ラオス便り
ラオス在住の島崎一幸(しまざきかずゆき)さんの「ラオス便り」を連載します。
島崎一幸さんは1970年から3年間ビエンチャン郊外タゴンで青年海外協力隊の一員として農業指導に従事しました。その後、ラダワンさんという可愛いラオス女性と結婚して帰国。10年ほど前から再びラオスに戻って、コンサルタント会社を経営しています。農業開発が仕事の中心なので、島崎さんはラオス人もほとんど知らない深い山の奥のずいぶん辺鄙なところにまで入っています。そうした仕事現場での珍しい写真を発表してもらうことになりました。これこそ、誰も伝えたことのない本当のラオスです。なお、島崎さんには「ラオス概説」(ラオス文化研究所編)制作にあたってとてもお世話になり、写真も使わせていただきました。
第1回 ラオス:ウドムサイ県。テーマは子供、市場、焼畑です。
●子供ウドムサイ県県庁所在地のムアンサイ(サイ郡の郡庁所在地、サイ町)から南へ向かう国道2号線沿線上の峠近くにある「ラオスン」部落の子供達。家々は山の尾根の道路の脇の崖淵に、ギリギリ建っている。 | |
国道2号線。「ラオスン」の子供達だけで焼畑地から家に帰るところのようだ。男の子は堂々として頼もしい。 | |
上と同じ国道2号線。 | |
ムアンサイ(サイ郡の郡庁所在地、サイ町)の市場から出てきたところ。市場で何か収穫物を売り終わって、家に帰るところのよう。 | |
ムアンフン(フン郡)の「ラオルム」の子供。水田の近くの高床式家屋。 | |
ウドムサイ県県庁所在地のムアンサイから南へ向かう国道2号線沿線。「ラオルム」部落の前。捕まえたヘビを買ってくれないかと子供が私達の車を見て寄ってきた。こういう場合はいつもローカルの運転手が値段の相場を知っていて、値引き交渉をする。買った値段は幾らだったか忘れてしまった。 | |
ムアンフン(フン郡)から1日泊まりがけで訪ねていった部落への途中であった子供達。後ろの柵は焼畑地の動物防護柵。焼畑で重労働なのは、刈り払い、火入れ、藩種、除草(年3〜4回)の他に、防護柵つくりがある。 | |
ムアンサイ(サイ町)付近の「ラオルム」の子供達。日本と同じで竹馬で遊ぶ。ラオス本来の遊びか、直ぐ近くの中国からの伝わってきたのかわからない。 |
ラオスの市場の売り子は殆んどが女性。また写真のような小さい子供でも一人前に商売をしているので感心します。売り子は「ラオルム」の女の子。 | |
売り手は「ラオルム」、買い手は「ラオスン(モン)」の人たち。売り手はテーブルがある市場の正式な場所(場所代を支払う)で売っている。 | |
売り手は「ラオスン」、買い手は「ラオルム」の人たち。売り手は地べたにビニールを敷いただけの場所(場所代を払えない)で今朝自分達が収穫してきたものを売って現金にして、そのお金で必要なものを買って帰る。 | |
売り手は「ラオスン」の子供。上の市場にくらべて品数も量も少ない。 |
焼畑で陸稲の刈り入れが終わると、その一部を利用してまだ、土に水分が残っている11月にケシの種を播き、間引きをする。 | |
ケシ栽培の畑にあった番小屋で休んでいた親子(父親と娘)。国道2号線から1時間程度奥に入った傾斜地。ケシ栽培はこの頃(1992年)はまだ公然と栽培されていたが、政府が「ケシ栽培撲滅運動」を大々的に実施するようになり、このような畑は今はもう見られないのかも知れない。 | |
焼畑地での陸稲刈り入れ。脱穀。山の殆んどが焼畑地。 | |
焼畑地でのケシ栽培と同じように、低地水田の裏作でもケシが栽培されていた。 | |
ルアンナムター県のムアンシンでは市場の傍の路上では女の子がケシの種が入っているケシの実を売っていた。 |
第2回 ラオス:焼畑での陸稲と低地水田の水稲――ホアパン県とボーリカムサイ県
ホアパン県とボーリカムサイ県で見た「焼畑での陸稲と水田稲作のコメの収穫」の写真を載せます。ただし、農村の人々の営みはいろいろあって、稲の刈り取り、運搬、脱穀、精米でも様々です。電気のない貧しい山奥では手や足で臼をついて精米をしていますが、ハンドトラクターのエンジンをつないで籾摺り機を回している村もあり、大きな町では精米機もあります。ここに載せてある写真がラオスの農業のすべてではありません。このほかにまだ、いろいろな方法があることをご承知ください。
Ban Tao(タオ村)はホアパン県の県庁所在地サムヌアから東南に約150km(山道の悪路のため車で6時間)のところにあるサムタイ(サムタイ郡の郡庁所在地の田舎町)から更にサム川を約20km下ったところにある、一山越えれば直ぐベトナムという山奥にある村です。ですから、私は最初にタオ村へ行くまでは「きっと高地ラオ族の部落だろう」と予想していました。ところが、タオ村はサム川沿いに50 ha近い水田をもっていて、住んでいる人たちも低地ラオの人々でした。村人に聞くと、彼らの故郷はボーリカムサイ県のカムクート郡で100年以上も前に新天地(水田)を求めて移住してきたのだそうです。タオ村からカムクート郡まで真南に直線距離にしても約200kmあります。きっと、ベトナムとラオスの国境沿いの山と川をいくつも越えてたどり着いたのでしょう。そのたくましさを想像すると、ラオスの人々を一言で「怠け者」と片付けるのはどうかという疑問がまたまた湧き上がってきました。
焼畑での稲の刈り取りは民族あるいは地域によっていろいろあります。学術的な分類は専門家にまかせるとして、一般に焼畑陸稲の収穫は「稲穂を刈る」のではなく「稲の穀粒をしごいて、穀粒だけを腰につけた小さな竹篭(1〜2kg程度入る)に入れ、ある程度集まったら、その日の集積地点(ビニールやござを敷いてあるところ)まで運び、それを繰り返して、村まで運ぶのにちょうど良い量(10〜20kg)が集まったら、竹や籐で出来た背負い籠に入れて家まで運ぶのが一般的です。ところが、タオ村の人々は稲穂を30センチ程度の長さのところで刈り取って束ね、刈り取った場所の近くで一旦乾燥させます。 |
乾燥させた稲穂を背負い籠に入れて村まで運びます。 | |
村まで運んだ稲穂を足踏み脱穀機で脱穀し、各家の穀物小屋に保存します。以前、私も青森で仕事をしていた時、倉庫の奥に埃をかぶって積まれていた写真のような足踏み脱穀機を見たことがあります。昔は日本でも使っていました。ただ、この足踏み脱穀機はラオス全体から見るとほんの一部で使われているに過ぎないようです。ラオス南部のアッタプー県の農業局に派遣されていた日本青年協力隊員の話では、その地方では随分と足踏み脱穀機が広く使われているようですが、北部のルアンナムタ−県ではほとんど使われていないようです。アッタプー県の足踏み脱穀機はもともとはベトナム製だということでした。次で紹介する「水稲の収穫の写真」にあるように、一般に水田での脱穀は地面に叩きつける方法で行ないます。最近では、ビエンチャンを初め、大きな平野の水田地域ではトラックに脱穀機を積んで各農家を回っている移動式脱穀請負業者を利用するのが一般的になってきました。 |
●水田の刈り取り(ボーリカムサイ県カムクート郡ラクサオ近く)
打ち付け式脱穀 | |
団扇でごみを吹き飛ばしているところ"(風選) |
第3回 ラオ・スン(高地ラオ人)の引越
ラオス政府は山奥に住んでいる高地ラオの人々に対する医療、教育等の社会サービスを向上させるべく、よりアクセスの良い山のふもとに下りてくるよう、移住計画を進めている。「引越し」は、写真にあるように山の上から歩いて半日程度のふもとに下りてくるような場合もあれば、これまで住んでいた土地(県)からずっと離れた他の県に移住地が用意されていて、トラックを仕立てて引っ越す場合もある。高地ラオの人々はこれまで伝統的・粗放的な焼畑農法に生活を依存していたが、人口増加によって利用できる土地が限られ、これまでのような生活が成り立たなくなり、政府が進めている移住プログラムに応じて山を下りるようになってきている。新しい移住先には灌漑施設のある水田や診療所、小学校等が政府によって用意されている場合もあるが、政府の予算が限られているため、ほとんどは自分たちの力で新しい集落の建設から始めることになる。
写真はホアパン県サムタイ郡タオ村付近でたまたま見かけた引越し中の高地ラオの家族(女性と子供たち)である(1998年1月)。背負って運んでいるのはこれまで住んでいた家の屋根材(松ノ木で大きさは長さ約1m、幅20〜30cm、厚さ1.5cm程度)である。一人の男の子は屋根材ではなく、一番下の弟?(妹?)を背負っている。大人の男性たちが写真には見えないが、彼らは家の解体を担当しているのか、あるいは、新しい移住先で住宅を建設中かも知れない。
第4回 ラオス北部の伝統的灌漑施設
「竹水車」(ホアパン県)
ホアパン県ナムサム川に多く見かけられる竹製の水車。直径は3m以上。非常に芸術的な作品である。雨季の水田作に補給灌漑として使用される。雨季にナムサム川の水位があがり、水量が増すと水車が回り出し、川の水が汲み上げられ、竹の樋を伝って川に隣接した水田に送られる。
「伝統取水堰」(サイニャブリー県)
木組みの堰で川の水を堰き上げ、水路に導き、水田に灌漑している。1〜2戸の農家の水田用の小規模な堰(サイニャブリー県2)もあれば、20〜30戸の農家の水田を潤すための、かなり大規模な堰もある。(サイニャブリーブリ県1)の堰の高さは3m以上ある見事なものである。これだけの水量の勢いにも負けないでどっしりと安定している。
「水路橋」(シェンクアン県)
シェンクアン県で見かけた農民が建設した水路橋。3枚の板でU字型に組んだ箱型の水路、見事に水が川を渡っている。
「伝統堰−1」(ビエンチャン県バンビエン郡)
丸太と小枝と石を組み合わせ積み上げた単純な堰。川幅は40mほど。堰の高さはあまり高くなく1m程度。川の流れを斜めに受けて、写真の左下部分で取水して、水路に続いている。
「伝統堰−2」(ビエンチャン県バンビエン郡)
丸太だけを組み合わせた伝統堰。川幅は30m程度。堰の高さは3m。これも芸術的な見事な堰である。
「伝統堰」(ルアンパバーン県)
ルアンパバーン県ナムバック郡、ゴイ郡の典型的な小規模の伝統堰。材料は丸木、竹、小枝など。川幅は10〜20m程度。堰の高さは1m。
第5回 ホーチミンルート
「ベトナム戦争」という言葉はもうずっと昔の話になってしまった今、「ホーチミンルート」といってもどれだけの人々が関心を持つものだろうかと心配になってしま う。「ホーチミンルート」はベトナムとの国境地帯のラオス側の山岳地帯を南北に何 本も走っていた道路で、ベトナム戦争中は北ベトナム軍部隊の移動と武器の補給路と して使われていたという。写真は国道9号線のサヴァンナケート県セーポーン郡から南のノーン郡へ続く、現在の郡道である。当時のホーチミンルートは、道路幅は軍用トラックがやっと通れるほどの3メートル程度だったのではないだろうか。写真でわかるように、道路の半分だけに大きめの砕石がびっしりと敷き詰めてある。これならば雨季でもトラックの移動ができたであろう。
「ホーチミンルート」(サヴァンナケート県ノーン郡)
交通量はほとんどなく、途中はまだまだ深い森に覆われている。
「ホーチミンルート沿いの村の爆弾痕」
今でも爆弾の落とされた痕は直径10メートルほどの窪みが残っている。
「ホーチミンルート沿いの村:子守りをする母親」
ラオ・トゥン(山腹ラオ人)の母親。カメラを向けてもニコニコとしていて、こちらがちょっと恥ずかしい気持ちを持ちながらシャッターを押した。
「ホーチミンルート沿いの村の人々が使用している大きな鍋」
何を料理するのか、またなんでこのような形をしているのかわからない。ビエンチャンの土産・骨董屋ではよく見かけるこのような鍋をまだ実際に使っていることを知って写真を撮った。
第6回 ラオスの焼畑
焼畑は従来休閑期間を7〜12年置いたサイクルで行なわれてきたので、休閑期間中に土壌の地力は回復し、比較的持続的な農業を営むことができていた。しかしながら、最近では人口の増加に伴い、農民達は限られた土地を3〜5年のサイクルで循環させなければならなくなっている。このため、地力の回復が間に合わず、作物の収量も下がり、更に雑草の成長が早くなり、除草の手間が増えなど、これまでの焼畑を続けていくには難しい環境になっている。以下に5村の焼畑地を紹介するが、村によっては丸坊主で殆んど森が残っていないところがある一方、サイニャブリー県ナムティアオ村のようにまだまだ周辺に森が残っている村落もある。
サイニャブリー県ナムティアオ村:ラオ・スン=高地ラオ(モン族)の村。山の向こう側には緑深い森が見られ、まだまだ自然の恵みが豊かな村。
ルアンパバーン県ヴァンフン村:ラオ・ルム=低地ラオの村。村には水田がなく、農民は限られた土地で焼畑耕作を行なっている。写真を撮った日は「山に火入れ」をしてから何日も経っていないのか、灰に覆われた畑地を歩くとまだ火照るように熱かった。
ルアンパバーン県サムトン村:ラオ・トゥン=山腹ラオの村。村には水田がなく、遥か遠くまで焼畑耕作の山肌が見えている。
ルアンパバーン県パクセン村:家族で種まき。突き棒で穴をあけ、その穴に3〜5粒の陸稲の種籾を落としていく。
ルアンプラバン県ポンドン村:村の共有地を協同で種まき。突き棒で穴をあける人の列の後ろから種籾を落とす係りの農民が付いていく。
第7回 特別区 サイソンブン
サイソンブンは1994年7月に特別区に指定された。サイソンブン郡、プーン郡、タートム郡の3郡からなり、現在でも一般の旅行者は自由に入ることができない。サイソンブン特別区のキャピタル所在地は、現在は「サイソンブン」と呼ばれているが、特別区に指定される前まではビエンチャン県のチャー郡(ムアン・チャー)(町の中心を流れるチャー川から名前がとられている)と呼ばれていた。「サイソンブン」へはビエンチャンから国道13号線をターフア村まで約130 km北上し、ターフア村から県道「ターフア・サイソンブン道路」(国道13-Bとも呼ばれている)の砂利道を約100 km進むと辿り着く。ターフア村からサイソンブンまで距離は100 kmだが、道が悪いため4輪駆動車で約4時間の道のりである。
乾季のサイソンブンの町の眺望:2001年当時、サイソンブンは治安が悪く、「外国人は行かない方が良い」と言われていた。下の2枚の写真は、2001年の乾季にラオス人の仕事の同僚がサイソンブンへ行った時の写真である。
その後もしばらくサイソンブンの治安は良くならなかったが、2005年6月にようやく訪れるチャンスができた。この日は雨模様だったため、町の近くの山並みが雲で覆われていて残念だが、4年の月日の経過ははっきりとうかがえる。電気が普及し、新しい家も多く見られる。画面の中央やや左に流れている川がチャー川である。
サイソンブン市場周辺の商店 :サイソンブンへ辿り着くまでに目に映る景色は、「将来はエコツーリズムの拠点として脚光を浴びるのではないか」と思わせる豊かな自然であふれていた。しかし、サイソンブンの街中では携帯電話の普及がすさまじい。
炭と床屋とVCDを売る店。
中国製の安い雑貨品、衛星テレビ用アンテナ、なぜか浮き袋まで売っている。
サイソンブンの市場:市場の中はラオスのどこでも見られるような風景だった。携帯電話の氾濫を見たショックも少しやわらぐ。市場で野菜、果物、肉等を売るのはいつも女性、それも女の子が一人前に商売をしている。いつもほっとさせてくれる風景で、思わずシャッターを切ってしまう。
第8回 サヤブリーから
サヤブリー(サイニャブリー)県はチャンパーサック県の一部とともに、唯一メコン川の西側にある県で、タイとは地続きです。サヤブリー県のパークライからビエンチャンの町まではまだ舟が行き来しています。2006年4月24日、ビエンチャン県のサナカーム郡からパークライの対岸まで行く途中の道路(最近ADBの資金で完成しました)で3頭の象たちに行き会いました。
国道が開通したので、今年1月からサナカーム-パークライ間に写真の2台のフェリーが進行するようになりました。パークライ地域の人々のビエンチャンへの交通はもともとメコン川を利用していましたが、将来的には陸路による交通に代わっていくものと思われます。
パークライから北上し、県都のムアン・サヤブリーを過ぎると、再びメコン川に出ます。対岸はルアンプラバーン県ナーン郡です。ここでは2つの民間フェリー会社が1日交代でフェリーを運行しています。前回、2006年1月14日にはこのように順調に運行していました。
しかし、今回(4月26日)は同じフェリーが故障して修理中でした。
2時間ほど待っても修理が終わらず、とうとうもう1つのフェリーが代わりに運転を始め、我々はそのフェリーで対岸へ渡りました。たとえ1台のフェリーが故障してもすぐには交代フェリーを運転せず、しばらくは修理の行方を見守るのが約束となっているようでした。
ラオス便りNo.9〜No.16 ラオス便りNo.17〜No.24
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