【大村一朗のイラン便り】

NO.1 テヘランは変わったか

▲テヘランの映画館・ターミネーター3
▲テヘランの町の風景
 700万を数える西アジア屈指の大都会、テヘラン。しかし、この町に足を留める旅行者は案外少ない。イスファハンやシラーズといった地方の観光都市に比べ、旅情を誘う歴史的建造物も少なく、あまりに都会的すぎることが最大の原因だろう。
 私がテヘランを訪ねるのは実に9年ぶりのことだった。かつて私は中国からローマまでの徒歩旅行のさなかにあり、隣国トルコの、特にイスタンブールといった大都会の若者たちの欧米化したライフスタイルに目を見張ったものだが、そうした光景を今はテヘランの街角で見ることができた。スマートなジーンズに皮ジャケットやハーフコートを着こなし、ポマードで撫で付けた長髪にサングラス。女の子たちは一応、腰周りと髪の毛を隠し、イスラミック・スタイルを遵守しているものの、身体のラインはほとんどあらわであり、スカーフも後頭部だけ覆う程度で、あってないようなものだ。街の映画館ではアメリカの暴力的な映画が堂々と上映され、ポップス・ミュージックが誰はばかることなく流れ、恋人たちは手をつなぎ公園をそぞろ歩いている。そしてどこからか軽快な電子音が流れてきたかと思うと、誰かがポケットをまさぐる。携帯電話もかなり普及し始めているようだ。

 「東京とさして変わらんなぁ・・・・・・」

 そうつぶやいたのは、まだイラン人の友人の車であちこち連れて回ってもらっていたときのことだ。ひとたび自分一人で出かけるようになると、印象はがらりと変わってしまった。

 例えば、バス停でバスを待っていると、ひっきりなしにバスがやって来るが、そのバスがどこ行きなのか、イラン人たちはみな運転手や乗客に確認してから乗り込む。バスには一応番号が振られているが、バス路線図というものがそもそも存在しないので、いつも利用しているバスでもなければ、そのバスがどこ行きなのか運転手に聞いてみなければわからないのである。1台のバスを見定めるのも大変なのに、目的地まで2台、3台と乗り継がなければならないこともざらだ。数百台ものバスが集まるバスターミナルに着いてしまった日には、目当てのバスを見つけるのに30分は食らう。ようやく乗ったら乗ったで、下車するときには「降ります」と叫ばなければならない。「降ります」のペルシャ語を知らず、何度乗り過ごしたことか。

 イランでは、乗り合いタクシーという安価な交通手段もまた、庶民の足として活躍している。自分専用で乗るというのは特別な場合のみで、タクシーといえば乗り合いを指す。乗り合いなら、専用で乗る5分の1程度の運賃で済むのだ。もう30年近くモデルチェンジをしていないというペイカン社の古ぼけた車が目の前でスピードを緩めたら、それが「乗るか?」の合図だ。タイミングを逃さず自分の行き先を大声で叫ぶ。行き先が合わなければ、車は停まることなく走り去る。私がいくら叫んでもタクシーは停まってはくれない。これにもどうやらコツがあることを、私はしばらく経ってから知るのである。言葉も分からず、文字もろくに読めず、こんな調子で私は毎日のようにどこかの街角で途方に暮れていた。

 「行きたい場所に行く。ただそれだけのことだろ。なんでこんなに苦労しなければないんだ・・・・・・」

 路線図を見て、券売機で切符を買って電車に乗り込めば、あとは居眠りしていても目的地まで連れていってくれる。そんな当たり前の日本の暮らしが楽園のように思えてくる。

 機械や自動音声を相手にすべてが事足りてしまう、他人との接触を極力省ける効率化を追求したのが都会の暮らしだとすれば、ここは非効率の極地だ。バス一台乗るのにいったい何人に話しかけ、親切にされたり、不親切にされたりして一喜一憂しなければならないのだろう。東京とは正反対ではないか。

 郊外にある、お世話になっているイラン人宅にくたくたになって帰り着くのは夜遅くだ。明日も出かけなければならないと思うと気が滅入る。私は外出にほとほと嫌気がさし、なかば鬱状態になっていた。旅ならば、この街から逃げ出してしまえば済むことだが・・・・・・、だからテヘランには旅行者が少ないのだろうか。しかし、私はここで生活をしていかなければならない。

 9年前のあの旅で、私は毎夜民家や食堂に泊めてもらいながら、この国を歩き通した。ペルシャ語のほとんどわからない私に、かれらは構わず国家や宗教について様々な話を聞かせてくれたものだ。通過した国々の中で、人との対話がとりわけ多かったのがこの国だ。いつかペルシャ語をきっちりマスターして、かれらともう一度話をしたい。そんな想いを残しながらこの国を去って9年、私は再びこの地に戻ってきた。今回は通り過ぎるだけの旅人ではなく、ジャーナリストとして。

 対話なくしては隣町にも行けない。首都にしてこれなのだ。イランは見た目ほど、実は変わっていないのかもしれない。そしてそれは、本来望むところではないか。などと心底から思えるようになるには、実際もうしばらくの時間が必要だった。

NO.2 テヘラン大学学生寮23号棟


▲学生寮

 交通手段を乗りこなせるようになるにつれ、街の空気が少しずつ肌に馴染んでくるのを感じる。乗り込んだバスに、思いもよらぬ場所へ連れていかれることも、最近ではほとんどなくなっていた。

 1週間が過ぎ去る頃、私はテヘラン大学付属のペルシャ語研修センターに入学し、市街地にある学生寮に居所を移した。

 学生寮は大学そのものと見まがうほど広く、敷地内には生活棟、スーパーマーケット、大小の食堂、パン屋、学習室、インターネットルーム、小さな映画館、そして理髪店まで、学生生活に必要な施設が一通り揃っている。バスに15分ほど揺られるだけで書店や電気店、映画館などがひしめくテヘラン大学の学生街に行けたし、私が通うペルシャ語研修センターへも30分ほどかかるがバス一本で行くことができた。

 あてがわれた23号棟は、敷地のどんづまりにある留学生専用の生活棟だった。この23号棟だけでも二人部屋が70室ある。東は東南アジアから西はアフリカまで、世界中のイスラム諸国から集まった留学生が暮らしている。みな流暢にペルシャ語を話し、誰も英語など使っていない。

 私のルームメイトは、サルーという名のタジキスタン人だった。明るく世話好きで、私が困っていないかいつも気にかけてくれるやさしい男だ。彼はその人柄から友人の多い男で、夕食はいつも、誰かが作ったフライパンの炒め物を数人でつつきながら賑やかに食べることとなった。

 彼らのペルシャ語の議論に、私はもちろん口を挟む術を持たない。一人、黙々と食べ、黙々と聞くだけだ。そんな私を気に掛け、サルーやその友人たちが英語で言ってくれる。

 「お前一人会話に参加できなくて悪いな。でも、お前は今はひたすら聞くことに専念しろ。それが一番の勉強になる」

 「そう、そのうち記憶に残る単語が一つ二つと増えてくる。そうしたら、恥ずかしがらずにその意味を質問しろ」

 ここにいる誰もが、私の居心地の悪さを理解してくれていた。皆、同じ苦労をしてきたからだろう。

 寮生活がようやく軌道に乗り始めた頃、サルーはここでの<4年間の学生生活にピリオドを打ち、故国タジキスタンへと帰っていった。彼がいなくなり、わざわざ私の部屋を訪ねてくる学生も減ったが、共同キッチンで自炊していると誰彼となく「一緒に食おうぜ」ということになる。なかでもよく食事をともにすることになったのは、スーダン人のヘイサムという名の学生だった。冗談ばかり言っては腹の底から苦しそうにヒーヒーと笑う男で、いつも寮のどこからか彼の甲高い笑い声が聞こえていた。

 しかし、ヘイサンが未来を語るとき、明るい人柄とは裏腹の、そのネガティブな思考はどうにかならないものだろうかとさえ思う。彼はすでに学位を取得済みだか、国に帰ってもしかたがないので、出たくもない授業に出て、無駄に時を費やしているという。

 「4年もこんなところにいて、何もいいことなんかなかったよ。ペルシャ文学の学位なんか取って、国に帰って何になる? 俺はみじめなやつさ」

 じゃあどうしたいんだ? と訊くと、「アメリカへ行きたい」と言う。

 「お前もか・・・・・・」

 私は思わずため息を漏らした。サルーもアメリカ行きを目論んでいたからだ。しかしその夢はかなわず、彼はタジキスタンへ帰国後、モスクワ留学に進路を変えていた。

 「アメリカなんかへ行ってどうするんだ?」

 「わからないよ。ただ子供の頃からの夢だったんだ。とにかく、国に帰っても仕方ないし、ここにいても意味がない。先進国に行けさえすれば・・・・・・。この気持ちは先進国から来たお前にはわからないだろうけどな」

 ヘイサムはアメリカにグリーンカードを申請していたが、星をつかむような確率だという。金さえあれば留学も可能だが、同じ途上国のイランに留学するのと、先進国に留学するのとでは訳が違うのである。途上国の若者たちの夢を、先進諸国は容易には許さない。

 「俺、一つ考えていることがあるんだ」

 ヘイサムが急に真面目な顔になった。

 「この夏、俺は一つの決断を下す。奨学金制度の特典で、夏、アムステルダムへの航空券がもらえるんだ。向こうでパスポートを捨ててしまおうかと考えている」

 私は驚き、そして、思わずニヤリと笑った。それもいい考えだ。途上国という一つの階級から抜け出すには、そのはるか頭上にある、見えない厚い壁を打ち破らなければならない。

 テヘラン大学学生寮23号棟。世界のイスラム諸国から集まり、いずれは故国の未来を担う優秀な留学生たち、というイメージは私の勝手な思い込みだった。本当は皆、それぞれに事情を抱え、妥協や失望、そしてひそかな野望を胸に、ここでの暮らしを送っているのだった。

No.3 アーシュラー ハレの日はかく終わりき 2004年4月12日




 3月1日、預言者ムハンマドの孫エマーム・ホセインがイラクのカルバラで戦死した命日を明日にひかえ、テヘラン市街は騒然とした空気に包まれていた。
 私は友人のイラン人の車で、市街西部のピルズィーという下町を目指していたのだが、街のいたるところで50人、100人、あるいはそれ以上と大小様々な一団に行く手を阻まれ、何度も道を迂回しなければならなかった。彼らは「ダステ」と呼ばれる、地域単位の集まりで、ここ1週間ほど夜毎集まっては鎖の束で身体を鞭打ちながら街路を練り歩いていたが、今日明日は祭りのクライマックスとあって昼間から道路を占領して気勢を上げている。
 ダステは、アローマットと呼ばれる馬印を先頭に、まずは子供たち、そして威勢の良い順に黒づくめの男たちが続き、なかほどに台車に載せたスピーカーと音響機器、マイクを握った青年や、ドラムやシンバルの楽隊で構成されている。
 街中には、天幕の張られた芝居小屋のようなものもあちこちに見られる。これはヘイヤットと呼ばれ、各ダステの本部のようなものだ。ダステは毎夜近隣を練り歩いたのち、自分たちのヘイヤットへ戻り、ふるまい飯をもらって解散するのである。

 ようやくピルズィーにたどり着くと、友人はある1軒の民家の前で車を停めた。路上は真っ赤な鮮血で染まり、首のない羊が5頭横たわっている。ヘイヤットとは別に、この日は近所や友人など仲間内でも羊を殺して食事をつくるのである。
 その家の中庭でチャイを飲んでいると、おおまかに解体された肉塊が巨大な桶に盛られて運ばれてきた。「手伝うかい?」。手斧とナイフを渡され、巨大な骨付き肉をこぶし大ほどの大きさにさばいていく。近所の男たちとともに肉塊と格闘すること1時間余。やれやれ終わったと思ったら、それはまだ序の口にすぎなかった。
 庭には直径1メートル20センチはある大鍋が5つ用意されていた。これらの肉をすべて使って、今からスープを煮るのだ。
 ガスバーナーが点火されると、オールのような巨大なひしゃくで船を漕ぐように鍋をかき回す。水をなみなみと張った大鍋にはそれぞれ羊1頭分の骨付き肉と数種類の豆類が入っているので相当重いが、鍋底が焦げ付かないように絶えずかき回していなければならない。
 汗びっしょりになってひしゃくを漕いでいると、裏方の女性が何度もチャイやジュース、茶菓子を運んできてくれる。そのうち客人が訪れては、15分、30分と鍋をかき回して帰ってゆく。女性も、1分、5分と短いが、少し鍋をかき回して、また新たに訪ねてきた客にひしゃくをバトンタッチする。この鍋かき回しリレーは途切れることなく続いたが、なにぶん鍋は5つもあるため元の面子が鍋から解放される時間はほとんどない。暑いうえに、時折、煮えたぎったどろどろのスープの飛沫がひしゃくを持つ手にはねて、腕には何箇所か軽いやけどの痕ができていた。この苦行は果たしていつまで続くのだろうと思っていた矢先、目の前で鍋をかき回しているおばさんが私に言った。
 「かき回しながら、天国にいるエマーム・ホセインに願い事をするのよ。仕事のことでも家族の健康のことでも何でもいいから」
 客人がやって来ては鍋をかき回して帰っていく理由がようやくわかった。
 「もし願い事がかなったら、来年また来てちょうだいね」
 聞けば、ここで父親の健康を祈って帰宅したら病床の父親が起き上がってピンピンしていたなどという話もあるという。昔、初めてこの庭でスープを煮たときは、少し大きめの鍋1つだけだったという。ここで鍋をかき回してホセインに願い事をし、願いがかなって翌年、お礼の気持ちを込めてわずかなお金や食べ物を持ってくる。そうして今、これら巨大な鍋が5つ、ここにあるのだ。
 午後の2時から煮込み始めて、夜11時には肉塊も脂肪も骨も8割方溶けてしまった。ちょうどその頃、あるダステが近くのヘイヤットで今日最後の行進を終えるというので、見に行くことにした。
 150人ほどのダステが、ヘイヤットの前でクライマックスを迎えていた。マイクの青年の絶叫とドラムのリズムに合わせて、鎖で我が身を打ち付ける男たち。殉教したホセインの痛みをそうして自らの身体に刻むのだ。それが終わると皆ぞろぞろとヘイヤットの中へと入っていく。真っ暗な屋内は彼らの汗の匂いでむせ返っていた。再びマイクを握った青年がエマーム・ホセインの名を絶叫し始める。
 「ホセイン!ホセイン!ホセイン!ホセイン!ホセイン!ホセイン!ホセイン・・・・」 鎖ではなく、今度はみな両手で自分の胸をたたく。私はすっかり気おされながらも、内心、この濃密な空間に自分一人だけが傍観者でいる不自然さに耐えられなくなってきた。おずおずと自分の胸をたたき、そして、つぶやいてみる。
 「ホセイン、ホセイン・・・・・・」  その瞬間、彼らのリズムがスッと体内にすべりこんできた。私は熱狂の渦と同化した。そして急にこんなふうに思えてきた。これもありだな、と。日本人だって神輿をかついで馬鹿になる。ワールドカップで馬鹿になる。熱狂そのものはどこにだってある。それがエマーム・ホセインというシーア派のルーツの殉教を悼むことだって別にいいではないか。鎖で自分を打ちながらボロボロと泣いている若者たち。それもありなのだ。大事なものは人それぞれなのだから。
 午前4時、14時間燃え続けたガスバーナーの火が消された。鍋の中の固形物は完全に姿を消し、白濁したスープが完成した。夜が明けると、昼間の客人たちが小鍋や桶を持ってスープをもらいにきた。

 アーシュラー最終日。西暦680年のこの日、エマーム・ホセインはカルバラで敵の刃に斃れた。このカルバラでの戦役がシーア派とスンニー派の命運を分けることとなる。西暦632年に預言者ムハンマドが逝去してから、イスラーム帝国の統治はカリフ(預言者の代理人)に委任されていたが、このカリフ職は本来、前カリフによって推挙され、ムハンマドの教友たちによる協議のすえ選出されるのが筋であった。ところが第4代カリフ、アリーが暗殺されると、ウマイヤ家のムアーウイヤという当主が自らカリフを宣言し、さらに長子ヤジードにその職を譲ってしまう。この勝手な世襲に反対し、預言者ムハンマドの血統を重んじてカリフ・アリーをあくまで支持したのがシーア派の始まりである。アリーの息子ホセインはウマイヤ軍に戦いを挑み、西暦680年のこの日の正午ごろ、カルバラで悲劇的な最期をとげるのである。
 その時刻に合わせてダステは最後の熱狂を見せる。ヘイヤットの前では、ウマイヤ軍の大将ヤジードに扮した若者がイランの町々を襲うという設定でテントに火を放つ、ホセイン殉教の再現劇を催す。それが終わると、最後にヘイヤットでふるまい飯をもらい、10日近く続いた一連のアーシュラーの祭事はほぼ終了した。その日の夕刻には、街路に残された祭りの残骸を片付ける清掃局員の姿や、大鍋を洗う家々を目にし、ハレの日のあとのむなしさが早くも街に漂い始めていた。
 殉教を悼む宗教儀式とはいえ、イランの人々が国をあげて騒ぎ、語り、食べ、共同体のきずなを確かめ合う、それは明らかに「祭り」であった。私はそんな「祭り」を持つかれらを少しうらやましく思った。
 その日の晩、カルバラで爆弾テロが起こったというニュース速報を目にし、私たちは言葉を失った。フセイン政権が倒れ、25年ぶりに盛大なアーシュラーを催したシーア派の聖地カルバラで、何者かのテロにより150人を越す命が失われた。私が目にした今日の日と同じように、近隣同士でハレの日を過ごした人たちが、今、むごたらしい悪夢のさなかにいる。そう思うと、憤りを抑えることができなかった。

No.4  テヘラン大学園祭の夜明け

▲寮メインゲートに掲げられた学祭の横断幕
▲盛り上がる地元演奏家のステージ
▲イスファハン州ブース
▲ブースを見学する人々・手前はヤズド州ブース
▲各地方独自のチャードール(遊牧民の移動式テント)
▲皮肉たっぷりの学生自治会ブース。手前の張り
紙には「イランの現実を大
学キャンパスに、
キャンパスの現実を
自治会ブースに見よ」。
実際にはここまでひどくない…。
 イランでは西暦ではなくイラン暦を用い、毎年春に新年が始まる。今年は西暦の3月20日に1383年の新年を迎えた。
 丸二週間の正月休みが明け、里帰りしていた学生たちが寮に戻り始めた頃から、寮の敷地内にはイベント用のテントが建ち始めた。テントは敷地内のメインストリートに沿って300メートルにも及び、一体何が始まるのかとイラン人学生に尋ねると、学園祭とのことだった。
 5月2日(西暦)、学園祭は華やかに初日を迎えた。普段は男しか見かけない寮内に女子学生があふれ、それだけで華やかである。会場であるメインストリートには幅7メートルほどずつで区切られたブースが並び、そこではイラン各州の名産や、パネルやパンフレットによる文化紹介がされている。イランには28の州があり、さらに主だった都市の紹介ブースもあるので、展示ブースだけでも40近い。どのブースもその州の地方色を生かした凝った設計で、ここ数日学生たちが金槌やノコギリ片手に手作りでこしらえたものだった。昨夜は初日に間に合わせるために徹夜だったという学生もいる。
 この催しは正確には「スチューデント・フェスティバル・オブ・プロビンスィズ・カルチャー」と呼ばれ、要はテヘラン大学生による州文化展示会なのである。期間は8日間。日本の学園祭とは違い、サークルやクラブ単位などでの出し物はない。出身州によってそれぞれ自分たちのブースの運営にたずさわるのである。なにかと男女が分け隔てられるこの国で、こうして男女揃って自分たちの州のブースを作り上げ、数日肩を並べて過ごすのだから楽しくないわけがない。
 寮内の体育館では、毎日、各州主催のステージが催された。600人ほど収容できる会場にはその州出身の学生たちが押しかけ、立ち見まで出るほどだ。ステージでは民族舞踊や、その州で活躍している歌手や演奏家を招いてのコンサート、地元のテレビで活躍している漫才師を招いたり、詩の朗読があったりと、個性的なプログラムを組む州もある。
 それにしても、この盛り上がり方は異常である。かれらの好きな西洋音楽ではなく、地元出身のおじさんたちによる伝統的な四重、五重奏に学生たちは割れんばかりの喝采を送り、アンコールの声を合わせる。地元市長がかれらの州を称える演説をすれば、しばらく口笛と拍手がやむことはない。一緒に行ったイラン人学生に「イラン人は自分の州が大好きなんだね」と訊くと、「そりゃそうさ。お前は違うの?」と言われてしまった。イスラムとしての共同体意識、地元への帰属意識、さらには自分の生まれた町や村への愛着。そうしたものがかくも巨大なエネルギーを生み出すことを、また改めて実感させられたのだった。
 しかし、それから2、3日も経つと、私はもう学園祭に足を向けなくなった。正直、飽きたのである。メインストリートの展示ブースでは学生たちが親切にその州の文化や見所について教えてくれたし、それ以外にも各州の遊牧民が使用するチャードールと呼ばれる移動式テントの実物がいくつも並び、そこでは民族衣装を纏ったおばさんたちがかれらの日常食を振る舞ってくれたりもした。しかし、何か足りない。おもしろくないのである。
 どのブースも立派で、ずいぶん金がかかっていた。よくよく調べると、テヘラン市や大学当局をはじめ各省庁の協賛があり、学生たちは自分たちのブース設営に1トマンも出していないという。学園祭と名が付いてはいるが、つまるところ行政のお膳立てによるただの展示会なのだ。おもしろくないのは、学生たちの個性がどこにも見当たらなかったからだ。
 この学園祭は今年で3回目を迎えるが、そもそも2年前、なぜこのような催しを開くことになったのか。ある学生は「ガス抜きさ」と言う。
 5年前、1999年のテヘランでの騒乱事件はまだ記憶に新しい。改革系『サラーム』紙の発禁処分に抗議して学生たちが蜂起し、それに保守系民兵組織が攻撃をしかけて学生を煽り、その後は泥沼状態でイラン各都市に飛び火していった事件だ。1979年のイラン革命以来最大規模と言われたこの騒乱事件は、実はここテヘラン大学生寮に端を発したものだった。以来毎年その時期が来ると、学生たちはデモを行い、寮の前のカルギャル通りは戒厳令下のように軍隊か警戒網を敷く。
 「こうやって学園祭で女の子たちと楽しくやって、ステージ見て騒いで、デモの前に日ごろの鬱憤を晴らさせるんだよ」
 なるほど、確かにステージでのかれらの熱狂を見ていると、溜まり溜まった日ごろの憂さを晴らしているという感じがしないでもない。一部の学生はスタッフの制止も聞かず、立ち上がって何度も気勢を上げては周囲のひんしゅくを買っていた。こういう連中がデモに便乗して兵隊に石を投げたりするんだろう。6月の定例デモへの予防策というのも案外穿った見方とは言い切れないかもしれない。
 また別の学生はこうも言う。
 「この時期になると学生たちはおかしくなるんだ。故郷にいる家族のことを想ったりして、ふさぎがちになる。だからこういうイベントがあるといいと思うよ」
 イランにも五月病があるとは驚きだった。2週間の正月休みを故郷で過ごし、新学期が始まりちょうどひと月たった今頃、かれらはぼんやりと無気力になるのだという。
 「まあ、毎日がんばって勉強してるんだから、年に1度くらいこういうお祭り気分を味わったっていいだろ」
 と、あまり深くは考えない学生もいる。
 いずれにせよ、娯楽と呼べるものが極端に少ないこの国で、エネルギーをもてあましている学生たちには、この学園祭は貴重な存在に違いない。始まりはどうあれ、いつかこの会場に学生たちの自主企画が次々と生まれ、かれらの表現の場として賑わう日が来るかもしれない。
 ところがある日、ほかより数日遅れて完成した1つのブースに目が留まった。そのブースの展示は州の物産などではなかった。中にクモの巣が張り、腐った野菜の入った壊れた冷蔵庫、「故障中」と張り紙の貼られた落書きだらけのトイレ、「10年後にはこうなる」と立て札を立てた瓦礫の山など、皮肉とジョークたっぷりに学生寮の設備改善を求めたオブジェが並んでいた。
 このブースは学生自治会が作ったものだった。今回初めての目論見だという。
 「学長に文句を言われたりはしない?」
 自治会メンバーの女の子に訊ねると、彼女はにこりともせずこう答えた。
 「もし何か言ってきたら、冷や水を一杯飲ませてやるわよ」
 くだらないこと訊かないでよ、とでも言いたげに、彼女の目は冷たかった。
 怖い女の子だなあと思いつつも、私はようやく腑に落ちた思いで学園祭会場をあとにしたのだった。


No.5  学生たちのイラク観

イラクで日本人が巻き込まれる事件が立て続けに起こっているせいか、最近日本の友人から送られてくるEメールは、たいてい私の身を案じる言葉で締めくくられている。心配してもらって申し訳ないくらい、イランは平和である。少なくともアルカイダからテロの標的にされている日本よりは。
 平和であるばかりでなく、テヘランは静かである。しばしば学生運動の震源地となるテヘラン大学でも、隣国の惨状に声を上げる学生の姿はない。テレビやラジオからは毎日イラク関連のニュースが流れ、事の次第は学生たちの耳にも届いているはずなのだが。
 「君らは無関心だな。隣国があんな状態になっているのに、なぜ誰も声を上げない?」
 学生たちにそう訊ねると、ある者はばつ悪そうに、ある者は開き直ったかのようにこう答えるのだった。
 「アラブ人は昔、イランを征服して俺たちの文化を破壊したからね。イラン人は基本的にアラブ人が嫌いなんだ」
 同じイスラム教徒としてのシンパシーはないのだろうか。
 「今アメリカと戦っているのは、もともとサダムの仲間だったやつらさ。そんな連中のために何をしろって言うんだ?」
 関係のない一般市民が大勢命を落としていることについては?
 「サダムがどれだけ悪いやつだったか、イラク人もイラン人も本当によく知っている。それをアメリカが追い出したんだ。アメリカ軍を攻撃する方が理解できないよ」
 イラン・イラク戦争について言及する学生も多い。8年続いたこの不毛な戦争で、イラン人は25万人以上の死者を出している。戦後24年たった今も、開戦記念日、勝利記念日、ホラムシャフル奪還記念日などを盛大に祝い、そうした記念日のたびに生々しい記録映像がテレビなどで流される。人々の記憶から戦争の爪跡はまだ消えていない。
 「捕まったイラン兵がナイフで首を切り落とされるんだ。その映像を見た知り合いの女性は寝込んでしまい、しばらく何も食べられなかったよ」
 「俺が10歳の時父親はイラクとの戦争で死んだ。わずか10歳で父親を失ったんだ」
 アラブ人への嫌悪感とイラク戦での恨み。さらに、これが本音なのかもしれないが、自らが直面する問題を訴える学生も多い。
 「隣国の戦争より、国内の政治的、経済的苦境をどう改善するかだ。自由がない、仕事がない、誰だって自分の身近な問題の方が大事だろ」
 対岸の火事より、我が家の台所が火の車というわけだ。
 実際にはここ数年、イラン経済の成長率は7パーセントを維持しており、今後も石油資源による安定した外貨収入が見込まれている。それでもまだ、現在のイランの国民総生産は1979年の革命前の3分の1に過ぎないと言われている。また、6800万人の総人口の55パーセントが24歳未満であり、毎年雇用機会を求める若者をこの国の労働市場は受け止めることができない。ほとんどの学生が卒業後、2年間の兵役に就く(父親がイラク戦で殉教している場合、免除される)。その後の就職先について訊ねても、誰も明確な答えを持っていない。イラン一のエリート校でこれだ。ましてや学歴のない若者にとって、夢のある未来など描ける状態ではない。ハタミ大統領への支持率低下も、国民の半数以上を占める若者の経済問題、つまり雇用問題が改善されないことへの反映だ。
 5月19日、市街地中央のエンゲラーブ広場で大規模な反米・反イスラエル集会があった。前日テレビやラジオなどで呼びかけられたこの官製デモには数千人の市民が集まり、お決まりの「マルキ バル アメリカ(アメリカに死を)!」のシュプレヒコールと、巨大なアメリカ、イスラエル人形の炎上パフォーマンスで盛り上がっていた。
 だが、このデモの只中にいても、人数の割にはまったく迫力に欠け、人々の表情にもイラクとパレスチナの実情に本当に危機感を抱いて集まってきたという深刻さは感じられなかった。後で学生に聞いた話だと、こういった官製デモは、公的機関の職員等が職場単位で参加させられ、参加しないと後々具合が悪いのだという。実際、デモがお開きになったあとは貸切バスで帰っていく集団をいくつか見かけた。
 イスラム教徒には「防衛ジハード思想」というものがある。イスラム教徒の住む地域を「イスラム共同の家」ととらえ、異教徒がそこへ攻撃をしかける場合、たとえ遠く離れていようとイスラム教徒は同胞を助けるべく「ジハード(聖戦)」に赴くなり、その武装闘争を物理的に支援するなりしなければならない。アフガニスタンへのソ戦による侵攻と米軍による空爆、またイラクにおける駐留英米軍、はたまたチェチェン、パレスチナ、カシミール……、それら「異教徒によるムスリムへの虐殺」に対し、外国から多くの「義勇兵」が参加したのは、この防衛ジハード思想によるものである。
 6月の初旬、外国の複数のニュースサイトでおもしろい記事が流れた。イランの革命防衛隊の一支部が、「殉教作戦」と称して自爆攻撃志願者をイラン各地のイスラム教大学で募り、その登録用紙に1万人を超す男女学生が署名したというのだ。登録用紙には「攻撃対象」として、@イラクの占領米英軍、Aエルサレムの占有者(イスラエル)、Bサルマン・ラシュディ(「悪魔の詩」の作者)、の3つが挙げられ、自分が攻撃対象にしたいものにチェックを入れるようになっている。
 核査察で苦境に立たされ、イラクの二の舞を危惧するイラン当局が、「防衛ジハード思想」の存在を今一度世界にアピールしたかったのかもしれない。だが、本当に1万人もの登録が集まったのか確かめる手立てはない。その登録用紙は金曜礼拝の説教のあとで学生たちに配布されたという。休日にわざわざ大学のモスクへ礼拝に訪れる熱心な神学生たちなら、その手の説教に感化されて、勢いで登録に及んだのかもしれない。
 「登録すれば何かもらえたんじゃないか?」とある学生は笑い飛ばした。
 この国の建て前と本音、表と裏。その乖離の大きさに私はしばしば戸惑ってしまう。

No.6  テヘラン物件事情

 相方をイランに呼び、一緒に生活するため、5月の半ば頃から不動産屋まわりを始めた。
 当初はアパートなど探さず、近くの夫婦用学生寮に移り住む予定だったが、思いがけなくそこは正規の学部生や院生しか受け入れておらず、私のような語学研修課程の学生は入居できないことが判明した。そんな訳で、急遽アパートを探すことになったのである。 「不動産屋」というペルシャ語を覚えてみると、これまで何かの事務所だろうと思っていたほとんどが不動産屋であることがわかった。商店街を歩けば、ここにもあそこにも「マスキャン(住まい)」などの文字をおもてに掲げた看板が見つかる。そのうちの一軒に入ってみた。
 「アパートを探しているのですが」
 「借りるのか、買うのか?」
 「借ります」
 「いくらだ?」
 イランでのアパートの借り方は、日本のそれとは少し違っている。不動産屋で「いくらか?」と訊かれるとき、それは入居時に大家に支払う保証金と、その後、月々支払う家賃とを意味している。
  「保証金は500万トマン、家賃は3万トマンほどで……」
「ないね」
 そこはタジュリーシュと呼ばれる山の手の繁華街で、学校が近いのでこの辺りにいい物件が見つかればと探し始めたのだが、この辺りの相場は私の希望金額の倍近いことが次第にわかってきた。
 テヘランという町は、北にエルブルース山脈を戴き、市街地は南へ向かってなだらかに下っていく。タジュリーシュは背後にすぐ急な山肌が迫り、南部の町並みを見下ろす最も北よりに位置する街区であり、外国人や政府要人はもちろん、この国で上流意識を持つ人々が多く住まう地区でもある。緑が多く、山からの清冽な雪解け水がいたるところに流れている。
 町ゆく人の装いは明るく、洗練され、特に女性は下町である南部に比べて、カラフルなスカーフやマーントに身を包み、タイトで露出度の高い服装をしている人が多い。スカーフは、まとめた後ろ髪にひっかける程度で、七部袖で腕もあらわに、襟足は大きく開き、素足にサンダル履きも当たり前だ。それは、この付近が単に山の手であることを意味するに留まらず、聖職者の統治を国是とし厳格なイスラム法を国法とするこの国において、富裕層がそれに反し自由な空気を求め、また発信している地域であることを意味していた。
 私は学校の近くを諦め、そこからバスで30分ほど南へ下った、学生寮のあるアーミラバード近辺を探し始めた。しかしそこも山の手であることに変わりはなかった。
 ところで、私の言い値である保証金500万トマンとは、日本円に単純換算して約60万円である(家賃3万トマンは4000円ほど)。この保証金は退去時に全額返還される。大家はこの保証金を運用して新しい物件を建てたり買ったりするが、銀行に預けておくだけでも年率10数パーセントを超える高金利のためかなりの収入になる。
 つまり、大家と交渉して保証金を安くしてもらい、代わりに月々の家賃を高くするという支払い方もある。大家の収入に変わりがなければどちらの支払い方法でも良いような気がするが、実際には住人が月々の家賃を滞納するケースが多く、大家としてはできるだけ保証金を多く取り、確実な収入に結び付けたいという計算がある。
 私のアパート探しは、学校から次第に遠ざかる不安を諦めに変えながら、南へ南へと徐々に下っていった。そして実際、標高とともに物価も家賃もわずかずつだが下がっていく。
 ところで、500万トマンとはイラン人の平均年収のおよそ4倍に相当する。仮に保証金100万トマンの物件があったとしても、この国の若者に容易に用立てられる金額ではない。一体この国の学生や、夢を抱えて都会に出てきた若者たちは、どうやって住む場所を確保しているのだろう。なかには同じ目的を持った者同士、お金を出し合いグループで部屋を借りるケースもあるらしいが、若者の気軽な一人暮らしは相当な資産家の子弟でもないかぎり無理なようだ。したがって、かれらが親元を離れ自ら居を構えるのは、結婚を契機にした場合にほぼ限られる。
 イラン人の結婚は一般的に、花嫁が家財道具一式を買い揃え、花婿が住居を用意するという慣習が今も残っている。婚約はしたものの、住む場所を用意できないため、正式な結婚に踏み切れないカップルも多い。貧乏な若い男女が四畳半一間で同棲を始めるというような気楽なことはできないのである。「あ〜、俺も結婚したいよ。金さえあればなあ」と友人のイラン人がしきりにぼやいていたのが思い出される。
 そうした要因もあり、単身者向けの小さな物件というものがなかなか見つからなかった。「狭い部屋でいい」といくら言っても、どこも最低70〜80平米の、明らかに家族向け の物件ばかりを紹介されるのだ。
 アパート探しはさらに南下し、テヘラン市街を東西に横切るアザディー通りにまで近づくと、イラン人の友人たちが心配し始めた。
 「アザディー通りより南には行くな」
 テヘラン市民にとって、アザディー通りは町を「南」と「北」に分ける明らかな境界線として存在していた。その一線より下、つまり南部は、「治安が悪い」、「文化がない」、「人の住むとこじゃない」と散々な言い様をする「北」のイラン人もいる。
 「南部に住んでいるのは純粋なイラン人じゃない。トルコ系やクルド系、アフガニスタンからの連中なんかが大勢住んでいるんだ」
 私はその言葉に逆らい、通りの南側でも不動産屋を探した。この近くのエンゲラーブ広場からなら、片道1時間かかるが、学校まで1本のバスで行けたからだ。さらにもっと南へ下れば、より安くて小さな部屋が見つかったかもしれない。それに南部こそ、元来テヘランの中心であり、人情あふれる下町である。200年近い歴史を持つバザール地区もこの南部にあり、一歩路地裏に入れば、入り組んだ小道に古い土壁の家々が連なる昔ながらの生活がある。しかし、私にとってはこのエンゲラーブ広場が学校へ通うための南限だった。

 6月に入り、私はエンゲラーブ広場のそばにようやく希望通りの物件を見つけた。そこはトルコ系住人やアフガニスタンからの出稼ぎ労働者の居住区を見下ろす、アザディー通りより小道を一本「北」に折れたところにあった。路肩の溝には北部を潤したあとの汚水が勢いよく流れ、さらに南部へと、付近のゴミを押し流していた。

No.7  夏の終わりに

 6月に入る頃から、街路に警官や軍人の姿が目立つようになった。彼らは街角に立って熱心に交通整理をしてくれ、おかげで普段まったく無秩序に等しい信号機のない交差点などは、ずいぶんと渡りやすくなった。しかし実のところ、彼らの任務は毎年この時期に行なわれる学生デモ(イラン便り4を参照)への警戒である。聞けば昨年も同様の警戒網が敷かれていたという。
 しかし今年、学生寮でデモが行なわれることはなかった。大学側が期末試験を早め、早々に寮を閉鎖して学生たちを田舎に返してしまったためだ。一方、夏休みを迎えて街に学生達の姿が半減しても、ものものしい警備は相変わらず続いていた。

 8月も半ばを過ぎた、ある日のことだった。表通りで連れ合い(6月21日イラン入り。市街地中心部エンゲラーブ広場付近のアパートに同居中)と立ち話をしていたとき、突然後ろから誰かに乱暴に肩をつかまれた。驚いて振り返ると二人組の軍人が立っていた。
 「歩道で話をするな」
 意図を量りかねてぽかんとしていると、
 「歩道で話をするなと言っているんだ!」
 と怖い顔でもう一度繰り返した。
 30秒ほどしてようやくそれが「公道で女の子と楽しそうに話なんかするな」という意味だとわかった。
 そこは私が通う学校からさほど遠くないタジュリーシュと呼ばれる閑静な山の手地区で、すずかけの並木が連なるその表通りには、気の利いた品揃えの高価な店がところどころ並び、外国人の姿も珍しくない。テヘラン南部のモスクの前ならいざ知らず、このタジュリーシュで、しかも外国人の自分が、ただ歩道で女性と立ち話をしていたぐらいで肩をつかまれることが意外でならなかった。
 当局による風紀指導が厳しくなってきたという話は、確かに最近あちらこちらで耳にしていた。週末の夜、ドライブ中の若いカップルにその関係を尋問したり、タクシーを片っ端から捕まえてパーティー帰り(テヘランの若者は週末によくホーム・パーティーをする)の乗客をアルコール感知器にかけたり、といった話だ。
 8月に入ってからは、ギラン州とセムナン州の両州で、服装規定から著しく外れた女性が200人近く逮捕され、1200人ほどが口頭による警告を受けたというニュースが流れた。ちなみにこの国の女性は、ルーサーリー(スカーフ)、あるいはマグナエと呼ばれる、顔を出すための穴のあいた袋状の布を頭から被って頭髪を隠し、身体のラインを隠すためのマーントと呼ばれるイスラム・コートの着用が宗教、国籍を問わず義務付けられている。しかし実際には、若い女性の多くはジーンズにスニーカーやサンダル、その上に薄手のサマーコートのようなものを着て、ルーサーリーも髪の毛が透けて見えるような薄手の涼しげな素材のものを後頭部に引っ掛けるように軽く被っている。それでも真夏は女性にとって酷な季節であることに変わりはない。
 取り締まりの行なわれたギラン州はカスピ海南西岸に位置し、セムナン州はテヘラン市の東に隣接する。この両州の地方都市で、流行に敏感な若い女性たちが逮捕の憂き目にあったわけだが、もし流行の最先端をゆくテヘランで同じキャンペーンを徹底させたらどうなっただろう。テヘラン中の警官を総動員しても間に合わないにちがいない。そう思った矢先の9月初旬、とうとうテヘランでも一斉取り締まりが行なわれた。報道によれば、警察のほかに500人似のぼる自警団員、バスィジと呼ばれる保守派支持の市民が動員されたという。街中で女性たちが捕まっている一方、彼女たちのファッションをリードするブティックにも捜査のメスが入った。この夏から、店頭のマネキンにもルーサーリーを被せなければならないとの規定ができた。
 テヘラン市市議会はこの夏、女性に関するもう一つの画期的な計画も発表している。テヘラン市内の五つの公園に「女性専用エリア」を設けるというものだ。
 テヘランには、噴水などを備えた大きな緑地公園がいくつもあり、基本的に娯楽というものが少ないこの国の市民にとって、かけがえのない憩いの場となっている。公園なくして家族の週末はありえないと言っても過言ではなく、木曜の夜には(イランでは金曜日が安息日で休日)どの公園もゴザと夕食用の食材、煮炊き用のバーナーを持ち込み、ピクニックに興ずる家族連れで混雑している。その公園に、「男性の目を気にすることなく」「服装コードに縛られず、リラックスでき、運動もできる」という名目で、外からは見えない女性専用エリアを設けるというのだ。
 このニュースについて知人のイラン人男性に意見を聞くと、「女性がリラックスできる場が増えるのはいいことだね」と答えた。しかし、隣にいた妻(24)は腹立たしげにこう反論した。
 「そんなもの女性の自由の拡大とはまったく無縁で、社会から女性の存在を隔離したいだけよ。ルーサーリーなんて家に帰れば外せるし、何も公園でそんなエリアに入ってリラックスしたいなんて思わないわ」
 しかし実際、公園で一人たたずむ若い女性に男がしつこく声をかけている場面は少なくない。
 「本来、男女の間に仕切りを設けるのではなく、男性は女性に迷惑をかけたり不愉快な思いをさせない。そういうことを理解しあうことの方が大切なんだけどね」
 このニュースについて、ある年配のイラン人男性はそう答えた。
 イランでは、市バスは車体の中ほどに仕切りを設け、前後で男女を隔てている。地下鉄には女性専用車両があり、女性はその車両以外に乗っても構わないが、実際には夫婦でさえ別々の車両に乗ることを選ぶ。学校も大学に入るまでは完全に男女別学だ。

 この夏の一連の風紀取り締まりを、私は5月から第7回国会がスタートしたせいだと思っていた。この国会は2月の国会選挙で圧勝した保守系議員が大半を占めるもので、彼らは選挙に勝利した以上、支持者に対して何らかのポーズを見せなければならない。その一環として、最も容易な女性への取り締まりを始めたのだろうと思っていた。
 しかし当のテヘラン市民に訊ねると、国会が代わっても内閣までは代わっていないので政策そのものに大きな変化はないはずだという。それに、服装の取り締まりは今になって始まったものではなく、薄着になり始める初夏や、外国から要人を招いたりする直前にはよく行なわれるものらしい。つまり、最近になって政府がある方向に傾き出したというわけではないという。
 締め付けたり、緩めたり、その繰り返しで当局は、若者の心理が一定の基準を超えないようにバランスよく操っているのだ。97年にハタミ政権が誕生して以来、この国の自由は増したと外国では報道され、確かにそれ以前に禁止されていた多くのことが徐々に問題にすらされなくなってきている。しかし、それも表面上のアメとムチに過ぎない。
 「服装や文化の規制緩和はさして重要なことではない。女の子と街中を歩けることだって、たいした意味はない。そんなものは本当の自由ではないのだ」
 以前私に語ったある学生の言葉が、今になって思い出される。

 これからイランは核問題で国際的に孤立してゆくだろう。それに応じて国内での「引き締め」も強まるかもしれない。しかしそれとて外国へ向けたポーズに過ぎないことを、この国の国民は冷めた目線で見据えるだろう。そして、夏の酷暑がいつか過ぎ去るように、次の季節をしたたかに待つのかもしれない。
 しかし、もし国連で経済制裁が決まったなら、破壊される国民経済を目の当たりに、かれらは自らの明日を本気で考え始めるかもしれない。



▲ルーサリー(スカーフ)を被せられたマネキンたち

No.8  断食は反米の叫びと共に明ける

 

▲「エルサレムの日」は「『アメリカに死を』の日」
の横断幕
▲多分イラン人も「やりすぎ・・・」と思ったはず。
でも子供達は真剣です。
▲エンゲラーブ広場を次々と通過してゆくデモ隊
▲不浄な動物として、イラン人はほとんど犬
を飼いません。
▲かわいそうなロバ。しかし大人も子供も大喜
びでした。
 10月16日午前4時過ぎ、ニュース速報のような電子音とともに、テレビの画面下に小さく「テヘラン地区 朝のアザーンまで30分」と表示が現れた。まもなく迎える夜明けのアザーン(礼拝呼びかけの朗誦)とともに、1ヵ月に及ぶ断食月が始まるのだ。
 外を眺めると、通りを挟んだ向かいのアパートに明かりの灯る窓が4つ。人々はこの時間にわざわざ起きて朝食を食べ、その日の断食に備える。テレビ画面のカウントダウンは「あと10分」、「あと5分」と5分刻みの表示になり、早く食事を済ませるよう促す。
   そしていよいよテレビから朝のアザーンが流れはじめた。近所のモスクからも、まだ白々ともしない未明の静寂の中、冷気とともにアザーンの朗誦が漂い流れてくる。5分ほどでアザーンが終わると、さきほど灯っていた窓明かりがぽつりぽつりと消え始める。もう一眠りするのだろう。
 イスラム教徒にはイスラム五行と呼ばれる5つの義務がある。清浄・礼拝・喜捨・巡礼ともう1つ、年に1度、ヘジラ太陰暦の9月にあたるラマザン月に断食を行なうことだ。日の出から日没まで、日が出ている時間帯は食事だけでなくタバコや水を口にすることも禁じられる。また、声を荒げたり人と争ったりせず、喜捨に努め、忍耐力と自制心を養う。旅人、病人、妊婦、そして異教徒は例外とされるが、せっかくイランにいるのだ、イスラム教徒の断食がどういうものなのか、私も実行してみることにした。
 ラマザン月第1日目の今日、商店街ではサンドイッチ屋やピザ屋といった軽食屋やレストランが軒並みシャッターを下ろしている。季節がら、もう収入の見込めないアイスクリームや生ジュースの専門店は、この日を境に衣料品やCD、生活雑貨などを売る店に衣替えしてしまった。
 午後からはペルシャ語の授業があり、17時過ぎに乗り込んだ帰りのバスは大混雑していた。道路も渋滞している。車窓には、慌ただしく開店準備をするレストランや軽食堂が見える。およそ13時間に及んだ今日の断食がまもなく明けるのだ。誰もが空腹を抱えながらその瞬間を待ち望んでいた。願わくは、そのときまでにバスが目的地に到着し、何かを口に入れられる境遇にありたいものだ。
 17時半を過ぎた頃、車窓から眺めたレストランに食事を取る客の姿を見つけた。どうやら日没を迎えたらしい。エンゲラーブ広場の終点にバスが到着したのは、それから15分ほどしてからだった。
 断食明けの夕食は、毎夜家族とともにご馳走を囲むのが一般的だが、単身者や時間的に間に合わない人は近くの食堂に駆け込む。どこも満員だ。広場ではパック入りのジュースとビスケットを無料で配っている。相方がもの欲しそうに見ていたせいか、わざわざあとから走って追いかけてきて「どうぞ」と二人分を手渡してくれる男性がいる。女の子たちはたいていモゴモゴと何か食べながら歩いている。相方によれば、バスの女性エリアでは日没時間を過ぎた途端、ほとんどの女性がパンやビスケットをいそいそと取り出し、まずは隣の女性に勧め、人が口にするのを見届けてから食べ始めたそうである。
 街なかにはお祭りムードが漂っていた。どの食堂も直径1メートルはある大鍋を2つ、店先に並べている。1つはアーシュ・レシテと呼ばれる、様々な野菜や豆をどろどろになるまで煮込んだうどん入りスープで、もう1つは七面鳥を1晩かけて形状がなくなるまで煮込んだハリムと呼ばれる白濁したスープである。どちらも宗教的な祭日によく出される特別料理だ。どんぶり1杯50円ほどで、若者や学校帰りの女の子たちが店先で立ち食いをしている。断食明けに欠かせない砂糖漬けのお菓子やケーキの菓子箱を携え家路を急ぐお父さんの姿も目立つ。私たちもその晩はアーシュ・レシテを立ち食いし、ミニシュークリームを500グラムほど買って家路に着いた。

 初めて臨んだ断食は、思ったよりつらいものだった。外出中は人目があるが、家にいるとつい誘惑に負けそうになる。誰の強制でもない。禁煙のように、健康のためという目的があるわけでもない。ただ神と自分との関係において1ヵ月の断食がいかなる意味を持っているかが問われるのみである。そう問われれば、ムスリムでない私にとって断食はあまり意味などないのかもしれない。私はただ、このラマザン月に起こる様々な出来事を、イラン人とともに共有したかったのだ。まずこの空腹感の共有なくして、なにが共有できよう。
 ところが、その意思がもろくも崩れ去る日が思いがけず早々とやってきた。ラマザン月4日、その日は朝からなぜか電話が使えず、八方尽くして原因を探ったが分からず、もともと調子の悪かったモジュラージャックが壊れたのかと思い、電気部品屋を探して商店街を歩き廻っていた。ようやく見つけた店は閉まっていたが、ガラス窓から奥を覗くと、なんと店主が食事をとっている。不心得なムスリムもいるものだと思い、他の店を探していると、車のなか、店の奥、あるいはすれ違いざま、いたるところで口をもぐもぐとさせて明らかに何かを食べている人たちの姿を目にした。アパートに帰ってみれば、階下に住む家族連れの部屋からもカチャカチャと昼食を囲むフォークとスプーンの音が聞こえてくる。
 「みんな、食っとるやないか・・・・・・」
 空腹と徒労感を抱えて帰宅した私と相方は、それから10数分後、どちらともなくお茶の支度を始めたのだった。
 しかしその後、実際には私が思ったほどイラン人の断食実行率は低くないことが分かった。例えば、あるイラン人家族の家に招待されると、家族のなかでも食事に手をつける者と絶対につけない者がいる。ヒーターが故障して修理に人を呼べば、1人はお茶を口にし、1人は決して口にしない。断食をする者もしない者も、互いに相手の立場を尊重し、また、自らの立場を明確にしているその様子は、断食があくまで神と自分との約束以上のものでないことを物語っていた。断食はイスラム教徒の義務だからと強制されるものではないのだ。貧しい者の飢えの苦しみを体験するのに1ヵ月という期間は根拠がないし、第一、日没後は普段より豪華な夕食や甘いものを食べるというのでは、どこか矛盾していると言えなくもない。だから人々は、どういう断食を自ら課すのか、各々が考え、実行するのである。

 11月12日、ラマザン月最後の金曜日は、「世界エルサレムの日」とされ、イラン全土で毎年、反米・反イスラエルの大きなデモ行進が行なわれる。
 イランでしばしば行なわれる反米集会・デモは、官製デモであり、政府の呼びかけによるものだ。特にイスラエルに関しては、「この世から消滅させる」と公言してはばからない。イスラムの同胞であるパレスチナ人を長年虐殺し続けるイスラエルと、そのイスラエルを保護する米国を敵視することは、イスラム国家としての義務であると内外にアピールしているのである。この「世界エルサレムの日」も、イマーム・ホメイニが、毎年ラマザン月の最後の金曜日を「エルサレムの日」と名づけて、パレスチナが開放される日までアメリカ・イスラエルに対してデモを行なうよう世界のイスラム教徒に呼びかけたのが始まりだ。
 その朝、拡声器によるシュプレヒコールで目が覚めた私は、急いで外に飛び出した。すでにエンゲラーブ広場はデモ隊で埋まりつつあった。
 デモ隊は大小様々な集団から成り、西のアザディー広場方面から次々にここエンゲラーブ広場に到着しては、東よりのフェルドゥスィー広場方面へと抜けてゆく。前日のテレビで、公共機関や学校、保守系政党、バスィジィ(革命防衛隊の下部組織である市民動員軍)各組織やその家族にしきりに参加を呼びかけていた(実際には単に呼びかけるだけでなく、各機関や職場に前もって当局から通達があり、個人の意思とは関係なく職場単位で駆りだされるのがイランの官製デモである)だけあり、かなり大規模なデモ行進である。イランでは毎日のようにパレスチナ関連のニュースが流されるが、ここ数日はそれに輪をかけてパレスチナの悲惨な映像がエンドレスで流され続けていたせいもある。カメラを向けると、「俺たちはみんなバスィジィだ」と胸を張る男性もいれば、現政府に批判的であってもパレスチナには深い同情を寄せ、当局主導の官製デモと知りつつ参加した個人も少なくない。
 「毎日、自分よりずっと小さな子供たちがパレスチナでは殺されている。黙って見てはいられない」友人2人でデモに参加した経営学専攻の男子学生は、そう語った。
 その日、テレビのニュース番組では「パレスチナよ、ひとりではない」「最後までパレスチナと共に」などというテロップと共に、特別番組や今日一日のイラン各地でのデモの様子を放送し続け、翌日の新聞ではイラン全土で数百万人がデモ行進に参加したと発表された。
 デモというものを、当局に何らかの政策変更を迫るための抗議行動だと考えれば、もともと政府が強硬な反米姿勢を取り続けるこの国で、国民が反米デモに参加する意味はあまりない。せいぜい政府の政治的動員力を内外に誇示する役割を担わされるのが関の山だ。それでも、所詮は動員デモと馬鹿にできないほど、今日のデモは力強く真面目なものに感じた。政治的にあまり意味がなくても、こぶしを空に突き上げ、「アメリカに死を!」「イスラエルに死を!」と大気を揺るがせるようなシュプレヒコールを挙げるイラン人の姿が、パレスチナ人に少しでも勇気を与える結果になれば、それで十分なのかもしれない。

 11月15日、30日続いた断食月が明けた。街路を歩くと、昼間から営業しているサンドイッチ屋や、食べ歩きをしている女の子の姿を目にし、ようやくまた日常に戻ったのだと実感する。実際、断食をリタイヤしてからも、何度か朝食を食べそびれて外出し、実質断食に近い1日を何度も経験しなければならなかった。そのため、空腹の苦しみとともに、好きなときに物が食べられる自由というものを、断食月が明けた今、実感している。わずか1ヵ月という期間限定の制約でも、小さな自由の喜びを感じることができるのだ。完全に断食を実行した人たちにとっては、なおのことだろう。世界中のイスラム教徒たちが今日、その喜びを共有しているのかと考えると、いまさらながら中途でリタイヤしたことが悔やまれる。飢えの苦しみより、今日の喜びをこそ彼らと共有したかったと思う。


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