| 高松で「マスエンダン」上映----2009.8.14 第29回 |
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2年前宮崎県の海岸で溺れていた女子中学生を助けようとし、命を落としたインドネシア人漁業研修生エンダン・アリピンさん(当時21歳)の足跡を追ったドキュメンタリー映画「マスエンダン」の上映会が、8月11日と12日香川県高松市で開かれた。
エンダンさんの命日に上映
事故当時バンドンで日本人学校の教師をしていて事故のことを「じゃかるた新聞」で知り、エンダンさんの故郷チレボンや宮崎県で取材・撮影した井上実由紀さんも高松市を訪れた。チレボンやバンドンなどで上映会を開きながらインドネシアを10日間旅行し、9日に帰国したばかりの井上さんにとって、暑さの厳しい高松での上映会は強行軍だった。
井上さんは四国に訪れたことも、四国での上映も初めてだった。映画の後、製作過程を説明し、観客からの質問に応じた。70名以上が鑑賞し、エンダンさんの母校の小学校の建設・修理費にあてる義援金は5万5000円も集まった。11日はちょうどエンダンさんの命日でもあった。
チレボンとの不思議な縁
「私は昔、客船の船長をしていました。宮崎県の海はかなり波が高いんです。あの海に飛び込むのは、かなりの勇気がいります」と、映画を見終わった合田功さんが感想を話した。
合田さんは昨年6月、チレボンを訪れたことがある。1988年まで四国と本州を結んでいた元JRの宇高連絡船がインドネシアに売却され、ジャワ島とスマトラ島の間などで航行している。瀬戸大橋開通20周年を記念して、チレボン港でドック入りしていた元連絡船「阿波丸」と再会するツアーが企画された。合田さんはそのツアーに高松から参加した阿波丸の元船長だった。「新聞で上映会の記事を読み、チレボンとの不思議な縁を感じて映画を見に来ました」と語った。
介護士の出身校もチレボン
12日の上映会は特別養護老人ホーム「香東園」で開いた。香東園にはティタさんとヌリアさんの2人のインドネシア人福祉介護士が勤務している。事故があった2年前、2人ともエンダンさんの故郷チレボンの看護学校に在学中だった。しかしエンダンさんの水死事故は大きく報道されなかったため、知らなかったという。四国各県の老人ホームでは、他にもチレボン看護学校の卒業生が10人以上働いている。
2人は日本に来てちょうど1年経った。私は、久しぶりに故郷の風景を映像で見てもらえるし、施設の利用者にも2人に縁のある地を知ってもらえると思い、上映会を企画した。上映当日も、2人には前の方に座りゆっくり映画を見てもらおうと思っていた。
しかし、2人は上映中お年寄りから目を離さず、「見えないからもっと前へやって」というお年寄りの車椅子を押して移動させ、「帰りたい」というお年寄りの手を引いて退席させたりしていた。55分の上映中、日本人の同僚より頻繁に席を立ち、お年寄りの世話をしていたのは2人のインドネシア人だった。
映画では、エンダンさんをよく知る宮崎県の日本人が「エンダンは優しい顔をしていたが、根性があった」と語り、エンダンさんの父は「息子には困った人がいたら、助けなければならないと教えていた」と語っていた。
私の目の前でお年寄りを助けるティタさんとヌリアさんの姿が、溺れていた女子中学生を助けたエンダンさんの姿と重なった。
| インドネシア最長の橋が開通----2009.7.31 第28回 |
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インドネシア第2の都市スラバヤとマドゥーラ島を結ぶスラマド大橋が6月に開通した。全長5438メートルはインドネシア最長で、東南アジアでもマレーシアのペナン大橋に次ぐ長さの橋だ。これまではスラバヤのタンジュンペラ港とマドゥーラ島のカマル港を結ぶ航路をフェリーが20分ほどで結んでいた。しかし車や乗客がいっぱいにならないと出航しないので、長く待たされることが多かった。入港する時も前の船が出航するまで海上で待たされた。それが橋の開通により海峡を車で約10分で渡れるようになった。料金もフェリー運賃の3分の1に下がり、オートバイは片道3000ルピア(約30円)と安い。そのため休日には橋を渡るために全国から多くのカップルや家族連れが集まり、料金所に長い列ができ渋滞するほど賑わっている。昨年の経済危機の影響をあまり受けず経済が好調なインドネシアを象徴する出来事とも言える。
フェリーで海峡を渡る
しかし私はフェリーに愛着がある。潮風を浴び、景色を眺めながらゆっくり海の上を進む船には何とも言えない解放感がある。またこの航路には、昔日本の瀬戸内海など使われた船が活躍している。本州四国連絡橋が開通したあと廃船になるのを免れて、インドネシアで「第二の人生」送っているフェリーだ。それがまたスラマドの大橋の開通で、時代の流れに翻弄され「第三の人生」を迎えてしまう運命なのだ。そんな船に乗りたくて、新しい橋を渡る前にこれまでのフェリーで海峡を渡ることにした。
スラバヤの街の各所からタンジュンペラ港行きのバスが出ている。終点の港でマドゥーラ島行きのフェリーに乗り換える乗客が多いためだ。ジュアンダ国際空港から出ているリムジンバスも、長距離バスターミナルや市内中心部を通りタンジュンペラ港まで行く。港のターミナルのすぐ前はフェリー乗り場だ。食堂や軽食の屋台も多く、バスを降りひと休みしている人も目立つ。
フェリーの運賃3700ルピア(約35円)を払って桟橋へ行くと、「第八きりくし 広島 江田島」と書かれた日本製のフェリーが停泊していた。しかし私は先に出航しそうな「POTTRE KONENG」というインドネシア製の船に乗った。ジャワ各地からマドゥーラ島に渡るバスや車やオートバイも積まれているが、甲板がいっぱいになる前に出航した。これまでいつ動き出すのかと長く待たされたことを思うと、予想外にスピーディーだった。
「スラマド大橋が開通し7割もフェリーの乗客が落ち込んだ。廃止にはならないが、いっぱいになるまで出航を待つわけにはいかない」と乗組員は説明してくれた。
タンジュンペラ港に入港して来るフェリーも客や車を満載していない。沖合には使われていないフェリーがたくさん浮かんでいる。しかしもう次の航路で使われるために売却されたフェリーも多いという。広い国土に無数の島があるインドネシアでは、「第三の人生」を案ずる必要もそれほどないのだろうか。
タンジュンペラ港にはスマトラやパプアに向け何日もかけ航行する大型客船も接岸している。海軍の戦艦も並んでいる。そして遠方にはスラマド大橋も見える。フェリーの船内ではインドネシアの麺ミバソや肉入りスープ、果物やジュースの売店が繁盛している。景色を眺めながらの飲食は格別だ。長距離バスの乗客やトラックの運転手も、手足を伸ばし海の上で気分転換している。
スラマド大橋を渡る
フェリーのマドゥーラ島のカマル港入港もスムースで、タンジュンペラから20分足らずの航海だった。下船し港を出て乗り合いバスのターミナルに行ったが、ほとんどが小型のオンボロバスだ。客引きもうるさい。スラバヤとの差を実感した。スラマド大橋を見に行くと言うと、10万ルピア(約1000円)などとふっかけてくる。歩いて橋まで行くと言ったら3000ルピアになった。乗り合いのミニバスは10分ほど走り、橋の料金所近くで停まったので降りて歩いて橋に近づいた。
近くで見るとスラマド大橋は驚くほど長い。中央の吊橋部分までも遥かに遠い。ひなびた漁村が点在するマドゥーラ島から見ると、海の上に延びている巨大な橋の行先はどこなのかと疑ってしまう。
海岸ではのんびり橋を眺めている人や写真を撮っている人がいるが、料金所周辺ではジュースなどを売る屋台が目立つ。マドゥーラ島に来たことよりも、橋を渡りに来た人がほとんどなので、すぐスラバヤに引き返す人たちがここで一服していくためだ。そんな人たちに話を聞いてみると、「オートバイで5時間かけて渡りに来た」、「一生の思い出になる」、「信じられないほど長い橋を造れるインドネシアを誇りに思う」などと興奮気味に話す人ばかりだ。
この橋は自動車やオートバイ専用なので、歩いて渡ることができない。乗り合いバスも走っていたが、私はオートバイの後部座席に乗せてもらい、橋を渡ることにした。視界が広がるからだ。幸いカリマンタン(ボルネオ島)から来た親戚を案内しているというスラバヤ在住の男性が乗せてくれることになった。弟が運転するもう1台のオートバイにはその親戚が乗っている。
「この橋が開通してひと月になるが、渡るのは3回目」と言うが、その先の話はエンジンの音でよく聞き取れなかった。
のろのろ運転で景色を見ながら渡るだけでなく、停車禁止の橋の上で警官の目を盗み車やオートバイから降り記念写真を撮るドライバーも目立つ。
橋を渡るのに10分ほどかかった。料金所での待ち時間や街の中心部から橋まで行く時間を考えるとフェリーより時間短縮になっているとはいえないが、海峡を安全で安く渡れるようになった意義は大きい。土地が痩せアクセスが良くなかったため産業の発展が遅れていたマドゥーラ島にもたらす変化も大きいだろう。
もともとこの橋は1960年台にジャワ島とスマトラ島やバリ島を結ぶ橋の1つとして発案され、80年代から日本との間で構想が練られた。90年代には本州四国連絡橋を完成させた日本の技術とODAで工事が始まるという期待もあったが、通貨危機や政情不安などで計画が中断した。その後中国が総工費の約45%を借款で賄うことになり、6年の歳月をかけ完成に至った。
インドネシアの商都と言われ華人の割合も多いスラバヤには周辺に工場も多い。数年後にはマドゥーラ島にも多くの工場ができるだろう。インフラや投資環境の整備を進め、広いインドネシアの地方を発展させることは、7月の選挙で再選が決まったユドヨノ大統領の大きな政治課題でもある。
その1つのシンボルが、このスラマド大橋なのだろう。
| 【番外篇】 カンボジア側から行く世界遺産プレアビヒア遺跡----2009.6.27 第27回 |
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2008年7月ユネスコの世界遺産に登録されたクメール寺院プレアビヒア遺跡は、アンコール遺跡よりも古い歴史があり、クメール民族の聖地とも言われる。しかし、遺跡周辺はカンボジアとタイとの国境地帯にあるため、最近では2008年10月と2009年4月に領有権をめぐり両軍が衝突し、死傷者の出る激しい銃撃戦も発生した。私は4月末カンボジアを旅した際、首都プノンペンからバスに乗り、そのプレアビヒア遺跡を目指した。カンボジア側からこの遺跡に入った日本人はあまり多くないらしい。
外国人の乗っていないバス
多くの観光客はタイ側から訪れるというし、ガイドブックにもタイ東北部の町シーサケートやウボンラーチャターニーなどからのアクセスが一般的などと記されている。しかしプノンペンのセントラルマーケット近くにあるGSTという長距離バス会社を訪ねてみると、1日1本毎朝8時にプレアビヒア行きのバスが出ていることがわかった。料金は3万5000リエル(約9ドル)、冷房付きの大型バスで、夕方5時ごろには着くという。
そのバスは韓国の「現代自動車」の中古だが、冷房がよく効いていた。ほとんどの座席が埋まっていたが、外国人の乗客は私だけだった。アンコール遺跡の拠点になるシェムリアップや海岸リゾートのあるシアヌークビル、ベトナムやタイに行く長距離バスには外国人旅行者が必ず乗っているのに、どうしたことだろう。
バスはメコン上流の町に向かう国道7号線と分かれ、6号線に入った。その先の町コンポントムの商店でバスに大量の缶ジュースが積み込まれた。バスは乗客だけでなく商品の運搬も兼ねているようだ。そのあとすぐアスファルトの舗装が途切れ、赤土の道路に入った。乾期で土が乾いているためスピードはそれほど落ちなかったが、砂埃を舞い上げて走り続けた。出発してから6時間ほどで食堂に寄り、昼食と休憩を取った。プノンペンでの支払いは米ドルが使われていたが、ここではみんなリエル払いだった。
快適に走っていたバスだがしばらくして冷房が効かなくなった。座席の窓を開けることができないため天窓から入ってくる風のみとなり、車内は蒸し風呂状態になった。しかし誰も文句を言わず暑さに耐えていた。
遺跡までまだ100キロ以上
プレアビヒアには夕方5時前に着いた。9時間足らずのバスでの移動だった。ここはプレアビヒア州の州都プレアビヒアで、タベン・ミエンチャイとも呼ばれる町だった。遺跡まではまだ100キロ以上もあることがわかった。バスを降りてから簡単に遺跡まで行けないことは出発前から覚悟していたが、予想以上の距離だった。そのうえ公共交通がなく、バイクタクシーで片道30ドル、3時間もかかるという。炎天下の埃だらけの未舗装の道を往復6時間もバイクで走らないといけない。体力が持つだろうか。
今出発してもすぐに日没になり、遺跡見学は翌日になる。ひとまず宿を探し、1泊することにした。小さな町なので歩いて宿を探そうとしたが、バイクタクシーの運転手は客である私から離れようとしない。仕方がないから安宿まで送ってもらうことにした。プノンミアス・ゲストハウスという1泊6ドルの宿までは、やはり歩いて行けるほど近かった。運転手は1000リエル(約25円)だけ受け取った。
夕食はゲストハウスの隣にある家族経営の食堂で食べた。そこでまた遺跡の行き方を質問した。料理を作っていた奥さんに乗り合いのタクシーで行けばよいと言われ、息子がすぐに携帯電話で運転手に聞いてくれた。
明日朝8時に出発するからそれまでにこの食堂に来てほしいと言われた。遺跡のふもとの村コモイまでタクシーで往復20ドル、そこからバイクで遺跡まで往復5ドルだという。料金が3分の1になったのも嬉しいが、バイクに往復6時間も乗らずにすむことがなにより助かる。治安はどうかと聞いたら、まったく問題ないという。
乗り合いタクシーで遺跡へ
宿でぐっすり寝て、翌朝は7時過ぎに朝食を食べに食堂に行った。カンボジア風焼き飯を注文したら、昼ご飯用に弁当を作ってあげましょうと奥さんに言われた。遺跡のふもとの村で何か食べられるだろうと思ったのでそれは断り、焼き飯とおいしいマンゴーをたくさん食べた。
8時になっても出発する気配はない。客が集まらないからもう少し待ってほしいと息子に言われた。夜までにここに帰ってこれればいいので、急いで出発することはない。早く出発するためには追加料金を払う必要があることは、インドネシアと同じだろう。
タクシーの運転手らが客集めをしているという空地に行ってみるとやはりそうだった。50ドル払えば今すぐ出発すると、運転手が言った。車は日本で走っていたトヨタカリーナで、なかなかきれいだった。そこに昨日のバイクの運転手が現れたが、乗り合いタクシーで行くことにしたと言って断った。
9時半過ぎに空き地を出発できた。私が助手席に3人が後ろに座った。そして床屋で散髪をしていたもう1人の客を迎えに行き、その人も後ろに座った。4人とも軍服を着てライフル銃を持っている。遺跡の近くで警備し、何かの用でこの町に来ていたようだ。赤土の道だが悪路ではないので、50〜60キロで飛ばせる。対向車は少ないがバイクとはときどきすれ違う。みんなマスクやスカーフで覆い、舞い上がる砂埃から口や鼻を覆っている。快適な車でよかったと実感した。水田も畑もない単調な平地の景色が2時間半ほど続いた。
バイクタクシーで急坂を登る
2人の兵士はコモイの手前の軍の駐屯地で降りていった。その他にもトラックや装甲車が数十台並んでいた。他にも森の中にたくさん駐屯地があった。
あとの2人は終点のコモイで私と一緒に降りた。10台くらいのバイクタクシーが私だけを囲んだ。運転手はみんな遺跡まで往復10米ドルと言うが、5米ドルしか払わないと答えるとすぐに5米ドルになった。遺跡は標高650メートルの山の上にあり、歩いて登ると大変なのだから、値段が下がらなければ仕方なく払ったのに、拍子抜けするくらい簡単に交渉は成立した。それも5米ドル稼げるのは1台だけだ。残りの運転手は客のあてがあるのだろうか。
コモイを出るとすぐに「2005年、日本の援助で地雷を撤去した」と書かれた看板があり、そのあとコンクリートで舗装された急な坂道になった。そこをさっきの2人の兵士が歩いて登っていた。坂道はどんどん傾斜が急になったので、ふつうの車なら走れないだろう。
遺跡までの道中、警備する兵士のテントをいくつも見た。さっきの兵士もこんなテントで野営するのだろうか。バイクの運転手は、あちらがタイだと言う。タイ領なのだろうが丘しか見えない。
雨に打たれた遺跡
10分ほどでプレアビヒア遺跡に着いた。バイクから降りたところが入口らしいが、入場料を払う所はない。本当に世界遺産をタダで見学していいのだろうか。確認できなかったが、タイ側から入ると払わなければいけないらしい。
長い石畳の参道を歩いている時、風が吹き空の色が変わり、雨が降ってきた。傘をさしてしばらく進んだが、急に雨足が強くなり、雨水が足元を川のように流れだしたので慌てて雨宿りした。そこにはテントを張りハンモックで寝ている兵士と参拝に来ていた少年僧らがいた。しばらくみんなで雨がやむのを待った。軍服を着た兵士と袈裟をまとった少年僧とがじゃれあい、写真を撮りあい、緊張感とは対極の平和な雰囲気が漂っていた。
しばらくして雨があがったので外に出た。それまでの暑さが去り、水分を含んだ石造りの遺跡や木々の緑が濃くなり、全体が生き返ったような感じがした。少年僧の袈裟のオレンジ色もよく映えた。
迫ってくるほどの大きな石の塊、遺跡に覆い重なる木の幹、石の壁面に彫られた数々の仏像や物語。手入れされていないことさえ魅力だ。花を添え手を合わすタイ人もいた。しかし遺跡のほとんどに銃弾が撃ち込まれた無数の穴があいている。ここが長い間内戦や国境紛争の戦場になり、多くの命が奪われたことを物語っている。
遺跡を抜け断崖の上に出ると、眼下にはカンボジアの緑の大地が広がった。崖下から見上げた人に、「天空に建てられた遺跡」と言われたのも頷ける。9世紀後半から建てられたと言われる遺跡だが、それから1000年以上ほとんどまわりの景色は変わっていないだろう。緑の森の中に伸びる赤茶色の筋はさっき走ってきた道だ。アスファルト舗装されたタイの道路とはまったく違う。
遺跡の回廊を入口の方に引き返した。鎌首を持ち上げたナーガ象の前にカラシニコフ銃を担いだカンボジアの兵士がいて、この穴は最近のタイ軍との交戦であいた銃痕だと説明してくれた。残念なことだが、これまで遺跡全体の無数の銃痕を見た後ではあまり驚かない。兵士はその先の急な石段を降りるとタイ領なので行くなと言う。タイ人の参拝者は降りていったが、私はやめた。
それにしても訪れる人の少ない世界遺産だ。遺跡には3時間ほど滞在したが、外国人観光客は1人も見かけなかった。10人くらいのタイ人の参拝者と少年僧と連れてきた大人を合わせて40人くらいのカンボジア人だけだった。警備をしている兵士の方が多かったが緊迫感はなかった。雨が降ってくるとどこかに消えていくような兵士だった。
プノンペンに戻る
遺跡を見物している間、バイクタクシーの運転手はずっと私を待っていてくれた。強い雨に降られただろうと彼は言った。気温が下がったので気持ちよく見ることができたと私は答えた。彼の肩につかまり急な坂道をバイクで下りた。テントから兵士が手を振った。
コモイでも乗り合いタクシーの運転手が待っていてくれた。誰も客がつかまらなかったから2人で帰ろうと言う。彼は食事のあと昼寝をしていたらしいが、私はすぐに車に乗った。来た道をまた砂埃を上げひたすら走った。途中アンコール遺跡のあるシエムレアップとの分岐点があった。6時間くらいかかるという。この道が舗装されると、どっと観光客が押し寄せるだろう。
プレアビヒアの町には日没前に着いた。ゲストハウスでシャワーを浴び、隣の食堂に報告がてらお礼に行った。みんなよかった、よかった、と喜んでくれた。昼ご飯を食べ損ねていたので、たくさん食べた。
翌朝8時前のバスに乗り、帰りは7時間半かけてプノンペンに戻った。
| アチェの津波被災地からマグロを輸出----2009.3.9 第26回 |
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インド洋巨大津波から4年経った。各地の被災現場では内外の復興支援団体の撤退が進んでいる。しかし、スマトラ島アチェ州サバンで、漁師に漁業技術を伝達することで被災した漁村を活性化したいという願いを込め、4人の日本人が腰を据えマグロ漁に取り組んでいる。
大津波で被災した漁村のために
インドネシア滞在が3年になる瀬尾幸夫(56)さんは、これまで北スマトラやバリ島から南洋マグロを輸出してきた。そして1年半前、アチェ州の州都バンダアチェの沖あいに浮かぶウェー島のサバンに拠点を移した。ウェー島はインドネシア最北西端にある島で、過去の資料からこの海域がマグロの豊かな漁場とわかったからだ。
瀬尾さんは高松市で魚屋を営んでいた。今から25年ほど前韓国で赤貝の冷凍技術を教えたのが海外進出のきっかけになった。そのあとフィリピンのミンダナオ島でマグロの輸出に関わったことで、魚屋を廃業し、タイやインドネシアから魚を輸出する仕事に転職した。苦労話は尽きないが、20年間いろいろな人にお世話になった。その恩返しに、日本の優れた漁業技術を向上心のある若い人たちに伝えたいという。
インド洋巨大津波の直後、世界中から募金が集まりアチェにも届けられた。そして、支援組織を通じ漁師に漁船が支給された。しかし漁業技術を教える者はいなかった。そのため地元で消費されるくらいの昔ながらの漁しかできず、漁師の生活は豊かにならない。ほとんどの人が津波で家族を失い、生活基盤を破壊されたため、漁業を捨て都市部に仕事を求め漁村から去っていく者も少なくなかった。
「天然の漁場があるのにこれではもったいない。最大の消費地の日本や今後成長が期待される中国でもマグロの需要は増えています。世界一といわれる日本の漁業技術を教えれば、被災した村も必ず活性化しマグロの輸出基地になるはずです」と、瀬尾さんは訴える。
マグロ獲りの名人
瀬尾さんは協力者として日本からマグロ獲りの名人を連れて来た。世界の海で50年以上マグロを獲ってきた内山幸男(73)さんだ。マグロ漁から引退し故郷の三重県尾鷲市の魚市場などで再就職していたが、海の上での仕事が忘れられなかった。そして3年前バリ島を母港とするマグロ船の指導員として海に戻ってきた。そこで瀬尾さんに誘われ、1年あまり前サバンにやって来た。小柄だが70代とは思えないほど体が引き締まり、真っ黒に日焼けしている。
「日本では私くらいの歳になると、けっこう年金をもらえるのです。でもここでインドネシア人の漁師を育てることに興味があります。日本で老後を過ごしているよりずっと面白いですよ。手に職を付けたいという若者はどんどん私の技を盗んで欲しいです」と、内山さんは力強く話す。
歌手になりたかった
2人の思いは、瀬尾さんの長男正剛(36)さんの気持ちも動かせた。子供のころから父と釣りをしたり、魚屋を手伝っていた正剛さんにとって、魚はいつも身近な存在だった。しかし父が家業を廃業してから東京で音楽活動をしていた。そしてバンド仲間の美由起さん(30)と知り合った。2人の共通の夢は歌手になることだった。
交際は8年続き、神戸で暮らしている時、正剛さんは美由起さんに父からインドネシアで一緒に仕事をしようと誘われていることを打ち明けた。父のように海外で仕事をし、マグロを輸出するという夢を実現したいとも伝えた。外国で暮らすことなど想像もしなかった美由起さんだが、結婚し仕事を手伝う道を選択した。
日本女性は1人だけ
2008年4月20日、2人は関西空港から出発する朝、神戸市役所に婚姻届けを出した。飛行機を3回乗り継ぎ、船に乗り換えサバンに到着し、新しい生活が始まった。日本人は4人しかいない。観光客もめったに来ない。女性は1人だけの未知の島だった。
美由起さんは経理や会計の仕事を任された。若い漁師たちに渡したお金と持ってきた領収書の金額が違うことがよくあるという。
「500ルピアや1000ルピアが合わないのです。日本円にすると10円以下ですが、数字が合うまで説明を求めます。細かいことを言う私はみんなに嫌われているだろうと思っていましたが、病気したとき大勢の人が集まり、とても親切にしてくれました。日本と違う優しさを感じ、とても嬉しかったです」と、明るく話した。
「こんな辺境の島に付いて来てくれ、大感謝です。日々家族で頑張れるのも美由起のおかげです」と、正剛さんも最大の信頼を寄せている。
アチェ産のマグロ
現在瀬尾幸夫さんの会社は、2隻の船でサバンから半径300キロくらいの沖に出て漁をする。2晩の航海で数十匹のマグロが獲れるという。アチェ近海で獲れる南洋マグロは、主に関西で好まれるキハダマグロと関東で好まれるメバチマグロだ。体長1メートル以上、150キロもの大物が獲れることもあるが、35キロ前後の方が味がいいという。
昨年後半からの世界的な不景気で、このところマグロの値段は下落している。しかし将来中国などでマグロの消費量が増え続け価格が上昇すれば、日本での価格が高騰しマグロ不足になるという。しかしアチェ産のマグロが安定供給されるようになると、そんな不安が解消されるかも知れない。
サバン滞在中、私は2晩連続でマグロの刺身をご馳走になった。
「こんな新鮮で美味しいマグロは、ジャカルタや日本では食べられないですよ」と、瀬尾さんは言った。
味も素晴らしいが、何枚もの大皿に盛られた量にも驚いた。一生分のマグロの刺身を食べたような気分だった。
「勝った」と思った
瀬尾さん一家はサバンで、津波支援団体が建てた復興住宅を安く借り暮らしている。住み心地は悪そうではないが、復興住宅に住む日本人に会ったのは初めてだ。一家は2月末、ジャカルタに出張した。初めてジャカルタを見た正剛さんと美由起さんは、サバンとはあまりにもかけ離れた都会の暮らしにめまいがしたという。
「ジャカルタが大都会なのでインドネシアのイメージが変わりました。あんなに高いビルがたくさん建っているとは思っていませんでした。アチェと同じ国とは思えません。外資系企業が集中し、投資も集まっているのでしょう。スマトラとは差が開くばかりのような気がします」と、美由起さんはジャカルタの印象を話してくれた。
一家はジャカルタ滞在中、イスラムの戒律が厳しいアチェでは食べることが難しい豚肉料理を毎日食べ、めったに飲めないビールを飲んだ。
現在サバンで獲れたマグロはタイのプーケットに船で30時間あまりかけ運び、冷凍し、コンテナに積め日本に空輸している。将来インドネシア産の「アチェマグロ」というブランドで、国際線も就航しているバンダアチェの空港からジャカルタや日本に直送したいというのが瀬尾さんたちの夢だ。
一家はジャカルタで日本料理店や日本食スーパーのマグロを見て回った。アチェのマグロとは鮮度や色がまったく違った。
「勝った」と思った。
しかし同時に、勝つまでには長い道のりがあることも実感した。レストランのオーナーはいいマグロであれば買いますと言ってくれた。しかしアチェにはまだマグロの解体業者がいない。新鮮なマグロをドライアイスを使って箱詰めし、空輸するインフラもない。現在の資金だけではまったく足りない。様々な大問題にたった4人の日本人で取り組んでいかなければならない。
日本大使とも面談
瀬尾さん一家はジャカルタで塩尻孝二郎日本大使にも面談した。それに先立ち大使は2月中旬アチェを訪問し、イルワンディ・ユスフ州知事と面談していた。その席で知事は、今後日本の民間企業が農業や水産業の面で投資しアチェに進出してほしいと要望し、大使もそれが津波からの復興に有益だと答えた。
大使は瀬尾さん一家こそがアチェの日本人のリーダーになってほしいと勇気づけた。アチェに骨を埋める覚悟で来ているという瀬尾さんは、日本人が4人しかいないサバンで役人や警官のカモになっている現状を訴えた。
「船を出港させる度に役人が、我々だけに船員1人当たり10万ルピアの“出航料”を払えというのです。水上警察が燃料を買ってほしいと市販より高い価格で売りに来るのです。そんな話はきりがありません」
「そういう役人や警官がいるのなら、私が州知事に書簡を送ります」と、大使は答えた。
「日本政府がバンダアチェに無償供与したばかりの4台の製氷機がうまく稼働していません。できた氷も質が劣り、我々が使えるものではありません」と、瀬尾さんは指摘した。
「すぐ日本側と先方に調査させ、改善させます」と、大使は答えた。
「日本で廃船になり解体されるマグロ船をアチェに持ってくれば、みんなとても喜ぶのですがどうでしょうか」と、息子の正剛さんは質問した。
「その問題も何とかしたいですね」と、大使は応じた。
予定の30分を大幅に超え、面談は1時間半以上に及んだ。瀬尾さん一家はジャカルタで会った人の中で、大使が一番親身に話を聞いていただき、とても大きな元気をもらいましたと喜んだ。
日本の技術で付加価値を
瀬尾さんはJICA(国際協力機構)にも足を運んだ。
「バンダアチェに公立の水産専門学校があります。そこで一人前の漁師を育てたいのです。日本から海の男として活躍し退職した元漁師を講師として招き、漁業技術を教えれば、優れた人材が育ちます。彼らが海に戻りリーダーになれば、巨大津波で破壊された漁村の再生にもなるはずです」と、訴えた。
「JICAが津波の復興事業から撤退することはありません。しかしこれからどんな支援をしていくか模索中です。企業活動に直接支援はできませんが、官と民間が連携できるとても参考になる話を伺えました」と、担当次長は答えた。
「JICAの事務所は津波の直後バンダアチェにありました。しかしかなり前に事務所を閉めたので、現場の問題がよくわかっていないでしょう。適切で素早い行動を起こすとは思えませんでした」と瀬尾さんは、面会後悔しそうに打ち明けた。
しかし巨大津波の直後からアチェに事務所を構え、これまで復興支援を地道に続けてきた組織は、瀬尾さんに協力を求めている。これからは民間の技術を導入し産品に付加価値を付け、活性化できるような支援活動をしたいという。
国連の機関IOM(国際移住機構)は、アチェに溢れている失業者を船乗りなど従業員として瀬尾さんに雇用してほしいと協力を要請している。
日本赤十字社も津波で養殖池を失った住民支援のため、マグロ獲りの餌になるミルクフィッシュ(サバヒイ)の養殖技術を伝達してほしいと瀬尾さんに申し出ている。
瀬尾さん一家の夢
「私には夢があるのです。働く気が感じられない役人ではなく、若いやる気のある人を育てたいのです。復興への道半ばで多くの支援団体がアチェから撤退していきます。それを見送るのはとても残念な気持ちです。私は水産業しか知らない男ですが、アチェの被災地で人生を賭ける値打ちがあると判断しました。私たちのビジネスと巨大津波からの復興のため、アチェから新しい風を起こしたいのです。」と語る瀬尾さんの思いは熱い。
日本の優れた技術が持続的な復興支援に生かされるよう願いたい。
瀬尾さん一家に興味のある方や支援をしていただける方は、メールで連絡を取って下さい。
seosabang@yahoo.co.jp
| ロヒンギャ族がアチェに来た----2009.3.3 第25回 |
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ミャンマーとバングラデシュの国境近くに暮らす少数民族ロヒンギャが、インドネシアの北西端の町サバンに漂着してもうすぐ2ヵ月になる。現在はインドネシア海軍の敷地内のテントで暮らし、食事も支給されているが、これからの運命は分からない。
現地の報道などによると、昨年末数千人のロヒンギャ族が、数隻の小舟でマレーシアを目指したが、タイの海軍に捕まり暴行を加えられた。そして海上に放置され、空腹のまま嵐にもまれ漂流した。そのうち1隻が1月7日アチェ州のウェー島沖でマグロ漁をしていた漁師に発見された後、インドネシア海軍に保護された。アチェ州の他の土地などインドネシアに漂着したのは数百人ほどで、1000人以上の行方が分からないままだ。
タイやインドネシア政府は、漂着したロヒンギャ族はミャンマー政府の迫害を恐れ国を後にした難民ではなく、タイやマレーシアなどに仕事を求めてやって来る「経済難民」との見方を示している。3月1日までタイで開かれていたアセアン首脳会議でもロヒンギャ族の扱いについて協議されたが、結論は先送りにされた。
彼らの世話をしているインドネシア赤十字や国際移住機関(IOM)によると、現在サバンの海軍施設にいるのは12歳から55歳まで193名で、全員男性だという。1日3度の食事、体操、ジョギング、サッカー、バドミントンなどをみんなでするが、1日のほとんどは日光浴やギターを弾いて過ごしている。彼らはイスラム教徒なので、礼拝はインドネシア人と一緒にする。
インドネシア政府は外部者との面談や写真撮影は禁止しているが、サバンの海軍は私に柵越しの写真撮影を許してくれた。
私が訪れた9時過ぎは、朝食の時間だった。おかずより白いご飯が多い食事だが、健康状態が悪そうな人はいなかった。薬はインドネシア赤十字から、食糧や飲料水、衣類やたばこなどもIOMなどから支給されている。
私が声を掛けたロヒンギャ族はバングラデシュ出身者が多かった。愛想は良く何か話したそうだったが、インドネシア語が通じないので会話はできなかった。
赤十字の人の話では、「ミャンマーに送還されると殺されるので、それだけはやめて欲しい」と訴えているという。
| 津波から4年経ったアチェの西海岸を走る---2009.3.2 第24回 |
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ガタガタ道の連続
4年前に巨大津波を起こした地震の震源に近いアチェの西海岸の幹線道路は、ガタガタ道の連続だった。立派な官庁や高級住宅などの建設ラッシュが続く州都バンダアチェから車で30分も走ると、アスファルト舗装の道路が途切れ、埃だらけの悪路になる。津波の起きる前、バンダアチェから100キロほど離れたチャランまで約2時間で行けた。それが今回は6時間もかかった。
途中、車を艀に乗せ川を渡った。砂利道でタイヤがパンクした。橋はいつ架かるのか、まともな道はいつできるのか。復興の遅れに愕然とする。
アチェ・ニアス復興支援庁(BRR)は、「95パーセントの仕事を終えた。インフラ再建の目標はほぼ達成した」などと地元紙「スランビ」に語り、3月末にアチェから撤退する。しかしこれまでどんな仕事をしてきたのか。世界中から集まった50億ドル以上と言われる募金や復興資金はどこに使われたのか。車に揺られながら不信感が湧いてきた。
驚くことは村と村を結んでいる既存の道路を修復せずに、山を削り片側2車線以上ある直線道路を新たに建設していることだ。工事現場には資金を出している「USエイド」と書かれた看板が目に付くが、アメリカのような高速道路は今のアチェにはいらない。こんな無駄使いをする前に、これまでの道路を早く舗装して欲しい。
私がこの幹線道路を走るのは約1年ぶりだが、当時とほとんど変わっていない。それどころか漁村が減り、空の復興住宅が目立つ。住民は交通の不便な村からバンダアチェなどの町に移っていったという。しかし失業率が20パーセント以上と言われるアチェで、彼らが新たな仕事に就いているかも疑問だ。
道路ができて煙害拡がる
チャラン−ムラボ間の100キロあまりの道路建設は日本が担当した。1年以上前に舗装道路が開通し、100キロ以上のスピードで飛ばせる。しかし便利になったことで新たな問題が浮上している。
パームオイルが採れるアブラヤシ(クラパサウィット)の農園開発が進んでいる。そのため熱帯雨林に火が放たれ、いたるところからオレンジ色の炎や白い煙が上がっている。煙に近づくと異臭がし、目が痛くなる。
「いい道ができ、とても便利になったが、山火事が増えた。煙で視界が妨げられるので運転も注意しなければ」と、運転手はぼやいた。
風向きによっては50キロほど離れたムラボの町まで煙が及び、住民の健康被害も出ていると地元紙には書かれていた。環境や健康にやさしいと言われマーガリンや洗剤などの原料になるパームオイルブームで、インドネシアは昨年首位のマレーシアを抜き生産量が世界1になった。
しかし生産地に近い住民の健康を侵している。ムラボ周辺の農園開発はマレーシア系企業の資本で進められているが、それを許可したBRRやアチェ州政府などの責任も重大だ。
| 日本の正月を体験したインドネシアからの介護福祉士 第23回 |
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昨年8月初め、看護師や介護福祉の卵として日本へ旅立った200人あまりのインドネシア人が半年間の研修を終え、青森県から鹿児島県まで全国各地の病院や介護施設に散らばり仕事を始める。香川県の福祉施設に赴任する4人の介護福祉士の研修生に会って話を聞いた。
4人の研修生は勤務する施設の招きで、昨年末から正月にかけ初めて香川県を訪れた。滞在中、餅つきや初詣などを通して日本の正月の雰囲気を味わった。施設で仕事の説明を受け、老人たちとの交流を重ね、住居となるアパートでの自炊生活も体験した。
4人は県内2ヵ所の特別養護老人ホームに分かれて勤務することになる。高松市の「岡本荘」で働くのは、ティタさん(22)とヌリアさん(27)、坂出市の 「きやま」で働くのはイマスさん(22)とルスティさん(22)。4人とも西ジャワ州チレボンの看護学校の卒業生だ。昨年8月の来日以来、大阪にある国際 交流基金の研修施設で日本語や日本文化などを学んできた。ほとんど日本語が話せなかったが、簡単な読み書きができ、仕事で使う用語も覚えたという。
「最初はホームシックになりましたが、50人ものインドネシア人の仲間と共同生活だったので心強かったです。9月の断食月もみんなで断食ができました。今までずっとジルバッブも付けています」とヌリヤさんは落ち着いて話した。
「日本に来て8キロ太りました。日本食は何でもおいしく、とても口に合います。お菓子も大好きです。日本で痩せた人は1人もいません。16キロも太った人もいます」と、ティタさんは明るく話した。
香川県は「さぬきうどん」が有名だ。早速、施設の人にセルフサービスのうどん屋に連れて行ってもらった。自分で麺を温め、好きな具を選んで入れるシステムに驚いたという。
「大阪ではうどんが800円しました。それが高松では200円くらいです。感激しました。毎日おいしいうどんが食べられます」と、ティタさんは嬉しそうだった。
「岡本荘」の園長児玉直久さんは、2人の食事についてとても気にしている。イスラム教徒と一緒に仕事をするのは初めてで、豚肉は絶対食べないと聞いているからだ。断食やお祈りが業務に影響しないかとも気をもんでいる。そのためときどき施設にインドネシア語の通訳に来てもらい、お互いの考えをちゃんと伝え問題を 解決していきたいという。
「すべてが手探りの状態ですが、2人が明るくいい子なので安心しました。職員たちと一緒に彼女たちの明るさを老人ホーム全体に広げていきたいと思っています」と、児玉さんは語った。
ティタさんとヌリアさんは「岡本荘」の施設が立派できれいなのに驚いた。2人で暮らすアパートも新築だ。通勤は毎日車で送迎してくれる。最寄りの駅やスーパーマーケットは離れているが、自転車に乗る練習をして早く新しい生活に慣れたいという。
そのあと2人を車に乗せ、30分ほど離れた坂出市の「きやま」に行った。そこも立派な施設だった。イマスさんとルスティさんに会った。
「山の中腹部にあるので少し寒いです。でも雪が降ることはめったにないと聞いています。職場やアパートはとても温かく快適です」と、イマスさんは日本語で話した。
「これまで日本で一番大変だったことはなんですか」という私の質問に、「初めての日本で困ったこともありましたが、慣れたら問題もなくなりました。日本人はとても親切です。でも日本語が難しく、これから仕事で通じるのか心配です」と、ルスティさんは答えた。
4人のように正月休みにこれから働く職場を見学できなかった研修生も多かった。九州や山陰地方のように大阪から離れていては仕方がないことだ。4人は、 「香川県に行けてラッキーだった」と言った。2月から少なくとも3年間暮らすことになる地方の職場で、彼らの活躍に期待したい。
| オエクシ紀行――もうひとつの東ティモール──2008.10.9 第22回 |
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@ジャカルタからケファへ
まわりをインドネシアに囲まれた東ティモールの飛び地オエクシ。日本の佐渡島ほどの面積の辺境の土地だが、6年前東ティモールの県の1つとして独立した。もともとインドネシアとの結びつきが強かったので、国境ができたことで孤立していないか気になるところだ。これまで私はオエクシに3度訪れている(拙著『インドネシア全二十七州の旅』『インドネシアの紛争地を行く』めこん。参照)。9月末、10年ぶりに再訪した。
ジャカルタから西ティモール(インドネシア領)のクパン行きの飛行機に乗った。スラバヤを経由し、バリ、ロンボク、スンバワ、スンバと東に向かうに連れ、眼下には赤茶色の乾燥した大地が広がる。ジャカルタを飛び立って4時間、クパンの空港に着いた。日差しが強く、空気は乾いている。
バスターミナルに行き、ケファ行きのバスに乗った。ケファはオエクシに行くときに拠点になる町だ。200キロを5時間かけて走るが料金は4万ルピア(約500円)と安い。しかし出発は客が集まるまで1時間以上待たされた。インドネシアではよくあることだ。途中、山道でタイヤがパンクした。これもインドネシアでは時々あることだ。
停車中には物売りが乗ってくる。茹でたトウモロコシを1本1000ルピアで買った。こんなに安くていいのだろうか。山間部を走っていると屋根を椰子の葉で葺いた民家が目立ってくる。抜けるような青い空とともに、都会では見られない風景だ。
ケファは1999年8月の東ティモール独立の是非を問う住民投票前後の騒乱時、独立に反対する勢力の拠点になった町だった。当時はインドネシア国軍や警察に支援された民兵が、独立を支持する住民に暴力をふるうなど治安が悪化した。しかしあれから10年経った今、嫌な雰囲気は感じられない。バスは日没後ケファに着いた。住民はホテルや食堂を親切に教えてくれた。翌朝市場を歩いても、地元民とジャワやスラウェシなどからの移民が混じり合いのんびりムードが漂っていた。
市場で話を聞いた。
「東ティモールからの避難民があふれていた頃と違い、ケファは静かな町に戻りました。東ティモールのオエクシも落ち着きが戻ったようです。ケファからの交通も便利です。あなたも簡単にオエクシに行けますよ。ホテルもたくさんあります。でも私は独立後、オエクシに行っていません。パスポートを持っていないですから」
私は彼に質問した。
「パスポートがあればオエクシに行きますか」
「退屈で何もないオエクシにあまり行きたいと思わないですね」と、彼は答えた。
Aケファからトノへ
ケファの市場からオエクシ国境ナパン行きのアンコット(小型乗り合いバス)に乗った。乗客3人だけで出発した。インドネシアではふつう田舎に行くほど小さなアンコットに客が詰め込まれる。しかし途中の村で他の客は降り、料金は7000ルピア(約80円)なのに貸し切り状態となった。写真を撮りたいと言えば停まって待ってくれた。
山道を30分走りナパンに着いたら、車体に「UN」と書かれた車が停まっていた。車に乗っていた国境警備のマレーシア人の警官と運転手は、インドネシア国軍の兵士と暇そうに話をしていた。そこで私はパスポートを見せ、その先の警察に寄り、イミグレーションで出国スタンプを押された。ひとり淋しく歩いてインドネシアを出国した。
昼の11時過ぎだというのに、その日国境を越えたのは私が初めてだという。ノートを見せてもらったが、ここを通ってオエクシに入った人は前日は7人、その前は5人しかいない。オエクシから来てインドネシアに入国した人もいつも10人前後だ。インドネシア人と東ティモール人以外の外国人は1ヵ月前でないといない。人や荷物を乗せ何台もの車が行き来していたインドネシア統治時代と違い、国境ができてからほとんど往来がなくなっているようだ。
そこから5分ほどまた1人で歩き、東ティモールの国旗がはためくイミグレーションに着いた。そこには係官が2人しかいなかった。東ティモールが独立して以来、西ティモールとは時差ができた。壁時計の針は少しずれていたが、1時間進んでいた。パスポートにビザのスタンプを押された。1ヵ月滞在可能で30ドル。自国通貨がまだない東ティモールでは、支払いは米ドルだ。時間を持て余しているような係官は、入国カードも記入してくれた。
ここからオエクシにはアンコットで行けると係官は言っていた。しかしアンコットどころかオジェック(バイクタクシー)もない。売店すらもない。ケファの市場で聞いた「オエクシには簡単に行けます」という情報は間違いだった。
10年前の騒乱時、オエクシの住民は何時間もかけて西ティモールに歩いて避難した。それに比べればずっとましだ。ここ待っていても何も起こりそうな気はしない。私はまた1人で歩き始めた。
10分ほど歩いた所に集落があり、オートバイが1台停まっていた。遊んでいた子どもが、昼寝をしていた持ち主を呼んできてくれた。アンコットが走っているトノまで2ドル50セントで乗せてくれるという。走り出すと風を浴び気持ちがよかった。景色も素晴らしい。
このあたりも椰子の葉で葺いた屋根が目立つ。トタン屋根は値上りしたので、ここ数年椰子の葉の屋根が増えているという。衛星放送を受信する大きなパラボラアンテナがそんな昔風の家の脇に立っていたりして面白い。民家の軒先で伝統のイカット(絣織物)を織っている女性や豚がウロウロしている集落は見かけるが、いくら走ってもバイク1台すれ違わない。数ヵ月間雨が降っていないらしく、カラカラに乾いた土地や干上がった大河など自然の厳しい景色が続く。
50分ほどでトノに着いた。インドネシア統治時代いつも賑わっていた市場は閑散としていた。しかし老人から子どもまで、明るい笑顔に満ちていた。野菜や煙草やシリ(噛み煙草)のような地元で採れる産品の他はインドネシア製品が並んでいる。1米ドル=1万ルピアという換算なら、ルピアでも受け取るという。ここでは首都ディリのテトゥン語と違い、ケファなど西ティモール東部と同じダワン語が使われている。私との会話はインドネシア語だ。
Bトノからオエクシへ
トノでオートバイからアンコットに乗り換え、オエクシに向かった。途中、10年前の騒乱で破壊された民家の残骸がたくさん見えた。
なぜインドネシアに囲まれた飛び地オエクシがあるのか。
ポルトガル人が布教のため、最初に東ティモールに訪れたのがオエクシだった。真っ青な海と砂浜の美しいオエクシ海岸に、「1585年8月18日ポルトガル人がこの浜に上陸した」と書かれた碑が建っている。首都ディリや他のどこよりもカトリックが早く伝わったことをオエクシの人は誇りに思っている。ポルトガル植民地政府も、東ティモール発祥オエクシを飛び地になっても手放さなかった。
1970年代半ばインドネシアが東ティモールに侵攻しディリなどが騒乱状態になったとき、数万人の避難民が平穏なオエクシに逃れてきた。その後、インドネシア統治時代もオエクシの平和は続いた。
私が2度目に訪れた1998年6月は、インドネシアでスハルト政権が崩壊した直後だった。東ティモールに独立気運が高まり、ディリでは連日独立支持者のデモが繰り広げられていた。しかしオエクシは静かだった。ちょうどフランスでサッカーワールドカップが開催されていた。毎晩宿のテレビに集まってくる人たちは、「スハルト退陣」や「東ティモール独立」よりもワールドカップの熱戦に盛り上がっていた。
そんな平穏なオエクシも1999年8月30日の東ティモール独立の是非を問う住民投票前後の騒乱で100人近い死者が出た。インドネシアに依存していた土地なので、国軍や警察に支援された独立に反対する民兵組織が投票の妨害を繰り返した。「独立」という投票結果が発表されてからは、「独立したいならゼロからやり直せ。インドネシア時代のものはすべて破壊する。」と主張し、放火・略奪・破壊行為で壊滅的な打撃を受けた。ディリから離れた飛び地であるため情報が遅れ、国連が派遣した多国籍軍の展開が1ヵ月も遅れた。そのことも死者が増え、破壊が拡がった要因だ。
騒乱から10年、多くのNGOや国連機関などがオエクシの復興支援や新しい国造りに関わった。短期だが日本の自衛隊も駐留した。そのためオエクシ中心部の民家などは再建された。教会や病院などポルトガル時代の建物も残っている。
県全体で人口は5万8000人というが、人通りも少なく、真っ青な海から打ち寄せる波の音以外は何も聞こえてこないくらい町は静かだ。メインストリートといえどもほとんど車が通らない。たまに見かけるのは客や荷物を満載させたアンコットと猛スピードで走り抜ける国連の車くらいだ。
オエクシは地元のダワン語で「水で発展した地」という意味だそうだ。乾ききった他の土地と違い美しい水田があり稲も育っている。住民には優しい笑顔が戻っていた。すれ違うときには、「ボンタルデ(こんにちは)」と挨拶が交わされる。オエクシは何度訪れても都会とは対極の素朴な魅力がある。
私の常宿だった「アネカジャヤ」も民兵に放火され全焼した。家族はケファに避難し無事だったが、ワールドカップを一緒に見たオーナーのラオさんは7年前に病気で亡くなった。再建された宿は名前を「ホテルラオ」に変え、国連の警官が長期で泊まっていた。
「昔のように平和で安全なオエクシに戻りました。でもパスポートやビザが必要になり、インドネシアから来る人はいなくなりました。自由に行き来できた前の方が良かったかな。知り合いもディリやインドネシアに移り、会えなくなったので淋しくなりました」と、ラオさんの娘さんは話してくれた。
オエクシ滞在中、独立してよかったという声はよく聞いた。しかしインドネシアにいる友人と連絡が途絶えたという声も多かった。国境などというものを意識せずに暮らしてきた人にとって残念なことだろう。
Cオエクシからディリへ
インドネシア統治時代、オエクシから東ティモール州の州都ディリまで直通バスが走っていた。私も何度か乗ったことがあるが、西ティモールを通り再び東ティモールに入る。州境で数回検問があったが、5〜6時間で結ばれていた。
しかし東西ティモールに国境ができた今、バスは走っていない。西ティモールを通過するだけでもパスポートやビザが必要になったことが廃止の大きな原因だ。その代わり客船が週2回往復するようになった。片道10時間かかるが、インドネシアに寄らないのでパスポートやビザがない人でも乗ることができる。私もこの船でディリに行くことにした。
18時発というが、小さな港には昼過ぎから多くの人が集まっていた。それを目当てに物売りも集まってきた。船には食堂がないというのに弁当のようなものは売っていない。港に食堂があるわけでもない。私はバナナ1房を買って船に乗ることにした。港に接岸すると人間だけでなく、牛も豚もヤギも鶏も船に積まれた。運賃はエコノミーが4ドル、2等が14ドル、1等が20ドル。動物は別に料金がかかる。
船は「NAKROMA」という名で、煙突には東ティモール国旗がデザインされている。2007年製造の中国製で、定員は300人と書かれている。船底は動物園のようだが、船が新しいため客室は冷房が効ききれいだった。寝室はなくすべて椅子席なので、2等と1等の差はあまりない。1等は1部屋に椅子が20あり、トイレが付いていた。NGOで働く外国人の客も乗っていた。
エコノミークラスの客は床にゴザを敷き、持ち込みのご飯やおかずを食べていた。私も呼ばれ御馳走になった。バナナを夕食代わりにするというのは貧しい発想だった。デザートとしてみんなで食べた。
船の出港は、19時半だった。オエクシの町も暗く、あたりは真っ暗だ。空気が澄んでいるので、星空がきれいだった。しかしずっと星を眺めているのは私だけだった。ほとんどの人は20時には寝てしまった。
日の出前、ディリの港に着いた。みんなあっという間に下船して行った。早朝は涼しく気持ちがいいので、港からぶらぶら歩くことにした。鶏の鳴き声、野菜を売り歩く物売りの声が聞こえてくる。散歩やジョギングする人も見かけた。
前回訪れた2年前は、東東ティモール人と西東ティモールヒトという訳のわからない線引きができ、衝突が続いていた。そのため多数の外国人がディリから退去していった。そんなやばそうな気配はもう感じられなかった。今年になって山間部に潜伏していた反政府元兵士が投降したからだという。
競技場で地域対抗のサッカーの試合があった。集まった多くの観客も試合を楽しんでいた。市場や商店では物価が高騰していた。しかし東ティモール人もインドネシア人や中国系やインド系などの外国人も混じり合っていた。15年以上前から何度も訪れているディリだが、今回はとても穏やかな雰囲気が漂っていた。
ディリからは12時間かけ、西ティモールのクパン行きの小型バスに乗った。料金は20ドル。クパンでスラバヤやジャカルタ行きの飛行機に乗り換えれば、合計100ドルほどでジャワ島に戻れる。
ディリからバリ島に飛んでいるメルパティ航空は片道250ドルもする。道中の治安もよく、国境通過も楽になったので、一般の人にとって飛行機よりもこのバスの方が人気は高い。4台のバスはみな満席だった。レバラン前の帰省をするインドネシア人、インドネシアの親戚を訪ねる東ティモール人、バスの中の雰囲気もよかった。平和が何よりだと実感した。
| 介護士の卵はバソ屋の息子──2008.8.21 第21回 |
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「大阪に着きました。道路はどこも素晴らしく、どの車もきれいです。私の国とはとても差があります」
介護福祉士の卵として日本に旅立ったディディ君からメールが届いた。
私がディディ君と知り合ったのは7月24日、日本での受け入れ先の施設が決まり、労働契約書に署名するため彼がジャカルタの労働派遣保護庁に来ていたときだった。23歳にしては落ち着いていた。体格が良く、あご鬚を生やしていた。日本ではイスラム過激派に間違えられるのでは、というのが私の第一印象だった。
彼は西ジャワ州チレボン近郊のクニガンで育った。地元の看護学校に通っていた頃知り合った女性と2年前に結婚した。そして2ヵ月前に女の子が生まれた。その直後、日本でインドネシア人の看護師や介護士を募集していることを学校で聞いた。家族と相談し応募を決意し、6月末ジャカルタで面接を受けた。看護師の資格は持っているが勤務経験がないので、今回は介護士を目指す。インドネシアよりずっと給料の高い日本でお金を稼ぎ、8人の家族に仕送りする。そして故郷に家を建てるのが夢だと言う。
「君の家まで行って奥さんやご両親に話を聞きたいのですがいいですか」と私はディディ君に聞いた。
「もちろん歓迎します。母に料理を作ってもらい待っていますから、来る日が決まったら連絡下さい」と言う。
「話を聞きたいだけだから料理など用意しないでほしい」と私は断った。
ディディ君が卒業したクニガンの看護学校からは男女合わせて11名の卒業生が介護福祉士として日本に派遣される。7月29日、県知事や学校関係者らが学校に集まって壮行会が開かれるという。私はその日に合わせクニガンに行くことにした。
西ジャワ州のチレボンは中部ジャワ州の州境に近い。ジャワ海に面しているため中国からの交易船も寄航した歴史もあり、いろいろな文化が混じり合っている都市だ。多くの出稼ぎ者を送り出してきた地方でもある。シンボルともいえるチレマイ山に向かう途中にある高原町がクニガンだ。
壮行会に学生らは制服、父兄はバティックなどの正装で集まっていた。
「君たちは専門の技術を身に付けた。だから日本行きが決まった。県の誇りだ。大切なご子息を未知の国に送り出すご両親は不安でしょう。でもこれは国と国との協定なので心配いりません。インドネシアと日本の友好のためにも胸を張って送り出して欲しい」という県知事の激励の挨拶もあった。
会も終わりに近づき、インドネシア国歌や西ジャワの民謡が始まると、すすり泣きが聞こえてきた。ディディ君も目頭を押さえていた。一緒にジャカルタで日本人の面接を受けたのに、日本側が男性の介護士を嫌ったため合格できなかった男子生徒も涙を流していた。
ディディ君の家族は壮行会に来ていなかった。
「こんな会に来ると、別れが悲しくて日本に行くのをやめたくなるから」とディディ君は言った。
壮行会の後、町の中心部からかなり離れた農村にあるディディ君の実家に行った。家は二階建てで新しく立派だった。
「日本人がここまで来てくれたのは初めてです。よく来てくれました。ほんとうに食事を食べないで帰って行くのですか」とお母さんは私を迎えてくれた。
ディディ君は1週間後に日本に向け出発し、半年間の日本語研修の後、来年から奈良県の介護施設で仕事を始める。しかし奈良県についても、仕事場についてもまったく知らないという。
「日本語もできないのに大丈夫ですか」と私はディディ君に質問した。
「不安がないことはありませんが、日本でも神様にお祈りするし、家族もみんな祈ってくれていますから大丈夫です。断食もしますよ」と明るく答えた。
日本にはモスクがあるのか、日本人はイスラム教に理解があるのか、ちょっと心配だと言う。あご髭を伸ばしているとアルカイダに間違えられるぞと友だちに言われたので、今朝3年振りに髭を剃ったそうだ。
お父さんはジャカルタでバソ(牛肉製のミートボール入りスープ)屋を営み、月に1度しかクニガンの家に帰ってこない。そんな暮らしを20年以上続けてきた。だからディディ君も家族と離れて暮らす覚悟はできている。介護の仕事は楽ではないだろうが、家族のために頑張るという。
「数年前までこの家にもお年寄りが暮らしていました。僕は父に代わって、そのお年寄りが亡くなるまで世話をしました。その経験を日本で生かしたいです。日本でもお年寄りを他人でなく家族の一員のように世話したいのです」と、ディディ君は抱負を述べた。
「長い間別れて暮らすのは淋しいけれど、夫はもっと大変です。私は子どもをちゃんと育てます。離れていてもメールで連絡を取るから大丈夫です」と、21歳のかわいい奥さんは言った。
それから3日後、ディディ君は故郷を後にした。ジャカルタ近郊で出発前の研修を5日間受けた後、日本に向けて旅立つ。空港にはお父さんが見送りに行くという。
8月6日ディディ君が出発する日の昼、私はジャカルタのメンテン地区のテレシア教会の前にあるお父さんのバソ屋に行った。自転車に大きな鍋を乗せただけ、椅子は5席だけの屋台だった。想像よりずっと小さな店だったが、ビジネスマンやOLらで賑わい、行列ができていた。1日に120杯も売れ、日曜日には教会のミサの帰りに食べる人で150杯以上売れるという。食べてみると肉にこしがあり、人気の屋台だということが頷けた。
お父さんは朝5時前から家で約1500個のバソを作り、自転車に乗せてメンテンに来る。7時から夕方まで営業する。客が多いと昼過ぎに売り切れることもある。そして店の片付けと掃除をして自転車で帰っていく。
そうやってお父さんは20年以上、土日も休まずバソを売ってきた。だからクニガンに大きな家を建てることができたのだろう。ディディ君も高校を卒業した後、この屋台で見習いとして1年間働いていたという。2人とも苦労人であることがわかった。
「今日はディディの見送りに行くから先に帰る」と手伝いの男性に言って、お父さんは自転車にまたがり帰っていった。
その夜、お父さんは空港に親戚の人と見送りに来た。出発の6時間も前に着いたそうだ。私はお父さんとディディ君との「涙の別れ」があると思っていたが、そうではなかった。お父さんは明日も早く起きて仕事をしなければいけないと言って、他の家族よりずっと早く帰っていった。お父さんの代わりに私が最後までディディ君を見送った。搭乗券と日本のビザが貼られたパスポートを手にし、ディディ君はとても嬉しそうだった。
大阪の研修所に着いた翌日、ディディ君から私にメールが届いた。
「父に会って日本への国際電話の掛け方を教えて下さい。僕は元気です。来週から半年間日本語の授業が始まります。漢字はどうすれば覚えられるのでしょうか」
私はディディ君にメールを返信した。そしてまたお父さんの美味しいバソを食べに行った。
5月中旬にインドネシアと日本の間で締結された経済連携協定(EPA)に基づき、インドネシアから2年間で1000人の看護師や介護福祉士を受け入れることになった。日本政府による外国人労働者の本格的受け入れは医療・福祉部門では初めてだ。労働力不足が深刻な日本の医療や介護の現場で、インドネシア人が将来一翼を担うことになるのだろうか。
インドネシアはこれまでも中東やアジア各国に、多くの看護師やヘルパーを送り出してきた。優しく温厚な性格がお年寄りや弱者に好評で、数は増加の一方だ。
日本側は初年度の受け入れで500人を予定していた。しかし協定の締結が遅れ、告知期間が10日間と短く、一部の地域でしか募集ができなかった。インドネシアの労働移住省などからは、「事を急ぎすぎ」、「単純労働者を集めるのとは違う」などと不満の声も上がった。期限を過ぎても応募に応じたにもかかわらず、合格者は208人だった。直前になって日本側が男性の介護士を嫌ったこともある。
インドネシア人にとって、日本に行けば約十倍の給料がもらえる期待感は高い。しかし受け入れ先の情報不足、未知で難解な日本語や文化・習慣の違いなど大きな不安を抱えたままの旅立ちだ。到着後半年間日本語や文化などを学習し、来年2月から全国各地の医療や介護施設で3年〜4年助手として勤務する。その後日本の国家試験に合格しなければ帰国を迫られる。
| インドネシアで元宇高連絡船に再会──2008.8.8 第20回 |
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本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が開通して今年で20年経った。それまでは岡山県玉野市の宇野港と香川県の高松港の間を国鉄(現JR)の宇高連絡船が航行していた。
その最後の連絡船「阿波丸」は1988年4月9日、宇高連絡船としての務めを終え、長い間、次の働き先を探していたが、93年インドネシアの船会社に売却された。そして「ティティアン・ムルニ(神聖な架け橋)」と名前を変え、現在もジャワ島のメラク港とスマトラ島のバカフニ港を結ぶフェリーとして「第2の人生」を送っている。
瀬戸大橋開通20周年の記念事業としてJR四国が企画した「インドネシアで活躍する元連絡船・阿波丸を訪ねる旅」がこのほど実施された。
高松港の近くで生まれた私は、瀬戸内海を行き交う船を見て育った。当時の高松港は日本一船の出入りが多い港だったという。私も何十回と連絡船に乗り、それがもとで旅が好きになった。国内を旅する時や海外に行く時も、連絡船で瀬戸内海を渡った。展望デッキには名物のうどん売店があった。船の上で瀬戸の島々の景色を見ながらうどんを食べている時間、私はとても幸せだった。
連絡船にはいろんな人が乗っていた。大きな声で海に向かって歌っている人がいた。ひとりうつむき泣いている人がいた。うれしそうな新婚のカップルもいた。女性に怒鳴っている男もいた。しゃべり続けている女性グループもいた。明るい学生の笑い声も聞こえてきた。海を渡るということは、陸上を移動するのとは違う感情が働く。連絡船の中でそんな人たちを見ることも私は好きだった。
私がジャカルタ暮らしを始めてすぐ、瀬戸大橋の開通に伴い、連絡船が廃止になった。仕方ないことだとはいえショックだった。しかし、その連絡船の1隻、阿波丸がインドネシアに売却されたという話が伝わってきた。そしてジャカルタから遠くないメラク港に行けば、阿波丸に乗れることがわかった。私は阿波丸に会いに行った。
フェリーに改造されため、以前は貨車を載せるため敷かれていたレールが取り払われ、うどん売店はイスラムの礼拝所に変わっていた。しかし「案内所」、「グリーン船室」、「便所」など日本語の表示はそのまま残っていた。「四国の民芸品」と書かれた棚にはインドネシアのお菓子が並んでいた。
船内にはダンドットが流れ、青年たちが腰をくねらせ踊っていた。デッキから海や島の景色を見ている人も多く、瀬戸内海を走っていた頃と同じゆったりした空気が漂っていた。私は「幼なじみ」の元気な姿を見てうれしかった。それからも何度も「阿波丸」に会いに行った。
そして今回、元船員など阿波丸に思い入れのある人たちが、ウキウキした気持ちでインドネシアにやって来た。「インドネシアで活躍する元宇高連絡船・阿波丸を訪ねる旅」のツアー参加者21名は、関西空港からバリ島を経由しジャカルタに着いた。高松からだと15時間以上の長旅だった。私もジャカルタからツアーに加わった。
しかしツアーが実施された6月末、阿波丸は西ジャワ州の港町チレボンのドックで改装工事中だった。そのためジャカルタからチレボンまで列車で3時間かけ移動しなければならない。とはいえ乗り物好きの参加者にとってインドネシアの鉄道に乗れるおまけが付いたため、不満の声は聞かれなかった。
列車の中では懐かしい阿波丸に再会できるという気分で盛り上がった。
「新婚旅行で乗ったんや」、「私は就職試験で乗った思い出がある」、「主人が船員やったから、海が荒れた時は心配で寝られんかった」、「高松駅も今と違い大きくて立派やった」、「友人の転勤を5色の紙テープを投げて見送ったなあ」、「瀬戸大橋ができてから、旅が味気なくなってしもうた」などと、讃岐弁で思い出を語り合っていた。
「瀬戸内海を行き交う多くの船の中でも、連絡船は花形でした。鉄道を乗せたまま走るんですからね。連絡船は日本人みんなの宝です。会うのがとても楽しみです」と兵庫県西宮市からツアーに参加した女性は声を躍らせた。
20年前阿波丸の船長だった合田功(ごうだ つとむ)さん(69)は、「阿波丸がインドネシアにいることは聞いていました。当時のままなのか、変わり果てた姿で働いているのか、期待半分、不安半分です」と心境を語った。
チレボン駅に到着後バスに乗り換えドックに向かった。住宅の間から海が見えてきた。「あの煙突や。あのマストや。あれや、阿波丸や。うれしい」という声があがった。
船の全体が見えなくても、連絡船のファンは遠くから阿波丸を識別できるのだ。
バスを降りてからの足取りも軽い。参加者の多くは六〇代以上だが、急な階段を自分の家のように駆け上がる。あちこち船内を動きまくり、「懐かしい。青春が戻ってきたわ」、「あのへんの椅子に座ったことがあるけど、そのままや」と子どものようにはしゃぎ、写真を撮りまくった。
現船長のラハマットさん(33)が、元船長の合田さんを船長室に案内した。
「わしが寝よった頃の布団がそのままや」と合田さんは驚いた。
ドック入りの間もラハマット船長は船から離れず、この布団で寝ているという。シャワー室もそのままで、乗組員たちのマンディー場として使われている。
操舵室には靴を脱いで入った。清潔だった。計器の表示は日本語のままだ。乗組員は日本から技術者を招いて操縦を学んだという。
「大事に使って、安全運航を続けて下さい」と合田さんは船長と握手を交わした。
「わかりました。古い船ですが、ドックでお化粧直しをした後は元気に働けます」と船長は答えた。
今回のツアーを企画したJR四国ワープ高松支店前支店長の大野修治さん(52)は、国鉄時代の最初の職場が阿波丸の航海士だった。
「新人時代の思い出がいっぱい詰まった阿波丸と再会でき、感激しました。船員もドックで働く人も、インドネシア人はみな親切でした。他の連絡船もまた見に来たいですね」と満足そうだった。
本州と四国を結ぶ大動脈として活躍した国鉄(現JR)の連絡船。瀬戸大橋が開通するまで78年間に延べ2億5000万人を運んだ。阿波丸(総トン数3083トン)は67年に就航し、同型の伊予丸、土佐丸、讃岐丸とともに88年まで岡山県玉野市の宇野港と高松港約20キロを1時間で航行した。伊予丸以外の3隻はインドネシアに売却され現在も活躍中。
| 破壊進む熱帯雨林 スマトラ島リアウ州からェ──2007・12・24 第19回 |
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地球環境にやさしいといわれるバイオエネルギーの需要が世界的に伸びている。その原料となるパーム油が採集できるアブラヤシ(クラパサウィト)の農園開発が各地で拡大している。しかしそのため世界で2番目の面積を誇るインドネシアの熱帯雨林が伐採され、火が放たれているため、環境に大きな負担を与えている。
バリ島で開催された国際気候変動枠組み条約締結国(UNFCCC)の第13回締結国会議(COP13)の期間中、日本テレビに同行しスマトラ島中部のリアウ州の熱帯雨林を訪れた。
リアウ州の州都ペカンバルから車で4時間あまり、豊かな水量を誇るインドラギリ大河沿いに農業や林業で栄えた村クアラチナクがある。大河にはいくつもの支流が流れ込む。支流といえども薄茶色の大量の水が浮き草とともに蛇行しながら流れている。そこをポンポンと呼ばれるモーター付きの小船で進んで行くと、洗濯をする女性や水遊びをする子どもたちが手を振って迎えてくれる。
川幅は5メートルくらい細くなったり、数十メートルに太くなったりする。日差しは強いが、水上なので涼しく風が心地よい。気持ちがいいので手のひらを水につけていると、「ワニが出るぞ」と船頭に驚かされた。乗っているポンポンより大きなワニが川に棲んでいるそうだ。ワニは見なかったが、猿の群れが木の上で遊んでいた。ポンポンが通り過ぎると、魚を獲りに木から降りて来ると船頭は教えてくれた。
30分ほどして降ろされた所は広大な森が伐採され、その後草木を焼き払うため火が放たれた跡だった。切り株のまま墨のようになった木が無数に残り、地面の土も黒焦げになったままだ。無残に荒廃した大地は地平線まで続いていた。日陰がないので直射日光を受け、今までの涼しさと一転して汗が流れた。濃い緑のアブラヤシの苗が等間隔に植えられ、成長の早い薄い緑の雑草が育ち始めているが、生物が棲んでいる気配が少ない。
村長のマルシット・M・アリさん(45)によると、この森では住民が昔からゴムの木やトウモロコシなどを栽培し、生計を立てていた。しかし2005年の乾季、ジャカルタの企業が突然現れ、いきなり伐採を始めた。村人の森だから止めてほしいと訴えても、県知事から伐採許可を得ているから問題はないと言われた。
2年間で村の約2000ヘクタールの森が伐採され、火が放たれた。最初は灯油をかけて点いた火が、乾季の風に煽られ、大きな赤い炎に変り山火事になった。夜も火は消えず、村中白い煙に覆われた。火事は数カ月続いた。鎮火したあとも地面はくすぶり続けた。煙を吸って気管支系の病気になった住民は20人以上いた。お金がなく病院に行けなかった住民を加えると、100人以上にのぼる。
村人を集め県庁前で抗議行動をすると、警棒を手にした警官に怒鳴られた。インドネシアでは法律で焼き畑が禁じられている。村人が自分の畑で焼き畑をすると逮捕される。しかし企業が火を放った山火事は、煙害で住民に被害を与えても黙認される。煙は250キロ以上離れた州都ペカンバルにも達し、住民の健康や飛行機の運航にも影響を与えた。
「焼き畑と山火事は違うのです。どちらの罪が大きいですか。」
村長の問いかけは重い。
農園開発をすすめる企業は、アブラヤシの生育を早めるため大量の肥料を使う。1本のアブラヤシが3〜4年後に実を付けるまで1〜3キロの肥料を投入する。その中の毒が川に流れ込み、川の水が飲めなくなり、発疹や腹痛の患者が増えた。エビや魚を獲って売ることも、食べることもできなくなった。
村長はインドネシアを代表する環境問題のNGOワルヒなどとともに、バリ島で開かれた会議(COP13)にも足を運び、議長を務めたラフマット・ウィトラル環境相やインドネシアの環境問題の第一人者エミル・サリム元環境相に窮状を訴えた。彼らとは過去にも何度か会っているが、いつもまったく進展がないという。
リアウ州には植物が湿地などで腐食せず炭化し、数千年以上堆積してできた泥炭地と呼ばれる地域が広がる。その面積は約400万ヘクタール、東京都の20倍ともいわれている。炭素を含んでいるので火が回るとなかなか消えず、大量の二酸化炭素(CO2)やメタンガスなど温室効果ガスを放出する。インドネシア全土の泥炭地から大気中に放出されるCO2は平均20億トン。日本の排出量13億トンを上回り、全世界で排出される量の8パーセントに相当するといわれる。
クアラチナク村には、2メートルから9メートルの深さで泥炭地が広がっている。なぜそんな危ない土地の森が伐採され、火が放たれ、アブラヤシの農園開発が進むのだろう。
インドネシアでは作物がよく育つため、伝統的に野焼きや焼き畑農業が続いていた。だが移民入植者の急増とともに農地に適さない泥炭地も開拓され、野焼きが拡がった。アブラヤシは70年代から植林が進み、マーガリンや洗剤など「健康にやさしい植物性油」の原料になるパーム油の需要が伸びていった。
そして近年の原油価格の急激な値上がりと環境意識の高まりとともに、「地球環境にやさしい油」としてパーム油が注目を浴び、生産のブームになっている。リアウ州の農民に聞くと、アブラヤシの実の1キロあたりの出荷価格は、5年前の450ルピアから1250ルピアに3倍ほど値上がりした。そのためこれまでのゴムの木やトウモロコシなどの栽培をやめ、アブラヤシ農園を始める農家が急増しているという。
そして大規模な開発を進める企業は資金力で政治家や役人を動かし、伐採権を得て熱帯雨林をアブラヤシのプランテーションに変えていく。クアラチナク村に進出した企業は、ペカンバルにヘリポート付きの新社屋を建設した。クアラチナク村のあるインドラギリフル県の庁舎も大きく建てかえられた。
このようなアブラヤシブームはアチェからパプアまでインドネシア全土に拡がり、政府も輸出を奨励している。NGO「サウィット・ウオッチ」によると、インドネシアのアブラヤシ耕作面積は、78年の25万ヘクタールから2005年には500万ヘクタールに伸びた。20倍も拡大したことになる。「もうすぐ生産量1位のマレーシアを抜く」と、カラ副大統領は胸を張る。
今は雨季だ。しかし来年雨季が明けると森に火が放たれ、また山火事が起きると確信している。人は将来パーム油から何でも作ってしまうだろう。このままブームが続けばリアウ州の森は全滅すると、クアラチナク村の村長は言う。
バリの会議(COP13)では、日本など先進国が熱帯雨林伐採防止のため、途上国に資金を供与することが決まった。しかしインドネシア政府が奨励するアブラヤシブームに伴う森林伐採をどうやって阻止できるのだろうか。インドネシアだけでなく、「地球環境にやさしい」パーム油を使う世界の人すべての課題だ。
| 巨大津波から3年を迎えるアチェ──2007.11.16 第18回 |
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11月6日昼、アチェ州の州都バンダアチェの空港にマレーシアのエアアジア航空エアバス320型機が飛来した。アチェにとって初の国際線の定期便だ。これで海外からジャカルタやメダンを経由せず、速く、安く、楽にアチェに行けるようになった。日本からもクアラルンプールを経由することで、半日以上時間短縮できる。独立派武装組織自由アチェ運動(GAM)とインドネシア国軍との紛争で戒厳令が敷かれ、外国人のアチェへの渡航が禁じられていた頃には考えられなかったことだ。
2004年12月26日、アチェだけで死者17万人以上といわれる巨大津波が発生した。直後からシンガポール、マレーシアや日本などの輸送機がバンダアチェの空港に支援物資を運んできた。それがきっかけで外国人がアチェに自由に入れるようになった。国際社会の仲介で紛争の和平が急速に進み、治安の不安もなくなったことで、国際機関やNGOなどの復興支援活動が活発化した。あれから3年近くたち、国際線の定期便就航は紛争と津波というアチェの悪いイメージチェンジにもなるはずだ。
アチェは昔から海外に開けていた。アチェの商人は中東やインドなどに交易に出かけ、富をもたらした。2000キロ近く離れたジャカルタより、マラッカ海峡を渡ればマレーシアやシンガポールなどの隣国だ。アチェはまたインドネシア初のパイロットを生んだ土地であり、人々はそれを誇りにしている。
「アチェにとって初の国際線はうれしいニュースに違いない」と私は思い、バンダアチェを訪れた。しかしニュースは伝わっているものの、地元の人々の反応は冷めていた。飛行機に乗ることができる人が限られているからだろうか。ふつうの人にとってマラッカ海峡のむこうの外国よりは、州内の行き来の方が多いためだろうか。私は肩透かしをくらった感じがした。
アチェの人たちはお祝い行事が好きだから必ずあると思った就航記念式典の催しも、当日はなかった。イルワンディ・ユスフ州知事(47)に質問しても、「そりゃいいニュースですよ。」と答えたものの、「格安航空のエアアジアにはエコノミークラスしかないから、お金持ちや国連関係者などはこれまでどおりガルーダ航空のビジネスクラスに乗るでしょう」と、素っ気なかった。
それに引き換え当日の空港で目立っていたのは、マレーシア観光局の職員だった。飛行機の乗客全員に観光パンフレットのセットやTシャツなどを配り、マレーシア観光のPRに努め、歓迎ムードを盛り上げようとしていた。
「今は週3往復だけの就航だが、いずれ毎日飛ばしたい。そして将来、1日に何往復もさせたい」と、ヌル・アダム・サムスディンさんは力強く語った。
アチェのパンフレットも置かず、法外な料金を吹っかけるタクシー運転手を放置したままの空港当局者に、マレーシアの意気込みを少しは見習ってほしい。
エアアジア航空職員ファニー・メラニーさんは、ジャカルタからバンダアチェに応援に来て、乗客の誘導などを手伝っていた。
「エアアジア航空はインドネシア国内では、ボーイング737−300型機を使用しています。でもバンダアチェ−クアラルンプール便は一回り大きい180人乗りのエアバス320型です。座席数が多いとコストを下げられ、安い料金が提供できます。クアラルンプールまでの料金は数千円です。賃金の高いマレーシアに出稼ぎに行く人たちにも歓迎されるでしょう。マレーシアの人にとっても、言葉の壁が少ないアチェに豊かな鉱物資源や農産物を求めて渡って来るには便利な直行便です。機体は新しいので安全です。格安航空は古い飛行機を使っているというのは、間違いですよ」と、自信ありげに説明してくれた。
初の国際線定期便でクアラルンプールに飛ぶ乗客の多くはアチェの人たちなどインドネシア人だった。それに欧米からの観光客が数人混じっていた。
「マレーシアの病院にメディカルチェックに行きます。クアラルンプールやペナンにはインドネシア人が多く治療を受けている病院があるんですよ。この飛行機にもそんな人がたくさん乗っているはずです。時間とお金が節約でき、うれしいです」と、女性客が教えてくれた。
「メッカの巡礼客が乗る国際チャーター便は、これまでもバンダアチェの空港から飛んでいました。私も何度か乗ったことがあります。今回は国際定期便でマレーシアにいる親戚を訪ねます」と、男性客が話してくれた。
「インターネットでひと月前にチケットを買ったら、28万ルピア(約3500円)という安さだった」と、アチェを1週間旅行したという英国人は喜んでいた。
アチェにはインドネシア有数の美しい海や山の景色が豊富にある。料理や特産のコーヒーもおいしいので、うまく宣伝すれば外国人の観光客の誘致が可能だ。津波からの復興にはまだ時間がかかるが、いずれ外国の支援団体もアチェから撤退していく。外国人が減ったとき、その隙をついて、独立派とそれを阻止しようとするインドネシア国軍との抗争が再発する可能性があるとも言われている。しかし外国人観光客が多く訪れていれば和平の監視役になり、紛争に歯止めをかけることもできる。アチェの人たちが望んでいることは、多くの外国人がいることで、平和なアチェが続いてほしいということだ。数千円という破格の料金で乗れるエアアジア航空は、観光客増加に大きく貢献することができるはずだ。
初日は搭乗手続きや出国審査などが少し手間取った。記念すべき国際線定期便第1便は、130人の乗客を乗せ15分遅れでバンダアチェ空港を飛び立った。クアラルンプールまでの飛行時間は1時間半。今は週3便のフライトが何便も飛ぶようになり、多くの観光客がアチェを訪れ、平和が続くことを期待したい。
私が前回アチェを訪れたのは昨年の12月。当時に比べバンダアチェ市内の自動車の数が増え、新車も多く走っている。空港から市内中心部まで冷房付きの路線バスが走るようになった。従来通りラビラビという小型の乗り合いバスもあるが、客が集まるまで出発しないので1時間以上かかっていた。それが30分で行けるうえ料金は1万ルピア(約120円)なので、外国人旅行者の利用も多い。
市内には1泊30〜40万ルピアの中級ホテルがたくさん建った。これまであったホテルも改装してきれいになり、高いホテルの独占状態が崩れつつある。イスラム教の戒律が厳しいアチェでは飲むことが難しかったビールを出すレストランも増えたという。外国人のほとんどがバンダアチェで暮らすため、彼らが落とすお金で街が潤っている感じだ。
日本政府連絡事務所のキャメロン・ノブール(39)さんによると、現在アチェ州内に約20人の日本人が暮らしている。国際移住機関(IOM)などの国際機関、アジア医師連絡協議会(AMDA)などのNGOで復興支援活動を続けている。ほとんどが女性で、みないきいきと仕事をしているという。しかし外国の支援団体も来年になると、規模を縮小したり、撤退していくようだ。100年に1度という巨大津波の復興は、長い時間がかかるはずだ。マスコミの報道も減り、アチェのことが忘れ去られていくのが心配だ。
市内のあちこちに新築の豪邸が建ち並ぶ住宅地がある。アチェの人たちが国連機関など外国の支援団体に住宅を貸し、その賃貸料で建てたという。広い駐車場には新車が並んでいる。津波の被災者用の恒久住宅も増えているが、目標の半分しか建っていない。住民の所得格差はどんどん広がっている。州庁舎でイルワンディ知事の面会を待つ間、私が通された待合室の冷房の設定温度は18℃だった。知事室から面会を終えて出てきたアチェ人は、寒さで震えていた。バラックの仮設住宅で暑さに耐えて暮らす被災者とは雲泥の差だ。独立派武装組織自由アチェ運動(GAM)の元幹部で住民の支持を得て知事に当選して1年足らず、スーツを着て庶民感覚が薄れてしまったのだろうか。
津波の被災地を視察するほとんどすべての人は、州都バンダアチェだけを見て帰る。空港から30分ほど車で走れば、海岸沿い巨大津波の傷跡を見ることができる。最大の被災地ではあるが、ホテルで泊まっても、レストランで食事をしても快適だ。しかしそれではほんとうの被災地を訪れたことにはならない。インフラが破壊されたまま復興が遅れている地方も見ることが必要だ。私は地震の震源地に近く、最も大きな津波の被害の受けたアチェの西海岸を車で移動することにした。去年もそこを走ろうとしたが、土地の賠償と政府の汚職に抗議した住民が道路を封鎖していたため通行できなかった。
今は乗り合いのマイクロバスも運行しているので、バンダアチェ−ムラボ間約270キロを走ることにした。津波で被災する前にも何度か走ったことがあるが、当時は5〜6時間かかった。今回は午前10時に出発した。何時間かかるだろうか。9時間という人もいれば、12時間という人もいた。
ムラボ出身の運転手ウディンさん(30)は、奥さんや子どもとムラボに住んでいる。津波前には1日1往復できたが、今は片道走るのがやっとだという。3年前の巨大津波が襲った日は、バンダアチェで出発の準備をしていた。大きな地震の揺れの後、しばらくして海から大量の水が押し寄せてきた。それが津波とは知らなかったのでとても怖かった。とても車が走れる状態ではなかったので、その日は運休を決めた。数日間道路に遺体や瓦礫が放置されたままだった。とても仕事はできなかった。ムラボの家族とも連絡が取れなかった。1週間後、山越えの道を通りムラボに行った。集落の住民1000人のうち700人の消息が分からなくなっていた。別の集落に避難していた家族を見つけることができ、再会を喜び合ったという。
そんな話を聞きながら1時間ほど走っていたら、砂利道でタイヤがパンクした。近くの食堂に車を停め、タイヤを交換した。その先もガタガタ道の連続だった。バンダアチェ−ムラボ間のうち、バンダアチェ−チャラン間約150キロは米国が工事を請け負った。その先のチャラン−ムラボ間約120キロは日本が担当した。米国は片側2車線の高速道路を計画した。新しい道路を建設するため住民の土地を買収しなければならず、そのため予定外の賠償金と交渉に時間を取られているため、計画にある2009年までの開通は大幅に遅れそうだ。
アチェ・ニアス復興支援庁(BRR)の役人が建設資金を自分の懐に入れているから工事が遅れているんだ。彼らはずっとバンダアチェの事務所から外に出ない。この道など通ることはないから気にしていないんだなどと、ワゴン車の乗客は不満を語る。
完成すれば立派な高速道路が開通することになるが、そもそもそんな道路が必要だろうか。破壊された町や村の復興には、一刻も早くふつうの道路を開通させ往来を活発にさせることが必要ではないだろうか。
アチェの西海岸はインドネシアでも有数の景勝地だ。インド洋から押し寄せる荒波が多様な海岸線を形成する。白砂の海岸、波に削られた荒々しい海岸、雄大な海の青さも鮮やかだ。私はこの景色に魅了され、これまで何度もここを訪れた。
そして今、巨大津波の傷跡もたっぷり見ることができる。海水に浸かったままの高い椰子の木、津波で倒された木々、海水が流れ込んだままの大きな池、アスファルトの道路がえぐられた跡、海岸が流され地形が変わってしまった跡。そして地中に埋まっている多くの犠牲者、家屋、船、大切な家族を失った人たちのことも想う。
バンダアチェから50キロほど離れたラムノまで4時間近くかかった。州都との交通の便が悪くなった町は、津波前の賑やかさがなくなっていた。屋台のミーアチェ(アチェの焼きぞば)とコーヒーで休憩して、再びマイクロバスは出発した。しばらく揺られた後、ほとんど車が通らない道で、なぜか車の列ができていた。橋が津波で壊されたため、ラキットと呼ばれる筏で車を対岸に渡している。その順番待ちの列だった。そこには売店やカフェもできていて、時間潰しをしている人もいる。
ガタガタ道を長時間揺られて来た私は、車を降り筏で川を渡るということに安堵感が芽生えていた。静けさのなか、筏のモーター音が響いていた。数分だが川の上から眺める山の景色にも見とれてしまった。
筏で川を渡る箇所はもう一箇所あった。そこではロープを人力で引っ張り筏を走らせている。江戸時代にタイムスリップしたような気分になった。船頭たちは運転手から5万ルピア(約600円)くらいの通行料を徴収する。高すぎると声を張り上げているオバサンと僕たちは24時間ここで働いているんだと若い船頭たちが言い争っている。バンダアチェがあんなに潤っているのに、津波から3年経っても主要道に橋が架けられず、有料の筏が営業しているというのはおかしい。でも無料では船頭たちは働かず、川を渡ることはできないだろう。
その先もガタガタ道の連続だった。そしてまたタイヤがパンクした。釘が刺さっていたようだ。同じ車で1日に2回パンクとは、ついていない。修理はすぐ終わったが、日が沈みチャランに着いたら18時半だった。バンダアチェから約8時間かかった。ここで270キロの約半分だ。
この先は道路がいいので、ムラボまで2時間半で着くと運転手はいう。でもまたパンクしないとも限らない。夜道を走っても景色が見えない。チャランで1泊し、翌朝ムラボに向かうことも考えた。しかし大きな津波の被害を受けて以来、交通の便が悪くなり、活気がなくなったチャランで降りることも気が進まなかった。帰りもまたこの道を通るわけだから、景色はそのとき見ることができる。家族の待つムラボに早く着きたい気持ちは運転手にもあるはずだ。休憩せずそのままムラボに向かうという運転手に私は従った。
この道は去年も通った。そのときは一部海岸線や道路のない砂地を走ったが、今回はずっと内陸部の道を通った。スピードはなんと100キロ以上出ている。これまでのノロノロ運転が嘘のような素晴らしい道路だ。このチャラン−ムラボ間122キロは日本が主導して工事を進めた。米国のように新しい道路を造るより、既存の道路を補修、拡幅、アスファルト舗装し、橋の架け替え早く完成させることを優先した。そのため土地の賠償問題もあまり起きず、今年1月に開通した。もともとインド洋側の西海岸は通行量が少ない。片側1車線で充分だと思う。
運転手の言葉とおり、2時間半でムラボに着いた。バンダアチェから11時間、津波前の2倍時間がかかっている。21時を過ぎていたが、ムラボの街は店が開き、人通りも絶えていなかった。翌朝訪れたムラボの中央市場も津波前の活気を取り戻していた。魚も野菜も豊富に揃っていた。
ムラボからまたチャランに引き返した。内陸部の道なのできれいな海の景色を見ることができないのは残念だが、また100キロ以上のスピードで飛ばした。この道はアチェで今、一番快適にスピードを出せる道だと思う。日本の援助が有効に使われているのを見て気分が良かった。しかしチャランから先はまたガタガタ道に戻った。今度はワゴン車が故障し、まったく動かなくなった。通りかかったトラックに乗り換え、2度筏で川を渡り、ガタガタ道を8時間以上かけバンダアチェに戻った。数日後ジャカルタに帰っても、しばらく疲れが取れなかった。
| ジャカルタ−マニラ ミッドナイトエクスプレス──2007.6.12 第17回 |
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↑フィリピンの格安航空セブパシフィックは |
深夜0時30分ジャカルタ発マニラ行きのフィリピン・セブパシフィック航空。運賃は片道90米ドルという安さ。現在、インドネシアとフィリピンの首都を結ぶ直行便は週3回のこの便だけだ。飛行時間は3時間半。私はこの「ミッドナイトエクスプレス」でマニラに飛んだ。
出発から2時間ほど前、チェックインカウンターには長い列ができていた。若い乗客が多い。インドネシア人とフィリピン人の見分けは付きにくいが、欧米人も10人以上並んでいる。その乗客ひとりひとりに声を掛けている男がいた。私も声を掛けられた。
「荷物が少なければこの鞄をあなたの荷物として預けて運んでもらえませんか」
私は彼に質問した。
「中味は何ですか。あなたはフィリピン人ですか」
「そう、私はフィリピン人です。ジャカルタで買った衣類が10キロほど入っています」
と、彼は答えた。
彼もこの便の乗客の1人だが、荷物が20キロ以上だと超過料金を払わなければならない。だから荷物の少ない客に「協力」を頼んでいるわけだ。
話の続きは待合室で聞いた。
彼は8人の友人と3日間ジャカルタに滞在し、中央ジャカルタにあるタナアバンの繊維市場で安物のTシャツなどを仕入れた。それをフィリピンに運び、マニラや故郷のミンダナオ島の商人に売る。この「運び屋」の商売は、フィリピンの格安航空セブパシフィックがジャカルタに飛ぶようになった昨年末から始めたという。
ジャカルタには月に2度くらい仕入れに来て、タナアバンのNというホテルに泊まる。飛行機代と滞在費を合わせると250米ドルほどだ。輸送費を抑えれば儲けが増える。そのためチェックインカウンター前で乗客ひとりひとりに声を掛けるため、3時間前から待つ。フィリピン人やインドネシア人は半分以上の人が「協力」してくれるので、衣類の入った10キロほどの鞄約20個をタダで運べるという。
ほんとうは中国製衣類の方が値段は安い。だから他の格安航空で中国の広州や香港などに行くこともあるが、中国の市場では大量に購入しないと安く売ってくれない。しかしタナアバン市場では1着から売ってくれるため、大金がなくても仕入れができるから重宝するという。
早朝にマニラ到着後、衣類の入った鞄は昼前には空港近くのバクララン市場の華人商人の手に渡り、彼の手にも現金が入るという。そして午後には彼の故郷ミンダナオ島に帰る。それもセブパシフィック航空で、片道30米ドルくらいだ。
セブパシフィック航空は、フィリピンではナショナルフラッグであるフィリピン航空に次ぐ第2の航空会社で、インターネットで予約・購入ができる。私が乗ったエアバス319型機の機体は新しく、座席は革張りで座り心地はいい。客室乗務員もキビキビ働いていた。インドネシアの航空会社より快適だ。150ほどの座席はほぼ埋まっていた。その中に何人「運び屋」が混じっているのだろう。
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↑フィリピンのイエローマンゴは世界一おいしい。
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↑マニラ空港に近いバクララン市場には
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フィリピンのイエローマンゴは世界一美味しい。そのうえどこの市場でも一個20円くらいで買える。
マニラ空港の近くにあるバクララン市場に行ってみると、露天のマンゴ売り場のそばに インドネシア製の衣類が並んでいた。
外国のサッカーやバスケットの選手名が入ったシャツが、3枚300円くらいで売られていた。インドネシアで見慣れたムームーや短パン、バティックやプリントものの服もある。売っている人も買っている人も顔つきがインドネシア人と似ているから、マニラにいることを忘れてしまいそうだ。
「ここにあるのはインドネシア製と中国製がほとんどでフィリピン製はあまりない。安ければどこの国製でもいいんだよ」と、露天商は言う。
店を構えて衣類を売っているのは華人が多い。
「最近はインドネシア製が増えています。ミンダナオ出身のイスラム教徒が、ジャカルタで仕入れて来るんです」と、経営者の女性は言った。
「ミッドナイトエクスプレス」の運び屋と繋がった。
後日マニラからジャカルタに戻り、中央ジャカルタのタナアバン繊維市場に行った。8階建ての新しい大きな市場には、繊維問屋がぎっしり詰まり、多くの人で賑わっている。昔の市場と違い、冷房がよく効き清潔感もある。マニラで売られていたようなシャツなどを売っている店で話を聞いた。
「アフリカ人、パキスタン人、ロシア人などもいるが、客のほとんどはインドネシア人だ。フィリピン人の客もたまに来る。インドネシア語を喋る人やイスラム教徒もいるよ」
他の店でも聞いたが同じようなことを言われた。しかしフィリピン人には会えなかった。
繊維市場に近いNホテルに行った。ロビーには梱包された包みや鞄がたくさん置かれていた。フロントの係員が1人のフィリピン人客を紹介してくれたので、彼から話を聞いた。
このホテルに泊まっているフィリピン人はみなミンダナオ島中部出身のイスラム教徒だ。今は格安航空を利用しているが、その前は船でスラウェシ島のマナドやマレーシアのサンダカンなどで商品を仕入れていたのでインドネシア語が喋れる。それが格安航空のおかげで、ジャカルタまで来れるようになった。
今回は4日間滞在し、衣類やアクセサリーを仕入れた。月に2〜3回、マニラとジャカルタを行き来している。自分たちで持ち帰るだけでなく、コンテナで送ってもいるという。
今日このホテルには14人のフィリピン人が泊まっているが、そのうち半分は今晩の「ミッドナイトエクスプレス」でフィリピンに帰る。ロビーに置かれた包みや鞄は彼らの荷物だ。出発の3時間前までに空港に行き、運び屋の協力者を捜すという。
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↑マニラ中心部のマビニ地区はマニラ湾に近く
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日本人旅行者Lさんが、マニラで睡眠薬強盗の被害にあった話をしてくれた。
マニラの中心部マビニにあるホテルに泊まっていたLさんは、近くのマニラ湾沿いの遊歩道を散歩していた。フィリピン人の家族連れもたくさん歩いていた。夕方でも日差しは強かったが、海からの風が心地よかった。
30歳過ぎの3人のフィリピン人女性に、「こんにちは」と、英語で挨拶された。怪しそうな女性ではなく、ふつうのOLのような感じがしたので、雑談をしながら30分ほど一緒に歩いた。
一番若い女性はニューヨークのブロンクスで老人介護の仕事をしていて、今は休暇でひと月マニラに帰って来ていると言う。他の2人はマニラに住んでいると言った。その後売店でビールを買い、ベンチに座り4人で飲んだ。
去年の暮れ、東南アジア一といわれる巨大なショッピングセンター「モール・オブ・アジア」が完成した。今マニラで一番人気の場所だという。そこに一緒に行こうと誘われた。夕食の時間までにはまだ少し時間がある。行くことにした。
4人でジプニーに乗り10分くらい走り、「モール・オブ・アジア」に着いた。広大な敷地に巨大なショッピングセンターが建ち、大勢の人で賑わっていた。大道芸を見たり、一緒に写真を撮ったりもした。マニラ湾を眺めたり、館内のアイススケート場を上から見下ろしたりもした。
1人がクッキー「OREO」をくれた。そういうお菓子を好きでないLさんは最初は断ったが、1つだけもらって食べた。そのクッキーに睡眠薬が入っていたようだ。その後もしばらく一緒に歩き、タクシー乗り場から車に乗った。3人の女性も乗り込んで来た。Lさんにその後の記憶はまったくない。
気がついたのは深夜3時頃、泊まっていたホテルのベッドの上だった。
「あなたは昨夜泥酔して帰ってきました。心配だから電話しました。大丈夫ですか」というフロントからの電話だった。
「大丈夫です」と、Lさんは答えたが、睡魔に襲われそのまま寝た。
昼前に目が覚めたLさんは、正気に戻った。現金、3枚のクレジットカード、ATMカード、カメラ、携帯電話が盗まれていることに気がついた。しかしパスポートや航空券は無事だった。そして何よりも命が助かった上、道端に放置されることなく、泊まっていたホテルまで届けられ、ベッドの上に靴を脱がされ寝かされていた。現金も500米ドルくらいは残してくれていた。だからそのままセブ島などの旅を続けることはできた。
ホテルの従業員によると、Lさんは前日の夜7時頃タクシーの運転手に抱えられてホテルに戻って来た。一緒に部屋まで運んだという。しかしLさんはまったく覚えていない。
クレジットカード会社に電話をしたら、事件の直後から何度かに分け合計70万円分くらいの買い物をされていることが分かった。カードのサインはふつうのフィリピン人には真似のできない漢字だ。犯行グループの中に日本人がいたことも想像できる。幸い日本で作ったカードは補償が効き、総額15万円くらいの被害で済みそうだ。
Lさんはマニラの空港で警察に届けた。しかし空港から車で10分ほどの場所で起きた事件なのに管轄地域が違うと言われ、相手にされなかった。
その話を聞いた後、私は「ミッドナイトエクスプレス」でジャカルタに戻った。マニラほど巧妙ではないが、睡眠薬を使った強盗はジャカルタでも起きているとインドネシア人の友人は教えてくれた。
| インドネシアの航空機事故──2007.3 第16回 |
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また飛行機事故があり、21人が死亡しました。
2泊3日でジョグジャカルタに行ってきました。行きは被害者の家族のためにガルーダ航空が用意した臨時便に乗りました。隣に座った女性が泣き出し、おえつが止まりませんでした。その隣の女性も涙が流れ、止まらなくなりました。大切な人を失ったことは想像できますが、それが誰なのかは聞けませんでした。
帰りは花輪を供えた棺桶を積み込んでいました。家族がじっと下を向いていました。
平穏な生活が一転するような事故や災害がインドネシアは多すぎます。
事故が起きた3月7日深夜、ガルーダ航空は垂直尾翼のガルーダのマークを白いペンキで塗りつぶし、隠してしまいました。そして翌朝、警官や兵士ら約10人がロープで引っ張り、垂直尾翼を倒してしまいました。
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| ジャカルタの洪水──2007.2 第15回 |
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2月1日から降り続いている大雨で、ジャカルタ各地で洪水の被害が拡がっている。4日までに20人の死者と30万人以上の避難民がでている。
昼間は晴れても毎晩強い雨が降り、川の上流のボゴール周辺でも雨がやまないのでしばらく水は引きそうにない。
写真は2月3・4日に撮ったもの。
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| 巨大津波から2年 南アチェの村から──2006.12.25 第14回 |
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選挙集会ではアチェ音楽のバンド演奏もあった |
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バンダアチェのウレレでは、2年前の津波のままの風景が広がっていた。 |
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12月11日アチェの首長選挙の投票が行なわれた |
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紛争でインドネシアの治安部隊に焼かれたままの |
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ティティポビエン村で薬の補充をするAMDAの松浦佳月さん(左) |
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南アチェ県コタファジャール村でAMDAが建てた集会所 |
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日本の援助で建設中のムラボ−チャラン間の道路で |
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ムラボ−チャラン間の道路は津波で流されたので |
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津波で大きな被害を受けた町チャランは復興が進んでいない |
紛争地だったアチェで初の首長選挙が行なわれた。二年前の巨大津波で十七万人以上という犠牲者を出した惨事の最大の見返りが和平の進展だ。戒厳令が解かれ、外国人の訪問も可能になった。紛争に巻き込まれ避難生活を強いられていた住民も、帰還した村で投票ができた。州都バンダアチェから南東に五百キロ以上離れた南アチェの村から報告する。
*紛争で焼かれた村
バイクがやっと通れる木の橋を渡ったところにその小学校はあった。窓のある校舎は一つもない。屋根のある教室は六つしかない。机や椅子の数は少なく、黒板は全部の教室に揃っていない。それでも修復された後だという。
南アチェ県のティティポビエン村は、インドネシアの治安部隊と独立派武装組織自由アチェ運動(GAM)との間で断続的に戦闘が続き、治安部隊に小学校や住宅が焼かれた。そのため住民の多くは二〇〇〇年頃から、県都のタパトゥアンや隣の北スマトラ州の州都メダンなどに避難生活を強いられた。
村は海岸から離れているので、二年前の巨大津波の被害は受けなかった。
十七万人以上という犠牲者を出した巨大津波で、紛争地アチェは国際的な注目を集めた。戒厳令が敷かれ外国人が入れなかったアチェに突然外国人が押し寄せ、世界中から援助資金が集まった。紛争が続けば国際社会からの非難と復興資金が得にくくなるということから、昨年八月フィンランドのヘルシンキで和平協定が調印された。そしてアチェの治安は回復していった。
しかし、ティティポビエン村ではその後も戦闘は止まなかった。バンダアチェから車で十五時間以上もかかるアチェの辺境の村のため、外国人の目にさらされず、外国からの支援が届きにくかったからだ。
避難生活を終え村に帰還が始まったのは、今年初めになってからだという。今、村の小学校には毎朝生徒が集まって来る。しかし校舎の崩壊はひどい。州都バンダアチェなどの学校が立派に改築されていくのとは正反対だ。
居住環境も最悪だ。水道どころか井戸もなく、雨水を溜め使っている。洗濯が困難なため、着替えの回数が少なく、皮膚病の患者も多いという。豆や香辛料などの農作物を売って食べていくことはできる。しかし復興景気で湧くバンダアチェとはすべてが対極にあるアチェ最貧の村と言っていい。
十二月十一日、この村でもアチェの正副州知事を選ぶ選挙が行なわれた。投票者九十六人中、八十五票を得たのは、GAM出身の候補イルワンディ・ユスフ氏とモハマド・ナザル氏のペアだった。
投票した村の男性たちに聞いた。
「住民はGAM支持ではない。GAMのせいで国軍との戦闘に巻き込まれ、長い避難生活が続いた。帰還しても地方政府は村を見捨てている。誰がインドネシアを好きになれますか?」
「今の生活に満足している住民はいない。今までの知事は何もしてくれなかった。それを変えて欲しいので、新しい候補に入れた。独立したいんじゃない、平和なアチェがこのまま続いて欲しいのです。」
もう紛争に巻き込まれるのはこりごりだ、これまでのインドネシアに「ノー」と言い、和平の継続を願い、時代を後戻りさせたくないという思いが伝わってくる。
*孤軍奮闘する日本のNGO
ティティポビエン村のような紛争に巻き込まれた村を回りながら、活動を続ける日本のNGOがある。岡山市に本部がある国際医療NPO「AMDA」は、今年二月から南アチェ県の県都タパトゥアンに事務所を開き、松浦佳月さんはそこに八月から常駐している。
それを聞いたとき、私は耳を疑った。県都とはいえ、タパトゥアンは歩いてもすぐ通り過ぎるほどの商店街があるだけの小さな町だ。そのうえ州都バンダアチェから車で十五時間以上かかる、アチェで一番アクセスが悪い県だ。紛争や災害が起きても、その情報が最も伝わりにくいアチェの辺境の地だ。
私はこれまで、巨大津波前のタパトゥアンを三度訪れている。県都であるだけに、武装した国軍兵士や警官が目立つ。しかしアチェでは治安を守るはずの彼らが住民に対して威張り散らし、権力を悪用する事件がよく起こっていた。
私が泊まったホテルでは、警官が職務と称して客の部屋に入り、金銭を巻き上げるということが起きていた。外国人と接触しただけで住民をGAM(独立派武装組織)とみなし、拷問を加えることもあった。私にとって印象のよい町ではなかった。そんな町に日本人女性が一人で住んでいるのか。
AMDAが南アチェを活動の地に選んだ理由は、アチェで条件が一番厳しいからだという。バンダアチェはもちろん、アクセスのいい町は簡単に事務所が開け、生活も楽だ。しかしそれでは、取り残された僻地の住民を救えない。津波の被災者だけでなく、紛争に巻き込まれ困難に直面している住民も支援するためには、南アチェに事務所を開くことが必要だったという。
ジャカルタから直行便も出て日帰りもできるバンダアチェには、メディアの取材も集中する。報道されることで活動資金を集めることもできる。しかしAMDAのタパトゥアン事務所には本部の人も訪れず、バンダアチェ事務所から日本人が訪れることもめったにない。
「寂しくはない。でも話し相手が欲しい。」と、松浦さんは言う。
AMDAが南アチェで支援する四つの村は、どこも幹線道路を外れガタガタ道の先にある。増水すると渡れなくなる川の向こうにある村もある。それは奥地で紛争が起こっていたことを物語る。そこに看護婦を巡回させ薬品の配給をしている。子どもたちへのトラウマケアとして絵本を提供し、住民の憩いの場として集会所も建設した。今後も資金が続く限り、南アチェで活動を続けるという。
「仕事はインドネシア人のスタッフに任せています。私は一緒に付いて行っているだけです。」と、松浦さんは言うが、外国人が姿を見せることが村人の心の支えになり、悪事を働く国軍兵士や警官の抑止力になっているはずだ。松浦さんはどこの村でも暖かく迎えられていた。
ティティポビエン村のジャワリヤちゃん(15)は、小学生のとき学校を焼かれ、その後避難生活を続けていた。今は家族で村に帰還し、五キロ離れた隣村の中学校に自転車で通っている。夢はAMDAの仕事を手伝える看護婦になることだという。
ジャワリヤちゃんは私たちに村で採れたばかりのランブータンをたくさんくれた。私は車の中で食べ続けながら、夢を叶えて欲しいと願った。
*アチェの西海岸を走る
アチェの面積は九州より広い。巨大津波が襲った西海岸の総距離は五百キロ以上にも及ぶ。津波の直撃を受け道路や橋が消失したりしてとくに被害がひどかったのが、震源に近いバンダアチェ−ムラボ間約二百五十キロだ。
今回の旅で南アチェのタパトゥアンに行くことに決めたとき、何とかこの道を通って行きたかった。修復状況を見たかったのはもちろんだが、西海岸の景色は、私が旅したインドネシアの景色の中でも一番といっていいからだ。白砂の海岸、荒々しい岩場、色鮮やかな漁船が停泊する穏やかな港など、インド洋から押し寄せる荒波が多様な海岸線を作り出している。
しかしバンダアチェで聞くと、今はまだムラボへは山越えが一般的だと言われた。バンダアチェから東海岸を南下しシグリに向かい、そこからスマトラ島の背骨のようにのびるバリサン山脈を横断し、ムラボに至る十時間ほどかかるルートだ。
チャーターすれば別だが、ふつうは十人以上の人と荷物がワゴン車に満載される。きれいな海の景色は解放感に浸れるが、山越えは苦痛だ。ときどきそのルートを利用するAMDAの人たちは、長時間単調な景色を見て移動するより夜行に乗り目を閉じて耐えるという。私は景色の見えない夜行が嫌いなので、シグリとムラボで泊まり、タパトゥアンに行った。
しかし帰路は海岸線の道路を走ることにした。ムラボを朝出発し、夜バンダアチェに着くという乗り合いのワゴン車を見つけたからだ。九時間以上と津波前の倍の時間かかるが、きれいな景色と津波後の町のようすを見ることができる。だが当日の朝になって、「今日は走れない」と言われた。バンダアチェに近いラムノで住民が道路を封鎖しているという。車も道路もあるのに走れない、それもバンダアチェまであと一時間という所で。
ムラボから三時間ほど先のチャランまで行く車はあるという。私はチャランまで行き、その先は外国のNGOなどの車をヒッチハイクしたり、少しなら歩いてでもバンダアチェに向おうと思った。ムラボ−チャラン間の道路は日本の援助で建設が進んでいる。途中砂地で車を押したり、ガタガタ道をノロノロ走ったり、まだまだ完成にはほど遠い。しかし舗装されれば一時間余りで結ばれ、人や物の流れが復活する。
大きな被害を受けたチャランはまだ復興が進まず、津波前の活気はない。政府が建てた住宅は電気が通っていないので人が住んでいない。しかし紛争の恐怖から解放された住民の表情は明るく、おいしいアチェのコーヒーを飲ませるカフェも賑わっている。二時間ほど待ち車を見つけ、一時間先のパテックまでは行けた。車窓からの海の景色は以前と同じく美しい。だがその先に向う車はなかった。
残念だが来た道を十五時間以上かけて戻らなければならない。そのうえぎゅうぎゅう詰めの車しかなかった。唯一のとりえは、その土地に詳しい運転手や乗客と話ができることだ。しかし長時間の移動を強いられる被害者である彼らは、道路を封鎖している住民をかばった。
援助を自分の懐に入れている地方政府の役人に対し、土地や家を失った住民が補償をしてくれと抗議する気持ちは分かる。どこでも起こり得ることだという。あんな政府だから選挙に負けたのだともいう。そして日本など外国の援助で道路ができたのに、その道を日本人が通れないのは気の毒で申しわけないと、疲れにくい席を譲ってくれた。
ちょうどその頃ラムノで取材していた記者に後で聞いた。住民たちは斧などで車に襲いかかるポーズをみせていたが、話を聞いてみるといい人たちで納得できたという。
インドネシア援助につきももの汚職の構造を変えていかなければ、アチェの将来も多難だろう。もうGAM(独立派武装組織)だとか、GAMじゃないとか言っている場合じゃない。人と金が集中するバンダアチェの恩恵を早く地方に回すことが必要だ。
| 香港のインドネシア人──2006.11.29 第13回 |
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インドネシア・バンドン出身のアニさんはタイオウ暮らしが6年になる |
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インドネシア雑貨店にはレートのいい両替所もある |
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ビクトリアパークでは平日もインドネシア人が集まり、 |
海外で自国の言葉を聞くと、耳を傾けたくなるものだ。香港ではいたるところからインドネシア語が聞こえてきた。私にとって自国の言葉ではないが、耳を傾けた。人口七百万の香港には、十一万人ものインドネシア人のメードさんが暮らしている。十三万人のフィリピン人に迫る勢いだ。
香港のカンプンで
香港の最大の島ランタオ島(大嶼山)は、98年島の北部に新空港が開港し、昨年末、島の東部に香港ディズニーランドがオープンした。香港中心部から地下鉄が伸び、高層住宅が建設され開発が進む島である。
島の西端には海や川の河口に張り出すように水上家屋が集まる村、大澳(タイオウ)がある。しかしここには高層ビルどころか自動車も走っていない。
徒歩で移動する以外は、自転車と運河を行き交うボートが移動の足なので、いわゆる香港のイメージからは懸け離れている。イタリアの水の都ベネチアの香港版という人もいるが、芸術的で華やかなところなどまったくない。お年寄りが手押し車を押して歩いている、懐かしい空気が漂う村だ。
しかし四十年ほど前には漁業や海産乾物製造で栄え、大澳の人口は一万人を超え、ランタオ島隋一の村だったという。棚屋と呼ばれる水上家屋が増えたのも、当時の移民の増加によるものという。だが現在は人口二千五百人に減り、高齢者が目立つ過疎の村だ。
とはいえ香港の中心部から二時間足らずで行けるので、静かな村と名物の海産物を目的に訪れる観光客も増えているという。
私もそんな香港らしくない大澳を歩いていた。すると、土産物屋の店先からインドネシア語の会話が聞こえてきた。耳を疑ったが、紛れもないインドネシア語だった。店番をし、客の相手をしていたのは、二人のインドネシア人の女性だった。
「なぜこんなところにいるんですか」と、私は質問した。
「なぜって、ここで働いているんです。あなたの方こそ、なぜこんなこところに来たんですか。インドネシア人の観光客をここで見たのは初めてです」と、中部ジャワ出身の彼女は言った。
私はインドネシア人でなく、日本人だと言ったので二人は納得したようだ。彼女たちは大澳に来て二年になるが、広東語もしゃべる。家事手伝いの仕事なので、海産物を売る仕事も手伝っている。他にもインドネシア人はたくさんいるという。
香港にはフィリピン人のメードさんが多いことは知っていたが、インドネシア人からもたくさん来ているのか?
商店街を抜け、水上家屋のある住宅地を歩いていたら、お婆さんの手を引いているインドネシア人らしき女性に会った。彼女はお婆さんとは私にはわからない広東語で会話をしている。
「インドネシア人ですか」と私はインドネシア語で声を掛けた。
「そうです。ちょっと待ってね。お婆さんを家に送って来るから」と、彼女からインドネシア語で答えが返ってきた。
すぐに彼女は戻って来た。バンドン出身のアニさんは大澳暮らしが六年にもなる。家事手伝いの仕事は、高齢者の世話、買い物、荷物運びなど何でもしなければならないが、それほど大変ではないという。
「昔ここにはフィリピン人が多かったの。でも彼女たちは英語しかしゃべらない。私たちは英語ができないから、広東語を覚えたの。今、大澳にはインドネシア人が五十人くらいいるんですよ」と、アニさんは誇らしげに言った。
先週まで二週間、断食明けの休みを利用して、インドネシアに帰省して来たばかりだ。毎週日曜日にはバスと地下鉄を乗り継いで香港に行き、買い物やインドネシア人の友だちに会って来るという。
「ここは香港のカンプン(田舎)です。若者は町に働きに行き、高齢者が多く残り、刺激がない村ですよ。でもインドネシアに帰りたいとは思わない。いい職を捜すのが大変だからね」
香港の辺境の村でインドネシア人に会って驚いた私は、翌日香港の中心部でもっと多くのインドネシア人に出会った。
香港の中心部で
香港島の中心部銅鑼灣(コーズウェイベイ)は、かつて日本の百貨店が軒を並べていた繁華街だ。しかし今年の三越を最後にすべて撤退してまった。(そごう、西武は香港資本が経営)
その銅鑼灣で何軒ものインドネシア雑貨のスーパーを見かけた。
そのひとつ「ワルン・チャンドラ」はレストランも兼ね、「印尼美食館」と漢字の看板も架かっている。店内ではインドネシアのお菓子やインスタントラーメンが陳列されている棚に囲まれ、数人のインドネシア人女性がおしゃべりをしながらアヤムゴレンやガドガドなど故郷の料理をおいしそうに食べていた。
レジの女性はバリ島出身のヒンドゥー教徒だ。
「豚肉料理はありますか」と聞いたら、「いいえ、ここでは豚肉は使っていません。お客のほとんどはイスラム教徒ですから」という答えが返ってきた。
この店は三十年前にオープンした。もとは近くにあるインドネシア大使館の職員が利用するレストランだった。しかし香港でメードさんとして働くインドネシア人が増えたので雑貨を売るようになった。すると客層が変わってしまい、三年前にレストランのスペースを小さくし、スーパーに改装した。
商品の値段はインドネシアの二割増しくらいだ。食品だけでなく、石鹸やシャンプーも置いている。安い中国製よりも使い慣れたインドネシア製が好まれるという。バティックのシャツや流行のインドネシアポップのカセット、一週間遅れの雑誌などインドネシアの匂いがプンプン漂う店だ。
買い物に来ていた大使館員の男性に聞いたところ、今香港には約十一万人のインドネシア人がいるが、(日本人は約三万人)九十九パーセントが女性だという。仕事をしていて毎日増えている感じがする。彼女たちの世話でとても忙しいという。
インドネシア人は香港の人たちに好かれているともいう。これまで多かったフィリピン人は英語をしゃべるが、広東語を勉強しようとしない。それに対しインドネシア人は難しい広東語を勉強して、香港の人と会話ができるようになるからだ。
そして一番の違いは、例えば子どもの世話をして欲しいと頼むとフィリピン人はそれしかしないが、インドネシア人はその他の家事もお年寄りの世話も何でもする。そんな性格が香港の家族に愛されているという。
平日の公園で
香港ではどこにいてもインドネシア語が聞こえてくる。市場に行くと買い物かごを持ったインドネシア人たちを見かける。
私が泊まったホテルにも、インドネシア人のメードさんが働いていた。彼女は広東語だけでなく英語も勉強したので採用が叶ったという。
しかしやはりインドネシア人が一番目だったのは、香港の原宿ともいわれる銅鑼灣(コーズウェイベイ)の中心部だった。
シュガーストリート(糖街)には、インドネシア人相手に携帯電話を売る店がある。店番をしている二十五歳の女性はスラバヤ出身の聡明な美人だ。六年前にメードとして香港に来たが、二年前に香港人と結婚した。以来店を任されているという。彼女のように香港で結婚するインドネシア人女性も増えているらしい。
メードさんたちにとっても携帯電話は人気商品で、プリペイドカードもよく売れるという。インドネシアのインドサットはサービスショップ「ムンタリ」を開き、香港で使えるカードを売っている。
この通りはルピアの両替店、インドネシアへの送金を請け負う店も多く並ぶ。看板には、「一時間で送金できます」と書かれている。インドネシア人向けのヘアーサロンやインドネシアの銀行などが入ったショッピングセンター「銅鑼灣廣場」などもあり、どんどんインドネシア化が進んでいる。
近くのビクトリアパークには平日でも大勢のインドネシア人のメードさんが集まり、お喋りを楽しんでいる。遠くから来た人もいれば、近くで働いているメードさんもいる。
スマラン出身のアシさん(26)は、うれしそうに七百香港ドル(約一万円)で買った新しい携帯電話を私に見せてくれた。
メードさんの月給は一律三千四百香港ドルだという。香港では労働者の最低の賃金だそうだが、アシさんがインドネシアで前に働いていた工場の五倍以上の金額だ。仕送りをしても、残ったお金でいろんな買い物ができるという。そういえばみんなしゃれた服を着ている。
彼女たちによると、中東諸国への出稼ぎは気候が厳しく大変だ、シンガポールはインドネシア人を見下しているので嫌だ、香港は自由があるので一番いいという。
香港は中国に返還され九年になるが、中国政府は中国人が香港に急増することを避けるため移住を制限している。そのため外国人の出稼ぎを受け入れ、今女性はインドネシア人、男性は南アジアの人たちが増えているという。
中国の急速な経済発展に世界が脅威を感じているなか、香港のインドネシア人パワーには目を見張るものがある。
彼女たちは地方出身の素朴でまじめそうな女性が多い。優秀でも進学できず、インドネシアでは希望の職に就けなかった女性も多いはずだ。海を渡り香港に来て、広東語のジョークを交え楽しそうにお喋りしている彼女たちの姿を見て、エールを送りたくなった。
| どこへ行く東ティモール──2006.8.17 第12回 |
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西ティモールの街道でみかんを売る少女 |
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西ティモールのソエでイカットを腰に巻き、正装して歩く男性 |
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ティモール島各地で見られる伝統家屋 |
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アタンブアのハリウェン村で暮らす東ティモールからの難民 |
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インドネシアと東ティモールのモタアイン国境は |
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国境からディリに向かう幹線道路も通行量は少ない |
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ディリでインドネシア製の煙草を売る青年たち、値段は約2倍 |
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乗り合いバスが不足しているので、 |
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独立から4年、相変わらず人気はインドネシアの音楽 |
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ずっと東ティモールの歴史を見届けてきた |
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今年5月末のディリ暴動で放火された警察の寮 |
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5月26日のディリ市内での銃撃戦の銃弾跡 |
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5月末の暴動から2カ月以上経っても、 |
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ディリでは投石や喧嘩は日常茶飯事、 |
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ディリの海岸でサッカーをする若者も日没前に家路に戻る |
ティモール島は空気が乾き、吸い込まれそうな青い空が広がっていた。この季節、冬のオーストラリア大陸から吹いてくる寒気の影響で、日中は涼しく、朝晩は寒いくらいだ。
ジャカルタから西ティモール(インドネシア領)のクパンまで2000キロ、一気に飛んできた。しかしここからは青い海、緑の山、道端に咲く赤いハイビスカスなど原色の自然の景色を見たくて、東ティモールのディリまで約400キロを車で移動した。
私が初めて訪れた1989年は、橋が壊れていたりして20時間以上かかった。その後、何度もティモール島を旅した。今は半分以下の時間で着く。2002年5月、東ティモールが独立してできた国境を空路ではなく陸路で超えることも旅の目的だ。
怖かった西ティモール
99年9月、私は西ティモールを訪れた。インドネシアからの独立の是非を問う8月30日の住民投票前後、東ティモール各地で騒乱が起き、数十万人が西ティモール避難してきた。その避難民の取材だった。どの難民キャンプも独立に反対する民兵たちの支配地域だった。紅白のインドネシア国旗がはためき、赤ん坊の泣き声が止まず騒然としていた。民兵たちは小銃を片手に、外国人狩りをしていた。外国人はみな独立を助けたとみなされていたからだ。
あれから7年、私が怖い思いをしたクパンのノエルバキ難民キャンプも危険な雰囲気はなかった。途中のニキニキやケファなど町も平穏だった。外国人や国連の車が民兵組織によく襲われ、警察が機能していなかったアタンブアの町も、落ち着いていた。
茅葺きの伝統家屋も見られるティモール島はイカット(絣織物)の産地が点在する。ソエの町で会った男性は頭や上半身にオランダ植民地時代のコインを飾り、イカットを腰に巻きさっそうとした正装姿で歩いていた。
東ティモールに帰れない
しかし東ティモールに近いアタンブアには、今でも数万人といわれる難民が暮らしている。そのひとつハリウェン村を訪ねた。
東ティモールのマリアナで小学校の先生だったウジャ・ゴメスさん(38)は、家族でアタンブアに逃げてきた。キャンプを転々とし、ハリウェン村に移り住んだ。妻や子ども3人と暮らし、ここでも先生をしながら、トウモロコシなどを栽培している。
「公務員なのでインドネシアから給料をもらい安定していた。だから独立には反対だった。マリアナには姉弟もいるが、まだ怖くて帰れない。私の仲間が独立派住民を襲撃したことを覚えている人がいるからだ。仕返しされる。帰っても怖くてまた戻ってきた者も多い」と話す。
今、ハリウェン村は880世帯の難民が暮らす。3年前、国連やNGOが支援を縮小したので、900世帯がよその村に移っていったという。
娘を奪われた
2002年7月、私は東ティモールのスアイを訪れた。そこで独立反対派の民兵幹部に娘さんを連れ去られた母親ドミンゴスさんに会った。
99年9月6日、神父や修道女が虐殺され教会が焼かれた、東ティモールで最大の「スアイ暴動」が起きた日のことだ。民兵組織ラクサウルの幹部マネックは、ドミンゴスさんに小銃を突きつけ、「おれの女房にする」と当時18歳だった長女ロラさんを奪っていった。1年後、NGOの仲介でアタンブアから手紙が届いた。「お母さん、男の子が生まれました。夫と3人で元気に暮らしています。私のことは忘れて下さい」と書かれていたという。
今回、そのロラさんの消息を追った。今年6月までアタンブアに住んでいたという。その家を捜し、近所の人に話を聞いた。
「マネックの妻は5人いて、そのうち3人とここで暮らしていた。ロラとの間には2人の子どもがいた。3年前、マネックとロラは国境で母親に会い、結納金を渡した。だからロラはもう母親の元に帰れないだろう」
マネックは昔と同じように、博打の元締めで大金を稼いでいる。
「ここに住んでいた頃はヤクザが集まり怖かった。いなくなってほっとしている。マネックの弟は東ティモールに戻り、殺された。彼も仕返しが怖くて帰れない。国境に近い町ベドゥンに移ったが、新しい住所は分からない」
携帯の番号を教えてくれたが、何度掛けても繋がらなかった。
ディリを目指す
西ティモールのアタンブアから東ティモールの会社が首都ディリまで、直通バスを走らせている。約100キロ、3時間かかる。料金は11米ドル。クパンからアタンブアまで300キロが5万ルピア(約600円)に比べ高すぎる。インドネシア時代、東ティモールはインドネシアのルピアを使っていたが、今は米ドルが公式通貨だ。
直通バスでなく、国境のモタアインまでミクロレット(小型バス)に乗ると5000ルピア。約1キロ歩いて国境を越え、東ティモールのバスに乗り換えれば、そこから5米ドルで行けるという。新しい国の国境を歩いて越えるのも悪くない。
アタンブアの市場で満員になるまで30分待ち、ミクロレットは出発した。乗客は市場で買い物をして家に帰る女性がほとんどだ。約1時間後、モタアインに着いたときは私ひとりになっていた。国境でまず警察に寄りパスポートを提示。その後イミグレーションでパスポートに出国スタンプを押され、税関と軍で簡単な荷物検査を受けた。
海岸に沿った道を少し歩き、東ティモール側のバトゥガデ国境に着いた。1人の男がクロスワードパズルに熱中していた。パズルが終わるまで10分ほど待たされた。彼は税関の職員だった。インドネシア以上にのんびりしている。その後、入管でパスポートにビザのスタンプを押された。ビザ代は30米ドル。2年前から国境で3ヵ月有効のビザを発行するようになったという。私はその日、26番目の入国者で、日本人は久し振りだと言われた。多いときは1日100人以上がここから東ティモールに入国するが、最近は50人以下に減っているという。
バスがない
国境を越えると14時半だった。独立した東ティモールはそれまでなかった西ティモールと1時間の時差ができた。同じ島に時差など必要ないと思うが、東ティモールは日本と同じ時間になった。ディリ行きのバスを待った。1時間近く待っても来ない。
「もう今日のバスは終わった。ここで寝るか、オジェック(バイクタクシー)で30分の町に行き、宿を捜すしかない」と、売店の女性は言った。
3年前、この国境に来たとき夕方まで何本ものバスが出ていたのに、どうしたことか。
そこにインドネシアのトラックが通りかかった。ディリまで行くというので、乗せてもらえることになった。6台のトラックで80頭の牛をディリからクパンまで運ぶという。牛はその後船でスラバヤまで運ばれる。週に3回東ティモールに行くというから道路状況も把握しているので、安心できそうだ。しかし運転手は言った。
「東ティモールの治安は半分しか回復していない。注意した方がいい」
真っ青な海を見ながら快適に飛ばしていたら、小さな村に通りかかった。道路に青年が集まっていた。大きく腕を広げ、「止まれ」という。金を要求してきた。酒に酔っている青年もいた。運転手は断った。すると車体を叩かれた。運転手はアクセルを噴かし突破した。ディリに着くまで数回同じことが起きた。
「何も仕事をせず援助を頼りにしたり、こうやって金を巻き上げようとする若者に金など渡せるか。僕はトラックの運転をして稼いでいる。その気になれば仕事はいくらでもあるはずだ。インドネシア時代に造った道路や橋が壊れている。彼らは自分たちで直そうとしない」と運転手は興奮して言った。
寂しい首都ディリ
私は5月末に起きた暴動から2ヵ月以上たち治安が回復したと思っていたが、そうではないと運転手はいう。
「ディリは外国の軍隊や警察がいるので危なくない。でもディリの外は警察の力が及ばない無法地帯だ。この車はインドネシアのナンバーだから安全だ。でも東ティモールの車やバスは彼らの検問を受け、気にいらないと何をされるか分からない。彼らは兄弟で戦争を始めたんだ」
99年8月の独立の是非を問う住民投票の前にも、独立に反対する住民がこの道で検問を行ない、賛成派だと分かると暴力行為を働いていた。インドネシアの国軍や警察が渡した小銃を持っていた者もいたが、鎌のような農機具を振り回す者もいた。血だらけになった男が私の乗った車に助けを求めてきたこともあった。あのときの嫌な記憶が蘇った。
バトゥガデ国境から2時間、ディリの入口に着いた。マレーシアの軍隊が検問をしていた。オーストラリア軍のパトロールも見かけた。ほっとした。しかし5月以降の騒乱で放火され、破壊された家屋がいたるところで無残な姿をさらしている。
運転手は中心部のホテルまで送ってくれた。前には満室で泊まれなかったこともあるホテルだが、客が少なくひっそりとしていた。チェックインを済ませ、外に出た。まだ18時半だというのに多くの店がシャッターを降ろし、人通りが消えていた。タクシーもオジェックも走っていない。海岸通りまで歩き首相府に寄った。建物は立派だが警備の警官が2人いるだけで、まったく人気がない。蛍光灯に照らされた白壁にヤモリが張り付いていた。開いていたレストランで食事を済ませ、街灯の消えた真っ暗な道を1人で歩いてホテルに帰った。途中すれ違ったのは豚と野良犬だけだった。
「ディリでは毎日住民同士の衝突が起きています。だから日が沈むと、住民は怖くて家の外に出ないんです」と、ホテルの従業員は言った。
誰もいないホテル前の道を、夜警をしているオーストラリアの装甲車が大きな音を立てて走って行った。インドネシア時代の89年から10回以上訪れているが、こんな寂しいディリは初めてだ。
東西対立拡がる
8月5日夕方、ディリの中心部コルメラ地区で、何者かがタクシーの後部ガラスに投石する事件が起きた。失業者があふれ「暇人」が多いディリでは、あっという間に野次馬が集まってきた。しばらくして東ティモール警察に代わりディリの警備をしているオーストラリア警察などが駆けつけた。
野次馬たちは私に、西部出身者が東部出身の運転手を狙い投石したと話してくれた。しかしそうではなく、運転手は西部出身で2人の乗客は東部出身だった。投石した者は逃げたので誰か分からず、乗客を狙ったのか、運転手を狙ったのかも分からない。警察は、今日はこれで投石事件が3件目だといった。
私が遭遇した投石事件の話は尾ひれが付いて、あっという間に拡がっていた。友人宅やレストランなどで聞くと、ケガ人が5人とか、運転手は武器で反撃したとか嘘ばかりだ。ディリの住民が外出を控え、日没と同時にほとんどの店が閉まってしまうのは、こんな投石や喧嘩が起こるたびに悪い話が浸透し、不安が拡がってしまうからだ。
人口100万人に満たない東ティモールで、国民が力を合わせて新しい国づくりを進めていかなければならないときに、国を二分する東西対立が拡がってきている。これまでは東のロスパロスとか、西のリキサというように生まれた地名を言っていた。
しかし東部出身の「ロロサエ人」と西部出身の「ロロモヌ人」という聞いたとこもないような区別ができつつある。乗りやすい東ティモールの人たちを、誰かが扇動して東西対立を煽るっているのではないかとも思ってしまう。
自宅に戻れない避難民
ディリには今、10万人の避難民が30以上のキャンプで暮らしているという。私の昔からの友人オリビオさん(27)は、5月末の暴動後、家財道具を山間部の親戚宅に移し、昼間はディリの自宅で暮らしている。夕方になると車を運転してキャンプに行く。食事が与えられるし、みんなで夜を明かした方が安全だと信じているからだ。
妹のシルフィアさん(20)はインドネシアのジョグジャカルタに住んでいる。ちょうど中部ジャワを襲った地震とディリの暴動の時期が重なった。被災したシルフィアさんは生まれ育ったディリに戻りたかったが、ディリの方が危ないので帰省をやめさせた。今、シルフィアさんは元の生活に戻ったが、オリビオさんは2ヵ月以上たっても不安は消えないという。
ザヌワリウ・シルバさん(43)は、港の前の避難キャンプで暮らしている。東部のフィケケ出身だが、家族と20年以上ディリで暮らしていた。5月末の暴動時、「お前はよそ者だ」と言われ、家の窓ガラスが全部割られた。そんなこと言われたのは初めてだった。家は徒歩15分のカイコリ地区にあるが、怖くて帰る気になれない。
「大きな衝突は起きていないからニュースにはならないが、避難民がたくさんいることを忘れないで欲しい」と言う。
5月の暴動
5月26日、ディリ市内各地で銃撃戦があった。日本人もよく利用する中華料理店「88」の店主曾徳源(ジョニー・チェン)さん(45)に話を聞いた。
「ちょうど昼食時だったので店に客もいた。銃声が聞こえ、慌ててシャッターを閉めた。隙間から覗くと軍と警察の銃撃戦だった。婦人警官も混じっていた。店に向って発砲してきた。弾の跡が残っている」
そのあと曾さんはマレーシア軍の飛行機でディリを脱出した。
「2週間後にディリに戻って感じたことは、東西が対立しこれまで以上に住民に不安が拡がっていることだ。お得意さんだった日本人はまだ帰ってこない。それも仕方がない」
国連の事務所近くでも銃撃戦があった。武装したグループに追われた警官が国連の敷地に逃げ込んできた。職員の平井はなよさんは、昼食をカフェテリアで取っていたとき銃声を聞き、60人くらいの職員と30分くらい床に伏せていた。その日は帰宅できず、事務所で泊まった。その後オーストラリアのダーウィンに避難したという。
一連の衝突と暴動で30人以上の死者がでた。略奪も横行した。外国の治安部隊が展開するようになり治安が回復したが、それは首都ディリだけだ。東西の対立があるというのに、地方に外国の部隊はいない。東部の町バウカウなどでも多くの住民が避難所で暮らし、怖くて自宅に戻れない。
私はインドネシア国境からディリまで2時間車で走っただけで、「無法地帯」を実感した。機能していない東ティモールの軍や警察を国民は信頼していない。国外に退避していた外国人もこれから戻ってきて、地方の復興に携わる仕事を再開する。国連も日本の外務省も東ティモールの危険度を下げたが、安心してはいけない。外国の治安部隊の全国展開が必要だ。
国連はどうするのか
外国軍が撤退した後の治安が不安だとずっと言われ続けてきたのに、国連は昨年5月で東ティモールから治安部隊を完全撤退させた。そして今年になって表面化した政権内部や軍の権力闘争を傍観しているだけだった。そして5月末の暴動に発展した。今回の事態を招いた責任は重い。
国連東ティモール事務所(UNOTIL)の代表は、日本人のH氏だ。ディリの人たちに聞いてみると、驚くことに誰もそんな日本人を知らないという。同じ日本人としてとても残念だ。以前ほどではないにしろ、東ティモールでの国連の存在は大きい。そのトップのパフォーマンス次第で、乗りやすく、扇動されやすい東ティモールの人々の心はつかめるはずだ。不安を解消し希望を持たせることは必要だし、国連の重要な仕事だ。住民投票時のマーチン氏やその後のデメロ氏は今でも彼らにとって英雄だ。国連に大金を拠出している日本は、もっと注文を付けていいはずだ。
独立支援やその後の国造りなど多くの日本人が東ティモールに関わってきた。長期にわたり献身的なNGO活動を続けている人もいる。自衛隊も派遣され、インフラ整備に携った。5月末の暴動前には、100人近くの日本人が東ティモールで働いていた。東ティモールの人に記憶に残る日本人が増えて欲しい。
ディリの市場ではインドネシア製の食糧や雑貨がたくさん売られている。カセット屋を覗くと相変わらずインドネシアの音楽が人気だ。インドネシアの煙草を売っている青年は言った。
「評判の悪かったマリ・アルカテリ首相がラモス・ホルタ新首相に代わっただけで、暮らしがよくなるわけじゃない。そんなこと誰でも分かっているはずだ。だから小さな国で東西に分かれて戦っている場合じゃない。意味がないよ」
| ジャワ島南海岸津波──2006年7月21日 第11回 |
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ここまで水に浸かりました |
パガンダラン役場の遺体安置所 |
この下を津波が襲った(ホテルのベランダから) |
パガンダランの住宅街 |
助かった生後六カ月のスリスティアワティと父のサルノさん |
壊れたボート |
パガンダラン海岸のホテル街 |
津波の翌日から片づけが始まった |
流された車 |
魚網を手入れする漁師 |
被災地へ急行
ジャワ島の南海岸で津波が起きた7月17日の夜、私はたまたま毎日新聞のジャカルタ支局にいた。時間を追って死者の数が増えていく。信頼できそうな地元メディアは死者80人と伝えた。しかし地震発生から6時間以上たっても現地からの映像はない。
多くの犠牲者が出ているパガンダランは、観光地とはいえ中部ジャワ地震のジョグジャカルタのように有名な場所ではない。アクセスが悪いということもあり、現地に「行く」か「止めるか」判断に迷う。
翌日の朝刊の記事を送り終えた0時前、支局長の井田さんは東京の本社に相談し、「行く」ことに決めた。
問題はもう1つあった。運転手を捜さなければならない。支局に勤める年配の運転手を夜通し走らすわけにはいかない。しかし電話で別の運転手を捜したが、深夜なので見つからない。
ガンビール駅にいるはずだと私は思った。深夜に到着する列車やバスの客が利用するためのタクシーだ。私たちは3キロほど離れたガンビール駅に急行し、数人の運転手に面接をし、車を調べた。タクシーと言ってもいわゆる白タクだ。足元を見て値段を吹っかけてきた。その中で100万ルピア(約1万3000円)の値下げに応じた、故郷がパガンダランに近い運転手を選んだ。
最初は不安だったが、結果的にはとても彼に助けられた。ジャカルタからパガンダランまで約350キロ、ひと休みもせず、安全かつ猛スピードで飛ばし6時間ほどで到着できた。夕刊用の取材が充分でき、記事を書き、東京に送ることができた。
地震から一夜過ぎ、車の外が明るくなったのは、西ジャワ州チアミス県のバンジャールを過ぎた6時頃だった。パガンダランまで60キロ、朝もやのかかった水田にオレンジ色の太陽が昇った。制服を着て通学する小学生、客待ちのバス、バイクも車も普通に走っている。被災地に向かうときは得てしてこうだ。日常の風景が突然一転する。
しかし1時間以上走っても、壊れた家どころか、負傷者さえ見かけない。結局パガンダランに着くまで、地震で被害にあった家を1軒も見なかった。それもそのはず、津波で破壊された家屋の前で聞いたら、驚くことに地震の揺れをまったく感じなかったという人もたくさんいた。
パガンダランでは津波が突然襲ってきたようだ。泳いでいたり、砂浜で遊んでいたら、急に大きな波がやってきて流されたと言う人が何人もいた。アチェの津波以降、地震だと知れば海から遠く離れた場所にいても、慌てて逃げるのが今のインドネシア人だ。地震を感じていれば、もっと早く避難ができていたはずだ。自然は想定外に人を襲う。
漁民と移民が暮らす町
私が初めてパガンダランを訪れたのは、1985年8月だった。最初にインドネシアを旅したとき、バンドンからジョグジャカルタに行く途中、立ち寄った。当時は漁村に安宿が点在する静かな町だった。その後も一度、海岸の近くに広がる自然公園にラフレシアなど珍しい植物を見に行った。
しかし今回大きなホテルやレストランが増えているのを見て驚いた。ジャワ島の南海岸には小さな漁村は多いが、大きな町はあまりない。静かな漁村がこの10年余りで外国人も訪れる観光地に変わり、人口が増えていた。そのパガンダランで一番多くの被害者が出た。
滞在中話を聞かせてくれた人も、よそから移り住み観光客相手に商売をしている人が多かった。
モスクに家族で避難していたヤウジウさん(58)は、海岸沿いの店で西スマトラのパダン料理屋のオーナーだ。近所には家族が営む土産物屋が数軒あった。地震は感じなかった。突然津波に襲われ、海岸で遊んでいた息子と孫が行方不明になった。津波が来ることを察知しバイクで逃げ伸び、どこかで助かっていることを祈っている。
ワキジョさん(35)は家族と一緒に、50体以上の遺体が収容されている役場の近くで座り込んでいた。ジョグジャカルタ出身で10年ほど前から、観光客向けの衣料品店を経営している。5月末の地震の方が揺れは大きかった。あのときは心配で故郷の両親を見舞いに行った。今度はパガンダランで津波が起き、妻と自分の店を失ってしまったという。
サルノ(35)さんは、海岸沿いのホテルの経営を任されている。オーナーは西ジャワのバンドンにいる父親だ。その父と海で遊んでいた3人の子どもと奥さんが津波に呑まれた。ときどき大きな波が来るから、海では遊ぶなと言っていた。でも父親と一緒だから油断していた。サルノさんも、掃除をしていたから地震には気付かなかったと言う。
父親は頭にケガしただけで、無事だった。夜浜辺で、木に吊るされるような格好で死んでいた次男を見つけた。そして奥さんも遺体収容所で見つかった。
翌朝、海岸の木の下から大きな泣き声が聞こえた。生後5カ月の次女のスリスティアワティだった。見つけてくれたのは知り合いだった。かすり傷を負っていただけで、奇跡的に助かったが、母を亡くし、おっぱいが欲しいと泣き止まない。店が閉まっているので粉ミルクが買えないと言う。
サルノさんは大切な身内を亡くしたのに、ホテルの片付けに忙しい。いつ再開できるかは分からない。泥だらけなり、汗だくで働いている。アチェの津波で客が減り、やっと回復してきたところに、また津波に襲われた。これから外国人客が増える時期だったのにと悔しがる。
サルノさんに限らず、パガンダランでは片付けに負われている人の姿を多く見かけた。からまった魚網をたぐり寄せ、修理する漁師も見た。漁船の修理も始まっていた。
中部ジャワ地震の被災地では支援を待つだけの人が目立った。しかしここでは自力で立ち上がろうという人が多い。体ひとつで移り住み、財を成してきた人のパワーなのだろうか。交通のアクセスが悪く、「ジャワの中心地」ではないため、今回の津波被害の支援はあまり期待できない。政府ももう予算がないなどと無責任なことをいっている。だがもしかすると、こちらの方が復興は早いかも知れない。
天災プラス人災
「災害は忘れた頃にやって来る」と言われる。だがそうではない。インドネシアは津波、地震、洪水、火山の噴火、旱魃などの災害に途切れなく襲われる、世界でも稀な国になってしまった。
ユドヨノ大統領も気の毒だ。2004年10月に就任以来、自然災害だけでなく、バリなどで起きた爆弾テロ、飛行機の墜落や列車の衝突事故、船舶の沈没、鳥インフルエンザの被害などが相次いでいる。
インドネシア人、とくにジャワの人たちは迷信や土着信仰を信ずる人が多い。彼らからは、「インドネシアは呪われている。大統領が代わらないと落ち着かない」と言う声も聞こえてくる。
天災が続いているのは確かだが、人災の面もある。津波に襲われた後、「避難しなさい」と現地に電話を掛けている正副大統領の映像が繰り返し放送されたが、あれが住民の必要だった情報だとは誰も思っていないだろう。
パガンダランのホテルでは津波の翌日から、大政党の地方議員や関係者が目立った。話を聞いてみると、被災者の援助のためとはいえ、ジャカルタから来る党首や有力者の視察を迎える準備で忙しそうだった。緊急支援をしなければならないときに、警察や国軍の人手を使い被災者を後回しにする無神経さにあ然とした。
町はほとんど停電だった。しかし、自分たちの泊まっているホテルにはすぐ電気を通した。私にも蝋燭を分けてくれようとした。しかし、より大変な被災者のことは頭にあるのだろうか。
「支援物資を政府でなく、直接被災者に届けて欲しい」という声は、今回もまた聞いた。ジョグジャカルタでもアチェでも聞かされた。支援がどこかで止まってしまうという汚職構造は変わらない。
「全力で被災者の支援をする」と繰り返す大統領を見るたびに、またかという気にさせられる。言うばかりでなく、早く対策に講じこの流れを何とか変えて欲しい。
今回、アチェの津波以降日本が寄贈したという津波警報装置はまったく機能しなかった。恐れられていたインド洋での津波は起き、逃げ遅れて死ななくてもいい人までがまた死んでしまった。
パガンダランがあるチアミス県の副知事に会った。
「そんな警報装置など聞いたこともない」と言われた。
援助を受け取る側だけでなく、する側に問題はなかっただろうか。高度で高額な警報装置よりも、その前のレベルでの地震や津波に対する認識が低い人たちに、災害に備える知識をしっかり伝えていたとは思えない。
地震が起きたのは17日の15時過ぎ、私はその夜ずっとテレビを見ていたが、深夜になってやっと現地の映像が放送された。ジャカルタで地震が起きると、パニックになった人たちの様子がすぐ映るが、情報が伝わりにくい地方で的確な情報を入れ、伝えるためにはどうすればよいか、対策は練られているのだろうか。
「住民同士で電話や携帯のメールで地震や津波の情報を交換していましたよ」と副知事は言ったが、それでは情けない。
死者の数が増え続けている。発生から3日たった7月20日午後現在、525人という。一番の多いのはパガンダランがあるチアミス県だ。私は被害の翌日、遺体収容所になっているパガンダランの村役場で数十体の遺体を見た。集計では200体に迫っていた。しかし翌日から遺体は急激に減った。だが政府発表の数字は翌日以降急速に増えていた。不思議でならない。
実はジャワ島中部地震でも、被害の一番大きかったバントゥール県の数字が、数日後突然増えたことがある。あのときも地震当日と翌日に最も多く遺体が見つかり、埋葬されていた。一緒に取材した記者はみな首を傾げる。ほんとうにこんなに死んでいるんだろうかと。
数字が多い方が支援も増える。意図的に水増しされているとは思いたくない。「5700人の死者が出たジャワ島中部地震」というように、政府発表の数字は信頼され。一度使われると、ひとり歩きする。間違えがあってはいけない。
| ジャワ島地震、現地からの報告──2006年6月19日 第10回 |
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ジョグジャカルタ州バントゥル県バウラン村 |
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同上 |
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同上.手作業で瓦礫を撤去するレスキュー隊 |
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ジョグジャカルタ州バントゥル県ドドタンバンバン村 |
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中部ジャワ州クラテン県センゴン村 |
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ジョグジャカルタ州バントゥル県ジェティス村 |
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中部ジャワ州クラテン県チャバアン村 |
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中部ジャワ州クラテン県チャバアン村 |
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ジョグジャカルタ市内カランクンティ地区 |
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ジョグジャカルタ州グヌンキドゥル県ブユンガン市場 |
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ジョグジャカルタ州イモギリ県イモギリ町 商店街が崩壊した |
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ジョグジャカルタ空港の国内線ターミナル |
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地震で崩れた世界遺産のヒンドゥー遺跡プランバナン寺院 |
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同上 |
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地震で崩れたヒンドゥー遺跡プラオサンロール寺院 |
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地震で崩れた水の王宮タマンサリ ジョグジャカルタ市内 |
| 復興が遅れるニアス島──2006年3月 第9回 |
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>> 2004年12月のスマトラ沖地震・津波と2005年3月の地震で大きな被害を受けた北スマトラ州ニアス島を再訪した。ニアス島は北スマトラの西海岸から約120キロのインド洋に浮かぶ和歌山県ほどの大きさの島(面積約4772平方キロ)で、人口は約72万人。宗教はキリスト教徒が多い。農業や漁業が主な産業で、出稼ぎ者も多い。島の中央は丘陵地で密林に覆われているが、南部には有名な巨石文化の残る集落やサーフィンの有名なスポットもある。北スマトラの都市メダンから島の中心地グヌンシトリまではプロペラ機で約1時間。または車と船を乗り継ぎ約20時間かかる。左の写真は、毎晩出航する定期船である。 |
![]() >> 両親や妹弟を地震で失ったリカさん(24)は、1年経った今も親戚ら9人とテントやトラックの荷台で寝る暮らしが続いている。今年になってやっとキリスト教会の援助で自宅を改築できるようになった。地震で閉じ込められた部屋で生きのびていた中学生だった妹のメラニーさんは、携帯電話のメールで助けを求めた。しかし後回しにされ、8日後に遺体で見つかった(グヌンシトリで2月20日撮影)。 |
![]() >> ニアス島にはまだ1万2000人の避難生活者がいる(BRR=アチェ・ニアス復興再建庁調べ)。ニアス県庁近くのこの避難所にも130家族・683人が暮らす。テントは雨漏りし、日中は死ぬように暑く、夜は寒いという。BRRは昨年11月、3月末までに仮設住宅に移すと発表したが、実現のメドは立っていない。定職を失った男性はベチャ(人力車)引きになった。女性の多くは華人の家などで洗濯のアルバイトをしている。1日2時間毎日働いても、月に5万ルピア(約750円)しかもらえない(グヌンシトリ・アンペラ避難所で2月21日撮影)。 |
![]() >> ニアス島全体で地震で約1600の橋が壊れた。多くの橋が修復されず、島内の移動は困難を極める。この川に架かっていた橋は地震の後どんどん傾いていき、今年2月に通行止めになった。そのため下半身まで水に浸かり、川を渡らなければならない。しかし、これ以上水量が増えると渡れなくなる(ジダノガウォ川で2月21日撮影)。 |
![]() >> 地震で海岸線の地形が変わり、陥没した土地も多い。この集落では多くの住宅が海に流された。高い椰子の木も海水を被り、すべて枯れてしまった。道路や住宅が建っていた跡や壊れたままのモスクが残っているが、住民はほとんど戻ってきていない。満潮時には海水に浸かってしまうからだ(ボジホナ村で2月21日撮影)。 |
![]() >> 人口約72万人のニアス島にはガソリンスタンドが2軒しかない。営業時間中はいつもオートバイの客であふれかえる。スマトラ本島から約120キロ離れたニアス島は発展から取り残されている。物資の運搬にコストがかかり物価が高い。復興が遅れているのは、支援物資が届きにくく建築資材が高騰したままだという理由もある。アチェの復興も遅れが目立つが、ニアス島の比ではない(グヌンシトリで2月21日撮影)。 |
![]() >> 復興が遅れているニアス島で、日本のNGO(非政府組織)としては唯一「AMDA」(本部岡山市)が残って支援を続けている。島の南東部の3つの漁村で、今年中に約250棟の住宅を完成させるという。これまで他のNGOも調査に来たが、資材搬送などの難しさなどから事業化を諦めた。AMDAも遅れはしたが、作業が始まると避難民も村に戻って来て手伝っている。本業である漁業も復活し、現金収入を得られるようになったという(ボジホナ村で2月21日撮影)。 |
| 巨大津波から1年、追悼も大事だが──2005年12月26日・バンダアチェ 第8回 |
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| 放置された日本の援助──2005年11月26日・バンダアチェ 第7回 |
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| バリ島同時爆弾テロから二週間──2005年10月20日 第6回 |
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10月1日の同時爆弾テロから2週間たったバリ島を訪れた。
10月15日は朝からヒンドゥー教のクニンガンの儀式が行なわれていた。先祖の霊を迎え神に対し祈る、日本のお盆のような日だ。観光客といえども1日中外出できないというニュピのような儀式でなく、心が浮かれるお祭りのような日だともいう。
しかし爆弾テロの影響は大きく、いつも賑やかなクタでは観光客が減りひっそりした雰囲気が漂っていた。オーストラリア政府がテロ再発の危険情報を発令しているクタの北、スミニャックではほとんど人を見かけなかった。3年前クタで起きたテロの後も観光客が減ったが、これほど寂しい感じではなかった。
その日は土曜日なので夜はディスコなどが賑わうはずだが、空車のタクシーだけが目立っていた。翌日の日曜日も人通りが少なく、多くの商店は日が沈むと店を閉めてしまった。
テロ現場を見に行った。破壊の規模は想像よりずっと小さかった。クタビーチに近い商店街クタスクエアにあるレストラン「ラジャス」は、屋根は黒焦げだが建物はそのまま残っているので、改装すればすぐに店を再開できそうだ。3年前のテロでは自動車に仕掛けられた爆弾が爆発し、道路に大きな穴があき、周辺に燃え広がった炎で大火事になった。
だがここでは隣の眼鏡店や向かいのブティックは割れたガラスを修理して、1週間もたたずに商売を始めている。眼鏡店の隣にある旅行会社HISも店を開け、日本人客を待っている。近くのマタハリデパートなどに向かう人が手を合わせて祈ったり、写真を撮ったりしている以外、表面的にはテロの前とあまり変わっていないようだ。
クタから南へ約10キロ、ジンバランのムアヤビーチに面した現場は焦げた跡も残っていない。10軒ほど並ぶシーフドカフェのうち、「メネガ」と「ニョマン」という2軒がテロの犠牲になったが、両方とも修理が終わっていた。海岸にはいくつかの花輪が備えられている。その中には東ティモールからのものもあった。東ティモール出身の従業員が犠牲になったのかも知れない。波静かなビーチで泳ぐ観光客もいて、言われてみないとテロ現場だとは分からないほどだ。
しかし3年前に続き2度もバリでテロが起きたことと、商店街やシーフードカフェという外国人だけを狙ったテロではないようなので、バリに暮らす人の多くは以前よりも不安が拡がっているようだ。
今回のテロは国際テロ組織アルカイダと関係があるとされる、東南アジアのイスラム教過激派組織ジャマー・イスラミア(JI)の関与が濃厚だといわれている。国際的観光地で起こったため、日本を始め多くの外国メディアがバリ島を訪れた。インドネシアの国家警察も、毎日外国人記者向けに記者会見を開いた。そのため海外で起きているテロと関連付け、「国際テロ組織の犯行」というニュースの流れができてしまった感もある。
この3年で爆弾テロがバリで2回、ジャカルタで2回という多さだが、その間スラウェシ島のポソやマカッサルでもテロは起きている。インドネシアの記者しか取材に訪れないと「国内のテロ組織」の犯行だといわれ、外国人記者が集まるバリやジャカルタだと「国際テロ組織」だと発表されるのが不思議だ。今回自爆したテロ実行犯の身元がまだ判明していないのに分かるのだろうか。
破壊の規模が小さかったことや、海外からの旅行者よりもインドネシア人の犠牲者の方が多かったことから、バリで暮らすインドネシア人や外国人の中にはJIの犯行ではないという人もいる。
犯行グループが何であれ、なぜ外国人客の比率が多い店でなくインドネシア人客もよく行く店が狙われたのだろうか。クタでテロの標的になった「ラジャス」のオーナーはスラバヤ出身の華人Rさんだ。スラバヤではインテリア関連の仕事をしていたが、15年ほど前バリに渡り商売を始めた。今バリで何軒ものレストランを経営する成功者だ。Rさんには会えなかったが、同じスラバヤからバリに来て20年、ホテルなどを経営するSさんに話を聞いた。
「Rとは毎日電話で話し、昨日も会った。親友といってもいい。でもRはバリ人やジャワ人の悪口を言ってばかりいる。イスラム教徒に対しても馬鹿にした態度が目立つ。テロのあった日、娘さんの結婚式がジンバランであった。犯人はクタの店とジンバランの結婚式会場を同時に狙った。でもジンバランは場所を間違えたんじゃないか」
警察はRさんから何度も事情を聴取している。今Rさんは外に出ることを怖れているという。
「Rは嫉妬され、狙われて当然だった。でも真相は分からない」と、Sさんは付け加えた。
事件の真相は分からない。なぜインドネシアだけこんなにテロが繰り返されるのだろうか。汚職がはびこる社会への不満や貧富の格差などの閉塞感が、ごく一部だが若者をテロリストに駆り立てる。そして彼らを過激な思想に洗脳する組織が存在するのだろう。これまでの政府の怠慢が最近の大幅な石油価格値上げ、物価の高騰を引き起こしたりもする。日常生活から生まれる不公正がテロリストを生む温床になっていることをインドネシアに暮らす人は分かっているから、今後もテロが起こる恐怖から離れられない。その悪循環をつぶしていく努力に迫られている。
| 巨大津波から半年のアチェ──2005.7.12 第5回 |
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| バンダアチェより・写真報告──2005.1.29 第4回 |
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| 「アチェを忘れるな!」小松邦康 第1回 |
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インドネシア・スマトラ島沖の巨大地震と津波の死者は世界50ヵ国で15万人を越えた。私は発生から4日後の12月30日、震源に近いアチェ州の州都バンダアチェに入った。 |
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| 津波の水が引いた水田には、腕や足が大きく膨れ、こげ茶色に変色している遺体。瓦礫の下から突き出した手。水路にはうつぶせになったまま浮かんでいる遺体。小さな子どもの遺体が半数以上ある。これでもか、これでもかと視界に入ってくる。 私はいつの間にか遺体にカメラが向けられず、見ることも避けるようになっていた。瓦礫の積み重なっている場所が果てしなく続く。歩きながらあのにおいがしてくると、前を歩いている人に、「右か左か」と聞く。「右」と答えが返ってくると、「左」に目をやり、前へ進む。しかし遺体を見ずに町を歩くことは不可能だ。 私がバンダアチェに入ったのは被害から4日目の12月30日だった。車がないので砂埃の舞う炎天下を1日歩いた。食事は避難所で、炊き出しのインスタントラーメンを恵んでもらった。 中心部にあり、町のシンボルでもあるバイトゥラフマン大モスク周辺では瓦礫を取り払う作業が始まっていた。しかし海岸沿いの村は家がすべて流され、村全体が壊滅状態。ほとんどの地域で死体が手付かずのまま、放置されている。破壊の規模が広範囲に広がり、全く回収作業が追いつかない。 その後、外国の軍隊が瓦礫や泥の下の遺体の撤去作業を始めた。しかし2週間過ぎても、まだ無数の遺体が埋まっている。 そのうち町全体でコレラなど伝染病が流行し、また数万人の死者が出るのだろうか。恐ろしいことが始まりそうだ。 |
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| バンダアチェは震源から300キロ離れている人口20万を超える大きな町だ。そこで1月10日現在、2万人以上の住民の死亡が確認された。しかし、その数には、放置されたままの遺体や瓦礫や泥の下に埋まっている人、津波に流されてしまった人など未確認の死者は含まれていない。バンダアチェだけで何万人の人が死んだのか分からない。 バンダアチェから250キロのインド洋側のムラボは、震源地に一番近い町だった。町の8割が巨大津波に流され、人口3万人のうち1万人以上が死んだ。しかしこの数字も連日数千人単位で増えている。電話はもちろん、道路や橋が破壊されているので、全く情報が入らなかった。 3日目になって脱出した住民の話がやっと伝わった。 「生き残った人たちを助け出すのはヘリコプターしかない。しかし全く足りない」 その後、外国の軍やNGOが入り、救援物資を届けることができるようになった。 |
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| アチェ州の面積は日本の九州より広い。海岸に近い町や村が完全に流され、砂浜に変わってしまった場所は無数にある。 日本のメディアはタイのプーケット島やスリランカで死亡や行方不明になった日本人の安否に関する報道が多かった。観光地で被害が拡がったので、観光客が撮影したビデオなどの衝撃的な映像が世界に流れた。しかし震源地に最も近いアチェからの映像はなく、被害の大きさがほとんど伝わらなかった。インドネシアのメディアが現地に入り、電気が復旧し、情報が少しずつ伝わりだすと、死者の数が万単位で増えていった。そして今十万人を超え、毎日増え続けている。 情報が伝わらず、救援体制つくりが遅れたことで、死者が増えていった。日本の自衛隊がアチェに入ることになったが、本格的に作業が始まるのはまだ10日以上先の1月末だという。 |
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アチェではこれまでインドネシア国軍による独立派壊滅作戦が続いていた。石油や天然ガスなどアチェの恵まれた資源はインドネシア政府主導で海外に輸出されている。LNG(液化天然ガス)の一番の買い手は日本だ。しかし富は地元にあまり還元されず、貧しさから抜け出せないという不満から、インドネシアから独立すれば国軍の恐怖からも解放され、確実に豊かになると考える住民が増えていった。おもしろく思わない政府は国軍を増強し、武力でアチェの独立派を押えようとした。2003年5月、アチェ州に戒厳令が発令され、以来1年半余りで住民を含む2000人以上の死者が出ている。 しかしアチェの惨状は国際社会にほとんど伝わっていない。「忘れられた紛争」とも言われている。 そして、今度の巨大地震と津波だ。アチェの悲劇は続く。 アチェを「忘れられた地」にしてはいけない。 |