| カンボジア便り | プノンペンに移住した記者の目から見たカンボジア 木村 文 |

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| △@ 判決を待つカン・ケック・イウ被告 (特別法廷提供) ![]() |
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| △A 77回の公判には、約28,000人が傍聴に訪れた (特別法廷提供) |
カンボジア特別法廷の最初の被告、カン・ケック・イウ元S21所長に対する判決が、7月26日に言い渡されることになった。昨年3月に本格審理が始まり、11月末まで77回の公判を重ねた結論がいよいよこの日、出される。
カン・ケック・イウ被告は、1999年にカンボジア当局に身柄を拘束され、2007年に特別法廷に逮捕された。特別法廷での400時間以上にわたる公判には、合計55人の証人が登場した。その一部は、この傍聴記でもお伝えした。S21 に拘束された被害者やその家族の今も癒えない悲痛な叫び、S21でそうした被害者たちを監視する立場にいた元ポル・ポト派の葛藤、傍聴席やテレビ放送で法廷を見守った人たち。法廷にかかわったすべての人たちの思いは、カンボジア現代史を形作る重要な糧となるだろう。同じ時代に生きるものとして、カンボジア現代史検証の場に立ち会えていることを、改めて幸運に思う。
ところで傍聴記を読まれている方から、「法廷の仕組みがよく分からないので知りたい」というお便りをいただいた。傍聴記では、証言内容はお伝えしてきたが、複雑な特別法廷の仕組みについては触れたことがなかった。1審判決という節目の前に、今回は、この仕組みについて説明したい。
だれが裁くのか
特別法廷は、カンボジアの国内法廷であり、国際法廷ではない。ただ、国内法に加えて国際法も適用し、判事や検察官ら司法官にはカンボジア人と外国人がおり、必ず共同で作業を行っている。つまり、国内法廷でありながら、国際法廷の標準を適用する、「ハイブリッド(混合)」法廷というわけだ。運営も、カンボジア政府と国連が「共催」する形をとっている。
ハイブリッドの中身を詳しくみる。まず判事は、1審で5人、2審(最高裁)で7人いるが、それぞれカンボジア人が過半数を占めている。1審はニル・ノン裁判長ら3人のカンボジア人に、ニュージーランド人とフランス人の判事が加わる。最高裁は、カンボジア人4人と、日本人の野口元郎さん、ポーランドとスリランカの3人の国際判事からなる。ただ、これで単に多数決にしてしまうと、カンボジア人判事だけの意見で結論が出てしまう可能性があるため、特別法廷では、「過半数プラス1」と呼ばれる方式をとっている。多数決で判断をするときは、最低でも国際判事のうちどちらかが同意しなければ成立しない、という方法だ。特別法廷では、捜査判事、検察官、弁護士などにも外国人が必ず加わっている。
ハイブリッド法廷は、これまでにない新しい形だ。カン・ケック・イウ被告の公判でも、裁判の進め方をめぐって審理が中断し、関係者が話し合う場面があった。「未成熟な法廷」とみなすこともできるが、一方で、この裁判には、国際裁判の経験豊かな国際司法官たちが多数参加しており、国際司法の第一線で活躍する彼らが、これまでの経験をもとに、新しいハイブリッド法廷のあり方をひとつずつ作り上げている、と考えることができる。だとすれば、カンボジア特別法廷は、あとに続く国際刑事裁判のひとつのモデルともなる重要な役割を担っているのだ。
だれを裁くのか
この法廷で裁かれるのは、1975年4月17日から79年1月6日のポル・ポト派政権下で起きた犯罪のみである。したがって、その前後に起きたことは、直接の起訴要件とはならない。適用されるのは、国内法では、殺人、拷問、宗教弾圧。国内法では、大虐殺、人道に対する犯罪、戦争犯罪、文化遺産の破壊、国際法保護下の人物に対する犯罪だ。たとえばカン・ケック・イウ被告の場合、殺人、拷問、人道に対する犯罪、戦争犯罪で起訴されている。
カン・ケック・イウ被告の「ケース1」場合、被告の権限が及んだとされるS21での犯罪が、主な起訴要件となった。だが、現在逮捕され、起訴が見込まれるそのほかの4 人(ヌオン・チア元人民代表議会議長、キュー・サムファン元幹部会議長、イエン・サリ元副首相、イエン・チリト元社会問題相)については、政権幹部であり、権限が全国に及んでいると考えられる。そのため、捜査対象も、全国各地のキリングフィールドや収容所などに広がっている。
現在逮捕されている政権幹部4人とカン・ケック・イウ被告を合わせた5人に対する審理は「ケース2」と呼ばれる。今年1月14日、捜査判事は、「ケース2」の捜査が終了したと宣言した。ただ、捜査が終わってもすぐに4人が起訴されるかどうかが決まるわけではない。捜査判事の捜査終了を受け、関係者から、追加で捜査をしてほしいとの依頼が出されることがある。追加捜査が必要と認められると、捜査判事はさらに捜査を続け、それが終わると、容疑者たちを起訴するかしないかを確定する。現在、ケース2は追加捜査依頼を受けている段階で、今年9月には4人を起訴するかどうかが決まるとみられている。
「ケース1」と「ケース2」のほかに、「ケース3」として、2009年9月、捜査判事に5人の容疑者に対する捜査依頼が提出された。この5人の容疑者については、名前は公表されていない。特別法廷によれば、現在、捜査判事は「ケース2」の捜査を優先させており、「ケース3」についてはまだ具体的な進展は見られないという。
被害者はどう参加しているのか
カンボジア特別法廷の最大の特徴のひとつが、被害者の裁判参加だ。拷問を受けた、拘束された、などポル・ポト政権下で被害を受けた人は、「民事当事者」として裁判に参加し、被害について自ら陳述したり、被告や証人に質問をしたり、補償を求めたりすることができる。ただし、「補償」といっても、金銭的な措置は求めることはできない。一人ひとりが金銭的な補償を求めていたのでは収拾がつかなくなる。そこで判決が示す被害者への補償は、たとえばモニュメントの建設など、「集団的かつ象徴的」なものになると考えられている。
では実際の公判で、被害者の参加はどのような意味を持ったのだろうか。「ケース1」で、民事当事者として裁判に参加した人は90人。このうち22人は、証人として証言席にすわり、自分たちが受けた被害について語った。「虐殺の記憶は年を経てますます鮮明になり、まるで一滴一滴たらされる毒のように私をむしばむのです」。これは、S21に拘束された画家で、民事当事者として証言をしたワン・ナットさんの言葉だ。被害者たちは、体や心に残る傷をさらし、もう一度傷口を開きながら証言をした。それは同時に、証言席に座れなかった多くの死者たちの声の代弁でもあった。
特別法廷に被害者参加の働きかけをしてきた日本のNGO「ヒューマンライツナウ」の山本晋平弁護士によれば、「被害者にとっては、自分たちの被害を語る場を与えられることが、補償の一つになり得る」と語った法廷関係者もいたという。また、彼らが法廷に「当事者」として参加し、被告や被告弁護人たちと常に向き合っていたことは、この法廷が何を裁こうとしているのか、を思い起こさせてくれた。
「ケース2」では、4000人以上の被害者が、民事当事者として裁判に参加したいと申請している。「ケース1」の民事当事者が、どのような補償を受けるのか、まだ判決が出ていない時点で、すでにこれだけの人々が裁判に深い関心を寄せ、申請した。そのこと自体が、被害者にとっての裁判の意義の大きさを物語っている。
だれが支えているのか
カンボジア特別法廷は、国連とカンボジア政府の共催であり、運営費も国連予算と国内予算からなっている。特別法廷によると、2005年から2009年の総支出額は、7,840万ドル。国際化された法廷の中では、いちばん予算規模は小さいという。これは、カンボジアで法廷が開かれていることが大きい。
また、特別法廷の運営費は、ほとんどが国際社会からの支援に頼っている。特に、最大の支援国は日本。特別法廷によれば、日本はこれまでに、国連予算と国内予算に3,930万ドルを拠出。経費の約半分を担っている状態だ。あまり知られていない事実だが、特別法廷は日本の支援なしには成り立っていなかったとさえ言える。
日本がそれだけ特別法廷に力を入れるのは、特別法廷をカンボジア和平の仕上げ、と考えているからだ。日本の外交史において、「カンボジア和平」は特別な意味を持つ。初めて日本がPKO活動に参加し、自衛隊、停戦監視要員、文民警察官など約1,300人が派遣された。1993年には、国連ボランティアの中田厚仁さんと、文民警察官の高田晴行さんが殺害されるという悲劇もあった。
日本とも関係が深い特別法廷は、間もなくひとつのクライマックスを迎える。昨年11月、カン・ケック・イウ被告に対し、検察側は禁固40年を求刑した。これに対し、被告本人は最終弁論で、カンボジア当局に逮捕されてからすでに10年以上も未決拘留の状態であることや、特別法廷の捜査や審理に積極的に協力したことなどを踏まえて、「私を釈放してほしい」と訴えた。判決は、被告の量刑がどうなるか、というだけでなく、判事団がポル・ポト政権下で起きた出来事をどのように事実認定するのか、被害者への補償はどのような形で決定されるのか、といった点も注目される。
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| △@ ヌオン・チア元人民代表議会議長 (特別法廷提供) ![]() |
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| △A キュー・サムファン元幹部会議長 (特別法廷提供) | |
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| △B イエン・サリ元副首相 (特別法廷提供) ![]() |
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| C イエン・チリト元社会問題相 (特別法廷提供) |
ポル・ポト政権下で、スパイや「裏切り者」とされた人々を拘束し、拷問・殺害した施設「S21」の元所長、カン・ケック・イウ被告(67)に対する公判は11月末に結審した。現在は、「年内」と言われる判決公判のときを待っている状態だ。
昨年3月末から続いたカン・ケック・イウ(通称ドゥイ)被告の裁判は、これから続く他の元幹部たちの公判の中でも、「もっとも分かりやすく、中身の濃い裁判」と評されるだろう、と言われる。「中身が濃い」というのは、それぞれの立場によって意味が違ってくるが、公判の内容を多くの人に伝える立場にいる私から見れば、この意見におおいにうなずくことができる。
特別法廷は、カンボジアの国内法廷として設置されながら、判事、弁護士、検事のいずれにもカンボジア人と外国人がおり、その運営にはさまざまな困難があった。公判が、手続き論でもめて停滞することが何度もあった。私たち報道陣に直接かかわる点でいえば、通訳の問題があった。法廷の公用語は、クメール語、英語、フランス語。フランス語は、英語から訳す二重訳で、わかりにくいこともあったという。いずれの言語の通訳者も、司法専門用語を瞬時に理解して訳す難しさだけでなく、法廷でのやりとりに慣れない証人たちの、あいまいな言い回しを理解して訳す難しさに直面していた。まったく逆の訳になってしまい、進行が止まったことも何度かあった。国際的な裁判が、いかに複雑なスキルを必要とするかということを、多くのカンボジア人が目の当たりにしたことだろう。
それでも「中身が濃い」と私が思うのは、公判時間の多くが、事実の解明に充てられたという印象があるからだ。結果として事実解明にはならなかったことも多々ある。たとえば個人の死の具体的な状況。S21で殺害されたとされる犠牲者の遺族が複数名証言台に立ち、自分の夫や父や兄がなぜ、どのように殺されたのかを被告に問い詰めたが、答えは得られなかった。だが、これまで「トゥールスレン虐殺博物館」、数々のドキュメンタリー、出版された本、報道などで伝えられてきたことを、法廷の場で一つ一つ取り出し、最も深いかかわりのあった当事者(ドゥイ被告)に問いただす、という作業は、間違いなくこれまでになかったことである。
もちろん「解明」といっても、新しい事実を明らかにしたというわけではない。だが、「ポル・ポト時代の残虐さを示す有名な話」として伝わってきた数々のエピソードが当事者の証言で裏付けられ、あるいは逆に、信ぴょう性が薄いとされ、ひとつひとつ公の記録に残されていく。これは将来、カンボジア人が自分たちの歴史を自分たちの視点で見つめなおすときの重要な出発点となるだろう。必ずしも、裁判イコール真実ではない。けれど、事実を認定するにあたって必要な方法や手続きを、カンボジアの人々に(そして私たち外国人にも)見せつけるプロセスとして、「ケース1」と呼ばれるドゥイ被告の公判は中身が濃いものだったと私は思う。
特別法廷には現在、ドゥイ被告のほかに4人の元幹部が身柄を拘束されている。ヌオン・チア元人民代表議会議長、キュー・サムファン元幹部会議長、イエン・サリ元副首相、イエン・チリト元社会問題相である。捜査判事は今年1月、この4人にドゥイ被告を加えた5人を裁く「ケース2」について、捜査を終えたことを発表した。
捜査を終えたという宣言があっても、すぐに公判が始まるわけではない。4人の元幹部はまだだれも起訴されていない。捜査結果を受け、さらなる追加捜査が行なわれ、最終的に裁判を行うのに十分な疑いがあると判断されれば起訴され、「被告」と呼ばれる。
今のところ、4人は虐殺への関与などの罪を認めていないとされる。ドゥイ被告は、最終弁論で混乱をしたものの、基本的には「S21」の犯罪性と、所長であった自分の職務責任を認め続けてきた。むしろそうすることで、自分がいかに「歯車のひとつにすぎなかったか」を強調した。だが、ドゥイ被告よりも上位にあったこの4人は、立場を異にする。ドゥイ被告の力が、S21という極めてせまい(けれども凶悪な)空間の中に限られていた一方で、政権幹部としてこの4人の力は全国に及んでいた。組織的に見ても「歯車のひとつ」という言い逃れは通用しない。本人の意図はともかく、公判に積極的に臨んだドゥイ被告とは違い、保身に走り事実の解明に協力しない可能性も大きい。
新聞記者をしていた2003年、私はタイ国境パイリンに住むヌオン・チア元人民代表議会議長に会いに行ったことがある。逮捕されるずっと前で、このころは、ヌオン・チア氏を含むポル・ポト派元幹部たちは、クメール・ルージュ勢力下にあった地域でシンパの住民に守られながら、豊かに暮らしていた。
パイリンのヌオン・チア氏の家は、庭の広い農家の一軒家で、高床式の家だった。ひっそりとはしていたが孤立している感じではなく、彼は妻や家族と落ち着いた暮らしをしていた。ときどき、タイ国境を越えてタイの病院に入院すると言っていたが、体調も顔色も悪くはなかった。ヌオン・チア氏は「目が悪いから」と、大きなサングラスをかけたまま現れ、2時間近い取材の間もそれをはずすことはなかった。
プノンペンでは、特別法廷設置への動きが高まっていたが、まだだれもが「本当に裁判ができるのか」と疑心暗鬼だった。ヌオン・チア氏は裁判についてこのとき、「国が決めたことだから反対はしない。起訴されれば逃げずに自分の考えを述べたい」と言った。しかし、全国でおこなわれた拷問や処刑、虐殺への関与については「私は主に教育を担当していた。道義的な責任は感じるが、直接関与はしていない」と、否定。100万人以上の国民が犠牲となったことについても「政府の意図したことではなく、何かが間違ったのだ。基本的な方針は今でも間違っていなかったと思う」と述べていた。基本的な方針とは何かと尋ねると、ヌオン・チア氏は、「浄化された社会をつくることだ」と力強く言った。
取材の終わり、彼が「お気に入りのおもちゃだ」と言って見せてくれたものがある。日本製の電動「起き上がりこぼし」だった。倒れたネコが、ジージーと音を立てながらしっぽを使ってまた起き上がる。「何度倒しても起き上がる。励みになる。倒れたままだったら何も変わらないじゃないか」。ヌオン・チア氏は当時76歳。彼に会う前、その年齢を聞いて、私は勝手に、衰え、燃えつきようとしている老人を想像していた。だがそこにいたのは、「倒れたままにはならない」「自分は間違ってはいなかった」と今も思い続けているかつての権力者だった。ポル・ポト政権が果たしたかったこととは、彼にとって人生をかけた思想だったのか。それは今もまだ消えない理想なのか。「起き上がりこぼし」に励まされる、と言った彼はちょっと微笑んだ。それが私には不敵な笑みに見えた。
後日、私はある人から「ヌオン・チアの愛読書」なるものを聞かされた。これも日本の作品で、菊池寛の「恩讐の彼方に」だという。江戸時代、人斬りの罪を犯した男が僧となり、たった一人で難所に洞門を掘り始める。初めは馬鹿にしていた近隣の人たちもやがて男を助けるようになった。ある日、男を「父の仇」として討とうとする武士が現れる。男は洞門が開通したら討たれよう、と約束する。敵討の時を待つ間、男を見張っていた武士は、黙々と掘り利続けるそのひたむきさに心を動かされる。そして最後は一緒にノミを握った。洞門が開通した時、2人は抱き合って喜んだ、という話だ。
現在、ヌオン・チア氏は身柄を拘束されている。特別法廷関係者によると、健康状態に問題はないという。裁判を待つ彼は、今も「起き上がりこぼし」と「恩讐の彼方に」に励まされているのだろうか。
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| △@ カン・ケック・イウ被告の結審の日の法廷 (特別法廷提供) ![]() |
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| △A 結審の法廷に立つカン・ケック・イウ被告 (特別法廷提供) | |
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| △B 被告人席。結審の日、傍聴席は満席だった (特別法廷提供) ![]() |
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| C 無罪を主張した被告のカンボジア人弁護士。背後は被告 (特別法廷提供) |
昨年11月25日、ポル・ポト政権の元幹部らを裁くカンボジア特別法廷で検察側は、S21収容所の元所長、カン・ケック・イウ(通称ドゥイ)被告(67)に、禁固40年を求刑した。特別法廷の最高刑は終身刑だが、同被告が1999年にカンボジア当局に逮捕されてから、すでに10年以上も未決拘留の状態が続いていること、法廷の捜査や審理に積極的に協力した点などを考慮したとみられる。とはいえ、67歳の被告にとって、禁固40年は終身刑と変わらないものだ。
ドゥイ被告は、記録に残るだけで1万2000人以上、研究によっては1万4000人とも1万7000人ともいわれる人々が拷問のうえ殺害されたS21収容所の責任者として、殺人、人道上の罪、戦争犯罪などに問われている。被告は、S21で行なわれていた拷問や殺害を「犯罪行為」と認め、所長であった自分にその責任はある、と認めてきた。一方で、施設内での具体的な拷問や殺害については自分は関与していない、部下の判断で行なったこと、などと発言してきた。
昨年11月27日。昨年3月に始まった公判の本格審理から数えて77回目、時間にして460時間近くを経た後、最後の公判が開かれた。2日前の求刑を受け、ドゥイ被告は最後の発言のために立ち上がって言った。
「私を、釈放してください」
S21の犯罪性は認める、しかし自分はこの法廷でその責任を問われる立場になく、法廷の運営にも事実解明にも十分に協力した……。被告は釈放を求める理由をそう説明した。いつものように、強い語調でたたみかけるように訴えた。被告の話を聞いた裁判官たちの間に、一瞬戸惑うような空気が漂った。「被告の主張は、つまり自分は無罪だと言いたいのですか」。裁判長が、確認をした。被告はその問いに直接答えることはせず、「私の弁護士が話します」と言った。そして被告のカンボジア人弁護士は、はっきりと言った。「釈放を求めるということは、被告は無罪を主張するという意味です」
法廷の記者室でモニターを見ていた記者たちから、ため息がもれた。「結局、それが言いたいのか」。情状酌量を求めると予測されていたとはいえ、ここまではっきりと「自分は許されるべきだ」と言われると、鼻白む。それが法廷における被告の権利ではあるが、涙まで流して悔悟の念を語った気持ちは何だったのか。そのとき、ドゥイ被告は、今までの公判で見たことがないような開き直った表情をしていた。何かに対して怒っているかのような顔だった。「ふてぶてしい」と感じたその表情に、私は、今まで彼は法廷でいくつもの仮面をかぶっていたのだろうか、と思った。
これまでの公判で、ドゥイ被告はさまざまな謝罪や反省の言葉を口にしてきた。77回の公判を振り返れば、時間の経過や、証人席にだれがいるかによって、その表現や表情は違っていた。
初めてドゥイ被告が法廷で発言をした昨年3月31 日の冒頭陳述で、被告はこう言った。
1975年から79年の間に全国各地で実行された犯罪は、人々の暮らしに大きな影響を与えた。
この間に奪われた命は、カンボジア共産党(CPK)に責任がある。私は、CPKの一員として、精神的
に責任を感じる。奪われたすべての命に対し、私の後悔と、心からの悲しみをささげたい。
私は、S21で起きた犯罪について、私の責任を認める。私はそこで起きた犯罪、特に拷問や処刑に
ついて責任がある。犠牲になった人々や愛する家族を失った人々に謝罪させて欲しい。私が、謝罪を
したいと思っていることを、どうか知って欲しい。今許されるとは思っていないが、謝罪をしたいと願っ
ていることを知って欲しい。耐え難い、重大な犯罪だと認識している。どうかお願いしたい。どうか、
窓を開いて、私の謝罪を受け入れて欲しい。
S21での犯罪は、女性や子どもを含む多くの人々の命を奪った。私は、オンカーからの命令でこれを
行なった。私はスケープゴートだった。命令に背けない臆病な人間であり、勇気のない人間だと批判さ
れてもそれを甘んじて受け入れる。当時、私はS21の収容者たちよりも、自分の家族が大事だった。上
の命令に逆らうことなどしようとはしなかった。上からの命令に従うかどうかは、は生きるか死ぬかの問
題だった。従うよりほかに選択肢がなかった。今、私は自分のしたことを、大変反省しているし、大変恥
ずかしいと思っている。
こうした反省から、私は特別法廷に協力することにした。それだけが、私やCPKによる犯罪を償うただ
ひとつの救済方法だからだ。あの悪名高い犯罪を裁くために、私は、自分のすべてを正直に特別法廷に
ささげ、法廷にこの身をゆだねる。
責任を認めながらも、同時に「ほかに選択肢がなかったこと」と、「最大の責任はカンボジア共産党にあり、自分はその部品のひとつに過ぎなかったこと」を強調する。このスタンスは、続く公判でも貫かれていた。言ってみれば、「逃げ場」を確保しながらの謝罪だった。
だが、私が被告の表現に小さな変化を感じたのは、本格審理開始から4ヵ月ほどたったころだった。そのころから、証人席には、かつての部下であるS21の元スタッフたちが座った。罪状も明らかにしないままの理不尽な逮捕や連行、収容所での非人道的な扱い、残虐な処刑など、彼らは自分の見聞きした様子を証言した。そういったことすべてが被告の「命令」で行なわれていたかどうかは、争いのある部分だった。しかし少なくともそれらの出来事がすべて、被告の権限下にあったS21で発生したことは事実だった。元スタッフに続いて、S21に収容された被害者や、無残に命を奪われた被害者の遺族が何人も登場し、愛する人たちを救えなかった苦しみを語った。被告を「絶対に許せない」と声をふるわせる人もいた。
こうした証言が終わる前に、裁判長は必ず被告の感想を求めた。証言内容に対する感情的な反論や、まるで傍観者であるかのような冷めた分析も多かったが、このころ被告が口にした謝罪には、「逃げ場」を作らないものもあった。何の留保もなしに、自分の罪を認め、謝罪を繰り返すことが何度かあった。
生々しい証言で再現された圧倒的な現実の前に、被告が拠り所としていた「留保」など、意味がないと思ったのではないか。言い訳などせず、生涯をかけて罪を背負うことを覚悟したのではないか。そのときのやりとりを見ていた私は、確かにそう感じた。楽観的すぎたのかもしれない。洞察力がなかったのかもしれない。だが、時に声を詰まらせて後悔の念を口にしたこの時期の被告の表情は、最終弁論で見たふてぶてしさとはまったく違い、素直で、潔くすら見えた。
それから数カ月後、昨年11月の結審の日、被告はこう語った。
最初に申し上げたいのは、私がこの法廷に協力をしてきたということだ。繰り返される多くの質問
にすべて答えてきた。何百ページにも及ぶ法廷の記録がそのことを証明するだろう。まるで何かを
求めているかのように思われるので、これ以上あれこれ言いたくはない。判事のみなさんにはすべ
てを事実に基づいて判断して欲しいと申し上げたい。私はあらゆる面でこの法廷に協力してきた。
特別法廷は1975年から79年に行なわれた犯罪を訴追することになっているが、私は75年以前や
79年以降のことについてもきちんと答えてきた。
もちろん、私の親類を含む100万人を超える人々が命を落としたことや、多くの人が亡くなる前に
大変な苦しみを味わったことを決して忘れるものではない。すべての犯罪はカンボジア共産党が引
き起こしたことだ。その党の一員として、私は国民に対し謝罪をしたい。
私は自分が犯罪的な政党の一員として責任があるというこれまでの立場を変えてはいない。S21
の犯罪性に異議を唱えるものでもない。だが、1999年5月8日に身柄を拘束されてから10年がたっ
ている。10年と6ヵ月と18日だ。その期間、私は十分に法廷に協力してきた。どうか私を釈放してほ
しい。
被告の表現は、冒頭陳述のトーンに戻った。いや、それよりも強く、「自分はすでに罪を償った」と言おうとしているかのように聞こえた。一方で私は、被告が決して自分の口からは「無罪だ」と言わなかったことに興味を持った。裁判長に、発言の真意を尋ねられた被告は、自分ではなく、カンボジア人弁護士に無罪の主張をさせたのだった。ドゥイ被告は、自分が無罪だとは思っていない。「許されるべきだ」と強く信じているが、無罪だとは言いたくはない。けれど法廷戦略としては「無罪」を主張しなければ釈放されない。私にはそんな風に見えた。
そうだとすれば、被告が繰り返してきた「私には責任がある」とは、どういう意味なのだろうか。被告の最後の発言を聞きながら、私は混乱した。彼の言う責任とは、謝罪し、事実解明に協力すれば相殺されるものなのだろうか。そう考え始めると、検察が、被害者が、私たち自身が、追及している「責任」とは何なのかという問いにたどりつく。私たちは、被告に、法廷に、いったい何を求めているのだろうか。
判決は今年前半にも出る見込みだ。
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△S21で処刑されたニュージーランド人、ケリー・ハミルさん![]() |
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| △父親をS21で失い、特別法廷で証言するプン・グッ・ソンタリさん | |
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| △S21で犠牲になったプン・トン教授と、その妻 | |
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| △プン・トン教授の妻と子供たち | |
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| △在りし日のプン・トン教授と友人たち | |
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| △S21で撮影されたとみられるプン・トン教授 | |
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| △S21で姉夫婦をなくし、証言するアントニア・チュロンさん | |
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| △S21で処刑されたランシー・チュロンさんが家族とともに過ごした最後の写真 | |
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| △S21で撮影されたランシー・チュロンさん | |
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| △S21で兄をなくしたロバート・ハミルさんが法廷で示したS21で絶命した男性。 足カセをされて、大量の血を流している |
ポル・ポト政権下の政治犯収容所S21のカン・ケック・イウ元所長(通称ドゥイ)を裁く特別法廷は、8月で67回の公判を終えた。予定では9月半ばまで公判が続き、その後一時休廷の後、11月23日から検察、被告弁護側らの最終弁論が始まる。審理はいよいよ大詰めを迎えている。
さて、70回近い公判を連日見ていると、人間の感情なんていい加減なものだな、とつくづく感じる。私自身のことである。
これまでの公判で、ドゥイ被告は一貫して「S21で発生したすべての犯罪の責任は私にある」と認めている。一方で、S21で起きた囚人の殺害事件など個別の事件については「知らない」ということが多く、また被告自身が直接囚人を拷問したり殺害したりしたことはない、と繰り返し主張している。だが、証人の証言が終わると、裁判長は必ずドゥイ被告に「所感」を求めるため、すべての当事者の中でドゥイ被告の発言の機会が最も多くなっている。
何度も繰り返されるドゥイ被告の「謝罪」。「カンボジア国民は私を非難することができる」「奪われた多くの権利に比べれば、私の権利などものの数ではない」「私を犯罪者と指さしてほしい。石を投げられても文句は言えない」。こうした言葉を毎日のように聞いていると、ドゥイ被告に同情的な気持ちにさえなってくる。彼もまた、ポル・ポト政権という歯車の被害者であったのではないか、とすら思えてくる。S21の地獄から生還した元囚人たちの証言を聞いたときに感じた、焼けつくような憤りをどこかに置き忘れそうになる。
8月半ば、S21で処刑されたとみられる被害者たちの家族が、それぞれの「奪われた時」を証言した。その内容は、S21の犯罪に対する私自身の中途半端な情感など打ち砕くような衝撃的なものだった。この法廷に立つことが許されなかった犠牲者たちの口惜しさを、改めて法廷のすべての当事者に刻みこんだ。S21の犯罪が、残された家族に何をもたらしたのか。「虐殺の記憶は年を経てますます鮮明になり、まるで一滴一滴たらされる毒のように私をむしばむ」。これはS21に拘束されていた生存者ワン・ナット氏の言葉であるが、犠牲者の遺族もまた、毒にむしばまれ続けていたのだ。
(写真@)
S21に拘束され、処刑されたニュージーランド人、ケリー・ハミル氏の弟であるロバート・ハミル氏。ハミル家は5人きょうだい。兄ケリーさんは、タイ湾をヨットで航海中にポル・ポト派兵に逮捕され、S21に収容された。ケリーさんの消息がわかったのは、音信が途絶えてから1年4カ月後の1979年だったという。ケリーさんの死は、ハミル家に崩壊をもたらした。1歳下で特に親しかった次兄のジョンさんは、ケリーさんの死を受け入れられず、きょうだいたちと口論をし、暴力をふるうようになった。最愛の長男の死に心が壊れた両親は、ジョンさんが11歳年下のロバートさんの顔をなぐっても、いさめようとさえしなかったという。そしてケリーさんの死が判明してから8カ月後、ジョンさんは家の近くのがけから飛び降りて自殺した。ロバートさんは、震える声でドゥイ被告に呼び掛けた。
ジョンの死とケリーの死を切り離して考えることはできない。ドゥイ、あなたがケリーを殺したとき、あなたはジョンをも殺したのだ。ドゥイ、私はあなたを「スマッシュ」したい。そう、あなたが使っていた言葉、スマッシュだ。
「スマッシュ」とは、ポル・ポト政権下で、敵とみなされた人物を殺害することを意味した。ロバートさんは法廷で被告に「殺してやりたい」と叫んだのだ。ロバートさんはさらに続けた。
私の家族のすべての苦しみは、たったひとりの男によって作り出された。拷問と人間性への侮辱のシステムを彼はつくりあげた。2万人近い人々の人生が奪われた。あなたが多くの人たちにしたのと同じように、あなたに足カセをつけて、同じ苦しみを味わわせたい。怒り、悲しみ、嘆き、すべてをドゥイに背負わせたい。苦しまなくてはならないのは、ほかのだれでもない、あなただ。あなたが殺した人々の家族ではなく、あなたが苦しまなくてはならないのだ。この日を境に、私はあなたに対して何の感情も持たないことにする。私にとってそれは、あなたを人間として認めないということだ。
ロバートさんの激しい言葉は、もしかしたら「あなた」ではなく「おまえ」と訳すに等しかったかもしれない。ロバートさんは懸命に感情を抑制していたが、時に語気が荒くなり、裁判長が「倫理的にわきまえた言葉づかいを」と注意したほどだった。だが、そこにいた多くの傍聴者が、裁判長のこの発言には同意しなかっただろう。たとえ被告の命を奪おうとも、兄は戻ってこない。「あなたを人間として認めない」。最大限の怒りと空しさと悲しみをその言葉で表現しようとしたロバートさんを非難できる人はいないと思った。
(写真A)
父親で大学教授だったプン・トンさんをS21で失ったプン・グッ・ソンタリさんの証言は、父親への愛情に満ちたもので、まるで一編の物語を聞くようだった。プン・トン教授は、プノンペン大学の学長をつとめ、国際法の専門家だった。政治的にも活発に活動していたが、1975年3月にジュネーブへ行った日以降、行方が分からなくなった。ポル・ポト政権下でカンボジアに戻り、S21で処刑されたようだ。写真や書類がS21に残されていたので間違いはないが、ドゥイ被告はプン・トン教授が拘束されたことを知らないとしている。
ソンタリさんは、父親についてこう話した。(写真B〜E)
父は学長としてとても多忙だったが、子煩悩で子供たちとよく話をした。話し方も行動も、すべてに愛情があふれていた。父は問題や憎しみが山積する社会の中で私たちを守ってくれる木陰のような存在だった。何気ない散歩中の出来事でさえ忘れられない。ある日曜、散歩中に父が、ライオンの彫像の口に手を入れて「大変だ、ライオンが私の手を飲み込んでしまった」と言った。私は「お父さんの手がなくなっちゃう」と泣きだした。それを見て父は、ほがらかに笑った。子供のころの思い出にはいつも父がいた。どんなに私が愛されていたか。あんなに愛してくれた父の尊厳を取り戻すのは、私の役目なのだ。
ソンタリさんが、父プン・トン教授の運命について知ったのは、ポル・ポト政権後のことだった。1974年のポル・ポト政権樹立時に、ソンタリさんと母親は、父の行方が分からないまま移住させられ、強制労働に従事した。1979年暮れ、苦難の旅路を経てようやくプノンペンに戻ってきたとき、手に入れたサトウヤシの実を包んでいた新聞紙を何気なく見ていてそこに父の写真を見つけた。S21で処刑された犠牲者の写真だった。信じられないまま、活字を読み漁った。このとき、初めてS21という収容所のことを知った。そして、母親と一緒に抜け殻となっていたS21を訪ねたという。
私たちはそこで父のいた痕跡をさがした。人間的なものは何一つなかった。囚人たちの独房も見た。排便に使っていた弾薬箱も、長い金属の足カセも、拷問の道具も見た。こんなに非人間的な場所を私は知らない。血の跡が部屋に残っていて、人々が死んでいくそのにおいがまだ漂っていた。私たちは家に帰ったがしゃべることはできなかった。想像を越えていた。私と母は、ひとつの布団で眠った。背中を向けて、お互いがお互いに気付かれないように泣いた。そのことが私の悲しみを増幅した。あまりに希望がなさすぎた。
ソンタリさんは、「今も、気持ちの良い午後、自宅のハンモックでくつろぐ父にココナッツジュースを届ける自分の姿をよく夢みる」と言う。ドゥイ被告に対して「被告は上層部に対してとても忠実な死刑執行人だった。だが、被告は法廷にうそをついてきた。父の運命はドゥイの手の中にあった。ドゥイは必ず父のことを知っていると思う。彼は罪を逃れようとしているだけだ。悲しんでいる、などと言ってほしくない」と語り、証言をしめくくった。
(写真F,G、H)
姉であるランシー・チュロンさんとその夫のリン・キマリーさんがS21で殺害されたアントニア・チュロンさんは、残された家族の苦しみをこう表現した。
なぜこんなに残酷なことができたのか、私たちは問い続けた。カンボジア人がカンボジア人を殺す。理由もなく殺す。彼らはそれを楽しんでいるかのようにさえ思えた。そしてその日からずっと、生き残った者たちは、なぜ愛する家族を助けられなかったのか、友達を助けられなかったのか、罪の意識、無力さに苦しんでいるのだ。
できることなら助けたかった。その思いは、けっして報われることのない終わりのない苦しみだ。チュロンさんは、「私は被告の謝罪を信じない。彼の悲しみを信じない。被告は私の言うことなど気にも留めないだろうが、それでも言いたい。被告は、私たちが被告を許すことなど期待しないでほしい。被告が悲しいというのならば、その悲しみは1万7000人の身体的、精神的な苦しみと同等のものでなくてはならない」と語った。そして最後に、被告をしっかりと見据えてもう一度繰り返した。「私は被告をけっして許さない」
ニュージーランドから来て証言をしたロバート・ハミルさんは、証言の最後に、S21で絶命した男性の写真を掲げて言った。「この写真は、兄のケリーではないかもしれない。でも、私にはこれがS21でのケリーに見えるのだ。足カセをされながらも、彼は生きようと必死にもがいていた。床に流れた血のあとが、それを語っている」(写真I)
犠牲者たちの苦しみを代弁しようにも、こうした遺族たちの多くが、S21にとらえられた家族がどのように拷問を受け、どのように殺されていったのかを知らない。さまざまな研究や調査で断片的に明らかになる処刑や拷問の状況をかきあつめ、「きっとこうだったに違いない」と想像することしかできない。永遠に、そこまでしかできない。答えのない問いを抱いたまま生きなければならない遺族の苦しみは、この法廷でさえ癒すことはできないのだろう。改めて、S21の罪の重さを思った。
| △特別法廷で証言をするモン・ナイ証人。 足かけ3日にわたって質問を受けた (記者室のモニター画面を撮影) |
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| △かつての部下、モン・ナイ証人に「真実を話せ」と迫るドゥイ被告 (記者室のモニター画面を撮影) | |
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| △証言をするヒム・ホイ証人。「次に殺されるのは自分の番だ」 という恐怖感にさいなまれていた、と繰り返した (特別法廷提供) |
ポル・ポト法廷が、日本であまり高い関心を持たれていない理由のひとつは、多くの人々が「ポル・ポト時代という、極めて特殊で異常な出来事を裁いている」と考えているから、ではないだろうか。「法に統治された秩序あるわが社会」では、もうめったなことでは起こり得ない出来事と思われているのではないか。
私もそうだった。理由なき逮捕、拷問、虐殺、子供の処刑、強制労働。今行なわれている政治犯収容所「S21」の元所長、カン・ケック・イウ(通称ドゥイ)被告(66)の公判では、こうした非人道的な出来事が語られている。それを聞きながら、この話を今の日本社会の中に投げ入れたところで、どんな問題意識を共有できるのだろうかと不安だった。あまりにも今の暮らしとかけ離れている気がした。
だが、S21で守衛や尋問官として働いていた「元スタッフ」たちが証人として法廷に登場するようになってから、私はこの法廷で裁かれるのが「過去の異常な出来事」だけではない、と思うようになった。点と点をつなぐ線のようなものが浮かんでくる。人間が、他人の苦しみに目も耳も心も閉じたとき、おそろしく閉鎖的なシステムが生まれる。無関心、無関与、ただ自分の足元を見つめることだけが生き延びる道。私たちは今、似たようなシステムの入口に立っていないか。あと一歩で闇の中に陥ってしまう場所にいるのではないか。元スタッフたちの証言は、そんな問いを私に投げかける。
7月13日、第43回公判。背中を丸めた1人の老人が証人として登場した。緑色のクロマー(カンボジアの伝統的なスカーフ)を首に巻き、指先のあいた手袋をしている。薄い白髪と、くぼんだ目。どこにでもいる弱々しい老人に見えた。
老人は、モン・ナイ証人(76)。S21で、「政治犯」として収容された人々の尋問を担当していた。モン・ナイ氏は、これまでドゥイ被告の供述の中で、S21の尋問担当官の1人として、何度も名前が挙がった人物だ。
S21で尋問や看守をしていたスタッフが証人として登場したのは初めてだった。モン・ナイ氏を皮切りに、法廷には元スタッフたちが相次いで証人として登場した。収容された人々が生き残った「被害者」だとすれば、元スタッフたちは(本人が直接携わっていたかどうかは別として)危害を与えた側に立つ。もちろん彼らはこの特別法廷で逮捕も起訴もされていない。あくまでも「証人」だ。証言にあたっても、裁判長からは「特別法廷が裁くのはクメールルージュ政権の指導的立場にあった者であり、証人はそれにはあたらない」との言葉があった。今後、国内法廷での訴追を完全に免れるわけではないが、希望すれば弁護人も同席させることができる。
モン・ナイ氏は、教員養成校をクラスの首席で卒業し、フランス語を流暢に話し、ベトナム語、英語も解する。1973年、教師の賃上げ要求運動に参加したのをきっかけに革命運動に身を投じ、教師時代からの知り合いだったドゥイ被告と行動を共にする。被告がS21に副所長として赴任する前に所長をつとめたM13と呼ばれる収容施設でも働いていた。
S21の中でもおそらく最も高い水準の教育を受け、ドゥイ被告とともにS21に移籍したモン・ナイ氏。組織の中で重要な役割を与えられていたと容易に推測できる。実際、モン・ナイ氏が尋問班の中心人物の1人だったとの証拠も示された。だがモン・ナイ氏は当時の自分の役割について「重要ではない囚人を尋問する担当だった」と強調した。尋問のときに自分は拷問は使っていないと繰り返し、S21の状況、他のスタッフの行動については「知らない」と言い続けた。
――尋問で拷問を使っている尋問官はいたか
「私はほかの人のことは知らない。尋問の場所は他の建物から離れていて、私はそこに送り込まれてくる囚人を尋問するだけで、そこから動く自由はなかった。尋問官同士で連絡もとりあうことはなかった」
――尋問が終わると囚人たちはどうなったか
「よく知らない」
――S21にはいくつのユニット(班)があったか
「私は重要なポジションにいなかったので知らない」
――S21の建物について説明してほしい
「私はよく知らない」
――S21には全部で何人ぐらいが働いていたか
「私はそのことを知る地位にはなかった」
淡々と、視線を上げずに同じ答えを続けるモン・ナイ氏。当時、S21の調理場で働いていた妻とさえ、互いの仕事の話はしなかったという答えに、質問に立った被害者の弁護人が、いらだちを隠さずに聞いた。「何も知ろうとせず、聞こうとせず、なぜそんなに知らないことが重要だったのか」。同じ姿勢のまま、モン・ナイ氏が答えた。「私が何も知ろうとしないことは、共産党の方針にかなっていた。私たちは、他人のことを気にしてはいけなかった」
「他人のことを気にしてはいけなかった」。この言葉は、別のS21の元スタッフの証言でも登場した。S21で守衛を務めていたヒム・ホイ証人。本人は否定するが、被害者として公判に参加しているブ・ミンさんへの拷問に加わったとも名指しされている。ヒム・ホイ氏は、当時の感情を「殺されるのが恐ろしかった」と繰り返した。S21のスタッフは、厳しい規則で縛られ、すべては「イデオロギー」という名の党上層部の意思によって動き、「他の部門が何をしているのかを知ることができず、ただ馬のように扱われた」。規則とイデオロギーを破った者の運命は「殺されるのを待つだけだった」。
S21の囚人たちは、チュンエック(「キリングフィールド」)と呼ばれる処刑場に連行された。遺体を埋める穴のふちに座らされ、1人ずつ頭をなぐられ、のどを切られ、服を脱がされ、目隠しをとられて穴の中に放り込まれた。ヒム・ホイ氏は、守衛として囚人たちをチュンエックへ連行していた。ポル・ポト政権末期、S21に残された囚人たちを100人単位で処刑する指示が出された。その時の様子をヒム・ホイ氏はこう証言している。
「1日で100人ぐらいが処刑された。処刑は午後9時ごろから始まって、夜中の2時すぎまでかかった。私たちは夜明け前までに処刑を終えるように言われ、とにかく急がされた。まわりで何が起きているのかを見ている余裕はなかった。そこにドゥイ被告が来ていたのだが、何をしていたのか気にすることもできなかった」
ヒム・ホイ氏は処刑担当ではなかったが、この光景を守衛として目撃していたという。まるで機械のように人間を殺していく。考えることも、ためらうことも許されず。犠牲者も含め百数十人の人間がいたというのに、そこに人間らしい感情が生まれる余地はなかった。政権末期、チュンエックの集団処刑は、「他人のことを気にしてはいけない」システムが、行き着くところまで行き着いたことを示していた。
モン・ナイ氏が証言を終えた後、裁判長はドゥイ被告にこれまでの証言を聞いて感想を求めた。この裁判では、証言の最後にドゥイ被告が所感を述べる機会を設けている。ドゥイ被告は、いつものように大きく息を吸い込んでから一気に話し始めた。本来、裁判長に対して感想を述べるのだが、興奮して途中からモン・ナイ氏に直接呼びかける形になってしまっていた。その弁は10分以上におよんだ。
「証言を聞いて、当時の記憶がどんどんよみがえってきた。(責任を認めない)証人の証言はよろしくない。どうか、ただ真実を伝えてほしい。私のように、歴史の前に責任を認めてほしい。あなたはゾウを手さげカゴで隠そうとしているのだ。そんなことできるわけがない。100万人以上が死んだのだ。それはカンボジア共産党の手で死んだのだが、その党にはだれがいた? 私もあなたもその一部だったではないか。今はパズルの一片一片をつなぎあわせて事実を語る絶好の機会ではないか。世界が、カンボジア中の人々が本当のことを聞きたいと待ち望んでいるのだ。共産主義に、真実を伝えたいという私たちの心を邪魔させてはならない。当時私たちは共産党に守られていたが、この法廷ではそうはいかない」
この時に限って言えば、ドゥイ被告の言葉はまったく正論だった。記者室で聞いていたカンボジア人記者からは小さな拍手が起きたほどだった。もちろん、ドゥイ被告自身の証言が「歴史の前にすべての責任を負う」ものだったのかは判決を待たなくてはならないが。
この言葉を受けて裁判長はモン・ナイ氏に異例の再質問をした。「証人は、今私たちに話したこと以上のことを知っているように見えます。ドゥイ被告の話を聞いて、付け加えることはありますか」
モン・ナイ氏が、ふと顔を上げた。法廷の明かりを反射して、くぼんだ彼の目が一瞬光った。そして声をふるわせて「とても残念です」と言った。犠牲となった知人家族のことを考えると悲しい。あの時代に死んだ妻子のことを考えると悲しい。「けれど、あまりにも混沌としていた。あの時代、私たちはどうすることもできなかった。そしてたくさんの人が死んでいった」。それまでとはまったく違う、別人のような声。細く震えていたけれど、感情のこもった声。初めて、聞いている私たちの心に、素直に届く声が聞こえた。
だが、「もっと付け加えることができますか」という裁判長の問いに、モン・ナイ氏は「いいえ、これが精一杯です」とだけ答え、証言は終了した。
モン・ナイ氏が立ち去る前に、裁判長は証言に対してお礼を言った。これは、どの証人にも言っていることで珍しくはない。だが、いつも同じ言葉を判で押したように言う裁判長がこの日は少し違っていた。「人間の記憶というものには限界があります。たった数時間前のことでも忘れるものです。ましてや70代のあなたの記憶は薄れていても仕方ないでしょう。法廷に来てくれて感謝しています」
モン・ナイ氏の証言は、多くの事実を裏付けられなかったという点で、明らかに内容の薄いものだった。それなのに温かい言葉で証言をしめくくった裁判長の真意はわからない。ただ、証言の最後、モン・ナイ氏が閉じていた心を少しだけ開いたのは確かだ。人間らしい感情をにじませた。30年間、1人きりで抱えてきた心の闇に、この法廷が小さな明かりをともしたのだろうか。裁判長は、それもまた法廷の意義と考えたのかもしれない。

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| △特別法廷で証言する画家のワン・ナットさん =カンボジア特別法廷提供 ![]() |
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| △拷問で爪をはがれたことを説明するため 裸足になったチュン・メイさん =カンボジア特別法廷提供 | |
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| △「妻がどこで処刑されたか教えてほしい」と 被告に尋ねたブ・ミンさん |
6月29日、公判が34回を数え、いよいよツールスレン政治犯収容所(S21)に収容されていた被害者が証言台に立つことになった。カン・ケック・イウ被告の指令下で、実際に逮捕され、拷問を受け、身動きすら許されない拘束を受けていた人々が、連日、法廷で証言をした。いずれもまだ生々しい記憶である。
私は、この公判を日本の、そして世界の人々に直接見てほしいと心から思った。S21の被害者が出廷したことは、日本でもニュースで伝えられたようだが、要点を伝えるだけの報道では届かない、被害者たちの1つ1つの言葉の重みをもっと多くの人に知って欲しかった。震える声を、あふれる涙を、かみしめた唇を、握りしめたこぶしを、五感のすべてで見て聞いて感じて欲しかった。初めて、この法廷が東京で開かれればよかったのに、と思った。
1975年から79年までに、おそらく1万4000人以上が逮捕・連行され、拷問の果てに処刑されたというS21。ポル・ポト政権末期、ベトナム軍が首都に迫ってくると、数百人単位の大量処刑が行われるようになったという。所長であったカン・ケック・イウ被告は「大量処刑」についてこう証言している。
「(政権崩壊直前の)1979年1月初めには、上司であったヌオン・チアから『収容者はすべて処刑せよ』との指令が出た。この処刑は明らかにそれまでと違う目的だった。上層部は、ベトナム軍に自分たちが負けるかもしれないと考え、収容所に囚人を残しておいてはいけないと考えるようになった。私は当時、これは、新しい囚人が大量に入るため、スペースが必要なのだろうと思っていた。それまでも、収容所があふれかえるのを防ぐために囚人を処刑していたからだ。だが、私の推測は間違っていた。ベトナム軍が首都に迫っていることを私は知らなかった」
とても人間が考えつくとは思えないような理由による殺戮だ。結果として、政権崩壊時のS21に最後に残った囚人は何人だったのか。現在の虐殺博物館によると、カン・ケック・イウ被告らが逃走した後、S21に踏み込んだベトナム兵らが発見したのは14人の遺体だった。だが、被告は「4人の囚人を尋問のために生かしておいた。あとはすべて処刑のためにキリングフィールドに送った」と述べている。
今回、生存する被害者として証言に立ったのは、こうした殺戮を奇跡的にまぬがれた人々だ。彼らは、画家などの芸術家あるいはメカニックだった。特に芸術家は、ポル・ポト元首相の肖像画や彫像を制作するための作業を命じられ、命をながらえた。首都に巨大なポル・ポトの肖像を掲げる。権力者のそんな顕示欲ゆえに、皮肉にも彼らは地獄から生還した。
とはいえ、彼らが囚人としての扱いをまぬがれたわけではない。罪名も知らされぬまま連行され、40〜50人の大部屋で足カセでつながれて収容され、拷問を受けた人もいる。証人たちは、その経験を1人およそ6時間にわたって質問された。証人の右手前方には険しい表情のカン・ケック・イウ被告。そのうえに見慣れぬ法衣の法律家たちの質問は、この場に慣れない証人にどれほどの緊張を強いただろう。
それに、証言は傷跡をえぐって見せるつらい作業だ。話が「最もつらかった瞬間」に至ると、どの証人も涙を流し、声を詰まらせた。長い証言のほんの一部だが、その「瞬間」を書き連ねるだけでも、S21の罪の深さが浮き彫りになるだろう。
画家のワン・ナットさん(63)が声を詰まらせたのは、連行される前に帰宅したときのことを語った瞬間だった。
「1977年12月30日、私は田んぼで働いていた。夕方5時ごろ、私はプルサットへ行くように命令された。すぐに荷物をまとめろ、と言われ、牛車にのせられた。あたりが暗くなり始めていた。私は家に戻り、妻にプルサットに行くようにと言われたと告げた。外では牛車が待っていた」
それから1年あまりの間、ワン・ナットさんはS21で生と死を見つめ続ける。夜中までポル・ポトの肖像を描き続け、そのあとは足カセをつけられ眠った。骨と皮だけになった囚人が、動物のように両手両足を木材に結びつけられてトラックに積み込まれるのを目撃した。だが、目にしたどんな恐怖よりも、ワン・ナットさんの心をえぐったのは、運命が一転した逮捕の日、妻との別れだったのだろう。
メカニックだったチュン・メイさん(79)は、足の指の爪をはがされるなど12日間にわたり拷問を受けた後に、機械修理の作業を命じられ生き延びた。チュン・メイさんは、拷問を受けている間に独房に拘束されていた。その時の気持ちをこう語りながら、涙を流した。
「独房に入ったとき、生き延びることはできないと思った。独房で、私は横になるだけだった。床で寝るなんて、人生で初めての経験だった。ホースで水をかけられるも、初めてだった」
「ホースで水をかける」とは、囚人たちを足カセでつないだまま水浴びさせるためのS21での手法だった。40〜50人を収容した大部屋でも、独房でも、看守がホースで囚人たちに水をかけるという屈辱的なものだった。人間扱いされなかった悔しさを、人間の尊厳を奪ったS21の恐ろしさを、チュン・メイさんは忘れられない。チュン・メイさんは、特別法廷の傍聴に通い、裁判の行方を見守っている。だが、「いくらがんばっても、ツールスレンと聞くと涙があふれてきてしまう」と証言した。
画家のブ・ミンさん(68)も、ポル・ポトの肖像を描くように命じられる前に、ひどい拷問を受けた。その様子を語りながら、ブ・ミンさんは泣いた。
「逮捕から5か月ほどして、私は拷問を受けるようになった。彼らはわたしを別の棟にある尋問の部屋に連れていき、床にうつぶせになるように言った。棒で床をばしばしとたたいて、『どの棒を使って欲しいか』と聞いた。『どの棒だって私がたたかれることには変わりない。好きなものを使ってくれ』と、私は答えた。そこにいた者たちが、かわりばんこに私をたたいた。彼らは、いくつたたかれたか数えろと言った。私は10数えた。すると『なんで1回しかたたいていないのに、10などというのだ』と言われた。無数の傷ができて、床に血が流れた」
ブ・ミンさんは、「私はこのようなことをされる覚えが全くない」と何度も繰り返した。いわれなき罪に問われる屈辱。ブ・ミンさんは「私たちに正義をもたらしてほしい。100%の正義でなくてもいい。50%でも、60%でも、私が潔白だったことが証明されるならば」と切実な思いを語った。正義ということが、人間にとってどれだけ大切なことなのか、教えられる。
そして、子供のころに、母親とともに連行され、S21に拘束されていたというノン・チャンパルさん(39)。幼い彼にとって、最もつらかったのは、目の前で動物のように扱われる大好きな母の姿だった。
「それから私たちは(S21の)建物の中に入った。白い壁の部屋に入ると、カメラが置いてあり、母が写真に撮られた。母は写真に撮られるのが慣れておらず、彼らは何度も母をこづいて写真を撮った。とてもこわかった。村では父も母もみなに尊敬されていた。なのに、その部屋では彼らは母のほおを打ち、母は床に転がった。その髪をひっぱって立ち上がらせ、まっすぐに立てとどなった。そんなことを見たこともなかった私はただ恐ろしかった」
農家だったライ・チャンさん(55)は、約3ヵ月にわたり、S21と思われる施設で拘束され、拷問を受けた経験を語った。被告側は「S21ではない別の施設ではないか」との疑問を呈したが、ライ・チャンさんの受けた苦痛を否定するものではない、とした。彼の受けた苦痛が、被告の責任であるかどうかは判決まで待たなくてはならないが、どこで受けたものであろうと拷問の事実は消えない。いったん逮捕されれば、目隠しをされ、自分がどこに連れていかれたのか、その場所がどこかを問うことすら許されなかったというあの時代の事実をかえって浮き彫りにした。
ライ・チャンさんはほとんどの時間、目隠しされていたため、その記憶はけっして多くない。だが淡々と覚えている限りのことを根気強く繰り返し証言した。「拘束中は身動きさえ許されず、のどがかわいても、水が欲しいといういうことさえできなかった」という発言に対し、弁護士が「どうやってその渇きをいやしたのですか」と尋ねたときのことだ。ライ・チャンさんは、しばらく沈黙した後、「のどが渇いたときは…」と言ってそのまま顔を両手で覆ってしまった。そして押し殺したような声で泣いた。何度も顔をあげようとしては両手で顔を覆い、ようやく次の言葉を発した。
「のどが渇いたとき、私は自分の尿を飲みました」
質問した弁護士も、判事たちも、聞いていた私たちも、ライ・チャンさんの嗚咽の意味をこのとき知った。弁護士は「私の質問があなたを苦しめてしまった。申し訳ない」と謝った。内容もさることながら、そのことを自らの口で語らなくてはならない、そんな重荷をなぜこの一市民が背負わなくてはならないのか。
声を震わせる証人たちを、カンボジア人の裁判長が静かに励ます。
「気持ちをしっかりもって、話をつづけてください。あなたが、あなたの家族が、拷問でどのような苦しみを味わってきたのか、今こそ語るときなのです。このときを待ち続けたと、あなたは言った。心を強くして、語ってください。われわれに、傍聴しているすべての人々に、カンボジアの人々に、国際社会に。クメールルージュが何をしたのか、しっかり教えてください。悲しみに流されることなく、語ってください」
心をこめた口調は、聞いている私たちをも励ますようだった。この事実から、どうか目をそむけないでほしい、最後まで聞いて欲しい、と。
この公判の目的は、カン・ケック・イウ被告の罪の重さを決めることである。でも重要なのは結論ではないのかもしれない。公判の様子は毎日、カンボジアのテレビで生放送されている。こうして公判の過程で、ひとりひとりが「なぜポル・ポト時代を裁く必要があるのか」を考えさせられる。裁くことで何を求めているのか、を自分自身に問いかける。
長い長い裁判は、その過程こそが答えであるようにも思えてくる。
| △プレスセンターのモニターに映しだされるS21政治犯収容所の元所長、
カン・ケック・イウ被告。プノンペン郊外。 |
| △カンボジア特別法廷のプレスルーム。 モニターに映る法廷を見ながら同時通訳を聞くことができる。 プノンぺン郊外で。 |