アジアでどんな戦争があったのか

――戦跡をたどる旅

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別府三奈子/杜多洋一(写真)
定価2500円+税
A5判・並製・2500円+税/2006年初版
ISBN4-8396-0199-2 C0030 Y2500E


 アジアでは過去にどんな戦争があったのか──。本書はアジア10カ国の主要な戦争博物館、戦跡をすべて紹介し、それぞれの現場で「戦争の記憶」に迫ります。プロカメラマンによる現場写真約100枚。各国の戦争史、戦跡へのアクセス、各国の概要など、データも完備しており、ガイドブックとしても使えます。

【本書で紹介している戦跡・戦争博物館など】

【中国】
南京=侵華日軍南京大虐殺遭難同朋記念館、中華門、長江大橋
北京=盧溝橋、中国人民抗日戦争記念館、中国人民革命軍事博物館
ハルピン=侵華日軍第七三一部隊遺址
【韓国】
安重根義士記念館、パゴダ公園、西大門刑務所跡、戦争記念館、ナムヌの家、統一展望台
【台湾】
金門島=古寧頭戦史館、823戦史館、テイシャン、坑道、馬山観測站
【フィリピン】
サンチャゴ要塞、モンテンルパ刑務所・日本平和公園、バターン半島、コレヒドール島
【シンガポール】
チャンギ刑務所礼、戦争記念公園、戦没者記念碑、日本人墓地
【タイ】
カンチャナブリー=クウェー川鉄橋、JEATH戦争博物館、第二次世界大戦記念館、泰緬鉄道博物館、日本人戦没者慰霊塔、連合軍墓地、ヘルファイアパス、メモリアル博物館、スリー・パゴダ・パス
【北マリアナ諸島】
サイパン島=ランディング・ビーチ、米軍上陸記念碑、バンザイ・クリフ、ス・クリフ、ラスト・コマンド・ポスト、アメリカン・メモリアル・パーク、日本人犠牲者慰霊塔
【ベトナム】
ホーチミン=統一会堂、戦争証跡博物館、ホーチミン作戦博物館、クチの地下トンネル
ハノイ=軍事博物館、ロンビエン橋、革命博物館
【カンボジア】
プノンペン=トゥールスレイン収容所、キリングフィールド
シェムリアップ=キリングフィールド、戦争博物館、アキーラ地雷博物館
【日本】
沖縄本島=糸数アブラチガマ、沖縄県平和記念資料館・摩文仁の丘・平和の礎
首里城・第32軍司令部壕・トーチカ、奉安殿・忠魂碑、ひめゆりの塔(平和祈念資料館)
伊江島=千人洞、アハジャガマ、ヌチドゥ宝の家
広島=広島原爆ド―ム・広島平和原爆資料館
東京=東京大空襲・戦災資料センター、言問橋、東京都江戸東京博物館、靖国神社・遊就館、千鳥ケ淵戦没者墓苑

【著者紹介】

別府三奈子(べっぷみなこ)
日本大学法学部新聞学科助教授。
東京都出身。上智大学大学院修了。博士(新聞学)。東京、ロサンゼルス、ニューヨークで、雑誌やテレビの記者・編集者として約11年間勤務。大分県立芸術文化短期大学助教授を経て、2005年より現職。専門は、米国ジャーナリズム史(プロフェッション論)。ここ数年、ビジュアル・ジャーナリズムの記録と、戦争の記憶のねじれに関する世界各地のフィールド調査と、その国際比較研究を続けている。
主な著作:『ジャーナリズムの起源』(世界思想社、2006年)、『現代ジャーナリズムを学ぶ人のために』(共著、世界思想社、2004年)、『論争 いま、ジャーナリスト教育』(共著、東京大学出版会、2003年)、『ジャーナリズムと写真 2006』(専門研究報告誌、発行:別府研究室)。
サイバーアーカイブス『アジア戦跡情報館』館主。

【まえがきより】

 「なにっ?いまのっ?」
 いきなり、バリバリバリバリッと物凄い爆音が轟いた。ほぼ同時に家のガラス窓がどれも、ビリビリ、ビシビシと揺れた。余波が北から南へ流れ、振動が夕暮れの空いっぱいに渦巻いてしばらく残った。小さな庭で、早めの夕食中だった。ろうそくの火が風にゆられて踊る光の輪を、にこにこと見ていた幼い子供たちの顔がこわばった。子供たちにとって、初めて聞く戦闘爆撃機の飛行音だった。
 2001年9月12日、日本国内では「同時多発テロ」という言い方でニュースが国内を駆け抜けた惨事の翌日だった。それから数日間、大地まで揺さぶる飛行音が、昼夜問わず東京都下の空に、断続的に続いた。
 そのころ私たちは、米軍の横田基地(厚木)と横須賀基地を結ぶ神奈川県東側に近い、比較的静かな東京都の住宅地に住んでいた。翌日の新聞に、米軍の夜間飛行は事前通達が約束なのに守られていない、という住民からのクレームが記事になっていた。
 私は、1990年前後の数年間、米国でマスコミ制作の仕事をしていた。ロサンゼルス勤務だった頃、週末に車を飛ばして、サンディエゴの米軍基地の近くに住んでいるメキシコ人の友人宅で、バーベキューパーティーを時折していた。そこで、耳をつんざく超音速爆撃機の飛行音をよく聞いた。あの音を、まさか日本で聞くとは…。緊急事態から、米軍が極東に配備している軍事力の編成変えを行なっていると直感した。数日後、米軍横須賀基地から艦載機を積んだ軍用艦が出航していった。
「おうち、はいる」
 子供たちは2人とも、青くなっていた。下の娘は耳を押さえて、半泣きになって、怖がっていた。米国の戦闘が日本に直結していることを初めて実感した夕暮れだった。

一瞬で入れ替わる日常と非日常
 湾岸戦争が始まった1991年1月の夜、私は1ヵ月に及ぶ全米取材ツアーの真っ最中で、偶然ホワイトハウスから数ブロックのところにあるホテルにいた。深夜零時のテレビが、米国が事前通告した日に入ったことを告げ、ホワイトハウスの前で湾岸戦争に反対する人々の集会が開かれている様子が映し出されていた。
 窓を開けて外の音に耳を澄ます。しんしん冷え込む、とても静かな夜だった。ホワイトハウス前へ行って見てみたかったが、営業のジンさんが「何かあったら困りますからね」と眠そうに言った。
 翌日は朝早くから経済関係の取材で郊外へ出かけていた。日系大手メーカー幹部たちは「日本大使館からしばらく飛行機に乗らないように言ってきた」とのん気そうだった。夕方、隣町のリッチモンドのホテルに入った。忙しくて、戦争のことを正直なところ忘れていた。チェックインしようとして、ホテル内の異様な雰囲気にようやく気づいた。街でも有数な高級ホテルだ。普段なら笑顔が絶えないロビー全体を覆う重たい空気。張りつめた緊張感。ロビーの映像パネルを、客に混じって従業員たちが、仕事をほったらかして立ち見している。めずらしいな、と思いながら、カウンターへ行くと、
 「戦争が始まった」
 フロントマンが、悲壮な顔でいきなり私に言った。正確には「戦闘」が始まっていた。リッチモンドは、陸軍士官学校の名門ウエストポイントにも比較的近い。南部は、兵士のいる家族も多い。米国が常に戦争を準備している国であることは、頭でわかっていた。しかし、ここは、身内が戦闘によって今日にも命を失うかもしれない国なのだった。
 ニューヨークに転勤していたので、ツアーを終えてマンハッタンのスタジオへ帰った。街には、黄色いリボンがあふれていた。「湾岸戦争を支援する」というの意思表示を形にしたリボンだった。中近東系の外見の人々は、特に目立つように黄色いリボンを玄関につけたり、デスクに飾ったりした。戦争だから、戦闘が長引けば、敵国の出身者は強制収容所へ行かされかねない。現に、第2次世界大戦中に日系人はそういう経験をしている。黄色いリボンは、痛くも無い腹を探られないためのパフォーマンスだった。
 一見、自由を謳歌し、経済的な豊かさを享受しているように見える米国は、地下に含んだ伏流水のように、戦争を抱えている。戦争が始まれば、それまで続いていた常識も日常も、あっという間に非日常の戦時下のルールに入れ替わる。それは、ジャーナリズムの作法にも当てはまる。どちらが日常なのかわからないほどのリアリティーをもって、米国社会は戦争とともにある。
 戦争をしないことを憲法で決めた国と、世界第1位の軍事大国の、拠って立つ社会の根本的な土台の違いを見た気がして、私はある意味でホッとしていた。
   2001年、9月12日、日本で子供たちと戦闘機の飛行音に不安をかきたてられた日、私は、このリッチモンドのホテルとニューヨークの出来事を思い出していた。もうホッとしてはいられないのかもしれない、と思った。アメリカではからずも垣間見た黒い伏流水が、既に日本にも流れ込んでいるのだ。
 日本が戦後60年の間に積み上げてきた常識など、ひとたび戦争になれば、今は非日常なのだという理由で、一瞬に消し飛んでしまう。そのことを思い知らされた夕暮れだった。

宿題
 2004年の早春のことだった。「2分の1成人式」に向け、少し大きくなった息子は学校の宿題で将来の夢を考えさせられていた。10歳になる子供たちの健やかな成長を願う学校行事だった。へぇ、面白い行事があるんだね、と、そんな体験のない私はあまり気にも留めず、それでもどんな夢を持っているのか聞いてみたいような気がした。
 ある朝、食事中に、ふと思い出したように、ひとりごとのように、息子がいった。
「大きくなりたくないな。僕も…。兵隊に行って死ぬのかな…?」
 朝の光がきれいだなぁ、と思ってぼんやりしていた私を、息子のやわらかな視線が包む。震え上がるような、驚きだった。
 「どうしたの? どうしてそう思うの?」
 たたみかける私に、隣の部屋から朝のニュースを繰り返す衛星放送が聞こえてきた。イラクへ派遣される自衛隊に関連したニュースだった。既に言った当の本人すらも忘れている、ぼんやりとした不安。しかし、その時私はとすぐに、「そんなことないよ、大丈夫だよ」と一笑に付すことができなかった。
 あれから2年、私はその質問の答えをずっと探し続けてきた。

アウシュビッツでの教訓
 日本のイラクへの自衛隊派遣は、前年暮れに決まっていた。そのニュースを私はベルリンで聞いた。負の遺産の継承方法や、ジャーナリズムの記録と記憶のねじれについての現地調査で、東欧へ来ていた。その日は、ドイツ連邦共和国中央慰霊館であるノイエ・バッヘにも行った。
 1816年に建設が始まったノイエ・バッヘは、もともとはプロイセン国王の護衛兵の詰め所だった。1931年以降、世界大戦戦没者慰霊館となり、当時は中央に銀色の柏葉の冠を配した花崗岩が中央に置いてあったと記されている。今日の様式になったのは1993年で、戦争の哀しみだけを凝縮した空間だった。
 軍服姿の大きな息子の横たわる亡骸を、膝枕のようにして抱き抱えたまま、口を押さえてじっとうずくまる老母。広い空間の真ん中に、ぽつんと2人がいて、大きな花輪が1つ。高い天井に空いている小さな天窓から、太陽の光が差し込む。高過ぎて、けっして手の届かない窓。入口の鉄格子にも自然光が当たり、格子の影が親子を閉じ込める。
 軍服姿の息子を抱くことは現実にはないので、死を悼む心象風景を形にしたものと察せられた。人種も思想も、宗教も政治も国籍も、出自も社会階級も超えて、生きる権利を否定され殺害されたすべての人々を対象とする、人の死を悼む心の原風景だった。この種のメッセージが入口に、いくつもの言語で掛けられている。内部の空間自体は文字を一切廃し、光とモニュメントだけで表現されている。モニュメントは、ケーテ・コルヴィッツの「死んだ息子を抱く母」像の拡大版である。
 いろいろな人が訪れ、皆、黙ってしばらくそこに佇み、去っていく。様々な立場の利害やしがらみと大きな負の遺産を抱えたドイツの、国家としての慰霊の場だった。ベルリンの街の中心部にあり、入口を1人の衛兵が守っている。モニュメントの兵士の顔がゲルマン族に見えて、私は少し引っかかった。加害者と被害者を同列にする表現に反対する人もいる。しかし、それらを超える普遍性を持つ、とても静かな空間だった。
 ホテルに戻って、英語の衛星放送をつけていた。めずらしく日本人が画面に出ているので、何だろうと注目してみた。公明党の神崎代表がイラクの自衛隊派遣予定地を査察し、「心配ない」とコメントしていた。防具を身につけた神崎代表の映像の下に、英語のテロップが流れる。
 「日本の軍隊(troops)が、第2次世界大戦後初めて国外へ出る」
 日本国内では「世界中が要請しているから」と報道される派遣は、外国にとって、こういう文脈のニュースであり、そのニュースに併用される映像に、首相の姿はなかった。
 数日後、ポーランドへ移動し、アウシュビッツ絶滅収容所跡を訪ねた。今は、研究所を併設した国立の博物館になっている。日本人研究員の中谷氏にもお話を伺えた。2日かけたが、全部をきちんとは歩ききれない程の広さと、寒さだった。閉館間際に走り回って汗をかき、それが服の中で急激に冷えて体温が下がり、バスの中で気絶しそうになった。
 「アウシュビッツと南京を、同列の虐殺だと欧米が指摘することがありますよね」と中谷さんに訊ねてみた。中谷さんは、体験者への広範囲の聞き取り調査、文献収集や遺跡保存などに体系的に取り組んでいるアウシュビッツと、日本国内で語ることそのものが議論を引き起こし続けている南京の状況の違いを、話してくださった。
 「私も南京にあの時いたけれど言われているようなことはなかった、とおっしゃる方もおられます。一方で、酷い目にあったという体験を主張する人がいます。個人の体験だけで語ろうとすると、そこで対話が止まってしまいます」
 数多くの対話を重ねてきた中谷さんの実感だった。
 過去の出来事に関して、体験のない者同士の間の溝を、どうやって埋めていけばいいだろう。武力で決着をつける以外に方法がなさそうな対立を、どうやって解決すればいいだろう。もしそれらを乗り越えられるなら、息子と息子につながる世界中の子供たちが、兵隊となって戦場に倒れることはないだろう。

100年間の足もとを見つめ直す
 戦後の東京生まれの私にとって、体に染みついているような戦争の記憶が、1つだけある。
 二の腕から先、あるいは腿から下のない傷痍軍人が、地べたにすわって頭を下げている。時折、寄付の小銭を置いていく人がいる。人ごみの多い路上だったから、たぶん新宿や池袋だったと思う。そういう人を見かけると、包帯の中を想像して怖くなり、怪我した理由を考えた。まだ、母の手にしがみついていた小さな頃の記憶である。夜、寝る時に目をつぶると、昼間の光景が思い出されて、あの人は今ごろどうしているだろうと、また心配になった感覚が残っている。
 私の父は、ずっと単身赴任で日本にいなかった。日本とまだ国境のない、中東の地に赴任していた。中東情勢は物騒で、飛行機乗っ取り事件や空港爆破事件などが起きていた。父の乗った飛行機が離陸する時、「二度と会えないかもしれない」と泣きそうになるのを、母を想ってこらえた。今でも、夜の飛行場の赤い点滅ライトを見るのは苦手だ。
 そんな不安定さが、いつも自分の中にあったからだろうか。傷痍軍人やその家族のことが、他人事に思えなかった。しかし、次第にそういう人たちに街で出会うことがなくなり、戦争は自分のいないところで起きる惨事となっていた。平和学習を比較的きちんと受けたが、やはりそれは、歴史の中や外国での出来事だった。
 長いこと忘れていた不安が、9.11を経て、また急に温度を伴って自分に近づいてきた。その感触にさらに切迫感を持たせたのが、大分への赴任だった。
2002年の春のことだった。大分には、西日本最大の自衛隊日出生台演習場がある。四季折々の変化が譬えようもなく美しい猪瀬戸から、湯布院盆地を抜けた向こう側一帯に、広大な演習場がある。
 重量のある戦車が通っても沈まないように鋲を敷いて舗装した道路。日常的に行なわれている実弾演習。演習中は、電光掲示板に赤い字で注意が促される。演習のある日には、近隣にもパスン、パスン、ババババ、と、銃の音が聞こえる。米軍との合同演習も行なわれている。米軍は、朝鮮半島有事に備え、気候と地形の似た日出生台で、厳寒時に実践さながらの演習を繰り返してきた。
 米国が終わりなきテロとの戦いを始め、日本の自衛隊も、より実践的な訓練を展開している。自衛隊内の自殺者が増加し、演習の激しさによって精神的なバランスを崩す人も出ているという。武器・弾薬の輸送には、民間の輸送会社も従事し、街中を爆弾を載せた車が走っていく。
 こういった日常の光景を、生まれ育った東京では見たことがなかった。仕事で横須賀基地内に入ったことはある。ベース入口の検問を通って敷地内に入った途端、まさに米国だった。人も、ルールも、マナーも、食事も、住まいも、そっくり米国だった。基地とはこういうことだったのか、と、いまさらのように驚いたが、それはフェンスで仕切られていたから、まだわかりやすかった。しかし、日出生台での光景は、車で30分と離れていない大分市内にいても、想像できないものだった。同じ日本にいても、同じ大分にいても、足を運ばねば気づかないことだらけだった。
 その気になってまわりを見回せば、旧満州生まれの人や残留孤児、特攻隊や沖縄地上戦、さかのぼればキリシタン大名たちのアジアとの深い文化交流など、驚くほどアジアと九州は近かった。日出生台と軍隊の関わりは日露戦争から既に100年以上続いている。100年。まさに、戦争の世紀と言われたこの100年間、同じ日本やすぐそこのアジアで、戦争と向き合い続けている多くの人たちがいた。
 私は、息子からもらった宿題の答え探しを、この100年間のアジアと戦争の関わりについて、広く自分の肌で体感するところから始めようと考えた。戦争の問題は、自国の視点から見つめると、感情が偏って全体像がつかみにくい。特に、ここのところのアジア諸国と日本の関係は、中谷氏が指摘していた個人の信念のぶつかりあいと政治がからみついて、傷ついているかのようだった。
 戦争は人々に何をもたらすのか。戦争の20世紀とは、どのような世紀だったのか。何もわかっていない自分の中に、まずは将来を開く対話を生む土壌を作りたかった。そこで、難しいことだが、日本という国のよろいを身に着けず、無意識に不安を感じ取った子供たちの心を杖として、アジア各地に残る様々な戦いの記憶を探して旅を続けた。

ひとりひとりの一歩へ
 本書は、こうして出かけた先々で私が触れた、それぞれの戦争の記憶を書き留めたものである。2年間に訪れた戦跡は200ヵ所をこえた。本書では、訪問地の中で、比較的アクセスが容易で、短時間で安全に訪ねられるところ、という条件を前提とし、いろいろなことを考えさせられたところ約110ヵ所について書いた。
 訪問先の国は日本や台湾を含めアジア10ヵ国。カンボジアの戦跡のように、日本軍と無関係なところもある。写真はこれもこの2年間に写真家の杜多洋一氏が撮影したものだ。アクセスのしかたなどの情報も、2年間の体験に基づく新しいものである。ただし、時間、体力、金銭の都合で、是非行きたかったがまだ行けていない場所もたくさんある。だから、アジアの戦跡をすべて網羅したものではない。
 戦争の記憶の場に立った時、そこで何を感じるかは、人によって千差万別である。正しい感じ方、というのはないのだろうと思う。なにより大切なことは、その空間を共有し、1人1人が立ち止まり、自分の目と心で、戦争と向きあう時間を持つことだと思う。相手の懐で休ませてもらい、相手の中に言葉にならない想いがあることに気づいた時、対話の糸口が思いがけず、湧き出してくる。対話の糸口を、たくさんの人が、いくつもいくつも持てるなら、そこから無限の新たな可能性が広がることだろう。
 誰も黙って殺されたくない。しかし、先制攻撃をひとたび始めれば、己以外のすべてを倒さねば、心は安らぐことができない。自分の身を守る最も確実な方法は、戦える年齢の人間を見かけたら先にすべて確実に撃ち殺すこと。かつてベトナム戦争で米軍がはまりこんだこの泥沼が、イラクで繰り返されている。リッチモンドではまた、心配の日々が続いていることだろう。サマワへ派遣された自衛隊の留守家族の子供たちが、自分の小さい時に重なる。地球上から、そんな心配と悲しみがなくなる日が来るように。 
 この本を手にとってくださった人が、1ヵ所でも現地に足を運んでくださったらいいな。そこで、私とはまた違う発見をされ、対話の糸口が1つでも多く増えていったらいいな。書きながら何度もそう思った。
 戦争が終わって60年の節目が過ぎようとしている。これから10年の間に、日本で戦争体験を直接持たれている方々の高齢化が進む。日本語で話を直接聞けるというのは、とても大事なことのように思う。戦後世代の1人として、もっと教わっておきたいことがたくさんある。宿題の答えを探す旅に、また出かけようと思う。
2005年10月3日              別府三奈子

    
             

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