フィリップ・ローソン著『東南アジアの美術』と私との出会いは1987年にさかのぼる。夫の転勤地スリランカからバンコクへ戻った私は、バンコク国立博物館ボランティアの仲間たちと美術の勉強をしていた。ボランティア活動の主体はバンコク国立博物館内でのガイドであったが、歴史と美術に関するスタディーグループも盛んであった。
 そんな時、運命に導かれたというか、ある時にふと手に取った本がローソンの『東南アジアの美術』であった。著者の名に馴染みはなかった。東南アジアあるいはインドシナ専門家として、文献目録でフィリップ・ローソンの名を見たことはなかった。いわば「通俗的」な顔で街の書店に並んでいた本を、内容にあまり期待はしていないで読みはじめたのであったが・・・・・面白かったのである。おりしも勉強会が計画されていたクメール美術の章から読み始めた私は、たちまちローソン氏の虜になってしまったのである。
 ローソン氏に導かれるままに、プレ・アンコール期の巨大石像の「官能的な面のひろがり」を追い、その正面性に魅せられた頃、私はクメ−ル彫像を「観る」戸口に立っていたのであろう。しかし、カンボジアはまだ「近いが、遠い国」であった。憧れの古代都市アンコールは何時訪れることが出来るのか、見通しはなかった。クメール美術の中で、それまでに実際に見て、知っていたのは、バプアン期とバイヨン期くらいであったろうか。タイ東北部で10世紀から11世紀にかけて盛んに造られたバプアン様式の寺院は、ピマーイやパノム・ルンをはじめとして、バンコクから容易にアクセスできたし、13世紀にジャヤヴァルマン7世がチャオプラヤー河を越えて西覇した跡にはバイヨン様式の美術がふんだんに残されていた。この二つの美術期の遺品についてのローソン氏の指摘は納得でるものであったし、その理解を通じて他のクメール美術期に目が開いた感じを得た。
 しかし、何と言っても、まだアンコールを見ていないのである。アンコール・ワットとアンコール・トム間の距離が1キロと聞いても、それが実際にはどのような景観になっているのか想像もつかないのであるから、バンティエイ・シュレイやアンコール・ワットを讃えるローソン氏の半ば詩文のような描写は分かるはずはない。しかし、ローソン氏の描くイメ−ジは鮮やかであった。バケン山上の塔を「萌え出す芽」に比喩したローソン氏の文章は、この山上に立つ度に私の心に新しく蘇る。
 クメールの美を鑑賞するには、この本を手引きにしてみてはどうだろう。すでに始まっていたクメール美術勉強会のメンバーの為に、まず第2章を訳出してみたのは今から15年前のことであった。
 その後、ローソン氏の本は常に座右にあった。近隣諸国を旅をする度に、ある美術様式を勉強する際に、「ローソン氏は何と言っているか」をチェックした。第5章「シャムとラオス」で「スコータイ仏は感応力に欠ける」という文章に遭遇した時は、再びローソン氏に感激した。当時、国立博物館ボランティアが頼りとする芸術局は「歴史のあけぼの:スコータイ」をモットーとし、スコータイ仏を美の極に置いていた。「流麗」という二字はスコータイ仏の枕言葉になっていた。内心密かにスコータイ仏は気味が悪いと思っていた私には、ローソン氏の指摘は嬉しかった。
 読むほどに感激する箇所が出てくるローソン氏の『東南アジアの美術』を、じっくりと読み込んでみたいと思った。日本語訳を出してみたらどうだろう。すでにローソン・ファンになっていた私には彼の「東南アジア芸術の観かた」を日本の東南アジア美術愛好者たちと分かちあいたいという気持ちも湧いていたのである。……
10年あまりの間に次第に分かってきたことであったが、ローソン氏の著作を訳すことは容易ではなかったのである。ローソン氏とつきあった10年あまりの年月は貴重であり、作業は時には楽しい時もあったが、大部分は地獄の苦しみであった。これは対象が難しかった訳ではない。プリズムのように多彩である著者ローソン氏ゆえの苦労であった。ローソン氏はまず20世紀半ばの(英国とアメリカを中心とした)西欧社会で一般知的読者の為に幅広く東洋美術を啓蒙した学者であり、博物館の学芸員であった。西欧文明に生まれその建築や彫像に親しみ、やがて西欧宗主国が植民地から奪い取った宝の山の中でも、至上のものを所蔵していた著名美術館に学芸員として働いた方である。氏が東南アジアの美術を「どう観たか」を知るには、その認識と比較の根底にあるギリシャ・ローマ古典建築やエジプト美術等についての理解が必要である。アーキトレーブ等の西洋建築用語、カルトゥーシュ破風などの造語を前にして私たちは悩んだが、結局は「ローソン氏に観えたように」そのままにした。その意味で、本書はただの東南アジア美術解説書ではない。「誰にはどう観えるか」を考える本でもある。アングロ・サクソンの富のまっただ中、スノビッシュな環境の中で、かなり自由に生きていた、途方もないインテリ・ディレッタント男のローソン氏(これは私が彼の文章から持つイメージであるが)の脳裏にあったイメージを東洋の小娘2人(今は小婆に近づいているが)が解釈するのは至難の技であり、ローソン氏が知れば(残念ながら、既に冥界の方であるが)、苦笑したかも知れない。「西洋人にはそう観えるのか」と知ることは、私たちにとってはまたとない勉強のチャンスであった。
 もう一つの難しさは、ローソン氏が彫刻家であったことである。スコータイ仏の美を認めない彼に感激したことは既述した。彫刻は線ではなくて、面と面、分岐線、量感によって構成されるべきというのが、ローソン氏の説であるが、スコータイ仏はそれにそぐわないのである。この彫刻家の目を日本語に訳すことは難しかったが、氏の東南アジアの彫刻についての意見は、本書の華であると思う。その的確な描写と説明は私たちが最も苦しんだ箇所である。ローソン氏にとっては、建築物も一つのマッスであり、大きな彫刻であった。一つの塔堂をなめるように「観る」ローソン氏に迫って、応えたのは「立体的にものを観る力」を持つ永井文さんであった。
 文末になるが、多分多くの方が抱いておられるであろう疑問に答えたい。「東南アジア学術研究の古典ともされていず、しかも40年近く前に出版された本の邦訳をなぜ今出すのか?」 答えは幾つもある。
まず、第一はこの本には時代を越えた、不変的な価値がある。それは著者の「ものの見方」であり、それは私にとっては衝撃的な啓蒙であった。今は誰でも、金と時間さえあれば、東南アジアの遺跡を訪れることが出来る。そんな今「美術品をどう見るか」の啓蒙は肝要である。そして、東南アジア美術史には「学説の系譜」に加えて、一つの文明に生まれ育った人間がもう一つの文明に生きた人々の遺品を「どう観たか」の側面が加えられるべきであろう。ローソン氏の著作は、その古典となる価値を持つと私は信じるのである。
 第二の答は第一に関連しているが、本書は1960年代の東南アジア観が盛られている。60年代は東南アジアが世界の脚光を浴びた時期であった。1964年7月から66年5月まで、私はインドのデリ−大学に留学していたが、そこから見た東南アジアは特に「輝いて」いた。ネルーなき後のインドは国際舞台の脚光を失い、代わって世界の注目を浴びていたのはスカルノ大統領のインドネシア、シアヌーク国王のカンボジア、三つに分裂したラオス、マレー半島の動向であった。政治面での台頭が、美術界での東南アジア美術の地位昇に役立ったのは当然のことである。折よく普及していたセデスの「インド化された国々」の概念の寄与するところも大きい。動乱の地に出土したヒンドゥー文化、仏教文化の遺品に人々は目を見張った。西欧植民地であったベトナム、カンボジア、インドネシアを除いて、タイなどでは美術史の研究はこの頃に本格的に始まったと言えよう。セデスの「インド化された国々」の概念は、本書の一本の柱である。その「古いアジア」に新しい「東南アジア」という概念を重ねたところがこの本の味噌である。当時の東南アジア地域に寄せられていた世界の熱い眼差し、現地の民の息吹は著者ローソンも意識しているところであり、建国間もないインドネシアの美術の記述にあたっては、特にそれが感じられる。
 アジア・アフリカ勢力の波が退いた後、東南アジアは自由陣営と共産勢力の衝突する地となった。1959年のタイの軍事クーデターと以後の米国の援助は1964年に始まる北爆への布石であった。この戦争はベトナムにおいてもラオスにおいても、遺跡の破壊と美術品の国外流出をもたらした。中でも大きな事件は1969年のミソン爆撃であった。当時の西欧の人々が東南アジアに抱いた野心と懸念、愛憎うずまく感情は、ローソンの記述のそこここに見てとれる。1965年に出版されたローソン著『東南アジアの美術』の主なる読者は、こうしたホットな地・東南アジアに軍事、商事、その他の野心を持って押し寄せた欧米人であった。
 1960年代の欧米は東南アジアにおいてローソンの著作を残した。1980年代から新しいモメンタムを加えた日本の東南アジア経済攻勢はどんな美術書を残すのだろうか?さらに2002年から始まった対アフガニスタン、2003年の対イラク戦争はどんな美術書を残すのだろうか?その意味でも、本書は私たちに疑問を投げかけている。