【書評再録/2000年以前】
日本とアジアの関係

アジア定住 野村 進著・井上 和博写真

- 自らの来歴 率直に語る18人-

 アジアで暮らす日本人が急増しているという。多くは進出企業の駐在員たちだが、自分の意志でアジアに渡り、根を下ろした人々もいる。本書はそのような(日本以外の)アジアで自ら生きることを決めた日本人たちの"生活と意見"を聞いたルポである。
 登場するのは、十一カ国に住むさまざまな世代の男女十八人。インドネシアのバリ伝統舞踊の代表的な踊り手や、ボクシングの世界チャンピオンでタイの国民的英雄と結婚したり、青年海外協力隊の任期終了後もマレーシアで障害児のケアやスタッフの育成を続けたりする女性たち。
 タイで熱帯魚の養殖と輸出をする会社や、シンガポールで引っ越し専門の会社を成功させた男性たち。ベトナム人の歌手と結婚しサイゴンで日本料理店を開いた男性や、タガログ語で歌った日本の歌をフィリピンで大ヒットさせた歌手など、いずれもアジアに定住する日本人の中の少数派の"陽"の部分だという。
  日本を離れてアジアへ向かった動機や、どのようにして生活の基盤を見出したのかという自らの来歴を伝える彼らの語り口は率直だ。
 特に言葉も分からないのに結婚相手を信頼して異郷に飛び込み「バリのほうが日本にいるよりも楽に生きられる気がした」と適応する女性の姿には「なるほど」と感じさせられる。
 また「型にはまるのはいやだ」と日本を脱出し、熱帯魚ビジネスに取り組む青年がタイに来て「カルチャーショックが全然なかった」と語りながら、「タイにいると、日本人である自分を再発見することが多い」と述懐しているのも興味深い。経済成長するアジアの文化の均一化が進み、その中で登場した新しいタイプの日本人にも、かつてのような日本へのアイデンティティーが必要なのだろうか。

  これら日本人の話や長年アジアを歩いている著者のエッセーは、アジアの現在の姿と課題、今後の付き合い方などを考える手掛かりになる。
信濃毎日新聞「読書」欄1996年9月22日掲載

- 日本との距離感を探る-

 アジアにひかれる若者が増えている。旅行者として繰り返し訪れるうちに、やがて各国を「漂流」したり、一ヵ所に定住したり。野村さんが会った十一カ国十八人の日本人は、老壮青さまざまな履歴と思いをかかえ、アジアに定住した人たちである。
 タイの国民的英雄(ボクシング世界チャンピオン)と結婚し、タイ在住でもっとも有名な日本人女性となった元女優。大学中退後、タイへわたり熱帯魚の養殖と輸出を手がける青年。航空会社の支店長を退職、そのままマレーシアにとどまり、ランの栽培に余生のすべてをかける老人・・…。「ニッポン」との距離感、かかわりも人それぞれだ。
 「『アジアの新日本人たち』というタイトルで写真週刊誌に連載したルポを、『語り』の文体で全面的に書き直したんです。旅行者ではなく、定住者の視点から新しい日本観、アジア観が語られることを期待して始めた仕事なんですが」
  野村さんもまたアジアに魅せられた一人だ。フィリピンに留学中、フィリピン共産党の軍事組織「新人民軍」(NPA)の山岳ベースに招かれ、帰国後、ルポルタージュ作品にまとめた。復学したが、彼我のカルチャーギャップに耐えられず中退、フリーランスの記者になり、今日に至る。
 でもなぜフィリピンに。
 「全共闘世代があばれた後の荒廃したキャンパス、八方ふさがりの時代閉塞感、新鮮な空気が欲しくて。アジアならどこでもよかった」。それから二十年。「今の若者のほうがもっと息苦しさを感じているんじゃないかな」と、アジアブームの背景を見る。
 アジアにまったくカルチャーショックを感じない新世代の出現に驚いたという。「彼らにとって、日本はいつか帰らなければならない場所から、いつでも帰れる場所に、そして帰らなくてもいい場所に変わりつつあるのではないか」
  在米コリアンのルポルタージュが近々、本になる。全共闘世代と「新人類」の「谷間の世代」の書き手として、記者魂、全開である。
▲渡辺 淳悦・朝日新聞「読書・著者に会いたい」欄1996年9月22日掲載

 現在、海外に住む日本人は約七十万人、アジアだけで十二万人いるという。彼らがその地で何を見て、彼らの目に日本はどう見えるのか。
 アジア各地に散らばる無名の老若男女十八人を選び出し、平均四日間のロングインタビューを経て、著者が紡ぎ出したその姿は、個性が際立ち強烈だ。
  シンガポールで引越し専門会社を設立して他業種にも進出、挫折にもめげず年商数十億円と大成功した男性。日本のポップスをタガログ語で吹き込み、フィリピンで大ヒットさせた男性歌手。インドネシアで繊維機械を扱う元落語家。ソウルの有名百貨店の支店長になった男性。
 日本で失敗して、アジアの地でいわば敗者復活を遂げた人もいる。アジア蔑視が抜けきらなかったり、愛憎半ばした屈折した思いが言葉の端々に見え隠れする人も少なくない。逆に、カルチャーショックすらなかったと言い切る若者もいる。異郷で日本人である自分を再発見した人もいる。全員に共通するのは、驚くほど率直に自分を語っていることだ。それは、インタビュアーの力量に加え、異郷でゼロからスタートして、一匹狼でそこまできた自分に対する自信があるから、だという。
 「彼らは、先取りしている人たちだと思います。画一的集団主義の日本から出て、自分で選んで築いていった道は、これから日本人が歩んでいく方向でしょう。もう、みんな仲良くぬるま湯の中で同じ顔色をしていればいい、という時代じゃないから、今後、彼らのような人は増えるんじゃないですか」
 また本書には、そこに住む人ならではの逸話が溢れ、その国の意外な素顔を垣間見る面白さもある。たとえば、タイの国民的英雄ボクサーと結婚した女性は、今では夫婦でテレビにも出演する超有名人だ。すると、毎日、親戚縁者から見ず知らずのお坊さんまで、金を恵んでくれという人で、行列ができるという。
 バリ島の舞踊家に嫁いだ女性もそうだが、女性たちには男性とは違ったたくましさがある。言葉も分からないまま、あっけらかんと異郷に飛び込んでいき適応してしまう姿は、「男には絶対できない飛び方だ」と著者をうならせるほどだ。
こういった一人一人の物語も然る事ながら、ところどころに挟まれた著者のモノローグ的なエッセイに込められた、アジアヘのこだわりもまた印象深い。もともと著者は、大学時代フィリピンに二年間交換留学したのがきっかけで、ずっとアジアを見続けてきた。
 「僕が関心を持ちはじめた頃、アジアはマイナーでした。九〇年代に入って"アジアの時代"とか言われてるけど、本当にそうか、逆に反発があります。今あちこち取材して歩いてると、金、金、金と拝金主義に固まった人間がどんどん増えてるだけ。結局、いいところも悪いところも日本の真似をしてるわけで、日本が犯した過ちをちゃんと見ないから、もう行き詰まりは避けられないような気がします。バンコクなんか世界でも最悪の交通渋滞ですよ。中国の大気汚染もひどいし、人権意識も根づいてない。その辺、あまりにも無反省だから、今のアジアはそんなに好きになれません。
 もう一つ、経済的な自信をつけると同時に排他的ナショナリズムが出てきているのも怖い。今、世界の軍需産業のいちばんの売り込み先は、中等じゃなくてアジアなんです」
 結局、著者もまた、愛憎半ばする想いでアジアを見つめている。それでもなおかつ、これからも行く末を見届けざるを得ないと言わせるものは何か。答えは分からぬまでも、しばし我が身をアジアに浸してみたくなった。
▲萩原 絹代・週刊文春「文春図書館・著者と60分」欄1996年9月5日号掲載

新宿のアジア系外国人 奥田 道大・田嶋 淳子編著

- 新宿「国際通り」から アジア系外国人調査-

 東京・新宿の大久保通り、通称「国際通り」はアジア系外国人の多く住む町として知られる。これまであまり明らかでなかった実態に迫る初めてのリポートがまとまった。
 一昨年、『池袋のアジア系外国人』(めこん)をまとめて話題になった中央大学の奥田道大教授と淑徳大学の田嶋淳子講師による編著『新宿のアジア系外国人』で、予想より進むエスニック・タウンの様子が報告されている。それによると大久保一丁目の「外国人登録人口」は二十%を超えており、隣人としてごく普通のつきあいが始まっていることも分かった。なかには共同浴場主と閉店後にビールを飲み交わす例もあったほどで、地元では総じて「異邦人」視は少なかった。
  奥田教授は「ここではすでにカップル生活者も多く台湾系日本人、フィリピン系日本人としか言いようのない人も出現しており、国籍概念自体があいまいになっている」と言う。
 「不法」「資格外」を問わず地域を限って外国人に面接調査をした例はあまりなく、この社会学的リポートは最近の外国人労働者論議に一石を投じている。
▲読売新聞 1993年6月15日掲載

チョプスイ−シンガポールの日本兵たち 劉 抗著・中原 道子訳、解説

- 蛮行 スケッチで表現/旧日本軍描いた画集、日本で刊行-

  シンガポール人画家が、戦争直後に描いた「チョプスイ−シンガポールの日本兵たち」が、四十五年ぶりに日本で日の目を見た。中原道子・早稲田大学国際学部教授(東南アジア史)が偶然、オランダの古本屋でオリジナル画集を手に入れ、その画家、劉抗(リュウ・カン)氏(七九)をシンガポールで尋ねあてて、日本語版刊行の許可を得た。今年は太平洋戦争開戦五十年。シンガポールが占領された日の、この十五日には現地で華人虐殺慰霊祭が行なわれる。
 題名の「チョプスイ」は「中華風ごった煮」という意味。収められている三十六枚のスケッチは、日本軍のさまざまな生態を活写している。住民を天井から逆さづりにし、かまゆでにし、生づめをはがすなどの拷問や、海岸に一列にひざまずかせて機関銃を浴びせたり、赤ん坊を空に放り上げて銃剣で刺したりなどの日本軍による蛮行から、配給制度下のやみ取引の罰し方まで、テーマは多様だ。
 中原さんは言う。「ショックでした。あれほどの恐怖の体験の直後なのに、ユーモアさえ漂う絵です」
 中国上海生まれの劉氏は、父親がゴム園を持っていた英領マラヤ西岸のモアに六歳で移住。上海美術学校からパリに留学、帰国後母校教授に。一九三七年、日中戦争が始まったためモアに戻った。
 モアは四一年、太平洋戦争開戦とともにマレー半島を南下した日本軍に占領された。劉氏の友人一家が全員殺されたのを始め、「殉難名録」に明記されているだけでもモアで四百九十四人もの犠牲者が出た。
 シンガポールでは四二年二月、日本軍の占領直後、中国系住民の虐殺事件が起きた。 劉氏は四二年秋、反日分子として憲兵隊に連行されたときには取り調べ士官の肖像画を描くという妙手で、死地を脱した。
 劉氏は戦後すぐ、友人から「悪夢の三年半を記録に残そう」と勧められ、紙もインクも欠乏する中で翌年春までに三十六枚三巻を出版した。
▲朝日新聞1991年2月14日掲載