようになった。
 アンボンの空港は近代的な建物に再建され、市内までリムジンバスも走るようになった。早朝の市内へ向かう道の両側には赤いハイビスカスの花が鮮やかに咲き、椰子の木、バナナの葉、青い海、水色の空、白い雲など、渋滞と澱んだ空気のジャカルタとは対照的で別世界のようだ。
沿道の市場には豊富な野菜が並べられ、多くの人が集まっている。市内に入ると数年前までなかった高層ホテルが建っていた。ベチャは市民の足として健在で、元気よく走っている。キリスト教徒が約半数暮らすため教会も多く、朝を知らせる鐘の音もイスラム教のモスクから流れるコーランも聞こえてくる。



治安は回復、笑顔とゆとり
 1998年スハルト政権崩壊直後、アンボンを中心にマルク諸島各地でキリスト教徒とイスラム教徒の宗教抗争が広がり、5000人以上といわれる住民が殺され、50万人を超す避難民が出た。同じ頃起きた東ティモール騒乱よりはるかに多い数だ。しかし国際的にも国内的にも大きく報道されないまま、無益な紛争でおびただしい血が流れ、外国人の渡航が禁じられた時期もあった。2002年の和平合意後も経済が停滞し、外国からの復興支援も滞っていたが、今は治安の問題はなく、新しい建物が増え、人々の表情に笑顔とゆとりが感じられる。インドネシアの好景気は紛争地だったアンボンにも及んでいる。内外の観光客誘致を目的にした7月から8月にかけ開催中の海洋博「セーイル・バンダ2010」も盛況だ。



植民地の歴史と音楽と海
 アンボンは350年続いたオランダ植民地時代、丁子やナツメグなど香料の産地であり集積地だったため、オランダ東インド会社(VOC)跡や歴史のあるキリスト教会など史跡も多い。オランダやドイツなどヨーロッパからの観光客も目立つ。1000を超えるマルクの島々の商業・文化の中心地でもあるため、インドネシア全土からの移民が暮らし各地の料理が食べられるのも魅力だ。
 町を歩くと必ず聞こえてくるのが音楽だ。日曜日の教会のミサには一番きれいな服を着て人々が集まり、美しい讃美歌の歌声が響く。トトブアンというアンボンのガムランで合奏する伝統音楽は、ポルトガルやハワイなどの影響を受けているのでテンポが速く、歌って踊りたくなる明るいリズムだ。音楽がないと生きていけないというアンボン人は、インドネシアで一番多くの歌手を生んでいる。
 アンボンにはきれいな海岸がたくさんある。最近は外資系のリゾートホテルの建設も進んでいる。しかし私の一番のお薦めは、リアンという海岸だ。アンボン市内から車で1時間と手軽に行けるため休日は海水浴客が多いが、平日だと天国のような白砂の海岸を独占できる。色鮮やかな熱帯魚と一緒に泳げ、カツオなど魚の跳躍を見ることができる。一緒に行った友人は、リアンを見ただけでアンボンに来た価値が充分あったと言って喜んだ。



ワメナ再訪----2010.8.8 第30回

世界で2番目に大きな島ニューギニア島の西半分を占めるインドネシア領の高地にある町ワメナ。標高4000メートル級の山に囲まれているため、赤道直下といえども涼しい風が吹く。そこに石器時代から続くコテカと呼ばれるペニスケースを着けた裸の男たちが、現代文明の激流にもまれながら今も暮らしている。
裸のポーター
 20年前、小型機で初めてワメナに降り立った私は空港の到着ロビーで荷物が運ばれて来るのを待っていた。そこにこげ茶色をした数人の裸の男が現れた。子どもはフルチンで、大人はコテカを着けていた。私はこれまでさまざまな国のたくさんの空港を訪れたが、こんな異様な雰囲気の空港は初めてだった。コテカを着けた男たちを見るためにワメナに来たとはいえ、いきなり空港内でタイムスリップしたような裸の男たちの出迎えを受けたわけだ。
 驚きのとどめを刺されたのは、「荷物を運びましょうか」というインドネシア語だった。彼らは空港で働くポーターだったのだ。細身とはいえ筋肉質の男たちは、軽々と荷物を担ぎスタスタと到着ロビーから去って行った。
 空港の外には巨大なおっぱいを露出し、腰蓑だけを付けた女性がいた。ホテルまで徒歩10分ほどの道で、何人もの裸の男女とすれ違った。彼らは裸を見られても恥ずかしそうなそぶりはまったく見せない。いやらしさはなく、胸を張って早足で歩く姿はとてもかっこよかった。

コテカは部族のシンボル
 ナヤックと呼ばれる中央市場には毎朝裸の男女が集まってくる。いくつもの山を越え何日もかけ歩いて来た人もいるという。入口から市場の奥まで野菜を地べたに並べ、多くの裸の男女がその前にしゃがんでいた。男は頭に極彩色の極楽鳥の羽根を付けたり、髪の毛を油で固めたり、おしゃれをしている者もいる。コテカはひょうたんのような植物の実でできているが長短太細さまざまで、大人用が長く子ども用が短いというわけではない。部族によって細くて長いコテカを着けていたり、太くて短いのを着けていて、ダニ族とかヤリ族という見分けが付くという。コテカに通した紐をベルトのように体に巻きつけて固定しているが、その紐の先を尻尾のように尻から垂らしている男も多い。これはハエを追い払うためのものだという。
 女性は男のように腰蓑で部族の見分けはつかない。大人のおっぱいは左右不対象に垂れていて、紐やビーズで作った首飾りを付け、草で編んだノーケンという茶色の手提げ袋を頭からぶらさげている。身内が亡くなると石斧で手の指を切り落とす習慣があるので、指の数が足りない女性や喪に服すため体に黄色い粉を塗っている女性もいる。市場では物々交換からインドネシアルピアを使う商売に変わりつつあったが、裸なので収納に不便なコインは人気がなく紙幣が好まれていた。

ポルノ映画のポスターより過激
 陸の孤島ワメナでは野菜や淡水魚以外のありとあらゆる物資は飛行機で運ばれて来て、インドネシア各地からの入植者によって売られている。貨幣経済に染まったばかりの先住民相手の商売は儲かるという。ピサンゴレン(バナナのフライ)の店にはいつも列ができていた。生のバナナしか食べたことのない裸の人たちにとり、油で揚げただけとはいえ調理したピサンゴレンは革命的な味がしたことだろう。
 市場の隣にはインドネシアのポルノ映画が上映されている映画館があった。大きなポスターに描かれている女優の姿より、ずっと露出度の高い男女が前を歩いている。郊外に行く小型バスに乗り出発を待っていると、裸の男女が乗り込んで来て私の前に座った。コテカと巨大なおっぱいに目のやり場に困っていたら、女性が微笑みながらピサンゴレンをくれた。あのやさしさと味は今でも忘れられない。彼らは現代人とは違う顔つきをしているが、争いを好まない農耕民族なので性格は穏やかなのだ。

ワメナは今
 その後も何度かワメナを旅したが、行く度に裸の男女は減ってった。政府は裸は恥ずかしい遅れた文化だといい、学校には制服、教会にはきれいな服を着て来るようにと教育し、裸の子どもやおっぱいを露出した女性を見かけなくなった。町に裸で来てはいけないという条例もできた。空港は裸のポーターがいなくなり、お金目当てに裸の写真を撮らせたり、コテカなど土産物を売る年老いた男が数人いるだけだ。町の中心部にあった中央市場は車で10分ほどの郊外に移転した。
 ワメナは標高1500メートルの高地にあるため涼しく、朝晩は冷える。冷たい風が吹くと両手を首に巻きつけるように交差させ両肩を押さえるだけで寒さをしのいでいた人たちが、服を着る暖かさを知った。今さら裸に戻り寒い思いなどしたくないというのが人情だろう。彼らが暮らすホナイと呼ばれる藁葺きの長屋でも、ほとんどの人がTシャツを着て、女性はブラジャーまで着けている。観光客を見つけると服を脱ぎ、「コテカや腰蓑を着けた写真を撮らせてあげるからお金をちょうだい」と言うようになってしまった。
 ワメナは人口約6万人の7割近くを入植者が占めるようになった。州都ジャヤプラとを結ぶ約400キロの道路も建設中だ。長く文明から閉ざされていたのに今では衛星放送で外国のテレビ放送を見ることも、携帯電話で世界と繋がることも可能になった。おしゃれな洋服屋やレストランも増えている。インターネットカフェでは子どもの頃フルチンで歩いていた青年がパソコンの画面に向かっている。
 石器時代から続く裸の文化を簡単に見ることができたワメナが「文明化」し、ふつうの町に近づいたため、「秘境ツアー」で訪れる観光客は減っている。先住民たちは暖を取るため煙の充満するホナイで暮らしているため平均寿命は30代と短い。あと10年、いや5年もすると、コテカを付けた男たちを見られなくなるかもしれない。

ワメナの歴史
 1930年代アメリカの探検隊がニューギニア高地で「石器時代の裸族を発見」した。60年代にニューギニア島西部のオランダ植民地を巡りオランダとインドネシアの武力衝突が起き、国連がインドネシアに行政権を移管。70年代からバリエム盆地のワメナを拠点にインドネシア各地からの入植者と欧米人によるキリスト教の布教とともに「開発」が始まった。スハルト大統領時代にはインドネシアの領土と豊富な天然資源を守るため軍事弾圧が繰り返されたため、インドネシアからの独立を訴える先住民もいる。現在ではパプア州全体でも入植者が先住民の数を上回った。

ワメナの行き方
 ジャカルタからワメナまで約4000キロ。ジャカルタやバリからインドネシア最東部のパプア州の州都ジャヤプラまで飛行機で5〜7時間。ジャヤプラからワメナまではトゥリガナ航空のプロペラ機が1日に2〜3往復している。所要1時間。外国人はジャヤプラや空港のあるセンタニの警察などで入境許可書を取る。1万ルピア(約100円)。ワメナ空港の近くに数軒のホテルと郊外に高級ホテルがある。移動は徒歩かベチャ(人力車)、郊外へは乗り合いの小型バスか車をチャーター。


高松で「マスエンダン」上映----2009.8.14 第29回

 2年前宮崎県の海岸で溺れていた女子中学生を助けようとし、命を落としたインドネシア人漁業研修生エンダン・アリピンさん(当時21歳)の足跡を追ったドキュメンタリー映画「マスエンダン」の上映会が、8月11日と12日香川県高松市で開かれた。

エンダンさんの命日に上映
 事故当時バンドンで日本人学校の教師をしていて事故のことを「じゃかるた新聞」で知り、エンダンさんの故郷チレボンや宮崎県で取材・撮影した井上実由紀さんも高松市を訪れた。チレボンやバンドンなどで上映会を開きながらインドネシアを10日間旅行し、9日に帰国したばかりの井上さんにとって、暑さの厳しい高松での上映会は強行軍だった。
 井上さんは四国に訪れたことも、四国での上映も初めてだった。映画の後、製作過程を説明し、観客からの質問に応じた。70名以上が鑑賞し、エンダンさんの母校の小学校の建設・修理費にあてる義援金は5万5000円も集まった。11日はちょうどエンダンさんの命日でもあった。

チレボンとの不思議な縁
 「私は昔、客船の船長をしていました。宮崎県の海はかなり波が高いんです。あの海に飛び込むのは、かなりの勇気がいります」と、映画を見終わった合田功さんが感想を話した。
 合田さんは昨年6月、チレボンを訪れたことがある。1988年まで四国と本州を結んでいた元JRの宇高連絡船がインドネシアに売却され、ジャワ島とスマトラ島の間などで航行している。瀬戸大橋開通20周年を記念して、チレボン港でドック入りしていた元連絡船「阿波丸」と再会するツアーが企画された。合田さんはそのツアーに高松から参加した阿波丸の元船長だった。「新聞で上映会の記事を読み、チレボンとの不思議な縁を感じて映画を見に来ました」と語った。

介護士の出身校もチレボン
 12日の上映会は特別養護老人ホーム「香東園」で開いた。香東園にはティタさんとヌリアさんの2人のインドネシア人福祉介護士が勤務している。事故があった2年前、2人ともエンダンさんの故郷チレボンの看護学校に在学中だった。しかしエンダンさんの水死事故は大きく報道されなかったため、知らなかったという。四国各県の老人ホームでは、他にもチレボン看護学校の卒業生が10人以上働いている。
 2人は日本に来てちょうど1年経った。私は、久しぶりに故郷の風景を映像で見てもらえるし、施設の利用者にも2人に縁のある地を知ってもらえると思い、上映会を企画した。上映当日も、2人には前の方に座りゆっくり映画を見てもらおうと思っていた。
 しかし、2人は上映中お年寄りから目を離さず、「見えないからもっと前へやって」というお年寄りの車椅子を押して移動させ、「帰りたい」というお年寄りの手を引いて退席させたりしていた。55分の上映中、日本人の同僚より頻繁に席を立ち、お年寄りの世話をしていたのは2人のインドネシア人だった。
 映画では、エンダンさんをよく知る宮崎県の日本人が「エンダンは優しい顔をしていたが、根性があった」と語り、エンダンさんの父は「息子には困った人がいたら、助けなければならないと教えていた」と語っていた。
 私の目の前でお年寄りを助けるティタさんとヌリアさんの姿が、溺れていた女子中学生を助けたエンダンさんの姿と重なった。


インドネシア最長の橋が開通----2009.7.31 第28回

インドネシア第2の都市スラバヤとマドゥーラ島を結ぶスラマド大橋が6月に開通した。全長5438メートルはインドネシア最長で、東南アジアでもマレーシアのペナン大橋に次ぐ長さの橋だ。これまではスラバヤのタンジュンペラ港とマドゥーラ島のカマル港を結ぶ航路をフェリーが20分ほどで結んでいた。しかし車や乗客がいっぱいにならないと出航しないので、長く待たされることが多かった。入港する時も前の船が出航するまで海上で待たされた。それが橋の開通により海峡を車で約10分で渡れるようになった。料金もフェリー運賃の3分の1に下がり、オートバイは片道3000ルピア(約30円)と安い。そのため休日には橋を渡るために全国から多くのカップルや家族連れが集まり、料金所に長い列ができ渋滞するほど賑わっている。昨年の経済危機の影響をあまり受けず経済が好調なインドネシアを象徴する出来事とも言える。


フェリーで海峡を渡る
 しかし私はフェリーに愛着がある。潮風を浴び、景色を眺めながらゆっくり海の上を進む船には何とも言えない解放感がある。またこの航路には、昔日本の瀬戸内海など使われた船が活躍している。本州四国連絡橋が開通したあと廃船になるのを免れて、インドネシアで「第二の人生」送っているフェリーだ。それがまたスラマドの大橋の開通で、時代の流れに翻弄され「第三の人生」を迎えてしまう運命なのだ。そんな船に乗りたくて、新しい橋を渡る前にこれまでのフェリーで海峡を渡ることにした。
 スラバヤの街の各所からタンジュンペラ港行きのバスが出ている。終点の港でマドゥーラ島行きのフェリーに乗り換える乗客が多いためだ。ジュアンダ国際空港から出ているリムジンバスも、長距離バスターミナルや市内中心部を通りタンジュンペラ港まで行く。港のターミナルのすぐ前はフェリー乗り場だ。食堂や軽食の屋台も多く、バスを降りひと休みしている人も目立つ。
 フェリーの運賃3700ルピア(約35円)を払って桟橋へ行くと、「第八きりくし 広島 江田島」と書かれた日本製のフェリーが停泊していた。しかし私は先に出航しそうな「POTTRE KONENG」というインドネシア製の船に乗った。ジャワ各地からマドゥーラ島に渡るバスや車やオートバイも積まれているが、甲板がいっぱいになる前に出航した。これまでいつ動き出すのかと長く待たされたことを思うと、予想外にスピーディーだった。
 「スラマド大橋が開通し7割もフェリーの乗客が落ち込んだ。廃止にはならないが、いっぱいになるまで出航を待つわけにはいかない」と乗組員は説明してくれた。
 タンジュンペラ港に入港して来るフェリーも客や車を満載していない。沖合には使われていないフェリーがたくさん浮かんでいる。しかしもう次の航路で使われるために売却されたフェリーも多いという。広い国土に無数の島があるインドネシアでは、「第三の人生」を案ずる必要もそれほどないのだろうか。
 タンジュンペラ港にはスマトラやパプアに向け何日もかけ航行する大型客船も接岸している。海軍の戦艦も並んでいる。そして遠方にはスラマド大橋も見える。フェリーの船内ではインドネシアの麺ミバソや肉入りスープ、果物やジュースの売店が繁盛している。景色を眺めながらの飲食は格別だ。長距離バスの乗客やトラックの運転手も、手足を伸ばし海の上で気分転換している。


スラマド大橋を渡る
 フェリーのマドゥーラ島のカマル港入港もスムースで、タンジュンペラから20分足らずの航海だった。下船し港を出て乗り合いバスのターミナルに行ったが、ほとんどが小型のオンボロバスだ。客引きもうるさい。スラバヤとの差を実感した。スラマド大橋を見に行くと言うと、10万ルピア(約1000円)などとふっかけてくる。歩いて橋まで行くと言ったら3000ルピアになった。乗り合いのミニバスは10分ほど走り、橋の料金所近くで停まったので降りて歩いて橋に近づいた。
 近くで見るとスラマド大橋は驚くほど長い。中央の吊橋部分までも遥かに遠い。ひなびた漁村が点在するマドゥーラ島から見ると、海の上に延びている巨大な橋の行先はどこなのかと疑ってしまう。
 海岸ではのんびり橋を眺めている人や写真を撮っている人がいるが、料金所周辺ではジュースなどを売る屋台が目立つ。マドゥーラ島に来たことよりも、橋を渡りに来た人がほとんどなので、すぐスラバヤに引き返す人たちがここで一服していくためだ。そんな人たちに話を聞いてみると、「オートバイで5時間かけて渡りに来た」、「一生の思い出になる」、「信じられないほど長い橋を造れるインドネシアを誇りに思う」などと興奮気味に話す人ばかりだ。
 この橋は自動車やオートバイ専用なので、歩いて渡ることができない。乗り合いバスも走っていたが、私はオートバイの後部座席に乗せてもらい、橋を渡ることにした。視界が広がるからだ。幸いカリマンタン(ボルネオ島)から来た親戚を案内しているというスラバヤ在住の男性が乗せてくれることになった。弟が運転するもう1台のオートバイにはその親戚が乗っている。
 「この橋が開通してひと月になるが、渡るのは3回目」と言うが、その先の話はエンジンの音でよく聞き取れなかった。
 のろのろ運転で景色を見ながら渡るだけでなく、停車禁止の橋の上で警官の目を盗み車やオートバイから降り記念写真を撮るドライバーも目立つ。
 橋を渡るのに10分ほどかかった。料金所での待ち時間や街の中心部から橋まで行く時間を考えるとフェリーより時間短縮になっているとはいえないが、海峡を安全で安く渡れるようになった意義は大きい。土地が痩せアクセスが良くなかったため産業の発展が遅れていたマドゥーラ島にもたらす変化も大きいだろう。
 もともとこの橋は1960年台にジャワ島とスマトラ島やバリ島を結ぶ橋の1つとして発案され、80年代から日本との間で構想が練られた。90年代には本州四国連絡橋を完成させた日本の技術とODAで工事が始まるという期待もあったが、通貨危機や政情不安などで計画が中断した。その後中国が総工費の約45%を借款で賄うことになり、6年の歳月をかけ完成に至った。
 インドネシアの商都と言われ華人の割合も多いスラバヤには周辺に工場も多い。数年後にはマドゥーラ島にも多くの工場ができるだろう。インフラや投資環境の整備を進め、広いインドネシアの地方を発展させることは、7月の選挙で再選が決まったユドヨノ大統領の大きな政治課題でもある。
 その1つのシンボルが、このスラマド大橋なのだろう。





【番外篇】 カンボジア側から行く世界遺産プレアビヒア遺跡----2009.6.27 第27回

2008年7月ユネスコの世界遺産に登録されたクメール寺院プレアビヒア遺跡は、アンコール遺跡よりも古い歴史があり、クメール民族の聖地とも言われる。しかし、遺跡周辺はカンボジアとタイとの国境地帯にあるため、最近では2008年10月と2009年4月に領有権をめぐり両軍が衝突し、死傷者の出る激しい銃撃戦も発生した。私は4月末カンボジアを旅した際、首都プノンペンからバスに乗り、そのプレアビヒア遺跡を目指した。カンボジア側からこの遺跡に入った日本人はあまり多くないらしい。

外国人の乗っていないバス 
 多くの観光客はタイ側から訪れるというし、ガイドブックにもタイ東北部の町シーサケートやウボンラーチャターニーなどからのアクセスが一般的などと記されている。しかしプノンペンのセントラルマーケット近くにあるGSTという長距離バス会社を訪ねてみると、1日1本毎朝8時にプレアビヒア行きのバスが出ていることがわかった。料金は3万5000リエル(約9ドル)、冷房付きの大型バスで、夕方5時ごろには着くという。
 そのバスは韓国の「現代自動車」の中古だが、冷房がよく効いていた。ほとんどの座席が埋まっていたが、外国人の乗客は私だけだった。アンコール遺跡の拠点になるシェムリアップや海岸リゾートのあるシアヌークビル、ベトナムやタイに行く長距離バスには外国人旅行者が必ず乗っているのに、どうしたことだろう。
 バスはメコン上流の町に向かう国道7号線と分かれ、6号線に入った。その先の町コンポントムの商店でバスに大量の缶ジュースが積み込まれた。バスは乗客だけでなく商品の運搬も兼ねているようだ。そのあとすぐアスファルトの舗装が途切れ、赤土の道路に入った。乾期で土が乾いているためスピードはそれほど落ちなかったが、砂埃を舞い上げて走り続けた。出発してから6時間ほどで食堂に寄り、昼食と休憩を取った。プノンペンでの支払いは米ドルが使われていたが、ここではみんなリエル払いだった。
 快適に走っていたバスだがしばらくして冷房が効かなくなった。座席の窓を開けることができないため天窓から入ってくる風のみとなり、車内は蒸し風呂状態になった。しかし誰も文句を言わず暑さに耐えていた。

遺跡までまだ100キロ以上
 プレアビヒアには夕方5時前に着いた。9時間足らずのバスでの移動だった。ここはプレアビヒア州の州都プレアビヒアで、タベン・ミエンチャイとも呼ばれる町だった。遺跡まではまだ100キロ以上もあることがわかった。バスを降りてから簡単に遺跡まで行けないことは出発前から覚悟していたが、予想以上の距離だった。そのうえ公共交通がなく、バイクタクシーで片道30ドル、3時間もかかるという。炎天下の埃だらけの未舗装の道を往復6時間もバイクで走らないといけない。体力が持つだろうか。
 今出発してもすぐに日没になり、遺跡見学は翌日になる。ひとまず宿を探し、1泊することにした。小さな町なので歩いて宿を探そうとしたが、バイクタクシーの運転手は客である私から離れようとしない。仕方がないから安宿まで送ってもらうことにした。プノンミアス・ゲストハウスという1泊6ドルの宿までは、やはり歩いて行けるほど近かった。運転手は1000リエル(約25円)だけ受け取った。
 夕食はゲストハウスの隣にある家族経営の食堂で食べた。そこでまた遺跡の行き方を質問した。料理を作っていた奥さんに乗り合いのタクシーで行けばよいと言われ、息子がすぐに携帯電話で運転手に聞いてくれた。
 明日朝8時に出発するからそれまでにこの食堂に来てほしいと言われた。遺跡のふもとの村コモイまでタクシーで往復20ドル、そこからバイクで遺跡まで往復5ドルだという。料金が3分の1になったのも嬉しいが、バイクに往復6時間も乗らずにすむことがなにより助かる。治安はどうかと聞いたら、まったく問題ないという。

乗り合いタクシーで遺跡へ
 宿でぐっすり寝て、翌朝は7時過ぎに朝食を食べに食堂に行った。カンボジア風焼き飯を注文したら、昼ご飯用に弁当を作ってあげましょうと奥さんに言われた。遺跡のふもとの村で何か食べられるだろうと思ったのでそれは断り、焼き飯とおいしいマンゴーをたくさん食べた。
 8時になっても出発する気配はない。客が集まらないからもう少し待ってほしいと息子に言われた。夜までにここに帰ってこれればいいので、急いで出発することはない。早く出発するためには追加料金を払う必要があることは、インドネシアと同じだろう。
 タクシーの運転手らが客集めをしているという空地に行ってみるとやはりそうだった。50ドル払えば今すぐ出発すると、運転手が言った。車は日本で走っていたトヨタカリーナで、なかなかきれいだった。そこに昨日のバイクの運転手が現れたが、乗り合いタクシーで行くことにしたと言って断った。
 9時半過ぎに空き地を出発できた。私が助手席に3人が後ろに座った。そして床屋で散髪をしていたもう1人の客を迎えに行き、その人も後ろに座った。4人とも軍服を着てライフル銃を持っている。遺跡の近くで警備し、何かの用でこの町に来ていたようだ。赤土の道だが悪路ではないので、50〜60キロで飛ばせる。対向車は少ないがバイクとはときどきすれ違う。みんなマスクやスカーフで覆い、舞い上がる砂埃から口や鼻を覆っている。快適な車でよかったと実感した。水田も畑もない単調な平地の景色が2時間半ほど続いた。

バイクタクシーで急坂を登る
 2人の兵士はコモイの手前の軍の駐屯地で降りていった。その他にもトラックや装甲車が数十台並んでいた。他にも森の中にたくさん駐屯地があった。
 あとの2人は終点のコモイで私と一緒に降りた。10台くらいのバイクタクシーが私だけを囲んだ。運転手はみんな遺跡まで往復10米ドルと言うが、5米ドルしか払わないと答えるとすぐに5米ドルになった。遺跡は標高650メートルの山の上にあり、歩いて登ると大変なのだから、値段が下がらなければ仕方なく払ったのに、拍子抜けするくらい簡単に交渉は成立した。それも5米ドル稼げるのは1台だけだ。残りの運転手は客のあてがあるのだろうか。
 コモイを出るとすぐに「2005年、日本の援助で地雷を撤去した」と書かれた看板があり、そのあとコンクリートで舗装された急な坂道になった。そこをさっきの2人の兵士が歩いて登っていた。坂道はどんどん傾斜が急になったので、ふつうの車なら走れないだろう。
 遺跡までの道中、警備する兵士のテントをいくつも見た。さっきの兵士もこんなテントで野営するのだろうか。バイクの運転手は、あちらがタイだと言う。タイ領なのだろうが丘しか見えない。

雨に打たれた遺跡
 10分ほどでプレアビヒア遺跡に着いた。バイクから降りたところが入口らしいが、入場料を払う所はない。本当に世界遺産をタダで見学していいのだろうか。確認できなかったが、タイ側から入ると払わなければいけないらしい。
 長い石畳の参道を歩いている時、風が吹き空の色が変わり、雨が降ってきた。傘をさしてしばらく進んだが、急に雨足が強くなり、雨水が足元を川のように流れだしたので慌てて雨宿りした。そこにはテントを張りハンモックで寝ている兵士と参拝に来ていた少年僧らがいた。しばらくみんなで雨がやむのを待った。軍服を着た兵士と袈裟をまとった少年僧とがじゃれあい、写真を撮りあい、緊張感とは対極の平和な雰囲気が漂っていた。
 しばらくして雨があがったので外に出た。それまでの暑さが去り、水分を含んだ石造りの遺跡や木々の緑が濃くなり、全体が生き返ったような感じがした。少年僧の袈裟のオレンジ色もよく映えた。
 迫ってくるほどの大きな石の塊、遺跡に覆い重なる木の幹、石の壁面に彫られた数々の仏像や物語。手入れされていないことさえ魅力だ。花を添え手を合わすタイ人もいた。しかし遺跡のほとんどに銃弾が撃ち込まれた無数の穴があいている。ここが長い間内戦や国境紛争の戦場になり、多くの命が奪われたことを物語っている。
 遺跡を抜け断崖の上に出ると、眼下にはカンボジアの緑の大地が広がった。崖下から見上げた人に、「天空に建てられた遺跡」と言われたのも頷ける。9世紀後半から建てられたと言われる遺跡だが、それから1000年以上ほとんどまわりの景色は変わっていないだろう。緑の森の中に伸びる赤茶色の筋はさっき走ってきた道だ。アスファルト舗装されたタイの道路とはまったく違う。
 遺跡の回廊を入口の方に引き返した。鎌首を持ち上げたナーガ象の前にカラシニコフ銃を担いだカンボジアの兵士がいて、この穴は最近のタイ軍との交戦であいた銃痕だと説明してくれた。残念なことだが、これまで遺跡全体の無数の銃痕を見た後ではあまり驚かない。兵士はその先の急な石段を降りるとタイ領なので行くなと言う。タイ人の参拝者は降りていったが、私はやめた。
 それにしても訪れる人の少ない世界遺産だ。遺跡には3時間ほど滞在したが、外国人観光客は1人も見かけなかった。10人くらいのタイ人の参拝者と少年僧と連れてきた大人を合わせて40人くらいのカンボジア人だけだった。警備をしている兵士の方が多かったが緊迫感はなかった。雨が降ってくるとどこかに消えていくような兵士だった。

プノンペンに戻る
 遺跡を見物している間、バイクタクシーの運転手はずっと私を待っていてくれた。強い雨に降られただろうと彼は言った。気温が下がったので気持ちよく見ることができたと私は答えた。彼の肩につかまり急な坂道をバイクで下りた。テントから兵士が手を振った。
 コモイでも乗り合いタクシーの運転手が待っていてくれた。誰も客がつかまらなかったから2人で帰ろうと言う。彼は食事のあと昼寝をしていたらしいが、私はすぐに車に乗った。来た道をまた砂埃を上げひたすら走った。途中アンコール遺跡のあるシエムレアップとの分岐点があった。6時間くらいかかるという。この道が舗装されると、どっと観光客が押し寄せるだろう。
 プレアビヒアの町には日没前に着いた。ゲストハウスでシャワーを浴び、隣の食堂に報告がてらお礼に行った。みんなよかった、よかった、と喜んでくれた。昼ご飯を食べ損ねていたので、たくさん食べた。
 翌朝8時前のバスに乗り、帰りは7時間半かけてプノンペンに戻った。



アチェの津波被災地からマグロを輸出----2009.3.9 第26回

インド洋巨大津波から4年経った。各地の被災現場では内外の復興支援団体の撤退が進んでいる。しかし、スマトラ島アチェ州サバンで、漁師に漁業技術を伝達することで被災した漁村を活性化したいという願いを込め、4人の日本人が腰を据えマグロ漁に取り組んでいる。

大津波で被災した漁村のために
インドネシア滞在が3年になる瀬尾幸夫(56)さんは、これまで北スマトラやバリ島から南洋マグロを輸出してきた。そして1年半前、アチェ州の州都バンダアチェの沖あいに浮かぶウェー島のサバンに拠点を移した。ウェー島はインドネシア最北西端にある島で、過去の資料からこの海域がマグロの豊かな漁場とわかったからだ。
瀬尾さんは高松市で魚屋を営んでいた。今から25年ほど前韓国で赤貝の冷凍技術を教えたのが海外進出のきっかけになった。そのあとフィリピンのミンダナオ島でマグロの輸出に関わったことで、魚屋を廃業し、タイやインドネシアから魚を輸出する仕事に転職した。苦労話は尽きないが、20年間いろいろな人にお世話になった。その恩返しに、日本の優れた漁業技術を向上心のある若い人たちに伝えたいという。
インド洋巨大津波の直後、世界中から募金が集まりアチェにも届けられた。そして、支援組織を通じ漁師に漁船が支給された。しかし漁業技術を教える者はいなかった。そのため地元で消費されるくらいの昔ながらの漁しかできず、漁師の生活は豊かにならない。ほとんどの人が津波で家族を失い、生活基盤を破壊されたため、漁業を捨て都市部に仕事を求め漁村から去っていく者も少なくなかった。
「天然の漁場があるのにこれではもったいない。最大の消費地の日本や今後成長が期待される中国でもマグロの需要は増えています。世界一といわれる日本の漁業技術を教えれば、被災した村も必ず活性化しマグロの輸出基地になるはずです」と、瀬尾さんは訴える。

マグロ獲りの名人
 瀬尾さんは協力者として日本からマグロ獲りの名人を連れて来た。世界の海で50年以上マグロを獲ってきた内山幸男(73)さんだ。マグロ漁から引退し故郷の三重県尾鷲市の魚市場などで再就職していたが、海の上での仕事が忘れられなかった。そして3年前バリ島を母港とするマグロ船の指導員として海に戻ってきた。そこで瀬尾さんに誘われ、1年あまり前サバンにやって来た。小柄だが70代とは思えないほど体が引き締まり、真っ黒に日焼けしている。
「日本では私くらいの歳になると、けっこう年金をもらえるのです。でもここでインドネシア人の漁師を育てることに興味があります。日本で老後を過ごしているよりずっと面白いですよ。手に職を付けたいという若者はどんどん私の技を盗んで欲しいです」と、内山さんは力強く話す。

歌手になりたかった
2人の思いは、瀬尾さんの長男正剛(36)さんの気持ちも動かせた。子供のころから父と釣りをしたり、魚屋を手伝っていた正剛さんにとって、魚はいつも身近な存在だった。しかし父が家業を廃業してから東京で音楽活動をしていた。そしてバンド仲間の美由起さん(30)と知り合った。2人の共通の夢は歌手になることだった。
交際は8年続き、神戸で暮らしている時、正剛さんは美由起さんに父からインドネシアで一緒に仕事をしようと誘われていることを打ち明けた。父のように海外で仕事をし、マグロを輸出するという夢を実現したいとも伝えた。外国で暮らすことなど想像もしなかった美由起さんだが、結婚し仕事を手伝う道を選択した。

日本女性は1人だけ
2008年4月20日、2人は関西空港から出発する朝、神戸市役所に婚姻届けを出した。飛行機を3回乗り継ぎ、船に乗り換えサバンに到着し、新しい生活が始まった。日本人は4人しかいない。観光客もめったに来ない。女性は1人だけの未知の島だった。
美由起さんは経理や会計の仕事を任された。若い漁師たちに渡したお金と持ってきた領収書の金額が違うことがよくあるという。
「500ルピアや1000ルピアが合わないのです。日本円にすると10円以下ですが、数字が合うまで説明を求めます。細かいことを言う私はみんなに嫌われているだろうと思っていましたが、病気したとき大勢の人が集まり、とても親切にしてくれました。日本と違う優しさを感じ、とても嬉しかったです」と、明るく話した。
「こんな辺境の島に付いて来てくれ、大感謝です。日々家族で頑張れるのも美由起のおかげです」と、正剛さんも最大の信頼を寄せている。

アチェ産のマグロ
現在瀬尾幸夫さんの会社は、2隻の船でサバンから半径300キロくらいの沖に出て漁をする。2晩の航海で数十匹のマグロが獲れるという。アチェ近海で獲れる南洋マグロは、主に関西で好まれるキハダマグロと関東で好まれるメバチマグロだ。体長1メートル以上、150キロもの大物が獲れることもあるが、35キロ前後の方が味がいいという。
 昨年後半からの世界的な不景気で、このところマグロの値段は下落している。しかし将来中国などでマグロの消費量が増え続け価格が上昇すれば、日本での価格が高騰しマグロ不足になるという。しかしアチェ産のマグロが安定供給されるようになると、そんな不安が解消されるかも知れない。
 サバン滞在中、私は2晩連続でマグロの刺身をご馳走になった。
「こんな新鮮で美味しいマグロは、ジャカルタや日本では食べられないですよ」と、瀬尾さんは言った。
 味も素晴らしいが、何枚もの大皿に盛られた量にも驚いた。一生分のマグロの刺身を食べたような気分だった。

「勝った」と思った
 瀬尾さん一家はサバンで、津波支援団体が建てた復興住宅を安く借り暮らしている。住み心地は悪そうではないが、復興住宅に住む日本人に会ったのは初めてだ。一家は2月末、ジャカルタに出張した。初めてジャカルタを見た正剛さんと美由起さんは、サバンとはあまりにもかけ離れた都会の暮らしにめまいがしたという。
「ジャカルタが大都会なのでインドネシアのイメージが変わりました。あんなに高いビルがたくさん建っているとは思っていませんでした。アチェと同じ国とは思えません。外資系企業が集中し、投資も集まっているのでしょう。スマトラとは差が開くばかりのような気がします」と、美由起さんはジャカルタの印象を話してくれた。
一家はジャカルタ滞在中、イスラムの戒律が厳しいアチェでは食べることが難しい豚肉料理を毎日食べ、めったに飲めないビールを飲んだ。
 現在サバンで獲れたマグロはタイのプーケットに船で30時間あまりかけ運び、冷凍し、コンテナに積め日本に空輸している。将来インドネシア産の「アチェマグロ」というブランドで、国際線も就航しているバンダアチェの空港からジャカルタや日本に直送したいというのが瀬尾さんたちの夢だ。
一家はジャカルタで日本料理店や日本食スーパーのマグロを見て回った。アチェのマグロとは鮮度や色がまったく違った。
「勝った」と思った。
しかし同時に、勝つまでには長い道のりがあることも実感した。レストランのオーナーはいいマグロであれば買いますと言ってくれた。しかしアチェにはまだマグロの解体業者がいない。新鮮なマグロをドライアイスを使って箱詰めし、空輸するインフラもない。現在の資金だけではまったく足りない。様々な大問題にたった4人の日本人で取り組んでいかなければならない。

日本大使とも面談
瀬尾さん一家はジャカルタで塩尻孝二郎日本大使にも面談した。それに先立ち大使は2月中旬アチェを訪問し、イルワンディ・ユスフ州知事と面談していた。その席で知事は、今後日本の民間企業が農業や水産業の面で投資しアチェに進出してほしいと要望し、大使もそれが津波からの復興に有益だと答えた。
大使は瀬尾さん一家こそがアチェの日本人のリーダーになってほしいと勇気づけた。アチェに骨を埋める覚悟で来ているという瀬尾さんは、日本人が4人しかいないサバンで役人や警官のカモになっている現状を訴えた。
「船を出港させる度に役人が、我々だけに船員1人当たり10万ルピアの“出航料”を払えというのです。水上警察が燃料を買ってほしいと市販より高い価格で売りに来るのです。そんな話はきりがありません」
「そういう役人や警官がいるのなら、私が州知事に書簡を送ります」と、大使は答えた。
「日本政府がバンダアチェに無償供与したばかりの4台の製氷機がうまく稼働していません。できた氷も質が劣り、我々が使えるものではありません」と、瀬尾さんは指摘した。
「すぐ日本側と先方に調査させ、改善させます」と、大使は答えた。
「日本で廃船になり解体されるマグロ船をアチェに持ってくれば、みんなとても喜ぶのですがどうでしょうか」と、息子の正剛さんは質問した。
「その問題も何とかしたいですね」と、大使は応じた。
 予定の30分を大幅に超え、面談は1時間半以上に及んだ。瀬尾さん一家はジャカルタで会った人の中で、大使が一番親身に話を聞いていただき、とても大きな元気をもらいましたと喜んだ。

日本の技術で付加価値を
 瀬尾さんはJICA(国際協力機構)にも足を運んだ。
「バンダアチェに公立の水産専門学校があります。そこで一人前の漁師を育てたいのです。日本から海の男として活躍し退職した元漁師を講師として招き、漁業技術を教えれば、優れた人材が育ちます。彼らが海に戻りリーダーになれば、巨大津波で破壊された漁村の再生にもなるはずです」と、訴えた。
「JICAが津波の復興事業から撤退することはありません。しかしこれからどんな支援をしていくか模索中です。企業活動に直接支援はできませんが、官と民間が連携できるとても参考になる話を伺えました」と、担当次長は答えた。
「JICAの事務所は津波の直後バンダアチェにありました。しかしかなり前に事務所を閉めたので、現場の問題がよくわかっていないでしょう。適切で素早い行動を起こすとは思えませんでした」と瀬尾さんは、面会後悔しそうに打ち明けた。
 しかし巨大津波の直後からアチェに事務所を構え、これまで復興支援を地道に続けてきた組織は、瀬尾さんに協力を求めている。これからは民間の技術を導入し産品に付加価値を付け、活性化できるような支援活動をしたいという。
国連の機関IOM(国際移住機構)は、アチェに溢れている失業者を船乗りなど従業員として瀬尾さんに雇用してほしいと協力を要請している。
日本赤十字社も津波で養殖池を失った住民支援のため、マグロ獲りの餌になるミルクフィッシュ(サバヒイ)の養殖技術を伝達してほしいと瀬尾さんに申し出ている。

瀬尾さん一家の夢
「私には夢があるのです。働く気が感じられない役人ではなく、若いやる気のある人を育てたいのです。復興への道半ばで多くの支援団体がアチェから撤退していきます。それを見送るのはとても残念な気持ちです。私は水産業しか知らない男ですが、アチェの被災地で人生を賭ける値打ちがあると判断しました。私たちのビジネスと巨大津波からの復興のため、アチェから新しい風を起こしたいのです。」と語る瀬尾さんの思いは熱い。
日本の優れた技術が持続的な復興支援に生かされるよう願いたい。

瀬尾さん一家に興味のある方や支援をしていただける方は、メールで連絡を取って下さい。
seosabang@yahoo.co.jp

ロヒンギャ族がアチェに来た----2009.3.3 第25回

ミャンマーとバングラデシュの国境近くに暮らす少数民族ロヒンギャが、インドネシアの北西端の町サバンに漂着してもうすぐ2ヵ月になる。現在はインドネシア海軍の敷地内のテントで暮らし、食事も支給されているが、これからの運命は分からない。
 現地の報道などによると、昨年末数千人のロヒンギャ族が、数隻の小舟でマレーシアを目指したが、タイの海軍に捕まり暴行を加えられた。そして海上に放置され、空腹のまま嵐にもまれ漂流した。そのうち1隻が1月7日アチェ州のウェー島沖でマグロ漁をしていた漁師に発見された後、インドネシア海軍に保護された。アチェ州の他の土地などインドネシアに漂着したのは数百人ほどで、1000人以上の行方が分からないままだ。
 タイやインドネシア政府は、漂着したロヒンギャ族はミャンマー政府の迫害を恐れ国を後にした難民ではなく、タイやマレーシアなどに仕事を求めてやって来る「経済難民」との見方を示している。3月1日までタイで開かれていたアセアン首脳会議でもロヒンギャ族の扱いについて協議されたが、結論は先送りにされた。
 彼らの世話をしているインドネシア赤十字や国際移住機関(IOM)によると、現在サバンの海軍施設にいるのは12歳から55歳まで193名で、全員男性だという。1日3度の食事、体操、ジョギング、サッカー、バドミントンなどをみんなでするが、1日のほとんどは日光浴やギターを弾いて過ごしている。彼らはイスラム教徒なので、礼拝はインドネシア人と一緒にする。
 インドネシア政府は外部者との面談や写真撮影は禁止しているが、サバンの海軍は私に柵越しの写真撮影を許してくれた。 
 私が訪れた9時過ぎは、朝食の時間だった。おかずより白いご飯が多い食事だが、健康状態が悪そうな人はいなかった。薬はインドネシア赤十字から、食糧や飲料水、衣類やたばこなどもIOMなどから支給されている。
私が声を掛けたロヒンギャ族はバングラデシュ出身者が多かった。愛想は良く何か話したそうだったが、インドネシア語が通じないので会話はできなかった。
 赤十字の人の話では、「ミャンマーに送還されると殺されるので、それだけはやめて欲しい」と訴えているという。

津波から4年経ったアチェの西海岸を走る---2009.3.2 第24回

ガタガタ道の連続
 4年前に巨大津波を起こした地震の震源に近いアチェの西海岸の幹線道路は、ガタガタ道の連続だった。立派な官庁や高級住宅などの建設ラッシュが続く州都バンダアチェから車で30分も走ると、アスファルト舗装の道路が途切れ、埃だらけの悪路になる。津波の起きる前、バンダアチェから100キロほど離れたチャランまで約2時間で行けた。それが今回は6時間もかかった。
 途中、車を艀に乗せ川を渡った。砂利道でタイヤがパンクした。橋はいつ架かるのか、まともな道はいつできるのか。復興の遅れに愕然とする。
アチェ・ニアス復興支援庁(BRR)は、「95パーセントの仕事を終えた。インフラ再建の目標はほぼ達成した」などと地元紙「スランビ」に語り、3月末にアチェから撤退する。しかしこれまでどんな仕事をしてきたのか。世界中から集まった50億ドル以上と言われる募金や復興資金はどこに使われたのか。車に揺られながら不信感が湧いてきた。
驚くことは村と村を結んでいる既存の道路を修復せずに、山を削り片側2車線以上ある直線道路を新たに建設していることだ。工事現場には資金を出している「USエイド」と書かれた看板が目に付くが、アメリカのような高速道路は今のアチェにはいらない。こんな無駄使いをする前に、これまでの道路を早く舗装して欲しい。
私がこの幹線道路を走るのは約1年ぶりだが、当時とほとんど変わっていない。それどころか漁村が減り、空の復興住宅が目立つ。住民は交通の不便な村からバンダアチェなどの町に移っていったという。しかし失業率が20パーセント以上と言われるアチェで、彼らが新たな仕事に就いているかも疑問だ。

道路ができて煙害拡がる
 チャラン−ムラボ間の100キロあまりの道路建設は日本が担当した。1年以上前に舗装道路が開通し、100キロ以上のスピードで飛ばせる。しかし便利になったことで新たな問題が浮上している。
パームオイルが採れるアブラヤシ(クラパサウィット)の農園開発が進んでいる。そのため熱帯雨林に火が放たれ、いたるところからオレンジ色の炎や白い煙が上がっている。煙に近づくと異臭がし、目が痛くなる。
「いい道ができ、とても便利になったが、山火事が増えた。煙で視界が妨げられるので運転も注意しなければ」と、運転手はぼやいた。
風向きによっては50キロほど離れたムラボの町まで煙が及び、住民の健康被害も出ていると地元紙には書かれていた。環境や健康にやさしいと言われマーガリンや洗剤などの原料になるパームオイルブームで、インドネシアは昨年首位のマレーシアを抜き生産量が世界1になった。
しかし生産地に近い住民の健康を侵している。ムラボ周辺の農園開発はマレーシア系企業の資本で進められているが、それを許可したBRRやアチェ州政府などの責任も重大だ。

日本の正月を体験したインドネシアからの介護福祉士   第23回

昨年8月初め、看護師や介護福祉の卵として日本へ旅立った200人あまりのインドネシア人が半年間の研修を終え、青森県から鹿児島県まで全国各地の病院や介護施設に散らばり仕事を始める。香川県の福祉施設に赴任する4人の介護福祉士の研修生に会って話を聞いた。
 4人の研修生は勤務する施設の招きで、昨年末から正月にかけ初めて香川県を訪れた。滞在中、餅つきや初詣などを通して日本の正月の雰囲気を味わった。施設で仕事の説明を受け、老人たちとの交流を重ね、住居となるアパートでの自炊生活も体験した。
4人は県内2ヵ所の特別養護老人ホームに分かれて勤務することになる。高松市の「岡本荘」で働くのは、ティタさん(22)とヌリアさん(27)、坂出市の 「きやま」で働くのはイマスさん(22)とルスティさん(22)。4人とも西ジャワ州チレボンの看護学校の卒業生だ。昨年8月の来日以来、大阪にある国際 交流基金の研修施設で日本語や日本文化などを学んできた。ほとんど日本語が話せなかったが、簡単な読み書きができ、仕事で使う用語も覚えたという。
「最初はホームシックになりましたが、50人ものインドネシア人の仲間と共同生活だったので心強かったです。9月の断食月もみんなで断食ができました。今までずっとジルバッブも付けています」とヌリヤさんは落ち着いて話した。
「日本に来て8キロ太りました。日本食は何でもおいしく、とても口に合います。お菓子も大好きです。日本で痩せた人は1人もいません。16キロも太った人もいます」と、ティタさんは明るく話した。
 香川県は「さぬきうどん」が有名だ。早速、施設の人にセルフサービスのうどん屋に連れて行ってもらった。自分で麺を温め、好きな具を選んで入れるシステムに驚いたという。

「大阪ではうどんが800円しました。それが高松では200円くらいです。感激しました。毎日おいしいうどんが食べられます」と、ティタさんは嬉しそうだった。
「岡本荘」の園長児玉直久さんは、2人の食事についてとても気にしている。イスラム教徒と一緒に仕事をするのは初めてで、豚肉は絶対食べないと聞いているからだ。断食やお祈りが業務に影響しないかとも気をもんでいる。そのためときどき施設にインドネシア語の通訳に来てもらい、お互いの考えをちゃんと伝え問題を 解決していきたいという。
「すべてが手探りの状態ですが、2人が明るくいい子なので安心しました。職員たちと一緒に彼女たちの明るさを老人ホーム全体に広げていきたいと思っています」と、児玉さんは語った。
 ティタさんとヌリアさんは「岡本荘」の施設が立派できれいなのに驚いた。2人で暮らすアパートも新築だ。通勤は毎日車で送迎してくれる。最寄りの駅やスーパーマーケットは離れているが、自転車に乗る練習をして早く新しい生活に慣れたいという。
 そのあと2人を車に乗せ、30分ほど離れた坂出市の「きやま」に行った。そこも立派な施設だった。イマスさんとルスティさんに会った。
「山の中腹部にあるので少し寒いです。でも雪が降ることはめったにないと聞いています。職場やアパートはとても温かく快適です」と、イマスさんは日本語で話した。
 「これまで日本で一番大変だったことはなんですか」という私の質問に、「初めての日本で困ったこともありましたが、慣れたら問題もなくなりました。日本人はとても親切です。でも日本語が難しく、これから仕事で通じるのか心配です」と、ルスティさんは答えた。
  4人のように正月休みにこれから働く職場を見学できなかった研修生も多かった。九州や山陰地方のように大阪から離れていては仕方がないことだ。4人は、 「香川県に行けてラッキーだった」と言った。2月から少なくとも3年間暮らすことになる地方の職場で、彼らの活躍に期待したい。



オエクシ紀行――もうひとつの東ティモール──2008.10.9   第22回

@ジャカルタからケファへ
 まわりをインドネシアに囲まれた東ティモールの飛び地オエクシ。日本の佐渡島ほどの面積の辺境の土地だが、6年前東ティモールの県の1つとして独立した。もともとインドネシアとの結びつきが強かったので、国境ができたことで孤立していないか気になるところだ。これまで私はオエクシに3度訪れている(拙著『インドネシア全二十七州の旅』『インドネシアの紛争地を行く』めこん。参照)。9月末、10年ぶりに再訪した。
 ジャカルタから西ティモール(インドネシア領)のクパン行きの飛行機に乗った。スラバヤを経由し、バリ、ロンボク、スンバワ、スンバと東に向かうに連れ、眼下には赤茶色の乾燥した大地が広がる。ジャカルタを飛び立って4時間、クパンの空港に着いた。日差しが強く、空気は乾いている。
バスターミナルに行き、ケファ行きのバスに乗った。ケファはオエクシに行くときに拠点になる町だ。200キロを5時間かけて走るが料金は4万ルピア(約500円)と安い。しかし出発は客が集まるまで1時間以上待たされた。インドネシアではよくあることだ。途中、山道でタイヤがパンクした。これもインドネシアでは時々あることだ。
停車中には物売りが乗ってくる。茹でたトウモロコシを1本1000ルピアで買った。こんなに安くていいのだろうか。山間部を走っていると屋根を椰子の葉で葺いた民家が目立ってくる。抜けるような青い空とともに、都会では見られない風景だ。
ケファは1999年8月の東ティモール独立の是非を問う住民投票前後の騒乱時、独立に反対する勢力の拠点になった町だった。当時はインドネシア国軍や警察に支援された民兵が、独立を支持する住民に暴力をふるうなど治安が悪化した。しかしあれから10年経った今、嫌な雰囲気は感じられない。バスは日没後ケファに着いた。住民はホテルや食堂を親切に教えてくれた。翌朝市場を歩いても、地元民とジャワやスラウェシなどからの移民が混じり合いのんびりムードが漂っていた。
 市場で話を聞いた。
「東ティモールからの避難民があふれていた頃と違い、ケファは静かな町に戻りました。東ティモールのオエクシも落ち着きが戻ったようです。ケファからの交通も便利です。あなたも簡単にオエクシに行けますよ。ホテルもたくさんあります。でも私は独立後、オエクシに行っていません。パスポートを持っていないですから」
私は彼に質問した。
「パスポートがあればオエクシに行きますか」
「退屈で何もないオエクシにあまり行きたいと思わないですね」と、彼は答えた。

Aケファからトノへ
 ケファの市場からオエクシ国境ナパン行きのアンコット(小型乗り合いバス)に乗った。乗客3人だけで出発した。インドネシアではふつう田舎に行くほど小さなアンコットに客が詰め込まれる。しかし途中の村で他の客は降り、料金は7000ルピア(約80円)なのに貸し切り状態となった。写真を撮りたいと言えば停まって待ってくれた。
山道を30分走りナパンに着いたら、車体に「UN」と書かれた車が停まっていた。車に乗っていた国境警備のマレーシア人の警官と運転手は、インドネシア国軍の兵士と暇そうに話をしていた。そこで私はパスポートを見せ、その先の警察に寄り、イミグレーションで出国スタンプを押された。ひとり淋しく歩いてインドネシアを出国した。
昼の11時過ぎだというのに、その日国境を越えたのは私が初めてだという。ノートを見せてもらったが、ここを通ってオエクシに入った人は前日は7人、その前は5人しかいない。オエクシから来てインドネシアに入国した人もいつも10人前後だ。インドネシア人と東ティモール人以外の外国人は1ヵ月前でないといない。人や荷物を乗せ何台もの車が行き来していたインドネシア統治時代と違い、国境ができてからほとんど往来がなくなっているようだ。
そこから5分ほどまた1人で歩き、東ティモールの国旗がはためくイミグレーションに着いた。そこには係官が2人しかいなかった。東ティモールが独立して以来、西ティモールとは時差ができた。壁時計の針は少しずれていたが、1時間進んでいた。パスポートにビザのスタンプを押された。1ヵ月滞在可能で30ドル。自国通貨がまだない東ティモールでは、支払いは米ドルだ。時間を持て余しているような係官は、入国カードも記入してくれた。
 ここからオエクシにはアンコットで行けると係官は言っていた。しかしアンコットどころかオジェック(バイクタクシー)もない。売店すらもない。ケファの市場で聞いた「オエクシには簡単に行けます」という情報は間違いだった。
10年前の騒乱時、オエクシの住民は何時間もかけて西ティモールに歩いて避難した。それに比べればずっとましだ。ここ待っていても何も起こりそうな気はしない。私はまた1人で歩き始めた。
 10分ほど歩いた所に集落があり、オートバイが1台停まっていた。遊んでいた子どもが、昼寝をしていた持ち主を呼んできてくれた。アンコットが走っているトノまで2ドル50セントで乗せてくれるという。走り出すと風を浴び気持ちがよかった。景色も素晴らしい。
このあたりも椰子の葉で葺いた屋根が目立つ。トタン屋根は値上りしたので、ここ数年椰子の葉の屋根が増えているという。衛星放送を受信する大きなパラボラアンテナがそんな昔風の家の脇に立っていたりして面白い。民家の軒先で伝統のイカット(絣織物)を織っている女性や豚がウロウロしている集落は見かけるが、いくら走ってもバイク1台すれ違わない。数ヵ月間雨が降っていないらしく、カラカラに乾いた土地や干上がった大河など自然の厳しい景色が続く。
50分ほどでトノに着いた。インドネシア統治時代いつも賑わっていた市場は閑散としていた。しかし老人から子どもまで、明るい笑顔に満ちていた。野菜や煙草やシリ(噛み煙草)のような地元で採れる産品の他はインドネシア製品が並んでいる。1米ドル=1万ルピアという換算なら、ルピアでも受け取るという。ここでは首都ディリのテトゥン語と違い、ケファなど西ティモール東部と同じダワン語が使われている。私との会話はインドネシア語だ。

Bトノからオエクシへ
 トノでオートバイからアンコットに乗り換え、オエクシに向かった。途中、10年前の騒乱で破壊された民家の残骸がたくさん見えた。  なぜインドネシアに囲まれた飛び地オエクシがあるのか。 ポルトガル人が布教のため、最初に東ティモールに訪れたのがオエクシだった。真っ青な海と砂浜の美しいオエクシ海岸に、「1585年8月18日ポルトガル人がこの浜に上陸した」と書かれた碑が建っている。首都ディリや他のどこよりもカトリックが早く伝わったことをオエクシの人は誇りに思っている。ポルトガル植民地政府も、東ティモール発祥オエクシを飛び地になっても手放さなかった。
 1970年代半ばインドネシアが東ティモールに侵攻しディリなどが騒乱状態になったとき、数万人の避難民が平穏なオエクシに逃れてきた。その後、インドネシア統治時代もオエクシの平和は続いた。
 私が2度目に訪れた1998年6月は、インドネシアでスハルト政権が崩壊した直後だった。東ティモールに独立気運が高まり、ディリでは連日独立支持者のデモが繰り広げられていた。しかしオエクシは静かだった。ちょうどフランスでサッカーワールドカップが開催されていた。毎晩宿のテレビに集まってくる人たちは、「スハルト退陣」や「東ティモール独立」よりもワールドカップの熱戦に盛り上がっていた。
 そんな平穏なオエクシも1999年8月30日の東ティモール独立の是非を問う住民投票前後の騒乱で100人近い死者が出た。インドネシアに依存していた土地なので、国軍や警察に支援された独立に反対する民兵組織が投票の妨害を繰り返した。「独立」という投票結果が発表されてからは、「独立したいならゼロからやり直せ。インドネシア時代のものはすべて破壊する。」と主張し、放火・略奪・破壊行為で壊滅的な打撃を受けた。ディリから離れた飛び地であるため情報が遅れ、国連が派遣した多国籍軍の展開が1ヵ月も遅れた。そのことも死者が増え、破壊が拡がった要因だ。
騒乱から10年、多くのNGOや国連機関などがオエクシの復興支援や新しい国造りに関わった。短期だが日本の自衛隊も駐留した。そのためオエクシ中心部の民家などは再建された。教会や病院などポルトガル時代の建物も残っている。
県全体で人口は5万8000人というが、人通りも少なく、真っ青な海から打ち寄せる波の音以外は何も聞こえてこないくらい町は静かだ。メインストリートといえどもほとんど車が通らない。たまに見かけるのは客や荷物を満載させたアンコットと猛スピードで走り抜ける国連の車くらいだ。
オエクシは地元のダワン語で「水で発展した地」という意味だそうだ。乾ききった他の土地と違い美しい水田があり稲も育っている。住民には優しい笑顔が戻っていた。すれ違うときには、「ボンタルデ(こんにちは)」と挨拶が交わされる。オエクシは何度訪れても都会とは対極の素朴な魅力がある。
私の常宿だった「アネカジャヤ」も民兵に放火され全焼した。家族はケファに避難し無事だったが、ワールドカップを一緒に見たオーナーのラオさんは7年前に病気で亡くなった。再建された宿は名前を「ホテルラオ」に変え、国連の警官が長期で泊まっていた。
「昔のように平和で安全なオエクシに戻りました。でもパスポートやビザが必要になり、インドネシアから来る人はいなくなりました。自由に行き来できた前の方が良かったかな。知り合いもディリやインドネシアに移り、会えなくなったので淋しくなりました」と、ラオさんの娘さんは話してくれた。
 オエクシ滞在中、独立してよかったという声はよく聞いた。しかしインドネシアにいる友人と連絡が途絶えたという声も多かった。国境などというものを意識せずに暮らしてきた人にとって残念なことだろう。

Cオエクシからディリへ
 インドネシア統治時代、オエクシから東ティモール州の州都ディリまで直通バスが走っていた。私も何度か乗ったことがあるが、西ティモールを通り再び東ティモールに入る。州境で数回検問があったが、5〜6時間で結ばれていた。
 しかし東西ティモールに国境ができた今、バスは走っていない。西ティモールを通過するだけでもパスポートやビザが必要になったことが廃止の大きな原因だ。その代わり客船が週2回往復するようになった。片道10時間かかるが、インドネシアに寄らないのでパスポートやビザがない人でも乗ることができる。私もこの船でディリに行くことにした。
18時発というが、小さな港には昼過ぎから多くの人が集まっていた。それを目当てに物売りも集まってきた。船には食堂がないというのに弁当のようなものは売っていない。港に食堂があるわけでもない。私はバナナ1房を買って船に乗ることにした。港に接岸すると人間だけでなく、牛も豚もヤギも鶏も船に積まれた。運賃はエコノミーが4ドル、2等が14ドル、1等が20ドル。動物は別に料金がかかる。
船は「NAKROMA」という名で、煙突には東ティモール国旗がデザインされている。2007年製造の中国製で、定員は300人と書かれている。船底は動物園のようだが、船が新しいため客室は冷房が効ききれいだった。寝室はなくすべて椅子席なので、2等と1等の差はあまりない。1等は1部屋に椅子が20あり、トイレが付いていた。NGOで働く外国人の客も乗っていた。
エコノミークラスの客は床にゴザを敷き、持ち込みのご飯やおかずを食べていた。私も呼ばれ御馳走になった。バナナを夕食代わりにするというのは貧しい発想だった。デザートとしてみんなで食べた。
船の出港は、19時半だった。オエクシの町も暗く、あたりは真っ暗だ。空気が澄んでいるので、星空がきれいだった。しかしずっと星を眺めているのは私だけだった。ほとんどの人は20時には寝てしまった。
 日の出前、ディリの港に着いた。みんなあっという間に下船して行った。早朝は涼しく気持ちがいいので、港からぶらぶら歩くことにした。鶏の鳴き声、野菜を売り歩く物売りの声が聞こえてくる。散歩やジョギングする人も見かけた。  前回訪れた2年前は、東東ティモール人と西東ティモールヒトという訳のわからない線引きができ、衝突が続いていた。そのため多数の外国人がディリから退去していった。そんなやばそうな気配はもう感じられなかった。今年になって山間部に潜伏していた反政府元兵士が投降したからだという。
競技場で地域対抗のサッカーの試合があった。集まった多くの観客も試合を楽しんでいた。市場や商店では物価が高騰していた。しかし東ティモール人もインドネシア人や中国系やインド系などの外国人も混じり合っていた。15年以上前から何度も訪れているディリだが、今回はとても穏やかな雰囲気が漂っていた。
ディリからは12時間かけ、西ティモールのクパン行きの小型バスに乗った。料金は20ドル。クパンでスラバヤやジャカルタ行きの飛行機に乗り換えれば、合計100ドルほどでジャワ島に戻れる。
ディリからバリ島に飛んでいるメルパティ航空は片道250ドルもする。道中の治安もよく、国境通過も楽になったので、一般の人にとって飛行機よりもこのバスの方が人気は高い。4台のバスはみな満席だった。レバラン前の帰省をするインドネシア人、インドネシアの親戚を訪ねる東ティモール人、バスの中の雰囲気もよかった。平和が何よりだと実感した。

介護士の卵はバソ屋の息子──2008.8.21   第21回

「大阪に着きました。道路はどこも素晴らしく、どの車もきれいです。私の国とはとても差があります」  介護福祉士の卵として日本に旅立ったディディ君からメールが届いた。  私がディディ君と知り合ったのは7月24日、日本での受け入れ先の施設が決まり、労働契約書に署名するため彼がジャカルタの労働派遣保護庁に来ていたときだった。23歳にしては落ち着いていた。体格が良く、あご鬚を生やしていた。日本ではイスラム過激派に間違えられるのでは、というのが私の第一印象だった。  彼は西ジャワ州チレボン近郊のクニガンで育った。地元の看護学校に通っていた頃知り合った女性と2年前に結婚した。そして2ヵ月前に女の子が生まれた。その直後、日本でインドネシア人の看護師や介護士を募集していることを学校で聞いた。家族と相談し応募を決意し、6月末ジャカルタで面接を受けた。看護師の資格は持っているが勤務経験がないので、今回は介護士を目指す。インドネシアよりずっと給料の高い日本でお金を稼ぎ、8人の家族に仕送りする。そして故郷に家を建てるのが夢だと言う。 「君の家まで行って奥さんやご両親に話を聞きたいのですがいいですか」と私はディディ君に聞いた。 「もちろん歓迎します。母に料理を作ってもらい待っていますから、来る日が決まったら連絡下さい」と言う。 「話を聞きたいだけだから料理など用意しないでほしい」と私は断った。  ディディ君が卒業したクニガンの看護学校からは男女合わせて11名の卒業生が介護福祉士として日本に派遣される。7月29日、県知事や学校関係者らが学校に集まって壮行会が開かれるという。私はその日に合わせクニガンに行くことにした。  西ジャワ州のチレボンは中部ジャワ州の州境に近い。ジャワ海に面しているため中国からの交易船も寄航した歴史もあり、いろいろな文化が混じり合っている都市だ。多くの出稼ぎ者を送り出してきた地方でもある。シンボルともいえるチレマイ山に向かう途中にある高原町がクニガンだ。  壮行会に学生らは制服、父兄はバティックなどの正装で集まっていた。 「君たちは専門の技術を身に付けた。だから日本行きが決まった。県の誇りだ。大切なご子息を未知の国に送り出すご両親は不安でしょう。でもこれは国と国との協定なので心配いりません。インドネシアと日本の友好のためにも胸を張って送り出して欲しい」という県知事の激励の挨拶もあった。  会も終わりに近づき、インドネシア国歌や西ジャワの民謡が始まると、すすり泣きが聞こえてきた。ディディ君も目頭を押さえていた。一緒にジャカルタで日本人の面接を受けたのに、日本側が男性の介護士を嫌ったため合格できなかった男子生徒も涙を流していた。 ディディ君の家族は壮行会に来ていなかった。 「こんな会に来ると、別れが悲しくて日本に行くのをやめたくなるから」とディディ君は言った。  壮行会の後、町の中心部からかなり離れた農村にあるディディ君の実家に行った。家は二階建てで新しく立派だった。
「日本人がここまで来てくれたのは初めてです。よく来てくれました。ほんとうに食事を食べないで帰って行くのですか」とお母さんは私を迎えてくれた。
 ディディ君は1週間後に日本に向け出発し、半年間の日本語研修の後、来年から奈良県の介護施設で仕事を始める。しかし奈良県についても、仕事場についてもまったく知らないという。
「日本語もできないのに大丈夫ですか」と私はディディ君に質問した。
「不安がないことはありませんが、日本でも神様にお祈りするし、家族もみんな祈ってくれていますから大丈夫です。断食もしますよ」と明るく答えた。
日本にはモスクがあるのか、日本人はイスラム教に理解があるのか、ちょっと心配だと言う。あご髭を伸ばしているとアルカイダに間違えられるぞと友だちに言われたので、今朝3年振りに髭を剃ったそうだ。
お父さんはジャカルタでバソ(牛肉製のミートボール入りスープ)屋を営み、月に1度しかクニガンの家に帰ってこない。そんな暮らしを20年以上続けてきた。だからディディ君も家族と離れて暮らす覚悟はできている。介護の仕事は楽ではないだろうが、家族のために頑張るという。
「数年前までこの家にもお年寄りが暮らしていました。僕は父に代わって、そのお年寄りが亡くなるまで世話をしました。その経験を日本で生かしたいです。日本でもお年寄りを他人でなく家族の一員のように世話したいのです」と、ディディ君は抱負を述べた。
「長い間別れて暮らすのは淋しいけれど、夫はもっと大変です。私は子どもをちゃんと育てます。離れていてもメールで連絡を取るから大丈夫です」と、21歳のかわいい奥さんは言った。
それから3日後、ディディ君は故郷を後にした。ジャカルタ近郊で出発前の研修を5日間受けた後、日本に向けて旅立つ。空港にはお父さんが見送りに行くという。
8月6日ディディ君が出発する日の昼、私はジャカルタのメンテン地区のテレシア教会の前にあるお父さんのバソ屋に行った。自転車に大きな鍋を乗せただけ、椅子は5席だけの屋台だった。想像よりずっと小さな店だったが、ビジネスマンやOLらで賑わい、行列ができていた。1日に120杯も売れ、日曜日には教会のミサの帰りに食べる人で150杯以上売れるという。食べてみると肉にこしがあり、人気の屋台だということが頷けた。
お父さんは朝5時前から家で約1500個のバソを作り、自転車に乗せてメンテンに来る。7時から夕方まで営業する。客が多いと昼過ぎに売り切れることもある。そして店の片付けと掃除をして自転車で帰っていく。
そうやってお父さんは20年以上、土日も休まずバソを売ってきた。だからクニガンに大きな家を建てることができたのだろう。ディディ君も高校を卒業した後、この屋台で見習いとして1年間働いていたという。2人とも苦労人であることがわかった。
「今日はディディの見送りに行くから先に帰る」と手伝いの男性に言って、お父さんは自転車にまたがり帰っていった。
その夜、お父さんは空港に親戚の人と見送りに来た。出発の6時間も前に着いたそうだ。私はお父さんとディディ君との「涙の別れ」があると思っていたが、そうではなかった。お父さんは明日も早く起きて仕事をしなければいけないと言って、他の家族よりずっと早く帰っていった。お父さんの代わりに私が最後までディディ君を見送った。搭乗券と日本のビザが貼られたパスポートを手にし、ディディ君はとても嬉しそうだった。
 大阪の研修所に着いた翌日、ディディ君から私にメールが届いた。
「父に会って日本への国際電話の掛け方を教えて下さい。僕は元気です。来週から半年間日本語の授業が始まります。漢字はどうすれば覚えられるのでしょうか」
 私はディディ君にメールを返信した。そしてまたお父さんの美味しいバソを食べに行った。

 5月中旬にインドネシアと日本の間で締結された経済連携協定(EPA)に基づき、インドネシアから2年間で1000人の看護師や介護福祉士を受け入れることになった。日本政府による外国人労働者の本格的受け入れは医療・福祉部門では初めてだ。労働力不足が深刻な日本の医療や介護の現場で、インドネシア人が将来一翼を担うことになるのだろうか。
 インドネシアはこれまでも中東やアジア各国に、多くの看護師やヘルパーを送り出してきた。優しく温厚な性格がお年寄りや弱者に好評で、数は増加の一方だ。
 日本側は初年度の受け入れで500人を予定していた。しかし協定の締結が遅れ、告知期間が10日間と短く、一部の地域でしか募集ができなかった。インドネシアの労働移住省などからは、「事を急ぎすぎ」、「単純労働者を集めるのとは違う」などと不満の声も上がった。期限を過ぎても応募に応じたにもかかわらず、合格者は208人だった。直前になって日本側が男性の介護士を嫌ったこともある。
インドネシア人にとって、日本に行けば約十倍の給料がもらえる期待感は高い。しかし受け入れ先の情報不足、未知で難解な日本語や文化・習慣の違いなど大きな不安を抱えたままの旅立ちだ。到着後半年間日本語や文化などを学習し、来年2月から全国各地の医療や介護施設で3年〜4年助手として勤務する。その後日本の国家試験に合格しなければ帰国を迫られる。




 インドネシア便りNo.1〜No.10  インドネシア便りNo.11〜No.20   ●文・写真:小松邦康