ガラスの家

プラムディヤ選集第7巻

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プラムディヤ・アナンタ・トゥール/ 押川典昭訳
定価3500円+税
四六判上製・734ページ
ISBN978-4-8396-0208-6 C0397
●書評


 お待たせしました。『人間の大地』『すべての民族の子』『足跡』と続いたプラムディヤ「ブル島4部作」の完結篇です。前3作とは異なり、『ガラスの家』の語り手はオランダ領東インド政府でナショナリズム運動を分析し弾圧するという、特高みたいな役目を負った原住民官僚パンゲマナンです。そして、この悪役が主人公となることによって、はじめて前3作相互の関連性とミンケの実像がはっきり見えてくるという仕掛けになっています。プラムディヤはすごい! あらためてこの4部作が骨太で、実に緊密かつ巧みな構成になっていることに驚嘆させられます。
 20年をかけてこの「ブル島4部作」の日本語訳を完成させた押川典昭さんの力のこもった解説のさわりをひとつ。

 一九六五年十月十三日夜十時過ぎ、ジャカルタの自宅で仕事をしていたプラムディヤは、ナイフなどで武装した覆面姿の集団の襲撃を受けた。妻と生後まもない息子を含む子どもたちは別の場所にいて難を逃れた。彼はひとりで暴徒に立ち向かおうとしたが、投石がはじまり、ドアと窓ガラスを破られた。そこに兵士と警官を乗せたトラックが到着し、「保護する」という名目で同行を求められた。彼は書きかけの原稿とポータブルタイプライター、それに洗面用具など必要最小限のものをバッグに詰めてトラックに乗った。自宅に残してきた蔵書と原稿、資料等の保全を求めたところ、兵士に軽機関銃の台尻でこめかみを殴打され、このとき受けた傷がもとで左耳の聴力をうしなうことになった。彼は後ろ手に縛られ、縛った縄は首にかけられた(こうして縛られることは死を意味した)。トラックが去ったあと、暴徒たちは書斎に押し入り、出版を待っていた原稿八本と、約五千冊の蔵書、歴史小説執筆のために蒐集していた資料、ファイルなどを自宅裏の空き地に積み上げ、火を放った。
 このとき焼失した原稿は、以下のようなものである。『わたしをカルティニとだけ呼びなさい』(Panggil Aku Kartini Saja)。インドネシアの女性運動の先駆者で、この小説中の「ジェパラの娘」のモデルであるラデン・アジェン・カルティニ(一八七九〜一九〇四)の評伝。全四部からなるこの作品は、最初の二部が六二年に出版され、残りの二部がうしなわれた。『浜の娘』(Gadis Pantai)。母方の祖母をモデルにした小説で、ブル島四部作の前奏曲にあたる。すでに完成していた第一部は、八七年に出版されたが、未完の部分を含む残りの二部、三部の原稿が灰になった。研究書『インドネシア語の歴史―ひとつの試論』(Sejarah Bahasa Indonesia, Satu Percobaan)その他。  暴徒から「保護する」ために連行されたプラムディヤは、書きかけの原稿を含むすべての持ち物を没収され、陸軍戦略予備軍やジャカルタ軍管区など軍の施設を転々としたのち、ジャカルタのサレンバ刑務所に勾留された。いかなる理由で逮捕されたのか告げられることも、法廷に引き出されることもなかった。
 こうして、すでにインドネシアの内外で名声を確立していた四十一歳の作家は、もっとも創造的で生産的な人生の実りのときを前にして、自宅などすべての財産を奪われ、以後、十余年にわたって身柄を拘束されることになった。独立革命の時代、非合法文書所持のかどで一九四七年から四九年にかけてオランダ軍に投獄された二年半、評論『インドネシアの華僑』によってスカルノ政権の華人政策を批判し、六○年から六一年にかけて獄につながれたおよそ一年につづく三度目の、しかしもっとも長期におよぶ苛酷な体験のはじまりであった。
 プラムディヤが暴徒に襲われ軍に拘束されたのは、その二週間前、六五年十月一日未明に起きたクーデター未遂事件、いわゆる「九月三十日事件」の影響によるものである。国軍の内部抗争説も根強いこの出来事は、インドネシア共産党による政府転覆の陰謀と断じられ、軍を中心とする右派、イスラム勢力による徹底した共産党弾圧が行なわれた。六五年から六六年にかけて連日つづけられた共産党の物理的解体の過程では、党員、同調者、華人などが数十万人規模で虐殺された。もっとも大規模かつ残虐な殺戮が行なわれたのはジャワ島とバリ島で、たとえば、いまや世界的な観光地としてその血の痕跡などすっかり漂白されたバリ島だけでも、十万人が殺害されたといわれる。虐殺をまぬかれた者たちは逮捕され(あるいは、逮捕されたがゆえに虐殺をまぬかれた)、一時的にせよ身柄を拘束された者を含めればその数は百五十万人にのぼった。これにより二百五十万の党員を誇った共産党は完全に壊滅した。プラムディヤ自身は党員ではなかったが、五〇年代後半から、共産党系の文化団体「レクラ」(人民文化協会)の論客として活動したことが逮捕の原因であった。
 逮捕された者たちは「政治的勾留者」(Tahanan Politik, 通称Tapol)と呼ばれ、事件へのかかわりの度合いに応じてABCに分類された。軍当局の基準によれば、Aは中央と地方とを問わず事件に直接関与した者、Bは共産党員もしくは党の下部組織の幹部、あるいは事件の鎮圧を妨害した者、Cは下部組織のメンバーもしくは共産党のシンパ、とされた。このうち、Aは裁判にかけられ、多くが死刑や終身刑を受けた。最多数を占めるCのグループは、善良なる市民生活に戻ることを条件に釈放された。Bは社会から隔離され、長期にわたって苛酷な生活を強いられることになった。この分類は恣意的なもので、プラムディヤは高名な作家で影響力があったため、Bに分類された。
 一九六六年五月から三年二か月、サレンバ刑務所に勾留されたあと、プラムディヤは、ジャワ島インド洋岸の港町チラチャップの対岸にある監獄島ヌサカンバンガンを経て、六九年八月、B級政治犯の第一陣として、およそ五百人の仲間とともにブル島に送られた。バンダ海に浮かぶマルク諸島のひとつブル島は、オランダ植民地時代からアロマオイルの原料を産出する以外に産業のない、山岳と森林が面積の大半を占める未開の地であったが、この六九年にB級政治犯を収容するコロニーが開かれ、七九年に閉鎖されるまで、一万四千人のB級政治犯がここで暮らした。
 彼らが到着したとき、ほとんど施設らしいものはなく、収容者たちは徒手空拳で森林を拓いて、道をつけ、切り出した木材でバラックを建てた。食事も十分には与えられず、やがて田畑を耕してキャッサバ、とうもろこし、砂糖きび、米などを栽培し、家畜の飼育(プラムディヤも鶏を飼っていた)や魚の養殖によって自給自足の生活をはじめるまで、ヘビやネズミ、カエル、昆虫などを口にして飢えをしのいだ。
 かつて植民地時代、オランダは政治犯を隔離するために収容所をつくり、のちの大統領スカルノや副大統領ハッタ、首相シャフリルらを流刑に処した。そのひとつ、ニューギニアの密林の奥地にあったボーフェン・ディグルでは、一九三○年のピーク時に約千三百名の政治犯が暮らしたが、劣悪な環境下で命を落とす者が少なくなかった。たとえば、この『ガラスの家』にも登場するマス・マルコは、二七年にここに送られ、マラリアにかかって三五年に没している。そうした生きて還ることが保証されない遠い瘴癘の地というボーフェン・ディグルのイメージは、恐怖をかきたてる記号として、植民地の安寧と秩序を維持するうえで効果があった(むろん、急進的なナショナリストからすれば、ボーフェン・ディグルは「聖地」でもあったのだが)。ブル島もまたオランダ領東インドからインドネシア共和国へと至る、隔離と監視と矯正のためのコロニーの系譜に連なるもので、スハルト政権下における秩序維持のための記号の役割をはたした。
 収容者たちをとらえたのは、生きてふたたび島を出ることはできないのではないかという絶望と死への恐怖であった。プラムディヤのメモワール『ある唖者の孤独のうた』(Nyanyi Sunyi Seorang Bisu, Lentera, Jakarta, 1995, pp.291-303)には、彼が把握した六九年から七八年までの死者と行方不明者三百十六人の氏名、生年、没年月日(または行方不明になった年月日)、信仰、旧住所、死因などがリストアップされている。それによれば、死因では、土地の住民とのトラブルによる死、川や海での溺死、落雷による感電死といった事故死、睡眠中の突然死などのほかに、縊死や服毒による自殺が十五件、軍による殺害が四十六件にのぼっている。死因の大半を占める病気は、結核、癌、肝炎、腸チフス、マラリア、破傷風などであるが、なかには通常の健康な生活であれば死に至るはずのない病気もあり、このことがかえってブル島での生活の厳しさを物語っている。いずれにせよ、死はつねに彼らの身近にあった。
 このような収容者たちを慰め、励ましたのは、たまに届く家族からの手紙であり、彼らがみずから演じた音楽や芝居、スポーツなどの娯楽だったが、プラムディヤが語り聞かせる物語もまた彼らを勇気づけるものであった。
 もともとブル島四部作は、逮捕される以前から、執筆のために資料が集められ、構想が練られていた。たとえば、ミンケのモデルとなったティルトアディスルヨは、それほど名を知られていない地味な人物で、彼を主人公に歴史小説を書くことを思いついたのは、プラムディヤ自身の回想によれば、六〇年代のはじめ、レスプブリカ大学(ジャカルタの名門私立トリサクティ大学の前身)文学部に招かれて講義を行ない、学生にレポートを課したときのことであった。二十世紀初頭からのマライ語新聞を調べ、そのときどきの植民地社会の動きをレポートにまとめて提出する課題を出したところ、そのなかにティルトアディスルヨに関するものがあり、そこから小説の着想を得たというのである(ちなみにティルトアディスルヨは、プラムディヤと同じ中部ジャワの小さな町ブロラの出身)。
資料そのものは六五年十月十三日に焼失したが、彼はブル島でそれを仲間たちに語り聞か せながら大きな物語に仕上げていった。『人間の大地』の末尾に、「口述、一九七三年」「筆記、一九七五年」とあるのは、まず語りとして紡ぎだされ、そのあとにそれが記述されたことを示している。収容者たちはあらゆる職業を網羅していたから、宿舎のなかにプラムディヤのために小さな仕事部屋をつくり、タイプライターや紙やリボンなどの筆記用具を調達し、また日々の労働の一部を肩代わりするなど、さまざまなかたちでその創作活動を支援した。と同時に、語り聞かせることは、彼と仲間たちが記憶を共有するための作業でもあった。七三年には、当時の治安責任者であったスミトロ治安秩序回復作戦司令部司令官が来島し、タイプライターの使用が正式に認められたことも執筆活動に拍車をかけた。
 それにしても驚くべきは、四部作や『逆流』(九五年)、『アロク・デデス』(九九年)などブル島で生まれた長編歴史小説が、いかなる文献も参照せずに、彼の記憶力と想像力のみで書き上げられたことである。実際、七七年十二月に撮影された写真があるが、白い丸首シャツ姿でタイプライターにむかう彼のまわりには、天井から裸電球が吊られ、背後にメモ用紙を留める布か紙の幕が張られ、手もとにノートらしきものが置かれているだけで、書籍類は見あたらない。……  ブル島での生活は苛酷なものであったが、彼は灌漑施設や道路の建設など強制労働に従事しながら、それを一種の「スポーツ」(olahraga)と前向きにとらえ、身体を鍛えることにしたと述べている(『私はひとり怒りに身を焼かれる』Saya Terbakar Amarah Sendirian!, KPG, Jakarta, 2006, p.36)。ブル島に送られなければ、もっと早く死んでいただろう。本を読み、タイプライターをたたき、煙草をすう不健康な生活にくらべて、ブル島で私の身体は強く、大きくなった、と。  幾度か生命の危機におびやかされながら、アムネスティ・インターナショナルや国際ペンクラブの支援、また、米国カーター政権からインドネシア政府に加えられた圧力もあって、ブル島を生き抜いた勾留番号641の作家は、B級政治犯の釈放がはじまっておよそ二年後、一九七九年十一月十二日に流刑を解かれ、船で島を離れた。最初のグループで島に送られ、最後の一員として島をあとにしたことになる。それから、ジャワ島東部のスラバヤに上陸し、マグラン、スマランなどを経て、十二月十一日にジャカルタで釈放され、家族との再会をはたした。あの夜に身柄を拘束されたときから十四年と七十日が過ぎていた。その間ついに具体的な罪名をもって起訴されることも、裁判が開かれることもなかった。
 釈放後もプラムディヤは監視下に置かれ、週に一度、東ジャカルタ軍管区司令部に出頭して近況報告することを義務づけられ、許可なくジャカルタを離れることを禁じられた。これは彼だけでなく、六五年の事件で逮捕され、「ET」(Ex-Tapol, 元政治的勾留者)というコード名を付された者たち全員に適用された。彼らは職業選択の自由、転居など移動の自由、表現の自由、投票権を制限され、さまざまな社会的不利益をこうむった。そしてその累は家族にまでおよんだ。
 それにしても「ET」というコード名は絶妙である。それはスハルト独裁政権下のインドネシア社会にまぎれ込んだ「異星人」「異物」であり、国民が携帯を義務づけられた身分証明書に記載されていたから、彼らはそれを提示するたびに社会から容易に排除される仕組みになっていた。その後、司令部に報告する義務は、ひと月に一回に軽減されたが、九二年をもってプラムディヤは公然とその義務を拒否した。「ET」という烙印は、九五年の独立五十周年の恩赦によって、ようやく身分証明書から削除された。
 拘束されていた十四年間に、彼の作品は全国の図書館から姿を消し、むろん書店での販売も禁じられた。それのみならず、この時代に書かれたインドネシア文学のテキストに彼の名が載ることもなかった。プラムディヤという作家の存在そのものが消し去られたのである。
 そうしたなか、プラムディヤは釈放後まもない八〇年四月、流刑時代の仲間ハシム・ラフマン(Hasjim Rachman)、ユスフ・イサク(Joesoef Isak)と共同で出版社「ハスタ・ミトラ」(Hasta Mitra,「支えあう手」の意味)を立ち上げ、ブル島で書いた一連の作品の出版を開始した。治安当局の妨害を受けながら、彼らが記念すべき最初の刊行物に選んだのは『人間の大地』であった。これは大きな反響を呼び、二週間たらずで初版一万部が売り切れるベストセラーとなった。
 この背景には、国際的に知られた高名な作家が流刑地から帰還後に発表した、ほぼ二十年ぶりの作品であるという話題性と同時に、スハルト独裁体制下で国民の非政治化=政治からの排除が進められ、それに相応するように作家たちが骨太の、社会性の強い作品を避けてきた閉塞的な文学・言語空間をつき破るものとして、この小説が歓迎されたということがあるだろう。そして実際、読者は、たとえば、オランダ植民地権力に単独でたたかいを挑み、主人公のミンケに大きな影響を与える現地妻ニャイ・オントロソの姿に、スハルト体制への批判を二重写しに読み取ったのである。しかし『人間の大地は』は、発売から十か月後の八一年五月末、検事総長の命令により、続刊の『すべての民族の子』とともに発禁処分を受けた。『足跡』『ガラスの家』もゲリラ的に出版されたが、いずれも発禁になった。
 四部作の発禁に至るまでの版数と部数はそれぞれ、五版五万部、三版一万五千部、二版六千部、初版三千部である。小説を所持することじたい違法とされ、八九年にはこれを仲間に回覧したジョクジャカルタの三人の大学生が逮捕され、最長で八年半の刑を受けている。プラムディヤの小説を読むことが、政府に対する破壊活動を企んでいるようにみなされたのだが、コピーで出まわったもの、また、ひそかにまわし読みされた回数を含めれば、おそらくこの小説の読者は数十万に達するであろう。


…… もうひとつ、『ガラスの家』はさみこみのしおりから

プラムディヤと私

                                   押川典昭

 私がプラムディヤと初めて会ったのは、一九八九年三月のことである。ブル島から釈放されてすでに九年余が経過していたが、ET(元政治犯)の烙印を捺されて治安当局の監視下に置かれたまま、前年には『ガラスの家』が発禁となり、小説を回覧した大学生が逮捕されるなど、プラムディヤを取り巻く状況はなお厳しいものがあった。彼と会う人間はすべて当局にチェックされているとの噂もあった。私は、ブル島時代の仲間の編集者ハシム・ラフマン氏とホテルのロビーで落ち合い、彼の車で東ジャカルタのウタン・カユにあったプラムディヤの自宅にむかった。
 家の前の路地で待っていたプラムディヤは、無精ひげの生えた頬を擦りつけるようにして私を抱きしめ、自分の子どもと同じくらいの若いきみが翻訳してくれたんだね、と言った。私は大粒の涙が止まらなかった。そのとき彼は六十四歳、私は四十一歳だった。 緊張のせいもあってこのとき何を話したのか、細かいことは覚えていないが、私の研究テーマのひとつが二十世紀初めの華人文学だと知ると、タン・ブンキム(一八八七〜一九五九年)が一押しだといって、彼が蒐集していたタン・ブンキムの資料を貸してくれた。また、自分の文学を理解するには故郷のブロラが原点だから行きなさいといって、そこに住んでいた妹さんに紹介状を書いてくれた。
 私はそれから、中部ジャワのジョクジャカルタからバスを乗り継いでブロラに行った。そして妹さんの家に泊めてもらい、彼女の夫のジープに乗って、プラムディヤの生家や、父親が校長をしていた学校の跡地、かつてサミン運動の舞台となったチークの森、ルシ河の畔、廃屋となっていたブロラ駅など、初期の小説に出てくる場所に案内してもらった。

  ……

 それからも何度か会い、未発表の原稿のコピーをもらったりしたものの、自作について語ることを彼自身が好まないこともあって、その文学についてじっくり話を聞く機会はなかった。気難しい人物という世評と違って、彼はいつも好々爺のように接してくれ、ときには帰る私のために表通りまで出てタクシーを呼び止めてくれることもあったが、穏やかで上品なマイムナ夫人が「この人、なかなか難しくてね」と笑顔で言ったのが印象に残っている。

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