【書評再録】
◎アサヒカメラ 2005年4月号 BOOK INTERVIEW 掲載

ラオスは戦場だった
竹内正右著

秘密にされた戦争
竹内正右さんは1973〜82年、戦火のインドシナに身を置き取材を続けた。そして今回、ベトナム戦争からイラク戦争までのラオスの実情を本にまとめた。

−なぜラオスですか。
「ベトナム戦争の時代に、旧南ベトナムのサイゴンに入りました。フリーなので1ヵ月に一度、ビザ取得のため出国しなくてはならない。そうしてインドシナを回っているうちにラオスの戦争が日本で伝えられているのとは全く違うことがわかった。また75年4月30日にサイゴンが陥落して半年後、西側のジャーナリストはみんなラオスから追い出されて、ぼく一人だけになった。ぼくは革命前から税金を払い、内務省に登録していたから退去させられなかったんでしょうね。それで、とことんやってやろうと思いました。 写真は主にAPなどアメリカの通信社に発表していました。政権が代わって新しい国旗を掲げたり、不要となった旧紙幣の束を焼くシーンなどは、わかるようにカラーでと撮り分けていました」
−取材で危険な目にも遭われてますね。
「76年、ベトナム軍に1日拘束されていろいろ尋問されたし、79年にはクメール・ルージュに捕まり、AP電で報じられたこともありました。ポル・ポト軍の敗走を撮っていたので相手にとってはとんでもないフィルムですよね。隠したのが見つかれば殺されますから出しました。報道は無鉄砲ではいけないし、守っていたら撮れない。状況判断はむずかしいですね」
−写真集のテーマは。
「ラオスでは、公式には戦争は存在しなかったんです。アメリカにとっても、ベトナムにとっても秘密戦争だった。北ベトナムは南に進攻するためにラオスにルートをつくって下らないと勝ち目はなく、戦略上、共産化しなければならなかった。それを防ぐためにアメリカは山岳民族モンを訓練して特殊部隊を組織した。アメリカ軍の代わりに共産軍と戦わせたのです。モンにおびただしい数の犠牲者が出ました。婦女子の犠牲者も多かった。97年にアメリカがようやく特殊部隊と認めましたが、彼らの犠牲がなかったら、アメリカ軍の死者は5、6倍になっていたとペンタゴンが分析しています。そして今もベトナム軍のモン掃討作戦は続いており、またアメリカへ逃れたモンの子孫たちの約3千人が軍に所属してイラクに派遣され、2004年6月に最初の死者が出た。モンの悲劇は終わっていないのです」


◎JTECS友の会NEWS 66号 BOOK REVIEW掲載

ラオスは戦場だった
竹内正右著

 ベトナム戦争当時、米国に協力したため多くの犠牲を強いられたモン族の姿を主要テーマに、戦後のラオスをスクープ写真で綴ったドキュメンタリー写真集。ベトナム、カンボジア、タイといった周辺国に加え、今のモン族の姿をアメリカにも追っており、貴重な写真を見ることが出来る。
冷静に切り取られた作品の数々とそこに加えられた必要最小限のキャプションは言い様の無い説得力を持ち、戦争の悲惨さと人々の苦しみを静かに語ってくれる。


◎『オルタ』(アジア太平洋資料センター)2005年4号掲載

ラオスは戦場だった
竹内正右著

 ベトナム戦争時、米国は、300tもの爆弾をラオス全土に投下すると共に、山岳民族モンを訓練してモン特殊攻撃部隊を組織した。75年サイゴンが陥落した後、ビエンチャンも陥落し、ラオスから米軍が撤退。残されたモン兵士は、共産側の報復を受けることとなる。この本は、73〜75年を中心に筆者が撮った写真を解説つきで紹介。ベトナム戦争時に米国がラオスで行なっていた戦争は、ほとんど知られていないが、筆者が撮った写真には、その時代に何が行なわれていたのかが克明に記録されている。渡米したモンのラオス退役軍人の子孫がイラク戦争に参軍。まt、ラオス国内に残る多数の不発弾が現在も被害者を出しているという事実。戦争は、現在も続いているという現実をつきつけられる。(猿田由貴江)

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