●●●今月のメコン川●●●

2004年12月更新
中村梧郎 『母は枯葉剤を浴びた』(新潮文庫、1983年)

 カマウの森の北側には、これも解放戦線の拠点として名を轟かしたウーミンの大ジャングルがある。ふたつの森は、連携し合いながら、解放軍の神出鬼没の作戦を支えてきた。
 カマウに対しては徹底的した枯葉剤散布。ウーミンに対しては砲爆撃とナパーム、さらに枯葉剤やガス弾を用いる殲滅作戦を、米軍は展開した。
 このふたつの森をまたにかけて縦横に活躍してきた女丈夫がいる。ファン・トゥ・フエ。ミンハイ省バクリュウの町で、私たちにカマウ取材の許可をくれた省人民委員会副主席がその人である。彼女自身、枯葉剤に被曝し、流産した母親のひとりであった。今年51歳。ふっくらとした体になで肩。束ねた髪の生えぎわには広い額があった。
「71年の10月頃でしょうか。カイタウ川に沿って撒かれました。私はカマウ岬にあった解放戦線の地区本部から単身、ウーミンに近いトゥイビン郡の拠点へ戻るところでした。当時、本部での会議に召集されても、行きつくだけで1カ月もかかり、命がけでした。10人が行けば7人ぐらいに減るというありさまです。カイタウ川のあたりに来ると、米・サイゴン軍の砲撃でとても渡れない、と判りました。その翌日、敵機による散布がはじまりました。桑園は100平米ほども残っていましたが、そのまわりはもう度重なる散布で丸はだかでした。私は頭からポリ袋をかぶって走りました。秘密の地下壕にたどりついてころがりこみましたが激しい吐き気がつづきます。ちょうど妊娠して3カ月めの体でした。木炭を砕いて布に包んだ、手製の防毒マスクも持っていましたが、大して効きません。自分の尿をタオルにひたして体じゅうをふきました。つぶしたにんにくと重曹をまぜてドロドロにしたものを顔や首にも塗ります。そのときは毒消しといわれるすべてをやりました。・・・・・・

 1週間後には、とうとうお腹の子が流れてしまいました。14年ぶりに再会した夫との間の子だったのです。夫は1954年のジュネーブ協定で北ベトナムへの集結を余儀なくされた旧ベトミンのひとりでした。68年に彼はホーチミン・ルートをたどって、メコン・デルタまで戻ってきたのでした。以前に生まれた子供たちはもう青年に達していましたが、夫との再会で、また新しい赤ちゃんを宿したことの喜びはひとしおでした。でも流れてしまったのです。夫はカンボジア国境に近い地区で活動をつづけていました」


 日本人は忘れっぽいから、ベトナム戦争でアメリカ軍が行なった「枯葉剤作戦」のことなど、覚えている人はもう少ないかもしれません。若い人はアメリカがベトナムで戦争したことも知らないというから、無理もないけど。
 詳しいことは省略。北ベトナム・南ベトナム解放戦線のゲリラ戦に手を焼いたアメリカ軍は、彼らがひそむジャングルを丸裸にすれば戦いやすくなるという乱暴な作戦を立て、本当にそれを実行したのです。10年間、ものすごい量の枯葉剤がベトナム南部の特にカンボジア国境、ラオス国境の森林、メコン・デルタのマングローブ林にばらまかれました。
 枯葉剤には猛毒のダイオキシンが含まれています。木々は死に絶えて、森は砂漠となり、被曝した人たちは重い後遺症に悩まされ、子供たちに奇形が多発しました。ベトナム人だけではなく、枯葉剤を散布したアメリカ兵やその子供たちにもその影響が出ました。この本はその実態のルポです。
 信じ難いことですが、アメリカ政府は枯葉剤に含まれるダイオキシンの毒性を知らないで使ったのではなく、奇形や癌を起こすことを知っていて使ったのです。彼らはベトナム人を同じ人間として見ていなかったのです。
 それから30年。今またイラクで、アメリカは同じことをやっています。彼らはアラブ人を同じ人間として見ていない。なんという愚かな、懲りないアメリカ。そして、そのアメリカに日本は尻尾を振ってついていこうとしています。恥ずかしい。
 でも、えらそうなことは言えません。ベトナム戦争の時、多くのアメリカ兵が日本の基地から出発していったのだということを私たちは忘れがちです。日本はベトナム戦争でもアメリカに協力したのです。イラクの人たちが「アメリカは日本に原爆を落として何十万もの日本人が殺されたのに、日本人はそれを忘れてアメリカに味方する。理解できない」と言っていました。私たちはどうしてこう忘れっぽいのでしょう。
 著者の中村梧郎さんは、テレビの「徹子の部屋」に招かれました。黒柳徹子さんは本書の冒頭に「神様、この子たちをお守りください」と題して、こう書いています。

 この本の中の写真の子供たちを、初めて見たとき、私は、ふるえが止まりませんでした。
「ひどすぎる」
「こんなに可愛い子が……」
   ・・・
 私は、「神を恐れぬ仕業」という言葉を、どういう時に使うのだろう、と小さい時から思っていましたが、この写真の子供たちの姿を見たとき、こういうときに使うのだ、と、わかりました。

 黒柳さんも忘れないでほしいものです。私たちも。
 同じテーマで次の本もおすすめです。
 中村梧郎『グラフィック・レポート 戦場の枯葉剤――ベトナム・アメリカ・韓国』岩波書店、1995年


カムマーン・コンカイ/富田竹二郎訳『田舎の教師』(井村文化事業社刊、1980年)

 前に村を通過してジャングルへ入って行ったことのある材木牽引車の一台が、学校の前の砂地にめり込んで止っていた。恐らく巨大な丸太の重量に、車はそれ以上引きずり上げる力がなかったのであろう。ピヤはその材木を仔細に観察していたが、ドワンダーオの方は材木のあまりの巨大さに、ただあっけに取られていた。
 「まあ! こんなでっかい木もあるもんだわね。見ただけで恐ろしくなってしまうわ。」
 「国境沿いの森林には、こんなでっかい樹がたくさんあるんだと思うよ。いまぼくが考えているのは、これが合法的な材木であるかどうかということなんだ。」とピヤは小さい声で言ってから、歩いて行って材木の前後の部分を仔細に検分してみたが、押印済を表わす何の記号も発見できなかった。そして青年教師はその疑問を胸中に秘めておいた。
 「夏休みに入ったらエーオさんはウボンに帰るの?」ピヤは話題を変えた。
 「もう四五日したら帰るわ。ピヤさんはどこかへ行くの? 何も用事がなければ、一緒にウボンへ遊びに行ってもいいことよ。」
 「チャーン・ケーンがジャングルでヤーン樹から油を採るのを、連れて行って見せてやろうと誘ってくれたんでね。ぼくは行くと言ったんだよ。多分明日の朝早くから行くことになるんだろうけど、きっとエーオさんと一緒にウボンへ行けると思うよ。」
 娘は喜びを微笑に隠して言った。「もしピヤさんがウボンに何日もいる暇があるようなら、わたし南寺浜(ハート・ワットタイ)かムーン河下りか、サプーの早瀬(ケーン)まで案内してもいいわ。どこでもいいわ、ピヤさんの好きなところへ。きっと面白いわよ。」


 1980年代のはじめ、タイやフィリピン、インドネシアの小説がドドッと翻訳されました。その中でもっと面白かったものの一冊です。舞台は東北タイのどんづまり、ラオス国境に近いウボンラーチャターニーのそのまた田舎の学校です。ピヤというのはバンコクの師範学校を出てここに赴任した主人公、ドワンダーオ(エーオ)はその恋人です。
 ウボン市の南という設定ですから、メコン川は出てきませんが、メコン最大の支流ムーン川が主人公のひとりと言ってもいいほど。自身がウボン県出身である著者が一番書きたかったのも、東北タイの自然と生活そのものだったのです。ですから、学校の場所は架空ですが、ここにも出てくる地名や食べ物、動植物、遊びなどはすべて実際にあるものばかりです。この本が中央タイ人にとっても「東北タイ」入門という意味があったということがよくわかります。なにしろ、この本が書かれた当時は、バンコクの人にとってウボンはとんでもない僻地でした。しかし、今では日本人の観光客もけっこう来るようになり、秋篠宮もウボンが大好きだとか。このあたりをひとまわりしたあとで読めば、そうそうこれもあった、あれはこんなことだったのか、と嬉しくなるかもしれません。
 しかし、この本のタイトル「クルー・バーンノーク」が有名になったのは、実は映画化されて予想外の大ヒットとなったからです。というか、最初にこの本のもとになった小説の映画化の話があって、それから著者は力を入れて書き改めてこの本を刊行、同時に映画も完成、そして大ヒットというなりゆきだったようです。映画化のためかどうか、東北タイ紹介というテーマとは別に、不法に森林を伐採する悪徳ボスとの対決というアクション映画的要素もこの本の売りのひとつと言えます。
 そういえば、ブルース・リーの「ドラゴン危機一髪」もタイが舞台で、あれは製氷業者の悪徳ボスと対決する話でした。70年代はこういう構図がひとつの定番だったのです。ただし、ブルース・リーを期待してこの本を読むとがっくりするでしょう。「田舎の教師」は東北タイの魅力を描いた本なのです。
 なお、この本の訳者は冨田竹二郎先生。小社の「タイ日大辞典」の著者です。当然のように、本書の「訳注」はそれだけで1冊になるような詳しいものです。これもこの本の魅力の1つと言えます。この頃、冨田先生はまだお元気でした。訳注や解説から熱気が伝わってきます。他界されてもう3年になります。
 残念ながら、今では書店で入手するのは困難ですが、図書館ででも見かけたら、ぜひご一読をおすすめします。


近藤紘一『サイゴンから来た妻と娘』(文藝春秋、1978年)

 ともかく、メコン・デルタの自然の恵みは圧倒的だった。サイゴンへ赴任した頃、親しくなったベトナム人記者が、
「オレの村では釣らなくてもサカナがとれる。果物も昼寝をしていればしぜんに降ってくる」
 としきりに吹聴した。
 最初はお国自慢の誇張だと思った。相手があまりくり返すので、あるときこの目で確かめにいった。
 彼の村は、デルタの集散地カントの町から50キロほど離れた間道わきにあった。
 コンクリート造りの家が何軒か目立つていどで、残りは板とニッパヤシの葉を組み合わせた、見かけはむしろ貧しげな村だった。村内には、バナナやパパイヤの茂みを縫って何本もの水路が張りめぐらされていた。いずれも村はずれを横切る幅20メートルほどの運河に通じている。ゆったりした水の流れは、運河の中央に埋め込んだ竹の柵で左右に分かれ、その落ち口に子供の背丈ほどのビクが入口を流れに向けて沈めてあった。対岸のバナナ畑のハンモックで、村の若い衆が昼寝をしていた。
 「見てろよ」
 と相棒がいうので、私たちも木陰に車を乗り捨てて土手に座り込んだ。
 しばらくすると、若い衆がむっくり起き上がり、のそのそと水の中へ降りてきた。水中からビクをかつぎ上げる。流れに乗ってきたナマズや小ザカナ、エビ、カエルなどが底にたまっている。中味を無造作に土手にあけ、そのまままたビクを沈める。竹の柵につかまりながらこちら側に渡ってきて、もう1つのビクからも獲物を取り出す。
 三十分毎にこんなことをくり返す。日が傾くころには両側の土手に、どっさりとオカズの山ができた。
 獲る方も昼寝半分だが、獲られる方もどうやら居眠り半分のようだ。夢見心地で流されてきて、おや、これはワナに落ちたな、と悟っても、いまさら逃げ出す努力もしないらしかった。
 働かなくても十分食える、という自然状況はたしかに私たち日本のサラリーマンの想像を絶している。逆にいえば、こうした状況の中で生まれ育った人間には、私たちの物の考え方や価値観もなかなか通じないところがあるのだろう。
 私の目には羨しいほど結構な地の幸、水の幸に取り囲まれながら、それでも南ベトナムの人々は、口を開けば、
 「オレたちは貧しい。苦しくてとてもやっていけない」
 と、不平を鳴らしていた。
   ………

 1978年、審査員の圧倒的支持を受けて「大宅壮一ノンフィクション賞」を受賞した作品です。その後文庫にもなったので、読んだ方も多いと思います。やっぱり今読んでも抜群に面白い。戦後新聞記者が書いたエッセイやノンフィクションの中で3本の指に入る傑作だと思います。
 著者の近藤紘一さんはベトナム戦争真っ最中の1971〜75年のサンケイ新聞サイゴン特派員。この作品は、そのとき結婚した下宿先のベトナム人と娘(連れ子)の日本での生活を、ベトナム時代のエピソードを織り交ぜながら綴ったものです。おそらく、その後書かれたベトナムに関するエッセイのほとんどはこの本の影響を受けているのではないでしょうか。
 それだけ、すぐれた「ベトナム人論」でもあります。これに匹敵するのは、小社の『ベトナムのこころ』(1997年)ぐらいかな。著者の皆川一夫さんも、近藤紘一さんを意識して書いたとはっきり言っていました。結局、ベトナム人と結婚しないとベトナム人のことはわからないということなのでしょうか。
 ご存知だと思いますが、近藤紘一さんはこの数年後に急逝されました。本当に惜しい方を亡くしました。


フランソワ・ポンショー 『カンボジア・ゼロ年』北畠霞訳、連合出版、1979年

 全くいやな夜だった。規則正しい感覚で、一〇七ミリ・ロケット砲弾と一〇五ミリ砲弾が、乾季の終わりによくある夜の静けさと湿った空気の中を突き破っていった。五百発ほどの砲弾が、うなり声をあげて頭上を飛び、人があふれるプノンペンの街のあちこちに激しい音をたてて炸裂した。外人用の大きなホテル・プノムの敷地内に急いで作られた避難小屋には、街の人々が難を逃れて集まってきていたが、同僚と私は、こうした人々のために通訳をしている国際赤十字の人たちといっしょにその夜を過ごしていた。
 夜になって、プノンペン北部から何万という住民が、身の回りの大事なものをわずかばかり持って、市の中心になだれこんできた。人々の顔はひきつり、目はおびえていた。
 「彼らは六キロの地点にきている」
 「4キロの地点だ」
 「彼ら」とは「クメール・ルージュ」のことである。その名前を聞くだけで恐怖が走るのだった。一九七五年一月一日かっきり。「彼ら」はプノンペンに対して全面的攻勢を開始した。革命軍の砲弾が、ぴたりと時を会わせて四方からプノンペンに撃ち込まれた。だが政府軍の将軍たちは新暦の新年を迎え、何もかもたっぷりのパーティを開いていた。この日からプノンペンへの締めつけは日毎にきつくなっていく。「彼ら」はプノンペンの対岸のメコン堤防上に足場を築いていた。これを撃退しようとする政府軍は空爆、砲撃を加えたが、彼らはそこを固守していた。そのあと米国はDC8、C130を連日飛ばせ、かなりの危険をおかして、プノンペンに住む人たちのコメと、首都防衛用の武器を送り込み始めた。
 噂があらゆるところで渦巻いていた。「連中の残酷さはひどいそうだ」「どんな兵隊でも捕えたら殺し、その家族も殺してしまうという話だ」「あの連中は人々を森につれていくらしい」
 私たちは、こうした話は政府が宣伝のために作りあげたものと思っていたので、余り信用を置いていなかった。クメール人はクメール人だ。だからクメール・ルージュも自分の国の人々には、そんな極端なことはしないだろうと考えた。勝利は手の届くところにある。理由もない報復をして、心理的にどのようなプラスがあるというのだろう。
 だが、私はメコン川の対岸のアレイ・クサックから来た婦人に会った。クメール・ルージュが来ていると聞いて、難を逃れるために彼女は木に登ったが、下でくりひろげられた恐ろしい光景――子供たちが八つ裂きにされ、串刺しにされていた――をみて、余りの恐怖に襲われ、下に降りるよりは大赤アリが自分の足をかじるに任せていた、というのである。

 クメール・ルージュのことを書いた本はたくさんありますが、『カンボジア・ゼロ年』とナヤン・チャンダ『ブラザー・エネミー』(友田錫・滝上広水訳、めこん、1999)が白眉です。フランス人宣教師ポンショーの書いたこの本はクメール・ルージュのめちゃくちゃぶりを初めて世界に知らせた本で、最初は、あまりに内容がショッキングなので、特にアメリカで「これは嘘だ」という手ひどいバッシングを受けました。1975年あるいは1976年当時、世界は断片的に伝えられるポルポト派の虐殺について本当に半信半疑だったのです。しかし、結局、『カンボジア・ゼロ年』に書かれたことはすべて真実でした。『ブラザー・エネミー』はその背景を見事に描いています。クメール・ルージュはアメリカと中国という大国の利己的なインドシナ戦略の陰に咲いたあだ花でした。今また、イラク、アフガニスタン、パレスチナでアメリカのおろかな「世界戦略」のおかげで多くの人々が死んでいきつつあります。いつも割りを食うのは小国の名もない人間なのです。



ディーター・デングラー りくたー香子訳 『ラオスからの生還――奇跡のサバイバル・ストーリー』(1994年、大日本絵画発行)より

 また朝が来た。何もいいことはないし、どうにも気分も冴えない。川を下って昨日の滝まで戻った。そこで一休みしていると、疲れも吹っ飛ぶようなものを見た。巨大な黒熊だ。耳の毛がふさふさと伸び、胸には三日月形の白い模様がある。人を恐れる気配もなく、ジッとこちらを見つめている。やがて、熊はのしのしとジャングルの奥に立ち去った。私たちは、熊が相当遠くに行ったと思われるまで動かなかった。川下りを再開し、たいして時間をかけずに、出発点に戻り着いた。
 はっきりしたアテもなく、ただ惰性で歩き続けた。竹やぶの中を歩いているとき、突然、蛇が垂れ下がってきた。とぐろを巻いた三匹の毒蛇が、今にもドウェインの頭に襲いかかろうとしている。私は思わず怒鳴った。ドウェインは、とっさにしゃがんで難を避けた。
 普通、蛇は物音で敏感に危険を察知して逃げるものだ。多くの蛇は、我々がのろのろ近づく前に、たいてい自ら道を開けてくれていたはずだ。このような接近遭遇は珍しいことだった。
 滝を過ぎると流れはだんだん幅を広め、やがて小さな川となった。川がくの字に曲がっている所で飛び込み、泳いで向こう岸に渡った。土手に上り、岩棚の上から下流を眺めると、それはもう小さな川ではなく、川幅百メートルはありそうな大河となっている。これなら、筏を組んでメコン川まで下って行けるかもしれない。そう思うと気持ちが明るくなった。張り切って、野営用の雨除けを作った。屋根だけではなく壁もある上等なやつだ。我々の小さな家だ。今夜は、どんな雨風が吹いても心配ない。その夜は、ほんとうに暴風雨となったが、私たちはぐっすり眠った。暖かかった。

 これはベトナム戦争の時、パテート・ラーオの捕虜になったアメリカ軍のパイロットの脱出行を綴った「奇書」です。読んだ人は余りいないと思いますが、なかなかのものです。

 1966年、撃墜されたのは中部ラオス、国道12号沿いのベトナム国境近くのジャングルです。このパイロットは何人かのアメリカ軍兵士やタイ人とともにパテート・ラーオの収容所に入れられますが、数ヵ月後に脱出に成功します。ベトナム戦争で捕虜になって脱出に成功したのはこの人が初めてだそうです。収容所でひどい目にあわされる話、必死に逃げ回る話など、(悪いけど)スリリングで、「ディアハンター」などがダブってきます。パテート・ラーオとベトナム解放軍兵士(ベトコン)との関係、村人の対応などもリアルです。
 小社の『ラオス概説』の地図から判断すると、これは現在のカムムアン県ブアラパー郡のあたりで、前記の「川」はセー・バンファイでしょう。国道12号が近いとはいえ、ちょっと近づきがたいすごい場所で、こういうラオスの奥地はどうなっているのか、この本の描写をもとに想像するとなんとなくワクワクしてきます。おそらくホーチミン・ルートが近くを走っていたのでしょう。村人もたぶんタイ系のラーオ・ルム(低地ラオ人)ではなく、モーン・クメール系の少数民族だと思われます。このような辺境の地のことはまだほとんど紹介されていません。熊や蛇のことが出てきますが(蛭がいっぱい出てくるのは気持ち悪い)、原生林や清流など手つかずの自然、ベトナム戦争にまつわる現代史の影の部分など、知られざるラオスの魅力ですね。


山根良人「元日本兵の記録――ラオスに捧げたわが青春」(中央公論社、1984年)より

 一九四六年の四月末、フランス軍は首都ビエンチャンを占領した。王宮のある北部の都ルアンプラバーンもフランス軍の手に陥ちていた。さらにフランス軍は余勢をかって北東のベトナムとの国境地帯にも勢力を伸ばしつつあった。
 その頃ようやく足の傷も癒え、私は再び前線に復帰していた。
 兵舎に戻った私に、のんびりするひまはなかった。フランス軍がサバナケットの攻略を目指してすでに南東六十キロの地点にまで迫っているとの情報がもたらされたのだ。兵力、武器装備に優れたフランス軍の攻撃を受ければ、サバナケットは短時間のうちに陥落してしまうことは目に見えていた。しかし戦闘を交えずして市を放棄することは出来ない。迎撃、防禦戦の態勢をとるか、あるいは市の近郊で待ち伏せ転戦するか。選ぶ道はその二つに一つである。
 私は自分の守るサバナケットはなんとしてもフランス軍の手に渡したくなかった。それは義勇軍の兵士の誰もが考えていたことであった。一方、サバナケットの北百三十キロにあるタケックの状況はサバナケットより悪かった。情報によればタケックの陥落は目前だということだった。
 ついにフランス軍一個大隊によるタケック攻略戦が開始されたという情報が届けられた。タケックではスファヌヴォンの指揮のもとに主力の二個中隊が防禦に当っていた。だが一個大隊のフランス軍が相手では抵抗の術がない。ラオス義勇軍本部の崩壊は今や時間の問題だった。
 苦戦中のスファヌヴォンのもとから、サバナケットに対して一個中隊の援軍の派遣を求めてきた。プミーの指示で直ちに一個中隊が待機させられた。しかし中隊を送る車輌がない。民間の車輌を調達するのに手間取っている間にも時間は刻一刻と過ぎていった。その間にタケックの状況は悪化するばかりであった。
 とうとうサバナケットから援軍を送り込む前に、戦車隊に掩護されたフランス歩兵部隊がタケック市内に突入した。そしてラオス義勇軍の陣地は一挙に粉砕されてしまった。  スファヌヴォンはわずかの部下に守られて小舟に乗ってメコン川に逃れた。だが不運にも一発の砲弾が小舟の近くで炸裂した。破片がスファヌヴォンの左脇腹をえぐった。小舟は重傷を負ったラオス義勇軍の最高指導者を乗せ、辛うじて対岸のタイ領のナコンパノムに逃げのびることに成功したのだった。
 残されたラオス義勇軍の拠点はサバナケットと南部のパクセだけだった。
       (中略)
 夜明けと共に再び敵の一〇五ミリ砲が市内目がけて射ち込まれ始めた。市民は先を争ってメコン川を渡り、対岸へ向かって避難を始めていた。川は避難民の乗った何十という小舟でごった返していた。
 赤ん坊を背負い、両手にいっぱいの荷物を持った髪を乱した女、家を捨て、息子と別れ、からだ一つで逃げ出す老婆、親と別れ別れになって泣き叫ぶ子供。砲弾は避難民の小舟でいっぱいのメコン川にも容赦なく射ち込まれてきた。
   (中略)
 夜二十時過ぎ、ついに来るべきものがやって来た。敵の主力部隊が二手に分かれ、市内目がけていっせいに進行して来たのだ。私の中隊の陣地に対して、正面から戦車を先頭に立てた一隊が、そして南の屠場方面からはセネガル兵の一隊が攻撃をしかけてきた。
 激しい銃撃戦だった。だが弾薬不足に悩む我々は、一時間もしないうちに弾丸が尽き果ててしまった。塹壕からはい出し、逃げる者、敵の銃弾に当ってのたうちまわる者、陣地内は大混乱におちいった。もはや私には狼狽する一方の部下の指揮をとれなくなっていた。
 統制を欠いた部隊の惨めさを目の当たりに見た。銃を投げ捨て、一目散にメコン川に逃げ出す部下たちに対して私はどうすることも出来なかった。陣地内に敵が突入して来るのは時間の問題だった。
 気がつくと周囲には部下の姿は一人として残っていなかった。私はやむを得ず陣地を捨てることにした。塹壕をはい出し、病院の裏側からメコン川にまわった。私には目もくれず先を争って逃げ出す兵士たちが舟を目がけて駆けて行った。
 
 現在ではもう入手が非常に困難な本ですが、図書館ででも見つけたら、是非ご一読をお勧めします。著者の山根良人さんは、航空隊自動車隊の伍長としてビルマ戦線に派遣されますが、日本の敗戦後、武装解除されたベトナムのサイゴンを脱出、カンボジアからラオスに入ります。その後の人生はまさに波瀾万丈です。ラーオ・イッサラ(自由ラオス)の抗仏ラオス義勇軍指揮官、パテート・ラーオの大隊指揮官、一転してラオス王国軍の将校としてラオス各地で戦い、1975年の新政権誕生後33年ぶりに日本に帰国しています。
1960年代から70年代にかけて、「山根大佐」ラオス名「サワット大佐」といえばラオスでは知らぬもののないヒーローでした。抗仏独立戦争から共産政権樹立までの激動の現代史は、小社の『ラオス概説』第6章「現代の歴史」(菊池陽子)に詳しく書かれていますが、山根さんは軍人として常にそのまっただなかにいたわけです。今ではもう「伝説の人」となってしましましたが、当時の山根さんを知るラオ人の話では、白い軍服が似合って、めちゃくちゃ格好が良く、ラオ人女性のあこがれの的だったということです。
上の引用個所はラオス最初の民族運動ラーオ・イッサラが初めて本格的にフランス軍と戦い、こてんぱんにやられるところです。この後、スファヌボンを中心とするグループはヴェトナムと関係を深め、プーミ・ノサヴァンを中心とする右派と対立していくわけです。


梅棹忠夫「東南アジア紀行」(中央公論社、昭和39年初版)より

メコンの岸に出てみた。岸は、ごつごつした岩ばかりであった。
岩のあいだに、小さな家船が数隻もやっていた。
わたしたちがはじめてメコンを見たのは、プノムペンだった。
あそこでは、メコンはトンレ・サップ川を合わせて、大きくふくれ上って、
対岸がかすかに見えるほどの大きい川だった。
それから、コンポン・チャム。次はサヴァンナケット、そしてヴィエンチャン。
メコンはしだいに幅がせまくなったが、なお悠揚せまらず流れていた。
しかし、ここルアン・プラバンまでくると、さすがのメコンももはや山間の渓流と言ってよい。
なお水量ゆたかにとうとうと流れているが、川幅はすでにせまい。対岸は目のまえにある。
飛行機の切符はルアン・プラバンまでしか買ってない。
ここからヴィエンチャンまで、船でメコン下りをしようと思っていたからである。
数日のあいだ、とてもたのしい舟旅ができると期待していたのである。
ところが、船着き場できくと、定期船なんかはないのである。
便乗できる舟は、何日に出るかまったく予定がたたないという。
それでは仕方がない。なけなしの財布をはたいて、またヴェーハー・アカットの切符を買った。
これでいよいよ金はなくなった。われわれの旅行も終りに近づいたようである。

東南アジアに関するエッセイ、紀行のたぐいは山ほどあるけど、
ベストはやっぱりこの本でしょうね。
いま読んでも、本当におもしろいし、勉強になります。
ところで、この本のなかに今をときめく碩学石井米雄先生(の青年時代)が
登場するのをご存じでしょうか。
1958年、梅棹教授ひきいる「東南アジア学術調査隊」はバンコクから、
カンボジア、ベトナム、ラオスと陸路を車で踏破しようとしますが……

いちばん頭のいたいのは、通訳の問題だ。3つの国はそれぞれことばがちがう。
クメール語とベトナム語とラオ語ができて、そのうえ日本語か英語ができる、というような超人は、
バンコク中をさがしても出てくるものではない。
わたしは、大使館の高瀬参事官に相談した。高瀬さんは、あっさりと、
「そこに、いいのがいるよ」
といって、かたわらをふりかえった。そこにいたのは、外務省留学生の石井米雄さんである。
石井さんもわたしも、おどろいて、「エエッ」といった。
なるほど、考えてみるとかれは適任である。
かれは、チュラロンコーンの卒業生で、すばらしいタイ語を話す。 カンボジアの、すくなくともに西半分はタイ語が通じるはずだし、かれはまたラオ語もできる。
それに、外交官だから英語もフランス語も達者だ。
しかしかれは、民族学協会の稲作文化調査団に同行して、メコン流域を3ヵ月間も旅行をつづけ、
先日バンコクに帰ってきたばかりである。その人にまた、つづいて出てくれとは、あんまりだ。
ところが、石井さんはたいへんあっさりと、いっしょにゆくことを承諾した。……
これはたいした人物を獲得した。この人の有能と誠実については、わたしはまえから評判を聞いている。
こういう人がきてくれれば、問題はない。

……… ということで、若き日の石井米雄さんは通訳兼運転手として一行を案内し、
バンコクからアランヤプラテート、プノンペン、そしてサイゴンへと走ります。
サイゴンからは北上してフエへ、さらに当時の北ベトナムとの境界線17度線を西に向かい、
ついに国境を越えて、ラオスに入ります。

国道9号線です。 そしてサワナケートにいたり、国道13号を北上してビエンチャンを目指すのですが、この悪路(当時)の思い出が語られるのが、小社の『メコン』(石井米雄文、横山良一写真、1995年)です。


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