【書評再録】
◎日本農業新聞、2004年2月23日

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 タイの最貧地帯といわれる東北地方の村、イサーンは、昔から培ってきた知恵と、地域に生きる人たちが力を合わせ、国際化を切り抜けてきた。貧しくとも誇り高いイサーンの農民とそれを支援した日本の非政府組織(NGO)の熱い思いの活動記録だ。
 世界の農民たちを踏みにじるグローバリゼーションと大量消費社会の嵐。タイでは近代化の名のもとにさまざまな法的規制、課税が農民の知恵と文化を切り裂く。しかし、それらに対抗して、有機農業、地場市場など、さまざまな試みが成功を収める。支援した日本の若者たちの熱い思いが頼もしい。
◎『農業と経済』(昭和堂発行)2004年6月号

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 本書は、タイ国東北部の農村で、地域経済や地域社会の再興に尽力してきたNGO活動家の記録である。経済発展の進むタイで、遅れた農村地域・貧困の代名詞となっていたのが東北タイである。その人口の大多数を占める農民は、これまで変動の激しい輸出農産物の価格や、抜け目のない中間業者、政府の気まぐれな経済政策に文字通り翻弄され続けてきた。その彼らが、著者たちの活動をひとつのきっかけとして、多様な地域資源を有効かつ持続的に活用できるような等身大の農業・経済システムの構築をめざしてさまざまな活動をはじめる。そのひとつが、村の朝市や、村と町を結ぶ農産物直売市場の実現である。物資の供与や財政的支援を中心とする従来型の援助ではなく、経験交流を通した人づくりの主眼をおき、あくまで村人自身を主役として小さくても確実なところからはじめる、というNGOならではのプロジェクトの基本方針が、ここではみごとに成功をおさめている。
 本書の特徴は、そうした地域おこしの活動が、無味感想な記録としてではなく、著者と地元農民との交流を軸にいきいきと描かれているところにある。そこでは東北タイ人が愛する酒と歌が、重要な要素としてしばしば登場する。たとえば村人のドブロク作りが、それを誇るべき伝統として回復しようとした農民の運動が実を結んで合法化されたというのは実に愉快な話だ。そうした社会運動(やそれが対峙している現実)は、プロの音楽家によって歌として表現され、その歌がまた運動や人びとの日常生活の支えとなっている。本書には他にも、東北タイの農業や環境の変容、農民の日常生活の変化、NGO活動の動向などに関する記述が豊富に盛り込まれており、農民の視点から東北タイの社会と経済の変動を理解するための優れた入門書ともなっている。
 なかでも私が感銘を受けたのは、ある農民が祖父からよく聞かされたという次の言葉である。「とれた魚を長く保存するのに一番よい方法は、独り占めするのではなく、他人に分け与えることだ。そうすれば、自分が獲れなかった時に助けてもらえるから」。この言葉は、いまではもう薄れてしまった「分与の経済」が以前のタイ農村には存在していたことを示すと同時に、現在の世界の困難を打開するためにも重要で、深い知恵のありかを示唆しているように思えてならない。たとえば、これを「戦争やテロリズムを防止するのに一番よい方法は、富を独り占めするのではなく、それが他人にも行きわたるようにすることだ」と読み替えてみることはできないか。相互不信と暴力の悪循環に落ちゆく世界のなかで、著者とその仲間たちの国境を越えた軽やかな連帯の運動は、別の未来の可能性をたしかに提示してくれる。

評者 近畿大学農学部講師 鶴田 格

◎Trial & Error、2004年3-4月号

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 「タクシン首相に見習え」
そんな言葉が昨年のWTOカンクン会議前後から日本のマスメディアで見られるようになった。AFTA交渉に積極的なタイの首相を、構造的経済停滞から抜け出すために日本もみならったらどうかという論調の中でである。
 しかし、タイの人々には何が起こっているのか。タクシン政権は三十バーツ医療の提供や土地なし農民への耕作地付与など、自ら「ウアアートーン」(=惜しまぬ扶助)と命名した政策を打ち出し、底辺層からの支持が厚いという報道が多いが、本当にそうなのだろうか。
 「イサーンの百姓たち――NGO東北タイ活動記」を読むと、ウアアートーン政策もAFTAも、タイの農民や百姓たちにとってはあまりありがたくないもの、かえって迷惑なもの、ということがわかってくる。
 それは、タイの百姓たちはタクシンが持ち出すずっと以前からウアアートーンの仕組みを持っており、それが弱められてしまったのは他ならぬ政府の開発優先政策のためなのだという彼らの認識が、自分たちの言葉でこの本にはっきりと語られているからだ。そして、それを取り戻すには、AFTAに乗ってジャスミン米やドリアンを遠くの誰かに食べてもらう必要はなく、以前の仕組みのねじを少しまき直し、身の回りにいる人々とつながることだけで充分なのだということを、朝市プロジェクトなどの新しい活動の中で彼らが示しているからである。
 自立を模索するタイの百姓の前にはさまざまな問題が出現する。会議で話しても結論の出ない話題は酒席へもつれこむのが常だ。著者がイサーンの人々からゲーオ(グラス)というあだ名を冠されたのは、そこまでとことん付き合い、首を突っ込んだからだ。新しいかたちのNGO活動記だ。
評者:岡本和之(ジャーナリスト)

◎恋するアジア、43号掲載

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 タイの中でも東北イサーンは貧しいところである。社会のグローバル化(巨大資本が乗り込んでくる。社会のグローバル化(巨大資本が乗り込んでくる)により村はどんどん貧困になっていき、それに抗して手作り農業を確立し、地域(市場)を設営し、自立の道を探っていく。この本にはその活動記が書かれている。ただ残念なのは、地元の農民の声があまり書かれていないことである。活動を進める代表の声は書いてあるが、活動に参加していない人、市場のルールに反感を覚える人など、幅広い周辺の人の声が書かれていれば、もっと説得力の増す本となっただろう。こうした活動は大きくなれば硬直化(閉じて過度にシステム化され官僚的になる)していく危険がある。そのへんの矛盾をどう回避していくのか、目先の策だけでなく、システム構築の将来についても述べて欲しかった。著者はまだ若く思考はナイーブ。著者に好感を持つ本だった。

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