東北タイにおける精霊と呪術師の人類学

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 津村文彦

 定価4000円+税
 A5判上製・312ページ
 ISBN978-4-8396-0287-1 C3039
             

東北タイの辺境。人びとの生活と心の中に大きな位置を占める精霊(ピー)。
それは果たして存在するのか否か。
実際に呪術師に弟子入りして修行した気鋭の研究者が繰り広げる不思議の世界。
文化人類学の王道を行く傑作です。



【目次】
第1章 序論
第1部 物語に表象される精霊
第2章 ナーン・ナークの語るもの――国民国家形成期のタイ仏教と精霊信仰
第3章 ピーポープの語るもの―― 悪霊映画から見る東北タイの表象


第2部 精霊とともに生きる人びと
第4章 村落生活と調査の方法
第5章 善霊と悪霊のはざま――東北タイの村落守護霊をめぐる語り
第6章 ピーの語りが伝えるもの

第3部 精霊を統御する呪術師たち
第7章 悪霊を可視化する技法――モノを媒介にしたピーと呪術の具象化
第8章 近代医療をまとった薬草師たち
第9章 呪術師の確信と葛藤――呪術的リアリティの類型論
第10章 結論


【はじめに】
 「最近、私の村にはピーポープがよく出る。何人も死んだ。」
 ピーポープという悪霊の話を聞いたのはこのときが初めてだった。
 タイ語でピーと呼ばれる精霊の調査をするために、1999年9月、東北タイのコーンケーンにやってきた。日本で準備はしていたものの、いざ来てみると私のタイ語は実用にほど遠く、最初の数ヶ月はコーンケーン大学で集中的に言語を学んだ。午前に2時間と午後に2時間。翌日までの宿題が与えられ、毎夜のように明け方まで辞書と格闘した。授業のあいだ眠気に襲われるが、特別タイ語レッスンの生徒は私ひとり。居眠りなどできるわけもなく、タイ語学習に励んでいた。
 3ヵ月が過ぎたころ、ピーポープの話を聞いた。タイ語レッスンの先生に私の研究関心を話したところ、「ピーのことならソムピットおばさんがいい」と、教室の掃除をしていた女性を紹介してくれた。すでに会話を聞いていたソムピットおばさんは、待ってましたとばかりに、「何人もの村人を喰い殺した」というピーポープの話を、声をひそめながら聞かせてくれた。
 それ以来、ソムピットおばさんの住むNK村が私のフィールドになった。ソムピットおばさんとその夫スッチャイおじさんがキーインフォーマントとなり、彼らの日常生活の空間的な広がりに沿いながら、研究の場を周辺村落に拡大した。モータムという仏法を駆使する悪霊払い師や、モーヤーと呼ばれる薬草治療の専門家など、本書で分析対象とした呪術師モーの多くは、ソムピットおばさんの日々の暮らしのどこかに結びついている。
 本書ではピーについて論じたい。「ピー」は、村の守護神や死んだ家族の霊を指すこともあれば、餓鬼のような存在もピーである。いわゆる「金縛り」もピーが引き起こすとされるし、生きた人間の肝臓を食べてしまうような邪悪なピーもいる。ピーが指すものは多様で、かつ曖昧である。
 当然のことだが、ピーを実際に観察して記録することは難しい。目で見ることはできないながらも、それを人類学の研究対象にするには、ピーの立ち現れ方を捉えるしかない。ピーは直接に姿をさらすことはないが、たとえば言葉を介して語られることでその存在を顕わにする。
 ピーに関する調査は、語りを収集することに焦点を置かざるを得ない。ソムピットおばさんからもたくさんのピー話を聞かせてもらった。ただし村のなかで、ピーのことを語るのと、最近売った牛の値段を話すのとは、少し趣が異なる。みんなでわいわいと冗談を飛ばしながら笑顔で話が進むというよりは、あたりをうかがいながら小声でひそひそと語り合う。
 コーンケーン大学の食堂で友人たちとピーの話をしていると、突然気が遠くなってその場に倒れたことがあった。いつもピーの話を聞かせてくれるインフォーマントへのお返しのつもりで、「あれはピーの仕業だったのかもしれない」と話したところ、その場が凍り付いてしまった。尋常ならざる雰囲気を察した友人が「トゥムラは腹ペコの時に、辛いものを食べて気分が悪くなっただけだよ」と機転を聞かせてくれて、場の空気はもとに戻った。あとで聞くと、村人たちは私にピーが憑いていると本気で心配したらしい。ピーの話は冗談でするようなものではない。声を落としながら、真顔で語るもののようである。本書で取り上げたピーの語りの多くは、そうした村人との張り詰めたやりとりのなかで得られたものである。
 タイ語でウィチャーと呼ばれる呪術的な知識については、その情報の多くをタムおじさんという呪術専門家モータムから得ることができた。ピーに起因する病や災厄を対処する専門家モータムについて、実践的な情報を提供してもらうため、私はタムおじさんに弟子入りを申し出た。タムおじさんは、他の村人とは異なって、ピーを怖れる様子はみじんも見せない。ピーとの武勇伝をたびたび聞かせてくれ、彼が保持する呪文やピーに対処する術を教えてくれた。この研究のもう1人の重要なインフォーマントである。
 本書は、フィールドワークの過程で得られた、東北タイの人びととのあいだの無数の些細なやり取りからできあがっている。ピーに関する言葉だけにはやたらと詳しい奇妙な日本人を受け入れ、いろいろなピーの物語をひそやかに聞かせてくれたソムピットおばさんをはじめとするNK村の人びと、またモータムの師匠であるタムおじさんやその他のすべての人びとの温かい助けによって本書は形作られている。


【著者はこんな人】
津村文彦(つむら・ふみひこ)
福井県立大学准教授、博士(学術)。
1974年、大阪府生まれ。1997年、東京大学教養学部卒。
2003~08年、福井県立大学講師。2009年から同准教授。
1999年より2001年まで、東北タイ・コーンケーン県を主たるフィールドにして、村落の宗教実践や伝統医療、書承文化などを研究。その後も毎年数回はタイを訪問し調査を継続中。現在は呪的タトゥー(サックヤン)に関心を寄せる。
【主な著作】
『呪術の人類学』(共著、人文書院、2012年)
『タイを知るための72章(第2版)』(共著、明石書店、2014年)
『複ゲーム状況の人類学――東南アジアにおける構想と実践』(共著、風響社、2014年)


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