越境するポピュラー文化と〈想像のアジア〉

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土佐昌樹・青柳寛編
定価2800円+税
A5判上製・236ページ/2005年初版
ISBN4-8396-0187-9 C3030 Y2800E
●書評


 日本のアニメ、「韓流」、香港ムービー・・・アジアでは今、ポピュラー文化が国境を越えた文化の流れを作り出しています。それはもはや一部のオタクが享楽する水準を超え、アジアの未来を予兆する錯綜したうねりとなっているようです。どこで何がどのように動きつつあるのか。人類学の専門家がそれぞれのフィールドで民族誌的アプローチを重視しながら、そうした新たな文化交流が提示する未来像を重層的に捉えます。

【目次】

序章 「ポピュラー文化が紡ぎ出す<想像のアジア>」(土佐昌樹・青柳寛)

第1部 日本から
第1章 ソフト商法とハード・キャッシュ--―J?カルトのマーケティング戦略(ブライアン・モーラン)
第2章 新オリエンタリズム--―人種の超越と文化的友愛(シャロン・キンセラ)
第3章 琉ポップの越境が物語る沖縄性(青柳寛)

第2部 アジアへ
第4章 映画が国境を越えるとき--―アジアの"ハリウッド"が築いたムービーロード(松岡環)
第5章 スポーツ文化から見る台湾のポピュラー文化(清水麗)
第6章 イデオロギーと脱イデオロギーの狭間から--―韓国の青少年が夢中になる日本のポピュラー文化(張竜傑)
第7章 <韓流>はアジアの地平に向かって流れる(土佐昌樹)


【著者プロフィール】

◇土佐昌樹(とさ まさき):国士舘大学21世紀アジア学部教授:大阪大学人間科学部博士課程単位取得退学。ハーバード大学人類学科客員研究員、神田外語大学教授などを歴任。主に韓国でフィールド調査を積み重ねながら、大衆文化をナショナリズムとグローバル化との関係の中で研究している。:著書『インターネットと宗教』(岩波書店、1998年)、『変わる韓国、変らない韓国――グローバル時代の民族誌に向けて』(洋泉社、2004年)など。

◇青柳寛(あおやぎ ひろし):国士舘大学21世紀アジア学部助教授:ブリティッシュ・コロンビア大学人類学&社会学博士課程修了。人類学Ph.D. ハーバード大学ライシャワー日本研究所研究員、テキサス大学オースティン校アジア学部講師などを経て現職。日本と日本外アジア諸国に見られるトレンドを窓口に、資本主義文化の批判的考察に携わる。2000年より沖縄をベースに若者の世代的感覚に関する研究調査を実施。:著書『八百万の笑みの島々――現代日本のアイドルパフォーマンスと象徴生産』(ハーバード大学出版局、2005年)など。

◇ブライアン・モラン(Brian Moeran):コペンハーゲン・ビジネススクール文化コミュニケーション学科教授:ロンドン大学人類学&日本美術で博士課程修了。広告とメディア、経済人類学、日本の社会と文化を中心に研究。デンマーク研究局が支援する、5カ国における女性のファッション雑誌に関するプロジェクトに携わっている。:著書『日本文化の記号学――下駄履きモーランが見たニッポン大衆文化』(東信堂、1993年)、『ロンドン大学日本語学科――イギリス人と日本人と』(情報センター出版局、1988年)など。

◇シャロン・キンセラ(Sharon Kinsella):オックスフォード大学人類学科研究員:オックスフォード大学博士課程修了。イェール大学助教授を経て現職。漫画、オタク文化、コギャルなどをテーマに、現代日本社会について研究を重ねている。:著書『アダルト漫画:現代日本社会の文化と権力』(ハワイ大学出版局、2000年)など。

◇松岡 環(まつおか たまき):シネマ・アジア代表:大阪外国語大学インド・パキスタン語科卒業。1976年よりインド映画の紹介を始め、現在はアジア映画全般の紹介と研究に従事。麗澤大学等での非常勤講師のほか、執筆や字幕翻訳等に携わっている。:著書『アジア・映画の都』(めこん、1997年)。字幕担当『ムトゥ 踊るマハラジャ』『ラジュー出世する』など。

◇清水 麗(しみず うらら):国士舘大学21世紀アジア学部助教授:筑波大学大学院博士課程国際政治経済学研究科単位取得退学。博士(国際政治経済学)。専門分野は、戦後日中台関係史、台湾の政治外交。:著書『中台危機の構造』(共著、勁草書房、1997年)、『友好の架け橋を夢見て』(共著、学陽書房、2004年)。論文「台湾における蒋介石外交」(『常磐国際紀要』第6号)、「オリンピック参加をめぐる台湾」(『21世紀アジア学会紀要』第1号)など。

◇張竜傑(チャン ヨンゴル):慶南大学校日本語教育科副教授:啓明大学校大学院日語日文学修士、大阪大学大学院人間科学博士課程修了。韓国における日本の大衆文化受容の研究を続けている。:著書『征韓論と朝鮮認識』(ボゴサ、2004年)。論文「日本大衆文化の受容に現れた文化摩擦と変容に関する考察」など。


【序章より】

1.アジアの風
 アジアは多様であり、単一の実体ではない。そう言うことはたやすく、また今もって正しくもあるだろう。それに対して、「アジアはひとつ」と主張することは、いかにもドンキホーテ的な幻影に身をまかせることであり、また明らかに事実に反している。
 しかし、人間の生活におけるイメージと想像力の役割に一定の敬意を払うとすれば、アジアという言葉にまやかし以上の地位を与えるのは今や無理な問題設定ではない。ハリウッドがアメリカに対するイメージを造形・発信しているという主張に意味があるとすれば、アジアという「幻影」にいかなる現実味が生まれようとしているかを問うことにも正当性が与えられておかしくない。ポピュラー文化の越境を主題化することで、私たちはアジアという枠組みについて経験論的な水準で再検討を加えてみたい。
 1990年代あたりから、アジア域内で国境を越える文化の流れが加速しつつある。香港映画、日本のアニメ、そして最近では韓国のテレビドラマなどがその目立った例であるが、そうしたポピュラー文化の流れがアジアの未来を予兆する錯綜としたうねりとなっている。民族誌的アプローチを重視しながら、新たな文化交流が提示する未来像を重層的に捉えること、それが本書の狙いである。
 そうした試みを通じて浮かび上がってくる「アジア」は、依然としてはっきりした輪郭をまとってはいない。それが単数なのか複数なのかも判然としないまま、しかしアジアが今や、国家や民族といった「主体」の境界が危うくなるほどに複雑な絡み合いを「内部」で繰り広げながら、自らの存在を知らしめようとしているかのようなのである。
 この点は、たとえば2004年のカンヌ国際映画祭を一瞥しただけでもはっきり確認することができる。新聞の見出しに踊った「アジア勢健闘」、「アジアの風が吹いた」といった表現だけでも新たな時代を予感させるに十分だが、もう少し受賞の内容を詳しく見れば、ここで言うアジアとは単一の主体でなく、複数の「主体」のネットワークに他ならないことが分かる。グランプリを受賞した韓国映画『オールド・ボーイ』が日本のマンガを原作にしていること、審査員賞を受賞したタイ映画『トロピカル・マラディ』が日本の小説を翻案した作品であることなどがすぐ例として浮かぶ。そして、男優賞を得た『誰も知らない』は東京の閉ざされた空間を対象にした作品だが、是枝裕和監督が過去に在日朝鮮人の分裂的アイデンティティを描いたドキュメンタリー『日本人になりたかった…』を撮っていたという事実も、この文脈できわめて意味のあるエピソードであろう。
 また、香港のマギー・チャンがフランス映画『クリーン』で女優賞を獲得したことや、審査委員長のタランティーノが自分の映画に香港映画や日本のアニメからのパスティシュを好んで多用するといった例に見られるように、「アジア」は決して閉ざされた空間ではない。むしろ、それは欧米との関係なしには決して浮かび上がってこない影絵のようなものであった。だが今や、アジアの「内部」において、映画、マンガ、小説、アニメといった「想像」のレベルで、かつてない濃密なやり取りが繰り広げられ、そこに幻影にとどまらないなにかが浮き彫りになりつつある。ポピュラー文化は、現代社会における想像の作用を映し出す格好の舞台であり、そこでは真剣な考察に値する物語が上演されようとしているのである。

2.アジアにおける文化の越境
 文化の越境を主題化するにあたり、そもそもアジアの現代史において文化は国境を越えない、という方が真実に近かったように思われる。近隣の国々でどういった歌やドラマがはやっていようと、関心を持つ人はまれであった。心惹かれる外国文化といえば欧米文化に決まっていた。少し前まで韓国映画にほとんどの日本人は興味を持っていなかったし、ベトナム料理を食べてみようとするタイ人もまれであった。国家が政策的に文化のバリアを張りめぐらせる場合もあったが、そうでなくともアジアの大衆は自国以外のアジアの文化にそもそも関心がなかったという方が正しいであろう。
 アジアは、あるいはアジアもまた、長いあいだナショナリズムの忠実な生徒であった。領土的境界と民族的・文化的境界を一致させようとする政治原理に忠実なあまり、外国人や外国文化は異質な要素として排除される傾向にあった[ゲルナー]。こうした傾向が古代から連綿と続いてきたわけではない。実際、ナショナリズムの時代に先行する植民地主義の時代には、民族や国家を越える文化の流れは当たり前であった(欧米列強や日本の支配下においてという但し書きがついたにせよ)。ここではこの時代に触れる余裕はないが、ポピュラー文化の越境というとき、既に多くの先行例がこの時代に見られたことを忘れてはならないだろう。
 脱植民地化の過程の中で、アジアの新興国家は植民地時代の文化的越境性を忘却した。しかし今、グローバル化という新たな名前で類似の現象が起きている。とりわけ、労働、留学、移民、観光といった形での大規模な人口移動、そしてインターネットや衛星放送に代表されるメディア・テクノロジーの発達が促した情報とイメージの膨大な越境は、ナショナリズムの命にとどめを刺す動きであると言えるだろう。・・・・・・  

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