ラオス農山村地域研究 【書評】 ラオス研究がブームである。少なくとも、評者はそのように感じている。 ラオスは1990年代まで、旅行者が簡単に出入りできる場所ではなかった。農山村地域となると、2000年ごろになってようやく自由な調査が可能になったという国である。しかし、本書の編者は、そのような調査困難な時代からラオスに関わり続けてきた。他の分担執筆者も、現地での長期滞在を基本に据えた調査研究を行ってきた人たちであり、それだけでも、内容の充実度、書籍としての価値の高さは予測できる。 本書は、総合地球環境学研究所(地球研)のプロジェクトとも深く関連している。地球研は、環境問題の本質を解明するための「統合知の構築」を目指して、さまざまなプロジェクトを推進している。いわゆる文理融合を嘔うプロジェクトには、単なる寄せ集め的共同研究に終始するものや、理系を中心としつつ文系がお飾りとして参加するだけのものが少なくない。また、プロジェクトの成果として出版される書物も、個別研究を並べただけの統一感のない産物になることが多い。そのような中で、本書は編者の意図が十分に反映されており、執筆者の専門分野は多岐にわたっていながらも、まとまりのあるラオス研究の書になっているという印象を受けた。 本書は、海外も含めて初めてのラオス地域研究の専門書であると、編者は自負する。しかし同時に、ラオスに関心を持つ一般の読者をも射程に入れた内容・構成となっている。本書の出版元の「めこん」は、東南アジア関係の専門書・一般書を数多く世に出してきた出版社である。紙質の良さや、読みやすい賛沢なスペースの使い方、写真資料の多用等を見ても、経験ある出版社として「売れる」ことを見越した書になっているのであろう。 内容を紹介する。本書は、第1章で「ラオスをとらえる視点」を提示した後は、「社会」、「水田」、「森林」、「生業」の4部構成となっている。各部は2〜3章で構成され、さらにフィールドでの経験や思いを綴った「小論」が適宜配置されている。第1章「ラオスをとらえる視点」は、本書を読み進む上で必要なラオスの基本情報を示し、どのような視点を持てばよいかを提案している。ラオスは内陸国であり、明確な中心地が存在せず、また、熱帯デルタという「米びつ」を持たない。周辺諸国と比較して、全土的に人口希薄で、農地面積も小さい。つまり、自給農業を基盤とした分散型社会であり続けた。その一方で、森林に覆われ続けた歴史を持ち、しかも、多様な森林植生がモザイク状に分布している。周辺諸国の森林被覆率が20世紀後半に大幅に減少したことを考えると、特筆に価する。 ただし、近年では、焼畑の減少と水田の拡大、市場開放とインフラストラクチャー整備に伴う商晶作物の導入など、農業や土地利用に大きな変化が生じており、生業構造そのものが変化しつつある。また、低地、山地中腹、山頂付近など、高度差によって棲み分けがなされていた民族間関係についても、土地森林分配事業の適用などによって移動・移住が進み、必ずしも居住地や生業との関係で民族の違いを説明できなくなっている。 このような現状を考慮した場合、結局のところ、ラオスを見る視点は二つであるという。つまり、ラオス農山村地域に暮らす人びとにとって、「変わらないことの意味」と「変わることの意味」は何なのかということである。以下、本書の各章は、基本的にこの視点から考察がなされる。 第1部「社会」は二つの章からなる。第2章は「消えゆく水牛」(高井康弘)と題し、水牛を中心にラオス北部の社会変化を考察している。役畜であり、儀礼の際の贄であり、また蓄財・相続の対象でもある水牛は、放し飼いが基本であった。その水牛を、水田(役畜利用の場)や焼畑休閑地(放し飼いの場)の利用との関係からみる中で、従来の緩やかな土地利用と社会関係を指摘する。ところが近年では、土地利用の変化により放し飼いが困難になり、また、水牛肉の市場の形成もあって、水牛を手放す人が増えてきた。人と水牛と土地利用の関係性からラオス社会の変化を見る視点は面白い。 第3章「民族問関係と民族アイデンティティ」(中田友子)では、ラオス南部において、社会経済的状況が異なる二つの村落を事例に、マジョリティの低地民とマイノリティの山地民との関係を考察し、両者の問の「垣根」の低さを指摘する。平地民対山地民というステレオタイプ的な構図をイメージしている者にとっては新鮮な議論である。ラオスでは、もともと人々の意識の中で民族を問うことがあまりなかった上に、国家による民族の線引きの歴史が浅く不安定であったことが、現在の状況を生んでいるという。 第2部「水田」は二つの章からなる。第4章「水田を拓く人々」(富田晋介)は、ラオス北部の村で、過去100年にわたる水田開拓の過程を詳細に復元した初めての研究である。富田は、水田面積の拡大パターンについて、村の人口増加や世帯の男子数、集落から水田までの距離、井堰、用水路建設の歴史などとの関係を詳細に分析している。その中で、一つの家系に富が蓄積されにくく、社会階層が固定化されにくい村落構造を、水田と世帯人員との関係から指摘しており、非常に興味深い。 第5章「水田の多面的機能」(小坂康之)は、「産米林」を考察するものである。「産米林」とは、多くの樹木が生えている水田のことである。小坂の論考は、水田は米を作るための専用の場所という観念を覆し、水田の多面的なとらえ方について再考を促すものである。日本における水田の多面的機能の議論を先取りするようなラオスの水田利用と、それに対する小坂の視点はインパクトのあるものといえる。 第3部「森林」は3章構成である。第6章「土地森林分配事業をめぐる問題」(名村隆行)は、住民参加型の森林管理が制度的に認められた土地森林分配事業を画期的な事業と認めつつも、その担い手同士の間に存在するギャップや、村落領域の確定やゾーニングがもたらす負の効果についても批判的に考察している。土地の領域確定に関わる問題は東南アジア各地にみられるが、NGOでの実践経験を踏まえた名村の視点が興味深い。 第7章「植林事業による森の変容」(百村帝彦)は、森林のとらえ方の違い、造林・植林と自然再生との違い、環境植林と商業植林との違いなどを再考するものである。そこには、わかっているようでも、外部者にはなかなか見えづらい問題が含まれる。百村は、それを具体的な事例から検討し、森林に対する価値付与の仕方如何によって、緑化政策も住民を困窮に追い詰める可能性を指摘する。また、契約型・住民参加型のものでも、失敗するとそのしわ寄せは住民に向かうという。 第8章「非木材林産物と焼畑」(竹田晋也)は、焼畑後の休閑林で重要な森林産物が採取されること、そのような森林産物の利用と輸出が何世紀にもわたって続けられてきたことを明らかにする。休閑二次林の利用は、東南アジアの焼畑民一般にとって重要であったと思われるが、それを土地利用パターンも含めて具体的に示している点で貴重な報告である。また、焼畑跡地を利用した栽培植物と市場動向との関係から、近年の変化を考察しているが、重要なことは、焼畑と休閑地利用のサイクルを考慮して、「機が熟すのを待っ」農業を維持することであるとしている。 第4部「生業」は3章構成である。第9章「焼畑とともに暮らす」(落合雪野・横山智)は、本書の編者2名による共著で、民族植物学者と地理学者の合作であることが強調されている。この章では、有用植物の空問的分布にこだわりながら、焼畑サイクルの時問軸をどのようにとらえるべきかを考察している。焼畑民は焼畑だけを生業としているのではなく、遷移していく休閑林・二次林から多様な資源を抽出していることが、詳細な地図データとともに示される。第8章の議論とも呼応する部分であり、東南アジア島嘆部の焼畑を見てきた評者にとっても、非常に示唆的である。 第10章「開発援助と中国経済のはざまで」(横山智・落合雪野)は、2004年以降の数回にわたる調査の結果、ラオス北部の農村の「劇的な変化」を詳述した章である。政府による森林分配事業と焼畑の禁止、それに同調したNGOによる農業支援などにより、事例村落では焼畑が消減し、すべて常畑化・水田化した。しかし、限られた平地しか持たず、常畑の概念も希薄な村では、結果として、経済状態の悪化という事態がもたらされ、それを補うために、中国資本による契約栽培へと向かわざるを得なくなった。このような状況は、おそらく、近年のラオス北部農村の典型的な事例と思われる。 第11章「商品作物の導入と農山村の変容」(河野泰之・藤田幸一)は、他の章とはやや趣が異なり、地域的にも広い視点から、変化するラオスを中心に描いている。商品作物の導入それ自体は必然的な流れとしても、村落間・村落内における経済格差の拡大や、持続的な生産体制の不備、外国企業による不適切な土地利用などが課題として挙げられている。しかし、現時点でのラオスの農地面積は国土の5%にも満たない状況であり、今からでも、自然と社会に適したラオス独自の土地利用システムを作り出すことは可能であるとしている。 以上が本書の概要である。まとまった報告が少なかったラオスの現在を知ることができるという点で、現時点における最良のラオス研究の専門書であることは間違いない。印象として、個々の論考も面白いが、複数の執筆者による見解のオーバーラップも楽しめた。その意味でも、関連のない話題がバラバラに並ぶという、ありがちな学際プロジェクト成果本の限界は軽く超えている。若干の不満を言うならば、ほとんどの執筆者が、従来のラオス農山村における独自のシステムを肯定的に評価する一方で、最近の変化に対する「危慎」や「懸念」を示して、各章を閉じているという点である。それも、国家の政策や近隣諸国からの資本流入という、ある意味構造的な側面を持った問題を提示している。そのことに対する危機感は、現場に深く関わったフィールドワーカーとしての率直な印象であろう。ただし、たとえば田中耕司の小論(pp.191-199)のように、「タマサートな開発」を提言するまでに至るかどうかも重要であろう。その如何によって、読者は勇気を与えられる場合もあるし、古き良き社会を惜しむだけになるかもしれない。研究者・一般読者の双方を射程に入れた書籍であればこそ、そこまで踏み込んだ記述があっても良かったかもしれない。 次に、ラオスの多様性のとらえ方について考えてみたい。評者は一度だけラオスに行ったことがある。ラオスは、東南アジア島嶼部を知る評者からみても、民族構成、水田利用、焼畑と休閑・二次林における資源利用、商品作物の導入過程など、あらゆる面において、きわめて複雑で多様な世界を持っている。初心者には、何が基本事項で何を中心に考察すればよいのかわからなくなるほどであるが、各章の論考、あるいは本書全体の構成としても、そのような複雑さを整理できる内容になっており、高く評価できる。ただし、いみじくも編者2人が担当した9章と10章で自已批判的に示した「分けたがる性癖」というものから、本書が本当に脱却できているのかどうか、疑問が残らないわけではない。しかし、このような疑問は・地誌や地域研究を専門とする者に対して、そのまま跳ね返ってくる部分である。特に、フィールドワークを中心に研究を行う者は、現場の文化・社会・資源利用などの多様な側面に驚愕しながらも、そのような多様性をそのまま描くことはできないことに諦念を感じ、何らかの「切り口」を探しつつ、結局は「ある視点」からの記述に終始せざるを得ない。 多様性をどのようにとらえ、記述するのか。さまざまな分野の執筆者を揃えて、それぞれが独自の切り口からラオスの現状を示しているという点で、書籍全体としてはこの点をクリアしている。そのような意味での編者の努力は十分うかがえるし、地域研究に対する考え方も感じられる。なおかつ、全体としてのまとまりを維持できているという点でも、本書は秀逸な地域研究の書である。しかし、現地社会の複雑さの把握と、記述あるいは書籍としてのまとまりの良さとは、トレードオフの関係にあるのではないかという従来からの感覚を、完全に払拭できたわけではない。評者自身が解決できていない課題を、端緒についたばかりのラオス研究に求めるのはアンフェアかもしれないが、自戒の意味も含め、今後の課題として指摘したい。 いずれにせよ、本書で示されたラオスの素材としての魅力は、一般読者にも十分に伝わるものである。そして、本書を読んだ評者自身も、ラオスで調査・研究をしてみたいという強い欲求に駆られた。このことは、地域研究の専門書としても非常に高い価値を有していることを意味する。 (祖田良次・北海道大学)