【書評再録/2000年以前】
インド

ペシャーワル急行 クリシャン・チャンダル著・謝 秀麗編

- 人間の心に潜む残虐さ 愛憎、嫉妬、絶望を描く-

 パキスタンの国語でインドの数ある公用語のひとつであるウルドゥー語は、音の響きが美しく、ウルドゥー定型詩ガザル(叙情詩)はウルドゥー語使用者以外の人々にも甘美な詩として愛唱され、映画の台詞や歌の歌詞にもウルドゥー語の単語が使用されることも多い。しかし、社会派作家の手にかかるとその美しい響きの言葉は鋭い言葉に変貌する。ここに収められている作品はその様な鋭い言葉によって描かれたものである。表題の「ペシャーワル急行」は印・パ分離時のヒンドゥー・ムスリム両教徒による悲惨な殺りくの現実を難民の乗る急行列車「ペシャーワル急行」を通して克明に描き出したものである。ここでは、家を捨て、村を捨て、国を捨て、安住の地を求めて避難する人々が列車から引きづり出され、掠奪され、殺される悲惨な光景が展開される。そこには、宗教の違いがもたらす憎しみは、ある状況下では信仰をもってしても制御できないものであり、人間の持つ限りない残虐さが描き出されている。ベンガル地方を襲った飢きんを題材にした作品「アンヌ・ダーター」では、おびただしい数の人間が食べるものを求めて大都市へ流入する姿を描く。その飢きんは人工的に作り出されたもので、その飢きんによって、食を求めて歩くおびただしい数の人間は、まるで蟻のようであり、踏み殺されようが、飢え死にしようが、顧みられない人間の死の行進であるという。作者は「これらの人間たちにせめて蟻ぐらいの秩序と統制があればこんな状態にはならなかっただろうに。蟻やねずみでさえこれほど悲惨に死にはしないだろうものを」と突き放しながらも、かと言って「施しでいつ誰の腹が満たされるのか。施しは生を与えはしない。施しはいつも欺瞞を与える」と社会を見透かしている。人間によって人間の尊厳が無視された人間の姿がここでは描かれている。インド社会の現実をテーマにしたこれらの作品のほかに愛をテーマにした作品も短編集には含まれている。自然の美しさと恋愛を扱ったものは、インド映画のシーンをほうふつとさせるものがあるが、何といっても作者の面目躍如たるものは恋愛小説でもストーリーの意外性を駆使して人間の心に潜む愛憎を暴き出し、それを読者に突き付ける作品である。「ピレートゥー」はそんな作品で、読む者をドキリとさせる。
 インドには、民衆のありのままの姿を描く作家、虐げられる底辺の人々を描く作家、あるいは「建て前」と「本音」に裏切られて生きる民衆を描く作家がいるが、この短編集を読む限りではクリシャン・チャンダルは民衆とか底辺の人々とかにかかわりなく、「人間」の「本音」を直接的に描く作品といえよう。それは人間の心に潜む残虐さ、愛、憎しみ、嫉妬、絶望を直接的に表現し、人間のもつ見せかけの優しさ、思いやり、因習の衣を剥ぎ取り、人間の根源的な愛とは、生きるとはを読むものに問いかけているようである。
鈴木 良明(ヒンディー文学研究家)・週刊読書人1987年1月12日号掲載

焼跡の主 モーハン・ラーケシュ著・田中 敏雄他訳

 世評の高かった映画「ガンジー」などを観ると、独立運動における民衆のヒロイズムが強調され、独立と同時に始まったパキスタンとの分離、人為的な国境の線引きによって引き起こされた巨大な悲劇がまるで見えてこない。
 イスラムとヒンズー、イスラムとシークという宗教問題を背景とした分離独立…約一千二百万の人たちが生活の根を断ち切ってそれぞれの宗教を戴く新独立国へと移動した。その混乱のなかで相互殺りくが行なわれ五十万とも百万ともいわれる犠牲者が出た。本短編集の表題作をはじめ他数編が、分離独立の悲劇を背景にしている。
社会新報1989年4月28日掲載

マレナード物語 K・P・プールナ・チャンドラ・テージャスウィ著 井上 恭子訳

 世界には三千とも五千ともいう言語があるそうだが、そのうち日本語に訳されているのはほんの一握りにすぎない。
 最近、知人から『マレナード物語』という翻訳の小説を頂いた。解説を読むと、本邦初のカンナダ語文学とある。
 なんでも、カンナダ語は南インドのカルナタカ州の公用語で、この言葉を理解できる人は四千五百万人もいるという。
 マレナードとは、カンナダ語で山国の意味。人々は、州内を南北に走る山地を、親しみをこめてこう呼ぶのだそうだ。
  著者はテージャスウィーという人で、農耕のかたわら、マレナードの自然と人を描き続けている。これも、幻想的で土地への愛着に満ちた作品だ。
  作者とおぼしき「私」と、虫にくわしい青年、木登りの達人らが、政府の上級職で生物学者のカルヴァーロとともに、三億年も前に絶滅したとされている飛びトカゲを探しに行く。
 彼らは果てしないナツメヤシの大海原を越え、ようやくたどり着いた森の中で、めざすトカゲを見つける。そして断崖に追いつめ、ついに捕らえたと思った瞬間、トカゲは奇跡のように白っぽい翼をひろげ、薄青い虚空に向かって、ふわりふわりと消えていく・・・・・。
 訳者はアジア経済研究所でインドの政治、経済の現状分析をしている井上恭子さんだ。一九八七年から二年間、カルナタカ州の州都バンガロールに留学したとき、カンナダ語を勉強しようとして、先生がすすめてくれたのがこの小説だった。
 小説の不思議な魅力に取りつかれた井上さんは、ひそかに出版の夢を温めていたが、トヨタ財団の「隣人をよく知ろう」プロジェクトの助成で実現することになったのだという。
 未知の世界を、日本語で読む。これは、飛びきりのぜいたくの一つに違いない。
朝日新聞1994年12月19日・「窓(論説委員室から)」掲載

焼身 ジャヤカーンタン著・山下 博司訳

- 「太宰治」海を渡る-

 今年の夏、タミル作家・ジャヤカーンタンの小説集「焼身」を翻訳出版した。タミル文学の本邦初訳である。八月に学術調査でインドに滞在した折、マドラスのご自宅を訪ね、訳書を寄贈した。そのとき、氏がシンガポール政府主催の「作家週間'97」に、来賓として招かれていることを知った。氏の講演会やシンポジウムが企画されているという。シンガポール経由で帰国する予定だったので、私もご一緒させて頂くことになった。九月はじめ、われわれはマドラスをたち、インド洋を越えて、森林火災の煙たなびくシンガポール・チャンギ国際空港に降り立った。
  六十三歳になるジャヤカーンタンは、数奇な経歴の持ち主だ。富農に生まれながら、小学校を中退。共産党事務所に入り浸る少年時代を送る。使い走り、ビラ配りなどをしながら独学で字や文章を覚え、やがて政党機関紙の執筆を任されるようになる。共産党が非合法化された時期には、地下活動も経験する。小説家として自立するまで職を転々とし、さまざまな人生に触れ、貴重な体験を積む。彼の作品が、社会の底辺で苦しむ人々に対する思いやりと愛情にあふれているのは、こうした前半生があったればこそだ。
  作家としての彼は実に多産だった。これまで四十の長編小説、二百の短編、十五冊の評論を書いている。もっとも脂の乗りきった時期には、自らメガホンを取り、自作の映画化までやってのけたほどだ。女性関係でも浮名を流した。二人の妻をもち、双方に子供をもうけている。取り巻きを従え、派手に金を使い、パイプをくわえ、キザな恰好をし、毒の効いた言葉を他人に浴びせる。文壇の寵児としてもてはやされた一方、エキセントリックな人物としても名を馳せた。
 ジャヤカーンタンは一時期ドラッグに溺れたと噂される。真偽のほどはわからない。その小説からは、作家がとりわけ繊細で優しい感性の持ち主であることが、ひしひしと伝わってくる。文壇の大御所としての重圧に耐え、虚勢を通すのに、麻薬の力を必要としたのかもしれない。身を持ち崩し、健康まで損なったともいわれる。今は家族とともに、平穏な暮らしを取り戻してはいるが、彼は本来「破滅型」の人間なのではないだろうか。
 地主の出、マルキシズム、愛人、麻薬…。こうしてみると、ジャヤカーンタンは、日本の太宰治とそっくりである。こんなことをぼんやり考えながら、満員の講演会場で熱弁を振るうジャヤカーンタンを、片隅からひとり見守っていた。
 しかし、「インドの太宰治」にしては、何かしっくりこない。いまいち「男前」でないのだ。演壇には、頭髪が後退し、ちょび髭を生やした中年オヤジの顔があった。「太宰治」というより「ダサイ治」である。思わず膝を打つ私だった。
▲山下 博司(訳者、東北大学言語文化部助教授)

デリーの詩人 アニター・デサイ著・高橋 明訳

- 心の内奥掘り下げ印度文学に新境地開く-

 インドの作家を論じる場合、日本人には想像しがたいことだが、まず、その作家がどの言語を用いて作品を書いているかが問題となる。そしてそれは、多民族・多言語をかかえるインドそのもの、ひいてはインドの歴史や文化の特徴をも写し出しているといえよう。
 ここに紹介するアニター・デサイは、英語で創作活動を続けている現代インドの女性作家である。ベンガル出身のインド人とドイツ人との間に生まれたデサイは、幼い頃、家庭内ではドイツ語で話していたというが、早くも七歳にして物語を書き始めたときには、その媒体はすでに英語であったという。この、インドの英語文学および言語の問題については、訳者あとがきと本書の月報に、現状とその背景が簡潔に説明されており、読者がこの作品をより深く理解するのに役立つであろう。もっとも、訳者によれば、本書は「特に南アジアに関心を持つわけではない、一般の読者に広く楽しんでもらうことを念頭に」翻訳されたものであり、「それだけの面白さをこの小説は備えている」という。おそらくそれは、ヴァージニア・ウルフやプルーストといった、人間の心の内奥を描き出した作家たちから多大の影響を受けたデサイが、登場人物やある場面をより深く掘り下げるという手法をもって、インドの英語文学に新たな境地を開いたことと無縁ではあるまい。
  物語は、デリーから少し離れた小さな田舎町の大学で教鞭をとるデーベンのもとに、ムラードという旧友が訪ねてくるところから始まる。ムラードは自ら刊行する雑誌にウルドゥー詩の特集を編むという。もともとウルドゥー語の詩を愛し、特にヌールという詩人の詩を敬愛していたデーベンはその雑誌のためにヌールのインタビュー記事を書くことになる。ここでその結末を述べることは差し控えるが、そこに至る登場人物の内面とそれを象徴する風景や自然の描写、息苦しいまでの現実描写は、まさにデサイの真骨頂であり、読者を捕らえて離さない。あるいは、本書の原題In Custody(直訳すれば「拘留されて」)に「拘留されている」のは、作中人物の心や人生だけでなく、読者そのものなのかもしれない。本書のこなれた訳文に感謝したい。
▲森本 素世子(東海学園大学助教授)・公明新聞1999年5月3日掲載

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