【書評再録/2000年以前】
ビルマ

北ビルマ、いのちの根をたずねて 吉田 敏浩著

 「死」にまつわる記憶は、時に人の人生観、世界観を覆す。
  ビルマ(現ミャンマー)の熱帯雨林を、少数民族ゲリラと共に三年七ヶ月歩いた吉田さん。このほどビルマ三部作を完成させた。ちなみに第一作である旅行記『森の回廊』は、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作だ。旅立ったのが八五年。つまり第三作刊行までに、足かけ十五年の月日を要している。
 「ビルマでの三年七ヶ月は、僕にとってあまりに衝撃的な経験の連続でした。生々しすぎて、封印していた記憶がいくつもあり、書くのに時間が必要だったのです」と吉田さん。
  大学時代から探検部でアジア奥地への旅を繰り返してきた。ビルマを最初に訪れたのも二十歳のときだ。
 中央政府による圧政を受けながらも、焼き畑農業を営み、精霊を信仰する少数民族の暮らしに関心をもった。ゲリラ兵士との旅は、彼らから「ビルマの現状を記録してほしい」と招きを受けたことから実現した。
  生命を賭したゲリラ兵士との遠征。「目の前にいた人が突然、死んだり、行方不明になることが幾度もありました」
  ある村で、酔った兵士が女性兵士を誤射してしまった。彼は軍法会議にかけられ、処刑が決まった。「森の中にある処刑場へ連れていかれる彼の後ろ姿を見ましてね」
 取材の合間に、一度挨拶を交わしたことのある男だった。しばらくすると、遠くから二発、銃声が聞こえた。兵士が食事の支度を始め、吉田さんも空腹を覚え始めた瞬間だった。
 政府軍との戦闘に同行した時は、砲撃戦の後、ゲリラ部隊の指揮官が、政府軍兵士の死体を足で転がした。衝撃的だった。が、吉田さんはすぐに我に返り、記録者として死体に近づき、距離や角度を変えて何枚も写真を撮っていた。
 ひっかかったのは、戦いの当事者である兵士とは違い、傍観者である自分までもが、予想外に平然と死の場面に立ち向かえることである。これについて吉田さんは後々まで自問自答を繰り返し、ある結論に至った。
 「僕は写真を撮りながら死んだ兵士の痛み、苦しみを思いやろうとはしていなかったんです。処刑場へ連行される兵士の姿を見た時も、実は彼を悼む気持ちはなかった」
 他者への共感の欠如。これが自らの決定的な問題だと気づいたのは、のちに著者自身がマラリアに罹り、二ヶ月の間、死の淵をさまよう経験をした時だった。
  四十度を超す熱がでて、震えで歯と歯が鳴った。もはや軍医もお手上げだった。
 「ある日、ものすごい幻覚を見たんです。目を開けても閉じても、血の海が見える。そのうちに写真に収めた政府軍兵士の死体が、シャッターを押したままの構図で浮かび上がってきた。それが消えると、また別の戦死体が現れた」
 まもなく、吉田さんは意識不明に陥った。最後の望みとして、精霊信仰のシャーマンが祈祷を捧げることになった。シャーマンに祖先の霊が乗り移り、神懸かり状態になると、そばに寝かせた山刀から一筋の水がしたたり落ちる。それを病者に飲ませると快復する、と言われている。
 そしてシャーマンの祈祷の後、吉田さんは一命を取り留めたのだった。
 「これを超常現象として絶対視するつもりはないんです」と吉田さんは釘を刺す。
 「ただ、シャーマンはトランス状態になることで、僕の苦しみを一緒に引き受けてくれた。シャーマンの祈祷とは、他者への並はずれた共感共苦の心なのではないか。それが、僕に残っていた最後の自然治癒力を引き出してくれたのではないか、と思うのです。僕の世界観は、この経験の前と後では違ったものになりました」
  他者への共感の心、それは生きる者同士が互いの命を思いやることであり、吉田さんはその感受性を「いのちの根を共にする」と呼ぶ。
 「結局、僕が書きたかったのは、ビルマの移りゆく情勢ではなく、国や時代を超えて変わらない人間の生と死のあり方だったんです」
▲長田 美穂(取材・構成)・週刊文春2000年6月15日号「文春図書館」掲載

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