【書評再録】

 2000年以前の書評はこちら


『動きだした時計――ベトナム残留日本兵とその家族』
【書評】
 小松みゆきさんは、東京合同法律事務所に一九七四年から約一〇年間在職した元事務局員。彼女は京橋の旅館に住み込みながら夜間高校に通い、その後労働旬報社に勤務。その縁で近くの合同法律に入所。合同法律と自由法曹団とがひとつの建物に同居していた時代。その後ハノイの日本語学校教師で赴任していた彼女は、雪深い郷里(新潟)から認知症の実母を引き取った。九四歳迄の一三年間の実母との悲喜こもごもの生活奮闘記を本にした。それが「ベトナムの風に吹かれて」(大森一樹監督・松阪慶子主演)の映画となり、NHKのドキュメントにもなった。「ラジオ深夜便」でハノイ通信員として時に声が流れたりした。団員にも彼女の知友は少なくないが、今やベトナムでは有名人だ。
 その小松さんがベトナム残留旧日本兵とその家族をテーマに纏めたのが標記の本。副題は「ベトナム残留日本兵とその家族」である。二〇一七年三月ベトナムを訪問した平成天皇夫妻と残留日本兵家族との面会がマスコミでも報道された。私もこの報道で甲斐甲斐しくベトナムの家族たちに寄り添う彼女の行動を見たが、この本で残留日本兵の宿命的な行路とその家族の心情、戦争の悲劇を改めて考えた。
 「大東亜戦争」は悲惨な敗残兵を大量に生んだが、ベトナム現地で武装解除されたなかにホーチミン率いるベトミン(ベトナム独立同盟会)に加わった旧日本軍の将兵がいた。インドシナ戦争(対仏)の本格化に沿って軍事的な経験と技術の不十分であったベトミン側は、軍事訓練や実践指導に旧日本兵を重用した。この本で解説を書いた白石昌也氏(もと早大教授)によれば、後年、旧日本兵の「教え子の中から一九六〇年代のベトナム戦争期に優秀な指揮官として活躍する人材が輩出した」と記している(ボー・グエン・ザップもそう評価しているらしい)。多くは独身であった旧日本兵は、ベトナム独立のため献身して軍務に従事する。そして現地でベトナム女性と結婚し子どもをもうけ平穏な家族生活を築く。インドシナ戦争後に中国の支援がベトナムにさらに深く浸透するに伴い、旧日本兵の「任務」は「日本国の発展とベトナムとの友好」に次第に変化する。冷戦の勝利という新しい任務を帯びた旧日本兵は日本への帰国を半ば強制され、妻子をベトナムに置いたまま中国経由で舞鶴に帰港する。時は一九五四年末、わが国で五五年体制ができる直前。その後の歴史は、旧日本兵は再びベトナムに戻ることなく、別れ際に妻に帰るとの誓いを果たすことなく過ぎていった。
 「私ノ父ハ日本人デス」。三〇年前ハノイの日本語学校の教室でたどたどしい日本語で話す生徒に出会い、小松さんの旧日本兵のベトナムでの家族、国内での本人とその家族を探す旅は始まった。ベトナムのどこかに旧日本兵の家族がいると聞けば、手紙を出し足を運んで懇切に世話をやきながら話を聞く。国内の旧日本兵の情報に接すると、ベトナムから日本の片田舎まで足を運ぶ。長期間の綿密な調査と記録作りの困難な作業が続けられる。そこで明らかにされる旧日本兵および日本・ベトナムの双方の家族たちの生活史と心情は?帰還後の日本兵の人生行路は?本書はそのことを詳しく書いている。「熱戦」から「冷戦」に突き進んだ国際的激動と歴史、その狭間で漂流する社会と個人の運命。著者は、戦争による個人の悲劇に敢然と挑戦する。家族間の亀裂を黙って見ている気持ちになれない、持ち前の行動力を発揮して家族間の修復を図るべく粘り強く奔走する。そのような情熱もしくは情動がどこから出来するのだろうか。本書にはそれに答える自己言及は極力控えられている。そのことが却って本書のテーマの普遍性を与え読者にさまざまに思いをいざなう。個人の平和への希求とは、戦争責任の後代のあり方とは、ーー爽やかな読後感に包まれるとともに明日の生き方を考えさせられる。事務局員(特に女性事務局)も小松さんの生き方から有益なヒントを得られるかもしれない。
 本書には、白石氏のほかに古田元夫もと東大教授、坪井善明もと早大教授の大御所のほかに栗木誠一NHKテレビマンによる「解説」が付いていて歴史的な背景も分かりやすい。

《評》自由法曹団元団長
荒井新二



ロヒンギャ難民100万人の衝撃
【書評】
 この500ページを超える大著、テーマも定価も手に取りやすいものではないが、図書館で借りてでも読んでいただきたいと思う。
 ちょうど安倍首相が"森友・加計問題"で陳謝したころだから、ごく最近の出来事である。ミャンマーの西部、バングラデシュとの国境近くで「無差別のジェノサイド(集団殺害)」が起きた。被害者の、ある高齢女性は、「兵士は小銃の銃床で弟(七〇歳)の頭を殴り、脳みそが出るのが見えた」「兵士たちは銃を乱射し、村中が死体でいっぱいだった」と語る。
 ミャンマー国軍に虐殺されたのは、「ロヒンギャ」と呼ばれるイスラム系住民であった。犠牲者数は、オーストラリアなどによる共同調査の結果、2万5千人とされる。レイプも多発した。生存者たちの証言は、これが同じアジアでおととし起きたとは信じられぬほど、野蛮な残虐性に満ちている。
 突如100万人超もの難民キャンプが、バングラデシュ国境沿いに出現した。日本の宮崎・富山・秋田各県と同規模の人口である。
 著者は国際NGOのメンバーだが、以前は「毎日新聞」の特派員であった。紛争地での取材経験も豊富な異色のキャリアが、本書にはいかんなく発揮されている。
 見方が重層的なのである。毎日、難民キャンプで聞こえる産声に生命力を感じる一方、麻薬や売春、人身売買の闇も見逃さない。難民の親はほぼ例外なく教育熱心で、子どもらも学校が大好きだ。道端に捨てられたスイカの皮が、緑色の外側ぎりぎりまで齧(かじ)られているのを見て、それを食べた子どもはよほど「嬉しかったのだろう」と推測する視線の細やかさもある。
 本書が伝える、ミャンマーと現代世界の病根の深さは、底知れぬものだ。著名なアウンサンスーチー国家顧問が、ノーベル平和賞受賞者にあるまじき対応で被害の拡大を放置し、「殺人犯」と呼ばれている衝撃的な事実も記される。
 たとえば日韓関係がいくら悪化したとはいえ、在日コリアンの集住地域を自衛隊が襲い、住民を虐殺して追い出すような事態は考えられまい。ロヒンギャ難民に起きたのは、そういう悲劇だ。ミャンマーをアジア経済の「最後のフロンティア」などと位置づける見方は、再考を迫られよう。

《評》ノンフィクションライター
野村 進
(めこん 4000円)














金子光晴の唄が聞こえる
【書評】
 マレー半島西南部の地方都市、バトゥパハ。詩人、金子光晴(1895~1975年)は、この南方の小都市に長期滞在し、以降も愛惜の念を抱き続けた。<山川の寂寥がバトパハぐらいふかく骨身に喰入るところはなかった>(『マレー蘭印紀行』)、などといくつかの作品で、情感を込めてバトゥパハを描いている。

 金子の高弟である著者の松本亮氏は、師の痕跡を求めて、まずこの町を訪問する。<私には金子の内臓へ分け入っていく想いがする>と心情を吐露し、次第に本書の主題は、金子を巡る二人の女性、そして恋敵の男の存在に移っていく。

 “反骨の大詩人”をそばで見続けた著者だからこそ語り得た逸話の数々である。二人の女への愛憎が、創作の大きな原動力になっていたことが伝わる。同時に詩的な語彙と表現によって、金子の作品論、人物論に仕上げているのが見事だ。

 著者は、インドネシアの影絵芝居ワヤンを日本に紹介した第一人者。初めて影絵人形と出合ったのも、金子の自宅だったと記憶をたどっている。今年3月、90歳で死去。末尾には死の2日前に書き残した、“書きかけのあとがき”を収める。(部)


金子光晴の唄が聞こえる
【書評】
 詩人金子光晴が没するまでの24年間を弟子・編集者として交わった著者(今年3月死去)の遺作。1983年に雑誌発表された幻といわれた評伝を単行本化した。文学史に残る詩人の詩と人物について万感を込めて書き尽くした。妻を引き連れてのアジア放浪記「マレー蘭印紀行」やパリ暮らしなど金子の足跡を訪ね、心の深層に迫る。詩人の息づかいが聞こえてくる。(めこん 2700円)


メコンを下る
【書評】
 1994年9月。東京農大探検部OBを中心とする日中合同の探検隊は、チベット高原を源としてアジア6ヵ国を流れ、南シナ海に流れ込むメコン川の[源頭]を発見した。
 ヒマラヤを源とする大河川のいくつかは、20世紀末にはまだ、上流から源流部が明らかにされていなかったのだ。
 源頭の発見以降、世界の探検家の目はメコン川全流域初降下に向けられていく。本書はそんなメコン川の探検的開拓期に、源頭発見から全流域降下まで、日本隊の中心人物として全ての探検を率いた探検家の報告である。
 大河の川下りにはさまざまなハードルがある。氷河水を集めた激流はもちろん、物資の輸送、資金集めなど。メコン上流域の最大のネックは中国の外国人未開放地区入域許可だった。これら難題を、メンバーとの絆、中国側隊員の人徳、緻密な調査、現場での大胆な行動など、人間力で乗り越えていく。信頼できる仲間とともにつづく探検はやがて、時空間を贅沢に費やした川旅へと変わっていく。
 11年かけた5回の探検報告は600ページ。だが全編気持ちのいい活劇で飽きさせない。(めこん、5500円)  服部文祥(登山家・作家)


上座仏教事典
【書評】
 東南アジア大陸部やスリランカで主に信仰されている上座仏教。出家主義や厳しい戒律で知られ、人々の社会生活との距離感は、日本などで信仰される大乗仏教とは大きく異なっている。同じ「仏教」の名が付くが故に、逆に本来の姿はイメージしづらいかもしれない。同じくインドにルーツを持ち、その後、スリランカを経て南伝した上座仏教の原理原説を網羅した大著である。

 宗教の専門家だけではなく、地域研究者、パーリ語の研究者らで編成する執筆陣総勢103人が、風土や歴史、社会に根付いた上座仏教を総合的な見地で基礎から書き起こしている。総説編に収録の、現役僧侶による各国の上座仏教と日本との関係も貴重な報告だ。用途に応じた情報収集が可能で、ここまで一つにまとまった上座仏教についての知見は、ほぼなかったといえる。

 ページをめくるだけでも、この地域の宗教の教理、信仰の実践が、相互的な視線によって浮かび上がる。近年、日本でもさかんに取り上げられる「瞑想(めいそう)」や、上座仏教諸国の現憲法下での宗教規定、五つの国を並列に置いた関連年表など読みどころが満載だ。 (棚部秀行)


もうひとつの『王様と私』

  

 

  


シンガポールの基礎知識
【書評】
 シンガポールについての本は数多く出版されていますが、テーマが複数に分かれているため、何を読めばいいか迷うことはないでしょうか。今回、アジアをテーマにした本に定評のある出版社から、絶好の入門書の登場です。一人の著者が社会状況や政治、経済全般を語るので視点が安定し、とても分かりやすくなっています。また、文化系の柔らかい話題から、政治等の硬い話題へと移るという、読みやすい構成です。シンガポールを代表する10人というコラムもあり、バランスの取れた人選になっています。個人的に はこれがあるだけでも読む価値があると思いました。巻末の文献案内も必見です。シンガポールに関わりのある方なら、ぜひご一読を。 ( シンガポール紀伊國屋書店 河合)


ベトナム:勝利の裏側
【書評】
 メディアが初めて大々的に報じた「戦場」として記憶に刻まれているベトナム戦争。反戦運動が国際的な流れとなって広まるなど、このアジアの局地戦争は、20世紀後半の世界の大きな転換点になった。
 昨年は戦争終結から40年。戦中に比べ注目されてこなかったベトナム国内、特に南部のその後をベトナム人ジャーナリストが詳述している。社会主義経済の挫折や難民流出、隣国中国・カンボジアとの紛争。膨大な資料やインタビューから、国の政策に翻弄(ほんろう)され、家族や命、社会秩序を失っていく人々の混乱が記される。
 戦争の勝利で「解放」されたのは南部だったはずが、序言には<解放されたのは北部の方だったのだ>とある。日本経済が安定成長し、バブル景気にわいた1970〜80年代後半、東南アジアの一国で何が起きていたのか。日本ではほとんど知られていなかった事実が明らかになる。
 略歴によれば、著者は米軍の北爆を激しく受けた中北部出身。62年生まれ。ベトナム人民軍に入隊経験もある。邦訳の本書は500ページを超える大著だが、原著の上巻のみで下巻は現在翻訳中という。=中野亜里訳(部)


ベトナム:勝利の裏側
【書評】
 今日、ベトナム戦争をふりかえるとき、二つの世界史的意味が見てとれる。一つは、第二次大戦直後に始まるインドシナ戦争から連続して、一九九〇年代中越戦争まで半世紀にわたって続く、アジアでの植民地主義体制をくつがえす解放闘争の一環だ、ということだ。いずれの戦争も、覇権大国の南の世界での支配を終わらせる政治=軍事闘争であった。第二は、この時期を通じて、アジア諸民族が「後進」状態から脱却して、先進国へのキャッチアップを始めた。
 ベトナム戦争に関する歴史、証言は夥しいが、当然のことながらアメリカ資料への依拠が目立つ。本書は、北部出身のジャーナリストが、上記二つの視点に基いてベトナム戦以後のこの国の進展を、豊富な取材と、回想記、手記等の分析を通じて示したところに特色がある。この本が、政府筋の公式発言のエコーではなく、これに疑問を持ち、政府報道機関の公職を辞しての自前の仕事であることを考えると、本書の価値の高さが知られる。
 第1部「南部」では、統一以降の社会主義改造、資本家=華人への弾圧、大量のボート難民の発生等が扱われる。第2部「レ・ズアンの時代」では、戦争時代以来の外国援助依存体制の硬直化、また統制経済改革の困難と、これらから脱却するべく新しく打ち出された「ドイモイ」(刷新)政策が説明される。ベトナム戦争で、「解放されたのは北部のほう」だったと喝破する著者の視点がよく示される。
 ベトナム戦争では、一六〇万人以上の軍・民間の犠牲者が出たが、統一後も多くの人びと(革命への参加者をも含み)が抑圧され、犠牲者となった。亡命を余儀なくされた多数の市民の運命に暗たんとする。ドイモイ政策をきっかけに、今日ASEANの一員として発展の道を歩み出したベトナムだが、国営企業改革、政府の非能率、汚職腐敗等、現在の課題は本書に続く後編に譲られる。「ポスト・ベトナム戦争」を「民衆史」の視点から描いた出色の現代史である。
(西川 潤:早稲田大学名誉教授)


性を超えるダンサー ディディ・ニニ・トウォ




インドネシア検定 公式テキスト




「現代アジア文学選集」第2巻『わたしの戦線』
【鈴木良明さんからの手紙】


ヴィエンチャン平野の暮らし
【書評】
 ラオスでは自然のリズムを取り入れた方法で農業が営まれている。それは一見、機械化が進んだ先進国から見れば頼りなげなものであるのだが、実は非常に有機的かつ合理的な農法だと言える。では、実際ラオスの人々はどのように自然を利用しているのか?自然科学系の研究者たちが長期にわたってフィールドワークを続け、ラオスの人々の多様な環境利用の実態を明らかにした。



ラオス農山村地域研究
【書評】
 ラオス研究がブームである。少なくとも、評者はそのように感じている。
 ラオスは1990年代まで、旅行者が簡単に出入りできる場所ではなかった。農山村地域となると、2000年ごろになってようやく自由な調査が可能になったという国である。しかし、本書の編者は、そのような調査困難な時代からラオスに関わり続けてきた。他の分担執筆者も、現地での長期滞在を基本に据えた調査研究を行ってきた人たちであり、それだけでも、内容の充実度、書籍としての価値の高さは予測できる。
 本書は、総合地球環境学研究所(地球研)のプロジェクトとも深く関連している。地球研は、環境問題の本質を解明するための「統合知の構築」を目指して、さまざまなプロジェクトを推進している。いわゆる文理融合を嘔うプロジェクトには、単なる寄せ集め的共同研究に終始するものや、理系を中心としつつ文系がお飾りとして参加するだけのものが少なくない。また、プロジェクトの成果として出版される書物も、個別研究を並べただけの統一感のない産物になることが多い。そのような中で、本書は編者の意図が十分に反映されており、執筆者の専門分野は多岐にわたっていながらも、まとまりのあるラオス研究の書になっているという印象を受けた。
 本書は、海外も含めて初めてのラオス地域研究の専門書であると、編者は自負する。しかし同時に、ラオスに関心を持つ一般の読者をも射程に入れた内容・構成となっている。本書の出版元の「めこん」は、東南アジア関係の専門書・一般書を数多く世に出してきた出版社である。紙質の良さや、読みやすい賛沢なスペースの使い方、写真資料の多用等を見ても、経験ある出版社として「売れる」ことを見越した書になっているのであろう。
 内容を紹介する。本書は、第1章で「ラオスをとらえる視点」を提示した後は、「社会」、「水田」、「森林」、「生業」の4部構成となっている。各部は2~3章で構成され、さらにフィールドでの経験や思いを綴った「小論」が適宜配置されている。第1章「ラオスをとらえる視点」は、本書を読み進む上で必要なラオスの基本情報を示し、どのような視点を持てばよいかを提案している。ラオスは内陸国であり、明確な中心地が存在せず、また、熱帯デルタという「米びつ」を持たない。周辺諸国と比較して、全土的に人口希薄で、農地面積も小さい。つまり、自給農業を基盤とした分散型社会であり続けた。その一方で、森林に覆われ続けた歴史を持ち、しかも、多様な森林植生がモザイク状に分布している。周辺諸国の森林被覆率が20世紀後半に大幅に減少したことを考えると、特筆に価する。
 ただし、近年では、焼畑の減少と水田の拡大、市場開放とインフラストラクチャー整備に伴う商晶作物の導入など、農業や土地利用に大きな変化が生じており、生業構造そのものが変化しつつある。また、低地、山地中腹、山頂付近など、高度差によって棲み分けがなされていた民族間関係についても、土地森林分配事業の適用などによって移動・移住が進み、必ずしも居住地や生業との関係で民族の違いを説明できなくなっている。
 このような現状を考慮した場合、結局のところ、ラオスを見る視点は二つであるという。つまり、ラオス農山村地域に暮らす人びとにとって、「変わらないことの意味」と「変わることの意味」は何なのかということである。以下、本書の各章は、基本的にこの視点から考察がなされる。
 第1部「社会」は二つの章からなる。第2章は「消えゆく水牛」(高井康弘)と題し、水牛を中心にラオス北部の社会変化を考察している。役畜であり、儀礼の際の贄であり、また蓄財・相続の対象でもある水牛は、放し飼いが基本であった。その水牛を、水田(役畜利用の場)や焼畑休閑地(放し飼いの場)の利用との関係からみる中で、従来の緩やかな土地利用と社会関係を指摘する。ところが近年では、土地利用の変化により放し飼いが困難になり、また、水牛肉の市場の形成もあって、水牛を手放す人が増えてきた。人と水牛と土地利用の関係性からラオス社会の変化を見る視点は面白い。
 第3章「民族問関係と民族アイデンティティ」(中田友子)では、ラオス南部において、社会経済的状況が異なる二つの村落を事例に、マジョリティの低地民とマイノリティの山地民との関係を考察し、両者の問の「垣根」の低さを指摘する。平地民対山地民というステレオタイプ的な構図をイメージしている者にとっては新鮮な議論である。ラオスでは、もともと人々の意識の中で民族を問うことがあまりなかった上に、国家による民族の線引きの歴史が浅く不安定であったことが、現在の状況を生んでいるという。
 第2部「水田」は二つの章からなる。第4章「水田を拓く人々」(富田晋介)は、ラオス北部の村で、過去100年にわたる水田開拓の過程を詳細に復元した初めての研究である。富田は、水田面積の拡大パターンについて、村の人口増加や世帯の男子数、集落から水田までの距離、井堰、用水路建設の歴史などとの関係を詳細に分析している。その中で、一つの家系に富が蓄積されにくく、社会階層が固定化されにくい村落構造を、水田と世帯人員との関係から指摘しており、非常に興味深い。
 第5章「水田の多面的機能」(小坂康之)は、「産米林」を考察するものである。「産米林」とは、多くの樹木が生えている水田のことである。小坂の論考は、水田は米を作るための専用の場所という観念を覆し、水田の多面的なとらえ方について再考を促すものである。日本における水田の多面的機能の議論を先取りするようなラオスの水田利用と、それに対する小坂の視点はインパクトのあるものといえる。
 第3部「森林」は3章構成である。第6章「土地森林分配事業をめぐる問題」(名村隆行)は、住民参加型の森林管理が制度的に認められた土地森林分配事業を画期的な事業と認めつつも、その担い手同士の間に存在するギャップや、村落領域の確定やゾーニングがもたらす負の効果についても批判的に考察している。土地の領域確定に関わる問題は東南アジア各地にみられるが、NGOでの実践経験を踏まえた名村の視点が興味深い。
 第7章「植林事業による森の変容」(百村帝彦)は、森林のとらえ方の違い、造林・植林と自然再生との違い、環境植林と商業植林との違いなどを再考するものである。そこには、わかっているようでも、外部者にはなかなか見えづらい問題が含まれる。百村は、それを具体的な事例から検討し、森林に対する価値付与の仕方如何によって、緑化政策も住民を困窮に追い詰める可能性を指摘する。また、契約型・住民参加型のものでも、失敗するとそのしわ寄せは住民に向かうという。
 第8章「非木材林産物と焼畑」(竹田晋也)は、焼畑後の休閑林で重要な森林産物が採取されること、そのような森林産物の利用と輸出が何世紀にもわたって続けられてきたことを明らかにする。休閑二次林の利用は、東南アジアの焼畑民一般にとって重要であったと思われるが、それを土地利用パターンも含めて具体的に示している点で貴重な報告である。また、焼畑跡地を利用した栽培植物と市場動向との関係から、近年の変化を考察しているが、重要なことは、焼畑と休閑地利用のサイクルを考慮して、「機が熟すのを待っ」農業を維持することであるとしている。
 第4部「生業」は3章構成である。第9章「焼畑とともに暮らす」(落合雪野・横山智)は、本書の編者2名による共著で、民族植物学者と地理学者の合作であることが強調されている。この章では、有用植物の空問的分布にこだわりながら、焼畑サイクルの時問軸をどのようにとらえるべきかを考察している。焼畑民は焼畑だけを生業としているのではなく、遷移していく休閑林・二次林から多様な資源を抽出していることが、詳細な地図データとともに示される。第8章の議論とも呼応する部分であり、東南アジア島嘆部の焼畑を見てきた評者にとっても、非常に示唆的である。
 第10章「開発援助と中国経済のはざまで」(横山智・落合雪野)は、2004年以降の数回にわたる調査の結果、ラオス北部の農村の「劇的な変化」を詳述した章である。政府による森林分配事業と焼畑の禁止、それに同調したNGOによる農業支援などにより、事例村落では焼畑が消減し、すべて常畑化・水田化した。しかし、限られた平地しか持たず、常畑の概念も希薄な村では、結果として、経済状態の悪化という事態がもたらされ、それを補うために、中国資本による契約栽培へと向かわざるを得なくなった。このような状況は、おそらく、近年のラオス北部農村の典型的な事例と思われる。
 第11章「商品作物の導入と農山村の変容」(河野泰之・藤田幸一)は、他の章とはやや趣が異なり、地域的にも広い視点から、変化するラオスを中心に描いている。商品作物の導入それ自体は必然的な流れとしても、村落間・村落内における経済格差の拡大や、持続的な生産体制の不備、外国企業による不適切な土地利用などが課題として挙げられている。しかし、現時点でのラオスの農地面積は国土の5%にも満たない状況であり、今からでも、自然と社会に適したラオス独自の土地利用システムを作り出すことは可能であるとしている。
 以上が本書の概要である。まとまった報告が少なかったラオスの現在を知ることができるという点で、現時点における最良のラオス研究の専門書であることは間違いない。印象として、個々の論考も面白いが、複数の執筆者による見解のオーバーラップも楽しめた。その意味でも、関連のない話題がバラバラに並ぶという、ありがちな学際プロジェクト成果本の限界は軽く超えている。若干の不満を言うならば、ほとんどの執筆者が、従来のラオス農山村における独自のシステムを肯定的に評価する一方で、最近の変化に対する「危慎」や「懸念」を示して、各章を閉じているという点である。それも、国家の政策や近隣諸国からの資本流入という、ある意味構造的な側面を持った問題を提示している。そのことに対する危機感は、現場に深く関わったフィールドワーカーとしての率直な印象であろう。ただし、たとえば田中耕司の小論(pp.191-199)のように、「タマサートな開発」を提言するまでに至るかどうかも重要であろう。その如何によって、読者は勇気を与えられる場合もあるし、古き良き社会を惜しむだけになるかもしれない。研究者・一般読者の双方を射程に入れた書籍であればこそ、そこまで踏み込んだ記述があっても良かったかもしれない。
 次に、ラオスの多様性のとらえ方について考えてみたい。評者は一度だけラオスに行ったことがある。ラオスは、東南アジア島嶼部を知る評者からみても、民族構成、水田利用、焼畑と休閑・二次林における資源利用、商品作物の導入過程など、あらゆる面において、きわめて複雑で多様な世界を持っている。初心者には、何が基本事項で何を中心に考察すればよいのかわからなくなるほどであるが、各章の論考、あるいは本書全体の構成としても、そのような複雑さを整理できる内容になっており、高く評価できる。ただし、いみじくも編者2人が担当した9章と10章で自已批判的に示した「分けたがる性癖」というものから、本書が本当に脱却できているのかどうか、疑問が残らないわけではない。しかし、このような疑問は・地誌や地域研究を専門とする者に対して、そのまま跳ね返ってくる部分である。特に、フィールドワークを中心に研究を行う者は、現場の文化・社会・資源利用などの多様な側面に驚愕しながらも、そのような多様性をそのまま描くことはできないことに諦念を感じ、何らかの「切り口」を探しつつ、結局は「ある視点」からの記述に終始せざるを得ない。
 多様性をどのようにとらえ、記述するのか。さまざまな分野の執筆者を揃えて、それぞれが独自の切り口からラオスの現状を示しているという点で、書籍全体としてはこの点をクリアしている。そのような意味での編者の努力は十分うかがえるし、地域研究に対する考え方も感じられる。なおかつ、全体としてのまとまりを維持できているという点でも、本書は秀逸な地域研究の書である。しかし、現地社会の複雑さの把握と、記述あるいは書籍としてのまとまりの良さとは、トレードオフの関係にあるのではないかという従来からの感覚を、完全に払拭できたわけではない。評者自身が解決できていない課題を、端緒についたばかりのラオス研究に求めるのはアンフェアかもしれないが、自戒の意味も含め、今後の課題として指摘したい。
 いずれにせよ、本書で示されたラオスの素材としての魅力は、一般読者にも十分に伝わるものである。そして、本書を読んだ評者自身も、ラオスで調査・研究をしてみたいという強い欲求に駆られた。このことは、地域研究の専門書としても非常に高い価値を有していることを意味する。
(祖田良次・北海道大学)



ラオス農山村地域研究
【書評】
 ラオスに関する学術書が出版されるぺースが2008年になって急速に伸びている。そのもとをたどると、総合地球環境学研究所の研究ブロジェクト「アジア・熱帯モンスーン地域における地域生態史の統合的研究:1945-2005」(2003~2007年度、代表:秋道智彌・総合地球環境学研究所教授)に行き着く。このブロジェクトの大きな目的は、モンスーンアジア地域において過去50~60年に生じた人間-環境系の相互作用環の総体を地域の生態史(エコヒストリー)として解明することにあった(秋道 2008)。プロジェクトの主要な対象地域はラオス、中国・雲南省、タイ北部であるが、中でもラオスは、全土にわたって調査研究が行われた重要な地であった。プロジェクトの中に設けられた、生業を研究対象とする一つの班(森林農業班)のメンバーが、本書評で取り上げる『ラオス農山村地域研究』の主要な執筆者を構成している。2000年前後まで本格的なフィールドワークを行うことが困難であったラオスにおいて、本書は、農学、林学、民族植物学、土壌学、農業経済学、杜会学、地理学、人類学、歴史学の9つの分野にまたがる、最初の総合的な研究成果である。
 最初の研究成果ではあるが、その内容は、東南アジアの他の地域における農山村研究にも十分、刺激を与えるものとなっている。
 まず、調査手法の点では、QuickBirdのような高解像度の衛星画像の利用と、GPS(Global Positioning System)を用いた現地調査との組み合わせが大きな特徴となっている。水田の用水路を取水口から排水口までひとつひとつ踏査したり、世帯単位の焼畑地の境界を地図上にブロットしたりするなど、人びとの生業の基盤となっている水田や焼畑の一枚一枚の圃場や水路を地図上で同定している。そして、村人へのインタビューをもとに、圃場ごとの詳細な土地利用履歴を明らかにする。統計や聞き取り記録だけでは不可能な定量的データを取得している点が評価される。
 さらに特筆すべきは、すべての村人の家系図を作成し、詳細な人口動態に関するデータを取得している点である。これにより、たとえば水田に関しては、1960年から2005年までの40年間の開拓面積と人口動態との関係を分析し、40年のタイムラグをおいて人口増加が水田の開拓に影響をおよぼしたことを示すなど、村レベルでの人口・食糧バランスを考察するための重要な検討がなされている。今後は、世帯内の構成要員の変化や他の生業、技術の変化との関係を含めて、村落レベルにおける土地利用、人口動態、そして生業との関係を総合的に明らかにすることが望まれる。
 本書の第2番目の特徴は、ラオスの人びとの多面的な生態資源利用を明らかにした点にある。水田は、コメを生産する場としてだけではなく、昆虫の捕獲や有用植物の採集の場であり、また動植物を保全する場でもある。焼畑は、農業生産だけでなく、休閑地を利用したさまざまな非木材林産物を採取できる場でもある。飼育されるスイギュウも、役畜として食肉として動産として利用される。また、耕地や休閑地だけでなく、道路沿いや河川も、さまざまな植物を採取できる場であることが『有用植物村落地図』の作成によって明らかになっている。人びとはローカルな生活空間全体のなかで、刻々と変わる植牛の遷移や動物相の変化を利用しつつ、多様な生業戦略を発達させてきたことがわかる。本書の第3番目の特徴は、上に述べたような、人びとがこれまで蓄積してきた在来の知識のみに依存しているわけではなく、激しい現代的変化にラオス農山村が巻き込まれていることもきっちり見据えている点にある。土地分配事業、定住化政策、商品作物の導入、伐採コンセッションやパルプ造林の影響、焼畑の禁止など、他の多くの東南アジア諸国がこれまで受けたのと同じような変化を、しかし他のどこよりもラオスは急速に経験している。本書のどの論考も、そうした急激な変化の中で、それぞれの村に特有の歴史的経緯をふまえ、村人の視線で明日を模索する姿勢がうかがえる。
 最後になったが、冒頭の研究ブロジェクトの成果を集大成したものに3巻からなる論集がある(河野 2008、ダニエルス 2008、秋道 2008)。ラオスを含むメコン流域の生態史の多様な側面を理解するために、本書とあわせて読まれることをお勧めする。

引用文献
秋道智彌(編) 2007. 『図録 メコンの世界-歴史と生態-』東京:弘文堂.
秋道智彌(責任編集・監修) 2008. 『論集 モンスーンアジアの生態史-地域と地球をつなぐ-第3巻 くらしと身体の生態史』東京:弘文堂.
河野泰之(責任編集)・秋道智彌(監修) 2008.『論集 モンスーンアジアの生態史-地域と地球をつなぐ-第1巻 生業の生態史』東京:弘文堂.
クリスチャン・ダニエルス(責任編集)・秋道智彌(監修) 2008. 『論集 モンスーンアジアの生態史-地域と地球をつなぐ-第2巻 地域の生態史』東京:弘文堂.

(柳澤雅之・京都大学地域研究統合情報センター)

ラオス農山村地域研究
横山智・落合雪野編

 本書は専門を異にする15名の研究者の協働により編まれた学際的なラオス地域研究の成果である。編者自身が本書をして「外国語で書かれた書籍を含めても,ラオス農山村をここまで多面的に,かつ広範囲に論じた類書はない」と断言するように(3頁),ラオスに関心を持つ者にとって,本書はまさに待望の一冊と言っても良いだろう。
 本書のような研究成果が希求されてきた背景として,ラオス農山村地域をめぐる特殊な事情が指摘できる。まず,ごく近年まで本地域での外国人研究者による研究活動は極めて困難であった。これは本地域における第2次世界大戦後の20余年にも及ぶ内乱と,その後に続く社会主義政府による国内移動の統制,特に農山村地域への移動制限によるところが大きい。外国人研究者に農山村地域での研究活動を認可されるようになるのは,2000年前後まで待たねばならなかった。次に,研究が遅々として進まない状況にあって,本地域は大きく変化を遂げつつあった。特に1986年に始まる「チンタナカーン・マイ」に基づく経済自由化と対外開放政策は,交通・通信インフラ整備,商品作物栽培の普及,NGOによる農村開発プロジェクト,中央政府による土地利用の近代化など様々な変化を本地域にもたらしていた。
 つまり,現在のラオス農山村地域はその来歴すらも知らされぬままに大きく変化を遂げようとしており,それだけに本地域の現状を伝える研究成果が望まれてきた。本書は長らく研究空白地域となってきたラオス農山村地域を対象とした地域研究の嚆矢として,重要な意義を持つものである。
 本書は第1章を導入部として,「社会」・「水田」・「森林」・「生業」の4部からなる10章5小論で構成される。本書で一貫して主題とされる対象は,ラオスの農山村に連綿と継承されてきた農業と森林とをめぐるローカルな実践と知識であり,これを軸に各論考が展開されている。
 まず,第1章「ラオスをとらえる視点」の河野・落合・横山論文では,農業と森林とをめぐるローカルな営みを把握する二つの視点が提示される。一点目はその在地での社会的意義を明らかにしたり,これを生物多様性や環境保全などの議論に結びつけたりすることで,ローカルな営みを再評価・普遍化しようとする視点である。もう一点は,これが国家の近代化政策,諸外国による援助活動,市場経済の浸透など,いわばグローバリゼーションとのかかわりの中で変化していく過程とその結果とに地域性を見出そうとする視点である。編者の言葉を借りれば,前者が「変わらないことの意味」を,後者が「変わることの意味」を現代のラオス農山村地域の営みからそれぞれ見出す視点と言えよう(5頁)。以下の各論考は,概ねこの二つの視点からラオス農山村地域の来し方と行く末を検討する。
 第1部「社会」の高井論文「消えゆく水牛」は,水牛をめぐる農村部の伝統的な生活形態を明らかにし,その近年の変容を検討する。特に後者について,近年急速に加速しつつある水牛売却を取り上げ,その原因が水午による食害係争の発生による放し飼い禁止と国内での食肉需要の増加にあることを明らかにした。続く「民族間関係と民族アイデンティティ」の中田論文では,ラオス国内の多数民族ラオと少数民族ラオ・トゥンとの間に見られる諸関係に注目する。これによれば,ラオスにおいては多数民族と少数民族との境界はおおむね暖味であり,時に少数民族が多数民族に自らの意志で同化することすらあり,それを多数民族の側も拒まない傾向にあるという。
 第2部と第3部はラオス農山村地域の主要な生業空間である「水田」と「森林」とをそれぞれテーマとする論考からなる。富田論文「水田を拓く人々」は盆地部農村における水田開拓過程を検討し,その要因を明らかにする。なかでも,伝統的な水田相続のしくみは村内の社会階層の平準化に寄与していた点で重要な意義を持つものと考えられる。しかしながら,近年そのしくみが崩壊しつつあり,これが水田面積と社会階層の固定化につながりつつあると指摘される。「水田の多面的機能」の小坂論文は,ラオスの伝統的景観である水田のもつ多面的機能を検討する。これによれば,ラオスの水田は「水稲作」という基本的機能を十全に果たしていることに加え,「農業」・「採集と捕獲」・「保全」の側面から重層的に利用される空間であるという。その意味で,ラオスの水田は先進諸国で議論される農村や農地の「多面的機能」を示す好例であり,近代稲作が目指す一つの姿であると評価される。
 名村論文「土地森林分配事業をめぐる問題」は,1996年から開始された土地森林分配事業の概要とこれに関わる諸問題を整理し,問題発生の原理とその解決策を提示する。ここでは,法令とその運用との問の乖離など同事業の抱える問題が指摘され,その解決には各アクター問の利害調整と徹底した対話が必要となると論じられる。「植林事業による森の変容」の百村論文は,近年ラオス全土で拡大しつつある商業的な植林事業に着目し,その森林と人々の影響について論じる。これによれば,これらの植林事業は貧困撲滅を掲げて行なわれているものの,その成否は流動的であり,さらにその失敗による不利益は住民達に負わされる構造となっているという。つまり,商業的な植林事業は,その理念に反して住民の貧富差を拡大させる可能一性を持つ。竹田論文「非木材林産物と焼畑」はラオス北部の山村を事例に,非木材林産物の収穫を軸とする焼畑安定化の方策を探る。そして,焼畑の安定化は生態系に応じた十分な休閑期問によって担保されるものであることを指摘した上で,無理に市場経済の流れに合わせず,機を「待つこと」の重要性を力説する。
 第4部「生業」では,ラオス農山村の生業の伝統的なありかたとこれが外部アクターとの関わりから変容しつつある現状が検討される。落合・横山論文「焼畑とともに暮らす」は,焼畑村落における住民の植物利用を概説し,時問の経過に伴って変化する住民の土地への認識とその複合的な利用を明らかし,焼畑を連続するプロセスとして認識する重要性を指摘する。「開発援助と中国経済のはざまで」の横山・落合論文は,政府による土地森林分配事業,NGOによる開発援助,そして中国経済との関わりの中から村の伝統的生業が大きく変化しつつある現状を検討する。そして,これら3者のアクターが相互補完的に,または相互に矛盾を抱えたままラオス農山村地域に歪な変容をもたらしている様子を描写する。河野・藤田論文「商品作物の導入と農山村の変容」は国家レベルでのマクロな視点からラオス農山村地域における商品作物の導入過程を検討した。そのうえで,商品作物栽培の導入に関するラオスの地域性を指摘している。
 以上,簡便に本書の各論考を解説した。「変わらないことの意味」と「変わることの意味」のいずれが強調されるかは,各論考で異なるものの,いずれも伝統と近代との間で揺れ動くラオス農山村地域の現在を綿密なフィールドワークから鋭く描写する好論であることには疑いない。また,各小論については解説を省略したが,こちらもラオス研究者による活き活きとした現地報告であり,是非目を通されたい。
 最後に1点だけ本書の構成に関して,評者が感じた違和感を指摘しておきたい。本書は4部から構成されているが,これらの構成の根拠と各部問の相互関連性が明確ではない。これを整理して第1章中に示したほうが,後に続く各論考のラオス農山村地域研究における位置づけが明確になると考えられる。もちろん,本書があらゆる側面で急激に変化しつつあるラオス農山村地域を対象としていることを考えれば,各論考を位置づける作業は時期尚早かもしれない。いずれにしても,ラオスの地域研究は本書の刊行をもってまだ緒についたばかりである。今後の研究の深化を願ってやまない。
 最後に,本書と同様の意義を有する成果として,野中編(2008)が同時に刊行されていることも指摘しておく。また,本書で詳説の限られるラオスの歴史・政治・経済・文化などの概説については,ラオス文化研究所編(2003)が参考となる。両書ともに本書の理解を深める上で有用な情報を提供するため,本書をこれらと併読されることを推奨したい。
渡邊敬逸

【文献】
野中健一編(2008):『ヴィエンチャン平野の暮らし一天水田村の多様な環境利用』めこん。
ラオス文化研究所編(2003):『ラオス概説』めこん。



すべてのいのちの輝きのために
【書評】
 東ティモールでは、8人に1人の子どもが5歳の誕生日を迎えることなく、下痢やマラリア、栄養失調などの予防可能な病気で亡くなってしまうという現実があります。住民自身が自分や子どもの健康を守る知識を身につけて、家庭や地域で行動したら、もっと多くの子どもたちが5歳の誕生日を迎えることができる。そう信じて、シェアは保健教育活動を行なっています」(本書端書より)。
 1983年、医師、看護師、医学生が中心となって設立された国際保健協力NGO「シェア」。「いのちの大切さにおいてはあらゆる人が平等」という信念の下、愚直に保健医療に関わる活動を続けてきた。
 活動は世界中におよび、85年のエチオピア気が被災民への支援から始まり、フィリピンのピナツボ火山噴火(91年)、ルワンダの内戦(94年)、スマトラ沖地震(2005年)などの被災者に対する緊急救援活動に取り組んできた。
 そしてシェアが最も重要視するのが、医療サービスへのアクセスなどの問題から、日常の生活の中で健康を維持することが困難なひとびとへの支援。そのために、地域医療スタッフの能力向上や、村人自身による適切な健康管理のための、保健に関する知識の習得に力を注いでいる。
 本書はシェアの保健医療分野における取り組みについて具体的に紹介していく。まず第1部では、シェアの歴史について、日本国際ボランティアセンター(JVC)の事務所の一角で誕生してから、4回の十無所の変遷を経て、現在に至るまでの経緯を、その時々で関わったひとびとの熱い思いや、直面したさまざまな困難とともに描き出す。続く代2部では、シェアが重点を置いて取り組んできた7つのテーマ、“プライマリ・ヘルス・ケア”、“母子保健”、“公的保健システムの強化”、“保健教育”、“エイズ”、“緊急救援”、“在日外国人のための保健医療”における活動の軌跡を紹介していく。
 誕生から26年たったシェア。その長い歴史の中ではぐくまれてきたさまざまな経験が、この一冊に凝縮されている。保健医療分野での国際協力に取り組むことを考えている人には、テキストとして必携だ。
(本誌編集部 土岐啓道)


すべてのいのちの輝きのために
【書評】
 活動記録を整理して出版することは、日本のNGOにとってはひとりだちのための通過儀礼となっている。JVCから生まれたシェアが二十五周年を迎え、この通過儀礼を無事にすませたことは喜ばしい。
 本書はシェアの歴史を振り返る第一部「活動の軌跡」と、活動テーマ別の第二部「課題と学び」からなっている。援助研究の立場からは、現場の息吹を伝える生の声が開示されることは大切で、とりわけ成功事例ばかりではなく、失敗と悩みが綴られているかどうかでこの種の本の価値が決まる。その意味で本書の白眉は第一部である。当初のエチオピア時代の活動で「ボランティアの希望とプロジェクト全体の方向性が食い違った場合」(p.52)が具体的に書かれていたり、評価を始めたばかりの頃の「評価される側にとってもまだまだ冷静さと客観性を持って受け入れることの困難」(p.91)が表明されていることは、これから成長しようとするNGOにとっては貴重な教訓になるだろう。
 かねがね私は、現場に派遣された人の創意によって思わぬ方向へ活動が展開するシェアの活動を「糸切れ凧の放し飼い」と評してきたのだが、各国ごとの「放し飼い」活動でも、継続していくと組織としてそれなりの方向に収斂してくることを本書は実証している。組織的なポリシーや緊急対応のマニュアルは必要であり、そのためにはこれまでの経験の蓄積が整理されなければならない。本書はまさにそれに向けた試みなのだが、本書を読んでいるとそれ以上のメッセージ、すなわち「とにかく現場に飛び込もう、そして活動に自己満足することなく改善を模索しよう、そうすればポリシーは後からついてくる」が明確に刻印されているように思えるのだ。カリスマリーダーの統括下にある組織に比べればまどろっこしい方法なのだが、そうした泥臭い仕組みをもった市民組織があることは、もしかしたら日本の貴重な財産なのかもしれない。
(アジア経済研究所 佐藤 寛)



『ブラザー・エネミー』
【書評】
「いまひそかにマルクス主義とマルクス主義運動の歴史に根底的変容が起こりつつある」。
 ナショナリズム論の「古典」となった『想像の共同体』(書籍工房早山、二〇〇七年)を著者、ベネディクト・アンダーソンはこのように書き起こした。それがベトナム戦争を終結させたサイゴン陥落(一九七五年)からすぐに勃発した第三次インドシナ紛争である。
 統一後のベトナムがポル・ポト政権下のカンボジアに侵攻し、中国がそのベトナムに「懲罰」を与えるとして中越戦争を発動した一連の紛争は、共産主義国同士の本格的な戦争であり、しかもかつての中ソ対立のようなイデオロギー論争を伴うこともなかった。アンダーソンはそれを「世界史的意義を持つ出来事」と捉えたのである。
 困惑したのは左派を自認したアンダーソンばかりではない。アジアの小国・ベトナムに粗暴に介入するアメリカという構図で捉えることのできたベトナム戦争は、日本でも広範な反戦運動を呼び起こした。だがこの事態は、どの国がどの勢力と、何を背景に戦っているのか、皆目訳が分からないと見えたであろう。
 この複雑怪奇な紛争とその後の展開を、これ以上なく鮮やかに浮かび上がらせたのが、ナヤン・チャンダ著『ブラザー・エネミー』である。ベトナム戦争の背後で進行していた東側陣営内の確執、中国の対インドシナ政策を左右した北京の権力闘争、中ソ双方から距離をとろうとしつつ対ソ依存に押し流されるベトナム、さらには米中国交正常化と米越国交正常化の間で揺れるアメリカなど、多岐にわたる国々のさまざまな思惑と行動が絡み合い、巨大なうねりを形作っていったことが、その中で翻弄されるシアヌークのような個人のドラマにいたるまで、縦横無人に活写される。
 だが卓越したジャーナリストであるチャンダの筆致は、そのような狭義の「国際政治」にとどまらない。歴代中華帝国がインドシナに覆い被せた華夷秩序と、独立を保とうとするベトナムとの数世紀来の確執、タイとベトナムとのせめぎ合いと両者に圧迫されるカンボジア。「国際政治」の根底を流れ、各国の行動をどこかで方向づけている歴史の記憶と民族感情があぶり出され、本書に「壮大」と言うほかない立体感と深みを与えている。
 ジャーナリストと学者・歴史家はどう違うのか。さまざまな見方があろうが、私はさしあたり「見えるもの」を書く前者と、「見えないもの」を書く後者といったことが思い浮かぶ。本書は「見えるもの」と「見えないもの」とを難なく結びつけ、インドシナ現代史の「総体」を丸ごと浮き彫りにした。同様の志をもって書かれた本は多いが、これほど成功しているものは稀有であろう。
 それだけに本書に寄せられた賛辞は多い。「縦横に舞台を移し、チャンダは登場人物に命を吹き込んだ」「壮大な歴史、高度に洗練された言葉」「鋭い感性、卓越した洞察力」。その中で私が最も心惹かれたのは「チャンダはジャーナリストの情熱と明晰な思考でこの本を書き上げた」という一文であった。
 まったくの私事だが、記者の駆け出しのようなことを数年ばかりした後に大学院に入った頃、机の前で息がつまる日も皆無ではなかった。「志は高く」と思うたび、「…情熱と明晰な思考」という一文に惹かれ、本書を机の端に立てておいたものであった。今回、何処にいったかと捜してみれば、書類に埋もれて発見。「初心忘るべからず」と、先人の言葉はなるほど耳に痛い。
(宮城大蔵 政策研究大学院大学助教授)



ブラザー・エネミーサイゴン陥落後のインドシナ
ache01.jpg

 多くの日本人は、サイゴン陥落後のインドシナの歴史にかんしては空白である。米中会談でキッシンジャー・周恩来の間の合意が成立して以降、米軍の撤退は<ヤンキー・ゴー・ホーム>として歓迎され、べ平連の反米・帆船が勝利したように思っている。
 しかし、サイゴンを陥落させた北ベトナムは、その後、ポルポトの支配するカンボジアに侵攻し、中国がポルポトを支持し、ベトナムはソ連の支援を取り付けるという複雑な構図となった。要するに世界の共産主義運動が新段階に入ったのである。
 ナヤン・チャンダ『ブラザー・エネミー――サイゴン陥落後のインドシナ』(友田錫・滝上広水訳、めこん)の原著は一九八六年に公刊され、世界中で広く読まれ注目を集めた。日本では一九九九年に出版されている。ただ、専門家の間だけで読まれ、その内容が日本人に葉常識となっていない。ということは、戦後現代史における日本の常識は、世界の歴史認識の水準に達していないということだろう。
 著者のナヤン・チャンダはインド生まれ、パリ大学でインドシナ史を研究、博士論文執筆中にジャーナリストに転向。欧米系メディアの特派員として活躍。ワシントンのカーネギー国際平和財団の主任研究員となる。本書は、その主題の把握(敵となった兄弟の骨肉の争い)、実証性、国際的力学、歴史への視野、そして客観性と学問的姿勢が生きている。サイゴン陥落の夜から叙述を始めているが、その臨場感は圧倒的迫力を強めている。
 特に強調すべきは著者が会った要人の数の多さであろう。日本人は大平正芳ひとりしか出てこないが、それぞれの要人たちはその個性がしっかり浮き彫りにされている。
 日本人と日本ジャーナリズムはこうした世界認識の流れを再び獲得しなければならない。サラリーマン風ジャーナリズムへの決別である。日本ではジャーナリストが後に歴史家になったが、これからはアカデミストとジャーナリストの自由な往復作業が必要だろう。メディアの自己革新を信じたい。
(粕谷一希=評論家)


バンコクバス物語
 最近の度重なる混乱で少々イメージを悪くしてしまったタイの首都バンコク。しかしこの街が魅力的であることに変わりはなく、その魅力は歴史遺産のみならず、そこに暮らす庶民によって生み出されているものといって間違いないだろう。そのバンコク庶民の足として長きにわたって活躍する乗り物が“バス”である。本書は在タイ歴通算13年、バンコクの路線バスをこよなく愛する著者が、名所旧跡を巡るわけではない、ごく普通の路線バスに乗り、行く先々で目にした庶民の暮らしを素直に描写した、小さな旅物語だ。
 バンコクのほとんどの路線バスの行き先表示はタイ語表記のみで外国人には利用しづらい。とはいえこれほど安くて便利、おまけに庶民を身近に感じられる乗り物は他にはなく、旅行客だからといって、これに乗らずに帰国してしまうのはもったいないというものだ。
 著者は路線バスから見る風景こそが、本当のバンコクの姿なのだと言わんばかりに、様々な路線に乗り、目にした風景や人との出会いをカメラに収めていく。道中、バス職員の休憩所にお邪魔して運転手の悩みを聞き、市場では売られている品物に蘊蓄を傾ける。ところどころに登場する雑学の数々には、著者ならではのこだわりが感じられ、他の紀行文とは異なる独特の面白さを醸し出している。おまけに巻末のバス路線一覧は、各路線の面白さの三段階評価付き。まさかタイの路線バスが日本人に面白さで評価されるとは、タイ人の誰一人として想像していなかったことだろう。
 700点にも及ぶ写真には長閑で優しい時がしるされ、観光地巡りだけが旅ではない、旅の本当の楽しみ、出会いの喜びを再確認できる、味わい深い1冊である。

◎赤旗 2007年11月20日 掲載


ガラスの家


民族独立の苦闘を描く プラムディヤ著ブル島4部作を訳了して 押川典昭
   このたびプラムディヤ・アナンタ・トゥールの小説『ガラスの家』を上梓(じょうし)した。プラムディヤ(一九二五~二〇〇六)は、アジアでノーベル文学賞にもっとも近いといわれたインドネシアの作家で、『ガラスの家』は、『人間の大地』『すべての民族の子』『足跡』と合わせて四部からなる長編小説の最終巻である。
 スハルト独裁政権下で流刑されていたブル島で書いたことから、「ブル島四部作」とも呼ばれるこの小説は、四十以上の言語に翻訳され、プラムディヤの名を世界に知らしめた彼の代表作である。『人間の大地』の翻訳を出したのが一九八六年だから、二千八百ページをこえる四部作の日本語版の完成まで二十年余を要したことになる。
 小説の舞台は、植民地支配下にあったオランダ領東インド(現在のインドネシア)、とくにその中心地であるジャワ島。時代は、十九世紀末から二十世紀初め。十七世紀に始まるオランダの支配が完成に近づきつつあったこのころ、西洋のさまざまな技術と制度が導入され、東インドは新しい時代を迎えていた。そして東インドの外では、日本が日清・日露の戦争をへて欧米列強のあとを追い、フィリピンがスペインからの独立を宣言し、中国が辛亥革命にむかうなど、アジアが大きく揺れ動いていた。
 全編を通しての主人公は、ジャワ貴族出身の青年ミンケ。エリート意識と上昇志向の強かった彼が、さまざまな経験をへて植民地支配の不条理と民族意識に目覚め、インドネシア人による初のマライ語新聞を発行し、近代的な運動組織「イスラム同盟」を結成するまでの苦闘にみちた歩みが、激動するアジア史を背景として骨太に描かれる。
 それだけであれば定型的なナショナリズムの物語にとどまるが、この小説が卓抜なのは、植民地征服戦争の傭兵(ようへい)として片足を失ったフランス人画家、日本人娼婦、清朝の打倒をめざして東インドに潜入した中国人の若い男女、ミンケの活動を支援するオランダ人弁護士やジャーナリスト、またミンケの成長に大きな精神的影響を与える義母など、主人公のまわりに多彩なエピソードをもつ脇役を配し、それらのエピソードとミンケの物語が絡み合いながら大河小説を構成していくところにある。
 もうひとつ、この四部作には大きな仕掛けがほどこされている。語り手の変更がそれだ。第一部『人間の大地』から第三部『足跡』までは、主人公のミンケが、ナショナリストへ成長し運動を率いていく過程を、みずからの体験を通して語る構造になっている。これは反植民地運動を、当事者の視点で、内側から描いたものといえる。
 これに対して、第四部『ガラスの家』では、治安対策を担当する現地人の高級官僚が、どのようにして同胞の運動をコントロールし、弾圧しようとしたかが、彼自身の悔悟にみちた日記を通して語られる。
 題名の『ガラスの家』は、植民地東インドで、ナショナリズム運動にかかわる者たちを監視する体制の隠喩(いんゆ)である。彼らが、いつ、どこで、だれと会い、どんなことをしゃべり、どんなことを書き、さらにはどんなことを考え、企図しているかが、ガラスの家を透視するように、なかの住人(ナショナリスト)たちの気づかぬうちに把握される、それが「ガラスの家」の意味だ。
 そしてその暗喩は、時代をこえて、警察国家ともいうべきスハルト体制下での住民監視システムを撃つものでもあった。スハルト政権が、四部作を発禁とし、国民が小説を所持することじたいを処罰の対象としたのは、そうした批判の射程をもつ四部作の影響力を恐れたためである。
 この小説は、長大な物語であるだけでなく、歴史とは何か、たたかうとはどういうことか、原則をもって生きるとはどういうことか、を問いかける歯ごたえのある作品である。これを読み通すにはそれなりの根気と咀嚼(そしゃく)力が必要だろうが、かつて植民地であったアジアの国と民族が、どのような苦闘をへて独立に至ったかを知るためにも、四部作の日本語版が完成したこの機会にぜひ読んでいただきたいと思う。

 


◎毎日新聞 2007年10月14日 掲載


ガラスの家


プラムディヤ・アナンタ・トゥール 押川典昭訳

 大河小説という用語を提唱したのはロマン・ロランらしい。だから彼の『ジャン・クリストフ』がその典型。あるいはロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』。一人ないし一群の人々の運命を何十年にも亘って追う、一定の社会性を帯びた、長い小説。
 インドネシアの作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールの『ガラスの家』の訳が刊行された。七百ページの分厚い本であり、全四巻からなる長大な連作小説の完結編である。全体として正に大河小説だ。
 時代は十九世紀末から二十世紀の初頭まで。舞台はオランダの植民地であった東インド、現在のインドネシアである。植民地支配の圧政の中からゆっくりと独立の機運が生まれる。ジャワをはじめとする無数の島々、マライ語をはじめとする多くの言語、イスラムをはじめとするいくつもの宗教、それらの中から遠い将来の国の像がおぼろに見えてくる。
 『ガラスの家』に先立つ三巻、『人間の大地』、『すべての民族の子』、『足跡』は、オランダへの反抗を通じて国家形成への道を探る思想的な英雄ミンケの半生を辿る物語だった。
 彼は医学を修めながらも文筆で立ち、自分たちが置かれた状況を観察し、分析し、マライ語による初の新聞「メダン」を発行する。その先にあるのは思想を社会的な運動に換えるための組織作りだ。オランダに対抗するのにまず必要なのは「自分たち」の意識である。多様で混乱した地域性の中にいかにして統一の原理を見いだすか。
 かくてミンケは中国の孫文、フィリピンならばホセ・リサールに当たる指導者となってゆく。注目すべきは彼を助ける女たちの力だ。恋人や妻や義母。それぞれがオランダ人との混血であったり、中国系であったり、小さな島の王国の王女であったり。
 前三作と異なって『ガラスの家』はミンケの活動を妨害する立場の人物を語り手にする。オランダ人でも混血でもない生粋のプリブミ(原住民)でありながら、優秀な警察官僚として出世した彼パンゲマナンは、やがて総督府直属の分析官として独立運動の芽を摘みとる役割に就く。「ガラスの家」とは彼が構築した反政府運動監視システムのことだ。 しかし彼は仇敵として自分の前に立ち現れたミンケの思想と生きかたと勇気を心から尊敬している。彼はこの矛盾を生きるしかない。自分の立場に苦悩しながら、ミンケを政治犯として離島に流す。そして、原住民として栄達を極めたにも拘わらず、最後にはすべてを失う。
 大河小説が河であるならば、河口に近いあたりには海から潮が上がる。ミンケの淡水の奔流に抗する塩水域がパンゲマナンの役割なのだろう。
 小説としてのからくりに一工夫ある。前三作はミンケが書いた自伝的なノートという体裁であった。それを没収したパンゲマナンは自らも似たようなノートを執筆し(それが『ガラスの家』)、最期にすべてをミンケの遺族の手に渡す。それがこの四巻のテクストとして残った。
 インドネシアが国として独立するまでには、ミンケたちの時代からまだ三十年以上の歳月が必要だった。その過程には日本も深く関わった。
 作者プラムディヤ・アナンタ・トゥールはスハルト政権によって投獄され、流刑先で艱難辛苦の中でこの四部作を書いた。何度となくノーベル文学賞の候補になりながら、受賞することなく去年亡くなった。「これを読め」と指さすことが文学賞の役割であるとしたら、ノーベル賞は時期を逸したとぼくは思う。

池澤夏樹

出典 カフェインパラ


◎2007年10月5日発行 「週刊金曜日」No673 掲載


ガラスの家


プラムディヤ・アナンタ・トゥール/ 押川典昭訳

いまだ解除されない発禁処分を超えて

 現代インドネシア文学を代表する作家であるプラムディヤ・アナンタ・トゥールが、ブル島の流刑地政治犯収容所で書き上げた長編歴史小説、いわゆる「ブル島四部作」の日本語訳がついに完結した。押川典昭氏による二〇年あまりにおよぶ訳業によって、『人間の大地』『すべての民族の子』『足跡』『ガラスの家』という、疑いなく二〇世紀文学の金字塔のひとつがこうして私たち日本語読者にとって共有できるものとなったことを心から喜びたい。とくに待ちに待ったこの最終巻は、私のようにインドネシア語を解しない者にとっては、きわめて不十分とされている英語訳でしか読めないものだったから、インドネシア語版のさまざまな誤りをふくめて綿密な校訂作業を経た今回の日本語訳の出版は、今年最大の収穫のひとつといって間違いない。
 一九二五年オランダ植民地下で中部ジャワに生まれたプラムディヤは、独立をめざすインドネシアのナショナリズム運動の高揚期のなかで育つ。しかし六五年の「九月三〇日事件」に続く共産党弾圧の嵐のなかで逮捕され、六九年から七九年までバンダ海に浮かぶブル島で流刑生活を送る。その監獄生活のあいだ、以前に収集していた資料や記録を記憶からフィクションとして創作し、まず他の流刑者たちに口述、さらにそれを筆記する形で完成したのが、この「ブル島四部作」なのである。こうした過程を思うとき、私たちはそこに「創造の奇跡」というだけではとうてい足りない、政治犯たちが民衆の記憶を分有するために共同で物語をつくりだす有様に深い感動を覚えないだろうか。

 前三作では、主人公のミンケがニャイ・オントソロのような女性たちに囲まれながら人間としての成長をかさね、インドネシアのナショナリズム運動を牽引していく様子が、まさに大河教養小説として雄渾(ゆうこん)に活写されていた。だが驚くべきことにこの第四部『ガラスの家』では、語り手がナショナリズム運動を監視する現地民官僚パンゲマナンに替わり、その手記によってミンケたちの活動が綴られるという視点の転換が図られるのだ。こうして私たちは、これまで登場人物たちに寄り添いながら読んできた三部の小説が、パンゲマナンの代表する警察国家の官僚機構によって保管され評価される資料であったという冷徹な歴史的事実の前に立たされる。ここに二〇世紀に数々の独裁政権下で実施された住民監視システムの隠喩や、さらには現在の私たち自身が置かれた「テロとの戦争」以降のネオリベラルな自己管理体制への視野を読みこむこともできるだろう。
 八〇年から出版されはじめた「ブル島四部作」はベストセラーとなるが、それは発売一〇カ月で発禁となり、スハルト独裁体制が崩壊して一〇年たった現在も発禁処分は公式には解除されていないという。しかし人びとはインドネシア国内でも国外でもさまざまな手段でこの小説を回覧し、読み続けてきた。現在こうして私たち日本語読者が手にすることのできるプラムディヤ畢生(ひっせい)の大作は、二〇〇六年に亡くなった彼の文学的遺産というに留まらず、国家権力という関係性の内部で私たち個人が社会のためにどのような実践をなしうるか、ナショナリズムを排外主義に陥らない連帯の思想としてどう構想するか、という永遠にして現在の問いをくりかえし提起してやまない。

本橋哲也/東京経済大学教授


◎2007年9月29日 「じゃかるた新聞」(インドネシアの邦字紙) 掲載


ガラスの家


プラムディヤ・アナンタ・トゥール/ 押川典昭訳

最終巻『ガラスの家』邦訳が出版
 翻訳した押川典昭教授に聞く   文豪プラムディヤ氏ブル島4部作


 ノーベル文学賞候補に名前が挙がりながら、昨年死去したインドネシアを代表する作家プラムディヤ・アナンタ・トゥール氏の代表作、大河歴史小説四部作の最終巻『ガラスの家』の日本語訳が8月、大東文化大の押川典昭教授の翻訳で出版された。インドネシア人の民族意識の芽生えを描いた四部作は、同氏が共産党のクーデター未遂とされる1965年の九・三〇事件で政治犯として逮捕され、79年まで過ごした流刑地ブル島で同房の政治犯に語り聞かせて完成させた。四部作はスハルト政権が発禁処分とし、現在もその処分は解けていないが世界30カ国以上で翻訳された。83年に第一部「人間の大地」の翻訳を開始して以来、20年余りにわたり四部作翻訳に携わった押川教授に聞いた。

 ─『ガラスの家』日本語訳が先月、出版に至った際のお気持ちは。
 ◆押川教授 何より読者への約束を果たせてホッとしている。『人間の大地』は、東南アジアの文学書としては異例なほど多くの読者を得たが、四部作の完成を待っていてくださった多くの読者の期待に何とかこたえられて、今は安堵感が大きい。

 ─主人公が代わる『ガラスの家』の魅力とプラムディヤ氏が作品に込めたメッセージは何でしょうか。
 ◆一─三巻と最終巻の構成の違いは、読者にとって予想外の驚きだろうが、四部作に深みと厚みを与えているのはこの主人公の交代だと思う。もちろん、全巻を通してみれば、ミンケが主人公であるのは疑いなく、ナショナリズムの芽生えを描くことが小説のテーマだろう。
 そのナショナリズムを、運動の当事者たるミンケの視点からだけでなく、それを破壊しようとしたパンゲマナンの悔悟に満ちた(おそらく彼は死を意識している)日記を通して語らせる、いわば「末期(まつご)の眼」を導入したところに、小説家としてのプラムディヤの卓抜さとこの物語の面白さがある。
 そして同時に、パンゲマナンと、たとえばスハルト体制下の治安維持の立役者アリ・ムルトポ(彼とプラムディヤとミンケ=ティルトアディスルヨはブロラ生まれの同郷)が容易に二重写しになることで、この小説は抑圧的なスハルト体制への批判の書ともなり得ている。
 全巻を通してみれば、「われわれはどこから来て、どこに立っているのか」と問いかけながら、インドネシアの曙の時代を生きた人々の歩みを、そのなまなましい息遣いが聞こえるように書き留めること(彼自身の言葉を使えばmendokumentasikan)、それがプラムディヤの意図だろうと思う。
 それを実現するために、ミンケの物語に、例えばニャイ・オントソロ、コンメル、スラティ、ジャン・マレ、安山梅、スールホフ、リエンチェ・ド・ロオ、そしてパンゲマナンといった多彩な人物の物語を縦横に組み込み、それらが一体となって大河をなすような小説を作り上げたところに、作家プラムディヤのすごさがある。

 ─四部作の翻訳に携わった経緯は。
 ◆インドネシアの文学作品が日本語に翻訳されて本格的に紹介されるようになったのは一九八〇年前後からだが、私が最初に手掛けた小説の翻訳はモフタル・ルビスの『果てしなき道』で、一九八〇年八月に第一版が出ている。こうした文学作品の翻訳出版を可能にしたのは、「売れないアジア物」を粘り強く出してきた小規模ながら志の高い出版社と、それに助成を行なう財団の存在だった。
 その助成事業のひとつにトヨタ財団の「隣人をよく知ろう」プログラムというのがあって、インドネシアを含む東南アジアの文学作品の翻訳出版を支援していた。
 このプログラムでは、翻訳すべき作品のリストがインドネシアと日本の専門家が加わった選定委員会であらかじめ作成され、そのリストから出したい作品を出版社が選ぶことになっていて、たまたまリストにあったプラムディヤの小説『ゲリラの家族』を出版社の「めこん」が選んで、その翻訳を私に依頼してきた。『ゲリラの家族』の日本語版は一九八三年五月に出版されたが、めこんと私の間でその後も引き続いてプラムディヤの作品を紹介しようということになり、四部作の翻訳が始まった。
 ただ当時は、この長編小説に対する評価は高かったものの、最終巻『ガラスの家』のインドネシア語版は未刊で、四部作すべてを出版できるという確たる見通しがあったわけではない。いずれにせよ、私が四部作の翻訳に携わることになったのは、日本における東南アジア文学の本格的な翻訳紹介という大きな流れの中でのことだ。
 『人間の大地』の翻訳にいつ取り掛かったのか、作業を記録しておく翻訳ノートがどこかに紛れて見当たらないので正確なことは分からないが、翻訳には一年以上かかったはずだから、『ゲリラの家族』が出版された一九八三年の夏以降のことではないかと思う。

 ─二十年余りにわたる翻訳作業で苦労は。
 ◆プラムディヤの文章は他の作家と比べて、けっして読みやすいものではない。しかも、四部作はブル島の流刑地で参照すべき文献もなく、劣悪な条件下で書かれたという事情もあって、厳密な校閲がなされておらず、流布しているインドネシア語版そのものに過ちが多いため、翻訳のテクストを確定させるのに相当な時間がかかった。
 また、十九世紀末から二十世紀初めのオランダ領東インドが舞台なので、その時代の風俗や習慣などついての考証も必要だった。
 翻訳作業については、「二十年余りをかけて完成させた」といえばそれ自体が物語として語られそうだが、現実はそんな劇的なものではなく、ただ自分自身の怠けぐせと戦いながら根気の求められる作業だった。「あの文はどう訳そうか」といったことは四六時中頭の中にあって考えていたが、毎日決まった分量を訳すというのではなく、休みのときに一日十二時間くらい集中的に作業をした。
 翻訳で心掛けたことは、いかに読みやすい訳文にするか、ということ。このため、訳した文章は何度も音読し、耳からスムースに入ってこられるような文章にすることに留意した。

 ─昨年死去されたプラムディヤ氏にはどのような言葉をかけますか。
 ◆彼が生きているうちに日本語版の完成を報告できなかったことは残念だが、今はただ「ありがとう」と言いたい。このような小説の翻訳に携わることができたことを、心から感謝している。

大東文化大でプラムディヤ氏関連の書物を背に押川教授=2006年6月



黎明期の民族主義を描く

 評・高地薫(JICA専門家)

 プラムディヤの『ガラスの家』(原題:Rumah Kaca)の邦訳がようやく出版された。インドネシア研究者として、それ以上にプラムディヤの一愛読者としてこの上ない喜びである。
 本書は、プラムディヤの代表作いわゆる「ブル島四部作」の最終部であり、これでその全てが邦訳されたことになる。前三作、『人間の大地』(一九八〇、邦訳一九八六)、『すべての民族の子』(一九八〇、邦訳一九八六)、『足跡』(一九八五、邦訳一九九八)は、二十世紀初頭に出現した黎明期インドネシア民族主義の活動家を描いた大河小説である。しかし、ブル島四部作を単なる優れた歴史小説に留まらせず、世界的文学に高めているのはこの最終部に他ならない。
 この四部作を通じた主人公は、ミンケと呼ばれるジャワ貴族である。第三部までは彼自身が語り手となり、原住民、オランダ人、中国人など様々な人間との交流、友情、対立を経て、植民地社会とジャワの封建的社会の矛盾に目覚め、インドネシア民族主義を発展させ、その運動を組織していく過程を描く。とりわけ、ミンケに封建制にもとづいた貴族の誇りではなく、支配者オランダ人と対等に渡り合う原住民の誇りを教えたオランダ人現地妻(ニャイ)ニャイ・オントロソは、この物語の影の主人公となっている。
 この物語を通じて、ミンケは三人の女性と結婚する。一人目は、ニャイ・オントロソの娘で欧亜混血児のアンネリース、二人目は中国国民党活動家(ミンケと友情を結んだ)であるフィアンセと死別しその遺志を継いだ安山梅、そしてジャワ人ではない原住民、プリンセス・カシルタである。この三度の結婚は、西洋、目覚めつつある東洋、そして同胞である東インド原住民(後のインドネシア人)との出会いと合一を象徴していよう。そして、彼らは、これらの結婚から子どもを授からなかったが、原住民の覚醒、インドネシア民族主義こそが彼ら全員の子どもであり、その子どもは親の手を離れ大きく成長していくことになる。
 さて、この最終部では、突如語り手が植民地政庁の原住民治安担当分析官パンゲナマンに代わり、この大河小説のカラクリが明らかにされる。
 まず前三部自体が、ミンケが著したものの当局に押収された原稿を、パンゲナマンが手元に置いたものである。第四部はパンゲナマン自身の手によるもので、その全てはミンケの死後、ニャイ・オントロソに送られたものである。
 第二に、それらに描かれるミンケの動きそのものが、植民地当局の(時として事後的な)観察・調査の対象であり、すべてが「筒抜け」だったことが、暴露される。つまり、ミンケを代表とする黎明期の民族主義者たちは、外(当局)から丸見えの「ガラスの家」に住まう人々だったのである。
 このような監視システムが東インドで完成したのは、実は一九三〇年前後である。このシステムは、植民地当局というよりはスハルト新体制下における住民監視システムの寓意とも読める。スハルト体制がプラムディヤの著作を発禁処分にしたのは、マルクス主義の流布という表向きの理由でも、あるいは単なる嫌がらせでもなく、おそらくは自らの体制の「秘密」が明らかにされているからとも考えられるのである。
 最終部には、語り手であるパンゲナマンの人生も織り込まれていく。プラムディヤは、彼を単に冷酷な諜報専門家として描きはせず、彼自身の成功した植民地官僚としての自負と誇り、観察あるいは操作対象であるミンケへの敬意と優越感、気性の激しいプリンセス・カシルタへの怖れ、そして自分の人生への疑問をない混ぜにした極めて複雑な心理的動きを描いている。
 そして、彼は家庭人としては失敗して妻子に去られるのだが、これはお互いを信頼し合い、民族意識という子供を育んだミンケと三人の妻たちの関係と著しい対照を為す。そして、「敗者」として自らの人生を悔悟し、贖罪の意識をもってニャイ・オントロソにこの物語りの原稿を送ったのである。
 ブル島四部作における『ガラスの家』の位置付けは特殊であり、また前三部を前提としないと分かりずらい面もあるものの、これこそがブル島四部作を非凡な作品としているのである。前作の翻訳から九年もの時間が経ってしまったため、前作を読んでいない方だけでなく、読んだことがある方も再度、この四部作完訳を期に是非、第一部から通して読み、プラムディヤの世界を堪能し、またこの名作を素晴しい日本語訳で読める僥倖(ぎょうこう)を噛み締めて頂きたい。

◇『ガラスの家』  押川典昭訳、めこん・3500円/Pramoedya Ananta Toer 作家。25年生まれ。昨年4月に死去。

◎2007年8月14日 「北海道新聞」 掲載(ウェブ掲載許諾番号D0708-0711-00003884)


ガラスの家


プラムディヤ・アナンタ・トゥール/ 押川典昭訳

 文学言語生み出したプラムディア

 インドネシアで最もノーベル文学賞に近いと言われた作家プラムディア・アナンタ・トゥール(一九二五?二〇〇六)が亡くなってからすでに一年以上が経つ。代表作である歴史大河小説の四部作の最終巻『ガラスの家』の日本語訳がちょうど出版されたばかりだ。
 プラムディアは一九六五年に起きた「九月三〇日事件」(共産党によるクーデター未遂事件とされる)への関与を問われて約十年間流刑に処せられた。四部作はその遠く離れた島の収容所で書かれたものである。八〇年から順次発表されたが、出版と同時に強権的なスハルト体制下で発禁処分とされ、公には読むことができなかった。私も八〇年代の留学時代に密かに入手し隠れて読んだ。
 小説は今から一〇〇年以上の昔、インドネシアがオランダ領東インドと呼ばれた時代に、民族主義運動が展開していく様子を様々な登場人物の目を通して描き出す。発禁処分となったのは、左翼的な思想を持つと見なされた政治犯の手になる作品であったことに加え、植民地体制という権力に抵抗するナショナリズムとして描かれたテーマが、抑圧的なスハルト政権になぞらえて読まれることを恐れたのだと言われた。一〇年前にスハルト大統領が退陣した後は、プラムディアの著作は四部作を含めすべての作品が書店に並ぶようになった。
 インドネシア語は、様々なエスニック集団の間のコミュニケーション言語としてのマレー語をその源とする。しかし、インドネシア語は誰にとっても母語ではなく、独立後のインドネシアという新生国家とともに育まれていかなければならない運命にあった。文学言語として成長し、新しい文化を表現していく媒体とならなければならなかった。プラムディアの文学とは、特に独立直後の作品に顕著であるように、それぞれのエスニック集団の文化を表象するジャワ語やスンダ語、バリ語などに替わって、新生国家の国民文化を表現する新しい文学言語を創造したことが、その功績であったと言われる。すなわち文学言語としてのインドネシア語を生み出したということである。
 アジアの文学を読んでみようと思う人に是非お薦めしたい作品である。

森山幹弘(南山大学教授)



◎季刊『銀花』(文化出版局発行) No.151秋の号 2007年9月30日 掲載


タイの染織


スーザン・コンウェイ著、酒井豊子/放送大学生活文化研究会・訳

   豊富な文化的遺産を持つ国、タイ。布を織ることは古代から伝えられた伝統的な技術といえよう。タイ北部チェンマイで働いていた英国人画家の著者はある日、この地方独特の様式を持つ織物と衣裳を緻密に描いた寺院壁画に目をみはる。これをきっかけに、東北、中央平野、都市部などの寺院壁画にある織り模様と衣裳を記録しはじめ、また実地に調査しその違いを認識する。そして染織の専門的知識を得るために帰国、大学院に入学し直す。以降はタイに通って研究を続け、伝統織物は単なる装飾品ではなく、社会、信仰生活に大きな意味合いを持つことを確信する。丹念に撮影した各地の壁画や染織のある生活スナップが興味深い。内容に共感した日本の研究会グループが現地調査まで行ない翻訳出版した。



◎2006年7月号 月刊『クロスロード』掲載(2006年 国際協力機構青年海外協力隊事務局発行)

フィリピン―日本 国際結婚
佐竹眞明、メアリー・A・ダアノイ著

国際ボランティアを考えるための本・第15回

 グローバリゼーションとは、モノ、カネ、情報、技術、ヒトが国境を越えて大量かつ速く移動する現象だとよく言われる。
 しかし、この現象を南北関係からよく観察すると、カネと情報が突出してグローバル化しているのに対し、ヒトの移動のグローバル化はすでに大規模に行われているものの、最も制約を受けている。
 1990年代初頭、「北」から「南」へと流入したカネの中心は、民間銀行の貸し付けと政府開発援助(ODA)だったが、今日では、直接投資と「北」への移民労働者からの送金が首位を占めている。
 このように南北間のカネの移動がグローバル化していることを、私たちに最もわかりやすく確認させてくれる出来事は、何といっても、アフリカやアジアの小都市にまで進出してきている、海外からの送金ビジネスを手がけている米国系のウェスタン・ユニオン社の登場であろう。
 私がよく行く西アフリカでも、「北」への出稼ぎ労働者からの送金を受け取る所は、かつては個人ネットワークか郵便局であったが、今や、方々で見かける黒地に黄色の文字が記されたウェスタン・ユニオンの看板を掲げる窓口が中心となっている。同社はナイジェリア一国内だけでも1000の窓口を開いているとのことだ。
 今から150年前、米国の西部での電信業で発足した同社は、カネの流れの自由化を利用して、今や「北」から「南」への送金業の首位に上りつめたわけだ。
 これに対して、ヒトの流れは、いまだ「北」の諸国からの様々な規制の対象となっている。つい最近の米国での移民政策改革はその顕著な事例だろう。この改革案は多岐にわたるが、はっきりしていることは、越境した「不法移民」を従来の民事犯罪でなく、刑事犯に切り替えたり、メキシコとの国境沿いに1000キロ以上の壁を設置するなど、「南」からのヒトの移入を厳しく制限した点であろう。これに反対し、この春には米国史上未曾有(みぞう)の規模で移民の人権を求める抗議行動が生じている。
 実際、グローバリゼーションの時代といっても、ヒトの移動がモノやカネの移動と決定的に異なるのは、生身の人間が移動し、生活しているという側面を有していることである。「北」の社会において、このヒトの移入について、単に便利な労働力を提供する存在として位置づけるのではなく、その地で生活者として、また地域の文化を多様で豊かにしてくれる社会・文化的存在として移住者を受け入れていく視点が、近年ますます重要になってきている。
 この点に関し、国民の1割が海外に移住している出稼ぎ大国フィリピンを事例として、移住国日本の社会で、フィリピン人、とりわけ女性移住者がどのような多文化共生を実現しているのかを追っている『フィリピン‐日本 国際結婚』は示唆(しさ)に富んでおり、かつ楽しく読めた。
 本自体、国際結婚(intermarriage)をしたニッポン人の夫とフィリピン人の妻の両者の共著となっている。とくに、生まれた子どもにどんなアイデンティティーを形成すべきかという課題について、夫妻自身、子どもの名づけに際し、日本名に母方のフィリピン姓を組み込むことに成功した(1994年高松家庭裁判所による改名審判)事例などは、日本社会が目指すべき多文化共生のシナリオをかいま見せてくれる。

勝俣 誠(明治学院大学教授)


◎日・タイ経済協力協会「友の会ニュース」75号2007年6月号 掲載

タイ語で出そう!グリーティングカード
中島マリン著

『挫折しないタイ文字レッスン』に続くマリンのタイ語生活シリーズ第2段。今回はなんとグリーティングカードの書き方ということで、これって誰が想像した展開でしょう。たしかにタイの友人や恋人あてにグリーティングカードを贈った経験があるという方は多いはず。でもカードがいくらお洒落でも、書いてある文句が教科書丸写しの堅苦しい~タイ語では相手に気持ちを伝えるのは難しいというもの。そこで本書では誕生日、結婚、新年、お礼等々、様々な場面に応じた美しく自然なタイ語の書き方を、心温まる豊富な文例とともに紹介しています。タイ文化を背景とした独特の表現や単語の用法、タイのしきたりに関するお話などはタイで育った著者ならでは。さらに前作同様こちらも著者による(まさに多芸多才・・)イラストもパワーアップで、コレをこのままカードにして売ってくれー! そんな声も聞こえてきそうな、語学書という枠を飛び越えた逸品です。

◎『日中友好新聞 』2007年4月5日付 掲載

シルクロードの光と影
野口信彦著

  一筋縄ではいかない「絹の道」

 本書の著者、野口信彦氏は多忙である。新聞社主催のカルチャー教室でシルクロードの魅力を語り、住まいのある地元でシルクロードクラブを主宰し、私も参加したことのあるシルクロードへの旅行にも講師として同行する。
 そして、執筆活動である。本書で3冊目となるシルクロードシリーズの出版や、日中友好新聞の同名の連載をはじめ、雑誌などにもシルクロード関連の記事を掲載している。著者の日常はシルクロードのために多忙なのである。
 本書は、多民族国家中国が抱える民族問題、急速な経済発展がもたらす環境問題、シルクロード各都市の歴史、宗教、音楽・舞踊にいたるまで、著者が現地で数多くの人びとと接し、自ら体験したことへの思いが語られ、観光だけではないシルクロードの影の部分を知るうえでも貴重な一冊といえる。
 また、著者が足繁く通い撮影した多くの写真は、本当に親密になった者だけに見せる、現地の人たちの普段の生活ぶりと素顔を感じ取ることができる。
 1960年代、20歳代の頃に中国に留学し、文化大革命のため志半ばで留学生活を断念させられた。それでも中国への熱い思いをもち続ける著者が語る「シルクロードは一筋縄ではいかない」という言葉を紹介し、本書を推薦したい。
 「僕は、中国という大地と人びとが第二のふるさとと思っています。『我熱愛中国』なのです。盲従ではありません。愛するがゆえに、誰も批判しようとしない『影』の部分を明らかにして、『良き中国、麗しい中国が、アジアの規範になってほしい』と願っているのです。(評者=荒幡孝司)

◎『JTECS友の会NEWS 』Vol.73 Book & Events 掲載

マリンのタイ語生活1 挫折しないタイ文字レッスン
中島マリン著

  「挫折しない」・・・学習者にとってコレとっても重要なキーワードですよね。うちの父親は何十冊というパソコンの教本を持っていますが、ほとんどが同じような入門書。キャッチに踊らされて、「これならば!」と買ってしまうんでしょうね。もっとも独学というのはなかなか難しいもので、本人の意思の強さはもちろん、いかに読者をひっぱるか、といった技が教本には求められるわけです。
 そこで書名に堂々と「挫折しない」を謳った本書には期待してしまうわけですが、その特徴はというと、なんとタイ文字を「あいうえお・・」順に覚えていこうというもの。しかも覚えるために使う単語も最初は日本語単語を使い、とにかく読者にタイ文字に親しんでもらうことに重点を置いています。
 音声教材は付属しませんが、日本人がよく口にする音から似たような発音部を拾って例を示すなど、いかに次のステップに進んでもらうかという工夫が随所に凝らされています。読者の心理を見抜いた解説、イラストや表、色の使い方、思わず取り組んでしまう面白そうな練習問題等々、ここまで気配りが徹底されている教本というのは見たことがありません。後半にはタイ人が書いた手紙やタイ語で書かれた看板などを読む練習も組まれており、その与しやすさとは裏腹に気がつけばかなりのタイ文字力を得られるようになっています。これからタイ文字の学習を始める人はもちろん、文字は一通りやったけど、声調などの規則面でつまずいたという方も、ぜひ本書を手に取ってみてはいかがでしょう。きっと今までとは違った結果が待っているはずです。

◎『英語教育』(大修館書店)2007年4月号掲載

アジア・オセアニアの英語
河原俊昭・川畑松晴編

アジア・太平洋は英語でつながる

   これまでもアジアにおける英語教育の研究書やアジア英語の辞典は刊行されてきた。この本は、その発展形であり、アジア英語研究をリードする方々による実証的な調査によって著された。編著者ほか7名によって、フィリピン、シンガポール、マレーシア、インド、韓国、香港、タイ、ベトナム、フィジー、オーストラリアおよびニュージーランド(アオテアロア)における英語に関する専門的な知見にくわえて、その地域の歴史、文化、風物も書き込まれ、空港に降りたってからの街歩きが目に浮かぶかのような、魅力ある読み物になっている。アジア英語をより一般的なものにしたいという意欲にあふれ、事実、アジア英語への関心のひろがりの反映もある。担当者のその地域への熱い想いが伝わってくる。
 この本の特色の1つは、アジア・オセアニアという地域を ESL、EFL、ENL(第二言語、外国語、母語)の3つにまとめて構成したところにある。むろんアジア・太平洋という広大な地域における英語の状況をまとめるのは容易なことではない。読者の関心も、英語のバリエーションから、言語政策また経済社会問題まで多岐にわたるであろう。それぞれの地域のことについて評することはできないが、英語がますます重要になり、マレー化政策をすすめたマレーシアでさえ、理数科を英語で教えるようになってきているとのこと、また他の国においても英語による「ディバイド」がすすむ懸念があることが読みとれる。韓国の英語熱は、小学校への英語教育の導入の論議もあり、注目を集めているが、英語が苦手とされるタイでも英語ブームだという(もっとも1921年から小学校で英語が教えられていたが、1977年には廃止されていたという経過をはじめて知ったが)。この本は日本での英語教育政策や今後を考えるうえでの貴重な情報源である。
 英語と経済社会的な問題との関わりの指摘は重要である。インドでの婚姻やフィリピンからの移住労働者に関して、英語にアクセスできないマイノリティの人びとへの人権抑圧などの問題も避けては通れない。
 他方、英語は人びとを結びつける役割もある。ユネスコアジア太平洋国際理解教育センター(ソウル)ではフェローをイランやフィジーなどからも招き、各地の民話を収集し、英語での共有をすすめている。ユネスコでは津波被害の経験から、防災を重視し、防災教育の教材開発に日本政府も援助をしている。他方、南と南、発展途上国どうしが共同することにおいても英語でのコミュニケーションは欠かせない。アジア・太平洋における英語のもつポジティブな役割にも注目をしていきたい。

(東海学園大学助教授 淺川和也)

◎ALC NetAcademy 通信[32]( 2007.1.24) 掲載

アジア・オセアニアの英語
河原俊昭・川畑松晴編

 太平洋を舞台として人や物、ビジネスや文化の行き来が活発に行われる時代、 アジア・オセアニアでのコミュニケーションツールは、世界の共通語である英語だ。この地域で使われる英語は社会言語学的に三種類に分けられる。英語を第二言語として話すESL (English as a Second Language:フィリピン、シンガポール、インド等)、日常的には使われないEFL(English as a Foreign Language:タイ、ベトナム、韓国等)、そして母語とされるENL(English as a Native Language :オーストラリア、ニュージーランド) である。本書ではそれぞれに当てはまる国々での英語教育事情や特徴を紹介している。
 幾つか例を挙げてみると、 ESLに分類されるシンガポールは多民族国家で、公用語が四つあるが第一教育言語が英語である。現地で使われるシングリッシュは、標準英語と発音や文法がかなり異なるが、コミュニケーションの手段として多いに使われている。約50年後には人口数で世界一になると言われるインドでは母語も 100以上あるが公用語はヒンディー語と英語であり、英語のレベルは高い。その教育法は国内外で評価が高く教師陣もインド人がほとんどで、彼等は海外でも活躍している。 EFLの国として挙げられているタイは、一度も植民地を経験していない国だが、英語教育の歴史は古く1820年代より行われていた。近年の経済発展により拍車がかかり、小学校の英語必須化や専門学校が多く出現している。フィジーでも、小学校4年生から教育言語に英語が用いられる。しかし生活言語は方言を含む現地の言葉であり英語話者は少ない。ある学校教員は、学生の話す英語もフィジー語も崩れてきていると嘆く。執筆者は、日本における小学校での英語導入にも言及し、同じ状況になるのではと懸念を抱いている。
 編者はあとがきで、単なる教養英語では実際には身につかないもので、生活や仕事で必要とされるからこそ、身につくものだと述べている。各国の社会的・歴史的背景も章の始めに記されており、英語事情を分かりやすく知る事ができると同時に、それぞれの文化にも触れることのできる一冊である。

◎2007年1月号 アルク「中国語ジャーナル」 掲載

北京で働く
浅井裕理著

 会社の辞令で駐在員として海外に赴くのではなく、自分の意思で行き先、就職先、滞在期間などを決めて海外で働く――。この10数年で、そうした選択をする日本人は多くなった。行き先はさまざまだが、中国で働く日本人の数も間違いなく増えている。
本書の「働く」も、駐在員としてではなく、現地採用社員などとして働くことを想定している。
 本書の特徴の一つは、北京で働く日本人19人へのインタビューが収録されている点。ホテルや旅行会社に勤務する人、美容院、エステサロン、システム開発会社の経営者、日本語教師、翻訳者、調理師などが登場する。起業までの経緯、仕事内容、職場環境、そして収入などはバリエーションに富んでおり、これから北京で働きたい人の参考になるはずだ。
 収入のことだけを考えれば、海外に出て働くよりも、日本で働いたほうが一般的にはいい。では、収入に勝る魅力とは、どのような魅力なのか?19人のインタビューを読むと、その一端が分かるだろう。
 もう一つの特徴は、仕事や生活に関する基本情報が網羅されている点。仕事探しのノウハウ、渡航準備、労働ビザ(Zビザ)の取得手順、部屋探しなどが、細かく説明されている。現地の医療やIT事情、生活費の目安、さらに中国語や中国の伝統文化・芸術などが学べる学校情報なども掲載されている。
 著者の浅井裕理さんは、本誌「中国語ワールドのひとびと」にも定期的に執筆しているフリーランスのライター。1997年から北京に住み、各種メディアで中国の経済や文化などに関する情報を発信している。
 なお、本書はめこんの「海外へ飛び出す」シリーズの第6冊で、ほかに『上海で働く』(須藤みか著)が2004年に刊行されている。
海老沢 久(編集部)


◎2006年10月14日 図書新聞掲載

フィリピン―日本 国際結婚
佐竹眞明、メアリー・A・ダアノイ著

日比国際結婚をめぐるさまざまな価値
多文化共生という課題のために


 国際結婚の研究をしていると自己紹介すると、国内外を問わず、一般の方、研究者を問わず、相手から紋切り型の質問がやってくる。日本では「国際結婚してらっしゃるの?」。国際結婚という正確な英訳はない。本書の英文タイトルは、「フィリピーナー・ジャパニーズ インターマリッジ(フィリピン人女性と日本人男性のインターマリッジ)」とあるように、インターナショナル・マリッジではなく、異文化間結婚や異人種間結婚を表現するものとしてわざわざ専門用語インターマリッジとして表現している。この言葉は一般の会話ではほとんど使われることはない。海外では「君のパートナーは外国人?」と聞かれる。『負け犬の遠吠え』(講談社)の著者酒井順子と同じ丙午に生まれた「負け犬」は、「いいえ、研究すればするほど、いかに大変なエネルギーが必要であるかがわかりますので、結婚そのものが」とまともに答えても、「まあ、一度ぐらいはしてみたら」と茶化される。結婚は、人種を問わず、国籍を問わず、ジェンダーを問わず、年齢を問わない、まさにユニヴァーサルな事象だけに、誰でも食いつけるトピックである。しかし、それゆえに、結婚を学問するのは難しい。
 その点本書の著者は、私が辟易している質問に胸をはって答えられる。著者紹介によると、メアリー・ジェーン・ダアノイ氏はフィリピン出身で心理学を専攻され、四国学院大学教養部で、フィリピンの宗教・文化、および英語を教えておられたようだ。日本人配偶者の佐竹眞明氏は、1988年にフィリピンに留学中にパートナーとなる女性に出会い、1990年に結婚。3人の子どもたちの父であり、母であり国際結婚当事者による、フィリピンと日本の国際結婚に焦点を当てた本邦初の書籍である。
 フィリピン女性による日本への出稼ぎ、農村花嫁、異文化結婚と日本男性など、日比国際結婚をめぐるさまざまな側面を取り上げている。しかし、研究書としてみると何が全体の論点であるのかが、ぼやけてしまっているように思われる。専門分野が異なる研究者の共著ということで、苦労されたのではないだろうか。さらに、夫婦とも「実践」者であり、研究者という稀な本だけに、研究者としての「立ち位置」なのか、生活者としての「立ち位置」なのかを、切り離すことは難しいのかもしれない。
 統計データも様々な角度からよく整理されている。しかし、離婚率の計算が、本文には何の断りもなしに、2004年の離婚件数をその年の国際結婚数で割り、100をかけて算出してあるので、30から40%という数字になっている。家族社会学では、普通離婚率は人口1000人あたりの年間離婚件数を示す。ちなみに近年の日本人の離婚率は2.10前後である。一般書であるなら、なおさら本文に解説があったほうがいいのではないか。
 「第2章フィリピン―日本国際結婚」はこのご夫婦のネットワークがいかんなく発揮されている。60組もの事例が上がっている国際結婚研究そのものが、貴重であるだけではない。4ページにわたるリストの詳細を見ても、それぞれのカップルあるいは家族のライフ・ヒストリーがきちんと聞き取れているであろうことが、容易に想像できるだけに、惜しい。この章に詳細なエスノグラフィーを加えるだけで、一冊の名著ができるであろう。一冊は、学部の教科書風に、もう一冊は、専門書的なエスノグラフィーだけに徹しても、良かったのではないだろうか。特に、日本男性の視点、フィリピン女性の視点と、同じ「生活世界」をどのようにとらえているかが交互に分かるような仕掛けにしてくれると、フィクションでありながら、村上春樹の小説を読んでいるような感覚の研究書ができるのではないか。今後に期待したい。
 60組の半数教が、本州ではなく、このご夫婦の勤務先であった香川県にある四国学院大学時代に出会ったインフォーマントだと考えられる。1985年にフィリピンからの「野損花嫁」を山形県朝日町が初めて行政主導で迎え入れたのに続き、徳島県の東祖谷山村(ひがしいややまそん)も87年に6組のカップルが成立した。その中で2005年6月現在も村に残っている2人を含め、6組全員がこのリストに入っている。あれだけマスコミが殺到したにもかかわらず、山形の朝日町の「その後」がわからないでいただけに(残念ながら本書でも「その後」はわからない)、気になっていた東祖谷山村の「その後」を知ることができるのも本書のすごさとして唸るところである。それだけに「東祖谷山村の現在」が1ページ足らずで終わってしまうのが、二度唸らずにいられない。
 フィリピンから多くの女性が流出しているように、日本から多くの日本人女性が流出している。フィリピン国内では、海外で稼ぐ女性のいる家族の下で、さらに再生産労働を強いられるというより弱い立場の親族や女性がいる。女・女格差がある。有吉佐和子が『非色』で描いたように戦争花嫁の笑子が、ニューヨークのキャリア組日本人女性の家で家政婦をするように。日本人女性の出生率の低下は日本国民の減少と直結している。外国籍女性の出生率の上昇は、果たして「日本国民」の増大へと向かうであろうか?最終章の「ごちゃごちゃしてきたない」フィリピンへ、「いつ行くの?」と母親に聞く息子。定年後はフィリピンで過ごしたいという日本人夫もいる。日本は、子どもたちに「選ばれる国」になるのであろうか?
 本書は、日本人男性と来日したフィリピン人女性の目で書かれている。女子大に勤める私は、ほとんど日本人女性ばかりの学生に、あなたの子どもが学校に行く頃には、クラスに2人はクロス・カルチュラル・チルドレンがいるはずであり、同じ母親として、外国籍の女性と「多文化共生」していって欲しいと伝える。日本人のお母さんが、どのように外国籍のお母さんたちと共生していったらいいのか。日本人の母親世代が、異なるエスニシティの同性とどのように共存していくかは大きな課題の一つであろう。滋賀県の長浜で中国籍の母親が起こした悲劇は、一方で多文化共生の難しさを、一方で、変化しようとしない日本社会の体質の根深さを示した。本書は、ごく普通の日本人女性に読んで欲しい。本のオビに、お母さんへのメッセージを入れたらどうだろうか。

嘉本伊都子(京都女子大学現代社会学部助教授)


◎2006年07月23日 朝日新聞掲載

フィリピン―日本 国際結婚
佐竹眞明、メアリー・A・ダアノイ著

■当事者の思い、子育ての悩み
 学童のいる家の方なら、気づいておられるだろう。フィリピン人を親に持つ子供が身近に増えているという状況に。
 ところが、その内実となると、ほとんど知られていない。日比国際結婚の背景から当事者たちの思いや子育ての悩みに至るまで、きちんと調べて報告したのは、本書が初めてではないか。
 著者たち自身が、日本人男性とフィリピン人女性の研究者夫婦である。その強みをいかんなく発揮して、日本人側とフィリピン人側の双方から多彩な声とデータを集めることに成功している。それらの共通項をひとつだけあげるとすれば、フィリピン人(大半が女性)に対するステレオタイプのまなざしから脱しようと苦闘してきた点だ。
 日本人と結婚して日本に定住したフィリピン人女性は、陽気でしたたかな"ジャパゆき"でも、家を守る従順な"農村花嫁"でもない。私たちと同じく、日本社会で堅実に働き、ささやかな幸せを願う人々なのである。
 ただし、家族第一主義は日本人よりはるかに強い。フィリピンの路上に倒れていても、見知らぬ誰かが助けてくれるという本書の記述に、かの国の人々の魅力が端的に表されている。
評者:野村進(ジャーナリスト・拓殖大学教授)

◎月刊オルタ 2006年5月号掲載

あぶない肉
西沢江美子著

 米国の牛肉禁輸、BSE、鳥インフルエンザ・・・・・・。私たちの食卓を襲う「肉問題」とはいったい何か?戦後の農村で育ち、農業や女性、暮らしなどをテーマにこれまで日本各地を精力的に飛び回ってきた著者は、私たちが直面する食肉の危機について考える。豚肉、牛肉、鶏肉が肉になるまでのプロセスの中には、薬漬けの飼料、食肉汚染連鎖、グローバル市場の中で広がった人畜共通伝染病など、さまざまな問題がある。著者はそのひとつひとつに切り込んでいく。そしてこうした現状への代案として、流通や飼料のあり方の変革、そして有機畜産への道が提示されていることは大きな可能性だと感じる。最終章では実践編として「肉の選び方・食べ方」や「どこで買えばいいのか」などの情報も得られる。
評者:内田聖子

◎月刊クーヨン 2006年5月号掲載

あぶない肉
西沢江美子著

おとうさん、牛丼屋に並んでる場合でしょうか?

 今年2月、フランスでも鳥インフルエンザが確認された。ひいきのレストランにも、フォアグラや野鳥などが入ってこなくなるという。ごくごくたまにのぜいたく品とはいえ、あーあ、である。
 著者がこの本の執筆には苦労したとおっしゃるように、食肉関連の「事件」は次々と発生。その大きな原因はまさに、もうひとつ苦労した理由に挙がる「家畜を飼う、肉をつくる、売る、食べる、それぞれの距離が遠い」ことだろう。「吉野家の牛丼がなくなってしまうと行列ができ、アメリカ牛にBSEが発生したという問題などすっとんでしまう」との著者の嘆息に頷きながら思う。ここに列挙される「危険」を避けるには、安全な食肉を求めるとともに、食生活全体を本気で見直さなくてはならないはず。巻末の「食べ合わせで<毒出し>になるレシピ」は、そのうえで役立てたい。


◎文化人類学(旧民俗学研究)2005年70-1号掲載

変容する東南アジア社会――民族・宗教・文化の動態
加藤剛編著

 東南アジアとは、どのような「まとまり」をもった地域なのか。
 今日的感覚では東南アジアは、ASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟する10ヶ国(フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポール、タイ、ブルネイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー)に、2002年に独立した東チモールの11ヶ国をあわせた領域と考えるのが一般的である。
 しかし、そのASEANにしても、1967年の結成当初は、フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポール、タイの5ヶ国が加盟するだけであった。1984年に加盟したブルネイを含む自由主義陣営6ヶ国と、社会主義国家であるベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーの4ヶ国とは、没交渉の時代がながかった。これら両陣営の関係に変化が生じたのは冷戦終焉後のことであり、ASEANが社会主義陣営を包摂した10ヶ国体制(ASEAN10)を確立したのは、1999年のことにすぎない。
 そもそも東南アジアという名称は、第2次世界戦争中に連合軍がコロンボにおいた「東南アジア司令部」がその初出である。それ以前の東南アジアは、英領マラヤや仏領インドシナ、蘭領インドなどに分割されることはあっても、現在のような東南アジアといった「まとまり」は存在しえなかった。現在、ASEANを中心に東南アジアは、その自律的なまとまりを形成しつつあるのである。
 このような背景のもと、東南アジアは、大陸部と島嶼部に分けて紹介されることがおおかった。この2分法は、たしかに大陸部がモンスーン気候であるのに対し、島嶼部では湿潤熱帯気候が卓越しているといった生態学的妥当性、ベトナムを除く大陸部が上座仏教に帰依するのに対し、フィリピンを除く当初部ではイスラームを信奉するという宗教的妥当性、大陸部にはチベット・ビルマ語族、タイ語族、モン・クメール語族が分布するのに対し、島嶼部ではオーストロネシア語族がおおいとの言語学的妥当性をもつ。
 他方、大航海時代に西洋人と接触するようになる以前から、東南アジアはひとつの世界を形成していたとするアンソニー・リードらの歴史研究に顕著なごとく、近年、東南アジアをひとつのまとまりとして捉えようという試みもはじまっている。そのひとつが、人口移動に着目したフロンティア社会論である。
 本書は、1999年度から2001年度にかけて編著の課統合を研究代表者として組織された科学研究費補助金による共同研究「東南アジア社会変容のダイナミクス:民族間関係・移動・文化再編」(基盤研究A)の成果である。フロンティアとの術語はもちいていないものの、人口移動は、プロジェクトの副題にあるように本書のキーワードである。ミャンマー、タイ、ラオスの大陸部3ヶ国、インドネシア、マレーシア、フィリピンの島嶼部3ヶ国を研究対象とする本書は、編者自身が自負するごとく、1冊の書物で、東南アジア地域の社会と文化を、これだけ広域かつ多面的に論じたものは、おそらく皆無であろう。
 加えて本書の特徴は、すべての論考が多かれ少なかれ国家の周縁に位置する地域や社会、あるいは国境息に焦点をあてた点にみいだせる。第1章の石川登は、マレーシア国家の際周縁に位置し、インドネシアと国境を接するサワラク州のマレー村落を研究の舞台としている。第2章で貞好康志があつかうのは、インドネシアで政治問題が暴力化するたびに、しばしば攻撃対象とされるマイノリティの華人である。高岡正信とタウィーシン・スップワッタナーが、第3章で対人エリートに見られる対ラオス観を考察するなかで注視するのは、タイの中のラオ人の位置づけである。また、第4章で林行夫は、東北タイからラオスに跨って生活するラオ人の仏教実践を論じている。第5章で速水洋子は、タイとミャンマー国境域に居住するカレン人社会を、第6章で長津一史は、フィリピンとマレーシアの国境海域に生活するサマ人社会を、第7章のモハメド・ユスフ・イスマイルはタイ国境息に隣接するマレーシアのシャム人社会をとりあげている。小瀬木えりのは、第8章で首都マニラの周辺ではなく、ビサヤ諸島で生産される布をめぐる復興運動について考察している。最終章で加藤が研究対象とするリアウは、マラッカ海峡をはさんでマレーシアを望む位置にある。
 編者が認めるように、この構成は、まったくの偶然だそうだ、このことは、現在の東南アジア研究者の関心が、国家の中心ではなく、周縁に惹かれる傾向にあることを示唆しているといえよう。他方で、越境的現象に対する関心は、そもそもこうした現象が、近年、より日常化していることの反映でもあろう。
 東南アジアの自律的なまとまりは、まだまだ将来的な存在でしかありえないが、国境にかぎらず境界を跨ぐ人口移動――跨境活動―-といった同時代的現象は、現在の東南アジアを理解する鍵のひとつである。

評者:赤嶺淳(名古屋市立大学)

◎2006年1月15日 中国新聞「読書」 掲載

越境するポピュラー文化と〈想像のアジア〉
土佐昌樹・青柳寛編

共鳴・反発・潮流映す

 ヤマンバ・ギャル、琉球ポップス、アジアのムービーロード、「韓流」ブーム・・・。本書を構成する論文が取り上げる対象は多種多様で、全体として整然としているとは言いがたい。しかし、本書の雑多性はまさしく今、アジア各地で国境を越えて共鳴し、反発し、拡散している文化の諸潮流のダイナミズムを反映したものだ。
 国際文化交流事業を生業としている評者にとって、特に考えさせられたのが、韓国での日本の大衆文化受容を研究する張竜傑氏の論文だ。同氏は、文化のグローバル化が進行する中で、韓国の若者が脱「反日」に向かいつつあり、彼らが日本のポピュラー文化をどうとらえるようになってきたかを論じている。1990年代末に日本の大衆文化開放をめぐって議論が沸騰した時、韓国は自らを振り返り、そこで変化が起きた。自己反省に立脚した文化産業の躍進、自文化への自信などを経て、日本に対するゆとりが生じたのだ。
 ここで張氏は、重要な指摘をする。今日の韓国で「日流」が目立たないのは、従来の「反日」イデオロギーの作用によるというのだ。
 韓国政府は70、80年代に、「低俗な日本文化」の輸入禁止という建前に固執していた。そこで、固有名詞の置き換えなどの処理をして目立たぬ形で、もしくは不法輸入というルートを通じて、日本文化が韓国社会に持ち込まれ、韓国民はそれを知らずに受容し、消化していた。為政者の意図をこえ、文化は流動し受容していくのだ。
 最近の日本の論壇で、文化を政治や経済の摩擦を解消するため、戦略的に利用しようという趣旨の議論がある。張論文が紹介している韓国の経験から学ぶべきは、文化は送り手の思惑通りに制御できないし外国との政治的な不和の解決を文化に求めるのは無理があるということだ。米国の対中東文化外交がうまくいかないのも、この辺の機微を理解していないからか。「文化には文化の存在意義がある」と認識した上で、対話と協働を積み重ねていくことが、文化交流のあるべき姿なのではないだろうか。

評者:小川忠(国際交流基金企画評価課長)

◎2006年1月20日 西日本新聞「読書館R」 掲載

激動のインドネシアと20匹の猫
小菅伸彦著

猫大捜索inインドネシア

 失踪した飼い猫を捜して山に入って日が暮れ、自分が遭難。という経験を持つ猫好き、小菅伸彦という人の本『激動のインドネシアと20匹の猫』(めこん)。経済企画庁勤務や国際協力機構(JICA)とのかかわりで、"インドネシア国家開発企画アドバイザー"という仕事を2度務めた彼が、駐在時代のインドネシア情勢について・・・というよりも、インドネシアで出会い、ともに暮らした多くの猫たちにまつわる出来事を主に書いた本だ。
 遭難してまで彼が猫を捜したのは、首都ジャカルタから車で8時間の農村だ。現地の人々の多くは、「村の大切なお客の一大事」と、仕事を放り出して捜索に協力。今もインドネシアでは強い影響力を持つという「伝統的、土俗的な呪術者」への相談を勧められたりしながら、約1年半の猫探し。果たして結果は。
 猫捜索の様子を通して分かってくるのは、インドネシアにおけるこの農村の人々は、互いの結びつきを大事にする気風や、貧しい中でも村の集まりや儀式にだけは金をかけるような生活習慣を持っていること。そんな状況に著者は、今後必要な近代化と"古き良き"雰囲気の折り合いを思って、ちょっと切なげだ。

評者:松本サルト(フリーライター)

◎2005年11月27日 朝日新聞「読書」欄 掲載

ベトナム戦争の「戦後」
中野亜里編

知られざる暗部やため息すくいとる

 ベトナムのホーチミン市(旧サイゴン)で、不動産業者の"見習い"をしたことがある。むろん取材の一環だったのだが、そのとき一九七五年の"サイゴン解放"(もう三十年も前のことだ!)の裏面をしばしば見せつけられた。
 一例をあげると、日本人駐在員らにマンションや一戸建てを賃貸する家主の多くは、旧北ベトナム出身の軍関係者であった。彼らはサイゴン陥落後、南ベトナム政府や軍の高官が所持していた家屋を、"分捕り合戦"のようにして手に入れ、それらを外国人に法外な値段で貸し付けては暴利を貪っているのだと、現地の事情通は声を潜めたものである。
 本書を読み、こうしたベトナムが「戦後」抱えてきた問題を、アカデミズムの立場から本格的に論ずる研究者たちがようやく現れてきたと思った。  ここで列挙されているのは、日本人の大半にとって初めて知ることばかりであろう。たとえば、かつて英雄視された南の解放戦線は、政権を握ったベトナム共産党により、存在そのものが事実上、抹殺されている。たとえば、ベトナム戦争中、北ベトナム軍や解放戦線も、民間人虐殺に手を染めていた……。
 私自身、ホー・チ・ミン時代の北ベトナムで粛清の嵐が吹き荒れ、一万数千人もの人々が処刑されていた事実や、ホーチミン市の人口の半数近くが、どこにも住民登録をされておらず、社会的権利も持たないという現状を知らなかった。
 しかし、著者たちは、ベトナムの暗部ばかりを、ことさらに暴き立てているのではない。ベトナム戦争中は"ベトナム反戦"で勝手に思い入れ、いままたエスニック・ブームで勝手に思い入れる日本人の視線の届かぬところで、ベトナム人たちが日々どのように生きてきたかを、彼らのため息までそっとすくいとるようにして伝えているのである。
 勝手に思い入れ、勝手に幻滅する、そんなことでいいのか、と本書は言う。この問い掛けは、古くはソ連や中国、近年では韓国と北朝鮮に対して繰り返されてきた、われわれの他国へのまなざしの危うさにも向けられているはずだ。

評者:野村進(ジャーナリスト・拓殖大学教授)


◎2005年11月21日 産経新聞「読書」欄 掲載

ベトナム戦争の「戦後」
中野亜里編

「反戦世代」に進める概説書

 今年の夏に実施された某新聞社の読者アンケートによれば、戦後60年で最も大きな影響を与えた出来事は、第一位がベルリンの壁崩壊とソ連崩壊、第二位が米同時テロ、次いでベトナム戦争が第三位だったという。このことは、終結して今年で丸30年がたっても、日本人にとってベトナム戦争が大きな事件として記憶されつづけていることを物語っている。
 ただ、多くの日本人は。「ベトナム戦争のベトナム」という悲壮で英雄的なイメージと1990年代半ば以降に形成された「有望な投資先、経済成長の著しい国としてのベトナム」「アオザイやベトナム料理などが人気の観光地としてのベトナム」という明るいイメージを分裂したまま並存させているのが現状ではなかろうか。本書は正にそういったギャップを埋めて、連続したものとして戦後のベトナム像を提示しようと試みている。
 本書の執筆者のほとんどは「ベトナム反戦世代」より若い世代の研究者・ジャーナリストであり、「ベトナム反戦世代」のような「思い入れ」に囚われることが少ない。その良さが出ているのが第一部の「ベトナムの戦後」である。報道機関や文学の世界にみられる思想・言論の統制、腐敗党官僚の下の人々の受難、福祉政策が欠如し国際NGOに依拠せざるをえない貧困層の支援、隠蔽されてきた人民軍内部の否定的現象、ドイモイ以前の配給制度の不合理さとその後遺症など、戦後ベトナム社会主義体制の問題点が具体的に浮き彫りにされている。
 第二部の「ベトナムの戦後と関係諸国」では、日本、米国、中国、タイ、カンボジア、ラオスとの関係がベトナム戦争を機軸にして各章で手際よくまとめられている。対中関係の紆余曲折ぶりには、あらためてベトナムの困難さを感じさせられる。
 本書は政治・外交の分野を中心としたベトナム現代史の優れた概説書として高く評価でき、とりわけ「ベトナム反戦世代」に一読を薦めたい本である。

評者:東京外国語大教授 今井昭夫

◎現代女性文化研究所ニュース No.12掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

 ネグロスでどうしても会いたい女性がいた。大橋成子さん。本書の著者でとにかく型破り、豪快。
 78年にアジア太平洋資料センターに入り、編集長、事務局長を経て91年、ネグロスへ。ネグロス・キャンペーン委員会の現地駐在員として日本との架け橋をすることになるが、ここまでは、なるほど、のお話。
 ところが、彼女の人生は並みではなかった。かつて反政府運動の闘士だったフレッドとめぐり合い、恋に落ちたのだ。しかも彼は5人の子連れ。96年に結婚した彼女は一気に5人の母親になり、フレッドの故郷漁村のナヨン村に住むことになる。
 ときに楽しく笑いがこみ上げてくるけれど、なぜ豊かな緑の島が飢餓の島になったのか、ネグロスの悲惨な歴史、フィリピンが抱える諸問題、NGOの現実的な課題など、それらがナヨン村のコミカルな日常と共に語られる。その大橋さんにインタビュー。しかもマッチョなフレッドまで一緒に!
 「毎年夏には日本の高校生とこちらの農村の子どもたちとの交流キャンプをするのですが、電気もトイレもない。日本では考えられない暮らしでしょ。みんな手も足も出ない。それが一週間ぐらいすると、引きこもりの子が顔を輝かせて自分から外に向かうようになるんです」。自然の中での生活が子どもたちに与える大きな不思議な力。
 大橋さん自身、今後も生活のベースはもちろん日本ではなくネグロスだという。貧しいけれど、親切でうわさ大好きな村の女たち、あるがままに自由に生きられる心地よさ。「あなたはいかが?」と逆に聞かれてしまったが、私もたった一週間の滞在で大橋さんの気持ちがなんだか分かるような気がした。(岡田記)

◎インパクション149号 ブックレビュー掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

フィリピンの現在を生活感覚で描く  年の違い具合や姓が同じことから、姉として尊敬していた成子さんが、フィリピンに移り住んでもう10年。子連れ男と一緒になって、ネグロス島ナヨン村という小さな漁村で元気にしていることは知っていたが、本書はその詳細を教えてくれた。そうか、日本酒の一升瓶片手に夜中まで飲んでいた成子さんは、アルコールの種類をラム酒にかえて、こんなに楽しい日々を送っていたんだ!
 成子さんはノンポリだった学生時代、ひょんなことからタイの学生交流会議に参加して、政治の季節の学生デモに遭遇する。公害を輸出する日本企業の製品をボイコットする人々に出会い、目からウロコの体験をする。大学卒業後はアジア太平洋資料センター(パルク)の専従スタッフとして10年以上もアジアとの連帯運動にかかわり、その後、ネグロス・バナナの民衆貿易で知られるオルター・トレード・ジャパンの社員になる。つまり「禁欲的なアジア」の時代からの筋金入りの「活動家」である。その彼女が恋に落ちてフィリピンに住むようになったというのは、ごくごく自然ななりゆきのようだが、本書には、NGO活動家と、「生活人」である住人の意識のギャップも描かれている。
  「自立のための支援」として始まったネグロス・バナナの試行錯誤からは、ネグロスの人々の暮らしに根ざしたプログラムがいかに大切か、具体例とともに明らかになってくる。
 砂糖農園で雇われて働いていた人々が農地改革によって自分の土地を持てたあと、どうやって自立していくか。そこには、雇われ人気質に慣れた男たちの意識、借金が当たり前の生活、男女の役割分担などもからみ、けっして「農地改革=めでたし、めでたし」とはいかない。こうした「課題」を成子さんは、ナヨン村での生活感覚いっぱいに書き進めていく。それはそのまま、彼女が家族や土地の人々にとけこんでいくプロセスになっている。
 とにかく本書の醍醐味は、5人の子連れ狼フレッドとの出会い。フィリピン解放闘争の闘士フレッドには、当時、うえは12歳から下は3歳の子どもがいた。40歳まで東京で「肩肘はった独身時代」を送っていた「がんばってつっぱる」成子さんは、フレッドとの結婚でいきなり5人の子持ちになったのだ。しかも、フレッドと子どもたちの辿ってきた人生は、ドラマのようにフィリピンの歴史と現実を表している。
 ドラマはそれだけでは終わらない。4年前、フレッドはナヨン村の村長になったのだ。
 NGO職員が、いつの間にやら村長夫人(家族内では最高司令官)になり、今では孫までいるというのだから、彼女自身が感慨をこめていうとおり、「何が起こるのかわからないのが人生だ」。
 村長選挙や、野菜づくり、村の祭りなど、内側から描かれた村の女たちのパワーと知恵には、読んでいて心が躍る。最後に成子さんはこう記している。
 「ネグロスで生活をしていて感じる魅力は、たとえ経済や産業は単一農業や大資本家に独占されていても、人々はけっして単一の色に染まらないという文化だ」。クラシック調やラップ調、歌謡曲風と好きな音でそれぞれが歌い、音痴な人も自分の歌声に酔いしれ、それが結果として良いハーモニーになっているという。
 そんなハーモニーを、成子さんも奏でているのかと思うと、自称・妹としては、ほんとにうれしい。そして、私の近所にいるフィリピン人母・日本人父を持つ悪がきや可愛い子たちにも、故郷フィリピンの話を聞いてみたいな、と思った。

評者:大橋由香子

◎季刊ピープルズ・プラン 2005年夏31号書評掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

 フィリピン・ネグロス島と聞いて、何を思い浮かべるだろう。砂糖?バナナ?それだけではない、豊かなネグロス島での10年にわたる生活を中心につづられたのが本書である。全編を通じて描き出されるネグロスの豊かさ――あふれるばかりの豊かさで満ち溢れていることがなによりも本書の魅力となっている。ただし、先進国もしくは都会ではすでに喪失された、どっかのTV番組がノスタルジックに美化しがちな「途上国もしくは田舎にある豊かさ」に圧倒されたわけではない。著者のネグロスを見つめる視線のやわらかさ、それが捉える人々の多様さ、そしてネグロスが経験してきた想像を超える歴史。それぞれが画一化されがちな私たちの生活、価値観、視線をゆさぶる豊かさに満ちているのだ。

──人びとを見つめる柔らかな視線を堪能

 著者は、NGO職員としてフィリピンと出会い、日本ネグロス・キャンペーン委員会(JCNC)の調査員としてネグロスに赴任する。ネグロスでの駐在生活が終わりにさしかかり、帰国もせまった1995年、5人の子連れのフィリピン・マッチョ男、フレッドに出会い意気投合、ナヨン村で暮らすことに。独身駐在員生活から急展開、一挙に5人の子持ち、後にはパートナーが村長になった(ならされた?)ため村長夫人に。いやはや本当に「何が起こるかわからないのが人生」である。
 普通なら『波乱万丈』にでも取り上げられそうな意外な人生展開だが、「この人ならそうなるかなあ」と妙に納得してしまう。生きる姿勢が柔軟で豊かなのだ。人生はこうこうあるべきなんていったものさしが少しずつ伸び、縮み、広がり、その最初の規律さを失い、著者を自由にしていく。しかし最初はがちがちものさしで「肩肘をはって」いたと著者はいう。1975年の初海外体験はタイ、民主化運動の真っ最中だった。そこでアジアと日本のいびつな関係に衝撃を受けた著者は、NGOに参加し、「連帯」をキーワードにアジアとの共生をめざした運動に没頭していく。次に出会ったフィリピンは、反マルコス・解放運動が盛り上がる熱い時代を迎えており、資本の論理がまかり通る日本で活動する人びとにとって、輝ける希望の星であった。
 著者はフィリピンの人びとを「闘う民衆」として単一色で塗りつぶし、ある意味あがめていた。その意味では、「普通」だったとも言える。。つまり、自戒をこめていいたいことだが、アジアもしくは途上国にかかわる人の多くが、何かしらの単一色で相手を眺めていることが多いからだ。「貧困」だとか「かわいそう」だとかにはじまり、「なまけもの」「無知」といった差別的なものから、「豊かな自然」「スローライフ」といった美化するもの、「闘う民衆」といったものまで、ひとくくりにして理解しようとし、理解したつもりになっている。駐在員として現地にいようが、この視線の貧困さは簡単に抜け出せるものではない。
 だが著者は「目線をがくんと下げ」ることに成功した。美しい自然も脅威をもたらす自然も、濃い田舎の人間関係もやさしさも、たくましさも言い訳だらけの言葉も、貧しさも理不尽で見栄っ張りな金使いの荒さも、しょうがない政府やお役人も、「ここはこうだから」とひとくくりにできない豊かさを、そのやわらかくなったものさしを広げてすべて包み込んだのである。がくんと下がった目線が見つめる人びとは、闘うおばちゃんであり、美しいゲイであり、コチョコチョ(噂話)好きな母ちゃんであり、博打で一攫千金をねらいフィエスタで散財する父ちゃんであり、学校のイベント資金づくりに駆り出される悪ガキたちだった。いたるところにちりばめられた「なんでそうなんねん!」と突っ込み満載のエピソード。そこで繰り広げられる等身大の人びとの「現実」をただ受け止めて共に悲しみ、憤り、そして笑う。目線がいまだ上がりっぱなしの東京在住NGO職員としては、活字で組み立てられた風景の中とはいえ、ネグロスの人びとの出会いを充分に堪能することができた。大橋さんに感謝である。

──過酷で豊かな歴史を語る人びと

 豊かなのは、現在進行形の人びとの暮らしだけではない。彼らの経験してきた歴史――それはフィリピンの歴史であり、ほんの数十年の間にめまぐるしく変わる、過酷で豊かな歴史なのだ。その歴史をかいくぐってきた、新しい家族であるフレッドと5人の子どもたち。
 ネグロスは緑豊かな島であり、そして飢饉の島でもある。16世紀にさかのぼるスペイン植民地時代から、アメリカ支配、日本支配そして現在にいたるまで100年以上、砂糖だけがこの島の主要産物だった。ネグロスは、砂糖による単一経済で成り立ってきたし、今でもそうである。遅々として進まない農地改革により、まだまだアセンデーロ(農園主)が砂糖産業を牛耳り、土地、経済、政治、社会を独占している。拡大しつづける貧富の格差、そしてマルコスの暗黒時代。民族自立、解放、反独裁を掲げる人びとは共産党に参加し、「解放の神学」が教会から広がっていく。そして、ピーピルズ・パワーによるマルコス追放、アキノ新政権の誕生とアメリカ主導の「左翼勢力掃討」作戦、フィリピン政府によるネグロス空爆。一方でネグロス島では、唯一かつ最大の砂糖輸出先であったアメリカによる特恵待遇の停止と国際的な砂糖価格暴落のダブルパンチにより、砂糖に頼る経済は大混乱に陥った。人びとは飢えに直面し、国政的な援助が開始され、「自立」に向けたさまざまな取り組みが行われていく。
 こうやって歴史を「縮めてまとめて」しまうと、なんだか歴史の教科書だかどっかのNGOの刊行物だかを読んでいる気分になり、自分で書いていてもげっそりしてしまうのだが、歴史はそれを誰が語るか、で大きく違ってくる。まさにフィリピンの熱い政治の時代を生きてきたフレッドや子どもたち、そして村の人たちが語るからこそ、歴史がまさに歴史となる。共産党に参加し「山に入って」活動していたフレッドは、それぞれの場面で使いわけてきたためいくつも名前を持っている。子どもたちは、幼い頃経験した空爆により失語症になり、空爆トラウマに悩んでいる。「キレイ、カンタン、キモチイイ」(日立のコマーシャルのキャッチフレーズだったかな)が崇められる社会で生まれてこのかた生きてきた私としては、過酷さや残酷さと隣り合わせの豊かな歴史を、ただ手探りで理解しようとするしかないが、「わけあり」の歴史をくぐってきた家族や村の歴史が、現在の生活と重ね合わされながら、著者の暖かいまなざしによって描きだされていく。その紡ぎ出された歴史に素直に心を打たれてしまう。

──NGOとは何か?

 そして、NGOという援助組織の人間として、やはり真剣になって読んでしまうのは、ネグロスの自立のために支援活動を行ってきた著者の経験が語られる部分である。日本ネグロス・キャンペーン(JCNC)は、前述の砂糖危機からの一連の緊急援助活動を行うために1986ねんに立ち上げられ、そしてその後、農業を軸とした「自立」に向けた長期的な支援を手がけていく。しかし、循環を基礎にした農業の実践、「生産から販売・消費までを農民たちが主体となりその仕組みを作る」ことを目的とした活動は、そう簡単にはいかない。試行錯誤、七転び八起きの奮闘。少しずつ手ごたえや変化を感じつつ、著者はこう問いかけてくる。「自立とは何だろう。『自立のための支援』とは何だろう。では、支援する側は自立できているのか。『非営利団体』という意味しか持たないNGOとはそもそも何なのか?そこで『活動する』自分たちは何者なのか?」と。
 私はこれらの問いに対する明確な答えを持ってはいない。答えられない、というのが正直なところだ。自立した社会とはと問われれば、「関係性が創出され、循環性が確立され、そして多様性が見られる社会でありうんぬん」と述べることはできるかもしれない。しかし、実際に必要なのは、そこに生活している人の目線で考えた自立とは何かを皮膚感覚で理解できるかどうか、なのだろう。
 だとすれば、ネグロスであれそこにいない自分たちにとって、やはり常に問い続けなければいけないことは、後者の質問――NGOとは何か、自立しているのか?ということだろう。そもそもNGOの「自立」とは何か?支援する側は、支援される側がいないと成り立たない。軍需産業を延命させるために戦争を繰り返す某国のパターンのような、援助産業を延命させるために「貧困」や「貧しい人びと」、そしてそれらを「改善させるためのプロジェクト」を作り出していく。変わるべきものの多くが自分たちの足元の社会にあるにもかかわらず、わざわざ海外へ出かけていって援助という仕事を「創出」する。それがいまや自衛隊と一緒に意気揚々と出かけてしまうこともあるからひどいものである。「NGOとはこうえるべき論」を振りかざしてもしょうがないなあと思う反面、NGO職員の端くれとして著者の問いかけを無視するわけにもいかないとつくづく思うのである。でもまあ、「そんなに考えなさんな、だまってカウカウ(牛のように)働くしかないさ」――そうそう「カウカウがんばりましょう」でいきますか!

評者:普川容子 アジア太平洋資料センター<PARC>事務局長

◎Halina「新刊書紹介」 2005年8月1日 第97号掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

  「ねえ、ねえ、読んでみて」と人に勧めたい本は、そう日常的にあるものではない。フィリピンはネグロス島のナヨン村にやってきた「NGOのつっぱり女と5人の子連れのマッチョ男の物語」という帯表紙からイメージされる内容よりも、『ネグロス・マイラブ』はずーっと面白い本なのだ。大橋成子さんは日本ネグロスキャンペーン委員会の現地駐在員としてネグロスに入り、2~3年で帰国するつもりだったのが、「その予定は完全に狂い」「腐敗したフィリピン政府を打倒するのだと武装勢力に身を投じた」こともあるフレッドとその子どもたちと「ずっと一緒に暮らしたい」という気持ちになり、以来10年ナヨン村に住み続けている。「肩をいからせてNGO駐在員の仕事をしてきたのが」「やたらににぎやかでおせっかい者が多いナヨン村」で暮らしているうちに、「ある日ガクンと肩の力が抜けて、駐在員の目で見ていたネグロスの現実が、まったく違う角度から違う色彩で映るように」なる。そこで、「ズームの広がった目で、これまで自分が関わったネグロスのこと、変な継母と暮らす子どもたちのこと、ナヨン村のおかしな話、この島に生きる人々のさまざまな挑戦を」書いたのが、ぜひ読んでほしいこの本だ。
 ナヨン村に生きている人たちの笑い声や怒鳴り声、煮物の匂いがしてくるようなナマの話が展開されていると同時に、大橋成子という一人の女が70年代後半から生きてきた日本とフィリピンをアジア、世界の政治、経済、文化の歴史的コンテキストからきちんと捉えているところがスゴイ。
 6月のある日東京で『ネグロス・マイラブ』の出版記念パーティーが開催された。80年代にフィリピン民衆連帯運動に首をつっこんでいた懐かしい顔が多くあった。解放、自由、民主主義、主権、平等、参加、ジェンダー、人権、エコロジー、正義、共生、持続的、などなどという言葉の意味する社会変革の運動に、当時取り組んできた金のない多様な「イイ人」たちが、本当に久しぶりに集まった。あの当時の一人であった大橋成子は、今もその社会変革の夢をナヨン村で相当心の余裕を持って追い続けているような印象を受けた。それがつれあいフレッドの村長選挙であったり、水道プロジェクトであったり、農村女性ネットワークのジェンダーワークショップであったりする。20年前の大橋成子がそのために闘っていた"自由"は今、人の目を気にせず、「自分の感じるままに生きていけるネグロス」で、「一人称で本音」を語り、ナヨン村のおしゃべり女の仲間として「なるようになるさ、ケセラセラ」と楽天的に生きることも意味している。
写真も沢山、つれあいフレッドのイラストも入った楽しい「大橋成子的」な本を、ねえねえ、読んでみて。

◎クロスロード「今月の本紹介」9月号掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

──国際ボランティアを考えるための本
『ネグロス・マイラブ』
『モッタイナイで地球は緑になる』

 英国で開かれたG8と呼ばれる先進富裕国の指導者による会議では、「南」の貧困対策への援助拡大が大きく取り上げられた。
 私自身は、アフリカを中心として深刻化する貧困問題に、国際社会の一員として、日本など「北」の府夕刻が援助の量と質を向上させるのは当然と思う。
 ただ、援助議論で私たち「北」の国民・市民が留意しなければならないのは、援助される側の自立のシナリオである。
「魚をあげるより釣り竿を」「魚より魚を獲る網を」とはよく言われる。援助という行為が、何よりもまず、生活向上を必要とする人々の積極的学びにつながらなければ、「あげる側」の都合(「社会的に評価されたい」など)で自己完結してしまうだろう。
 助けることはどう自立につながるのか。この問いに明確な答えをアフリカとアジアの事例で示唆してくれる、出たばかりの本が2冊ある。ケニアの植林運動を紹介した『モッタイナイで地球は緑になる』と『ネグロス・マイラブ』である。両方とも女性による本で、少なくとも援助と自立を考える上で重要な二つの点が共通している。
 一つは、援助対象となる地域の人々が、どう自らの状態に気づき、自立していくかが、プロセスないし運動としてきわめて具体的に記録されていることだ。ケニアのマータイさんは、地域の人々の生活の一部ないし糧となっている自然環境の回復を通じて、自立のシナリオを根気強く進めていく。英文のタイトル『グリーンベルト運動:アプローチと経験を分かち合う』のほうが彼女の主張を正確に伝えている。その試行錯誤の運動の中で大勢の農村女性が「免状を持たない森林官」となって巣立っていく。
『ネグロス・マイラブ』の大橋成子さんも、期限と中身が限定されている「開発プロジェクト」の枠組みから大きく踏み出し、人々の海の中で考え、共に働きかけるプロセスを記述している。
 もう一つは、両者とも、政治に手を染めていることである。援助議論では、政府とともに援助事業をしている場合、しばしば政権の腐敗への言及がタブー視されがちであるが、大橋さんはパートナーとともに、マータイさんは投獄されながらも政治に正面切って関与してきた。政治の不正と戦った結果、大橋さんのパートナーは村長に、マータイさんは国会議員、副大臣になっている。二冊とも、社会を変える手段としてどう政治を利用したらいいかという経験談にあふれている。マータイさんは、政治だけを悪者にする風潮をなげき(237ページ)、大橋さんは村長選で「金に汚く、ずるく、うそだらけの人々と、勇気、情熱、革命を選んだ人々」(39ページ)を発見する。
 これら政治体験から読者に伝わってくるメッセージの一つは、人々が変わることなくして、政治は変わらない、政治を変えなければ、よりよい社会サービスも、より弱者にやさしい社会も、税金がとれる豊かな社会も実現しないということだ。  援助する側は彼らに代わって政治をするわけにはいかないが、相手国の人々の目覚め、自立を妨げ、結果として腐敗した政治を持続可能にしてはならないだろう。

勝俣 誠(明治学院大学教授)


◎JTECS友の会NEWS 66号 BOOK REVIEW掲載

やすらぎのタイ食卓
ラッカナー・パンウィチャイ他著

「日本で手に入る食材で」・・をテーマに、厳選された55品のレシピを紹介。調理方法のイラストは個性的でかわいらしいだけでなく、とても丁寧に描かれていて分かりやすい。また落ち着いた誌面レイアウトや色調はそれだけで"やすらぎ"を感じてしまうもの。ところどころに登場する食にまつわるコラムは上質のデザートといったところだろうか。


◎JTECS友の会NEWS 66号 BOOK REVIEW掲載

ラオスは戦場だった
竹内正右著

 ベトナム戦争当時、米国に協力したため多くの犠牲を強いられたモン族の姿を主要テーマに、戦後のラオスをスクープ写真で綴ったドキュメンタリー写真集。ベトナム、カンボジア、タイといった周辺国に加え、今のモン族の姿をアメリカにも追っており、貴重な写真を見ることが出来る。
冷静に切り取られた作品の数々とそこに加えられた必要最小限のキャプションは言い様の無い説得力を持ち、戦争の悲惨さと人々の苦しみを静かに語ってくれる。


◎JTECS友の会NEWS 66号 BOOK REVIEW掲載

絶望のなかのほほえみ ~カンボジアのエイズ病棟から
後藤勝著

 カンボジア・バッタンバンのエイズ病棟を3年に渡って取材、患者や関係者の姿を追ったフォトドキュメンタリー。
 殺伐とした病棟の中で、死を目前にそれぞれの思いを向けられたレンズに託した患者たち。フィルムにはそのやるせなさ、怒り、寂しさ、悲しみ・・全てが収められ、読者に大きな衝撃を与える。医師は言う。
 「今、エイズという第二の内戦がカンボジアを襲っているのです。患者たちを助けたい。何かあなたにできることはありませんか」


◎アジア経済 2005.2 掲載

フィリピン歴史研究と植民地言説
レイナルド・C・イレート/ ビセンテ・L・ラファエル/フロロ・C・キブイェン著

 本書は、現代フィリピンの歴史学を代表する学者3名の論文を、編者が独自に集めて翻訳した論文集である。本書の構成は、以下のとおりとなっている。第1部「フィリピン革命史研究からオリエンタリズム批判へ」(レイナルド・C・イレート)[第1章 1896年革命と国民国家の神話/第2章 知と平定―フィリピン・アメリカ戦争―/第3章 オリエンタリズムとフィリピン政治研究]、第2部「アメリカ植民地主義と異文化体験」(ビセンテ・L・ラファエル)[第4章 白人の愛―アメリカのフィリピン植民地化とセンサス―/第5章 植民地の家庭的訓化状況―帝国の縁辺で生まれた人種、1899~1912年―/第6章 国民性を予見して―フィリピン人の日本への対応に見る自己確認、協力、うわさ―]、第3部「変わるホセ・リサール像」(フロロ・C・キブイェン)[第7章 リサールとフィリピン革命/第8章 フィリピン史をつくり直す]。
 イレートは、第1章で20世紀のフィリピン史の代表的な教科書をとりあげ、フィリピン人歴史家もヨーロッパ史の視点からの啓蒙主義・合理主義的なフィリピン史解釈に囚われていることを指摘する。第2章では比米戦争に焦点をあて、特に戦時中と直後の住民の強制移住、コレラ防疫、センサス実施という3つの政策を検討して、「友愛的同化」と表現されるアメリカのフィリピン統治の本質を暴きだす。第3章では、1960年代以降のアメリカ人のフィリピン政治研究が、いまだに地方のボス支配、パトロン=クライエント関係によってフィリピン政治を特徴づける植民地的言説から抜け出ていないことを明らかにしている。ラファエルは、第4章でまずアメリカ植民地初期のセンサスの形式、実施過程、フィリピン人表象に、アメリカ植民地主義の表出を読み取り、第5章では植民地に来た白人女性の残した記述から植民地的言説を抽出している。第6章では、世紀転換期のフィリピン人エリート層の日本への期待、日本統治期の対日協力者のレトリック(抵抗としての協力)、民衆の日本人についてのうわさを取り上げて、フィリピン人の「国民性」のある側面を照射する。キブイェンの2章は、「反革命・同化主義者」というホセ・リサール像がアメリカの植民地主義者によって意図的に作られたこと、フィリピン人のナショナリスト歴史家までこのリサール像に囚われて誤った評価していることを、実証的に明らかにしている。
 これまで、フィリピン歴史学の大家による通史などは翻訳されていたが、フィリピン史の専門的な論文集の翻訳出版は本書が初めてであろう。「解説」で編者が指摘するように、「植民地支配を数世紀にわたって経験したフィリピンにおいて、今日にまでその社会の深淵に植民地近代性が潜むという歴史的状況を見つめ直し、それに対して批判的検討を行なっている」(360ページ)という共通点をもつが、3人が歴史解釈について必ずしも見解を同じくしているわけではない。キブイェンはイレートの研究に対して批判的である。その点を含め、本書はフィリピン歴史学の最新の論点と最高の水準を満たしていると言えよう。とはいえ、本書は専門家のみに読まれるべきものではない。豊富な訳注によってフィリピン史の知識のない読者にも十分に理解可能であり、歴史学の門外漢にも大きなインパクトを与える。評者は通読して、本省はフィリピン歴史研究であると同時に、アメリカとそのイデオロギーの理解のためにも重要な示唆をもつと感じた。ラファエルのセンサスについての議論は、文化人類学の近年の関心事項にも通ずるものである(青柳真智子編『国勢調査の文化人類学―人種・民族分類の比較研究―』古今書院2004年)。また、イレートの代表作『キリスト受難史と革命』の翻訳作業が本書の編者等によって進められていることを付け加えておこう。
 本書について、歴史学の専門家による本格的な書評が書かれることを期待したい。

評者:玉置泰明(静岡県立大学大学院国際関係学研究科教授)


◎アサヒカメラ 2005年4月号 BOOK INTERVIEW 掲載

ラオスは戦場だった
竹内正右著

秘密にされた戦争
竹内正右さんは1973~82年、戦火のインドシナに身を置き取材を続けた。そして今回、ベトナム戦争からイラク戦争までのラオスの実情を本にまとめた。

-なぜラオスですか。
「ベトナム戦争の時代に、旧南ベトナムのサイゴンに入りました。フリーなので1ヵ月に一度、ビザ取得のため出国しなくてはならない。そうしてインドシナを回っているうちにラオスの戦争が日本で伝えられているのとは全く違うことがわかった。また75年4月30日にサイゴンが陥落して半年後、西側のジャーナリストはみんなラオスから追い出されて、ぼく一人だけになった。ぼくは革命前から税金を払い、内務省に登録していたから退去させられなかったんでしょうね。それで、とことんやってやろうと思いました。 写真は主にAPなどアメリカの通信社に発表していました。政権が代わって新しい国旗を掲げたり、不要となった旧紙幣の束を焼くシーンなどは、わかるようにカラーでと撮り分けていました」
-取材で危険な目にも遭われてますね。
「76年、ベトナム軍に1日拘束されていろいろ尋問されたし、79年にはクメール・ルージュに捕まり、AP電で報じられたこともありました。ポル・ポト軍の敗走を撮っていたので相手にとってはとんでもないフィルムですよね。隠したのが見つかれば殺されますから出しました。報道は無鉄砲ではいけないし、守っていたら撮れない。状況判断はむずかしいですね」
-写真集のテーマは。
「ラオスでは、公式には戦争は存在しなかったんです。アメリカにとっても、ベトナムにとっても秘密戦争だった。北ベトナムは南に進攻するためにラオスにルートをつくって下らないと勝ち目はなく、戦略上、共産化しなければならなかった。それを防ぐためにアメリカは山岳民族モンを訓練して特殊部隊を組織した。アメリカ軍の代わりに共産軍と戦わせたのです。モンにおびただしい数の犠牲者が出ました。婦女子の犠牲者も多かった。97年にアメリカがようやく特殊部隊と認めましたが、彼らの犠牲がなかったら、アメリカ軍の死者は5、6倍になっていたとペンタゴンが分析しています。そして今もベトナム軍のモン掃討作戦は続いており、またアメリカへ逃れたモンの子孫たちの約3千人が軍に所属してイラクに派遣され、2004年6月に最初の死者が出た。モンの悲劇は終わっていないのです」


◎毎日新聞「今週の本棚」2005年7月31日掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

 五人の子持ちのフィリピン人と結婚した日本女性の生きざまを通して、数多の真実を知ることができる。その真実とは、フィリピンで大統領が変わっても改革がなかなか進まない現実、無茶苦茶というべき村の政治、農民たちのひどい苦しさと脱出への苦闘、それを助ける日本のNGOの頑張り、金の面ではとても貧しい農漁村の生活、苦しくても陽気なフィリピン人の国民性などであり、内容がきわめて豊富な本だ。他国において独り生き抜くことによって知らされる真実は、小説をはるかに越える内実を持っている。
 大橋成子さんは、学生時代にアジアに目覚めてNGOで働いていたが、フィリピン農民を支援するために無農薬バナナの栽培を助けて日本に輸出する団体に移って、ネグロスに住んだ。フィリピンの中ほどにある島のネグロスは、19世紀半ばに砂糖農園と化したのだが、1980年代に生じた砂糖価格の暴落で、飢餓の島として世界に知られた。それを救うNGOの活動の一つがバナナ栽培である。
 だがそれは、容易ではなかった。輸送が悪いと熟して日本の港で廃棄され、突然の病虫害で根こそぎ焼く羽目にも陥った。その中から、野菜中心の地道な農業を育てようという活動が始まった。だが、依存病にぶつかった。何代の続いた農園労働生活で、賃金を貰ってのみ働き、金に困れば地主に泣きついて借りるというメンタリティーになっていて、なかなか自主的に働かない。
 大橋さんが苦闘していた中でめぐりあったのが、フィリピン共産党の教育担当であったフレッドだ。アキノ大統領が始めた民主化はつかの間であり、やがて共産党に全面戦争をしかけて、米国のCIAはネグロスを「低強度戦争」の実験場にした。フィリピン政府軍は、米国の支援を受けて空爆でネグロス南部を破壊尽くした。妻に逃げられたフレッドは、五人の子どもを親に預けて、各地を転々とする生活を送っていた。
 大橋さんがフレッドに会ったのは、ネグロスの政治情勢を聞くためだが、二人でラム酒を飲んで、話ははずんで意気投合した。NGOで肩肘張った独身生活をしていたが、ネグロスの生活で肩の力が抜けていて、老後の生活をともに過ごせる人だと結婚を決意した。子どもたちには「変なおばさん」と気に入られて「私たちと一緒に住もうよ」とプロポーズされた。
 ネグロスの小さな村に住み込んで、大橋さんは大きく変わった。それは目線であり、駐在員の目で現地を見るのではなく、村人の一人として共に住む者の目であり、これはその報告だ。
 フィリピンは、日本人の目から見るとじつに不可思議な国である。ここまでに紹介したのは堅い話で、発展途上国の中でもとくに厳しいフィリピンの実情を知って、苦しさが理解できる。
 だが苦しい中でとても陽気なのであり、面白い話が次から次に出てくる。選挙にお祭りのような大騒ぎをし、しかも誰が当選するか賭けがはびこる。学校が子どもたちのビューティー・コンテストを主催して、競ってお姫様のようなドレスを着る。PTAが資金集めのためにビンゴゲーム大会を開く。フィエスタ(祭り)は二日間開いて、誰も寝ようとしない。町がゲイ・コンテストを主催する。
 フィリピンの田舎の人たちはとても素直であり、しょっちゅう怒り、泣き、笑う。ネグロスで1週間寝食を共にする交流に参加した日本の高校生は、最後の日に別れるのが辛いと泣き出した。「日本ではこんなに笑ったり、泣いたり、怒ったりしたことはありませんでした」
(森谷正規)

◎『オルタ』(アジア太平洋資料センター)2005年4号掲載

ラオスは戦場だった
竹内正右著

 ベトナム戦争時、米国は、300tもの爆弾をラオス全土に投下すると共に、山岳民族モンを訓練してモン特殊攻撃部隊を組織した。75年サイゴンが陥落した後、ビエンチャンも陥落し、ラオスから米軍が撤退。残されたモン兵士は、共産側の報復を受けることとなる。この本は、73~75年を中心に筆者が撮った写真を解説つきで紹介。ベトナム戦争時に米国がラオスで行なっていた戦争は、ほとんど知られていないが、筆者が撮った写真には、その時代に何が行なわれていたのかが克明に記録されている。渡米したモンのラオス退役軍人の子孫がイラク戦争に参軍。まt、ラオス国内に残る多数の不発弾が現在も被害者を出しているという事実。戦争は、現在も続いているという現実をつきつけられる。(猿田由貴江)


◎J朝日新聞2005年6月15日夕刊 日本人脈記 ベトナムの戦場から③掲載

絶望のなかのほほえみ ~カンボジアのエイズ病棟から
後藤勝著

 岡村(昭彦)にきっかけをもらい、長倉(洋海)に鍛えられた写真家がいる。4月に「絶望のなかのほほえみ――カンボジアのエイズ病棟から」(めこん)を出した後藤勝(38)。バンコクを拠点に社会問題を追う。
 工業高校を1年で中退し、希望を失っていた17歳のとき、古本屋で岡村の「南ヴェトナム戦争従軍記」(岩波新書)に出合う。暗記するほど読み返した。アルバイトでカメラを買い、中米へ。数年後、エルサルバドルで撮った連作写真を日本の雑誌に売り込んだ。自信はあったが、編集者の手紙が届く。「長倉という人がそこで良い仕事をしている。もっと人間に迫り、心を揺さぶる写真を」。長倉は後藤の目標になった。
 97年にカンボジアに入った直後、内戦が再燃し前線へ。「なぜ来た?」。兵士に聞かれ、「怖いけど来てしまった。戦闘の写真が撮りたい」。負傷兵には「おれの写真をいくらで売るんだ」と怒鳴られた。この時の写真ルポ「カンボジア・僕の戦場日記」(めこん)で後藤は世に出る。面識のなかった長倉が書評を寄せた。
「本書は極めて私的な記録といえるかもしれない。が、確実に『人の姿を伝え、今の時代を浮かび上がらせる』
 後藤はその後、途上国のエイズや人身売買などにテーマを広げた。戦争だけでなく、世界には不条理な死があまりに多い。「レンズを向けた人から託されるものの多さに、おののく日々です」


◎『JAMS News 』(日本マレーシア研究会会報)No.31掲載

獅子の町・海峡の風
佐藤考一著

 本書は、インドネシア、マレーシア、シンガポールを「マラッカ3国」とまとめ、それぞれの社会の特徴を整理したうえで、この地域の文化や自然をまとめたものである。
 本書も、「癒しと呪い」を中心的なテーマの1つにしていると言うことができる。インドネシアやマレーシアのドゥクンとシンガポールのタンキーを取り上げ、その実態を紹介して考察を加えている。インドネシアではスハルト大統領自らドゥクンを利用していた。また、シンガポールのように経済開発が進んだ国においても、HDBの1階の自宅の一部を改造して廟にしている例が見られる。これを著者は、人間の弱さと、それを克服しようとするあがきの現われでって、日本を含めて人間社会に共通する生き様を示すものであると結論付けている。それはまた、通信技術やファッションで世界の最先端を行くシンガポールの住民たちが怪談を好み、宝くじを当てるのに近親者の霊を呼び出そうとする姿とも重なるところがあるという。
 本書は、著者が「マラッカ3国」をすみずみまで歩き、身体で感じてきたものを書き記したものである。それだけに、情報のディープさでは群を抜いている。マレーシアの全ての州でナシゴレンを食べ比べてみたり、マレーシア、インドネシア、シンガポール各国の動物園を訪ねてオオトカゲの餌の時間を比べてみたりと、本書は普通ではなかなか思いつかないような情報で溢れている。中国の鄧小平、台湾の李登輝、シンガポールのリー・クワンユーがいずれも客家の出自であるというのはよく言われることだが、さらに一歩踏み込んで「この3人はいずれも客家方言が話せない」と見ているところが一味違う。唯一残念だったのが、この3国を「マラッカ3国」とする呼び方を本書ではじめて知ったが、その名前については本書で説明がなかったことだ。これについては機会があったらぜひ伺ってみたい。
 本書のもう1つの特徴は類書に比して写真の点数がとても多いことである。ほぼ全ての項目にカラー写真が何点も入っているが、なかでも、各種スポーツの紹介では分解写真のように何枚もの写真で動きがわかるような見せ方をしてくれるし、動物の項目では紹介された動物それぞれに写真が添えられている。しかも、その写真のほとんどが著者自身の撮影によるものだという。マレーシア、インドネシア、シンガポールのさまざまな文物について、文献で知っていても実物を見たことがないという人にとっても本書はお勧めの一冊である。(山本博之)

◎『DACO 』158号 BOOK REVIEW掲載

間違いだらけのタイ語
中島マリン・吉川由佳著  赤木攻監修

    タイ語学習の壁をよじ登る一冊

 本書は、最近自分のタイ語が伸び悩みだなと感じている人にうってつけの本である。外国語学習を車選びにたとえる大胆な書名。しかし中を開ければそれが決して奇をてらった表現ではないことが分かる。全7章の中に日本人の間違いやすい146の誤用例が正しい表現とともに併記されている。間違いタイ語は×、正しいタイ語は○。Pointでは基礎知識を数行にまとめ、それに続く説明も簡潔で分かりやすい。2色刷りの見やすいレイアウトのせいでタイ文字と発音記号の併記も気にならない。
 品詞活用のないタイ語は系統的に教えにくい言葉で、決定版といえる文法書はまだ世界のどこにもない。コチコチの文法説明がなかなかできないのである。その点、生きたタイ語に長く触れてきた2人の著者が採用した本書のスタンスは単純明快である。つまり「なぜ間違っているのか」という文法解説には目もくれず、「とにかくそうなっている」。
 これって一見無責任に見えて、実は語学学習の基本なのである。実用とは名ばかりの類似書が多い中、「習うより慣れろ」と思い切って使えるタイ語に的を絞った点は大いに買える。ちなみに主な対象は初級タイ語を終えた長期滞在者か。1000語程度のタイ語を知っていないと例文を読みこなすには少しきついかもしれない。
 最後に、監修者の赤木氏は前大阪外国語大学学長でタイ学の専門家。同氏の関連監修書に『タイ語読解力養成講座』がある。

評者・宇戸清治(東京外国語大学教授)

◎毎日新聞2004年12月12日掲載

上海で働く
須藤みか著

 上海はいま、活気が全市に漲っていて、住んで働くのに非常に魅力的な都市である。  その上海で働いている元気いっぱいの日本人たち18人にインタヴューしている。ほとんどが20-30代の若者たちだが、40-50代の人も若干いる。不動産営業、フローリスト、日本語教師、CMプロデューサー、シュークリーム店経営、服飾デザイナー、電子部品メーカー工場統括部長、植物組織培養業など千差万別である。つまり、上海はどのような職でも受け入れるのだ。  もっとも、働き暮らすのに日本のようには平穏無事ではない。「えっ、どうして」というようなことがあっても、楽しければ良いという前向きの人、上海は思う存分仕事をして、しっかり稼げる街ですよ。

◎朝日新聞2004年10月24日掲載

フィリピン歴史研究と植民地言説
レイナルド・C・イレート他著

   長らくアメリカの植民地だったフィリピンは、アメリカナイズされた社会でいかに生きるかという先例を私たちに示しているとも言える。また、1900年前後の比米戦争におけるアメリカの姿は、軍事介入を「愛他的行為」とし、フィリピン人が「互いに殺し合うのを防ぐために彼らに銃を向けた」点で、百年後のイラクでの現状を黙示していたかのようだ。
 本書は、国際的注目度の高いフィリピン史研究者3人の論文集で、一般の読者には馴染みにくさもあろうが、豊富な訳注により興味深く読める。たとえば"国民的英雄"と呼ばれるホセ・リサールを、当時の宗主国スペインとの併合論者で、革命を拒否した人物とみなす、かの国の進歩的知識人に広く共有されている見方は、アメリカによる巧妙なプロパガンダの結果であることが論証される。
 骨絡みのアメリカ化から歴史をどう奪い返すのか。この問い掛けと、私たちも無縁ではありえない。

評者・野村進(ジャーナリスト)

◎読売新聞 2004年8月29日

マックス・ハーフェラール
ムルタトゥーリ 著

  植民地支配批判の古典

 「私はコーヒーの仲買人で、ラウリール運河三七番地に住んでいる」。この有名な一文ではじまる本書、『マックス・ハーフェラール、もしくはオランダ商事会社のコーヒー競売』は、十九世紀のオランダ東インド、現在のインドネシアを舞台とする近代オランダ文学の古典である。
 あるいは歴史の教科書で心当たりのある方もいるかと思うが、十九世紀、オランダ東インド会社では悪名高い「強制栽培制度」が行われた。これは原住民にその労働と時間と土地の一部を割かせ、コーヒー、砂糖、藍、茶、タバコなど、ヨーロッパの市場で大いに儲かりそうな農産物を栽培させた制度で、一八三〇―五〇年代にはオランダはこの制度によってその歳入の三十―五十パーセントを調達した。本書はこの制度の過酷さ、さらにはオランダの植民地支配そのものに根ざす偽善、暴力、腐敗、癒着、事勿れ主義を描き、同時にこれを、オランダでコーヒーと砂糖を扱って大いに潤う二人のオランダ商人の豊かな生活と対照する。
 著者の本名はエドゥアルト・ダウエス・デッケル。スマトラ、メナド、モルッカ、ジャワなど、オランダ東インド各地で行政官として勤務経験のあるオランダ人である。ムルタトゥーリとはダウエス・デッケルが古代ローマの詩人ホラティウスの詩の一節から作ったラテン語で、「われ大いに受難せり」を意味する。
 本書は一八六〇年に出版され、十九世紀後半には強制栽培制度批判の書としてオランダで大きな論争をまきおこした。また十九世紀末以降は、植民地支配批判の書として、インドネシアではもちろん、その他のアジアの国々でも、ホセ・リサールのようなナショナリストによって広く読まれ、現在では「ポスト・コロニアル」研究のテキストとなっている。翻訳はひじょうに丁寧で読みやすい。昨年十月刊だが、あえて勧めたい。佐藤弘幸訳。
評者 白石隆(京都大学教授)

◎西日本新聞「ASIAトゥデー」、2004年5月17日掲載

韓国で働く
笹部佳子著

 ソウル在住のフリーアナウンサー、笹部佳子さんが韓国での暮らし方のノウハウや、実際に現地で働く人たちのインタビューなどをまとめた「韓国で働く」を出版した。単身渡韓した自身の経験を基に、ビザの取り方、住まいの探し方など、年々身近になる隣国で生きるための指針や生活情報が詰まっている。
 内容は「旅立つ前に」「日常生活」「住まい」「仕事を探す」などの項目ごとに、笹部さんが現実に困ったことを中心に丁寧にアドバイスが書かれている。例えば薬など「日本から持参した方がよいもの」のリストのほか、生活用品の安い買い方、賃貸住宅の種類と家賃の相場、求人情報の見つけ方―などなど。
 こうした韓国で即役立つ情報が、並載されているソウル在住の17人の日本人のインタビューに表れた韓国生活の楽しさ、苦労、働く中で得た韓国人観あるいは日韓関係への視点などと重なり合う形で、「韓国で働く(暮らす)」ことの意味や全体像が浮かび上がる仕組みだ。
 インタビューに登場する日本人は、自分1人で韓国に来て、現在大きな組織に属していない人を選んだという。テレビディレクター、美容院経営、コピーライター、ロックミュージシャン…。企業駐在員とは異なる、実に多様な職種の日本人が現在韓国で働いていることに驚かされ、2つの国の「近さ」にあらためて気付かされる。
 笹部さん自身、NHKを退職後、福岡でフリーのアナウンサーをしていた2000年、サッカーワールドカップを前に「韓国での成功」を夢見て海を渡った。なけなしの貯金60万円を手に、家賃月60万ウオン(約6万円)の地下室から韓国生活をスタートさせた。語学学校に通う傍ら、日本語教材のナレーター、日本語情報誌ライターなどの仕事を自分の力で見つけ、ここまでやってきた。お金がなく米だけを食べる日々の中で、「体当たりしないと死んでしまう」との思いから必死で頑張ったという。歴史的背景から、日本人ゆえに受ける厳しい視線にも耐えてきた。
 それでも笹部さんは「この国には自分自身の可能性を試す面白さがある」という。役割をあらかじめ決め仕事をする日本とは異なり、すきまだらけだが何でも自分の裁量でやれてします魅力に加えて、一度信頼関係を築いたら心底支えてくれる人たちの存在。「本当に苦労は多いし、あまりお勧めしないけど、なおかつ来てみたいという人たちのためになるなら」。笹部さんが著書に託した、万感こもるメッセージだ。
ソウル支局 藤井通彦

◎HOT CHILIPAPER「book release information」、7月号掲載

韓国で働く
笹部佳子著

 女性起業家、ミュージシャン、大学教授…韓国に暮らし、あらゆる分野で活躍している日本人17人のインタビューを掲載。さらに、ビザの取得法や仕事の探しについて、家探しや運転免許の取得、銀行口座の開き方など、韓国で生活するためのノウハウが詳しく紹介されている。著者は、韓国に魅せられ、留学した元NHKアナウンサー。

◎日米タイムズ、2004年2月28日掲載

カリフォルニアで働く
浅田光博著

 ナショナル・フットボールリーグ(NFL)49ersのチアリーダー安田愛さん、シリコンバレーのバイオテクノロジー起業家でNHKのど自慢グランドチャンピョンの桝本博之さん、気持会のソーシャルワーカー吉本明美さん――。
 ベイエリアでもなじみの顔がたくさん登場し、それだけでも興味がそそられる本書のタイトルはずばり『カリフォルニアで働く』。めこんから出版されている「海外へ飛び出す」シリーズの第四弾で、著者の浅田光博にとっては『フィリピンで働く』に続き二冊目になる。よくぞここまでそろえた、というようなユニークかつバラエティーに富んだ職業に従事する21人を取材し、それぞれの角度から仕事観、生活観などを思う存分語ってもらっている。
 「日本で生活する悩める人たちに、生きていく活路を見つけるためのヒントを提供したい」と浅田が言うように、本書はアメリカで働きたいと思っている日本にいる日本人向けの指南書だが、すでにこちらで生活し「カリフォルニアで働く」を実践している人にとって読む効用なしかといえば、そういうわけではない。改めて外国で働くことの意義を考えさせる、これも本書の役目だろう。
 実際に当地に住む者には、人物と話の背景が分かりやすく、つらさ、楽しさ、うれしさはよく理解できるはず。それぞれの話に「そうそう」と共感することも、「えーっ」と驚くことも、また反発することもあると思う。ちなみに筆者の場合は誇らしさと反省だった。同じ日本人で、同じ土地で、こんなにもいきいきとしている人がいるということはまるで我がことのように誇らしく、日本にいる両親に読ませようという気持ちにらなった。が、我が身を省みると"いきいき度"がそこまでないと感じてがく然。半面、「よし頑張ろう」という志気は高まる。生活に疑問を抱いている人、とくにこれから就職(転職)しようと考えている人にはヒントを与えてくれるだろう。
 本書はまた、ベイエリアの情報書でもある。たとえば、教育学博士の田中真奈美さんの話はバイリンガル教育の実情を、弁護士の藤木慎太郎さんは気になる法律の話を説いている。こういった話はこちらにいる者でしか実感できない。
 巻末には「インフォメーション」としてカリフォルニアで生活する上で必要な情報が細かく掲載されている。渡米したばかりの人には、非常に便利。
 浅田は冒頭でフィリピンとカリフォルニアでの取材活動を通して「海外でこそ力を発揮するタイプ」の存在を見、その筆頭が大リーグで活躍するモントリオール・エクスポズの大家友和選手と言う。このタイプ、周りにたくさんいそうな気がする。

◎清流、6月号掲載

夫婦で暮らしたラオス
菊地良一・菊地晶子著

 2000年から2年間、農業普及番組の制作指導のためにラオスで暮らしたテレビ・ディレクターとその妻が綴った生活体験記である。 国民1人当たりのGDPが日本の100分の1といわれるラオスだが、高度成長以前の日本を思わせる素朴で人情味あふれる人々の暮らしに2人は魅せられる。甘味と酸味のきいた料理、市場でのおあばさんとの気さくな語らい、子供たちが水浴びをするメコン川の夕景などが豊富な写真とともに紹介される。新年に親族が集まって開かれる、幸福を祈願する儀式「バーシー」や、雨季の終わりに寺院で行なわれる灯籠流しなど、独特の習俗も興味深い。 悠久のの時間の流れにみを委ねている人々を慈しむ夫婦の眼差しは、同時に効率とスピードを追求する日本への問題提起ともなっている。

◎クロスロード、5月号掲載

夫婦で暮らしたラオス
菊地良一・菊地晶子著

 ラオスの首都ビエンチャンで農業普及テレビ番組の制作指導に当たっていた2年間の体験をまとめた1冊。日本人が忘れてしまっている「スローライフ」。人情あふれる素朴な生活とゆったり流れる時間がラオスにはある。忙しい日常から一時離脱し、本書の与えてくれる「スローライフ」を味わいたい。

◎日本農業新聞、2004年2月23日

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 タイの最貧地帯といわれる東北地方の村、イサーンは、昔から培ってきた知恵と、地域に生きる人たちが力を合わせ、国際化を切り抜けてきた。貧しくとも誇り高いイサーンの農民とそれを支援した日本の非政府組織(NGO)の熱い思いの活動記録だ。
 世界の農民たちを踏みにじるグローバリゼーションと大量消費社会の嵐。タイでは近代化の名のもとにさまざまな法的規制、課税が農民の知恵と文化を切り裂く。しかし、それらに対抗して、有機農業、地場市場など、さまざまな試みが成功を収める。支援した日本の若者たちの熱い思いが頼もしい。
◎『農業と経済』(昭和堂発行)2004年6月号

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 本書は、タイ国東北部の農村で、地域経済や地域社会の再興に尽力してきたNGO活動家の記録である。経済発展の進むタイで、遅れた農村地域・貧困の代名詞となっていたのが東北タイである。その人口の大多数を占める農民は、これまで変動の激しい輸出農産物の価格や、抜け目のない中間業者、政府の気まぐれな経済政策に文字通り翻弄され続けてきた。その彼らが、著者たちの活動をひとつのきっかけとして、多様な地域資源を有効かつ持続的に活用できるような等身大の農業・経済システムの構築をめざしてさまざまな活動をはじめる。そのひとつが、村の朝市や、村と町を結ぶ農産物直売市場の実現である。物資の供与や財政的支援を中心とする従来型の援助ではなく、経験交流を通した人づくりの主眼をおき、あくまで村人自身を主役として小さくても確実なところからはじめる、というNGOならではのプロジェクトの基本方針が、ここではみごとに成功をおさめている。
 本書の特徴は、そうした地域おこしの活動が、無味感想な記録としてではなく、著者と地元農民との交流を軸にいきいきと描かれているところにある。そこでは東北タイ人が愛する酒と歌が、重要な要素としてしばしば登場する。たとえば村人のドブロク作りが、それを誇るべき伝統として回復しようとした農民の運動が実を結んで合法化されたというのは実に愉快な話だ。そうした社会運動(やそれが対峙している現実)は、プロの音楽家によって歌として表現され、その歌がまた運動や人びとの日常生活の支えとなっている。本書には他にも、東北タイの農業や環境の変容、農民の日常生活の変化、NGO活動の動向などに関する記述が豊富に盛り込まれており、農民の視点から東北タイの社会と経済の変動を理解するための優れた入門書ともなっている。
 なかでも私が感銘を受けたのは、ある農民が祖父からよく聞かされたという次の言葉である。「とれた魚を長く保存するのに一番よい方法は、独り占めするのではなく、他人に分け与えることだ。そうすれば、自分が獲れなかった時に助けてもらえるから」。この言葉は、いまではもう薄れてしまった「分与の経済」が以前のタイ農村には存在していたことを示すと同時に、現在の世界の困難を打開するためにも重要で、深い知恵のありかを示唆しているように思えてならない。たとえば、これを「戦争やテロリズムを防止するのに一番よい方法は、富を独り占めするのではなく、それが他人にも行きわたるようにすることだ」と読み替えてみることはできないか。相互不信と暴力の悪循環に落ちゆく世界のなかで、著者とその仲間たちの国境を越えた軽やかな連帯の運動は、別の未来の可能性をたしかに提示してくれる。

評者 近畿大学農学部講師 鶴田 格

◎Trial & Error、2004年3-4月号

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 「タクシン首相に見習え」
そんな言葉が昨年のWTOカンクン会議前後から日本のマスメディアで見られるようになった。AFTA交渉に積極的なタイの首相を、構造的経済停滞から抜け出すために日本もみならったらどうかという論調の中でである。
 しかし、タイの人々には何が起こっているのか。タクシン政権は三十バーツ医療の提供や土地なし農民への耕作地付与など、自ら「ウアアートーン」(=惜しまぬ扶助)と命名した政策を打ち出し、底辺層からの支持が厚いという報道が多いが、本当にそうなのだろうか。
 「イサーンの百姓たち――NGO東北タイ活動記」を読むと、ウアアートーン政策もAFTAも、タイの農民や百姓たちにとってはあまりありがたくないもの、かえって迷惑なもの、ということがわかってくる。
 それは、タイの百姓たちはタクシンが持ち出すずっと以前からウアアートーンの仕組みを持っており、それが弱められてしまったのは他ならぬ政府の開発優先政策のためなのだという彼らの認識が、自分たちの言葉でこの本にはっきりと語られているからだ。そして、それを取り戻すには、AFTAに乗ってジャスミン米やドリアンを遠くの誰かに食べてもらう必要はなく、以前の仕組みのねじを少しまき直し、身の回りにいる人々とつながることだけで充分なのだということを、朝市プロジェクトなどの新しい活動の中で彼らが示しているからである。
 自立を模索するタイの百姓の前にはさまざまな問題が出現する。会議で話しても結論の出ない話題は酒席へもつれこむのが常だ。著者がイサーンの人々からゲーオ(グラス)というあだ名を冠されたのは、そこまでとことん付き合い、首を突っ込んだからだ。新しいかたちのNGO活動記だ。
評者:岡本和之(ジャーナリスト)

◎恋するアジア、43号掲載

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 タイの中でも東北イサーンは貧しいところである。社会のグローバル化(巨大資本が乗り込んでくる。社会のグローバル化(巨大資本が乗り込んでくる)により村はどんどん貧困になっていき、それに抗して手作り農業を確立し、地域(市場)を設営し、自立の道を探っていく。この本にはその活動記が書かれている。ただ残念なのは、地元の農民の声があまり書かれていないことである。活動を進める代表の声は書いてあるが、活動に参加していない人、市場のルールに反感を覚える人など、幅広い周辺の人の声が書かれていれば、もっと説得力の増す本となっただろう。こうした活動は大きくなれば硬直化(閉じて過度にシステム化され官僚的になる)していく危険がある。そのへんの矛盾をどう回避していくのか、目先の策だけでなく、システム構築の将来についても述べて欲しかった。著者はまだ若く思考はナイーブ。著者に好感を持つ本だった。

◎北海道新聞『世界文学・文化アラカルト/インドネシア』、2004年2月12日掲載

マックス・ハーフェラール
ムルタトゥーリ 著

植民地時代伝える名作
 1860年の出版とともにオランダでセンセーションを巻き起こした小説「マックス・ハーフェラール」の日本語訳が再び出版された。戦中の1942年(昭和17年)に訳されたときには文部大臣推薦図書になった。戦後は目にすることもなくなってしまったが、今回の訳書(佐藤弘幸訳、めこん刊)は原作の素晴らしさを遺憾なく伝える素晴らしい訳に仕上がっている。
作者は、ジャワに派遣されていたオランダ人植民地官僚の一人であったダウエス・デッケル、ペンネームを「ムルタトゥーリ」という。この小説は作者の分身ともいうべき主人公マックス・ハーフェラールの口を借りてオランダの過酷な植民地政策を内部告発したもので、たちまち当時の問題作となった。本国と植民地を行き来する植民地官僚たちの世界、オランダ社会の東インドに対する認識、土地の役人とオランダ人官僚との関係などさまざまな事柄が、この小説から読み取れる。作者のリアリスティックな描写は、研究者のための貴重な歴史的資料ともなってきた。一方、一冊の文学作品としても高く評価され、今なお十九世紀のオランダ文学の不朽の名作として読まれ続けている。
 ムルタトゥーリはこの小説が出版された後もいくつかの作品を発表したが、不遇のうちに1887年、ドイツで客死する。現在、彼の作品と研究書を集めた小さなムルタトゥーリ博物館がアムステルダム市内にある。そこには世界の二十七の言語に翻訳された「マックス・ハーフェラール」が並べられている。インドネシア語には一九七〇年代に翻訳され、版を重ねている。このような書が当時の政治的な圧力を受けながら宗主国で出版されたこと、オランダ文学の名作として読まれ続けていることは興味深いことである。オランダ領東インド時代のインドネシアや、オランダとの関係を知るための格好の書である。
評者:森山幹弘(南山大学助教授)

◎文化人類学(旧民俗学研究) 2004年69-3号掲載

ゴーゴーバーの経営人類学――バンコク中心部におけるセックスツーリズムに関する微視的研究
市野沢潤平 著

 野心的な作品である。中心的な内容とすれば、バンコクのゴーゴーバーの民族誌的研究という、それ自体一般の耳目を集めるであろうトピックであるが、研究成果を一民族誌の枠にとどめることに満足せず、「経営人類学」という未だ本格的な一分野として形成されていない分野名称を前面に出して、その「視座の価値」を強調し、「<親密性産業>の経営人類学的研究」として位置づけている。したがってその論理構築において、最も関連する分野と考えられる経済人類学に対しても批判的な評価を下すばかりでなく、さらに人類学の領域を越えて、新古典派経済学や経営学の見方にも批判の矛先を向けることで、「経営人類学という視座」の有効性を浮き彫りにしようと試みている。そのような大胆な試み自体には何ら異議を唱えるものではないが、現代の経済学や経営学を専門とする研究者にとって妥当性ある批判であるのかどうか、私自身そのような分野には門外漢ではあるものの、一抹の懸念を持った。懸念を払拭する意味でも、幅広い読者に読まれるべきである。
 さらに大きな懸念は、「経営人類学」という名称のもとに行われてきた先行研究への言及の皆無、あるいは少なさである。経営学者村山元秀がすでにその名称で複数の著作を出しているし、人類学内でも中牧弘允が経営学者や経済学者とともに行ってきた学際的な研究成果が幾つかある。後者については、本書の冒頭部にわずかに言及があるばかりで、著者は自らを、そのような先行研究の中でどのように位置づけているのかほとんど不明なままである。
 以上のような不確かな大枠の内側で、仕事あるいは職業の民族誌としての記述説明にはおおいに関心が惹かれる。まず、「従来のセックスツーリズム研究の本流である、女性に対する家父長制的な支配と抑圧の構造をマクロ的な視点から描きだす」といったアプローチではなく、ミクロの視点から、バーガールとお客の間のface-to-faceの多様な関わりの有り様ばかりにとどまらず、さらにバーガール間の人間関係のあり方も記述することで、この仕事あるいは職業の、重層的な意味での不安定性という一大特性が浮き彫りにされている。
 この作品は、第4章「ゴーゴーバーの市場論」と第5章の「経済外的な関心と私的な親密性」の二つの章が中核を成していると思われるが、クリフォード・ギアツのバザール型市場論を引き合いに出して類似と相違を明らかにすることで、バザール型市場論を拡大してみせている。その議論も興味深いが、私が最も楽しく読めたのは、バーガールの職業形態が「オクシモロニック・ワーク(Oxymoronic=撞着語法)」と著者が命名するような性格のものであるという指摘と説明内容である。舌のもつれそうなオクシモロン(oxymoron)という用語は、「無慈悲な親切」「公然の秘密」「ゆっくり急げ」「輝かしい失敗」といった表現のように、「意味が矛盾する2つの語句を並べて言い回しに効果を与える修辞法」という意味だという。バーガールの仕事とは、一言で言えば「<親密性を売る>仕事」と表現できるようなものだそうであるが、本来、気が合うとか、馬が合う、好みのタイプだ、といった個人的感情に根ざす「親密性」というものは本質的に「商品になりえない」ものであるのだから、「親密性を売る」と呼ぶにふさわしいバーガールの仕事の性格には、「公然の秘密」といった表現と同列の自己矛盾を孕んでいると著者は指摘する。つまり、バーガールとは一種の個人経営者として、体を張って経済的計算をしながら利益を得ようとするものでありながら、お客によりよくアピールするには、むしろ個人感情のような、いわば「経済外的関心」があったほうがよく、結果として経済的成功の可能性を高めることができるというのである。愛人関係や本当の恋愛関係から発展してお金持ちと結婚にすら至るのは、いわば究極の成功例であるという。無論、親密でお人よしというだけでは、逆に客に騙される可能性も高いわけで、バーガールは「経済的関心」を持っていることを大前提にしている。しかしお客も、バーガールとはそのようなものであることがわかっているからこそ、私的な親密性――それはバーガールの主観に照らしても、経済内的な計算の枠を越えた心情である――が客にはアピールする力となることに論理的な矛盾はない。
 また、このように、経済的計算ばかりでなく、それをも離れたところで私的な親密性を表現する職業女性の元に、日本人や欧米の男たちが足繁く通う背景として、男女平等意識が高まり、男というだけでは自動的に尊重もされなくなった先進諸国の現実や、たとえば日本などの性風俗の有り様が、ファッションヘルスなど、男女の間の感情を差し挟まない画一した性サービスとなっているといった現実もあるという。男の甘ったれであり、国威の差を個人レベルの差異と錯覚した男の身勝手と言えばそれまでだが、バンコクのゴーゴーバーは、そのような要素も背景として成り立っているという。国際的性ツーリズム産業を微視的に見ることは、ゲスト国の有り様にも光が当てられることになる。  最後に、できれば後学のためにも、どのような調査方法、あるいは調査上のリスクマネジメントが取られていたのか、紙面をさいてより詳しい説明を聞かせていただきたいとも思った。

評者:住原則也(天理大学国際文化学部地域文化研究センター)

◎文藝春秋「BOOK 倶楽部」、2004年4月号掲載

ゴーゴーバーの経営人類学
市野沢潤平 著


タイ実地調査でバーガールの経済効果を読みとく


評者:松原隆一郎(経済学者・東京大学教授)
   福田和也 (文芸評論家・慶応大学教授)
   鹿島茂  (フランス文学者・共立女子大学教授)

松原:女性の晩婚化と同時に男性の未婚率も上昇しているわけですが、その背景とも言える観光風俗産業について、経営人類学という観点から論じたのが、市野沢潤平氏の『ゴーゴーバーの経営人類学』です。
タイのゴーゴーバーは、風俗店といっても直接的な売春ではなく、客とバーガールが出会う場であって、女性を連れ出せるけれども、店外で性交渉を持つかどうかは店側は関知しないのが特色です。酒を飲んで帰るだけでもいいし、実際はそういう客のほうが多い。女性は自営業主なわけで、その経営形態が分析されています。
日本からは年間70万人の男性客がタイを訪れていて、もちろん全員がゴ-ゴーバーに行くわけではないけれど、一方東京都では三十代前半の男性の未婚率が54%といいますから、無関係の現象とはいえないでしょう。
鹿島:これは修士論文に大幅加筆した本だそうですが、タイでの長期にわたるケーススタディーが詳細に書かれているのがいいですね。<ケース12>で紹介されている、日本から月々送金しているのにたまにタイを訪れてもあまり歓迎されない男性の例なんて、哀れすぎる(笑)。
『結婚の条件』で結婚は経済的な営みと書かれていたけれど、この本でも、バーガールという存在が自己利得を最優先させるエコノミック・マンとして分析されている。ただし、当然ながら男女の仲だから、最大の利益を得るという目的の他に、客との間に恋愛や友愛が生じて、関係が多様化しているのがおもしろい。
松原:ゴーゴーバーに魅了された観光客は年に十回以上もタイを訪れるそうですが、彼らは日本にいる時も男同士である種の社交空間を作っていて、インターネットにはタイ風俗の情報交換サイトがいくつもあるし、ガイド本も売られている。日本では80年代から風俗目的の観光旅行があったけれども、いまは単なる買春ではなく、もっと複雑で独特な現象に発展していることがよく分かります。
福田:<ケース15>の山本君という男性も、最初は性交渉を目的としていたけれども、最近はバーガールと友達感覚で付き合うことに価値を感じていて、あからさまに客として扱いを受けると気分が壊れるというのは、昔ながらの廓話ですがね。
松原:日本の場合、ソープのような性交渉の場では恋愛感情は拒絶されるし、逆にキャバクラでは性交渉に発展したら女性の負け。しかしゴーゴーバーは、恋愛と性交渉が両立可能な不思議な空間で、とくに対女性弱者である「負け犬」男性にとっては、日本の風俗店にはない魅力があるわけですよ。
鹿島:日本でも80年代までは。温泉地や歓楽街のソフト・ピンサロで、性交渉と擬似恋愛が共存していたんです。ハード・ピンサロではいきなり性交渉が始まるけれども、不思議なことに、そこでも性欲処理だけで終わらずに微妙な恋愛感情が生じる。馴染み客となって何度も通ううちに、情が湧いてきたりする。いわんや、性交渉なしのクラブでは擬似恋愛ばかり。なかにし礼を代表とする70年代前半の歌謡曲では、そうした水商売関係が随分歌われてきました。
僕は、1985年のプラザ合意が、日本の風俗を変えたんだと思うんですよ。ピンサロ黄金期が、円高を契機に、東南アジアに流れたんじゃないかな。
松原:タイにはマッサージパーラーと風俗もあって、性行為自体を売るという点では、こちらの方がピンサロに近い。ゴーゴーバーは、あたかも自由恋愛が可能であるかのような幻想が売りである点が、特徴なんです。
鹿島:今の日本では、恋愛を夢みる部分も、イメクラという形で制度化されてしまったからね。
福田:擬似恋愛があるのは、イメクラよりも援助交際だと思いますよ。
鹿島:いや、それはフィールドワークが足りない(笑)。というのも、擬似恋愛というのはある程度閉じられた空間の中で、複数の人間の中から相手を選び、かつ相手に選ばれるという設定が必要なんですよ。不特定多数の踊り子と客が邂逅して、その中から気に入った相手に話しかけるというゴーゴーバーのシステムは、それをよく踏まえている。
松原:日本人男性は知らない女性に話しかけるのが苦手でしょう。海外ではなぜか話しかけやすくなるんですが、さらにゴーゴーバーでは女性の方から話しかけてくれる。しかも、風俗でありながら表面上はただ酒を飲んでいるだけなので、日本人のシャイな男性にとっては非常に幻想を持ちやすい状況です。イメクラでも援交でも、これほど男性は救われないと思いますね。
――略――

◎週刊朝日「本棚の隙間」、2004年3月12日掲載

ゴーゴーバーの経営人類学
市野沢潤平 著

  幻のような擬似恋愛ゲーム

 切実さと展開の意外性で、目が離せない漫画がある。『週刊ビックコミックスピリッツ』掲載の『ルサンチマン』だ。
 ボーナス時のソープが唯一の楽しみという主人公「たくろー」は冴えない三十男、印刷工場で働いている。旧友の越後は引きこもりだが、最近妙に余裕がある。追求すると参加型の美少女ゲームにはまっており、ゲームの中では美少年「ラインハルト」として五人の美少女にかしずかれているという。さっそく大枚をはたいてゲームを始めたたくろーは、バーチャル世界で高校時代に若返り、南海の孤島で美少女キャラクター・月子に出会う。ところが彼女は何故か「他に好きな人がいる」と言い、「誰かに気にとめてほしんだよ」と泣くたくろーに、「私、いつもたくろーさんのこと考えてるもん!」と胸を叩く。現実のたくろーは、顔面や両手にリモコンを装着し、自室で悶えているだけなのだが。
 作中の時代は2015年。ソフト開発に携わっている友人に尋ねると、技術的にはありうる設定だと言う。女性から冷たい視線で値踏みされたり話しかけられて無視されるのに耐えられない男性にとっては、他人ごとではない話だろう。では現在の現実はどうか。
 『ゴーゴーバーの経営人類学』を読むと、1980年代からバンコクのパッポンや近年ではスクムビット周辺、ビーチリゾートに集中立地する「ゴーゴーバー」がこの美少女ゲームと等価であるかに思えてきた。16歳から23歳あたりの女性たちが水着もしくはトップレスで踊り、着席して酒を飲む客の間を回遊しては話しかけ、ドリンクをねだり、交渉が成立すれば店外デート(「オフ」)してくれる。
 タイの風俗店といえば、80年代まで日本人による「買春パッケージツアー」が批判を浴びた。ゴーゴーバーもそのたぐいと思われるかもしれないが、事情は相当に異なる。買春は公式には犯罪であるために、ゴーゴーバーは場所を提供し、連れだし料とドリンク代を収入源とする。客にしても飲んで喋り、踊りを眺めるだけで帰る場合の方が多いという。女性たいは個人事業主として「オフ」で営業するのだが、性交渉は月に10回に満たない。
 ではゴーゴーバーは、何を売っているのか。それは「私的な親密性」だ、と著者は述べる。売春が行われたとしても単発であるだけでなく愛人となったり、食事やディスコに出かけるだけの関係から恋愛・結婚もありうる。愛人からの送金を元に、若い日本人男性をヒモにするケースすらある。男性にとっては幻のような
擬似恋愛ゲームがそこでは繰り広げられているのだ。
 本書は実は修士学位論文で、仕上げるために市野沢氏は1年間に週5日、1日当たり3、4軒を梯子し続け、30名ほどを元に24の具体的なケースを記述している。「ケース21」の男性「オサム」は、半年を日本で期間工として勤め、残りはバンコクで過ごす。「日本にいるときに比べ、遥かに女性と打ち解けやすい」からだ。相応の努力も惜しまない。タイ語を独習し、毎日地道に各店舗を周遊しては、まだすれておらず口説きに乗りやすい十代女性を探している。ここにも、もう1人の「たくろー」がいる。
 ここで紹介されているのは、「男性旅行者による解発途上国の女性の搾取」といったフェミニスト的視角では説明つかない現象だ。タイで金銭を伴う性交渉は、日本人女性がタイ男性に支払う形でも行われているし、春になると学生も大挙して飛来してバー通いを始める。といって主流派経済学の理解も及ばない部分がある。性交渉にかんしてバーガールは安すぎる支払いを「面子がつぶれる」と考え拒否するし、男性側の究極の目的は、金銭を伴わない恋愛関係に入ることという風に、経済外の動機が強い。
 日本では女性の晩婚化とともに男性の非婚化も顕著になっているが、「ゴーゴーバー」現象は確実にそうした傾向を下支えしている。
評者:松原隆一郎

◎世界週報(時事通信社)2004年8月3日号

シルクロード・路上の900日
大村一朗 著

─ひたすら歩く1万2000キロ

 手に持てば辞書ほど分厚く重たい。章ごとに旅程を示す地図と中央部に数葉のスナップ写真があるだけの無味乾燥な体裁。果たして最終章まで読了できるのか、そんな不安がよぎる。ところが読みだしたら止まらない。未読部分のページがだんだん少なくなるのが惜しくなる。ローマに早く着きたいという気持ちと、そんなに早く着いていいのかという著者の複雑な心境が共感できる。
 最近にない不思議な読書経験だがその理由を考えてみた。めっぽう面白いのだ、と言ったら著者に失礼になる。なぜなら著者は大まじめなのだ。大学3年生の時、シルクロードを西安からローマまで1万2000キロを徒歩で歩き通すと決意し、大学卒業と同時に2年半で実行してしまった。それは壮絶としか言いようがない苦難の旅だ。
 著者が自らに課した戒律は「ひたすら歩く」こと。生活道具を詰め込んだリュックを背に炎熱の砂漠の道も、酷寒の天山の道もひたすら歩く。通り過ぎる乗用車やトラックから「乗れ」と親切に声を掛けられても断る。それはあらゆる誘惑を退ける青年修道僧のような趣さえある。
 象徴的な出来事が中国新疆ウィグル自治区の省都ウルムチで起きる。旅券の滞在期限切れを理由に、公安当局が即刻国外退去を命ずる。期限延長を交渉するが相手は頑として聞き入れない。外国人立ち入り禁止区域に日本人がウロウロするのを警戒したのかもしれない。ならばと、彼は香港にとって返してビザ更新し、再びウルムチに戻り天山北路を歩きだす。中央アジアのトルクメニスタンからイランへ入る国境でも同じ経験をする。
 だが、彼はひたすら歩くことをやめない。何が彼を駆り立てるのか。それは未知への遭遇ではないか。私事になるが、書評子も著者が歩いたシルクロードのほぼ全行程に行ったことがある。と言っても飛行機とバスを乗り継いでの旅行だが、時速100キロ近いバスツーと一日30キロ前後の徒歩旅行とにどれほど違いがあるか本書を読んではっきりと分かった。
 明日は何が起きるか。どんな風景が現出するか。それが、ある意味でバックパック・ツアーの楽しみであると同時に本書のページをめくる魅力でもある。例えばウズベキスタンである家庭に招かれ一家挙げて歓待される。一夜明けて財布がなくなったことに気づく。
 もちろん悪い話ばかりではない。むしろ温かく歓迎される話の方が多い。特に「危険だから行くな」と言われたルーマニアのロマ(ジプシー)村落での交流はほほ笑ましい。「中国から歩いてここまで来た」と言うと村中総出でごちそう攻め。「うちの娘を嫁にもらえ」と言いだす婆さんも出てくる。
 最終目的地ローマ市街を見下ろすカピトリーネの丘に立った時の感想がいい。「すべてが終わって、やはり自分はからっぽになってしまったのだろうか」と問いつつ「これからが本当の勝負なのだ」と思い直す。青年だけに与えられた特権かもしれない。(増山榮太郎)

◎じゃかるた新聞「読書欄」、3月27日掲載

シルクロード・路上の九〇〇日大村一朗 著

  ――西安からローマまで徒歩で

 一人の日本人青年が中国の西安からイタリアのローマまで二年半かけ、徒歩で旅した記録である。すごいことを思いつき、達成したものだ。そのことだけで脱帽し、賞賛に値する。
 今、日本人の海外旅行は飛行機で速く目的地に行き、豪華なホテルに泊まり、ガイドブックを頼りに観光するのが主流だ。安宿に泊まり、屋台などで安く食事を済まし、長期の旅を楽しんでいるバックパッカーもときどき見かけるが、1万2千キロもの距離を歩き通すことが目的の旅など聞いたこともない。
 私は読めば読むほど、著者の体験に圧倒され続けた。
中国の内陸部には外国人未解放区が点在している。公安に見つかりパトカーで解放区の町まで連行されるが、事情を説明し、また元の地点に戻り、徒歩旅行を再開させてもらう。
 中央アジアでは零下10度まで下がったテント内で凍傷にかかり、片耳をなくした自分の顔を想像し、泣きそうなほどうろたえる。
 数日間村一つない国を歩くため、食糧をロバに乗せ雪道を出発するが、逃げられ、追いかけっこをする羽目になる。そしてそのロバと心を通わせる。 物にあふれたイランに入ると、楽園のように見えてくる。物の不足した世界にもう戻りたくなかったと、打ち明ける。
 トルコの観光都市イスタンブールで気を抜き、睡眠薬強盗に合い、パスポート以外のものを失ってしまう。
 ルーマニアでは放浪の民ロマに親切にされるが、ルーマニア人からは危ないから関わるなと忠告され、葛藤する。
 そしていよいよ873日目、ローマの広場に到着する。
 なぜ徒歩旅行なのか。学生時代は劣等感のかたまりのような人間だった。何か1つ、途方もなく大きなことを最後までやり遂げることができたなら、自分はかわれるかもしれない、と記している。
 しかし、ローマを最終点とせず、これからが本当の勝負だと日本に帰国して7年、執筆という長い旅を続けた。そのため600頁を越す大作だが、とても読みやすく、素晴らしい紀行に仕上がっている。
 出版を終えた著者は今年初め、再びイランに旅立ったという。

評者:紀行作家・小松邦康

◎恋するアジア、43号掲載

シルクロード・路上の九〇〇日大村一朗 著

   ここ10年で出た旅文のなかでは最高の本である。著者は20代半ば、2年半をかけて、中国の西安からイタリアのローマまで、乗り物は使わず、ひたすら歩く。この本はその旅日記だが、実際の旅を終えたあと7年をかけて書かれているため、その旅が何であったのかを確認する視点があり、読み物として最高の出来になっている。本には実に多くの人との出会いが書かれており、また文章はうまく、読者は一緒に旅をしている気分になる。600頁を越える長い本だが、2年半の旅には釣り合っており、読後は読者も旅の終わりの安堵と達成感を感じることができる。この本の良いところは、旅の途上の気持ちの揺れ動きを、書きすぎもせず、書かなすぎもせず、感じただろうそのままに書いていることである。著者は冒険家ではなく、普通よりもちょっとましな肉体を持った普通の若者であり(1日30キロ歩く)、誰でもが持つだろう生きることへの「惑い」を濃厚に抱えており、それが旅の途上であふれ出る。著者は「老後のために、20代半ばがあるのではない」と力み、「時間がないと常に焦りを感じているのは、晩年より20代の頃ではないか」と思う。いっぽうで「私のしていることなど所詮、旅という悠長なお遊びにすぎないのだ」と冷静でもある。この本は、読む者を、のめり込ませる。次の一節はことに感動させる。イランでのことである。
 ――何もない、なだらかな丘と凍てつく荒野だけが広がっている。地平線に近づきつつある夕日は、凍った漠土をきらきらと水面のように光らせていた。
その光景は、中国の広大な無辺なゴビの景色とだぶって見えた。目的の村がみえてこず、落日を不安と焦りが爆発しそうなほどの切なさでただ黙々と歩いていたあの頃。しかし今、似たような状況と景色の中に置かれながら、私の心は不思議なくらい幸福感に包まれている。
 ぎりぎりまで消耗した肉体は心地よく、吐く息の白さと、こだまする足音が、自分の存在をこの世界に浮き出させてくれる。
 ほんの一瞬、体中がしびれるような歓喜で震えた。この一瞬のために、自分はここまで歩いてきたのだと思った。

 著者は、西安→カザフスタン→キルギスタン→トルクメニスタン→イラン→トルコ→ブルガリヤ→ルーマニア→ルーマニア→ハンガリー→スロベニア→ローマと歩いた。この旅に結論はない。著者は将来、自分がそうされたように、「旅人にリンゴをあげるような生活」をしてみたいと思うのである。

◎日本経済新聞「文化往来」、2004年4月1日掲載

シルクロード・路上の九〇〇日大村一朗 著

   今から十年前、二十四歳の日本人青年が巨大なリュックを背に中国陝西省の古都、西安から西に向けて歩き始めた。ほぼ九百日後、シルクロード一万二千キロを歩き通した彼はローマのカンピドーリオ広場に立った。
 大村一朗「シルクロード・路上の900日」(めこん刊)は二年半に及んだその徒歩旅行の記録である。日記をもとに七年をかけて書いた旅の記録は二千九百枚。それを三分の一に削り大部な一冊ができた。孤独な徒歩旅行者にはさまざまな災難が襲いかかった。中国のウルムチではビザの期限が切れ、やむなく国外へ。香港に飛んでビザを取り直した大村は歩みを止めた地点に戻って歩を進めた。
 トラブルに遭っても、常に前向きに明るく対処する姿が達意の文で書かれ、読後感はすがすがしい。昔、玄奘三蔵は取経という大義名分を持って西行したが、大村の旅はただ「西安―ローマ」を歩き通すだけという単純なもの。そこにかえって旅というものの意味を問い直させるすごみがある。
 今はテヘラン大学でペルシャ語を学ぶ大村は「徒歩旅行にはおよそ特別な技術は必要ありません。ただ二本の足と、未知の土地へのあこがれだけが原動力の、有史以からの旅のスタイルです」と同書の冒頭に書いている。

◎読売新聞、2004年3月14日掲載

シルクロード・路上の九〇〇日大村一朗 著

 なんて馬鹿な人がいるんだろう! 著者には失礼だが、思わず叫んでしまった。西安からローマをこれは「歩いた」記録なのである。その距離一万二千キロ。日数にして九百日。「トラックに乗せてやる」という申し出を断り、車に乗らざるを得ないときは乗った地点までわざわざ戻り、ときにはロバを相棒に、著者は歩き続けるのである。数え切れない出会いと別れがある。金を盗むものも、恵むものもいる。善意と悪意がごく普通にある。移動するごとに光景が、食事が、宗教がかわる。著者の緻密な記録は、においの変化まで読み手に嗅ぎ取らせる。もっとも印象深いのは人の姿である。著者の出会う、ときに理解不能、ときにコミュニケーション不可、ときに神のような、異文化に生きる人々。
 分厚い一冊だが、読み手はたった数日で、一万二千キロの道のりを旅することができる。遠く離れた世界で、私たちと同じときを生きる人々の深遠さを、心底から感じることができる。
評者・角田光代(作家)

◎静岡新聞、2004年2月12日掲載

シルクロード・路上の九〇〇日大村一朗 著

  シルクロードの徒歩旅行記出版――思い出のイラン留学へ

 中国・西安からイタリア・ローマまで1万2000キロを単身踏破した旧清水市出身の大村一朗さん(33)が旅行記「シルクロード・路上の900日」(めこん刊)を出版した。帰国後7年がかりでまとめた622ページの大作。大村さんは念願の出版を区切りに、ジャーナリストを目指して2月中旬、イランに語学留学する。
 徒歩旅行のきっかけは大学3年の夏、下宿先の東京から旧清水市の実家まで6日間で完歩したこと。さらに半年後のシベリア鉄道の旅で、ユーラシア大陸をわずか6泊7日で横断できたことから、「歩いたらどのくらいかかるのだろう」と思い立った。
 大学卒業後の1994年6月、西安を出発。泊まるのは主に安宿か民家だが、中国とカザフスタンの国境では、零下20度の雪原でキャンプしたこともあった。A型肝炎にかかってイランで入院、トルコでは睡眠薬強盗に金やカメラを奪われる災難に見舞われながらも、1996年11月にローマに到着した。
 帰国後は東京でアルバイトをしながら、旅行記の出版準備を進め、出版のめどがたつと同時に、イラン留学の許可も下りた。イランは民家や店が最も快く泊めてくれた国。大村さんは「旅でお世話になった人にもう一度会って、イスラム革命と自由の問題などをもっとよく聞きたい」と意気込んでいる。
 旅行記の定価は2500円。全国の主な書店で販売しているほか、めこんのホームページでも注文できる。

◎朝日新聞『読書』欄、2003年11月16日掲載

インドネシアの紛争地を行く小松邦康 著

 
 一つの国でも隅から隅まで旅することは、そうたやすいことではない。ましてや東西の幅が米大陸よりも長い五千キロ、一万3千以上もの島々からなるインドネシアのような国は。
 観光で訪れ南の島国の魅力にとりつかれた著者は、脱サラをしてジャカルタに移住。以来17年、言葉を学び、公共交通機関で全国を走破し、安宿の主人、長距離バスの運転手や乗客、食堂では土地の料理を食べながら庶民の話に耳を傾け、3冊の旅の本を書いた。
 ところが『楽園紀行』『インドネシア全二十七州の旅』の前2冊のタイトルと本書は趣が違う。独裁体制のタガがはずれて以後、多宗教、多民族、多言語社会の矛盾が生む流血事件を目撃し、テロの硝煙を嗅ぐ旅を続けているからである。
 「万を越える住民が紛争に巻き込まれて命を失」った事態の背後に、軍や警察の暗躍や相も変わらぬ権力者の横暴があることを、筆者は「普通の人々」の視点を借りて見透かしている。
評者:加藤千洋(本社編集委員)
 
◎東京新聞書評欄、2003年10月26日掲載

インドネシアの紛争地を行く小松邦康 著

  日本が加担する弾圧も
 ジャーナリズムにも建前は多いが、「人命に軽重はない」という建前ほど空疎なものはあるまい。
 たとえば、アメリカでの同時多発テロの犠牲者が約三千人であるのに対して、インドネシア・マルク諸島でのイスラム教徒とキリスト教徒との抗争による死者は五千人以上、インドネシアからの分離独立運動が続くアチェでの住民の死者は、ここ十年で一万人以上、そして四半世紀に及んだインドネシア統治下での東チモールの犠牲者の総数は実に十万人以上にのぼるのだ。が、そのことを私たちはほとんど何も知らない。
 これらの地域に何度も足を踏み入れた著者の現地ルポを読むと、徐々に全体像が浮かび上がってくる。ひとことで言えば、スハルト長期政権が終わりを告げ、権力の空白状態が生まれたところに国軍や警察が介入し、宗教間や民族間の対立を作りだして、政治の主導権ばかりか麻薬や木材などの利権をも手中に収めようとしているのである。

 バリ島で昨年起きた爆弾テロは、当初から国軍の関与が囁かれていたとおり、結果的に国軍の力を強め、テロ撲滅の大義名分を得てアチェ独立派への弾圧をいっそう過酷なものにした。にもかかわらず、日本からインドネシアへの巨額な援助の一部は、そのような国軍に無条件に流れ込んでいる。こうした事実を日本人の大半が知らないのは、第一にマスコミが伝えないからだ。
 インドネシアは東西に長く広がる大国で、首都ジャカルタから辺境の島へ行くには、飛行機やクルマや船を乗り継いで、ときに一週間前後もかかる。ジャカルタに駐在する特派員だけでは、到底カバーできない領域なのである。このマスコミの欠陥を本書は埋めようとしている。
 著者の肩書きは「紀行作家」とあるが、危険をものともせず紛争地帯に足しげく通い、各地の人々と息の長い付き合いを続ける姿は、言葉の本来の意味で「ジャーナリスト」の仕事ぶりである。
評者: 野村進(ノンフィクションライター)

◎四国新聞「一日一言」欄、2003年10月10日掲載

インドネシアの紛争地を行く小松邦康 著

 
 インドネシアのバリ島に小泉首相が到着した六日、高松出身の旅行作家・小松邦康さんからメールが届いた。新著出版のため帰国して再びジャカルタに戻ったばかり。筆が少し重い。
 「バリの友人によるとこれまでも国際会議はあったけれど今回ほど警備が厳しいのは初めてだそうです。多くの道路が封鎖され、一週間前から学校や役所は休み。観光客にも影響が出ています」。
 昨年十月、地上の楽園・バリ島は爆弾テロに見舞われ観光客が激減した。インドネシア政府はASEAN会議の成功で安全のPRをねらっていた。その思惑通りに、バリから戻った小泉首相は美しい楽園の様子をメールマガジンに寄稿している。
 しかし、小松さんは言う。「五月に東京のアチェ和平会議が失敗し軍事作戦が再開、毎月百人以上の住民が殺されています。バリに来た数百人の記者のうち何人が関心を持ってくれるのでしょう」。
 スハルト政権崩壊後、この国の民主化は進まず各地で新旧・宗教対立が激化。マルク諸島では五千人の住民が殺され、五十万の難民が出た。9・11テロとその報復戦争で事態はさらに悪化。しかし世界は無視している。
 「南の島を旅しながらのんびり旅行記を」と笑っていた小松さんの三冊目は『インドネシアの紛争地を行く』(めこん刊)になった。「この流血を見逃していいのか?」というコピーはこの国を愛する小松さんの叫びだ。
 「私は恥ずかしい」と小松さんは後書きに記した。巨大な経済力で先進国最大の援助国となった日本がいまだ自分自身の目や耳、そして頭を持ち得ない。ここにはもう一つのアフガン、もう一つのイラクがある。
◎朝日新聞「世界の鼓動」"ぴーぷる"欄、2003年10月11日 掲載

インドネシアの紛争地を行く小松邦康 著

  「楽園に戻って」願うルポ出版

 ジャカルタに住む紀行作家の小松邦康さん(44)は、インドネシアの混乱の地を訪ねたルポ『インドネシアの紛争地を行く』(めこん)を先月中旬に出版した。「スハルトが去り、みな国が良くなると思っていた。だが逆に抑えられたマグマが一気に噴き出した」。
 98年のスハルト政権崩壊後、東西5千キロに広がる国の東端パプアから西端アチェまで再び足を運んだ。アンボンやマルクなどでは「好きな町並みが壊されたり、焼かれたりしているのを見て、悲しい気持ちになった」。だが、日本であまり知られていない現実を伝えたいと思い、書きためていった。
「批判的なことも書いたけれど、楽園のような社会に早く戻って欲しいという強い願いを込めました」
◎じゃかるた新聞、2003年10月6日号 掲載

インドネシアの紛争地を行く小松邦康 著

  マルクからバリ島テロまで  庶民の苦悩を丹念に取材

 国軍を権力基盤に長期独裁政権を維持したスハルト元大統領が1998年5月に失脚した後、インドネシアはパンドラの箱をひっくり返したような混乱状態となった。その一つが地方の反乱。東ティモール独立運動に始まり、マルク、アチェ、パプアに広がった紛争はいまも続いている。マルク紛争から、イスラム過激派が引き起こしたバリ島爆弾テロ事件に至る紛争の現場を丹念に取材し、その都度、「じゃかるた新聞」に連載記事として報道してきた紀行作家の小松邦康さんが、これらのルポ記事を一冊の本『インドネシアの紛争地を行く』(めこん社)として完成させた。
 小松さんは1987年からインドネシアに住み、90年代前半までに、インドネシア各地を旅行した。その体験記を最初は『楽園紀行』〈91年〉続いて『インドネシア二十七州の旅』(めこん社、95年)を出版した。小松さんによれば、バリ島がかつて「最後の楽園」と呼ばれたように、80年代までの地方のインドネシアは、全土が楽園だった。
 「人間も自然も食べ物も、ゆったりとした時間と空間の中で息づいており、地方を旅するたびに人々の生活のゆとり、インドネシアの奥の深さを感じた。外国人の目から見ると、うらやましく感じるほどだった」と小松さんは当時を回顧する。
 「三冊目の本は、こうした『楽園時代』の人々との出会いをべースに書かれており、そのことが、インドネシアの未曾有の悲劇を描く小松さんの文章の端々に、暖かく、ヒューマンな観察の目を、一層感じさせてくれる。
 毎日、普通の人々が殺されている。中には、小松さんの親しい友人もいた。「紛争で眠れない日が続いている」とアンボンの友人から電話がかかる。
 小松さんは「最大の犠牲者は、南の島でのんびり楽しそうに暮らしていた人たちだった。どんなことが起きているのか。私は自分の足で歩き、話を聞き、目で確かめたくなった」と前書きで書いている。
 内容は「世界一美しい海岸」のマルクの悲劇(第一章)から始まり、独立はしたものの悩める東ティモール(第二章)、指導者暗殺など血なまぐさい事件が相次ぐパプア(第三章)、テロ国家のイメージを決定的にしたバリ島爆弾テロ事件(第四章)、国軍の熾烈な弾圧が続くアチェ(第五章)の五つに分かれ、小松さんが撮影した写真が掲載されている。
 ―――中略―――
 この本のすばらしさは、小松さんが、インドネシア語で、普通の庶民に話し掛け、直接話を聞き、自分の目で観察したことを書き綴っている点だ。
 どの紛争も、対立の根は深く、解決の見通しは暗い。しかし、小松さんはインドネシアの将来に明るい希望を持っている。
 85年、サラリーマンの休暇で訪れ、インドネシアに魅了されて紀行文を書くようになった小松さんは、最近、インドネシア人から「いつまでインドネシアにいるの」と聞かれるようになった。
 以前は「スハルト政権が倒れるまで」と言ってきたが、「もっとこの国の行方を見届けたい。来年の選挙もあるし…」という気持ちになった。
 「ジャカルタにいるとインドネシアのことが分からない」というのが小松さんの口癖。幼い時から旅が好きで、バスに何時間乗っても苦痛を感じない。
 小松さんのインドネシアの旅は、ますます充実した人生の旅になりそうだ。
 
◎ジェトロ・センサー2003年12月号(JETRO=国際貿易機構海外調査部発行)

ラオスの開発と国際協力 西澤信義・古川久継・木内行雄編

 
国際協力事業団(JICA)派遣の専門家たちがそれぞれの専門分野におけるラオスの現状と問題点をつづった力作である。対象となるセクターは財政、金融、投資、教育、運輸・通信、医療、農業、林業、産業開発、観光、電力、環境、森林保全など。これに南南協力、貧困対策、開発のあり方などの章が加わる。
 具体的なデータ中心の極めて専門的な記述、大所高所からの開発哲学とも言える記述など、全体のまとまりには欠けるが、現在のラオスには何が必要で、将来どのような開発が望ましいのかという重要なポイントはよく理解できる。各執筆者の現場における真摯な取り組み方が伝わってくるようだ。現在、数多くの日本人が世界中の開発途上国で汗を流している。国は違っても、考え方や切り込み方のノウハウには共通するものがあると思われる。開発に携わる人たちにぜひ一読を勧めたい。
 ラオスに関する情報は非常に限られているので、この国を「紹介」する書としても適切かつ貴重である。

◎JTECS友の会ニュース60号(日・タイ経済協力協会)

ラオス概説ラオス文化研究所(編)

 
 概説とはいうものの、これまでにこれほど丁寧にラオスの現状を紹介した本があっただろうか。スーパー観光立国・タイのすぐ隣に位置しながら、まだまだ未知の国という印象が強いラオス。そんなラオス研究の第一人者達が集い、書き上げた本書は、謎多いラオスの実情を実に明快に伝えてくれている。今後しばらくは、ラオスを語るに手放せない非常に貴重な1冊である。
◎季刊民族学』106号(千里文化財団発行)掲載

インドネシアを齧る加納啓良 著

35編の随筆で知る多様なインドネシア
 著者は、インドネシアを中心とする東南アジアの経済・社会・歴史の専門家で、おもな研究分野は「ジャワの農村経済の変容」だそうだ。本書に収められた35話のエッセーのうち最後の1話を除いて、大和銀行の現地合弁企業、大和プルダニア銀行の日本人顧客向けに発行されている広報誌に掲載されたものである。だから、内容的にまったくインドネシアを知らない読者を想定しているわけではない。しかし、インドネシアに対する興味があるとか、これからインドネシアで生活するというような人にとっては格好の入門書となろう。
 著者は、あとがきに、「研究のかたわら拾い集めたインドネシアについての雑多な知識を、なんら体系をなす意図なくかき集めたごった煮鍋のような本」だと書いているが、まさにそのとおりで、インドネシアという国名の由来にはじまり、言葉のこと自然のことから、女スパイ「マタハリ」やトオガラシについての薀蓄まで、副題にもあるとおり、「知識の幅をひろげ」てくれる書物だ。また「インドネシアを齧る」というタイトルには、かなり複雑で多様なこの社会の全体像を描くのではなく、ところどころを気の向くままに「齧る」という著者の気分が表現されている。
 おもしろいと思ったのは、著者が、「物事がぴたりと定位置になくても、漠然とある範囲に納まっていればそれでよしとする気分、また思想や感情を明確に直接に表現するよりは、婉曲にあいまいに伝えた方が相手に対して礼を失しないという感覚」をファジー感覚と名づけ、ジャワ人社会を、このような感覚が一種の文化として格段の発達を遂げた社会である、といっている部分だ。ジャワ語の諺には「たとえそうでも、そうでないようにしろ」とか「有るものは無い、無いものは有る」といった禅問答のようなものがあるらしい。また、わたしはこの本ではじめて、「お転婆」と「ポン酢」の語源がオランダ語だと知った。前者は「御しがたい」という意味のオンテムバール、後者は「柑橘類の絞り汁」を意味するポンスからきているということだ。わたしの"知識の幅"はたしかにひろがったようだ。
◎産経新聞、2003年6月27日掲載

道は、ひらける石井米雄 著

 
 タイを中心とした東南アジア研究の泰斗、石井米雄氏の自伝である。大学の理科系から文科系に転部。言語学にひかれて中退し、外国語大学へ。本物のタイ語に触れたくてまた中退し、ノンキャリアとして外務省に。「人運の良さ」に恵まれて京都大学に誘われ、研究者の道に入る。  異色の経歴を淡々と振り返っている。求めなければ与えられることは決してないと著者は力説する。その対象は著者の場合、一貫して「タイ」だった。その結果、「私の前には道が自然と開けていった」。書名はこの信念から来ている。  それにしても圧倒されるのは手がけた言語の数だ。旧制高校時代のドイツ語、英語に始まり、ラテン語、フランス語、ギリシャ語、イタリア語、マレー語、タイ語、中国語、サンスクリット語、ビルマ語、カンボジア語と続く。「ロシア語に三度手を出したが、ことごとく失敗した」と書いてあるぐらいだから、ほかはみんなモノになったのだろう。志と運のほかに、やはり才能がなければ道は開けないということか。
◎週刊朝日、9月19日号 掲載

道は、ひらける石井米雄 著

中退してでも学ぶ意志持続
「タイを低く見る日本人は傲慢」

 タイ学にいそしんでざっと五十年。日本のタイ学の第一人者であり、文化功労者でもある石井さんが「中退に次ぐ中退の人生だった」と若い時に自分が道草を食った体験を、たんたんと綴った。説教調の処世訓ではない、自叙伝風の爽やかなエッセイ集だ。
 今の世の中、競争に打ち勝ち、無駄なく人生を一直線に急ぐのが潮流だが、「まわり道でもいいじゃないか」という石井さんの生き方には、どこかほっとさせられる。
 新橋生まれ。幼いころ父が死に母親に育てられた。兄一人、姉一人の末っ子だ。
 「母親は大変な楽観主義者だった。私もその影響を大いに受けている」
 終戦後、サイパンで玉砕したはずの長兄が米国の捕虜収容所から戻って来た。シベリアの抑留所にいた将校の次兄も戻って来た。そんな時代、石井少年は鉱石や真空管のラジオを組み立てた。頭は理科系で、デカルトの「明晰判断」の哲学に大いに魅惑された。早稲田の旧制の理科に進学したが、いかんせん数学が不得意だった。講義をさぼり、言語学がやりたくて文学部に転部した。
 だが、そこに言語学の講座はなく、東工大の言語学者の研究者に研究室に入り浸った。そして早稲田を中退し、タイ語を学ぶため東京外大を受験して入学した。ところが当時の外大には現地でタイ語を学んだ人がほとんどおらず、外務省の留学生になってタイに行くのが近道と思い、そのため外務書記試験を受け、採用された。東京外大も中退した。タイ語研究のためには形式や見栄、外聞にこだわらない。
 もともとなぜタイ語を勉強する気になったのか――。
 「言語学を学びたくてフランス、イタリア、ラテン、ギリシャ語などを次々とかじった。ある日、尊敬する恩師に、人のやっていないアジアの言語を学んだらどうか、と助言された。そこで複雑な文字のタイ語に挑戦した」
 語学を学ぶということは、
 「水をザルですくうようなことに似通っている。ザルから水は漏れる。でも何度も何度もすくう努力が必要だ」
 一度で外国語は覚えられるものではない。忘れてもこりずに辞書を引く。忘れるのを恥と思えば、忘れなくなる。
 「語学をやるには強い動機づけが必要。単なる興味か趣味の気持ちでは学べない」  意志の持続こそ学問を続ける基盤でもあるという信念を持つ。この半世紀、「あなたのような人がなぜタイ語をやるのか」「タイから学ぶものはあるのか」という質問をずっと受けてきた。
 「欧米の言語をやれば、こういう問いはしないだろう。タイの言語や文化を低く見る日本人はアロガント(傲慢)だ。アジアに対する認識の低さには幻滅しっぱなしです」  アジアは重要と、建前では言われる。だが、日本人は欧米崇拝から脱していない。タイを下に見る日本人が多い。しかし、外交ひとつとっても、日本よりずっとうまいと指摘する。
「主権・独立を守るために武力ではない外交の力で列強の植民地にもならず生き抜いて来たタイの知恵を、日本人は謙虚に学ばねばなりません」
 外務省からバンコク派遣中に三ヵ月の出家体験をした。
 「人間の力を超えた存在に目を向けるようになりました」
 十九世紀以降、人間は近代科学思想を背景に文明の前進、前進できた。
 「でも人間はそんなに利口ではない。孫悟空がお釈迦様の手の上で踊っているのと同じです。人間は謙虚にならねばいかん。僧院で肌身で学んだことです」
                            朝日新聞アジア総局長
                                   宇佐波雄策
◎エコノミスト、2003年9月23日号 榊原英資の「通説を疑え」掲載

道は、ひらける石井米雄 著

情熱をもって、その国とつきあう
 石井米雄『道は、ひらける』(めこん、1200円)は、東南アジア史、特にタイ研究の第一人者の自伝的メモワール。著者は現在、神田外語大学長やアジア歴史資料センター長などを務める。
 著者は「これから人生をスタートしようとしている若者」のためにこの本を書いたという。しかし、若者だけではなく多くのサラリーマンや役人にも読んでもらいたい本である。
 石井は、いくつかのまわり道をしながら自分の好きな研究に一筋打ち込み、地位や名誉などを追い求めず、淡々としかも研究を楽しみながら、今までだれも極めなかった高みに達している。
 タイに外務省から留学していた時、石井はバンコクのワット・ボーウォンという寺院で出家している。そしてそこの僧坊で3カ月生活しているのである。
 タイ人は同じ寺での出家経験者に、日本の旧制高校の寮生が持つような親近感を持つという。実は、石井が生活したワット・ボーウォンのカナ・キオという僧坊は、現タイ国王が出家した隣の僧坊で、石井は国王の2年後輩だという。こんなこともあって、石井はタイ王室と極めて親しい。日本人でこれだけの人的ネットワークを東南アジアに持っている人はほとんどいない。それというのも、人と違うことをするのを恐れずに自分の信じる道を一筋に進んできたからできたのだろう。
 石井は実は、外務省のいわゆるノンキャリだったことがある。外務省のノンキャリというと、機密費横領で逮捕された松尾克俊・元外務省要人外国訪問支援室長などを思い浮かべて印象があまりよくないが、石井のように、その国が好きで学者になることを目的に専門知識を磨いている人たちが少なからずいる。アジアやアラブ諸国などで本当に活躍しているのは、キャリアの大使や公使ではなく、石井のように情熱をもってその国と一生つきあっていこうという専門家たちであることが多い。
 外務省改革が話題になり始めた時、まず評者の頭によぎったのは、石井のような人をタイ大使にできる国に日本をしたいということだった。日本はいつまで、赴任してもその国の言葉ができないような大使をアジアやアラブ諸国に送り続けるのだろうか。(慶應義塾大学教授)

◎クロワッサン、11月25日号 書評欄掲載

イスラーム教徒の言い分ハッジ・アマハド・鈴木 著

 
 本の帯に「あなたの理解は正しいだろうか」とある。読後はこう答えざるを得ない。
 「知らないことが多過ぎた」と。父親がイスラム教徒だった著者はエジプトの大学でイスラーム学を専攻し、商社マンとして中東に20年滞在した日本人である。
 9・11以後の世界理解に必要な知識なのに、大量の報道があるのに、「良く分からない」ままになっていないだろうか、彼らの考え方が。本書にはイスラームの歴史、常識、イスラーム教徒の生活が丁寧にわかりやすく書かれている。いくつもの誤解を訂正し、少しずつ理解することからしか、なにも始まらない。
◎東京新聞 1月30日、中日新聞2月3日掲載

ミャンマー東西南北・辺境の旅伊藤京子著

-シンプルな暮らしの美しさ-

 
 八年前の秋に、巣鴨で行なわれたミャンマー(旧ビルマ)の伝統行事「火祭り」に足を運んだことが、私とこの国との出会いでした。その日から一年後には祭りで会った男性と結婚し、ヤンゴンで暮らし始めました。
 日本の約二倍の国土を持つミャンマーは、インド、中国など五つの国に囲まれ、ビルマ族をはじめ百三十以上の民族が共生しており、特色のある風習、食物があり、豊かな人間模様が見られます。本著では各地の景観や歴史、見所、そして地元の人の素顔や声を盛り込みました。
 国民の九割近くが仏教徒の国ですから、いたるところにパゴダや仏像があります。旅行者の間でよく話題になるのはアイメイクを施し、紅をさしたような派手な御尊顔。あるときその表情に吹き出した私にビルマ族の友人が「顔かたちが問題じゃない。仏像があることで、仏陀の教えを常に忘れずにいられることが大切なんだ」とぽつり。真剣で深い信仰に比べ、うわべばかりに捕らわれていた自分が情けなくなりました。
  また、「ミャンマーに地震などの大災害がないのはみんなが仏教を信じているから。貧しいけど心は豊かでいられ、仕事はなくても豊穣な大地に食物が実り、生きられる。すべて仏様のおかげ」と聞き、信仰の強さに感服。行く先々で「仏陀の力だ」という信じがたい出来事を見せられ、大勢の真摯な祈りが、確かに不思議な現象を起こすのかもしれないと、思わずにいられなくなりました。
 ミャンマーを旅すると、仏教の教えを支えとした穏やかで温かいもてなしに触れ、この国の虜になります。私も東京の一人暮らしから一転し、質素で堅実な生活や思いやりのある人づき合いがくり返される日常に身を置き、考え方や心持ちが軌道修正されていきました。
 もちろんちょっとしたズレもありました。たとえばある日ゴミに出すため用意しておいた二つの袋を義母が一袋にまとめ、空いた袋を流し台に戻しました。捨てたはずの紙切れが火鉢の火種に使われていたことも。お義母さんにゴミを選り分けされてしまったショックと、プライバシーの侵害だとか理由をつけて夫に訴えました。でも、「モノを無駄にしないだけじゃない?」と一笑されて終わり。
  ミャンマーには「中国人のごとく働き、インド人のごとく節約しなさい。でもビルマ人のようにお金をつかいなさんな」ということわざがあります(質素な暮らしでありながら気前がいいため、こう言われるのだとか)。これが在日の間では「日本人のごとく働きなさい。でも日本人のように浪費しなさんな」ともじって言われています。私は、テレビに埃避けのカバーをかけ、公告の裏面をメモに使っていたようなひと昔前の日本の慎ましい生活を忘れた、浪費する日本人だったのです。
  楽しみといえばパゴダに行ったり、親類や近所の家を訪ねたり、ときどき町に買い物に行くことだったりするささやかな生活。テレビがなくても家には馴染みの顔が出入りして活気があり、情報は口伝いでキャッチ。冷蔵庫がなくても、毎朝新鮮な食材が市場に山と並ぶのですから困りません。服は一着一着体に合わせたていねいな手作り。香水はなくてもジャスミンの花輪でまとめ髪を飾る人たち…。余計なモノにわずらわされない、シンプルな暮らしの美しさがミャンマーにはあります。その中で人々は、先人の教えに心を寄せ、人と関りながら自然体で、伸びやかに暮らしているのです。
◎信濃毎日新聞、2002年6月23日掲載

<マレーシア凛凛伴 美喜子著

『マレーシア凛凛』

 
日本をみつめる鏡として、在マレーシア十年の筆者が描くエッセー集。若いアジアの国が宿命として背負う多民族社会の風景を「暦が持つリズム」「マルチ言語」といった独特の切り口で読み解く。  
昨年九月の米中枢同時テロ以降、「文明の衝突」的世界観が広がる中で、マレーシアはムスリムと華人、インド人がそれぞれの文化を調和させながら、グローバリズムにも対応して平和と成長を維持してきた。そんな生き方に「凛」という漢字を当てはめた著者の思いが共感を呼ぶ。
◎朝日新聞埼玉版、2002年1月22日掲載。

<あぶない野菜大野和興・西沢江美子著

『あぶない野菜』

 「輸入野菜増加。危ないぞ日本の農業」
 秩父市内の農業ジャーナリスト夫妻が「あぶない野菜」という本を出版した。加工野菜に輸入ものが予想以上に進出している事実を指摘し、「工業の空洞化と同じ。国内産の野菜を食べ支えないと、日本の農業はあと10年で消滅する」と警告している。
 大野和興さん(61)と西沢江美子さん(61)。2人は農業紙の記者をへて、執筆や農村支援活動をしている。「あぶない野菜」は、台所の常連野菜21種を取り上げ、生産の現状と買い求めるこつなどを紹介した。
  執筆中の昨年4月には、中国からのネギと生シイタケに緊急輸入制限措置の暫定発動という事態にも遭遇した。
 「シイタケは60年代、数少ない輸出農産物で山村経済の柱だった」。90年代になって輸入が急増し、2000年には国内消費の4割を占めた。
 ネギの輸入は98年年以降の伸びが著しい。「国内の不作をきっかけに一時避難として輸入され、そのまま増え続けた」。ほとんどが中国産だ。
 深谷市や群馬県下仁田町周辺のネギ産地を取材した西沢さんは「中国の労賃は日本の40分の1、生産コストは13分の1。産地の山東省を訪れた農民は『機械化が進み、辺り一帯はネギばかり。とてもかなわない』とあきらめ気味だった」と振り返る。
 生産から販売までの仕組みを調べた大野さんは、日本の商社とスーパーが種子と技術を中国に持ち込み、採れた野菜を日本で売るという図式を確認。「野菜のユニクロ化現象です。中国の産地は日本経済に組み込まれている」と懸念する。輸入野菜の4分の3は冷凍や乾燥、塩蔵などの加工品で、弁当や外食にも利用されているという。
 輸入の過程で栄養が落ちないかも気にかかる。遠くから運べば、栄養分が落ちるか、鮮度を保つためにエネルギーや化学薬品に頼ることになる、というのだ。
 全国各地の農民と交流がある2人は「大規模生産・高収益より、消費者と顔の見える関係づくりを重視する農民が増えている」という明るい話題も紹介している。


◎『農業共済新聞』2001年1月16日掲載。

「自著を語る」大野和興
  人々の食べ方が変われば、いま困難の極みにある日本の農業のかなりの部分が解決ないし改善されるはずである。そうした思いを込めて、野菜の現場を追ってみた。
 本書は三部から成っている。第一部は輸入物に相当部分を占められてしまっている野菜を二十一品目選び、現状や問題点そしてなにより消費者が安全で確かな野菜を手に入れ、おいしく食べるにはどうすればいいか品目ごとに紹介した。
 第二部は、野菜輸入背景に迫った。なぜ洪水のような野菜輸入が起こったのか、その仕組みは、主役は誰で、誰が得をしているのか。中国や韓国の野菜農民の実情にもふれながら、商社や食品企業が仕組む開発野菜の実態と構造を分析した。第三部では、ではどうすれば消費者はおいしくて安全な野菜を食べられるのかを、生産、流通、食べ方のそれぞれの側面から考えてみた。
  結論は、それぞれの人が住む地域の風土に即して育てられた野菜こそが、おいしく安心して食べられるということであった。そのためには野菜の生産、流通、消費、国際交易のあり方を、これまでとは別の形に組み替える必要がある。そのためのいくつかの提言をおこない、最後に消費者が「確かな野菜を手に入れるため」の手引きをつけた。
◎信濃毎日新聞他、2001年12月9日掲載。

フィリピンで働く 日刊マニラ新聞編

『フィリピンで働く』

 フィリピンに渡航する日本人が、最近増えている。日本が失った心の豊かさに、引かれる人が多いようだ。同書はそこを生活の場として選んだ人々をマニラの邦字紙の記者がインタビューした本。この国の何が人を引きつけるのかを問う。
 すし職人、ホテルウーマン、日本アニメの翻訳者…。共通するのは、生活習慣の違いにとまどいながらも、この国で生きることを選択した彼らの、フィリピンに寄せる思いの強さだ。巻末にはフィリピンに移住するためのノウハウも詳述される。

◎旅の広場9月号 「ブックレビュー」掲載。

東南アジアの遺跡を歩く 高杉等著

─アジア、その広くて深い懐─

『東南アジアの遺跡を歩く』

 カンボジアの政情が安定に向かい始めた94年、アンコール遺跡を訪れた。 青い空、うっそうと茂る緑、そして赤土色の道路が不思議なほど美しく調和する中、車は カンボジアの政情が安定に向かい始めた94年、アンコール遺跡を訪れた。 青い空、うっそうと茂る緑、そして赤土色の道路が不思議なほど美しく調和する中、車は進んで行く。 と、突然、何の前触れもなくアンコール・ワットが姿を現した。 それは、でき過ぎの演出と勘ぐってしまうほど、感動的な光景だった。
 遺跡を歩いた二日間は、至福の一言に尽きた。 菩薩像の静かな微笑み、女神の妖艶なる肢体、木々に呑み込まれ、崩壊しつつあるその一瞬。 その全てに心は揺すぶられ、感動に満たされた。 そして歩き疲れ塔の上で休むと、眼下には遠く樹海が広がるのである。
 今、多くの旅人がアジアに注目している。それは著者が語るように「ヨーロッパの秩序美、徹底した保護保存とは異なった、途上国の混沌、適度に放置された遺跡の魅力……(後略)」に満ちているからだろう。
 本書は、アンコールはもとより、東北タイやスコータイ、南ラオス、チャンパ、パガン、そしてジャワまで「……廃墟を想わせる朽ち果てつつある遺跡」(筆者)を広く網羅した、まさに遺跡ガイドである。主観や美辞麗句をほぼ排し、写真と事実に徹したその姿勢からは、だからこそ読みとれる遺跡への敬意がある。ページを繰っていると、アジア通ならずとも遺跡を見にいきたくなる、そんな一冊である。

◎中国新聞、2001年4月27日(金)「時の人」掲載。

染織列島 インドネシア 渡辺万知子著

─28年の手探りの旅結実─

『染織列島 インドネシア』

 織物会社のデザイナーとして5年間働き、「量産競争に疲れアイデアも枯渇した」1972年、インドネシア行きを誘われる。
 目指すはバリ島の東方約300キロのスンバ島。探検さながらの初訪問で「住民が自分の家族に着せるためイカット(かすり織物)を楽しんで作っている」のに触れ、吹っ切れた。
 糸紡ぎから染めまで「自分の責任で物作りがしたい」と会社を辞め、染織作家への道を歩み出す。それから毎年夏の1ヶ月間、インドネシア各地の染織行脚を続けている。
 現代文明と隔絶した奥地の村への”手探りの旅を「苦に感じたことは一度もない」しなやかな心と強靭な身体の持ち主。60歳には見えない。
 中国で44年に戦病死した父親は、ジャワ行きを宿願にするろう染め作家だった。その父が戦前スンバ島のイカット紹介の雑誌記事を書いていることを、」インドネシアに通い出してから知ったという。
 一年中、バティック(ジャワさらさ)やイカットを着て過ごす。しかし、柔らかで自然な¥ナぬくもりを伝える個性的な作品からは、インドネシアの影響をほとんどみいだせない。
 このほど28年間にわたる現地探訪を集大成した「染織列島インドネシア」(めこん)を出版。カラー写真60点、白黒写真280点の大作に「作り手の暮らしぶりやその布の背景まで書きこんだ」。
 とっておきの珍体験も満載されている。東京生まれの静岡県沼津育ち。女子美大工芸科卒。

 

ブラザー・エネミー ナヤン・チャンダ著

評者・丹藤佳紀(本社編集委員)

-兄弟を敵にしたインドシナ戦争-

 第一次インドシナ戦争は、仏領インドシナを占領した日本の敗戦直後に独立を宣言したベトナム民主共和国と旧宗主国フランスの間で戦われた。北ベトナムが南部解放を目指した第二次インドシナ戦争では、南ベトナム、次いで北ベトナムが主戦場となり、戦火はカンボジアに拡大した。

 このベトナム戦争の終結とベトナム統一によってインドシナ半島にはようやく本物の平和が訪れるはずだった。しかし、事態はそうは進まなかった。二次にわたる戦争に勝利したベトナムがポル・ポト政権のカンボジアに侵攻し、中国が「懲罰」を掲げてベトナムに攻め込む第三次インドシナ戦争が勃発したのである。

 この戦争は、第一次、第二次のそれとは違って社会主義を名乗る国同士が正面から戦火を交えたという点できわめて特異なものだった。本書は、「サイゴン陥落後のインドシナ」と副題にある通り、新たなインドシナ戦争がなぜ起きたかを徹底した取材と透徹した史観で究明したものである。

 訳者あとがきによれば、書名の「ブラザー・エネミー」とは、敵となった兄弟を意味するフランス語を英語に直訳した著者の造語だという。

 それを書名に据えた本書は、イデオロギーで美しく彩られた上辺の関係の底に黒々と横たわっていた「昨日の同志たち」の歴史的な相克・怨念が噴き出す経過を実証的に描き出した。そういえば、ベトナム国境の中国の町はかつて鎮南関といわれ、中華人民共和国になって友誼関と改称された。しかし、旧称に含まれていた大国と周辺小国の長い複雑な関係までぬぐい去られたわけではなかったのである。

 こうした二国間関係に加え、日中平和友好条約とベトナム=ソ連友好条約の調印、米中国交樹立が新たな戦争の外枠となった事情も詳細に説かれ、分析に広がりをもたらした。大部な「現代の古典」の日本語版を実現した訳者の労を多としたい。友田錫・滝上広水訳。(めこん、4500円)

 ◇ナヤン・チャンダ=インド生まれ。ジャーナリスト。香港の『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』編集長。



●2000年以前書評

【メコン川流域、アジア全域】
アジア動物誌
海が見えるアジア
東南アジアの古美術
チャンパ
母なるメコン、その豊かさを蝕む開発
緑色の野帖
メコン

【タイ】
バンコクの好奇心
バンコクの匂い
まとわりつくタイの音楽
タイの花鳥風月
タイ鉄道旅行
バンコクのかぼちゃ
タイの象
私は娼婦じゃない
バンコク自分探しのリング
タイ人と働く
タイ人たち


【ラオス】
メコンに死す

【ベトナム】
ハノイの憂鬱
ベトナムのこころ
ベトナム革命の内幕
女たちのベトナム
パリ ヴェトナム漂流のエロス
はるか遠い日

【カンボジア】
ポル・ポト伝
カンボジア・僕の戦場日記

【インドネシア】
ワヤンを楽しむ
ハッタ回想録
おいしいバリ
インドネシア全27州の旅
インドネシアのポピュラーカルチャー
日本占領下インドネシア旅芸人の記録
人間の大地
すべての民族の子
足跡
香料諸島綺談
ナガ族の闘いの物語
電報
渇き
カルティニの風景
ジャワの音風景
アルジュナ、ドロップアウト

【フィリピン】
フィリピン・インサイドレポート
七〇年代
仮面の群れ

【ミャンマ】
北ビルマ、いのちの根をたずねて

【台湾】
さよなら再見

【インド】
ペシャワール急行
焼跡の主
マレナード物語
焼身
デリーの詩人


【日本とアジアの関係】
アジア定住
新宿のアジア系外国人
チョプスイ─シンガポールの日本兵たち

[めこん HomePageへ]