オリエンタリストの憂鬱

植民地主義時代のフランス東洋学者とアンコール遺跡の考古学

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藤原貞朗
定価4500円+税
四六判・上製・582ページ
ISBN978-4-8396-0218-5

【関連書】アンコール遺跡とカンボジアの歴史 東南アジアの遺跡を歩く

 
  アンコール遺跡が廃墟から蘇り世界的な文化遺産として有名になったのは、フランスの冒険家・考古学者による発見・採掘があったからこそです。そしてフランスがその後、カンボジアをはじめとするインドシナの考古学・歴史学研究をリードしてきたのは誰もが認めること。しかし、彼らがパリに大量の美術品を持ち帰り、西欧のエキゾチズム嗜好に合わせてデフォルメして紹介したのも事実です。その背景にあったのはフランスの植民地政策。考古学は政治とは切り離せないものなのでしょうか。
 気鋭の美術史研究家がパリの膨大な一次史料を渉猟し、ついにフランスのインドシナ考古学研究史を再構築しました。フランスにとっては触れられたくない事実がどんどん出てきます。そして…
 ルイ・ドラポルト、エミール・ギメ、ルイ・フィノ、ポール・ペリオ、アンリ・パルマンティエ、ジョルジュ・グロリエ、アンリ・マルシャル、ジョルジュ・セデス、アンドレ・マルロー等々…ビッグ・ネームが続々登場します。果たして彼らはアジアから何を持ち去ったのでしょうか。


【著者はこんな人】

藤原貞朗 (ふじはら さだお)
1967年 大阪府泉佐野市に生まれる
大阪大学文学部卒業・同大学院修了、リヨン第二大学に留学
大阪大学大学院文学研究科助手を経て
現在、茨城大学人文学部准教授

著書
『美術史のスペクトルム』(共著, 光琳社, 1996)
『ヨーロッパ美術史』(共著, 昭和堂, 1997)
La Vie des fromes ; Henri Focillon et les arts(共著, INHA, Paris, 2004)
Hokusai(共著, Fage Edition, Lyon, 2005)
訳書
ダリオ・ガンボーニ著『潜在的イメージ』(三元社, 2007)

【目次】

序章   パリの国立アジア美術館とアンコール遺跡の近代考古学史

第一章  ルイ・ドラポルトとアンコール遺跡復元の夢
ギメ美術館の展示品とドラポルト
冒険譚としての遺物搬送
ドラポルトのクメール美術観
パリにおける初めてのクメール美術展示
クメール美術館からインドシナ美術館へ
インドシナ美術館のレプリカ展示
レプリカにみる19世紀末の遺跡の状況
19世紀の復元の理想
参道彫刻をめぐる謎
考古学的スペクタクルと万国博覧会
晩年のドラポルト

第二章  フランス極東学院の創設とその政治学
初代院長の選出をめぐる謎
草創期の極東学院の調査の実状
日本学者クロード・メートル
考古学的調査のための法的整備
法制下の遺物の管理と移送
極東学院創設の政治学
クロノポリティクスとジェオポリティクス

第三章  本国の理念と植民地の実践のはざまで(1)――現地調査員の現実
2枚の写真より――ヤヌスとしての東洋学者
フランス東洋美術研究のダブルスタンダード
現地調査員のキャリア(1)――文献学者カバトンと遺跡目録作成者ド・ラジョンキエール
現地調査員のキャリア(2)――2人の調査員の死、カルポーとオダンダール
現地調査員のキャリア(3)――建築家の仕事、デュフールとパルマンティエ
現地調査員のキャリア(4)――アンコール保存局長、コマイユとマルシャル
現地調査員のキャリア(5)――カンボジア生まれの芸術局長、グロリエ

第四章  本国の理念と植民地の実践のはざまで(2)――メトロポールの発展
20世紀初頭のパリの東洋学事情
パリの東洋美術史料/パリのオリエンタリスト(1)――ジョゼフ・アッカン
パリのオリエンタリスト(2)――メトロポールの寵児、グルセとステルヌ
グルセの東洋美術史理念
東洋美術館の再編成(1)――ギメ美術館の変革
東洋美術館の再編成(2)――国立美術館統合とインドシナ美術館の終焉
東洋美術教育体制の確立――ルーヴル学院におけるアジア美術教育
普遍主義、形式主義、そして植民地主義
方法論的齟齬の表面化――ステルヌ著『アンコール遺跡のバイヨン』の衝撃
ステルヌのアンコール詣で

第五章  アンコール考古学の発展とその舞台裏(1)――考古学史の中のマルロー事件
マルロー事件と考古学史
事件の概要
マルロー事件に見る1920年頃の考古学の状況
法的根拠の曖昧性と文化財保護法の改正
法改正の舞台裏
事件後のバンテアイ・スレイ調査
パルマンティエの論文と「東洋のモナリザ」
甦るバンテアイ・スレイ
アナスティローシスと復元の思想

第六章  アンコール考古学の発展とその舞台裏(2)――現地の混乱とメトロポールの無理解
学院の新しい顔――セデスとゴルベフ
ゴルベフの新しい考古学の方法
グロリエのカンボジア芸術局、美術学校、美術館
カンボジアの伝統復興は誰のためか
カンボジア芸術局にみる植民地政策の変化/グロリエの暗躍とアンコール考古学への影響
学院による古美術品販売
エスカレートする古美術品販売――欧米の美術館との取引
近代考古学・美術史学への「貢物・供物」
メトロポールの無理解

第七章  パリ国際植民地博覧会とアンコール遺跡の考古学
植民地博覧会と考古学の貢献
復元されたアンコール・ワットの象徴的意味
マルセイユ博のアンコール・ワット
植民地博覧会と極東学院/正確な細部が意味するもの
極東学院展覧会
植民地宮に見るインドシナとアンコール遺跡の表象
植民地宮の建築様式
ファサードの巨大植民地絵巻
ジャニオの様式
フレスコ装飾――中央ホールと2つのサロン
描かれた考古学と伝統工芸
博覧会と考古学・美術史

第八章  アンコール遺跡の考古学史と日本
戦時下日本のアンコール・ブーム
第2次大戦以前の日本人によるアンコール研究
日仏会館と極東学院の連携
第2次大戦中の日仏会館
日仏印文化協力前夜――戦時下の極東学院の亀裂
第1回教授交換、太田正雄
仏印巡回現代日本画展覧会
ゴルベフの来日講演と展覧会
南部仏印進駐と文化協力の変化
戦時下日本におけるアンコール遺跡の意味
第2回教授交換、梅原末治
セデスの来日計画
極東学院と帝室博物館の古美術品交換
戦時の古美術品贈与と販売
植民地考古学の終焉と新たな悲劇のはじまり
最後に――日本が見たアンコールの夢

終章   あとがきにかえて


図版リスト
書誌
索引




   【「序章 パリの国立アジア美術館とアンコール遺跡の近代考古学史」から】

 パリの地下鉄6号線と9号線が交差するトロカデロ駅を降り、小高い丘に建つシャイヨー宮の広いポーチに立ってエッフェル塔を1望する。10年前、本書の基礎となる調査をなっていた私は、午前10時ちょうどこの塔を眺め、100年程前のベルエポックのパリを想像してから1日の仕事に取りかかる、そんな毎日を送っていた。
 エッフェル塔が建造されたのは1889年のパリ万国博覧会のことである。この塔を臨むシャイヨー宮ができたのは1937年のパリ国際博覧会のこと。それ以前には、ここには1878年のパリ万博の際に建てられたトロカデロ宮があり、内部にはカンボジアのアンコール遺跡群からもたらされたクメールの美術品やレプリカがところ狭しと展示されていた。1889年の万博では、アンコール・ワット寺院の1基の塔がパヴィリヨンとして復元され、エッフェル塔の東側に聳えてもいた。ここは、ヨーロッパにおいて初めてアンコール遺跡の遺物が登場した記憶のトポスであった。
 しばし古き時代のパリを想像した後、塔に背にして、私は調査を行なう場所へと向かった。シャイヨー宮東翼部に沿って延びるウィルソン大統領大通りを下ってゆくと、カンボジアを含む仏領インドシナの研究を行なうために1899年に創設されたフランス極東学院のパリ本部がある。さらに歩みを進めてイエナ広場に出ると、そこには円柱形の入口部を持つ独特の建物が見える。フランス最大のアジア美術コレクションを有する国立アジア美術館、通称、ギメ美術館である。この美術館がパリにお目見えしたのも1889年のことであった。想像の中のトロカデロ宮、フランス極東学院、そしてギメ美術館、これら3つの場所が当時の私の調査の場であり、本書の主役たちが深く関わった場所である。
 創立者エミール・ギメの名を冠したギメ国立アジア美術館は、日本では比較的よく知られた存在だろう。エミール・ギメは1874年に中国や日本を訪れ、主に仏像を蒐集して帰国、まずはリヨンに、ついでパリに自らが蒐集した宗教美術品を展示する美術館を設立した。彼が集めた仏像を拝観すべくギメ美術館を訪れる日本人観光客も少なくない。だが、この美術館を訪れた日本人は、少なからず面食らうのではなかろうか。美術館の顔ともいえる正面入口の展示室にあるのが、日本の仏像でも浮世絵でもなく、また中国の青銅器や陶磁器でもなく、カンボジアのアンコール遺跡から出たクメール彫像群だからである(図1)。日本の書画骨董の類は3階に、そして、お目当ての仏像は入場無料の別館に展示されるにとどまっている。この美術館の顔は、まずもって、クメール美術なのである。
 これから私は、これらクメール美術品を巡る幾つかの物語について書こうと思う。といっても、クメール美術について解説をするわけではない。
 美術館に展示されている作品の横には、大抵、作品名や制作年を記した縦横10センチメートル程度の小さなプレートがある。たとえばギメ美術館の最大の彫像の横には、

 《巨人の3道》、カンボジア、プリヤ・カン(アンコール)遺跡出土、シエムリアップ州、バイヨン様式、102世紀から103世紀初頭の制作、砂岩

と書かれている(図2、図3)。1般的な美術書においては、この記述をさらに詳しく論述するというのが通例だろう。プリヤ・カン遺跡とはどんな遺跡か、102世紀のカンボジアはどのような状況だったのか、誰が作ったのか、バイヨン様式とはいかなる様式のことか、そうした事柄を解説するのである。しかし、本書の目的は美術品解説ではない。私が注目するのは、作品の名称や制作年が書かれたそのさらに下に、小さな文字で記された情報である。この《巨人の3道》の場合にはこう記されている。

 ルイ・ドラポルト調査隊、1873〜1874年。1927年以後にギメ美術館の所蔵になる。MG18102、24615から14615。

 最後の数字は美術館所蔵品の整理番号であるが、その前の情報は何なのか。これはこう読むのが正解である。「1873〜1874年に行なわれたルイ・ドラポルトによる遺跡調査によって収集され、フランスに持ち込まれる。ギメ美術館が所蔵するようになるのは1927年以後のことである」。要するにこれは展示作品の来歴、すなわち、この作品が美術館に収蔵されるに至った経緯を簡潔に示しているのである。もうひとつだけ来歴情報を見ておこう。同じくプリヤ・カン遺跡出土の仏像であるが、来歴にはこうある。「1931年、フランス極東学院による送付。MG18048」。
 さて、これらの情報から何を読み取ることができるのだろうか。美術館1階のクメール彫像群の作品来歴をざっと読んでみると、ほとんどの彫像が1870年代から1930年代にかけて収集され、ギメ美術館の所蔵品となったことがわかる。この時期はフランスがカンボジアを含む東南アジアのインドシナ半島を植民地としていた時代にぴったり重なっている。クメール美術品が現在、フランス国立美術館の所蔵となり、美術館の顔となっているという現実と、かつてフランスがカンボジアを植民地支配していたという歴史的事実は、おそらく無関係ではないだろう。また、ルイ・ドラポルトという人物が1873年にアンコール遺跡を踏査したということ、そして、フランス極東学院という機関が存在していた(そして現在も存在している)ということもまた、植民地時代の歴史と無縁ではないと想像できよう。
 ギメ美術館は、国立アジア美術館というその名の通り、フランスを代表するアジア美術館であり、さらには、欧米有数のアジア美術コレクションを有する施設である。しかし、アジア美術館の名を冠する世界中の数ある美術館の中で、クメール美術を多数保有し、美術館の顔としているのは、プノンペンにある国立カンボジア美術館を除いてはここくらいである。北米であれイギリスであれドイツであれ、いわゆるアジア美術館のコレクションの柱となるのは、インドや中国の仏教遺物や古美術品である。なぜフランスの国立美術館だけが例外的にカンボジアの美術を多数収蔵しているのか。中国やインド、そして日本の名品を多数所有するロンドンの大英博物館やワシントンのフリア・ギャラリー、あるいはボストン美術館がほとんど所有していないクメールの古美術品を、なぜ、フランスだけが持っているのか。言うまでもなく、作品来歴が示す通り、フランスの植民地時代に大量の美術品や考古学的遺物が、東南アジアからフランスにもたらされたからである。フランスは1887年にトンキン、アンナン、コーチシナ、カンボジアを保護国とする「フランス領インドシナ連邦」を築き(1893年にはラオスも併合)、20世紀半ばまで当地を植民地支配した。この間、アンコール遺跡はフランスの研究機関に属するフランス人考古学者たちによって、ほぼ独占的に調査された。インドシナにおける近代的な意味での考古学は、フランスによって開始され、学術的調査と保存活動が行なわれるとともに、大量の遺物がフランスへと移送されたのであった。
 作品の来歴情報は、さらに様々な出来事を暗示している。先のプリヤ・カン遺跡出土の仏像は1931年にフランス極東学院によって送付されたと記されているが、1931年といえば、パリにおいて国際植民地博覧会という万博のようなイヴェントが盛大に開催された年である。博覧会には実物大の巨大なアンコール・ワットのレプリカも建造された(図66, 67, 74を3照のこと)。仏像の送付もおそらく、この博覧会と関係があるのだろう。また、《巨人の3道》をギメ美術館が収蔵するようになったのは1927年以後とあるが、それでは1874年に調査されて以降、1927年までの約半世紀、この巨大な彫像はどこにあったのだろうか。作品来歴は様々な情報を暗示するとともに、さらなる謎を投げかけている。そもそも、ルイ・ドラポルトとはどのような人物なのか、フランス極東学院とはどのような施設なのか。植民地の考古学的活動は、どのような体制のもとに行なわれたのであろうか。
 本書が語ろうとするのは、こうした疑問に対する答えである。19世紀後半期から20世紀前半期にかけての約100年間に、フランスの考古学者たちが行なったアンコール遺跡の考古学の歴史、そして、フランス人によるクメール美術史編纂の歴史について語ろうと思う。この間にアンコール遺跡が再発見され、フランス人による学術的調査が始まり、今日に至るアンコール考古学の礎が築かれたのである。その貢献なしには、今日、世界文化遺産として有名となったアンコール遺跡は廃墟から蘇ることがなかったといっても過言ではない。少なくとも、世界中に知られる遺跡とはなっていなかっただろう。だが、その一方で、大量の遺物や美術品が遺跡から持ち出され、フランスへと移送されるというという現実もあった。移送のされ方は時期によって大きく異なる。大雑把にいえば、19世紀後半のドラポルトは、なんら文化財に対する法的整備のない中で、カンボジア国王と美術品交換の約束を取りつけ、ナポレオンが古代エジプトの巨大な彫像をパリへ持ち帰りルーヴル宮殿に展示したように、《巨人の三道》をパリへと持ち帰った。20世紀に入ると無法的な遺物移送は制限される。だが、法的整備がなされた後でも、合法的に、フランスへの彫像の移送、さらには、欧米諸国や日本の美術館に彫像類の売却や交換が行なわれ、それは20世紀半ばまで続いた。いかなる口実によって、貴重なクメールの彫像が遺跡から持ち出され、フランスへ、そして、北米、日本へともたらされたのか。ここには、今日的に見れば深刻な政治的問題が横たわっている。今日に至るアンコール遺跡の考古学史は、フランスが行なった考古学的調査の学術的貢献と植民地時代の政治的な負の遺産が幾重にも重なり交錯しながら織り上げられている。その交錯のありようを本書は描き出したいと思う。
 本書は基本的に編年的に叙述を進める。それぞれ、その時代を代表する人物や学術機関やでき事をクローズアップして詳述するが、あわせて微細な年譜的情報も挿入する。アンコール考古学史の歴史活劇として読むことができると同時に、学史年表としても活用しうるようなものを目指した。また、多数の未刊行の古文書資料や視覚的資料を利用していることも付け加えておきたい。
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