ヤスクニとむきあう

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中野晃一+上智大学21世紀COEプログラム編
定価2500円+税
四六判・上製・420ページ/2006年初版
ISBN4-8396-0200-X C0030 Y2500E


 世界は靖国問題をどう見ているのでしょうか。上智大学の国際政治のスタッフに韓国・中国・イギリス・アメリカの研究者も加わって、ヤスクニをあらゆる角度から掘り下げた論文集。

【著者紹介】

フィル・ディーンズ●ロンドン大学アジア・アフリカ学院現代中国研究所所長・政治学「東アジアのナショナリズムをめぐる靖国問題」
姜尚中(カン・サンジュン)●東京大学教授・政治学「靖国とヒロシマ――二つの聖地」
蝋山道雄●上智大学名誉教授・国際政治学「靖国問題と戦争責任――国際政治と歴史の視点から」
村井吉敬●上智大学教授・東南アジア社会経済論「アジアから見た靖国」 
安野正士●上智大学助教授・国際政治「国民国家の論理と靖国問題」
李仁夏(イ・インハ)●在日大韓基督教会川崎教会名誉牧師「北東アジアの平和と「靖国」問題」
金杭(キム・ハン)●東京大学研究員・政治思想「生を得るために死に赴いたものたち――朝鮮半島と靖国神社」
楊志輝(ヤン・ズフィ)●早稲田大学大学院講師・国際政治「靖国問題と中国――「戦後は終わった」のか?」
リンダ・グローブ●上智大学副学長・近現代中国社会経済史「1932年上智大学靖国事件」
ブライアン・マサハート●武蔵大学国際センター講師・現代日本政治「抗議か擁護か――靖国神社を巡る市民運動」
中野晃一(上智大学助教授・比較政治)●「ヤスクニ問題とむきあう」


【まえがきより】

 靖国が問題になっている。
 メディア旋風の末、二〇〇一年四月小泉純一郎が総理大臣に就任、自民党総裁選の際の「公約」に沿い同年八月一三日の第一回を皮切りに毎年靖国神社へ参拝を続け、国内外で大きな論争を巻き起こしているのだ。   今年(二〇〇六年)九月に予定される首相の交代を前に世論は依然二分されつづけている。例えば四月の読売新聞社の調査によると、「参拝に賛成、どちらかと言えば賛成」が合わせて五四・一%、「反対、どちらかと言えば反対」が三九・九%となっていたが、FNN(フジニュースネットワーク)が五月末に実施した「政治に関する世論調査」によると、「次の首相は靖国神社を参拝すべきか」との質問に「参拝すべきだ」の回答は二九・五%のみで「参拝すべきではない」の五〇・六%を大きく下回るなど、世論の混沌としたさまが伺える。
 これまでのところ靖国首相参拝への慎重ないし反対論でもっとも目立つのが、中国および韓国との外交関係の極端な悪化を憂慮するものであった。事実、二〇〇五年四月を最後に日中首脳会談は途絶えており、日韓首脳会談にしても同年一一月以来行われていない(なお、これらの会談でさえ多国間協議の脇で行われたものに過ぎず、本格的な首脳会談は更に長いこと見送られている)。むろん、日中および日韓の間に横たわる課題は小泉首相の靖国参拝に限らないが、この問題が大きな障害となっていることは疑いをいれない。 日本の財界では特に対中関係の悪化に関する強い懸念が見られ、経済同友会(北城恪太郎代表幹事)が『今後の日中関係への提言――日中両国政府へのメッセージ』と題する意見書をまとめ今年五月に発表、首相の靖国参拝の再考と、戦争の犠牲者全ての慰霊と不戦の誓いのための国立追悼碑の建立を進言した。これに対して小泉首相は「商売と政治は別」と反発したと伝えられるが、更には日本経団連の奥田碩前会長も六月に入り日中関係の改善を考え次期首相の不参拝を求める発言をテレビ番組で行った(なお奥田氏は、今日に至るまで経済財政諮問会議の主要メンバーとして、小泉のために「商売」を代表して「政治」に直接関与している)。このような次期首相への不参拝要請は森喜朗前首相など多数の自民党政治家からも出ており、「中国への配慮」を合言葉に、首相交代を機に靖国問題の棚上げを図る包囲網が、ここに来て政財界エリートの間にできつつあるようでもある。
 こうした空気の変化は、ブッシュ大統領との蜜月関係をもとに小泉が頼りとしてきた日米関係においても見られる。米国政府そのものは静観と不介入の構えを崩していないものの、ワシントン周辺では問題視する声も挙がってきている。例えば、共和党のヘンリー・ハイド下院外交委員長が昨年秋に加藤良三駐米大使に首相の靖国参拝に対する抗議を行ったのに引き続き、小泉首相退任前の訪米との関連で参拝中止の言明を求める書簡を下院議長に送ったことが明らかになった。
 もっとも、ハイド下院議員の静かな抗議がアメリカ政界に直接波及する兆しはなく、当人が太平洋戦争での戦闘経験を持つことからも世代的な問題に過ぎないという見方もあった。実際、より若い世代の日米関係者としては、昨年四月二〇日の下院外交委員会のアジア太平洋小委員会における聴聞会にてボストン大学の国際政治学者トーマス・バーガー准教授が、日米軍事同盟の強化への期待を込めつつ、首相は靖国参拝によって健全な愛国主義を喚起していると肯定的な評価を行っている。
 しかしこれとは対照的に、同年九月二九日コロンビア大学のジェラルド・カーティス教授は、日本の軍事的役割の急激な増大に対する米国の「過度の期待」を戒め、アメリカの国益は日中関係の改善にあると論じた上で、「靖国神社は、真珠湾攻撃が自衛のための先制攻撃であり、日本のアジア侵略が西洋帝国主義・植民地主義からアジアを解放するための尊い努力であったという考えを支持する神社である」と指摘し、首相の靖国参拝中止は日中関係改善のための前提条件であると述べた(米国上院外交委員会、東アジア太平洋小委員会聴聞会)。
 カーティスと同様な懸念は、駐日米国大使特別補佐官を務めたこともあるジョンズ・ホプキンズ大学のケント・カルダー教授によっても表明された。二〇〇六年三/四月号の『フォーリン・アフェアーズ』誌にて、日中関係の改善に米国が役割を果たすべきとし、更には日本の首相の靖国参拝がアジアにおける日本の孤立に繋がりかねないことに警鐘を鳴らし、次期首相によって靖国参拝が見送られることに強い期待を示した。
 カーティスやカルダーは著名な政治学者であるが、彼らの主張する多国間外交アプローチが、単独行動主義が際立つブッシュ政権に聞き入れられる可能性は低いだろう。とは言え、日米の政策関係者に影響力の大きい両氏が、靖国参拝に少なからず起因する小泉外交の行き詰まりに対しての危機感を公にし始めたことは、自民党の政治家たちにも何らかの意味を持つものと考えられる。
 こうした流れの一方で、首相の靖国参拝は「心の問題」であり一国の首相が自国内でどこに行こうと外国に「内政干渉」されるいわれはない、という主張を小泉本人始め参拝擁護派は繰り返してきた。
 「中国が靖国に行くなと言う限り、行かないわけにはいかない」という口吻は悲壮でもあり、また滑稽でもあるが、今日でもなお「中国への配慮」から参拝を中止すべきであるという意見と対称をなす形で、「中国や韓国にとやかく言われる筋合いはないから、参拝を止めるべきではない」という意見も根強い。
 実際、二〇〇五年一〇月の『外交に関する世論調査』(内閣府大臣官房政府広報室)によると、中国に対して「親しみを感じる」とした回答が三二・四%、「親しみを感じない」が六三・四%と、その差は大きく開いている。近年の日本における反中感情の急激な高まりは著しく、それも中国人が反日的だからこっちも反中で当然だ、というような泥沼に入りつつあると言えよう(ちなみに同じ調査で、韓国に対しては「親しみを感じる」が五一・一%、「親しみを感じない」が四四・三%となっている。)  未だかつて日本と中国の両方が同時に大国であった時代はない、というのは今日多くの識者が指摘する点であるが、靖国問題を含めたいわゆる歴史認識の問題に留まらず、今や国際政治全般における影響力争い、天然資源の確保など経済力に関わる競争など、両国の直接的な利害が衝突コースにあり、それが双方の国民感情を排他的なナショナリズムの方向に導いているきらいは否めない。二〇〇五年四月上海などでの反日暴動事件は、靖国参拝よりはむしろ歴史教科書や国連安全保障理事会改革案を直接の契機としていたと思われるが、これらの示威行動に見られた暴力と憎悪が目を引き、それが今度は日本における世論の急激な反中化に拍車を掛けるという負の連鎖に陥った。  日本の国内外のメディアで、反日デモの背後に中国政府の政治的思惑を指摘する声が相次ぎ、それは直接的な扇動説から暗黙の許容説まで様々であったが、事件の事後処理に際してもなげやりな中国政府の態度は批判と不信感をいっそう招く結果となった。こうした経緯の後、日本においては中国に限らず韓国についても、両国に見られる反日感情や「反日政策」は、おしなべて国民の目をそらし、日本叩きをガス抜きに使いたい両国政府のお家事情から来るものにすぎないとする説明が信憑性を持つものとして受け入れられる傾向が強まった。
 これまでのところ日本における反中・反韓感情は、デモや不買運動などの直接行動よりも、種々のメディアを媒体に表出され、場合によっては商業ベースでの成功も収めている。インターネットの匿名性に依拠した低劣なナショナリズムの言説の流布はむろん日本の専売特許ではないが、漫画、本、テレビ、週刊誌などで反中・反韓産業が成立し始めたのは一つの大きな特徴と言えそうである。「憎悪を商う人」の意味で英語にhatemonger(ヘイトモンガー)という言葉があるが、憎悪を撒き散らすことをビジネスにする人たちが増加する世相は特記に値するだろう。中国の言いなりにならない誇りある日本人ならば当然参拝賛成、参拝に反対するのは「媚中派」の「売国奴」というような決めつけが横行しており、こうした偏狭なナショナリズムに対する恐怖の広がりは、思考と言論を封殺する危険性を持っているとさえ言える。
 こうした風潮は、皮肉なことに政府の保守エリートにとっても大きな制約となった。「心の問題について何で外国からとやかく言われなくてはいけないんですか」と小泉が繰り返し述べたように、靖国参拝を見送ることは日本人としての心を外国に売り渡すことである、という問題設定を自らしてしまった以上、「媚中派」のそしりを受けずに名誉ある撤退を行うことは細心の注意を要する問題となってしまったのである。
 ところが、小泉退任前の最後の靖国参拝の有無、そのタイミング、更には、次期首相はどうするのかに注目が集まる中、論争は思わぬ展開を見せた。日本経済新聞が二〇〇六年七月二〇日付け朝刊で「A級戦犯靖国合祀 昭和天皇が不快感 参拝中止『それが私の心だ』」という衝撃的な見出しで、富田朝彦・元宮内庁長官が取っていた昭和天皇の発言メモを基に「スクープ」を打ったのである。
 亡くなって一七年あまりたってからの唐突な昭和天皇の再登場が、最終的に靖国論争にどういう影響を与えるのか、現段階ではわからないことが多い。しかし、自分自身の参拝判断に「影響なし」とする小泉の一見強気な態度と裏腹に、小泉あるいは後継首相が参拝を止める理由を、中国から昭和天皇にすりかえることが可能になったことに光明を見出している保守エリートは少なくないだろう。中国がA級戦犯の合祀を問題にするのは気に食わないが、昭和天皇が合祀のせいで靖国参拝を止めていたというならば、いわゆる分祀論や代替追悼施設論も真剣に考えるに値するし、解決策が見つかるまで先の天皇への敬意から参拝を控えるのが適切だ、という「名誉ある撤退」の選択肢が用意された訳である。
 日本経済新聞がいつどのように昭和天皇発言メモを入手し、またいかなる判断でこの時期を選んで「スクープ」としたのかは明らかでない。ただ、日経新聞と財界との緊密な関係と、日中関係の極端な悪化についての財界の強烈な危機感を考えると、中国を案じた「商売」が「政治」に助け舟を出したのではないか、というような勘ぐりもあながち的外れではないのかもしれない。
 しかし天皇、側近、宮司(そしてA級戦犯)と亡くなった人ばかりを登場させて幕引きを図るのは、本来は、今を生きる我われが、いかに死者を慰霊、追悼するべきかについての論争であったはずの靖国問題の扱いようとして異論も出るだろう。古代ギリシャ劇ではdeus ex machina(デウス・エクス・マキナ)と言って、終幕で紛糾した状況にとってつけたような解決をもたらすために、いきなり神が機械仕掛けで舞台に現れることがあるというが、今日の日本において、自身は戦争責任の追及を免れた元・現人神(あらひとがみ)が、やはり物故している側近のメモを通じ、A級戦犯とその合祀に踏みきったとされる故・松平永芳靖国神社宮司を非難することによって、靖国問題の一応の棚上げを導くことが現実にありえるのか、疑問は残る。また、日本の侵略や支配によって甚大な被害を受けた中国や朝鮮半島、台湾の隣人たちの声にはあくまでも耳を貸さず、そうした侵略行為の御旗であった昭和天皇の「お心」には一も二もなく追従するということになるとすると、戦後日本の「反省」と「お詫び」、そして民主政治そのものの意味が問われることにもなるだろう。
 靖国神社とは、「天皇を中心とした国・日本」を「安らかに護るために」戦い亡くなったとされる人たちを神々として祀る明治天皇の創建による神社であり、戦前は合祀に天皇の勅許を要したものが、戦後、厚生省の祭神名票に基づき行っていたのである。そもそも歴代総理大臣の公式参拝を推進、擁護してきた人々は、天皇の御親拝の復活と恒常化こそを究極の目標としていたのであるから、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を顕わにし、そのことを理由に参拝を中止していたという新たな史料の発見は、靖国神社側にとってかなり重大な事態であることは間違いない。(マスコミの取材に対して、このようなメモを持ち出すのは天皇の政治利用にあたるのではないか、と靖国親拝の実現という形での天皇の政治利用を企ててきた人々が自家撞着を起こしているのは、それだけ困惑が深いことの証左にほかならない。)
 従来の靖国側の言い分は、神社祭祀の本義からして、ひとたび祀られた神霊を分霊したとしても元の神霊はそのまま元の神社に存在し続け、従っていわゆる分祀は不可能(ないし無意味)であるというものであったが、今後その神道の「本義」に何らかの再解釈を加えるか、事実上の合祀取り下げが水面下で模索されるかしても不思議はないだろう。 だが、A級戦犯の合祀をめぐる論争はまだ富田メモの発見によって新局面を迎えただけで、この点に限っても現実に打開策が見出されるにはまだまだ時間を要することは間違いない。
 中国や韓国の批判にどう対応するべきか、そして今度は昭和天皇の不快感の表明をどう受けとめるべきか、という風に、靖国問題がとかく受身に捉えられてきていることに違和感を持つ中で本書は構想された。
 ヤスクニともっと正面からむきあうべきだと考え、本書では複数の異なる政治的立場、また日本人に加えて、在日韓国人、韓国人、中国人、更にはアメリカ人、イギリス人、それも様々な年齢層(八〇歳代から三〇歳代まで)の執筆者を交えて、これまであまり顧みられなかった多様な視座を提示し、執筆者のそれぞれが真っ向から議論することを旨とした。靖国神社のあり方そのものに強い反発を感じる者から小泉の靖国参拝を肯定的に評価する者まで、また、国民国家論者からその枠を超えた共同体を唱える者まで、無理に意見を合わせることはせず、いくつかのケースにおいては、執筆者同士でむきあい、互いに論評、批判しあうことさえした。
 本の体裁としてはかなり変則的かもしれないが、読者の皆さんにとって、新鮮な視点と出会い、改めて靖国問題とむきあうきっかけとしていただければ幸いである。

中野晃一

    
             

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