日本語版「マックス・ハーフェラール」の出版に寄せて           森山幹弘(南山大学助教授)

 

これはオランダ語小説「マックス・ハーフェラール」の完全訳である。この本ほど一九世紀の蘭領東インド(現在のインドネシア共和国)の時代精神というものを見事に伝えてくれるものはないであろう。小説という形をとってはいるものの、植民地官僚であった作者のリアリスティックな描写は、貴重な歴史資料を提供してくれている。

特に、東インドの植民地官僚たちの世界、彼らたちの心理、オランダ人(商人や官僚)の東インドに対する認識、「原住民」の役人とオランダ人官僚との関係などが、この小説から読み取れる。150年の年月を経てまったく色褪せないという点で、本書は一級の研究書にも劣らずこれからも高い学術的価値を持ち続けると思われる。

 作者は主人公マックス・ハーフェラールの口を借りて、オランダ人植民地官僚は「原住民」社会をもっと深く理解する必要があると述べている。作者自身がその考え方を実践していたことがこの本書の記述から読み取れる。例えば、当時のオランダのアカデミズムにおいて一般的知識となっていなかったジャワ人とスンダ人の相違、それぞれが固有の民族集団であるという認識を作者はきちんと持ち合わせていた。植民地社会を実際に自分の目で見ていたことと合わせて、東インドについて書かれた専門的な文献を漏れなく読んでいたことが窺われる。そのような作者の知識と経験がこの小説に裏打ちされているからこそ、本書はインドネシアおよび東南アジア研究者にとっては貴重であり、必読の書であり続けるのである。もちろん、植民地に関する公文書や研究書と付きあわせると、作者の勘違いや認識不足であった点も散見される。またマレー(ムラユ)語やジャワ語、スンダ語の知識が不十分であったことも読み取れるが、それが当時の植民地官僚が共有していた知識であったと読めば、その観点からも歴史的価値を認めることができる。

 小説としての読ませどころは、劇中劇となっている「サイジャとアディンダ」の物語であり、畳みかけるような調子で描かれる最後の部分であろう。小説はディテールがきちんと描かれていなければ失敗してしまうことがあるが、その点でも作者の筆力は冴えを見せている。「サイジャとアディンダ」がインドネシア独立後にもインドネシア人読者に読まれたことが何よりの証拠である。オランダには歴史小説というジャンルは確立していないが、同時代人が書いたとは言え本書は希有の歴史小説と見なすことができるのではないだろうか。

 繰り返しになるが、本書はひとつの小説という形をとってはいるが歴史的な資料価値が極めて高いものである。このオランダ文学の古典の一つがこうして完全訳で日本語で出版されることは非常に喜ばしいことである。この作品が入り組んだ複雑な構成をとっていること、一九世紀半ばの古風なオランダ語であること、しばしば持ってまわったような表現や難解な表現が多いことなど、翻訳における障害は決して少なくない。

しかし、この作品を時間をかけて読み解き、作品の歴史的評価についても研究されてきた佐藤弘幸氏が訳したということで、この作品は現在の日本における最高の訳者を得たと言える。微妙なニュアンスや官僚独特の表現、そして詩の訳出などに、その力量が遺憾なく発揮されている。(後略)