カンボジア便り
プノンペンに移住した記者の目から見たカンボジア
木村 文

 

2008年9月、朝日新聞を退職し、翌年3月よりカンボジアの首都プノンペンに移住しました。ここで日本語と英語のカンボジア生活情報誌「ニョニュム」の編集長を務めながら、フリーランスの記者として取材活動を続けています。新聞記者時代は、バンコクとマニラで特派員を務めましたが、今回はまた新聞とは違った時間の流れの中で、アジアを見つめていきたいと思っています。


(写真はカンボジア特別法廷事務局のある建物。プノンペン郊外。)



第14回 ポル・ポト特別法廷傍聴記

ポル・ポト派が壊したもの














兄ケリーさんとポル・ポト時代について
ニュージーランドの人たちに
話をするロバート・ハミルさん
=ニュージーランド・ハミルトン市で
ケリー・ハミルさん
少年時代、自宅前の海岸でヨット遊びをする
ケリーさんたち(ロバートさん提供)
ロバートさんたちの自宅があった家の前の海岸
=ニュージーランド・ワカタネで
アウトドアでキャンプを楽しむ子供のころの
ケリーさんと家族。ケリーさんの「自白書」に出てくる
スパイとしての訓練は、このときの思い出を
もとにしていたようだ(ロバートさん提供)
ふるさとに眠るケリーさんとジョンさんの墓
=ニュージーランド・ワカタネで
  父の無念

 早春のニュージーランドは、まだ冬の名残の雨が降る肌寒い気候だった。北島中部、ワカタネという小さな町の海岸に立つ。雲が低く垂れ込め、鈍色の海に白い波が無数に生まれては消えていった。
 ハミル家の人々は、どんな思いでこの海岸に立っていただろう。
 アウトドアが好きで、いつも自然に囲まれて笑いあった家族。太陽のようだったその家の長男、ケリー・ハミルさん(当時27)は1976年、共同購入で手に入れた自慢のヨット「フォクシー・レディ」号でタイ湾を航行中、ポル・ポト派に捕らえられ、プノンペンのS21収容所に連行された。そして、いわれなきスパイの嫌疑を受け、おそらくは拷問の末、処刑された。
 ハミル家の人々がケリーさんの消息を知ったのは、「マレーシアへ向かう」という便りを最後に連絡が途絶えてから、1年4ヵ月も後のことだ。
 「父はよく、自宅前の海岸の一番先端にたたずみ、海を見つめていた」ケリーさんの弟、ロバート・ハミルさんが言う。待っても待っても帰らぬ息子が、まさか縁もゆかりもないカンボジアで捕らえられているとは思いもせず、父マイルスさんは奇跡を願い続けた。
幼いときからケリーさんたち兄弟は自宅前に広がるこの海を遊び場にしていた。小さな帆を立てたボートに乗り、毎日のように磯遊びをした。「いつか、海の向こうに」。ヨットで世界一周をしたいという少年のころの夢をかなえるため、ケリーさんは青年になると島を出た。家族も喜んで見送った。
すでに亡くなったマイルスさんに気持ちを確かめることはできなかったが、ケリーさんに海の楽しさを教えたことを悔やんでいたのではないか、と思った。この海岸に立ち、白くかすんだ水平線を見ていたら、何よりも、息子を海へといざなった父の無念さが胸に迫ってきた。


家族の崩壊

 ポル・ポト派が奪ったのは、ケリーさんの命だけではなかった。ケリーさんが行方不明になってから、ハミル家の人々は次々に「壊れて」いった。
ケリーさんには、ジョン、ピーター、スー、ロバートの4人の弟妹がいた。中でもケリーさんと15ヵ月しか年が違わない 次兄のジョンさんは、ケリーさんの死にことのほか衝撃を受けた。遊ぶときはいつも一緒だった2人。他人を笑わせることが上手だったお調子者のジョンさんは、兄が行方不明となってから人が変わってしまった。ふさぎこみ、弟たちに暴力を振るうようにまでなった。かつてはそれをとがめていた両親も、目の前で弟の顔を殴るジョンさんを止めもせず、見ているだけだったという。「悲しみのあまり、彼らは親であることをやめてしまったかのようだった」と、ロバートさんは言う。
 ケリーさんの死が判明してから8ヵ月後、立ち直れないままのジョンさんは、自宅近くの崖から海へ身を投げて自殺した。父マイルスさんとピーターさんが遺体を発見した。ジョンさんは、ケリーさんと同じ27歳で亡くなった。2人目の息子の死に錯乱したマイルスさんは、医師に鎮静剤を処方され、葬儀に出ることができなかった。何とか自分を支えていた母エステルさん(2003年に死去)も、子供たちに関係のない薬を手渡すなど、ひどく混乱していたという。  今回、ニュージーランドで取材に応じてくれたロバートさん自身の思春期にもまた、兄2人の死が暗い影を落としていた。当時15歳だったロバートさんは、崩壊していく家庭から逃れるように非行に走った。パブを渡り歩き、見知らぬ客と飲み比べをして酒をあおった。酔ったまま学校へ行くこともあった。
 「ドゥイ被告、あなたがケリーを殺したとき、あなたはジョンをも殺したのだ」
 2009年7月、ロバートさんは、カンボジア特別法廷ケース1の被害者(民事当事者)として、法廷で証言に立った。兄を拷問し、殺害したS21の責任者であるドゥイ被告が目の前にいる。その視線をとらえたとき、体の芯が凍るような緊張を覚えた。

 
自白書の声

 ケリーさんがS21で作らされた「自白書」が残っている。
 S21での拷問は、スパイや反逆者であるのを認めさせる「自白書」を作ることが目的だった。だれがどのように組織に誘い入れたのか、スパイとしての訓練をしたのか。尋問官たちは、拷問ででっちあげの履歴を自白させ、友人や知人の名前をスパイ仲間として挙げさせた。彼らには、嘘の自白書に基づく次の逮捕者が必要だったのだ。だから、自白書が出来上がれば捕らえられた人たちは用なしとなって、殺された。自白をしなければ拷問、自白をすれば処刑。どちらにしても、行き着く先は不条理な死でしかなかった。
 ケリーさんの自白書も、やはり嘘が並べ立てられている。鞭打たれ、爪をはがされ、首を絞められ、水中で窒息させられ、電気ショックを受け…ケリーさんがどのような拷問を受けていたかは判然としないが、特別法廷の審議で裏付けられたS21での拷問方法の数々が頭をよぎる。その中でケリーさんは必死に嘘をついた。おそらくはその先に死という選択肢しかないことを感じながらも、生きようと知恵を絞り、嘘をついた。
 CIAのスパイであることを認めさせられたケリーさんが、自白書の中で言及した「上司」の名前は「カーネル・サンダース」だった。同じく「キャプテン・ペッパー」は、ビートルズのアルバム名からとったのだろう。CIAの事務所の電話番号は、ふるさとの自宅の番号だった。ケリーさんが語ったCIAの訓練の様子は、子供のころ、家族で出かけたキャンプの描写だった。
 そして、ケリーさんは教官の名前として「S.ター氏」を挙げた。証言に立ったロバートさんは言う。「これは、エス・ター、つまり我々の母親であるエスターをもじった名前です」。極限状態の中で、ケリーさんは母親の名前に思いを込めた。もしこのまま自分が死んでも、自白書が残れば家族に何かが伝わるかもしれない。いや、1時間先のことすらも考えていなかったのではないか。ただ、今この瞬間を生き延びたいと命の源である母親に力を乞うたのではないか。「愛している、そしてあきらめずに生きられるよう僕に力をくれ」と。
 うそだらけの醜い自白書の中から、かき消すことのできない真実の声が聞こえた。

 
3つのヒスイ

 2009年、カンボジア特別法廷に民事当事者として、そして証人として参加するため、ロバートさんは初めてカンボジアを訪れた。
 「そのとき、ニュージーランドのヒスイで作ったペンダントを3個持っていきました」と、ロバートさんは言う。ニュージーランドはヒスイの産地として知られる。原住民族のマオリ族はヒスイを「ポオナム」と呼び、神聖な石とあがめてきた。ふるさとの聖なる石にロバートさんは深い思いを込めた。ひとつは遺体の見つからない兄のために、捕らえられたシアヌークビル沖の海に沈めよう。ひとつは兄の分身として自分で持ち続けよう。そして最後のひとつは。  「ドゥイ被告がこれまでの公判で口にしていたように、本当に自分のしたことを認め、悔いているのなら、被告の首にこのヒスイのペンダントをかけて許したいと考えました」
 兄の命を奪い、家族を破壊したポル・ポト派。30年のときを経て、ハミル一家が抱え続けてきたその憎しみを超えられるのならば…ロバートさんは、わずかな期待を持ってカンボジアに降り立ったという。
 公判当日、当事者たちの最後に法廷に入ってきたドゥイ被告は、その日の証言者であるロバートさんの目をすぐにとらえた。ロバートさんも、見つめ返した。何秒かは分からない。ロバートさんにとっては何分間にも思える時間、にらみ合いが続いた。遺族の目を身じろぎもせず見つめ返す被告の、威圧的で冷たい視線を浴び、ロバートさんは「やはり、許すことはできない」と、思ったという。ドゥイ被告のために用意したヒスイは、まだ手元にある。
 東南アジアのカンボジアから、遠く離れたニュージーランドへ取材に行ったのは、ひとつの死がどれだけの苦しみを生み出すのかを体感するためであった。「人類史上まれに見る犯罪」(最高裁判決)がもたらした悲しみは、時間も距離も超え、今も血を噴き出していた。
 ケリー・ハミルさんは、S21で命を落とした1万4000人ともいわれる人々のうちの1人でしかない。同じように重い悲しみの物語が、名前すら分からない一つひとつの死の背景にある。





第13回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 L 政治犯収容所S51元所長に終身刑


ドゥイ被告、最高裁で終身刑






最高裁判決公判に臨むカン・ケック・イウ被告
(特別法廷提供)
The Accused, Kaing Guek Eav on February 2,
2012 (Courtesy of ECCC)(特別法廷提供)
最高裁判決後に取材に応じる判事団の野口元郎判事
プノンペン市内で、木村写す
Judge Motoo Noguchi after the Supreme Court
sentence in Phnom Penh

一審より重い刑に

 カンボジア特別法廷の上級審(最高裁)は2月3日、ポル・ポト時代の政治犯収容所S21の元所長カン・ケック・イウ(通称ドゥイ)被告(69)に対し、最高刑である終身刑を言い渡した。禁固35年とした一審判決を破棄し、より厳しい刑を言い渡した。特別法廷は二審制のため、判決はこれで確定した。
 ドゥイ被告は、記録があるだけで1万2000人以上が非人道的な環境で拘束され、拷問の末に処刑されたS21の副所長と所長を務めた。1999年にカンボジア当局に逮捕され拘束されていたが、2007年7月31日に特別法廷に身柄を移された。その後、人道に対する罪、戦争犯罪などで起訴され、一審の本格審理は2009年3月30日に始まった。
 一審の公判は77日間に及んだ。当初、「S21で起きたことは所長である私に責任がある」と繰り返し述べていたドゥイ被告だが、裁判が進むにつれ、「自ら手を下したわけではない。自分もまた上部からの命令に従わなければ殺害されていた」などとして、最後は「自分はこの特別法廷が訴追対象とする『ポル・ポト政権の最高幹部または最も責任のある立場にあった指導者』には当てはまらない」と、無罪を主張した。検察側は、禁固40年を求刑した。
 一審判事団は、2010年7月26日に開かれた判決公判で、ドゥイ被告に対し禁固35年の有罪判決を言い渡した。ただしこの判決では、1999年から2007年まで、同被告が裁判が行なわれない状態で拘束されていたことを違法とみなし、法的救済措置として5年が差し引かれた。また、被告が公判で自らの責任を認め、積極的に公判に協力した情状を有利に考慮した。
 この一審判決に対し、無罪を主張する被告側、禁固35年は軽すぎるとする検察側、さらに被害者である民事当事者もそれぞれ不服を示し、上訴。2011年3月28日から最高裁審理が行なわれた。


「疑いなく人類史上最悪の罪」

 最高裁判決の日、ドゥイ被告はいつものように平静な表情で被告席についた。手には1冊の書物を持っていた。それが、被告が政権崩壊後に改宗したキリスト教の聖書だったのか、何かの記録だったのか確かめることはできなかったが、被告はその本を被告席の机の端に置いた。
 最高裁の判事団は、一審の5人よりも多い7人。4人がカンボジア人判事で、3人が国際判事だ。そのうちの1人は日本の野口元郎判事である。
 カンボジア人のコン・スリン裁判長による判決文読み上げは約1時間半にわたった。表情をほとんど変えることなく聞いていたドゥイ被告だが、判決文が「被告の犯した罪は、疑いなく人類史上最悪のものである」と断じた時、わずかに口元がゆがんだようにみえた。悔しさか、憤りか、落胆か。それでも被告は、身じろぎせず聞き続けた。
 少し長くなるが、判決が被告を厳しく断罪した部分を引用する。

 ――カン・ケック・イウは、S21の中で中心的な指導者であった。民主カンボジア(ポル・ポト派政権)の敵とみなされた収容者を組織的に拷問し、処刑するために、スタッフを訓練し、彼らに命令し、監視した。そうすることで、S21の運営をより優れたものにしようと献身した。従って、彼が民主カンボジアの指揮命令系統のトップにいなかったという事実は、彼の判決を軽くする理由にはならない。最高刑を、指揮命令系統の最高幹部のためにとっておかなくてはならない、というルールは存在しない。カン・ケック・イウに対する判決は、他のだれかがより深い罪を犯したかどうかは関係なく、彼自身の犯した罪にのみ基づいて判断されるべきなのだ。
 最高裁の見方としては、カン・ケック・イウの指導的立場、積極的に罪を犯したことは、彼の判決において重大な意味を持つものである。
 処罰は、犯された罪の重さに十分に応じたものでなければ、同じ罪を繰り返さないという抑止効果はない。カン・ケック・イウが犯した罪は、疑いなく人類史上最悪の罪である。その罪が、被害者やその家族や親族、カンボジアの人々あるいはすべての人間にもたらした憤りの深さをかえりみたとき、その罪に相応なのは、考えられるうち最も厳しい刑である。
 共同検察官が、S21を「死の工場」と表現したことは誇張ではない。カン・ケック・イウは、この死の工場で3年以上も指揮を執り、その運営を担ってきた。彼は、無残にも殺されていった、女性や子供たちを含む少なくとも1万2272人の人々の死に責任がある。(引用終わり)

 
もたらされた「一粒の正義」

 最高裁判決が、一審判決よりも厳しい内容となったのは、S21で引き起こされた「人類史上最悪の罪」は、被告自身に最高責任があると断じたことに加え、一審が被告に有利とした部分を一切否定したからだ。
 一審が違法とした1999年から2007年までの拘束については「カンボジア当局による違法拘束であり、特別法廷が救済すべき問題ではない」とし、救済措置は間違っているとした。また、被告が公判で反省の言葉を述べ、協力的な姿勢を見せたことについては、「被告の犯罪はその程度の情状で中和されるものではない」とした。
 ただし、最高裁は、検察側が求めた「仮釈放の不許可」については退けた。最高裁判決では、未決拘留期間を算入し、被告はすでに12年269日を服役したものとみなした。カンボジアの法律によると、無期刑の場合、20年の服役後に仮釈放の申請ができることになっている。このため、被告はこれから7年余り後に、仮釈放の申請ができることになった。
 この点に懸念を示す指摘もある。だが、仮釈放申請のすべてが認めら得るとは限らないことや、仮釈放の判断は世論の影響を極めて強く受けることなどから、ドゥイ被告の仮釈放申請が認められる可能性は「極めて低い」のが一般的な見方だ。
 最高裁判事団の1人、野口元郎判事は、判決言い渡し後にプノンペンで取材に応じた。野口判事は判決について「過去のすさまじい悲劇を、国際社会の支援を受けながらも、カンボジア人自身が自分の手で裁いた歴史的な判決だと思う。一粒の正義が社会にもたらされたことは、国民に自信と勇気を与えるだろう」と、語った。また、ポル・ポト時代の記録は文献も多くあるが「刑事裁判での事実認定と法の裁きを経て確立したということの重み」を重視したい、とした。

 
声なき犠牲者のために

 2009年2月の初公判から始まった特別法廷の第1ケースは、これで終了した。公判の傍聴に通うなかで、私自身の内面にもさまざまな変化があった。
 ドゥイ被告は公判で、実によくしゃべった。公判では、証人の証言が終わると、裁判長は必ず被告に意見を聞いた。被告はその機会を逃さず、自己主張を繰り返した。時には涙して自分の責任を認め、国民に謝罪した。時には「自分は犯罪の事実をまったく知らなかった」と強調した。常に分厚い裁判書類を抱えて入廷し、公判中はメガネをかけ、ページを繰り、蛍光ペンで印をつけていた。かつての部下であるS21の尋問官が証人として登場すると、「全国民と国際社会がこの法廷に注目している。本当のことを話さなくてはならない。私たちを守ってくれたカンボジア共産党はもうないのだ」と、押し黙る証人を10分近く「説教」する場面もあった。
 ドゥイ被告の話を聞きながら、私もいつの間にか、目の前の饒舌な老人に同情をするようになっていた。S21の惨状も、ポル・ポト時代のカンボジアも体験していない私にとって、被告は、穏やかさを取り戻したカンボジア社会でわれわれと共存する年老いた元教師にしか見えなかった。
 しかし、被告の罪を、一審よりも、検察側の上訴よりも厳しく断じた最高裁の判決が、忘れていた大切なことを思い出させた。
 法廷にはわずかなS21の生き残りの人々が民事当事者として、あるいは証人として登場した。だが、1万2000人以上の犠牲者のうち、ほとんどの人命はすでに奪われ、この法廷に現れることすらできないのだ。声と肉体を持つ被告が毎日のように自己主張できるのに対し、彼らは反論することも、怒りの声を上げることもできない。遺族たちを通じてしか、無念さは伝えられない。さらに言えば、多くの遺族たちは、犠牲者がどのように死んでいったのかさえも、わからないままなのだ。
 最高裁判決文を聞きながら、私は、法廷で語られた、あるいはさまざまな記録を通じて知った1つ1つの生と死を思い浮かべた。声を持たぬ犠牲者たちが、どれほど悔しかったことか、どれほど苦しかったことか。声なき声を聴け。目には見えないものを見ろ。それが、30年以上前のポル・ポト時代を裁くこの裁判の原点であると、改めて心に刻んだ。





第12回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 K


被告たちの主張






本格審理に臨む11月23日のイエン・サリ被告
(特別法廷提供)
本格審理に臨む11月22日のキュー・サムファン被告
(特別法廷提供)

 2011年11月21日に始まった、カンボジア特別法廷第2ケースの本格審理では、検察側の起訴理由の説明に続き、ポル・ポト派政権の元幹部であるヌオン・チア元人民代表議会議長(85)、イエン・サリ元副首相兼外相(86)、キュー・サムファン元幹部会議長(80)の3人の、起訴理由説明に対する陳述が行なわれた。
 ヌオン・チア被告の陳述については、前号でお伝えした。続いて、他の2人の発言をまとめたい。政治犯収容所S21 の所長だったカン・ケック・イウ被告の第1ケースと違い、第2ケースはいずれの被告も無罪を主張。3人は政権の中枢にいたものの、170万人から220万人が命を落とす原因となった事実について自分たちには責任はない、としている。
なお、現在第2ケースに起訴されている4人目の被告、イエン・チリト元社会問題相(79)は、認知症により裁判を続けることができないとして一審法廷が釈放を決めたが、異議申し立てがあり、最高裁の判断を待っている。現在も身柄拘束されているが、裁判には参加していない。


イエン・サリ被告

 11月23日、イエン・サリ被告が法廷の被告席に座った。その直前、同被告の弁護士は裁判長に対し、「被告に代わって自分が読み上げたい」と申し出たが、裁判長は「被告が出廷しているのだから、代わりに読み上げることは許可しない」と、却下した。
 イエン・サリ被告は、ポル・ポト派政権崩壊後、タイに逃亡。1979年に行なわれたカンボジア人民革命評議会の法廷では、本人欠席のまま死刑を言い渡された。1996年、シハヌーク国王(当時)の特赦を受けて投降。ポル・ポト派の人々への影響力が大きかったイエン・サリ被告の投降が、ポル・ポト派崩壊、組織的消滅へとつながったとも言われた。イエン・サリ被告は、このときの恩赦が有効であるとして自分が訴追されることの不当性を訴える。
 この日、裁判長に促されて被告席に移ったイエン・サリ被告は、用意した陳述書を読み上げ始めた。  「1996年、私は国王から恩赦を受けた。その後、当時の共同首相も、国会もこの恩赦を認めた」
 ここまで読んで、被告は顔を上げ、裁判長に訴えた。  「疲れてしまった。おそらくこれ以上話し続けることはできない。心臓がつらくて読み続けることができない。少し休ませてもらえないか」
 これを受けて被告の弁護士は再度、代読を申し出たが裁判長は却下した。  「息切れがして苦しいのは分かるが、陳述は1ページ半程度と聞いているので、休みながらでいいから自分で読みなさい」
 法廷は、高齢の被告たちに対し、体を休めながら裁判に参加できる特別室を設置するなどの配慮をしている。そのうえでこの日のように、できるだけ被告本人を審議に関与させようとする姿勢がしばしば見られる。ただ、1日6時間にわたる審議は、休憩が入るとはいえ、長時間の緊張を強いられる。被告本人の積極的な関与を促しながらも、被告が訴える「体調不良」の度合を推し量る、そのさじ加減は難しい。
 話をイエン・サリ被告の陳述に戻す。裁判長に促されて被告は話を続けた。  「この法廷は、私への特赦が有効ではないと判断した。私はその判断には賛同できない。法廷そのものを否定するつもりはないが、その判断には納得できない」とし、特赦の扱いについて最高裁の判断を待ちたい、と主張した。一方で「この法廷が正しく行動しているとは思えないので、私は最高裁の判断が出るまでは、審議に参加したくないと思った。だが、法廷を尊重する意思を示すために、これまで通り参加し続ける」と述べた。


 
キュー・サムファン被告

 続いて同日、被告席にはキュー・サムファン被告が座った。キュー・サムファン被告は、ポル・ポト派政権(国名・民主カンプチア)の国家幹部会議長。これは、国家元首にあたる。だが、同被告の主張は、多くの犠牲を出したポル・ポト派政権の政策や方針に自分は関与していない、というものだ。
 「尊敬する傍聴席の僧侶のみなさん、同胞のみなさん、カンボジア国民のみなさん」。キュー・サムファン被告は陳述を始めるとき、そう言いながら必ず傍聴席に向き直って手を合わせる。「私はみなさんの敵ではない」。 その思いが強くにじむ。
 キュー・サムファン被告の陳述には、検察側の起訴理由説明への強い不満があふれた。被告は、起訴理由の説明の中で引用された「証拠」の多くが、証人の名前を伏せたままであることや、新聞記事や書物など研究者やジャーナリストの著作からの二次引用であることを皮肉まじりに指摘した。
 「検察官どの。1975年4月17日、フランスの新聞『ル・モンド』は、『プノンぺン解放』という見出しの記事を掲載した。私がこの記事を証言の根拠としたら、あなたはきっとそれを批判するだろう。あなたは私が罪を犯したと決めつけている。そのうえで、実に多くの新聞記事をその根拠として引用した。また、あなたが引用した多くの証言も、だれが話したのか名前を明かしていない。発生から36年もたって裁かれる法廷で、その証拠が、匿名の証言と、新聞記事やジャーナリストが書いた本からの引用でしかないというのは、一体どういうことなのか」
 さらに被告は、検察官に向け、ポル・ポト派が政権を握る前後の国内、国際情勢について説明を始めた。  「今のみなさんには、冗談にしか聞こえないだろうが、当時、共産主義は世界中の若者に希望を与えた運動だった。検察官どの、私の共産主義運動への傾倒は、1969年にシハヌーク(前国王)が呼びかけたロン・ノル(将軍)への抵抗運動だった。当時、シハヌーク殿下に対するクーデターが準備されていたからだ。検察官どの、間違いだというのなら、シハヌーク前国王にこの被告席で私と一緒に証言をさせたらどうか」 被告は、語気を強めた。
 「あなた(検察官)が好むと好まざるとにかかわらず、当時、ロン・ノル体制に対する人々の不満は強く、それに対抗する私たちの運動は大多数の国民の支持を得ていた。あなたが好むと好まざるとにかかわらず、私たちはクーデターにより政権についたロン・ノルの圧政に対し、レジスタンス運動を展開していたのだ。私自身はこの運動において、シハヌーク前国王と連携し、国内でレジスタンス運動を続けていた。それは果たして罪なのだろうか」
 ヌオン・チア被告の主張と同様に、キュー・サムファン被告もポル・ポト派への共感が生まれた背景には、ロン・ノル政権やそのクーデターを支援したとされる米国へのカンボジア国民の激しい怒りがあったと指摘する。  「検察官どのが言ったことで唯一、私が同意することは、ポル・ポト派がプノンペンを解放した1975年4月17日以前に、すでに首都は悲惨な状況にあった、ということだ。食べ物も薬もなく、人々は米国による爆撃から逃げまどっていた。あなた自身がそのことを認めたではないか」
 「私は、ポル・ポト(元首相)が権力に就くのを手助けしたとして罪に問われている。しかし、私はこの国を守るために、(ロン・ノル政権を支持した)米国や、常にカンボジアを侵略しようとたくらむベトナムから、この国の主権と独立を守るために努力をした。そんな考えを持っていた私が、どうして愛するカンボジアの人々を破壊しようなどという考えを持つだろうか。検察官どのが言ったことは、偏見に満ちている」
 起訴されたことに激しい憤りを表現するキュー・サムファン被告。だが、審議には積極的に参加したい、と表明した。
 「私はこの法廷が、少なくとも、私が(ポル・ポト派)政権の意思決定プロセスにはいなかったことを説明する機会を与えてくれることを期待している。私は、当時、この国で何が起きているのかをきちんと知らされることもなかったし、検察官どのが説明した恐ろしい事実についても知らされなかった。どうしてその私が、法廷の訴追対象となる政権の最高幹部と言えるのだろう。私は、以前に誓ったように、この裁判に全身全霊を込めて参加する。裁判が進むにつれ、僧侶のみなさま、国民のみなさんにももっと私の言うことの意味を分かっていただけるだろう」





第11回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 J


ケース2、本格審理始まる

鋭く光る目




11月21日に始まった本格審理で起訴理由を説明したカンボジア人検察官
(特別法廷提供)
本格審理で冒頭陳述をするヌオン・チア被告。いつものサングラス姿ではなく、
約2時間にわたって自身の歴史観を述べた(特別法廷提供)

 ポル・ポト派政権の元幹部らを裁くカンボジア法廷は2011年11月21日、生存するうちで政権内の最も高い地位にあった「ブラザー・ナンバー2」のヌオン・チア元人民代表会議議長(85)、イエン・サリ元副首相兼外相(86)、キュー・サムファン元幹部会議長(80)の3被告に対する「第2ケース」本格審理を開始した。
 本格審理初日の21日、法廷には、いずれも80代の3被告の姿があった。ワイシャツにジャンパー。頭髪は白く、顔には深いしわが刻まれる。法廷内では写真撮影が許されないので、プレスルームのモニターに映った彼らにカメラを向けた。所定の席に座るまで、足もとおぼつかなく歩く老人の姿とは裏腹に、レンズを通して見た3人の目はいずれも鋭く光っていた。
かつて、ポル・ポト元首相のそばで、たくさんの国民を前に高らかに「革命」を訴えた3人。彼らはポル・ポト派政権が崩壊し、ポル・ポト元首相が死亡し、ポル・ポト派という組織が消滅した後も、特別法廷に逮捕されるまでは、かつての支持者たちに囲まれ、守られ、有力者としてカンボジア社会で暮らしてきた。
 同じ法廷に立った今、3人の、ポル・ポト時代への自らの責任についての考え方はそれぞれ違う。ヌオン・チア被告は、自らの思想の正当性を訴える。イエン・サリ被告は、自分は恩赦を受けており裁かれる立場にない、と主張する。キュー・サムファン被告は、自分は意思決定プロセスには入らない「飾り物」の権力者だった、としている。
 責任や関与を否定したとしても、彼らが政権を握った3年8ヵ月と20日の間に、170万から220万人、カンボジア国民の4人に1人といわれる数の人々が命を落としたという事実は変わらない。自らの言葉で言い分を主張できる被告たちと違い、命を落とした人々は法廷に参加することすらできない。遺族や目撃者の声を借りて、無念さを訴えることしかできない。
被告たちを前に、私は改めて思った。生きた肉体を持つ被告の声だけでなく、名前さえも記録に残せぬまま死んでいった犠牲者たちの、見えない姿に目を凝らさなくてはならない。聞こえない声に耳を澄ませなくてはならない。

検察の説明

 本格審理は、検察側の起訴理由の説明から始まった。まず、カンボジア人検察官のチア・リァン氏が立ちあがり、3被告の罪が具体的に問われる犯罪行為として、ポル・ポト派政権下で行なわれた強制移住、強制労働、収容所における非人道的な扱い、処刑、チャム族とベトナム人に対する虐殺、仏教徒への弾圧、強制結婚について説明をした。  被害者の証言として挙げられた当時の状況は、凄惨を極めた。
 1975年4月17日、ポル・ポト派が首都プノンペンを陥落させてすぐに、都市住民を集団で移動させる強制移動が始まった。どこへ行くのかも、何をするのかも説明されないまま、人々は財産を持ちだすことも許されないまま家を出た。身の回りのものやわずかな貴重品を持っていくのがやっとだったが、それすら後に取り上げられてしまうことが多かった。
 行きついた先で待っていたのは、強制労働だった。ポル・ポト派は、国家を維持するために食糧増産を指示していた。また、労働者と農民を中心とする社会を作ることを目的とした。同派は私有財産や資本主義を否定しており、労働は個人が収入や食料を得るためのものではなく、成果はすべて政府に捧げられた。
 労働の種類はさまざまだった。コメを作る者、灌漑用のダムを作る者、ジャングルを切り開いて農地を作る者。大人も子供も早朝から日暮れまで働き、わずかな食事だけを配給された。病気やけがをしても治療を受けることすらできず、倒れれば「怠け者」ととがめられ、逆らえば殺されることもあった。
 また、ポル・ポト派政権の革命を破壊しようとする「スパイ」などとして、突然逮捕され、収容所に送られることもしばしばあった。特別法廷第1ケースの舞台となったプノンペンのS21政治犯収容所を含め、カンボジア国内には100以上の収容所があったとされる。そこでは被収容者は、裁判も受けないまま、拷問など非人道的な扱いを受け、処刑されたという。ポル・ポト政権崩壊後に、各地で「キリングフィールド」と呼ばれる集団処刑地が見つかっている。
収容所での非人道的扱いの極みとして、法廷でリァン検察官は、守衛たちが人間を食べたという証言を引用した。ある収容所では、ポル・ポト派の守衛たちが、捕えられた人の鼻と耳をペンチのようなもので引きちぎり、丸裸にして外に引きずり出し、肝臓を取り出して焼いて食べた、という。
 カンボジアのイスラム教徒、チャム族に対する虐殺や非人道的行為も指摘された。リァン検察官による説明の中で、息子2人がポル・ポト派により殺されたというチャム族の女性による証言がビデオで紹介された。「ポル・ポト派は、肥料にするからと言って人糞を煮詰め、それを私に『味見』させた。塩からくないかどうか、と尋ねながら」  続いてイギリス人のアンドリュー・ケイリー検察官は、3人の被告が、それぞれ政権運営にどのように関与していたのか、当時の彼らの行動や発言を拾いだしながら分析し、説明した。
 「被告たちは、人々から人生の意味のすべてを奪った。家族、信仰、教育、子供たちを育てる場所、安らげる場所。彼らはすべての世代を壊滅させた殺人者である。この国のだれひとりとして、今目の前にいる3人の老人がしたことで傷つかなかった人はいない」
 1日半、計9時間にわたる検察側の説明の最後、まとめの言葉を述べるケイリー検察官の声が、かすかに震えた。「私たち検察側は、被告を有罪だと信じます」
 
「ベトナムはニシキヘビ」

 11月22日午後1時半、検察側の起訴理由の説明に対し、3被告が意見を述べる番になった。前述のように、同じように起訴理由とされた犯罪行為への関与を否定しつつも、その理由は3人それぞれに違う。法廷での闘い方にもそれは反映されていた。
 最も積極的に自身の立場やポル・ポト派の思想を擁護したのは、ヌオン・チア被告だった。2時間にわたる陳述で、同派が台頭するに至った歴史をとうとうと語り、「ポル・ポト派による革命の目的は、カンボジアとカンボジア人を、ベトナムによる支配と抑圧から守ることだった」と、述べた。
 「この法廷はワニの胴体しか取り上げていない」。ヌオン・チア被告は、自分で用意したのであろう、分厚い原稿を手に、なめらかに話を始めた。「ワニの胴体が動くのは、頭としっぽがあるからだ。頭としっぽを知らないで、胴体の動きが分かるわけがない」。被告が「ワニの頭」と言ったのは、おそらくポル・ポト派政権以前の国際情勢だろう。ヌオン・チア被告は、法廷以外の場所でインタビューを受けたときにも「1975年から79年のポル・ポト時代だけを見ていたのでは、何も分からない。ポル・ポト派は突然湧いて出てきたわけではないのだ」と、繰り返している。
 目の病気があるから、といつも着けているサングラスではなく、この日は普通の眼鏡を着けた。「ナンバー2」として、ポル・ポト首相に影のように寄り添ってきたヌオン・チア被告は、「こうして、愛するカンボジアのみなさんに事実を伝える機会を、ずっと待ち焦がれていた」と語った。
 同被告は、陳述の間、徹底したベトナム批判を繰り広げた。「1979年1月、ベトナム軍がプノンペンを陥落し、ポル・ポト派政権が崩壊したが、そもそもこれはベトナム軍による侵略であり、国際的な違法行為である。この点が正当化されてしまうのは納得がいかない。ベトナムは、インドシナ3国を支配し、コントロールしたいという野望を今に至るまで持ち続けている。ベトナムは、若い鹿の息の根を止めようとするニシキヘビのようなものだ」
 陳述の最後、ヌオン・チア被告は、改めてポル・ポト派の目指したものについて語った。 「私が革命に参加したのは、国と人々を守るためだった。そのために自分の家族をかえりみることなく、植民地主義との闘いに身を投じた。私たちはカンボジアを自由にしたかった。虐殺など起きない社会にしたかった。汚れなく、自立した社会を作り上げたかったのだ」。それは約10年前、まだ逮捕される前の同被告をカンボジア西部パイリンにある彼の自宅でインタビューしたとき、私自身が聞いた言葉とまったく同じだった。(この項続く)





第10回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 I


高齢の被告たち、迫りくる時間とのたたかい

被告の病状



8月30日、訴訟能力公開審理にのぞむイエン・チリト被告。
後に認知症と診断された
(特別法廷提供)

 「2008年11月10日午後3時5分、ヌオン・チア(被告)をののしる」「11月11日午前9時と午後2時50分、ヌオン・チアと守衛をののしる」「11月12日午前8時35分と午後7時、ヌオン・チア、カン・ケック・イウ(被告、元S21所長)、守衛をののしる」――。一覧表に延々と並ぶ異常な行動記録。ポル・ポト派政権で社会問題相を務めたイエン・チリト被告(79)の拘置施設内での様子だ。
 6月27日に始まったカンボジア特別法廷の「第2ケース」は、8月29日から31日の3日間、イエン・チリト被告と、ポル・ポト派ナンバー2だったヌオン・チア元人民会議議長(85)の健康状態についての公判、「訴訟能力公開審理」を開いた。
2人の被告が、今後開かれる本格審理に心身ともに耐えうる健康状態であるのか、被告の権利を守りつつ審理を続行するためにはどんな方策をとったらいいのか。専門家の意見を聞いて、裁判官が判断をするための公判だ。
 冒頭の行動記録は、イエン・チリト被告の弁護側が、被告が自分をめぐる状況について正常な判断ができないことを示す事例として公開したものだ。同被告はアルツハイマー型認知症が疑われ、弁護人は被告に訴訟能力はないとの主張をしている。
 ニル・ノン裁判長は、健康状態は被告のプライバシーにかかわる部分もあり、必要に応じて非公開審理とする用意もあると述べた。だが、イエン・チリト被告の弁護人は1日半にわたる審理をすべて公開で行ない、被告の「病状」について専門家に質問した。被告が裁判に耐えうる状況ではないことを、印象づける狙いがあったのだろう。
自分の病状がこと細かに語られている中、イエン・チリト被告は、ほとんどの時間、じっと座って聞いていた。いすの背もたれに頭を乗せ、やや上を向いて時折、目をつぶっているようにも見えた。が、同時通訳の流れるヘッドフォンが、ずり落ちそうになると手でおさえていたので、眠っていたわけではないだろう。話の内容で表情を変えることは、ほとんどなかった。
 専門家として審理で証言をしたのは、ニュージーランド人のジョン・キャンベル医師だ。キャンベル氏は、老人病の専門家で、40年以上のキャリアを持つベテラン。イエン・チリト、ヌオン・チア両被告を診察し、その意見を求められて出廷した。

訴訟能力公開審理とは

 訴訟能力公開審理がなぜ必要なのか。
 まず、訴訟能力とは何か。被告が公正な裁判を受けるためには、精神的にも、肉体的にもその権利を行使できる健康状態でなければならない。さらに詳しく言えば、自分がなぜ起訴されているのか、裁判の手続きや証拠を理解する必要がある。また弁護人に、自分の意思を正確に伝え、自ら証言ができるだけの能力が必要だ。
 特別法廷は、その内規で、必要に応じて被告に訴訟能力があるかどうかを判断するために、専門家に診断を依頼する場合があることを定めている。第2ケースの被告4人のうち、今回審理が行なわれた2人以外に、イエン・チリト被告の夫、イエン・サリ被告(元副首相)も訴訟能力公開審理を求めた。
本審判事団から専門家として指名されたジョン・キャンベル氏は、この3人を診察。過去の病歴、さまざまなテストを重ね、本審法廷に報告書を提出。イエン・チリト被告については「精神面についてさらに詳しい診察を行ない、訴訟能力を審理する必要がある」とし、ヌオン・チア被告とイエン・サリ被告については「これ以上の診察は必要ない」とした。
 ただし、訴訟能力があるかどうかは、キャンベル氏が判断するものではない。判断はあくまでも本審判事団が行う。その結論は、8月の審理ではまだ出されていない。特別法廷によると、本審法廷は近くイエン・チリト被告の精神状況を診断する専門家を指名し、その報告をもとにさらに訴訟能力公開審理を開く予定で、判断はそのあとになる。
 話をイエン・チリト、ヌオン・チア両被告の公開審理に戻す。
イエン・チリト被告の状況について、キャンベル医師はこのようなことも証言している。夫であるイエン・サリ被告との会話の中でチリト被告は、すでに亡くなっている姉のことをまだ生きていると思いこんでいた。孫の人数や自分の誕生日なども間違えることがあった。「近しい家族のことを正しく思い出せないというのは認知症にある症状のひとつ」と、医師は述べた。また、同医師が数日間連続でチリト被告に面会をした際、最初の日に伝えた訪問の目的を、翌日にはすでに思い出せなくなっていたという。
 これに対し、質問に立った民事当事者(被害者側)の弁護人は「被告は、病状が悪化したふりをして責任追及を逃れようとしているのではないか」と尋ねた。キャンベル医師は、「私の経験に基づいて判断すれば、それは考えにくい」と答えた。
 また、検察側は、被告が拘置中に自らの容疑について語った記録を提出。その中で被告は「検察官の言っていることは100%間違いだ。私が多くの人を殺害したという容疑になっている。いつ、どこで、どのようにそうしたのか、教えてほしい。目撃者がいるというのなら、直接出てきて話してほしい。当時私は、保健大臣に依頼され、病院や製薬工場の維持管理をしていており、その仕事はとても大変だった」述べている。検察官は「このような内容を、認知症の人が言えるのだろうか」と、キャンベル医師に尋ねた。医師は「この発言だけを部分的に見て判断することは難しい」と意見を保留した。
 
「6本脚」で歩く

 沈黙を貫いたイエン・チリト被告とは対照的に、ヌオン・チア被告は積極的に発言を求め、自身の健康状態を切々と訴えた。
 訴訟能力公開審理の初日。発言を求めたヌオン・チア被告はこのように述べた。
 「私が健康ならば、公正で適切な司法手続きのためにすべての審理に出席したい。だが、私の健康状態は悪化している。法廷に明らかにしておきたいのは、私が着席していられるのは1時間半が限度だということだ。長時間座っていることは、私の目に悪く、頭も重くなる。心臓や血圧にも悪い影響を与える。背中の痛みも強くなる。さらに、理解力や資料を読む能力に問題が出てくる。集中力が持てないのだ」
 「キャンベル医師は私を5月9日に診察した。私は、この一定時間以降は集中できなくなるという症状をよく診断してくれるよう頼んだが、それがなされなかった。私は、この問題を診察してくれる別の医師の指名を法廷に求めたい」
 法廷には高齢の被告が、楽な姿勢で裁判に臨めるように、ビデオカメラを設置した特別室がある。ヌオン・チア被告は、この特別室でさえ「自分にはまったく無意味だ」と述べた。なぜなら、問題は身体の状況よりも「集中できない」という精神的な側面だからだ、と主張した。
 だが、「訴訟能力については大きな問題は見当たらない」とするキャンベル医師の基本的な姿勢は変わらないまま審理は進んでいく。審理2日目、たまりかねたように、ヌオン・チア被告は再び発言を求めた。
 「過去と現在は違う。私の病状は変化している。以前は私は、心臓発作を起こしても歩くことができた。だが今は、歩行器に頼らなくてはならない。今は6本脚で歩いているのだ。医師の言うことを信じないという意味ではないが、私は身体的にも、精神的にも、知的能力さえだんだん悪い状態になっている。これからも悪い方向に向かうだろう。何ごともずっと同じではない」
 手元のメモを淡々と読み上げた初日とは違い、ヌオン・チア被告は何の原稿も持たず、たたみかけるように話し続けた。裁判長がそれを冷静に遮った。「それはあなたの感じ方の問題。私たちは今、ここに示された客観的な証拠に基づいて判断しようとしている」
 
高齢に配慮、審理を分離

 イエン・チリト元社会問題相(79)は、2011年11月までに、アルツハイマー型とみられる認知症と診断され、公平な裁判を受ける権利を行使できないと判断された。特別法廷は「即時釈放」を言い渡したが、この判断を不服とする検察側が上告したため、最高裁の判断を待っている状態だ。このため、第2ケースは、イエン・チリト被告を除く3被告に対し進められる。
 高齢の被告への配慮、また、迅速な裁判を求めてきた被害者や家族たちの声にもこたえるため、特別法廷は9月22日、第2ケースの進め方について重要な決定をした。集団的な強制移動、強制労働、少数民族やベトナム人、仏教徒に対する犯罪など、このケースで裁かれるいくつかの項目のうち、「強制移動」をまず集中的に審理することにした。法廷内規の審判分離令に基づく決定で、裁判の内容を細分化することで、審理にかかる時間を大幅に短縮することを目指すという。
 特別法廷によると、強制移動の審理は第1フェーズと第2フェーズに分けて行なわれる。第1フェーズは、ポル・ポト派が政権をとった1975年4月17日に始まったプノンペンからの強制移動を対象とする。約170万人が家を追われたとされる。第2フェーズは、1975年9月以降に行なわれた全国各地での強制移動を審理の対象とする。
 被告や、証人たちが起訴内容について証言をする「本格審理」が2011年11月21日、いよいよ始まった。





第9回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 H


ヌオン・チア被告らの「第2ケース」、初公判

舞台裏の「ベッド」






 △特別法廷。傍聴席と法廷を仕切るガラス張りの中で、裁判が行われる
(特別法廷提供)

△@6月27日、初公判にのぞむヌオン・チア被告。サングラスと帽子を着用したまま法廷に着席した
(特別法廷提供)

△A初公判のイエン・サリ被告。恩赦をすでに受けていることを強調した
(特別法廷提供)
△B初公判のキュー・サムファン被告。裁判は不公平だと訴えた
(特別法廷提供)

 カンボジア特別法廷は、もともとステージと客席のあるホールを改装して作られている。訪れたことのある人なら分かるが、裁判官や被告、検察官らが審理を繰り広げる法廷は、ガラスで仕切られた金魚鉢の中にあり、ちょうど舞台のように見える。それを弓なりに取り囲むように傍聴席が500席余り並んでいる。
 開廷の時間になると、ガラス部分を覆うカーテンが左右に開き、まるで舞台の幕開けを見るような気分になる。だが、その舞台で語られる事実は、どれも重い。演劇や映画のように結末が約束されているわけではなく、ましてやヒーローが出てきて解決することもない。幕が閉まっても、被害者の苦しみと憤りは尽きることなく、答えを出せないやりきれなさが心を重くする。
 法廷の被告席は、傍聴席から見て右側にある。特別法廷の「第2ケース」では、この被告席に、ポル・ポト派政権の中枢にいた4人が座る。「ブラザー・ナンバー2」と呼ばれた元人民代表会議議長のヌオン・チア(85)、元副首相兼外相のイエン・サリ(85)、その妻で元社会問題相のイエン・チリト(79)、元幹部会議長のキュー・サムファン(80)。いずれも高齢だ。
 実は、法廷という舞台のちょうど裏手に位置する場所、被告席側の入口を出て数歩のところに、小さな部屋が用意されている。真白なシーツがかけられた簡易ベッドがひとつあるだけの保健室のような部屋。開廷中、ここに医療関係者が待機して、被告が身体の不調を訴えた場合に対処するのだという。私がのぞき見た時は空のベッドしかなかったが、被告の人権にかかわるとして、写真撮影は許されなかった。
 なぜだろう、何もない殺風景さに、かえってこの部屋の生々しさを感じた。そこに横たわるはずの人は1人の病身の老人。けれども、この国に深い傷跡を残した時代を担い、人道上の罪を問われている被告。その老人の命は、もう自分のものだけではなくなってしまっている。老人をベッドに横たえるのも、治療を施すのも、その命を、人生をいとおしんでのことではないだろう。そして、彼らがここに倒れこんだ瞬間、あの時代に失われた170万とも220万ともいわれる命が、このベッドの脇に押し寄せ、ポル・ポト派元幹部の老人たちを延命させるような気がしてならないのだ。
 この法廷が立ち向かう分厚い壁はいくつもある。そのうち、もっとも手ごわいものが「時間」という壁だ。あとどれだけの時間が残されているのか、だれにも分からない。被告本人にも分からない。

初公判

 2011年6月27日、午前9時。カンボジア特別法廷で第2ケースの審理が始まった。前述のように、被告席には4人の被告が、それぞれの弁護士らとともに座った。
 初公判といっても、日本の刑事裁判のように被告人による罪状認否(起訴された内容を認めるかどうか)が行なわれるものではない。それは本格審理と呼ばれる次回以降の公判で行なわれる。今回の初公判では、証人としてだれを呼ぶのか、被害者(民事当事者と呼ばれる)は被告にどんな補償を求めるのか、といったことについて、検察、被告、民事当事者がそれぞれ意見を述べた。さらに「そもそも被告は訴追の対象外である」とする被告側の主張を聞き、本格審理に入る前の準備をした。
 本格審理ではないとはいえ、かつてポル・ポト派の最高幹部だった4人の裁判がいよいよ始まる節目だ。国内外から多くの報道陣が詰めかけた。
 4人が被告席に並んだ姿は、第1ケースのカン・ケック・イウ被告の初公判の時以上に、歴史的に意義深いものだ。ポル・ポト政権下で重要な施設で1万4000人ともいわれる犠牲者を出した責任を問われたとはいえ、1収容所の所長であったカン・ケック・イウ被告の場合、訴追範囲はプノンペンの「S21政治犯収容所」内での出来事に限られた。また、第1ケースで、被害者あるいは被害者の家族として民事当事者となり、裁判に参加したのは90人。一審判決ではそのうち66人だけが「被告の責任が及んだ被害者と認め、補償の対象である」と認定された(控訴中)。
 だが第2ケースでは、罪の理由となる犯罪行為が発生した場所は全国に広がり、被害者ら関係者の人数もぐっと増える。民事当事者として裁判に参加する被害者の数だけを見ても、3850人に及んでおり、第1ケースをしのぐスケールであることが分かる。
 では、4人の被告はどんな罪を問われているのか。大きく分けて、以下の4点だ。

@人道に対する罪(拷問、迫害など)
A戦争犯罪(ジュネーブ条約違反。戦争時の捕虜への拷問、非人道的扱いなど)
Bチャム族およびベトナム人に対する虐殺
Cカンボジア刑法(1956年)に基づく殺人、拷問、宗教的迫害

 さらに、これらの罪が具体的に問われるのはカンボジア国内の次の場所や犯罪行為に限定される。これ以外の場所で犯罪行為がなかったということではなく、限られた時間の中で、上記の犯罪を証明し、判決を下すために、限定せざるを得なかったということだ。

@集団的な強制移住3例
A強制労働キャンプ6ヵ所
B収容所11カ所、処刑所3ヵ所
Cチャム族、ベトナム人、仏教徒に対する犯罪
D強制結婚

 
サングラスと帽子

 だが初公判は、被告たちがそれぞれの立場から裁判に対する不満を示し、冒頭から審理の難航を予想させるものとなった。
「サングラスと帽子の着用を許可して欲しい」。公判開始から間もなく、ヌオン・チア被告の弁護人が裁判長に許しを求めた。「法廷の冷房と照明は、被告の体力と目に影響する」という理由だった。裁判長の許可を得たヌオン・チア被告は、濃い色のサングラスと毛糸のスキー帽のような帽子を着けた。
 10年以上前、私がカンボジア西部パイリンでヌオン・チア被告に会ったときも、同じようなサングラスをしていた。「失礼だが、目が悪いから」と言い、インタビューの間もずっとサングラスをはずさなかった。顔の中で表情をつくるのは目だ。その目がまるで見えない相手とテーブルをはさんだ距離で向き合うのは、こわかった。「目が悪い」のも事実だろうが、それは威嚇のようにも思えた。実際に会ったヌオン・チア被告は、考えていたよりもずっと「革命指導者」のにおいを残していた。
 初公判で見たヌオン・チア被告は、確かに年老いていた。だが、サングラスを着けた瞬間、暗いグラスの向こうに、人生最後のたたかいに挑む決意が光った気がした。裁判長に発言を求めたヌオン・チア被告は、「私はこの裁判には不満である。その理由を私の弁護士が述べる」とだけ言って着席した。弁護士は、捜査の過程が不透明であること、ポル・ポト派が政権をとる前の米国による空爆や、その前後のベトナムによる侵攻などが裁かれないことなどを指摘し、この裁判は公平ではない、と主張した。また、ヌオン・チア被告は、公判で他の被告による陳述が続いている間は自分には関係がない、として退席を求めた。「自分の話になったら、呼んで欲しい」彼はそう言い残して、拘置所へ戻った。
 実際、初公判で話し合われた内容の多くが、イエン・サリ被告の主張だった。1点目は、1つの起訴事実で2回裁かれることはないという「一事不再理」が適用されるべきだ、との主張。イエン・サリ被告は、1979年のポル・ポト派政権崩壊後、ベトナム政府の影響下に新政権のもとで開かれた「人民裁判」で被告となっている。ただし、身柄は拘束されておらず、被告不在のまま死刑判決が下された。イエン・サリ被告の弁護人は、これをもって「すでに被告は一度裁かれている」と主張した。
 2点目は、「恩赦」。4人の被告の中で、イエン・サリ被告は最も早く1996年に投降し、当時のシアヌーク国王から恩赦を受けた。この恩赦が有効であり、訴追されることはない、と主張した3点目は、「時効」だ。戦争犯罪の根拠となるジュネーブ条約と、カンボジア刑法(1956年)はともに時効を過ぎており適用されない、とした。刑法の時効については、他の3人の被告も同様の主張をしている。4日間続いた初公判で、唯一、裁判に対し不満を持つ理由を自ら語ったのが、キュー・サムファン被告だった。「カンボジア国民のみなさん、おはようございます。(傍聴席の)僧侶のみなさま、謹んでご挨拶申し上げます」。起立したキュー・サムファン被告はこう丁寧に切り出した。
「1975年から79年の間に何が起きたのか、国民のみなさんはぜひ知りたいと渇望していることでしょう。私も、この時をずっと待っていました。私はできる限り、心の底から、この法廷に協力したいと思っています」。まるで自分が被告ではないかのような、あるいはカン・ケック・イウ被告のように協力的な姿勢を示すかのような発言が続き、少し驚いたが、その印象はすぐに覆される。「もっとも、私は多くのことを知る立場にはいませんでしたが」。それこそが、彼の言いたかったことなのだ。
 続けてキュー・サムファン被告は、提示された証人リストについて、自分の提案した証人が採用されていないとの不満を示した。「私の提示した証人たちの話を聞けば、あの当時、私が何をしていたのかがよく分かります。今示されているリストは暫定的なものだと聞いています。きっと私が提示した証人たちもこのリストに加わることでしょう。私がこの裁判に十分に貢献するためにも、公平な裁判をお願いしたいのです」
 自ら発言もせず、弁護人も積極的な発言をしなかったイエン・チリト被告を除けば、他の3人の、三者三様の法廷戦略が垣間見えた。限られた時間の中で、法廷での審理は、あの時代をどう描いてみせるのか。あるいは、その入り口にも立てないまま時間切れを迎えるのだろうか。





第8回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 G


判決



 △@ 判決の日のカン・ケック・イウ被告
(特別法廷提供)

△A 判決の日の特別法廷。傍聴席はこの日も満席だった
(特別法廷提供)

 7月26日午前10時。プノンペン郊外のカンボジア特別法廷で、カン・ケック・イウ(ドゥイ)被告に対する判決公判が始まった。
 ドゥイ被告は、ポル・ポト時代にプノンペン市内にあった収容所S21の所長だった。S21では、12000人以上の人が、スパイ容疑などで拘束され、拷問や処刑で命を奪われた。はじめは副所長として、後に所長としてS21を支配したドゥイ被告は、政権崩壊後、逃走していたが、1999年5月10日にカンボジア政府軍により逮捕された。それ以降、ドゥイ被告は裁判を受けないまま拘束され、2007年7月31日には、特別法廷に身柄を移されている。
 2008年12月、ドゥイ被告は、人道に対する罪、戦争犯罪、殺人、拷問などの罪で起訴され、翌2009年2月17日に初公判が開かれた。本格審理は、3月30日から9月17日まで72回に及んだ。その後5回の最終陳述の公判が開かれ、11月27日に結審した。
 判決の日、ドゥイ被告は水色のシャツ、ベージュのズボンであらわれた。これまでの公判とあまり変わらぬ様子で、両手を合わせてあいさつをしてから、判事席に向き合う被告人席に座った。いつも抱えていた書類の束はなく、メモをとることも、メガネをかけることもなく、ただ淡々と前を見据えていた。
 判決文要旨の朗読は、いわゆる「判決理由」から始まった。「主文」と呼ばれる量刑は最後にまわされる。日本では、量刑の判断に至った理由をしっかり被告に聞かせるために、主文を後回しにすることがある。おそらくは、同じ理由だろう。その内容は後述する。
 そして約1時間の要旨朗読の後、主文が読み上げられた。裁判長に促されてドゥイ被告は被告人席で起立した。
 7月26日午前11時5分。
 「カン・ケック・イウを有罪とする」
 裁判長が言い渡したときも、ドゥイ被告の、やや憮然とした表情は変わらなかった。有罪であることは予想されていた。だが、法廷でこの言葉を実際に聞いたとき、私は想像していた以上に厳粛な気持ちになった。特別法廷で初めてとなるこの有罪判決は、ひとりドゥイ被告に対するものだけではなく、カンボジアの人々が、ポル・ポト時代そのものに下した「決断」であり、暗黒の現代史と向き合う「覚悟」のように思えた。このひとことが、あまたの困難を乗り越え、自らの手で歴史を解明し、刻んでいこうとするカンボジアの人々、そして特別法廷に携わるすべての人々の原点となり、また支えとなるよう、心から祈った。
 検察側は禁固40年を求刑したが、判事団の下した判断は禁固35年だった。さらに、ドゥイ被告が裁判も受けずに拘束されていた状態を「違法」と認定し、補償として5年を差し引く、とした。これで実質、量刑は禁固30年となる。刑が確定すれば、逮捕された1999年5月10日から確定日までの勾留期間が差し引かれる。今の時点ですでにそれは約11年に及ぶため、実際にドゥイ被告が刑に服するのは、20年に満たない期間ということになる。
 ただし、まだ刑は確定していない。特別法廷は二審制なので、判決言い渡しの日から30日以内に、被告と検察はそれぞれ上訴ができる。特別法廷によれば、上訴があった場合、上級審は年内にも開かれる可能性があるという。

 判決文では、ドゥイ被告がS21の組織化や、そこで行なわれた犯罪に積極的な役割を果たしたと認定している。ドゥイ被告は公判のなかで、所長としての責任を認めながらも、「上司の命令に逆らうことができなかった」と主張してきた。この点について判決文は、このように判断している。(青字部分、判決要旨より引用)


  被告側の「S21での犯罪は上司の強制的な命令に従って行動した結果であるので、
  責任が問われるべきではない」との主張は却下する。人道に対する罪において、
  「上司の強制的な命令」は妥当な免責の理由にはなりえない。さらに被告は、そうし
  た命令(殺害、拷問、ジュネーブ条約で守られるべき人たちの拘束)が違法であるこ
  とを知っていたのだ。政権末期に近づいたころ、被告が、命令を上司が満足するよ
  うに遂行しなければ、自分や自分の親族が殺されるのではないかという恐怖にさい
  なまれていたことは認める。だがそれは、被告がそれまでの間、積極的に、熱心に、
  恐怖と暴力による支配に加わってきたからこそ、同じ行動を強く求められた結果で
  ある。実際、被告は非常に効率的に、熱心に、恐怖による支配を遂行したことが証
  明されている。
 
 S21での被害者数について、判決は「少なくとも12273人だが、実際にはこれよりもずっと多い」としている。被収容者は、処刑されたほか、拷問や劣悪な拘束環境が原因で死亡した。また、少なくとも100人が、S21の医療班で「文字通り血液を抜かれて死亡した」としている。公判の中で、抜かれた血液は、他の病院の傷病者に輸血するために使われたと証言されていた。
S21には、所長である被告の命令が瞬時に行き届くような組織体系があった。さまざまな「ユニット(班)」があり、中でも、尋問班、守衛班は、被告の直属となっていた。さらに判決では、被告自身が、尋問の方法をスタッフに教えていた、と認定し、それは「1978年代には毎月のように開かれた」とした。このなかで被告は「尋問の際には身体的、精神的な暴力を使うように指示したが、自白を得るまでは被収容者を殺してはならない、と指導した」という。判決は「こうして得られた自白の多くが、でっちあげであることを被告は認識していた。それにもかかわらず、S21での自白が、次の逮捕者を生み出す根拠となった」と、被告の責任の重さを指摘した。
 ただ一方で、判決は「被告自身が、拷問や殺害を実行したという点については、証拠が十分ではない」とした。これは、被告自身が、公判の中で繰り返し主張してきたことでもある。
 「被告の罪は疑いようもなく大きい」としながらも、検察の求刑40年よりも5年減刑した理由について判決は、1999年から2007年まで、カンボジア軍により裁判を受けないまま身柄拘束されたことを違法と判断したことのほか、@特別法廷への協力姿勢を評価A責任を認めていることB限定的ではあるが自責の念を表明していることC当時の強圧的な国家体制D更生の可能性――の5つを挙げている。
 昨年3月からの本格審理の冒頭で被告は、「特別法廷に協力することが罪を償う唯一の方法」とし、「S21で起きた犯罪について私の責任を認める」と述べた。長い公判の中で被告は、被害者の遺族の証言を聞いて涙を流したこともあった。明確な証言をしないポル・ポト派の元部下である証人に対し「真実を伝え、責任を認めよ」と、説教をしたこともあった。だが、最後の最後になって、最終弁論に立った被告は「これだけ法廷に協力したのだから、私を釈放してください」と発言した。5年の減刑を、被告がどう考えるのか。被告側の弁護士が、上訴の準備を始めたとの報道も流れている。 
 この裁判の大きな特徴のひとつが、「被害者」の裁判参加だ。S21の数少ない生存者や、犠牲者の遺族が、被害者として被告に損害賠償を求めるため、公判に加わっていた。彼らは、「民事当事者」と呼ばれ、この裁判では90人が名乗りを上げた。
 損害賠償といっても、金銭による個人への補償はできない、と規定された。補償は、集団的で、しかも象徴的なものでなくてはならない。どんな賠償命令が出るのかも判決の焦点のひとつだった。
 しかし、判決は被害者をおおいに落胆させるものだった。判決が命じた補償は、@判決文の中に、被害者である民事当事者全員の名前と、どんな被害を受けたのかを記載することA公判の中で、ドゥイ被告が発言した謝罪の言葉を集めて、特別法廷のウェブサイトに掲載すること――のふたつだけだった。民事当事者たちは、このほかに、犠牲者のためのモニュメントの建立なども求めていが、却下された。
 補償の内容に不服がある場合でも、民事当事者は、単独では控訴ができない。検察が、量刑に不服があるとして控訴しなければ、民事当事者は控訴できない仕組みになっているのだ。公判の過程においても、被害者の審理参加にはさまざまな問題点があった。一部、被告や証人への尋問を認められないケースがあり、民事当事者が不公平だと憤り、審理をボイコットしたこともあった。
 また、判決の中で、民事当事者として活動してきた90人のうち24人が「資格なし」と認定された。裁判所がひとりひとりについて、犠牲者との関係などを提出書類に基づき審査した結果、24人は補償を求める資格を認められなかったのだ。民事当事者への補償が、本件である刑事事件に対する判断と密接な関係にある以上、民事当事者の資格認定が判決と同時に行われたことも仕方がない。が、認定されなかった民事当事者について弁護側が事前に釈明をする機会が十分にあったのか、など、民事当事者に関する手続きそのものにも課題がありそうだ。
ドゥイ被告の裁判に続き、ヌオン・チアなどポル・ポト政権幹部を裁く「第2ケース」が、来年にも始まる見込みだが、これにはすでに4000人以上が、民事当事者の資格申請をしている。第1ケースの経験を生かし、より公平な被害者の裁判参加を期待したい。 
 判決の日には、300人を超える報道関係者が、特別法廷に取材に訪れた。「この裁判で明らかになった新事実は何か」「判決によって何が変わるのか」。私も、取材にきた記者たちから何度かこう聞かれた。だが、この裁判の意味を「判決」から探ろうとしても難しいと思う。通常の裁判取材では重要な切り口だが、私は、この裁判の本当の意義は、やはりプロセスにあると思っている。
被害者である「民事当事者」の弁護士たちは、判決後の記者会見でこう言った。「どのような量刑であっても、被害者たちが満足するということはあり得ない」。裁判をする意味を否定するようにもとられかねないコメントであるが、その心情は分かる。どのような量刑が被告に与えられようとも、殺害された被害者は戻ってこない。奪われた日々は戻ってこない。弁護士たちはそのことを言っているのだ。
「新事実」や「判決がもたらす目に見える変化」は、ないかもしれない。弁護士たちが言うように、判決が被害者の傷を癒すものでもないだろう。けれど、その過程で、私はカンボジアの人々が、ポル・ポト時代と向き合うきっかけをつかむ姿を見てきた。元ポル・ポト派の老人が証人として登場し、自分のしてきたことを悔い、心情を吐露した瞬間。似たような立場にあった人々が、老人に自らを重ねたかもしれない。家族にも語れなかった非人道的な被害経験を、泣きながら語った証人。その姿は、経験を「語り継ぐ」ことの大切さと難しさを人々に教えた。ポル・ポト時代後に生まれた人たちが人口の7割近くを占めるというこの国で、証言はそのまま、時代の記憶を検証し、書きとどめる作業にもなっている。カンボジアが、内戦後初めて国として取り組む検証作業である。
そう考えると、今回の判決は、カンボジアという国と、そこに生きる人々に課せられた歴史的事業の出発点だ。ここで終わりでもなければ、これがあの時代のすべてでもない。そのことを肝に銘じながら、引き続き法廷を追いかけたい。




第7回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 F


判決は7月26日



 △@ 判決を待つカン・ケック・イウ被告
(特別法廷提供)

△A 77回の公判には、約28,000人が傍聴に訪れた
(特別法廷提供)

 カンボジア特別法廷の最初の被告、カン・ケック・イウ元S21所長に対する判決が、7月26日に言い渡されることになった。昨年3月に本格審理が始まり、11月末まで77回の公判を重ねた結論がいよいよこの日、出される。
 カン・ケック・イウ被告は、1999年にカンボジア当局に身柄を拘束され、2007年に特別法廷に逮捕された。特別法廷での400時間以上にわたる公判には、合計55人の証人が登場した。その一部は、この傍聴記でもお伝えした。S21 に拘束された被害者やその家族の今も癒えない悲痛な叫び、S21でそうした被害者たちを監視する立場にいた元ポル・ポト派の葛藤、傍聴席やテレビ放送で法廷を見守った人たち。法廷にかかわったすべての人たちの思いは、カンボジア現代史を形作る重要な糧となるだろう。同じ時代に生きるものとして、カンボジア現代史検証の場に立ち会えていることを、改めて幸運に思う。
 ところで傍聴記を読まれている方から、「法廷の仕組みがよく分からないので知りたい」というお便りをいただいた。傍聴記では、証言内容はお伝えしてきたが、複雑な特別法廷の仕組みについては触れたことがなかった。1審判決という節目の前に、今回は、この仕組みについて説明したい。

だれが裁くのか
 特別法廷は、カンボジアの国内法廷であり、国際法廷ではない。ただ、国内法に加えて国際法も適用し、判事や検察官ら司法官にはカンボジア人と外国人がおり、必ず共同で作業を行っている。つまり、国内法廷でありながら、国際法廷の標準を適用する、「ハイブリッド(混合)」法廷というわけだ。運営も、カンボジア政府と国連が「共催」する形をとっている。
 ハイブリッドの中身を詳しくみる。まず判事は、1審で5人、2審(最高裁)で7人いるが、それぞれカンボジア人が過半数を占めている。1審はニル・ノン裁判長ら3人のカンボジア人に、ニュージーランド人とフランス人の判事が加わる。最高裁は、カンボジア人4人と、日本人の野口元郎さん、ポーランドとスリランカの3人の国際判事からなる。ただ、これで単に多数決にしてしまうと、カンボジア人判事だけの意見で結論が出てしまう可能性があるため、特別法廷では、「過半数プラス1」と呼ばれる方式をとっている。多数決で判断をするときは、最低でも国際判事のうちどちらかが同意しなければ成立しない、という方法だ。特別法廷では、捜査判事、検察官、弁護士などにも外国人が必ず加わっている。
 ハイブリッド法廷は、これまでにない新しい形だ。カン・ケック・イウ被告の公判でも、裁判の進め方をめぐって審理が中断し、関係者が話し合う場面があった。「未成熟な法廷」とみなすこともできるが、一方で、この裁判には、国際裁判の経験豊かな国際司法官たちが多数参加しており、国際司法の第一線で活躍する彼らが、これまでの経験をもとに、新しいハイブリッド法廷のあり方をひとつずつ作り上げている、と考えることができる。だとすれば、カンボジア特別法廷は、あとに続く国際刑事裁判のひとつのモデルともなる重要な役割を担っているのだ。

だれを裁くのか
 この法廷で裁かれるのは、1975年4月17日から79年1月6日のポル・ポト派政権下で起きた犯罪のみである。したがって、その前後に起きたことは、直接の起訴要件とはならない。適用されるのは、国内法では、殺人、拷問、宗教弾圧。国内法では、大虐殺、人道に対する犯罪、戦争犯罪、文化遺産の破壊、国際法保護下の人物に対する犯罪だ。たとえばカン・ケック・イウ被告の場合、殺人、拷問、人道に対する犯罪、戦争犯罪で起訴されている。
 カン・ケック・イウ被告の「ケース1」場合、被告の権限が及んだとされるS21での犯罪が、主な起訴要件となった。だが、現在逮捕され、起訴が見込まれるそのほかの4 人(ヌオン・チア元人民代表議会議長、キュー・サムファン元幹部会議長、イエン・サリ元副首相、イエン・チリト元社会問題相)については、政権幹部であり、権限が全国に及んでいると考えられる。そのため、捜査対象も、全国各地のキリングフィールドや収容所などに広がっている。
 現在逮捕されている政権幹部4人とカン・ケック・イウ被告を合わせた5人に対する審理は「ケース2」と呼ばれる。今年1月14日、捜査判事は、「ケース2」の捜査が終了したと宣言した。ただ、捜査が終わってもすぐに4人が起訴されるかどうかが決まるわけではない。捜査判事の捜査終了を受け、関係者から、追加で捜査をしてほしいとの依頼が出されることがある。追加捜査が必要と認められると、捜査判事はさらに捜査を続け、それが終わると、容疑者たちを起訴するかしないかを確定する。現在、ケース2は追加捜査依頼を受けている段階で、今年9月には4人を起訴するかどうかが決まるとみられている。
 「ケース1」と「ケース2」のほかに、「ケース3」として、2009年9月、捜査判事に5人の容疑者に対する捜査依頼が提出された。この5人の容疑者については、名前は公表されていない。特別法廷によれば、現在、捜査判事は「ケース2」の捜査を優先させており、「ケース3」についてはまだ具体的な進展は見られないという。

被害者はどう参加しているのか
 カンボジア特別法廷の最大の特徴のひとつが、被害者の裁判参加だ。拷問を受けた、拘束された、などポル・ポト政権下で被害を受けた人は、「民事当事者」として裁判に参加し、被害について自ら陳述したり、被告や証人に質問をしたり、補償を求めたりすることができる。ただし、「補償」といっても、金銭的な措置は求めることはできない。一人ひとりが金銭的な補償を求めていたのでは収拾がつかなくなる。そこで判決が示す被害者への補償は、たとえばモニュメントの建設など、「集団的かつ象徴的」なものになると考えられている。
 では実際の公判で、被害者の参加はどのような意味を持ったのだろうか。「ケース1」で、民事当事者として裁判に参加した人は90人。このうち22人は、証人として証言席にすわり、自分たちが受けた被害について語った。「虐殺の記憶は年を経てますます鮮明になり、まるで一滴一滴たらされる毒のように私をむしばむのです」。これは、S21に拘束された画家で、民事当事者として証言をしたワン・ナットさんの言葉だ。被害者たちは、体や心に残る傷をさらし、もう一度傷口を開きながら証言をした。それは同時に、証言席に座れなかった多くの死者たちの声の代弁でもあった。
 特別法廷に被害者参加の働きかけをしてきた日本のNGO「ヒューマンライツナウ」の山本晋平弁護士によれば、「被害者にとっては、自分たちの被害を語る場を与えられることが、補償の一つになり得る」と語った法廷関係者もいたという。また、彼らが法廷に「当事者」として参加し、被告や被告弁護人たちと常に向き合っていたことは、この法廷が何を裁こうとしているのか、を思い起こさせてくれた。
 「ケース2」では、4000人以上の被害者が、民事当事者として裁判に参加したいと申請している。「ケース1」の民事当事者が、どのような補償を受けるのか、まだ判決が出ていない時点で、すでにこれだけの人々が裁判に深い関心を寄せ、申請した。そのこと自体が、被害者にとっての裁判の意義の大きさを物語っている。

だれが支えているのか
 カンボジア特別法廷は、国連とカンボジア政府の共催であり、運営費も国連予算と国内予算からなっている。特別法廷によると、2005年から2009年の総支出額は、7,840万ドル。国際化された法廷の中では、いちばん予算規模は小さいという。これは、カンボジアで法廷が開かれていることが大きい。
 また、特別法廷の運営費は、ほとんどが国際社会からの支援に頼っている。特に、最大の支援国は日本。特別法廷によれば、日本はこれまでに、国連予算と国内予算に3,930万ドルを拠出。経費の約半分を担っている状態だ。あまり知られていない事実だが、特別法廷は日本の支援なしには成り立っていなかったとさえ言える。
 日本がそれだけ特別法廷に力を入れるのは、特別法廷をカンボジア和平の仕上げ、と考えているからだ。日本の外交史において、「カンボジア和平」は特別な意味を持つ。初めて日本がPKO活動に参加し、自衛隊、停戦監視要員、文民警察官など約1,300人が派遣された。1993年には、国連ボランティアの中田厚仁さんと、文民警察官の高田晴行さんが殺害されるという悲劇もあった。
 日本とも関係が深い特別法廷は、間もなくひとつのクライマックスを迎える。昨年11月、カン・ケック・イウ被告に対し、検察側は禁固40年を求刑した。これに対し、被告本人は最終弁論で、カンボジア当局に逮捕されてからすでに10年以上も未決拘留の状態であることや、特別法廷の捜査や審理に積極的に協力したことなどを踏まえて、「私を釈放してほしい」と訴えた。判決は、被告の量刑がどうなるか、というだけでなく、判事団がポル・ポト政権下で起きた出来事をどのように事実認定するのか、被害者への補償はどのような形で決定されるのか、といった点も注目される。




第6回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 E


起き上がりこぼしと「恩讐の彼方に」



 △@ ヌオン・チア元人民代表議会議長
(特別法廷提供)

△A キュー・サムファン元幹部会議長
(特別法廷提供)
△B イエン・サリ元副首相
(特別法廷提供)
C イエン・チリト元社会問題相
(特別法廷提供)

 ポル・ポト政権下で、スパイや「裏切り者」とされた人々を拘束し、拷問・殺害した施設「S21」の元所長、カン・ケック・イウ被告(67)に対する公判は11月末に結審した。現在は、「年内」と言われる判決公判のときを待っている状態だ。
 昨年3月末から続いたカン・ケック・イウ(通称ドゥイ)被告の裁判は、これから続く他の元幹部たちの公判の中でも、「もっとも分かりやすく、中身の濃い裁判」と評されるだろう、と言われる。「中身が濃い」というのは、それぞれの立場によって意味が違ってくるが、公判の内容を多くの人に伝える立場にいる私から見れば、この意見におおいにうなずくことができる。
 特別法廷は、カンボジアの国内法廷として設置されながら、判事、弁護士、検事のいずれにもカンボジア人と外国人がおり、その運営にはさまざまな困難があった。公判が、手続き論でもめて停滞することが何度もあった。私たち報道陣に直接かかわる点でいえば、通訳の問題があった。法廷の公用語は、クメール語、英語、フランス語。フランス語は、英語から訳す二重訳で、わかりにくいこともあったという。いずれの言語の通訳者も、司法専門用語を瞬時に理解して訳す難しさだけでなく、法廷でのやりとりに慣れない証人たちの、あいまいな言い回しを理解して訳す難しさに直面していた。まったく逆の訳になってしまい、進行が止まったことも何度かあった。国際的な裁判が、いかに複雑なスキルを必要とするかということを、多くのカンボジア人が目の当たりにしたことだろう。
 それでも「中身が濃い」と私が思うのは、公判時間の多くが、事実の解明に充てられたという印象があるからだ。結果として事実解明にはならなかったことも多々ある。たとえば個人の死の具体的な状況。S21で殺害されたとされる犠牲者の遺族が複数名証言台に立ち、自分の夫や父や兄がなぜ、どのように殺されたのかを被告に問い詰めたが、答えは得られなかった。だが、これまで「トゥールスレン虐殺博物館」、数々のドキュメンタリー、出版された本、報道などで伝えられてきたことを、法廷の場で一つ一つ取り出し、最も深いかかわりのあった当事者(ドゥイ被告)に問いただす、という作業は、間違いなくこれまでになかったことである。
 もちろん「解明」といっても、新しい事実を明らかにしたというわけではない。だが、「ポル・ポト時代の残虐さを示す有名な話」として伝わってきた数々のエピソードが当事者の証言で裏付けられ、あるいは逆に、信ぴょう性が薄いとされ、ひとつひとつ公の記録に残されていく。これは将来、カンボジア人が自分たちの歴史を自分たちの視点で見つめなおすときの重要な出発点となるだろう。必ずしも、裁判イコール真実ではない。けれど、事実を認定するにあたって必要な方法や手続きを、カンボジアの人々に(そして私たち外国人にも)見せつけるプロセスとして、「ケース1」と呼ばれるドゥイ被告の公判は中身が濃いものだったと私は思う。

 特別法廷には現在、ドゥイ被告のほかに4人の元幹部が身柄を拘束されている。ヌオン・チア元人民代表議会議長、キュー・サムファン元幹部会議長、イエン・サリ元副首相、イエン・チリト元社会問題相である。捜査判事は今年1月、この4人にドゥイ被告を加えた5人を裁く「ケース2」について、捜査を終えたことを発表した。
 捜査を終えたという宣言があっても、すぐに公判が始まるわけではない。4人の元幹部はまだだれも起訴されていない。捜査結果を受け、さらなる追加捜査が行なわれ、最終的に裁判を行うのに十分な疑いがあると判断されれば起訴され、「被告」と呼ばれる。
 今のところ、4人は虐殺への関与などの罪を認めていないとされる。ドゥイ被告は、最終弁論で混乱をしたものの、基本的には「S21」の犯罪性と、所長であった自分の職務責任を認め続けてきた。むしろそうすることで、自分がいかに「歯車のひとつにすぎなかったか」を強調した。だが、ドゥイ被告よりも上位にあったこの4人は、立場を異にする。ドゥイ被告の力が、S21という極めてせまい(けれども凶悪な)空間の中に限られていた一方で、政権幹部としてこの4人の力は全国に及んでいた。組織的に見ても「歯車のひとつ」という言い逃れは通用しない。本人の意図はともかく、公判に積極的に臨んだドゥイ被告とは違い、保身に走り事実の解明に協力しない可能性も大きい。

 新聞記者をしていた2003年、私はタイ国境パイリンに住むヌオン・チア元人民代表議会議長に会いに行ったことがある。逮捕されるずっと前で、このころは、ヌオン・チア氏を含むポル・ポト派元幹部たちは、クメール・ルージュ勢力下にあった地域でシンパの住民に守られながら、豊かに暮らしていた。
 パイリンのヌオン・チア氏の家は、庭の広い農家の一軒家で、高床式の家だった。ひっそりとはしていたが孤立している感じではなく、彼は妻や家族と落ち着いた暮らしをしていた。ときどき、タイ国境を越えてタイの病院に入院すると言っていたが、体調も顔色も悪くはなかった。ヌオン・チア氏は「目が悪いから」と、大きなサングラスをかけたまま現れ、2時間近い取材の間もそれをはずすことはなかった。
 プノンペンでは、特別法廷設置への動きが高まっていたが、まだだれもが「本当に裁判ができるのか」と疑心暗鬼だった。ヌオン・チア氏は裁判についてこのとき、「国が決めたことだから反対はしない。起訴されれば逃げずに自分の考えを述べたい」と言った。しかし、全国でおこなわれた拷問や処刑、虐殺への関与については「私は主に教育を担当していた。道義的な責任は感じるが、直接関与はしていない」と、否定。100万人以上の国民が犠牲となったことについても「政府の意図したことではなく、何かが間違ったのだ。基本的な方針は今でも間違っていなかったと思う」と述べていた。基本的な方針とは何かと尋ねると、ヌオン・チア氏は、「浄化された社会をつくることだ」と力強く言った。
 取材の終わり、彼が「お気に入りのおもちゃだ」と言って見せてくれたものがある。日本製の電動「起き上がりこぼし」だった。倒れたネコが、ジージーと音を立てながらしっぽを使ってまた起き上がる。「何度倒しても起き上がる。励みになる。倒れたままだったら何も変わらないじゃないか」。ヌオン・チア氏は当時76歳。彼に会う前、その年齢を聞いて、私は勝手に、衰え、燃えつきようとしている老人を想像していた。だがそこにいたのは、「倒れたままにはならない」「自分は間違ってはいなかった」と今も思い続けているかつての権力者だった。ポル・ポト政権が果たしたかったこととは、彼にとって人生をかけた思想だったのか。それは今もまだ消えない理想なのか。「起き上がりこぼし」に励まされる、と言った彼はちょっと微笑んだ。それが私には不敵な笑みに見えた。
 後日、私はある人から「ヌオン・チアの愛読書」なるものを聞かされた。これも日本の作品で、菊池寛の「恩讐の彼方に」だという。江戸時代、人斬りの罪を犯した男が僧となり、たった一人で難所に洞門を掘り始める。初めは馬鹿にしていた近隣の人たちもやがて男を助けるようになった。ある日、男を「父の仇」として討とうとする武士が現れる。男は洞門が開通したら討たれよう、と約束する。敵討の時を待つ間、男を見張っていた武士は、黙々と掘り利続けるそのひたむきさに心を動かされる。そして最後は一緒にノミを握った。洞門が開通した時、2人は抱き合って喜んだ、という話だ。
 現在、ヌオン・チア氏は身柄を拘束されている。特別法廷関係者によると、健康状態に問題はないという。裁判を待つ彼は、今も「起き上がりこぼし」と「恩讐の彼方に」に励まされているのだろうか。




第5回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 D   2010年3月8日


「私を釈放してください」



 △@ カン・ケック・イウ被告の結審の日の法廷
(特別法廷提供)

△A 結審の法廷に立つカン・ケック・イウ被告
(特別法廷提供)
△B 被告人席。結審の日、傍聴席は満席だった
(特別法廷提供)
C 無罪を主張した被告のカンボジア人弁護士。背後は被告
(特別法廷提供)

 昨年11月25日、ポル・ポト政権の元幹部らを裁くカンボジア特別法廷で検察側は、S21収容所の元所長、カン・ケック・イウ(通称ドゥイ)被告(67)に、禁固40年を求刑した。特別法廷の最高刑は終身刑だが、同被告が1999年にカンボジア当局に逮捕されてから、すでに10年以上も未決拘留の状態が続いていること、法廷の捜査や審理に積極的に協力した点などを考慮したとみられる。とはいえ、67歳の被告にとって、禁固40年は終身刑と変わらないものだ。
 ドゥイ被告は、記録に残るだけで1万2000人以上、研究によっては1万4000人とも1万7000人ともいわれる人々が拷問のうえ殺害されたS21収容所の責任者として、殺人、人道上の罪、戦争犯罪などに問われている。被告は、S21で行なわれていた拷問や殺害を「犯罪行為」と認め、所長であった自分にその責任はある、と認めてきた。一方で、施設内での具体的な拷問や殺害については自分は関与していない、部下の判断で行なったこと、などと発言してきた。
 昨年11月27日。昨年3月に始まった公判の本格審理から数えて77回目、時間にして460時間近くを経た後、最後の公判が開かれた。2日前の求刑を受け、ドゥイ被告は最後の発言のために立ち上がって言った。
 「私を、釈放してください」
 S21の犯罪性は認める、しかし自分はこの法廷でその責任を問われる立場になく、法廷の運営にも事実解明にも十分に協力した……。被告は釈放を求める理由をそう説明した。いつものように、強い語調でたたみかけるように訴えた。被告の話を聞いた裁判官たちの間に、一瞬戸惑うような空気が漂った。「被告の主張は、つまり自分は無罪だと言いたいのですか」。裁判長が、確認をした。被告はその問いに直接答えることはせず、「私の弁護士が話します」と言った。そして被告のカンボジア人弁護士は、はっきりと言った。「釈放を求めるということは、被告は無罪を主張するという意味です」
 法廷の記者室でモニターを見ていた記者たちから、ため息がもれた。「結局、それが言いたいのか」。情状酌量を求めると予測されていたとはいえ、ここまではっきりと「自分は許されるべきだ」と言われると、鼻白む。それが法廷における被告の権利ではあるが、涙まで流して悔悟の念を語った気持ちは何だったのか。そのとき、ドゥイ被告は、今までの公判で見たことがないような開き直った表情をしていた。何かに対して怒っているかのような顔だった。「ふてぶてしい」と感じたその表情に、私は、今まで彼は法廷でいくつもの仮面をかぶっていたのだろうか、と思った。
 これまでの公判で、ドゥイ被告はさまざまな謝罪や反省の言葉を口にしてきた。77回の公判を振り返れば、時間の経過や、証人席にだれがいるかによって、その表現や表情は違っていた。
 初めてドゥイ被告が法廷で発言をした昨年3月31 日の冒頭陳述で、被告はこう言った。

   1975年から79年の間に全国各地で実行された犯罪は、人々の暮らしに大きな影響を与えた。
  この間に奪われた命は、カンボジア共産党(CPK)に責任がある。私は、CPKの一員として、精神的
  に責任を感じる。奪われたすべての命に対し、私の後悔と、心からの悲しみをささげたい。
   私は、S21で起きた犯罪について、私の責任を認める。私はそこで起きた犯罪、特に拷問や処刑に
  ついて責任がある。犠牲になった人々や愛する家族を失った人々に謝罪させて欲しい。私が、謝罪を
  したいと思っていることを、どうか知って欲しい。今許されるとは思っていないが、謝罪をしたいと願っ
  ていることを知って欲しい。耐え難い、重大な犯罪だと認識している。どうかお願いしたい。どうか、
  窓を開いて、私の謝罪を受け入れて欲しい。
   S21での犯罪は、女性や子どもを含む多くの人々の命を奪った。私は、オンカーからの命令でこれを
  行なった。私はスケープゴートだった。命令に背けない臆病な人間であり、勇気のない人間だと批判さ
  れてもそれを甘んじて受け入れる。当時、私はS21の収容者たちよりも、自分の家族が大事だった。上
  の命令に逆らうことなどしようとはしなかった。上からの命令に従うかどうかは、は生きるか死ぬかの問
  題だった。従うよりほかに選択肢がなかった。今、私は自分のしたことを、大変反省しているし、大変恥
  ずかしいと思っている。
   こうした反省から、私は特別法廷に協力することにした。それだけが、私やCPKによる犯罪を償うただ
  ひとつの救済方法だからだ。あの悪名高い犯罪を裁くために、私は、自分のすべてを正直に特別法廷に
  ささげ、法廷にこの身をゆだねる。

 責任を認めながらも、同時に「ほかに選択肢がなかったこと」と、「最大の責任はカンボジア共産党にあり、自分はその部品のひとつに過ぎなかったこと」を強調する。このスタンスは、続く公判でも貫かれていた。言ってみれば、「逃げ場」を確保しながらの謝罪だった。
 だが、私が被告の表現に小さな変化を感じたのは、本格審理開始から4ヵ月ほどたったころだった。そのころから、証人席には、かつての部下であるS21の元スタッフたちが座った。罪状も明らかにしないままの理不尽な逮捕や連行、収容所での非人道的な扱い、残虐な処刑など、彼らは自分の見聞きした様子を証言した。そういったことすべてが被告の「命令」で行なわれていたかどうかは、争いのある部分だった。しかし少なくともそれらの出来事がすべて、被告の権限下にあったS21で発生したことは事実だった。元スタッフに続いて、S21に収容された被害者や、無残に命を奪われた被害者の遺族が何人も登場し、愛する人たちを救えなかった苦しみを語った。被告を「絶対に許せない」と声をふるわせる人もいた。
 こうした証言が終わる前に、裁判長は必ず被告の感想を求めた。証言内容に対する感情的な反論や、まるで傍観者であるかのような冷めた分析も多かったが、このころ被告が口にした謝罪には、「逃げ場」を作らないものもあった。何の留保もなしに、自分の罪を認め、謝罪を繰り返すことが何度かあった。
 生々しい証言で再現された圧倒的な現実の前に、被告が拠り所としていた「留保」など、意味がないと思ったのではないか。言い訳などせず、生涯をかけて罪を背負うことを覚悟したのではないか。そのときのやりとりを見ていた私は、確かにそう感じた。楽観的すぎたのかもしれない。洞察力がなかったのかもしれない。だが、時に声を詰まらせて後悔の念を口にしたこの時期の被告の表情は、最終弁論で見たふてぶてしさとはまったく違い、素直で、潔くすら見えた。
  それから数カ月後、昨年11月の結審の日、被告はこう語った。

   最初に申し上げたいのは、私がこの法廷に協力をしてきたということだ。繰り返される多くの質問
  にすべて答えてきた。何百ページにも及ぶ法廷の記録がそのことを証明するだろう。まるで何かを
  求めているかのように思われるので、これ以上あれこれ言いたくはない。判事のみなさんにはすべ
  てを事実に基づいて判断して欲しいと申し上げたい。私はあらゆる面でこの法廷に協力してきた。
   特別法廷は1975年から79年に行なわれた犯罪を訴追することになっているが、私は75年以前や
  79年以降のことについてもきちんと答えてきた。
   もちろん、私の親類を含む100万人を超える人々が命を落としたことや、多くの人が亡くなる前に
  大変な苦しみを味わったことを決して忘れるものではない。すべての犯罪はカンボジア共産党が引
  き起こしたことだ。その党の一員として、私は国民に対し謝罪をしたい。
   私は自分が犯罪的な政党の一員として責任があるというこれまでの立場を変えてはいない。S21
  の犯罪性に異議を唱えるものでもない。だが、1999年5月8日に身柄を拘束されてから10年がたっ
  ている。10年と6ヵ月と18日だ。その期間、私は十分に法廷に協力してきた。どうか私を釈放してほ
  しい。

 被告の表現は、冒頭陳述のトーンに戻った。いや、それよりも強く、「自分はすでに罪を償った」と言おうとしているかのように聞こえた。一方で私は、被告が決して自分の口からは「無罪だ」と言わなかったことに興味を持った。裁判長に、発言の真意を尋ねられた被告は、自分ではなく、カンボジア人弁護士に無罪の主張をさせたのだった。ドゥイ被告は、自分が無罪だとは思っていない。「許されるべきだ」と強く信じているが、無罪だとは言いたくはない。けれど法廷戦略としては「無罪」を主張しなければ釈放されない。私にはそんな風に見えた。
 そうだとすれば、被告が繰り返してきた「私には責任がある」とは、どういう意味なのだろうか。被告の最後の発言を聞きながら、私は混乱した。彼の言う責任とは、謝罪し、事実解明に協力すれば相殺されるものなのだろうか。そう考え始めると、検察が、被害者が、私たち自身が、追及している「責任」とは何なのかという問いにたどりつく。私たちは、被告に、法廷に、いったい何を求めているのだろうか。
 判決は今年前半にも出る見込みだ。





第4回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 C    2009年9月6日


「失われた家族の物語」







 △S21で処刑されたニュージーランド人、ケリー・ハミルさん
△父親をS21で失い、特別法廷で証言するプン・グッ・ソンタリさん
△S21で犠牲になったプン・トン教授と、その妻

△プン・トン教授の妻と子供たち
△在りし日のプン・トン教授と友人たち

△S21で撮影されたとみられるプン・トン教授
△S21で姉夫婦をなくし、証言するアントニア・チュロンさん

△S21で処刑されたランシー・チュロンさんが家族とともに過ごした最後の写真
△S21で撮影されたランシー・チュロンさん

△S21で兄をなくしたロバート・ハミルさんが法廷で示したS21で絶命した男性。
足カセをされて、大量の血を流している

 ポル・ポト政権下の政治犯収容所S21のカン・ケック・イウ元所長(通称ドゥイ)を裁く特別法廷は、8月で67回の公判を終えた。予定では9月半ばまで公判が続き、その後一時休廷の後、11月23日から検察、被告弁護側らの最終弁論が始まる。審理はいよいよ大詰めを迎えている。
 さて、70回近い公判を連日見ていると、人間の感情なんていい加減なものだな、とつくづく感じる。私自身のことである。
 これまでの公判で、ドゥイ被告は一貫して「S21で発生したすべての犯罪の責任は私にある」と認めている。一方で、S21で起きた囚人の殺害事件など個別の事件については「知らない」ということが多く、また被告自身が直接囚人を拷問したり殺害したりしたことはない、と繰り返し主張している。だが、証人の証言が終わると、裁判長は必ずドゥイ被告に「所感」を求めるため、すべての当事者の中でドゥイ被告の発言の機会が最も多くなっている。
何度も繰り返されるドゥイ被告の「謝罪」。「カンボジア国民は私を非難することができる」「奪われた多くの権利に比べれば、私の権利などものの数ではない」「私を犯罪者と指さしてほしい。石を投げられても文句は言えない」。こうした言葉を毎日のように聞いていると、ドゥイ被告に同情的な気持ちにさえなってくる。彼もまた、ポル・ポト政権という歯車の被害者であったのではないか、とすら思えてくる。S21の地獄から生還した元囚人たちの証言を聞いたときに感じた、焼けつくような憤りをどこかに置き忘れそうになる。
8月半ば、S21で処刑されたとみられる被害者たちの家族が、それぞれの「奪われた時」を証言した。その内容は、S21の犯罪に対する私自身の中途半端な情感など打ち砕くような衝撃的なものだった。この法廷に立つことが許されなかった犠牲者たちの口惜しさを、改めて法廷のすべての当事者に刻みこんだ。S21の犯罪が、残された家族に何をもたらしたのか。「虐殺の記憶は年を経てますます鮮明になり、まるで一滴一滴たらされる毒のように私をむしばむ」。これはS21に拘束されていた生存者ワン・ナット氏の言葉であるが、犠牲者の遺族もまた、毒にむしばまれ続けていたのだ。

(写真@)
S21に拘束され、処刑されたニュージーランド人、ケリー・ハミル氏の弟であるロバート・ハミル氏。ハミル家は5人きょうだい。兄ケリーさんは、タイ湾をヨットで航海中にポル・ポト派兵に逮捕され、S21に収容された。ケリーさんの消息がわかったのは、音信が途絶えてから1年4カ月後の1979年だったという。ケリーさんの死は、ハミル家に崩壊をもたらした。1歳下で特に親しかった次兄のジョンさんは、ケリーさんの死を受け入れられず、きょうだいたちと口論をし、暴力をふるうようになった。最愛の長男の死に心が壊れた両親は、ジョンさんが11歳年下のロバートさんの顔をなぐっても、いさめようとさえしなかったという。そしてケリーさんの死が判明してから8カ月後、ジョンさんは家の近くのがけから飛び降りて自殺した。ロバートさんは、震える声でドゥイ被告に呼び掛けた。

 ジョンの死とケリーの死を切り離して考えることはできない。ドゥイ、あなたがケリーを殺したとき、あなたはジョンをも殺したのだ。ドゥイ、私はあなたを「スマッシュ」したい。そう、あなたが使っていた言葉、スマッシュだ。

 「スマッシュ」とは、ポル・ポト政権下で、敵とみなされた人物を殺害することを意味した。ロバートさんは法廷で被告に「殺してやりたい」と叫んだのだ。ロバートさんはさらに続けた。

  私の家族のすべての苦しみは、たったひとりの男によって作り出された。拷問と人間性への侮辱のシステムを彼はつくりあげた。2万人近い人々の人生が奪われた。あなたが多くの人たちにしたのと同じように、あなたに足カセをつけて、同じ苦しみを味わわせたい。怒り、悲しみ、嘆き、すべてをドゥイに背負わせたい。苦しまなくてはならないのは、ほかのだれでもない、あなただ。あなたが殺した人々の家族ではなく、あなたが苦しまなくてはならないのだ。この日を境に、私はあなたに対して何の感情も持たないことにする。私にとってそれは、あなたを人間として認めないということだ。

 ロバートさんの激しい言葉は、もしかしたら「あなた」ではなく「おまえ」と訳すに等しかったかもしれない。ロバートさんは懸命に感情を抑制していたが、時に語気が荒くなり、裁判長が「倫理的にわきまえた言葉づかいを」と注意したほどだった。だが、そこにいた多くの傍聴者が、裁判長のこの発言には同意しなかっただろう。たとえ被告の命を奪おうとも、兄は戻ってこない。「あなたを人間として認めない」。最大限の怒りと空しさと悲しみをその言葉で表現しようとしたロバートさんを非難できる人はいないと思った。

(写真A) 父親で大学教授だったプン・トンさんをS21で失ったプン・グッ・ソンタリさんの証言は、父親への愛情に満ちたもので、まるで一編の物語を聞くようだった。プン・トン教授は、プノンペン大学の学長をつとめ、国際法の専門家だった。政治的にも活発に活動していたが、1975年3月にジュネーブへ行った日以降、行方が分からなくなった。ポル・ポト政権下でカンボジアに戻り、S21で処刑されたようだ。写真や書類がS21に残されていたので間違いはないが、ドゥイ被告はプン・トン教授が拘束されたことを知らないとしている。
 ソンタリさんは、父親についてこう話した。(写真B〜E)

   父は学長としてとても多忙だったが、子煩悩で子供たちとよく話をした。話し方も行動も、すべてに愛情があふれていた。父は問題や憎しみが山積する社会の中で私たちを守ってくれる木陰のような存在だった。何気ない散歩中の出来事でさえ忘れられない。ある日曜、散歩中に父が、ライオンの彫像の口に手を入れて「大変だ、ライオンが私の手を飲み込んでしまった」と言った。私は「お父さんの手がなくなっちゃう」と泣きだした。それを見て父は、ほがらかに笑った。子供のころの思い出にはいつも父がいた。どんなに私が愛されていたか。あんなに愛してくれた父の尊厳を取り戻すのは、私の役目なのだ。

    ソンタリさんが、父プン・トン教授の運命について知ったのは、ポル・ポト政権後のことだった。1974年のポル・ポト政権樹立時に、ソンタリさんと母親は、父の行方が分からないまま移住させられ、強制労働に従事した。1979年暮れ、苦難の旅路を経てようやくプノンペンに戻ってきたとき、手に入れたサトウヤシの実を包んでいた新聞紙を何気なく見ていてそこに父の写真を見つけた。S21で処刑された犠牲者の写真だった。信じられないまま、活字を読み漁った。このとき、初めてS21という収容所のことを知った。そして、母親と一緒に抜け殻となっていたS21を訪ねたという。

      私たちはそこで父のいた痕跡をさがした。人間的なものは何一つなかった。囚人たちの独房も見た。排便に使っていた弾薬箱も、長い金属の足カセも、拷問の道具も見た。こんなに非人間的な場所を私は知らない。血の跡が部屋に残っていて、人々が死んでいくそのにおいがまだ漂っていた。私たちは家に帰ったがしゃべることはできなかった。想像を越えていた。私と母は、ひとつの布団で眠った。背中を向けて、お互いがお互いに気付かれないように泣いた。そのことが私の悲しみを増幅した。あまりに希望がなさすぎた。

ソンタリさんは、「今も、気持ちの良い午後、自宅のハンモックでくつろぐ父にココナッツジュースを届ける自分の姿をよく夢みる」と言う。ドゥイ被告に対して「被告は上層部に対してとても忠実な死刑執行人だった。だが、被告は法廷にうそをついてきた。父の運命はドゥイの手の中にあった。ドゥイは必ず父のことを知っていると思う。彼は罪を逃れようとしているだけだ。悲しんでいる、などと言ってほしくない」と語り、証言をしめくくった。

(写真F,G、H)
姉であるランシー・チュロンさんとその夫のリン・キマリーさんがS21で殺害されたアントニア・チュロンさんは、残された家族の苦しみをこう表現した。

  なぜこんなに残酷なことができたのか、私たちは問い続けた。カンボジア人がカンボジア人を殺す。理由もなく殺す。彼らはそれを楽しんでいるかのようにさえ思えた。そしてその日からずっと、生き残った者たちは、なぜ愛する家族を助けられなかったのか、友達を助けられなかったのか、罪の意識、無力さに苦しんでいるのだ。

できることなら助けたかった。その思いは、けっして報われることのない終わりのない苦しみだ。チュロンさんは、「私は被告の謝罪を信じない。彼の悲しみを信じない。被告は私の言うことなど気にも留めないだろうが、それでも言いたい。被告は、私たちが被告を許すことなど期待しないでほしい。被告が悲しいというのならば、その悲しみは1万7000人の身体的、精神的な苦しみと同等のものでなくてはならない」と語った。そして最後に、被告をしっかりと見据えてもう一度繰り返した。「私は被告をけっして許さない」

ニュージーランドから来て証言をしたロバート・ハミルさんは、証言の最後に、S21で絶命した男性の写真を掲げて言った。「この写真は、兄のケリーではないかもしれない。でも、私にはこれがS21でのケリーに見えるのだ。足カセをされながらも、彼は生きようと必死にもがいていた。床に流れた血のあとが、それを語っている」(写真I)
  犠牲者たちの苦しみを代弁しようにも、こうした遺族たちの多くが、S21にとらえられた家族がどのように拷問を受け、どのように殺されていったのかを知らない。さまざまな研究や調査で断片的に明らかになる処刑や拷問の状況をかきあつめ、「きっとこうだったに違いない」と想像することしかできない。永遠に、そこまでしかできない。答えのない問いを抱いたまま生きなければならない遺族の苦しみは、この法廷でさえ癒すことはできないのだろう。改めて、S21の罪の重さを思った。






第3回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 B    2009年7月14日





 △特別法廷で証言をするモン・ナイ証人。
足かけ3日にわたって質問を受けた
(記者室のモニター画面を撮影)

△かつての部下、モン・ナイ証人に「真実を話せ」と迫るドゥイ被告
(記者室のモニター画面を撮影)
△証言をするヒム・ホイ証人。「次に殺されるのは自分の番だ」
という恐怖感にさいなまれていた、と繰り返した
(特別法廷提供)

 ポル・ポト法廷が、日本であまり高い関心を持たれていない理由のひとつは、多くの人々が「ポル・ポト時代という、極めて特殊で異常な出来事を裁いている」と考えているから、ではないだろうか。「法に統治された秩序あるわが社会」では、もうめったなことでは起こり得ない出来事と思われているのではないか。
 私もそうだった。理由なき逮捕、拷問、虐殺、子供の処刑、強制労働。今行なわれている政治犯収容所「S21」の元所長、カン・ケック・イウ(通称ドゥイ)被告(66)の公判では、こうした非人道的な出来事が語られている。それを聞きながら、この話を今の日本社会の中に投げ入れたところで、どんな問題意識を共有できるのだろうかと不安だった。あまりにも今の暮らしとかけ離れている気がした。
 だが、S21で守衛や尋問官として働いていた「元スタッフ」たちが証人として法廷に登場するようになってから、私はこの法廷で裁かれるのが「過去の異常な出来事」だけではない、と思うようになった。点と点をつなぐ線のようなものが浮かんでくる。人間が、他人の苦しみに目も耳も心も閉じたとき、おそろしく閉鎖的なシステムが生まれる。無関心、無関与、ただ自分の足元を見つめることだけが生き延びる道。私たちは今、似たようなシステムの入口に立っていないか。あと一歩で闇の中に陥ってしまう場所にいるのではないか。元スタッフたちの証言は、そんな問いを私に投げかける。
 7月13日、第43回公判。背中を丸めた1人の老人が証人として登場した。緑色のクロマー(カンボジアの伝統的なスカーフ)を首に巻き、指先のあいた手袋をしている。薄い白髪と、くぼんだ目。どこにでもいる弱々しい老人に見えた。
 老人は、モン・ナイ証人(76)。S21で、「政治犯」として収容された人々の尋問を担当していた。モン・ナイ氏は、これまでドゥイ被告の供述の中で、S21の尋問担当官の1人として、何度も名前が挙がった人物だ。
 S21で尋問や看守をしていたスタッフが証人として登場したのは初めてだった。モン・ナイ氏を皮切りに、法廷には元スタッフたちが相次いで証人として登場した。収容された人々が生き残った「被害者」だとすれば、元スタッフたちは(本人が直接携わっていたかどうかは別として)危害を与えた側に立つ。もちろん彼らはこの特別法廷で逮捕も起訴もされていない。あくまでも「証人」だ。証言にあたっても、裁判長からは「特別法廷が裁くのはクメールルージュ政権の指導的立場にあった者であり、証人はそれにはあたらない」との言葉があった。今後、国内法廷での訴追を完全に免れるわけではないが、希望すれば弁護人も同席させることができる。
 モン・ナイ氏は、教員養成校をクラスの首席で卒業し、フランス語を流暢に話し、ベトナム語、英語も解する。1973年、教師の賃上げ要求運動に参加したのをきっかけに革命運動に身を投じ、教師時代からの知り合いだったドゥイ被告と行動を共にする。被告がS21に副所長として赴任する前に所長をつとめたM13と呼ばれる収容施設でも働いていた。
 S21の中でもおそらく最も高い水準の教育を受け、ドゥイ被告とともにS21に移籍したモン・ナイ氏。組織の中で重要な役割を与えられていたと容易に推測できる。実際、モン・ナイ氏が尋問班の中心人物の1人だったとの証拠も示された。だがモン・ナイ氏は当時の自分の役割について「重要ではない囚人を尋問する担当だった」と強調した。尋問のときに自分は拷問は使っていないと繰り返し、S21の状況、他のスタッフの行動については「知らない」と言い続けた。

――尋問で拷問を使っている尋問官はいたか
「私はほかの人のことは知らない。尋問の場所は他の建物から離れていて、私はそこに送り込まれてくる囚人を尋問するだけで、そこから動く自由はなかった。尋問官同士で連絡もとりあうことはなかった」
――尋問が終わると囚人たちはどうなったか
 「よく知らない」
 ――S21にはいくつのユニット(班)があったか
「私は重要なポジションにいなかったので知らない」
――S21の建物について説明してほしい
「私はよく知らない」
――S21には全部で何人ぐらいが働いていたか
「私はそのことを知る地位にはなかった」

 淡々と、視線を上げずに同じ答えを続けるモン・ナイ氏。当時、S21の調理場で働いていた妻とさえ、互いの仕事の話はしなかったという答えに、質問に立った被害者の弁護人が、いらだちを隠さずに聞いた。「何も知ろうとせず、聞こうとせず、なぜそんなに知らないことが重要だったのか」。同じ姿勢のまま、モン・ナイ氏が答えた。「私が何も知ろうとしないことは、共産党の方針にかなっていた。私たちは、他人のことを気にしてはいけなかった」

「他人のことを気にしてはいけなかった」。この言葉は、別のS21の元スタッフの証言でも登場した。S21で守衛を務めていたヒム・ホイ証人。本人は否定するが、被害者として公判に参加しているブ・ミンさんへの拷問に加わったとも名指しされている。ヒム・ホイ氏は、当時の感情を「殺されるのが恐ろしかった」と繰り返した。S21のスタッフは、厳しい規則で縛られ、すべては「イデオロギー」という名の党上層部の意思によって動き、「他の部門が何をしているのかを知ることができず、ただ馬のように扱われた」。規則とイデオロギーを破った者の運命は「殺されるのを待つだけだった」。
 S21の囚人たちは、チュンエック(「キリングフィールド」)と呼ばれる処刑場に連行された。遺体を埋める穴のふちに座らされ、1人ずつ頭をなぐられ、のどを切られ、服を脱がされ、目隠しをとられて穴の中に放り込まれた。ヒム・ホイ氏は、守衛として囚人たちをチュンエックへ連行していた。ポル・ポト政権末期、S21に残された囚人たちを100人単位で処刑する指示が出された。その時の様子をヒム・ホイ氏はこう証言している。
「1日で100人ぐらいが処刑された。処刑は午後9時ごろから始まって、夜中の2時すぎまでかかった。私たちは夜明け前までに処刑を終えるように言われ、とにかく急がされた。まわりで何が起きているのかを見ている余裕はなかった。そこにドゥイ被告が来ていたのだが、何をしていたのか気にすることもできなかった」
 ヒム・ホイ氏は処刑担当ではなかったが、この光景を守衛として目撃していたという。まるで機械のように人間を殺していく。考えることも、ためらうことも許されず。犠牲者も含め百数十人の人間がいたというのに、そこに人間らしい感情が生まれる余地はなかった。政権末期、チュンエックの集団処刑は、「他人のことを気にしてはいけない」システムが、行き着くところまで行き着いたことを示していた。

 モン・ナイ氏が証言を終えた後、裁判長はドゥイ被告にこれまでの証言を聞いて感想を求めた。この裁判では、証言の最後にドゥイ被告が所感を述べる機会を設けている。ドゥイ被告は、いつものように大きく息を吸い込んでから一気に話し始めた。本来、裁判長に対して感想を述べるのだが、興奮して途中からモン・ナイ氏に直接呼びかける形になってしまっていた。その弁は10分以上におよんだ。
 「証言を聞いて、当時の記憶がどんどんよみがえってきた。(責任を認めない)証人の証言はよろしくない。どうか、ただ真実を伝えてほしい。私のように、歴史の前に責任を認めてほしい。あなたはゾウを手さげカゴで隠そうとしているのだ。そんなことできるわけがない。100万人以上が死んだのだ。それはカンボジア共産党の手で死んだのだが、その党にはだれがいた? 私もあなたもその一部だったではないか。今はパズルの一片一片をつなぎあわせて事実を語る絶好の機会ではないか。世界が、カンボジア中の人々が本当のことを聞きたいと待ち望んでいるのだ。共産主義に、真実を伝えたいという私たちの心を邪魔させてはならない。当時私たちは共産党に守られていたが、この法廷ではそうはいかない」
 この時に限って言えば、ドゥイ被告の言葉はまったく正論だった。記者室で聞いていたカンボジア人記者からは小さな拍手が起きたほどだった。もちろん、ドゥイ被告自身の証言が「歴史の前にすべての責任を負う」ものだったのかは判決を待たなくてはならないが。
 この言葉を受けて裁判長はモン・ナイ氏に異例の再質問をした。「証人は、今私たちに話したこと以上のことを知っているように見えます。ドゥイ被告の話を聞いて、付け加えることはありますか」
 モン・ナイ氏が、ふと顔を上げた。法廷の明かりを反射して、くぼんだ彼の目が一瞬光った。そして声をふるわせて「とても残念です」と言った。犠牲となった知人家族のことを考えると悲しい。あの時代に死んだ妻子のことを考えると悲しい。「けれど、あまりにも混沌としていた。あの時代、私たちはどうすることもできなかった。そしてたくさんの人が死んでいった」。それまでとはまったく違う、別人のような声。細く震えていたけれど、感情のこもった声。初めて、聞いている私たちの心に、素直に届く声が聞こえた。
 だが、「もっと付け加えることができますか」という裁判長の問いに、モン・ナイ氏は「いいえ、これが精一杯です」とだけ答え、証言は終了した。
 モン・ナイ氏が立ち去る前に、裁判長は証言に対してお礼を言った。これは、どの証人にも言っていることで珍しくはない。だが、いつも同じ言葉を判で押したように言う裁判長がこの日は少し違っていた。「人間の記憶というものには限界があります。たった数時間前のことでも忘れるものです。ましてや70代のあなたの記憶は薄れていても仕方ないでしょう。法廷に来てくれて感謝しています」
 モン・ナイ氏の証言は、多くの事実を裏付けられなかったという点で、明らかに内容の薄いものだった。それなのに温かい言葉で証言をしめくくった裁判長の真意はわからない。ただ、証言の最後、モン・ナイ氏が閉じていた心を少しだけ開いたのは確かだ。人間らしい感情をにじませた。30年間、1人きりで抱えてきた心の闇に、この法廷が小さな明かりをともしたのだろうか。裁判長は、それもまた法廷の意義と考えたのかもしれない。




第2回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 A    2009年6月29日


 
  傍聴者で席が埋まったカンボジア特別法廷の様子。
  ガラスの向こうに法廷がある=カンボジア特別法廷提供






 △特別法廷で証言する画家のワン・ナットさん
=カンボジア特別法廷提供

△拷問で爪をはがれたことを説明するため
裸足になったチュン・メイさん
=カンボジア特別法廷提供
△「妻がどこで処刑されたか教えてほしい」と
被告に尋ねたブ・ミンさん




 6月29日、公判が34回を数え、いよいよツールスレン政治犯収容所(S21)に収容されていた被害者が証言台に立つことになった。カン・ケック・イウ被告の指令下で、実際に逮捕され、拷問を受け、身動きすら許されない拘束を受けていた人々が、連日、法廷で証言をした。いずれもまだ生々しい記憶である。
私は、この公判を日本の、そして世界の人々に直接見てほしいと心から思った。S21の被害者が出廷したことは、日本でもニュースで伝えられたようだが、要点を伝えるだけの報道では届かない、被害者たちの1つ1つの言葉の重みをもっと多くの人に知って欲しかった。震える声を、あふれる涙を、かみしめた唇を、握りしめたこぶしを、五感のすべてで見て聞いて感じて欲しかった。初めて、この法廷が東京で開かれればよかったのに、と思った。
 1975年から79年までに、おそらく1万4000人以上が逮捕・連行され、拷問の果てに処刑されたというS21。ポル・ポト政権末期、ベトナム軍が首都に迫ってくると、数百人単位の大量処刑が行われるようになったという。所長であったカン・ケック・イウ被告は「大量処刑」についてこう証言している。
 「(政権崩壊直前の)1979年1月初めには、上司であったヌオン・チアから『収容者はすべて処刑せよ』との指令が出た。この処刑は明らかにそれまでと違う目的だった。上層部は、ベトナム軍に自分たちが負けるかもしれないと考え、収容所に囚人を残しておいてはいけないと考えるようになった。私は当時、これは、新しい囚人が大量に入るため、スペースが必要なのだろうと思っていた。それまでも、収容所があふれかえるのを防ぐために囚人を処刑していたからだ。だが、私の推測は間違っていた。ベトナム軍が首都に迫っていることを私は知らなかった」
 とても人間が考えつくとは思えないような理由による殺戮だ。結果として、政権崩壊時のS21に最後に残った囚人は何人だったのか。現在の虐殺博物館によると、カン・ケック・イウ被告らが逃走した後、S21に踏み込んだベトナム兵らが発見したのは14人の遺体だった。だが、被告は「4人の囚人を尋問のために生かしておいた。あとはすべて処刑のためにキリングフィールドに送った」と述べている。
 今回、生存する被害者として証言に立ったのは、こうした殺戮を奇跡的にまぬがれた人々だ。彼らは、画家などの芸術家あるいはメカニックだった。特に芸術家は、ポル・ポト元首相の肖像画や彫像を制作するための作業を命じられ、命をながらえた。首都に巨大なポル・ポトの肖像を掲げる。権力者のそんな顕示欲ゆえに、皮肉にも彼らは地獄から生還した。
 とはいえ、彼らが囚人としての扱いをまぬがれたわけではない。罪名も知らされぬまま連行され、40〜50人の大部屋で足カセでつながれて収容され、拷問を受けた人もいる。証人たちは、その経験を1人およそ6時間にわたって質問された。証人の右手前方には険しい表情のカン・ケック・イウ被告。そのうえに見慣れぬ法衣の法律家たちの質問は、この場に慣れない証人にどれほどの緊張を強いただろう。
 それに、証言は傷跡をえぐって見せるつらい作業だ。話が「最もつらかった瞬間」に至ると、どの証人も涙を流し、声を詰まらせた。長い証言のほんの一部だが、その「瞬間」を書き連ねるだけでも、S21の罪の深さが浮き彫りになるだろう。

 画家のワン・ナットさん(63)が声を詰まらせたのは、連行される前に帰宅したときのことを語った瞬間だった。

「1977年12月30日、私は田んぼで働いていた。夕方5時ごろ、私はプルサットへ行くように命令された。すぐに荷物をまとめろ、と言われ、牛車にのせられた。あたりが暗くなり始めていた。私は家に戻り、妻にプルサットに行くようにと言われたと告げた。外では牛車が待っていた」
それから1年あまりの間、ワン・ナットさんはS21で生と死を見つめ続ける。夜中までポル・ポトの肖像を描き続け、そのあとは足カセをつけられ眠った。骨と皮だけになった囚人が、動物のように両手両足を木材に結びつけられてトラックに積み込まれるのを目撃した。だが、目にしたどんな恐怖よりも、ワン・ナットさんの心をえぐったのは、運命が一転した逮捕の日、妻との別れだったのだろう。
メカニックだったチュン・メイさん(79)は、足の指の爪をはがされるなど12日間にわたり拷問を受けた後に、機械修理の作業を命じられ生き延びた。チュン・メイさんは、拷問を受けている間に独房に拘束されていた。その時の気持ちをこう語りながら、涙を流した。

「独房に入ったとき、生き延びることはできないと思った。独房で、私は横になるだけだった。床で寝るなんて、人生で初めての経験だった。ホースで水をかけられるも、初めてだった」
「ホースで水をかける」とは、囚人たちを足カセでつないだまま水浴びさせるためのS21での手法だった。40〜50人を収容した大部屋でも、独房でも、看守がホースで囚人たちに水をかけるという屈辱的なものだった。人間扱いされなかった悔しさを、人間の尊厳を奪ったS21の恐ろしさを、チュン・メイさんは忘れられない。チュン・メイさんは、特別法廷の傍聴に通い、裁判の行方を見守っている。だが、「いくらがんばっても、ツールスレンと聞くと涙があふれてきてしまう」と証言した。
画家のブ・ミンさん(68)も、ポル・ポトの肖像を描くように命じられる前に、ひどい拷問を受けた。その様子を語りながら、ブ・ミンさんは泣いた。

「逮捕から5か月ほどして、私は拷問を受けるようになった。彼らはわたしを別の棟にある尋問の部屋に連れていき、床にうつぶせになるように言った。棒で床をばしばしとたたいて、『どの棒を使って欲しいか』と聞いた。『どの棒だって私がたたかれることには変わりない。好きなものを使ってくれ』と、私は答えた。そこにいた者たちが、かわりばんこに私をたたいた。彼らは、いくつたたかれたか数えろと言った。私は10数えた。すると『なんで1回しかたたいていないのに、10などというのだ』と言われた。無数の傷ができて、床に血が流れた」
ブ・ミンさんは、「私はこのようなことをされる覚えが全くない」と何度も繰り返した。いわれなき罪に問われる屈辱。ブ・ミンさんは「私たちに正義をもたらしてほしい。100%の正義でなくてもいい。50%でも、60%でも、私が潔白だったことが証明されるならば」と切実な思いを語った。正義ということが、人間にとってどれだけ大切なことなのか、教えられる。
そして、子供のころに、母親とともに連行され、S21に拘束されていたというノン・チャンパルさん(39)。幼い彼にとって、最もつらかったのは、目の前で動物のように扱われる大好きな母の姿だった。

「それから私たちは(S21の)建物の中に入った。白い壁の部屋に入ると、カメラが置いてあり、母が写真に撮られた。母は写真に撮られるのが慣れておらず、彼らは何度も母をこづいて写真を撮った。とてもこわかった。村では父も母もみなに尊敬されていた。なのに、その部屋では彼らは母のほおを打ち、母は床に転がった。その髪をひっぱって立ち上がらせ、まっすぐに立てとどなった。そんなことを見たこともなかった私はただ恐ろしかった」
農家だったライ・チャンさん(55)は、約3ヵ月にわたり、S21と思われる施設で拘束され、拷問を受けた経験を語った。被告側は「S21ではない別の施設ではないか」との疑問を呈したが、ライ・チャンさんの受けた苦痛を否定するものではない、とした。彼の受けた苦痛が、被告の責任であるかどうかは判決まで待たなくてはならないが、どこで受けたものであろうと拷問の事実は消えない。いったん逮捕されれば、目隠しをされ、自分がどこに連れていかれたのか、その場所がどこかを問うことすら許されなかったというあの時代の事実をかえって浮き彫りにした。
ライ・チャンさんはほとんどの時間、目隠しされていたため、その記憶はけっして多くない。だが淡々と覚えている限りのことを根気強く繰り返し証言した。「拘束中は身動きさえ許されず、のどがかわいても、水が欲しいといういうことさえできなかった」という発言に対し、弁護士が「どうやってその渇きをいやしたのですか」と尋ねたときのことだ。ライ・チャンさんは、しばらく沈黙した後、「のどが渇いたときは…」と言ってそのまま顔を両手で覆ってしまった。そして押し殺したような声で泣いた。何度も顔をあげようとしては両手で顔を覆い、ようやく次の言葉を発した。

「のどが渇いたとき、私は自分の尿を飲みました」
質問した弁護士も、判事たちも、聞いていた私たちも、ライ・チャンさんの嗚咽の意味をこのとき知った。弁護士は「私の質問があなたを苦しめてしまった。申し訳ない」と謝った。内容もさることながら、そのことを自らの口で語らなくてはならない、そんな重荷をなぜこの一市民が背負わなくてはならないのか。


声を震わせる証人たちを、カンボジア人の裁判長が静かに励ます。
「気持ちをしっかりもって、話をつづけてください。あなたが、あなたの家族が、拷問でどのような苦しみを味わってきたのか、今こそ語るときなのです。このときを待ち続けたと、あなたは言った。心を強くして、語ってください。われわれに、傍聴しているすべての人々に、カンボジアの人々に、国際社会に。クメールルージュが何をしたのか、しっかり教えてください。悲しみに流されることなく、語ってください」
心をこめた口調は、聞いている私たちをも励ますようだった。この事実から、どうか目をそむけないでほしい、最後まで聞いて欲しい、と。
この公判の目的は、カン・ケック・イウ被告の罪の重さを決めることである。でも重要なのは結論ではないのかもしれない。公判の様子は毎日、カンボジアのテレビで生放送されている。こうして公判の過程で、ひとりひとりが「なぜポル・ポト時代を裁く必要があるのか」を考えさせられる。裁くことで何を求めているのか、を自分自身に問いかける。
長い長い裁判は、その過程こそが答えであるようにも思えてくる。





第1回 ポル・ポト特別法廷傍聴記 @    2009年5月19日



△プレスセンターのモニターに映しだされるS21政治犯収容所の元所長、
カン・ケック・イウ被告。プノンペン郊外。
△カンボジア特別法廷のプレスルーム。
モニターに映る法廷を見ながら同時通訳を聞くことができる。
プノンぺン郊外で。

  午前9時少し前。法廷と傍聴席を仕切る水色のカーテンが、さーっと両側に開く。ガラス越しの法廷に検察官や、弁護士、それに被告が登場。続いて正面の裁判官席に、しずしずと判事たちが着席する。ガラスは、法廷に万が一にも危害や妨害が加わらないようにするための防護目的だが、500席もある傍聴席から見ると、まるで法廷そのものがテレビ画面におさまった劇場の舞台だ。
 プノンぺン郊外にあるカンボジア特別法廷のこの「舞台」で、今、連日のようにポル・ポト時代が語られている。1975年から1979年の政権下で、170万人といわれる国民が、拷問や処刑、強制移住や強制労働などの犠牲となった。そのポル・ポト政権の元幹部たちを、殺人や拷問など人道に対する罪、戦争犯罪などで裁く法廷だ。現在の被告は、カン・ケック・イウ(通称ドゥイ)被告(66)。プノンペンにあった政治犯収容所S21(現ツールスレン虐殺博物館)の所長だった人物だ。この収容所では約2万人が犠牲になったといわれる。
 ドゥイ被告に対する本格審理は3月30日に始まった。以来、月曜から木曜の毎日朝9時から夕方4時すぎまで、法廷が開かれている。途中、休日であるクメール正月や国王誕生日などで休廷があったが、公判は4月末までに15回を数えた。私は、プノンペン在住の記者として、法廷がある日はほぼ毎日ここへ通っている。他の仕事の関係で丸1日張り付くことは難しいが、仲間と手分けをして傍聴し、その記録をまとめている。朝日新聞の委託ということで、この仕事が続けられているのだが、毎日傍聴をしている日本人は私たちのグループだけである。

 さて、S21で拷問や処刑を指示したとされるドゥイ被告。もちろん、名前は何度も聞いていたが、99年にはカンボジア当局に逮捕されていたため取材はかなわず、私はこの法廷で初めて「実物」を見た。彼はいつも、分厚いファイルを小脇に抱えて法廷に登場する。法廷の関係書類が入っているのだろう。黄色い蛍光ペンを常に右手に握りしめ、検察官が罪状を読み上げるさなかも、眼鏡をかけ、手元の書類に印をつけながら聞き入った。「拷問は頭にポリ袋をかぶせたり、鼻に水を注いだりした。爪をはぐこともあった」。残虐な表現にも、表情ひとつ変えず書類の文字を目で追う。休憩時間には、弁護人と談笑もする。ガラスの向こうから傍聴席をぐるりと見渡し、知り合いに軽く会釈する…。そんな冷静な姿は、時に自らの罪さえ「他人事」に感じているかのように見えてしまう。もちろん被告の心の内をのぞけるわけではないので、私の印象にすぎない。だが、ドゥイ被告にとってすら、もうポル・ポト時代は「過去」なのだろうか。被告は自らの犯した罪の重さに思い悩み、苦しめられることはもうないのだろうか、ならば被告にとって罪を認め、償うというのはどういうことを指すのだろうか、法廷で裁かれることはこれから先の彼の人生に、どういう意味があるのだろうか。「30年」という時間を経た裁判の難しさや、さまざまな問いが浮かんでくる。

 これまでの法廷は、主にS21の所長に抜擢されるまでの、いわば「S21以前」の被告をめぐるやりとりだった。被告は、法廷でのやりとりを通して、ここでどんな人間像を結ぼうとしているのか。
 「ドゥイ」という、自ら選んだ革命名について被告はこう説明した。「小学校のときの教科書の最初のページに、『先生はドゥイに本を読ませる』という一文があり、その挿絵の少年がとても良い子で、まっすぐで、いいなと思った。私はこの名前が好きです。品行方正で仕事をまじめにする」。「共産党に身を投じ、何を捧げてきたか」という判事の質問に対しても、「お金も、活動もすべて革命に捧げ、父母から離れることも死も恐れなかった」と答えた。一途で生真面目な若者像だ。後日、被告は、その純粋な気持ちが利用され、「S21の所長となって活動するうちに、いつの間にか、党や政権幹部の単なる道具にされてしまっていた」と陳述している。
 数学の教師だった被告は、S21以前に、M13 という別の収容所の所長をしていた。収容所所長としての「有能ぶり」を認められて、S21の副所長に抜擢される。だが、政権幹部たちの評価とは裏腹に、被告は収容所所長としての仕事を嫌っていた、と強調する。「私は治安任務に興味を持っていなかった。治安任務は正義をもたらさなかった。尋問による自白はどんなにがんばっても真実は50%程度だった。1ヵ月かけて尋問しても、その自白には嘘がたくさんあった」。それでも、「なぜあなたが所長に抜擢されたのか」という質問が繰り返されると、「私は他の人よりも尋問がうまかった。上司は他の人よりも私を信頼していた。私は上司に対して正直だったからだ」と、強い口調で答えた。誇りを傷つけられ、むきになっているようにさえ見えた。
 被告は罪状認否にあたる冒頭の陳述で、「S21で起きた犯罪について私の責任を認める。(犠牲者に対し)どうか窓を開いて私の謝罪を受け入れてほしい。特別法廷に協力することが罪を償う唯一の方法だ」と述べた。だが、審理が進むにつれ、「責任」は自分だけにあるのではない、という主張が目立つようになった。「家族を守るために従うよりほかはなかった」「処刑や拷問の命令をしたのはわたしだけではない」「結果的に残虐な方法になったが、当初の目的は違った」。被告が実はこの仕事を嫌っていた、という主張もここに通じる。被告が自らを弁護するのは当然の権利であるから、間違ってはいない。でも、それでは被告が自らに認めた「責任」というのは何なのだろう、と考える。

 こうして法廷で積み上げられていく事実の断片は、それ自体が歴史を塗り替えるような事実ではないかもしれない。けれど、被告であろうと、証人であろうと、判事たちであろうと、カンボジア人自身が自らの言葉であの時代を語るということが、それを多くの国民が見守っているという事実が、歴史を塗り替えるかもしれない。法廷取材を続ける29歳のカンボジア人記者は「外国人が書いた歴史ではなく、自分たちがつづる歴史。それがこの法廷だ」と誇らしげに言った。さまざまな疑問や、困難、迷走があったとしても、私も、この法廷にじっくりつきあおうと思っている。


木村 文のブログ 「カンボジア 人情浮草日記」
生活情報誌「ニョニュム」HP http://www.cisinc.co.jp/index.htm