ブラザー・エネミー
サイゴン陥落後のインドシナ
多くの日本人は、サイゴン陥落後のインドシナの歴史にかんしては空白である。米中会談でキッシンジャー・周恩来の間の合意が成立して以降、米軍の撤退は<ヤンキー・ゴー・ホーム>として歓迎され、べ平連の反米・帆船が勝利したように思っている。
しかし、サイゴンを陥落させた北ベトナムは、その後、ポルポトの支配するカンボジアに侵攻し、中国がポルポトを支持し、ベトナムはソ連の支援を取り付けるという複雑な構図となった。要するに世界の共産主義運動が新段階に入ったのである。
ナヤン・チャンダ『ブラザー・エネミー――サイゴン陥落後のインドシナ』(友田錫・滝上広水訳、めこん)の原著は一九八六年に公刊され、世界中で広く読まれ注目を集めた。日本では一九九九年に出版されている。ただ、専門家の間だけで読まれ、その内容が日本人に葉常識となっていない。ということは、戦後現代史における日本の常識は、世界の歴史認識の水準に達していないということだろう。
著者のナヤン・チャンダはインド生まれ、パリ大学でインドシナ史を研究、博士論文執筆中にジャーナリストに転向。欧米系メディアの特派員として活躍。ワシントンのカーネギー国際平和財団の主任研究員となる。本書は、その主題の把握(敵となった兄弟の骨肉の争い)、実証性、国際的力学、歴史への視野、そして客観性と学問的姿勢が生きている。サイゴン陥落の夜から叙述を始めているが、その臨場感は圧倒的迫力を強めている。
特に強調すべきは著者が会った要人の数の多さであろう。日本人は大平正芳ひとりしか出てこないが、それぞれの要人たちはその個性がしっかり浮き彫りにされている。
日本人と日本ジャーナリズムはこうした世界認識の流れを再び獲得しなければならない。サラリーマン風ジャーナリズムへの決別である。日本ではジャーナリストが後に歴史家になったが、これからはアカデミストとジャーナリストの自由な往復作業が必要だろう。メディアの自己革新を信じたい。
(粕谷一希=評論家)