四発のプロペラ機は、西にむかって、ゆっくりと機首を下げていく。ふわふわとした綿のように真っ白な雲塊を突き抜けると、左手の窓いっぱいにひろがる茶褐色の大地が眼にとびこんできた。低平な水田に、物差しで引いたような平行線が、何本も何本も南北に走っているのが見える。これが、以前、本で読んだことのあるランシット運河だとしたら、バンコクまではあと数十キロのはず。いよいよ到着だ。そう思うと、胸がときめく。
 タイ語の勉強を始めたときから、いつの日か、本物のタイ語にふれたいと、タイヘの留学を夢みていた。しかし、戦争に負けて一〇年たらずの一九五三年当時の日本では外貨の制限がきびしく、特別の仕事でもないかぎり外貨の割り当てがもらえなかったので、かりにお金があったとしても、今日のような海外旅行などは夢のまた夢。フルブライトやガリオア資金で米国へ留学した先輩の話などをただうらやましく聞くのが落ちだった。 
 「君が本当にタイへ行きたいのなら、近道があるからやってみないか。外務省だよ。外交官試験はむずかしいが、外務書記ならやさしいぞ」こう教えてくれた人がいた。文学部しか頭になかった自分には、外務省などという役所は月世界のような存在だったが、話を聞いてみると、今で言う専門職という仕事は、いままでやってきたことと、まんざら無関係とも言えない。とにかくタイへ行けるというなら多少の犠牲は甘んじて受けようと、さっそく本屋に出かけて、いままで触ったともなかった法律や経済の本を仕入れ、一夜漬けで試験にのぞんだ。一九五四年のことである。
 幸い試験に合格して入省したものの、いまだに半信半疑。馬鹿なことを聞くなと一笑に付されることを承知の上で、本当にタイに行けるんですかと、外務研修所の指導官に質問したほどにタイへの道は遠かった。研修が終わり、同期生の何人かがアジアの国々へ留学するのを見て、うらやましく思いながらも、次はきっと俺の番だ、と自分を納得させて、役所通いを続けたものである。
 忘れもしない一九五七年四月二三日の夕刻。私は当時ただひとつの国際空港だった羽田空港からKLM機に乗った。生まれて初めての空の旅だ。初めて経験する出国手続きを終え、タラップに向かおうと廊下を歩いていると、「日本ニュース」のカメラに呼び止められた。「旅立つ外務省留学生」というニュースの取材だという。思いもかけなかったのでなんとも照れ臭かったが、ちょっぴり嬉しくもあった。今で言えば、さしずめロケットにのる宇宙飛行士の心境に近い。
 機内に入る。前方のエコノミークラスはがらんとして、相客は三人しかいなかったように思う。席につくと、大柄のオランダ人スチュアーデスが、次から次へと食べ物を運んできた。ところが胸がいっぱいで、なにも口に入れたくない。ついさっき、おめでたい旅立ちだからと、母が用意してくれたお頭つきの鯛でさえ、箸をつけるのがやっとだったのだ。二〇〇グラムのステーキなんてはいるわけがないだろ。ようやくデザートのアイスクリームが出てきて、ほっとする。食事を終えて窓から外を見ると。月がきれいだ。餞別にもらったばかりのF1.4レンズつきのニコンのシャッターを切る。
   夜があけた。インドシナ半島上空に達したらしい。地上に見える巨大な流れはメコンだろう。かなり大きな支流が直角にメコン本流に流れ込んでいるところをみると、もう少しで東北タイの主邑ウボンのはずだ。それまで真西にむかっていたKLM機が高度を下げ始めた。外を見ると、広い水田の真ん中に、なにか黒いつぶのようなものがが見える。窓に鼻をすりつけて眼をこらす。どうやら水牛らしい。鋤を引いているのだろうか。後ろに人がいる。水牛が動く。人も動いた。タイ人に違いない。これが生きているタイ人か。留学が終わったとき、おれはこの人たちと話せるようになるはずだ。しかし本当にできるようになるだろうか。いや、できるとも。二年間もあるのだ。がんばるぞ。
 飛行機は、やがて機首を南に向けると、ドンムアン国際空港に向かって着陸体制にはいった。地上の景色がどんどんと大きくなって行く。あと一〇メートル。五メートル。三メートル。一メートル。どん、という軽いひびきをたてて、KLM機はみごとに着陸した。ついに来た。夢に見たタイがいま目の前にある。ドアが開いた。四〇度を越える熱風がいっせいに機内に吹き込み、降りようとする私の身体にぶつかってきた。これだ。この熱気が本物のタイなんだ。
 この暑さの中に飛び交う言葉、それが私の求めてきた本物のタイ語だ。まばゆいばかりの真夏の日差しをあびて、私はゆっくりとタラップを降り、はじめてタイの大地の上に立った。この年、私は二七歳になっていた。
(さあ、これからどうなるでしょう。……)