【書評再録】

 書評ページへ

◎2006年1月15日 中国新聞「読書」 掲載

越境するポピュラー文化と〈想像のアジア〉
土佐昌樹・青柳寛編

共鳴・反発・潮流映す

 ヤマンバ・ギャル、琉球ポップス、アジアのムービーロード、「韓流」ブーム・・・。本書を構成する論文が取り上げる対象は多種多様で、全体として整然としているとは言いがたい。しかし、本書の雑多性はまさしく今、アジア各地で国境を越えて共鳴し、反発し、拡散している文化の諸潮流のダイナミズムを反映したものだ。
 国際文化交流事業を生業としている評者にとって、特に考えさせられたのが、韓国での日本の大衆文化受容を研究する張竜傑氏の論文だ。同氏は、文化のグローバル化が進行する中で、韓国の若者が脱「反日」に向かいつつあり、彼らが日本のポピュラー文化をどうとらえるようになってきたかを論じている。1990年代末に日本の大衆文化開放をめぐって議論が沸騰した時、韓国は自らを振り返り、そこで変化が起きた。自己反省に立脚した文化産業の躍進、自文化への自信などを経て、日本に対するゆとりが生じたのだ。
 ここで張氏は、重要な指摘をする。今日の韓国で「日流」が目立たないのは、従来の「反日」イデオロギーの作用によるというのだ。
 韓国政府は70、80年代に、「低俗な日本文化」の輸入禁止という建前に固執していた。そこで、固有名詞の置き換えなどの処理をして目立たぬ形で、もしくは不法輸入というルートを通じて、日本文化が韓国社会に持ち込まれ、韓国民はそれを知らずに受容し、消化していた。為政者の意図をこえ、文化は流動し受容していくのだ。
 最近の日本の論壇で、文化を政治や経済の摩擦を解消するため、戦略的に利用しようという趣旨の議論がある。張論文が紹介している韓国の経験から学ぶべきは、文化は送り手の思惑通りに制御できないし外国との政治的な不和の解決を文化に求めるのは無理があるということだ。米国の対中東文化外交がうまくいかないのも、この辺の機微を理解していないからか。「文化には文化の存在意義がある」と認識した上で、対話と協働を積み重ねていくことが、文化交流のあるべき姿なのではないだろうか。

評者:小川忠(国際交流基金企画評価課長)

[めこん HomePageへ]