【書評再録】

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◎赤旗 2007年11月20日 掲載


ガラスの家


民族独立の苦闘を描く プラムディヤ著ブル島4部作を訳了して 押川典昭

   このたびプラムディヤ・アナンタ・トゥールの小説『ガラスの家』を上梓(じょうし)した。プラムディヤ(一九二五〜二〇〇六)は、アジアでノーベル文学賞にもっとも近いといわれたインドネシアの作家で、『ガラスの家』は、『人間の大地』『すべての民族の子』『足跡』と合わせて四部からなる長編小説の最終巻である。
 スハルト独裁政権下で流刑されていたブル島で書いたことから、「ブル島四部作」とも呼ばれるこの小説は、四十以上の言語に翻訳され、プラムディヤの名を世界に知らしめた彼の代表作である。『人間の大地』の翻訳を出したのが一九八六年だから、二千八百ページをこえる四部作の日本語版の完成まで二十年余を要したことになる。
 小説の舞台は、植民地支配下にあったオランダ領東インド(現在のインドネシア)、とくにその中心地であるジャワ島。時代は、十九世紀末から二十世紀初め。十七世紀に始まるオランダの支配が完成に近づきつつあったこのころ、西洋のさまざまな技術と制度が導入され、東インドは新しい時代を迎えていた。そして東インドの外では、日本が日清・日露の戦争をへて欧米列強のあとを追い、フィリピンがスペインからの独立を宣言し、中国が辛亥革命にむかうなど、アジアが大きく揺れ動いていた。
 全編を通しての主人公は、ジャワ貴族出身の青年ミンケ。エリート意識と上昇志向の強かった彼が、さまざまな経験をへて植民地支配の不条理と民族意識に目覚め、インドネシア人による初のマライ語新聞を発行し、近代的な運動組織「イスラム同盟」を結成するまでの苦闘にみちた歩みが、激動するアジア史を背景として骨太に描かれる。
 それだけであれば定型的なナショナリズムの物語にとどまるが、この小説が卓抜なのは、植民地征服戦争の傭兵(ようへい)として片足を失ったフランス人画家、日本人娼婦、清朝の打倒をめざして東インドに潜入した中国人の若い男女、ミンケの活動を支援するオランダ人弁護士やジャーナリスト、またミンケの成長に大きな精神的影響を与える義母など、主人公のまわりに多彩なエピソードをもつ脇役を配し、それらのエピソードとミンケの物語が絡み合いながら大河小説を構成していくところにある。
 もうひとつ、この四部作には大きな仕掛けがほどこされている。語り手の変更がそれだ。第一部『人間の大地』から第三部『足跡』までは、主人公のミンケが、ナショナリストへ成長し運動を率いていく過程を、みずからの体験を通して語る構造になっている。これは反植民地運動を、当事者の視点で、内側から描いたものといえる。
 これに対して、第四部『ガラスの家』では、治安対策を担当する現地人の高級官僚が、どのようにして同胞の運動をコントロールし、弾圧しようとしたかが、彼自身の悔悟にみちた日記を通して語られる。
 題名の『ガラスの家』は、植民地東インドで、ナショナリズム運動にかかわる者たちを監視する体制の隠喩(いんゆ)である。彼らが、いつ、どこで、だれと会い、どんなことをしゃべり、どんなことを書き、さらにはどんなことを考え、企図しているかが、ガラスの家を透視するように、なかの住人(ナショナリスト)たちの気づかぬうちに把握される、それが「ガラスの家」の意味だ。
 そしてその暗喩は、時代をこえて、警察国家ともいうべきスハルト体制下での住民監視システムを撃つものでもあった。スハルト政権が、四部作を発禁とし、国民が小説を所持することじたいを処罰の対象としたのは、そうした批判の射程をもつ四部作の影響力を恐れたためである。
 この小説は、長大な物語であるだけでなく、歴史とは何か、たたかうとはどういうことか、原則をもって生きるとはどういうことか、を問いかける歯ごたえのある作品である。これを読み通すにはそれなりの根気と咀嚼(そしゃく)力が必要だろうが、かつて植民地であったアジアの国と民族が、どのような苦闘をへて独立に至ったかを知るためにも、四部作の日本語版が完成したこの機会にぜひ読んでいただきたいと思う。

 


◎毎日新聞 2007年10月14日 掲載


ガラスの家


プラムディヤ・アナンタ・トゥール 押川典昭訳

 大河小説という用語を提唱したのはロマン・ロランらしい。だから彼の『ジャン・クリストフ』がその典型。あるいはロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』。一人ないし一群の人々の運命を何十年にも亘って追う、一定の社会性を帯びた、長い小説。
 インドネシアの作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールの『ガラスの家』の訳が刊行された。七百ページの分厚い本であり、全四巻からなる長大な連作小説の完結編である。全体として正に大河小説だ。
 時代は十九世紀末から二十世紀の初頭まで。舞台はオランダの植民地であった東インド、現在のインドネシアである。植民地支配の圧政の中からゆっくりと独立の機運が生まれる。ジャワをはじめとする無数の島々、マライ語をはじめとする多くの言語、イスラムをはじめとするいくつもの宗教、それらの中から遠い将来の国の像がおぼろに見えてくる。
 『ガラスの家』に先立つ三巻、『人間の大地』、『すべての民族の子』、『足跡』は、オランダへの反抗を通じて国家形成への道を探る思想的な英雄ミンケの半生を辿る物語だった。
 彼は医学を修めながらも文筆で立ち、自分たちが置かれた状況を観察し、分析し、マライ語による初の新聞「メダン」を発行する。その先にあるのは思想を社会的な運動に換えるための組織作りだ。オランダに対抗するのにまず必要なのは「自分たち」の意識である。多様で混乱した地域性の中にいかにして統一の原理を見いだすか。
 かくてミンケは中国の孫文、フィリピンならばホセ・リサールに当たる指導者となってゆく。注目すべきは彼を助ける女たちの力だ。恋人や妻や義母。それぞれがオランダ人との混血であったり、中国系であったり、小さな島の王国の王女であったり。
 前三作と異なって『ガラスの家』はミンケの活動を妨害する立場の人物を語り手にする。オランダ人でも混血でもない生粋のプリブミ(原住民)でありながら、優秀な警察官僚として出世した彼パンゲマナンは、やがて総督府直属の分析官として独立運動の芽を摘みとる役割に就く。「ガラスの家」とは彼が構築した反政府運動監視システムのことだ。 しかし彼は仇敵として自分の前に立ち現れたミンケの思想と生きかたと勇気を心から尊敬している。彼はこの矛盾を生きるしかない。自分の立場に苦悩しながら、ミンケを政治犯として離島に流す。そして、原住民として栄達を極めたにも拘わらず、最後にはすべてを失う。
 大河小説が河であるならば、河口に近いあたりには海から潮が上がる。ミンケの淡水の奔流に抗する塩水域がパンゲマナンの役割なのだろう。
 小説としてのからくりに一工夫ある。前三作はミンケが書いた自伝的なノートという体裁であった。それを没収したパンゲマナンは自らも似たようなノートを執筆し(それが『ガラスの家』)、最期にすべてをミンケの遺族の手に渡す。それがこの四巻のテクストとして残った。
 インドネシアが国として独立するまでには、ミンケたちの時代からまだ三十年以上の歳月が必要だった。その過程には日本も深く関わった。
 作者プラムディヤ・アナンタ・トゥールはスハルト政権によって投獄され、流刑先で艱難辛苦の中でこの四部作を書いた。何度となくノーベル文学賞の候補になりながら、受賞することなく去年亡くなった。「これを読め」と指さすことが文学賞の役割であるとしたら、ノーベル賞は時期を逸したとぼくは思う。

池澤夏樹

出典 カフェインパラ


◎2007年10月5日発行 「週刊金曜日」No673 掲載


ガラスの家


プラムディヤ・アナンタ・トゥール/ 押川典昭訳

いまだ解除されない発禁処分を超えて

 現代インドネシア文学を代表する作家であるプラムディヤ・アナンタ・トゥールが、ブル島の流刑地政治犯収容所で書き上げた長編歴史小説、いわゆる「ブル島四部作」の日本語訳がついに完結した。押川典昭氏による二〇年あまりにおよぶ訳業によって、『人間の大地』『すべての民族の子』『足跡』『ガラスの家』という、疑いなく二〇世紀文学の金字塔のひとつがこうして私たち日本語読者にとって共有できるものとなったことを心から喜びたい。とくに待ちに待ったこの最終巻は、私のようにインドネシア語を解しない者にとっては、きわめて不十分とされている英語訳でしか読めないものだったから、インドネシア語版のさまざまな誤りをふくめて綿密な校訂作業を経た今回の日本語訳の出版は、今年最大の収穫のひとつといって間違いない。
 一九二五年オランダ植民地下で中部ジャワに生まれたプラムディヤは、独立をめざすインドネシアのナショナリズム運動の高揚期のなかで育つ。しかし六五年の「九月三〇日事件」に続く共産党弾圧の嵐のなかで逮捕され、六九年から七九年までバンダ海に浮かぶブル島で流刑生活を送る。その監獄生活のあいだ、以前に収集していた資料や記録を記憶からフィクションとして創作し、まず他の流刑者たちに口述、さらにそれを筆記する形で完成したのが、この「ブル島四部作」なのである。こうした過程を思うとき、私たちはそこに「創造の奇跡」というだけではとうてい足りない、政治犯たちが民衆の記憶を分有するために共同で物語をつくりだす有様に深い感動を覚えないだろうか。

 前三作では、主人公のミンケがニャイ・オントソロのような女性たちに囲まれながら人間としての成長をかさね、インドネシアのナショナリズム運動を牽引していく様子が、まさに大河教養小説として雄渾(ゆうこん)に活写されていた。だが驚くべきことにこの第四部『ガラスの家』では、語り手がナショナリズム運動を監視する現地民官僚パンゲマナンに替わり、その手記によってミンケたちの活動が綴られるという視点の転換が図られるのだ。こうして私たちは、これまで登場人物たちに寄り添いながら読んできた三部の小説が、パンゲマナンの代表する警察国家の官僚機構によって保管され評価される資料であったという冷徹な歴史的事実の前に立たされる。ここに二〇世紀に数々の独裁政権下で実施された住民監視システムの隠喩や、さらには現在の私たち自身が置かれた「テロとの戦争」以降のネオリベラルな自己管理体制への視野を読みこむこともできるだろう。
 八〇年から出版されはじめた「ブル島四部作」はベストセラーとなるが、それは発売一〇カ月で発禁となり、スハルト独裁体制が崩壊して一〇年たった現在も発禁処分は公式には解除されていないという。しかし人びとはインドネシア国内でも国外でもさまざまな手段でこの小説を回覧し、読み続けてきた。現在こうして私たち日本語読者が手にすることのできるプラムディヤ畢生(ひっせい)の大作は、二〇〇六年に亡くなった彼の文学的遺産というに留まらず、国家権力という関係性の内部で私たち個人が社会のためにどのような実践をなしうるか、ナショナリズムを排外主義に陥らない連帯の思想としてどう構想するか、という永遠にして現在の問いをくりかえし提起してやまない。

本橋哲也/東京経済大学教授


◎2007年9月29日 「じゃかるた新聞」(インドネシアの邦字紙) 掲載


ガラスの家


プラムディヤ・アナンタ・トゥール/ 押川典昭訳

最終巻『ガラスの家』邦訳が出版
 翻訳した押川典昭教授に聞く   文豪プラムディヤ氏ブル島4部作


 ノーベル文学賞候補に名前が挙がりながら、昨年死去したインドネシアを代表する作家プラムディヤ・アナンタ・トゥール氏の代表作、大河歴史小説四部作の最終巻『ガラスの家』の日本語訳が8月、大東文化大の押川典昭教授の翻訳で出版された。インドネシア人の民族意識の芽生えを描いた四部作は、同氏が共産党のクーデター未遂とされる1965年の九・三〇事件で政治犯として逮捕され、79年まで過ごした流刑地ブル島で同房の政治犯に語り聞かせて完成させた。四部作はスハルト政権が発禁処分とし、現在もその処分は解けていないが世界30カ国以上で翻訳された。83年に第一部「人間の大地」の翻訳を開始して以来、20年余りにわたり四部作翻訳に携わった押川教授に聞いた。

 ─『ガラスの家』日本語訳が先月、出版に至った際のお気持ちは。
 ◆押川教授 何より読者への約束を果たせてホッとしている。『人間の大地』は、東南アジアの文学書としては異例なほど多くの読者を得たが、四部作の完成を待っていてくださった多くの読者の期待に何とかこたえられて、今は安堵感が大きい。

 ─主人公が代わる『ガラスの家』の魅力とプラムディヤ氏が作品に込めたメッセージは何でしょうか。
 ◆一─三巻と最終巻の構成の違いは、読者にとって予想外の驚きだろうが、四部作に深みと厚みを与えているのはこの主人公の交代だと思う。もちろん、全巻を通してみれば、ミンケが主人公であるのは疑いなく、ナショナリズムの芽生えを描くことが小説のテーマだろう。
 そのナショナリズムを、運動の当事者たるミンケの視点からだけでなく、それを破壊しようとしたパンゲマナンの悔悟に満ちた(おそらく彼は死を意識している)日記を通して語らせる、いわば「末期(まつご)の眼」を導入したところに、小説家としてのプラムディヤの卓抜さとこの物語の面白さがある。
 そして同時に、パンゲマナンと、たとえばスハルト体制下の治安維持の立役者アリ・ムルトポ(彼とプラムディヤとミンケ=ティルトアディスルヨはブロラ生まれの同郷)が容易に二重写しになることで、この小説は抑圧的なスハルト体制への批判の書ともなり得ている。
 全巻を通してみれば、「われわれはどこから来て、どこに立っているのか」と問いかけながら、インドネシアの曙の時代を生きた人々の歩みを、そのなまなましい息遣いが聞こえるように書き留めること(彼自身の言葉を使えばmendokumentasikan)、それがプラムディヤの意図だろうと思う。
 それを実現するために、ミンケの物語に、例えばニャイ・オントソロ、コンメル、スラティ、ジャン・マレ、安山梅、スールホフ、リエンチェ・ド・ロオ、そしてパンゲマナンといった多彩な人物の物語を縦横に組み込み、それらが一体となって大河をなすような小説を作り上げたところに、作家プラムディヤのすごさがある。

 ─四部作の翻訳に携わった経緯は。
 ◆インドネシアの文学作品が日本語に翻訳されて本格的に紹介されるようになったのは一九八〇年前後からだが、私が最初に手掛けた小説の翻訳はモフタル・ルビスの『果てしなき道』で、一九八〇年八月に第一版が出ている。こうした文学作品の翻訳出版を可能にしたのは、「売れないアジア物」を粘り強く出してきた小規模ながら志の高い出版社と、それに助成を行なう財団の存在だった。
 その助成事業のひとつにトヨタ財団の「隣人をよく知ろう」プログラムというのがあって、インドネシアを含む東南アジアの文学作品の翻訳出版を支援していた。
 このプログラムでは、翻訳すべき作品のリストがインドネシアと日本の専門家が加わった選定委員会であらかじめ作成され、そのリストから出したい作品を出版社が選ぶことになっていて、たまたまリストにあったプラムディヤの小説『ゲリラの家族』を出版社の「めこん」が選んで、その翻訳を私に依頼してきた。『ゲリラの家族』の日本語版は一九八三年五月に出版されたが、めこんと私の間でその後も引き続いてプラムディヤの作品を紹介しようということになり、四部作の翻訳が始まった。
 ただ当時は、この長編小説に対する評価は高かったものの、最終巻『ガラスの家』のインドネシア語版は未刊で、四部作すべてを出版できるという確たる見通しがあったわけではない。いずれにせよ、私が四部作の翻訳に携わることになったのは、日本における東南アジア文学の本格的な翻訳紹介という大きな流れの中でのことだ。
 『人間の大地』の翻訳にいつ取り掛かったのか、作業を記録しておく翻訳ノートがどこかに紛れて見当たらないので正確なことは分からないが、翻訳には一年以上かかったはずだから、『ゲリラの家族』が出版された一九八三年の夏以降のことではないかと思う。

 ─二十年余りにわたる翻訳作業で苦労は。
 ◆プラムディヤの文章は他の作家と比べて、けっして読みやすいものではない。しかも、四部作はブル島の流刑地で参照すべき文献もなく、劣悪な条件下で書かれたという事情もあって、厳密な校閲がなされておらず、流布しているインドネシア語版そのものに過ちが多いため、翻訳のテクストを確定させるのに相当な時間がかかった。
 また、十九世紀末から二十世紀初めのオランダ領東インドが舞台なので、その時代の風俗や習慣などついての考証も必要だった。
 翻訳作業については、「二十年余りをかけて完成させた」といえばそれ自体が物語として語られそうだが、現実はそんな劇的なものではなく、ただ自分自身の怠けぐせと戦いながら根気の求められる作業だった。「あの文はどう訳そうか」といったことは四六時中頭の中にあって考えていたが、毎日決まった分量を訳すというのではなく、休みのときに一日十二時間くらい集中的に作業をした。
 翻訳で心掛けたことは、いかに読みやすい訳文にするか、ということ。このため、訳した文章は何度も音読し、耳からスムースに入ってこられるような文章にすることに留意した。

 ─昨年死去されたプラムディヤ氏にはどのような言葉をかけますか。
 ◆彼が生きているうちに日本語版の完成を報告できなかったことは残念だが、今はただ「ありがとう」と言いたい。このような小説の翻訳に携わることができたことを、心から感謝している。

大東文化大でプラムディヤ氏関連の書物を背に押川教授=2006年6月



黎明期の民族主義を描く

 評・高地薫(JICA専門家)

 プラムディヤの『ガラスの家』(原題:Rumah Kaca)の邦訳がようやく出版された。インドネシア研究者として、それ以上にプラムディヤの一愛読者としてこの上ない喜びである。
 本書は、プラムディヤの代表作いわゆる「ブル島四部作」の最終部であり、これでその全てが邦訳されたことになる。前三作、『人間の大地』(一九八〇、邦訳一九八六)、『すべての民族の子』(一九八〇、邦訳一九八六)、『足跡』(一九八五、邦訳一九九八)は、二十世紀初頭に出現した黎明期インドネシア民族主義の活動家を描いた大河小説である。しかし、ブル島四部作を単なる優れた歴史小説に留まらせず、世界的文学に高めているのはこの最終部に他ならない。
 この四部作を通じた主人公は、ミンケと呼ばれるジャワ貴族である。第三部までは彼自身が語り手となり、原住民、オランダ人、中国人など様々な人間との交流、友情、対立を経て、植民地社会とジャワの封建的社会の矛盾に目覚め、インドネシア民族主義を発展させ、その運動を組織していく過程を描く。とりわけ、ミンケに封建制にもとづいた貴族の誇りではなく、支配者オランダ人と対等に渡り合う原住民の誇りを教えたオランダ人現地妻(ニャイ)ニャイ・オントロソは、この物語の影の主人公となっている。
 この物語を通じて、ミンケは三人の女性と結婚する。一人目は、ニャイ・オントロソの娘で欧亜混血児のアンネリース、二人目は中国国民党活動家(ミンケと友情を結んだ)であるフィアンセと死別しその遺志を継いだ安山梅、そしてジャワ人ではない原住民、プリンセス・カシルタである。この三度の結婚は、西洋、目覚めつつある東洋、そして同胞である東インド原住民(後のインドネシア人)との出会いと合一を象徴していよう。そして、彼らは、これらの結婚から子どもを授からなかったが、原住民の覚醒、インドネシア民族主義こそが彼ら全員の子どもであり、その子どもは親の手を離れ大きく成長していくことになる。
 さて、この最終部では、突如語り手が植民地政庁の原住民治安担当分析官パンゲナマンに代わり、この大河小説のカラクリが明らかにされる。
 まず前三部自体が、ミンケが著したものの当局に押収された原稿を、パンゲナマンが手元に置いたものである。第四部はパンゲナマン自身の手によるもので、その全てはミンケの死後、ニャイ・オントロソに送られたものである。
 第二に、それらに描かれるミンケの動きそのものが、植民地当局の(時として事後的な)観察・調査の対象であり、すべてが「筒抜け」だったことが、暴露される。つまり、ミンケを代表とする黎明期の民族主義者たちは、外(当局)から丸見えの「ガラスの家」に住まう人々だったのである。
 このような監視システムが東インドで完成したのは、実は一九三〇年前後である。このシステムは、植民地当局というよりはスハルト新体制下における住民監視システムの寓意とも読める。スハルト体制がプラムディヤの著作を発禁処分にしたのは、マルクス主義の流布という表向きの理由でも、あるいは単なる嫌がらせでもなく、おそらくは自らの体制の「秘密」が明らかにされているからとも考えられるのである。
 最終部には、語り手であるパンゲナマンの人生も織り込まれていく。プラムディヤは、彼を単に冷酷な諜報専門家として描きはせず、彼自身の成功した植民地官僚としての自負と誇り、観察あるいは操作対象であるミンケへの敬意と優越感、気性の激しいプリンセス・カシルタへの怖れ、そして自分の人生への疑問をない混ぜにした極めて複雑な心理的動きを描いている。
 そして、彼は家庭人としては失敗して妻子に去られるのだが、これはお互いを信頼し合い、民族意識という子供を育んだミンケと三人の妻たちの関係と著しい対照を為す。そして、「敗者」として自らの人生を悔悟し、贖罪の意識をもってニャイ・オントロソにこの物語りの原稿を送ったのである。
 ブル島四部作における『ガラスの家』の位置付けは特殊であり、また前三部を前提としないと分かりずらい面もあるものの、これこそがブル島四部作を非凡な作品としているのである。前作の翻訳から九年もの時間が経ってしまったため、前作を読んでいない方だけでなく、読んだことがある方も再度、この四部作完訳を期に是非、第一部から通して読み、プラムディヤの世界を堪能し、またこの名作を素晴しい日本語訳で読める僥倖(ぎょうこう)を噛み締めて頂きたい。

◇『ガラスの家』  押川典昭訳、めこん・3500円/Pramoedya Ananta Toer 作家。25年生まれ。昨年4月に死去。

◎2007年8月14日 「北海道新聞」 掲載(ウェブ掲載許諾番号D0708-0711-00003884)


ガラスの家


プラムディヤ・アナンタ・トゥール/ 押川典昭訳

 文学言語生み出したプラムディア

 インドネシアで最もノーベル文学賞に近いと言われた作家プラムディア・アナンタ・トゥール(一九二五?二〇〇六)が亡くなってからすでに一年以上が経つ。代表作である歴史大河小説の四部作の最終巻『ガラスの家』の日本語訳がちょうど出版されたばかりだ。
 プラムディアは一九六五年に起きた「九月三〇日事件」(共産党によるクーデター未遂事件とされる)への関与を問われて約十年間流刑に処せられた。四部作はその遠く離れた島の収容所で書かれたものである。八〇年から順次発表されたが、出版と同時に強権的なスハルト体制下で発禁処分とされ、公には読むことができなかった。私も八〇年代の留学時代に密かに入手し隠れて読んだ。
 小説は今から一〇〇年以上の昔、インドネシアがオランダ領東インドと呼ばれた時代に、民族主義運動が展開していく様子を様々な登場人物の目を通して描き出す。発禁処分となったのは、左翼的な思想を持つと見なされた政治犯の手になる作品であったことに加え、植民地体制という権力に抵抗するナショナリズムとして描かれたテーマが、抑圧的なスハルト政権になぞらえて読まれることを恐れたのだと言われた。一〇年前にスハルト大統領が退陣した後は、プラムディアの著作は四部作を含めすべての作品が書店に並ぶようになった。
 インドネシア語は、様々なエスニック集団の間のコミュニケーション言語としてのマレー語をその源とする。しかし、インドネシア語は誰にとっても母語ではなく、独立後のインドネシアという新生国家とともに育まれていかなければならない運命にあった。文学言語として成長し、新しい文化を表現していく媒体とならなければならなかった。プラムディアの文学とは、特に独立直後の作品に顕著であるように、それぞれのエスニック集団の文化を表象するジャワ語やスンダ語、バリ語などに替わって、新生国家の国民文化を表現する新しい文学言語を創造したことが、その功績であったと言われる。すなわち文学言語としてのインドネシア語を生み出したということである。
 アジアの文学を読んでみようと思う人に是非お薦めしたい作品である。

森山幹弘(南山大学教授)



◎季刊『銀花』(文化出版局発行) No.151秋の号 2007年9月30日 掲載


タイの染織


スーザン・コンウェイ著、酒井豊子/放送大学生活文化研究会・訳

   豊富な文化的遺産を持つ国、タイ。布を織ることは古代から伝えられた伝統的な技術といえよう。タイ北部チェンマイで働いていた英国人画家の著者はある日、この地方独特の様式を持つ織物と衣裳を緻密に描いた寺院壁画に目をみはる。これをきっかけに、東北、中央平野、都市部などの寺院壁画にある織り模様と衣裳を記録しはじめ、また実地に調査しその違いを認識する。そして染織の専門的知識を得るために帰国、大学院に入学し直す。以降はタイに通って研究を続け、伝統織物は単なる装飾品ではなく、社会、信仰生活に大きな意味合いを持つことを確信する。丹念に撮影した各地の壁画や染織のある生活スナップが興味深い。内容に共感した日本の研究会グループが現地調査まで行ない翻訳出版した。



◎2006年7月号 月刊『クロスロード』掲載(2006年 国際協力機構青年海外協力隊事務局発行)

フィリピン―日本 国際結婚
佐竹眞明、メアリー・A・ダアノイ著

国際ボランティアを考えるための本・第15回

 グローバリゼーションとは、モノ、カネ、情報、技術、ヒトが国境を越えて大量かつ速く移動する現象だとよく言われる。
 しかし、この現象を南北関係からよく観察すると、カネと情報が突出してグローバル化しているのに対し、ヒトの移動のグローバル化はすでに大規模に行われているものの、最も制約を受けている。
 1990年代初頭、「北」から「南」へと流入したカネの中心は、民間銀行の貸し付けと政府開発援助(ODA)だったが、今日では、直接投資と「北」への移民労働者からの送金が首位を占めている。
 このように南北間のカネの移動がグローバル化していることを、私たちに最もわかりやすく確認させてくれる出来事は、何といっても、アフリカやアジアの小都市にまで進出してきている、海外からの送金ビジネスを手がけている米国系のウェスタン・ユニオン社の登場であろう。
 私がよく行く西アフリカでも、「北」への出稼ぎ労働者からの送金を受け取る所は、かつては個人ネットワークか郵便局であったが、今や、方々で見かける黒地に黄色の文字が記されたウェスタン・ユニオンの看板を掲げる窓口が中心となっている。同社はナイジェリア一国内だけでも1000の窓口を開いているとのことだ。
 今から150年前、米国の西部での電信業で発足した同社は、カネの流れの自由化を利用して、今や「北」から「南」への送金業の首位に上りつめたわけだ。
 これに対して、ヒトの流れは、いまだ「北」の諸国からの様々な規制の対象となっている。つい最近の米国での移民政策改革はその顕著な事例だろう。この改革案は多岐にわたるが、はっきりしていることは、越境した「不法移民」を従来の民事犯罪でなく、刑事犯に切り替えたり、メキシコとの国境沿いに1000キロ以上の壁を設置するなど、「南」からのヒトの移入を厳しく制限した点であろう。これに反対し、この春には米国史上未曾有(みぞう)の規模で移民の人権を求める抗議行動が生じている。
 実際、グローバリゼーションの時代といっても、ヒトの移動がモノやカネの移動と決定的に異なるのは、生身の人間が移動し、生活しているという側面を有していることである。「北」の社会において、このヒトの移入について、単に便利な労働力を提供する存在として位置づけるのではなく、その地で生活者として、また地域の文化を多様で豊かにしてくれる社会・文化的存在として移住者を受け入れていく視点が、近年ますます重要になってきている。
 この点に関し、国民の1割が海外に移住している出稼ぎ大国フィリピンを事例として、移住国日本の社会で、フィリピン人、とりわけ女性移住者がどのような多文化共生を実現しているのかを追っている『フィリピン‐日本 国際結婚』は示唆(しさ)に富んでおり、かつ楽しく読めた。
 本自体、国際結婚(intermarriage)をしたニッポン人の夫とフィリピン人の妻の両者の共著となっている。とくに、生まれた子どもにどんなアイデンティティーを形成すべきかという課題について、夫妻自身、子どもの名づけに際し、日本名に母方のフィリピン姓を組み込むことに成功した(1994年高松家庭裁判所による改名審判)事例などは、日本社会が目指すべき多文化共生のシナリオをかいま見せてくれる。

勝俣 誠(明治学院大学教授)


◎日・タイ経済協力協会「友の会ニュース」75号2007年6月号 掲載

タイ語で出そう!グリーティングカード
中島マリン著

『挫折しないタイ文字レッスン』に続くマリンのタイ語生活シリーズ第2段。今回はなんとグリーティングカードの書き方ということで、これって誰が想像した展開でしょう。たしかにタイの友人や恋人あてにグリーティングカードを贈った経験があるという方は多いはず。でもカードがいくらお洒落でも、書いてある文句が教科書丸写しの堅苦しい〜タイ語では相手に気持ちを伝えるのは難しいというもの。そこで本書では誕生日、結婚、新年、お礼等々、様々な場面に応じた美しく自然なタイ語の書き方を、心温まる豊富な文例とともに紹介しています。タイ文化を背景とした独特の表現や単語の用法、タイのしきたりに関するお話などはタイで育った著者ならでは。さらに前作同様こちらも著者による(まさに多芸多才・・)イラストもパワーアップで、コレをこのままカードにして売ってくれー! そんな声も聞こえてきそうな、語学書という枠を飛び越えた逸品です。

◎『日中友好新聞 』2007年4月5日付 掲載

シルクロードの光と影
野口信彦著

  一筋縄ではいかない「絹の道」

 本書の著者、野口信彦氏は多忙である。新聞社主催のカルチャー教室でシルクロードの魅力を語り、住まいのある地元でシルクロードクラブを主宰し、私も参加したことのあるシルクロードへの旅行にも講師として同行する。
 そして、執筆活動である。本書で3冊目となるシルクロードシリーズの出版や、日中友好新聞の同名の連載をはじめ、雑誌などにもシルクロード関連の記事を掲載している。著者の日常はシルクロードのために多忙なのである。
 本書は、多民族国家中国が抱える民族問題、急速な経済発展がもたらす環境問題、シルクロード各都市の歴史、宗教、音楽・舞踊にいたるまで、著者が現地で数多くの人びとと接し、自ら体験したことへの思いが語られ、観光だけではないシルクロードの影の部分を知るうえでも貴重な一冊といえる。
 また、著者が足繁く通い撮影した多くの写真は、本当に親密になった者だけに見せる、現地の人たちの普段の生活ぶりと素顔を感じ取ることができる。
 1960年代、20歳代の頃に中国に留学し、文化大革命のため志半ばで留学生活を断念させられた。それでも中国への熱い思いをもち続ける著者が語る「シルクロードは一筋縄ではいかない」という言葉を紹介し、本書を推薦したい。
 「僕は、中国という大地と人びとが第二のふるさとと思っています。『我熱愛中国』なのです。盲従ではありません。愛するがゆえに、誰も批判しようとしない『影』の部分を明らかにして、『良き中国、麗しい中国が、アジアの規範になってほしい』と願っているのです。(評者=荒幡孝司)

◎『JTECS友の会NEWS 』Vol.73 Book & Events 掲載

マリンのタイ語生活1 挫折しないタイ文字レッスン
中島マリン著

  「挫折しない」・・・学習者にとってコレとっても重要なキーワードですよね。うちの父親は何十冊というパソコンの教本を持っていますが、ほとんどが同じような入門書。キャッチに踊らされて、「これならば!」と買ってしまうんでしょうね。もっとも独学というのはなかなか難しいもので、本人の意思の強さはもちろん、いかに読者をひっぱるか、といった技が教本には求められるわけです。
 そこで書名に堂々と「挫折しない」を謳った本書には期待してしまうわけですが、その特徴はというと、なんとタイ文字を「あいうえお・・」順に覚えていこうというもの。しかも覚えるために使う単語も最初は日本語単語を使い、とにかく読者にタイ文字に親しんでもらうことに重点を置いています。
 音声教材は付属しませんが、日本人がよく口にする音から似たような発音部を拾って例を示すなど、いかに次のステップに進んでもらうかという工夫が随所に凝らされています。読者の心理を見抜いた解説、イラストや表、色の使い方、思わず取り組んでしまう面白そうな練習問題等々、ここまで気配りが徹底されている教本というのは見たことがありません。後半にはタイ人が書いた手紙やタイ語で書かれた看板などを読む練習も組まれており、その与しやすさとは裏腹に気がつけばかなりのタイ文字力を得られるようになっています。これからタイ文字の学習を始める人はもちろん、文字は一通りやったけど、声調などの規則面でつまずいたという方も、ぜひ本書を手に取ってみてはいかがでしょう。きっと今までとは違った結果が待っているはずです。

◎『英語教育』(大修館書店)2007年4月号掲載

アジア・オセアニアの英語
河原俊昭・川畑松晴編

アジア・太平洋は英語でつながる

   これまでもアジアにおける英語教育の研究書やアジア英語の辞典は刊行されてきた。この本は、その発展形であり、アジア英語研究をリードする方々による実証的な調査によって著された。編著者ほか7名によって、フィリピン、シンガポール、マレーシア、インド、韓国、香港、タイ、ベトナム、フィジー、オーストラリアおよびニュージーランド(アオテアロア)における英語に関する専門的な知見にくわえて、その地域の歴史、文化、風物も書き込まれ、空港に降りたってからの街歩きが目に浮かぶかのような、魅力ある読み物になっている。アジア英語をより一般的なものにしたいという意欲にあふれ、事実、アジア英語への関心のひろがりの反映もある。担当者のその地域への熱い想いが伝わってくる。
 この本の特色の1つは、アジア・オセアニアという地域を ESL、EFL、ENL(第二言語、外国語、母語)の3つにまとめて構成したところにある。むろんアジア・太平洋という広大な地域における英語の状況をまとめるのは容易なことではない。読者の関心も、英語のバリエーションから、言語政策また経済社会問題まで多岐にわたるであろう。それぞれの地域のことについて評することはできないが、英語がますます重要になり、マレー化政策をすすめたマレーシアでさえ、理数科を英語で教えるようになってきているとのこと、また他の国においても英語による「ディバイド」がすすむ懸念があることが読みとれる。韓国の英語熱は、小学校への英語教育の導入の論議もあり、注目を集めているが、英語が苦手とされるタイでも英語ブームだという(もっとも1921年から小学校で英語が教えられていたが、1977年には廃止されていたという経過をはじめて知ったが)。この本は日本での英語教育政策や今後を考えるうえでの貴重な情報源である。
 英語と経済社会的な問題との関わりの指摘は重要である。インドでの婚姻やフィリピンからの移住労働者に関して、英語にアクセスできないマイノリティの人びとへの人権抑圧などの問題も避けては通れない。
 他方、英語は人びとを結びつける役割もある。ユネスコアジア太平洋国際理解教育センター(ソウル)ではフェローをイランやフィジーなどからも招き、各地の民話を収集し、英語での共有をすすめている。ユネスコでは津波被害の経験から、防災を重視し、防災教育の教材開発に日本政府も援助をしている。他方、南と南、発展途上国どうしが共同することにおいても英語でのコミュニケーションは欠かせない。アジア・太平洋における英語のもつポジティブな役割にも注目をしていきたい。

(東海学園大学助教授 淺川和也)

◎ALC NetAcademy 通信[32]( 2007.1.24) 掲載

アジア・オセアニアの英語
河原俊昭・川畑松晴編

 太平洋を舞台として人や物、ビジネスや文化の行き来が活発に行われる時代、 アジア・オセアニアでのコミュニケーションツールは、世界の共通語である英語だ。この地域で使われる英語は社会言語学的に三種類に分けられる。英語を第二言語として話すESL (English as a Second Language:フィリピン、シンガポール、インド等)、日常的には使われないEFL(English as a Foreign Language:タイ、ベトナム、韓国等)、そして母語とされるENL(English as a Native Language :オーストラリア、ニュージーランド) である。本書ではそれぞれに当てはまる国々での英語教育事情や特徴を紹介している。
 幾つか例を挙げてみると、 ESLに分類されるシンガポールは多民族国家で、公用語が四つあるが第一教育言語が英語である。現地で使われるシングリッシュは、標準英語と発音や文法がかなり異なるが、コミュニケーションの手段として多いに使われている。約50年後には人口数で世界一になると言われるインドでは母語も 100以上あるが公用語はヒンディー語と英語であり、英語のレベルは高い。その教育法は国内外で評価が高く教師陣もインド人がほとんどで、彼等は海外でも活躍している。 EFLの国として挙げられているタイは、一度も植民地を経験していない国だが、英語教育の歴史は古く1820年代より行われていた。近年の経済発展により拍車がかかり、小学校の英語必須化や専門学校が多く出現している。フィジーでも、小学校4年生から教育言語に英語が用いられる。しかし生活言語は方言を含む現地の言葉であり英語話者は少ない。ある学校教員は、学生の話す英語もフィジー語も崩れてきていると嘆く。執筆者は、日本における小学校での英語導入にも言及し、同じ状況になるのではと懸念を抱いている。
 編者はあとがきで、単なる教養英語では実際には身につかないもので、生活や仕事で必要とされるからこそ、身につくものだと述べている。各国の社会的・歴史的背景も章の始めに記されており、英語事情を分かりやすく知る事ができると同時に、それぞれの文化にも触れることのできる一冊である。

◎2007年1月号 アルク「中国語ジャーナル」 掲載

北京で働く
浅井裕理著

 会社の辞令で駐在員として海外に赴くのではなく、自分の意思で行き先、就職先、滞在期間などを決めて海外で働く――。この10数年で、そうした選択をする日本人は多くなった。行き先はさまざまだが、中国で働く日本人の数も間違いなく増えている。
本書の「働く」も、駐在員としてではなく、現地採用社員などとして働くことを想定している。
 本書の特徴の一つは、北京で働く日本人19人へのインタビューが収録されている点。ホテルや旅行会社に勤務する人、美容院、エステサロン、システム開発会社の経営者、日本語教師、翻訳者、調理師などが登場する。起業までの経緯、仕事内容、職場環境、そして収入などはバリエーションに富んでおり、これから北京で働きたい人の参考になるはずだ。
 収入のことだけを考えれば、海外に出て働くよりも、日本で働いたほうが一般的にはいい。では、収入に勝る魅力とは、どのような魅力なのか?19人のインタビューを読むと、その一端が分かるだろう。
 もう一つの特徴は、仕事や生活に関する基本情報が網羅されている点。仕事探しのノウハウ、渡航準備、労働ビザ(Zビザ)の取得手順、部屋探しなどが、細かく説明されている。現地の医療やIT事情、生活費の目安、さらに中国語や中国の伝統文化・芸術などが学べる学校情報なども掲載されている。
 著者の浅井裕理さんは、本誌「中国語ワールドのひとびと」にも定期的に執筆しているフリーランスのライター。1997年から北京に住み、各種メディアで中国の経済や文化などに関する情報を発信している。
 なお、本書はめこんの「海外へ飛び出す」シリーズの第6冊で、ほかに『上海で働く』(須藤みか著)が2004年に刊行されている。
海老沢 久(編集部)


◎2006年10月14日 図書新聞掲載

フィリピン―日本 国際結婚
佐竹眞明、メアリー・A・ダアノイ著

日比国際結婚をめぐるさまざまな価値
多文化共生という課題のために


 国際結婚の研究をしていると自己紹介すると、国内外を問わず、一般の方、研究者を問わず、相手から紋切り型の質問がやってくる。日本では「国際結婚してらっしゃるの?」。国際結婚という正確な英訳はない。本書の英文タイトルは、「フィリピーナー・ジャパニーズ インターマリッジ(フィリピン人女性と日本人男性のインターマリッジ)」とあるように、インターナショナル・マリッジではなく、異文化間結婚や異人種間結婚を表現するものとしてわざわざ専門用語インターマリッジとして表現している。この言葉は一般の会話ではほとんど使われることはない。海外では「君のパートナーは外国人?」と聞かれる。『負け犬の遠吠え』(講談社)の著者酒井順子と同じ丙午に生まれた「負け犬」は、「いいえ、研究すればするほど、いかに大変なエネルギーが必要であるかがわかりますので、結婚そのものが」とまともに答えても、「まあ、一度ぐらいはしてみたら」と茶化される。結婚は、人種を問わず、国籍を問わず、ジェンダーを問わず、年齢を問わない、まさにユニヴァーサルな事象だけに、誰でも食いつけるトピックである。しかし、それゆえに、結婚を学問するのは難しい。
 その点本書の著者は、私が辟易している質問に胸をはって答えられる。著者紹介によると、メアリー・ジェーン・ダアノイ氏はフィリピン出身で心理学を専攻され、四国学院大学教養部で、フィリピンの宗教・文化、および英語を教えておられたようだ。日本人配偶者の佐竹眞明氏は、1988年にフィリピンに留学中にパートナーとなる女性に出会い、1990年に結婚。3人の子どもたちの父であり、母であり国際結婚当事者による、フィリピンと日本の国際結婚に焦点を当てた本邦初の書籍である。
 フィリピン女性による日本への出稼ぎ、農村花嫁、異文化結婚と日本男性など、日比国際結婚をめぐるさまざまな側面を取り上げている。しかし、研究書としてみると何が全体の論点であるのかが、ぼやけてしまっているように思われる。専門分野が異なる研究者の共著ということで、苦労されたのではないだろうか。さらに、夫婦とも「実践」者であり、研究者という稀な本だけに、研究者としての「立ち位置」なのか、生活者としての「立ち位置」なのかを、切り離すことは難しいのかもしれない。
 統計データも様々な角度からよく整理されている。しかし、離婚率の計算が、本文には何の断りもなしに、2004年の離婚件数をその年の国際結婚数で割り、100をかけて算出してあるので、30から40%という数字になっている。家族社会学では、普通離婚率は人口1000人あたりの年間離婚件数を示す。ちなみに近年の日本人の離婚率は2.10前後である。一般書であるなら、なおさら本文に解説があったほうがいいのではないか。
 「第2章フィリピン―日本国際結婚」はこのご夫婦のネットワークがいかんなく発揮されている。60組もの事例が上がっている国際結婚研究そのものが、貴重であるだけではない。4ページにわたるリストの詳細を見ても、それぞれのカップルあるいは家族のライフ・ヒストリーがきちんと聞き取れているであろうことが、容易に想像できるだけに、惜しい。この章に詳細なエスノグラフィーを加えるだけで、一冊の名著ができるであろう。一冊は、学部の教科書風に、もう一冊は、専門書的なエスノグラフィーだけに徹しても、良かったのではないだろうか。特に、日本男性の視点、フィリピン女性の視点と、同じ「生活世界」をどのようにとらえているかが交互に分かるような仕掛けにしてくれると、フィクションでありながら、村上春樹の小説を読んでいるような感覚の研究書ができるのではないか。今後に期待したい。
 60組の半数教が、本州ではなく、このご夫婦の勤務先であった香川県にある四国学院大学時代に出会ったインフォーマントだと考えられる。1985年にフィリピンからの「野損花嫁」を山形県朝日町が初めて行政主導で迎え入れたのに続き、徳島県の東祖谷山村(ひがしいややまそん)も87年に6組のカップルが成立した。その中で2005年6月現在も村に残っている2人を含め、6組全員がこのリストに入っている。あれだけマスコミが殺到したにもかかわらず、山形の朝日町の「その後」がわからないでいただけに(残念ながら本書でも「その後」はわからない)、気になっていた東祖谷山村の「その後」を知ることができるのも本書のすごさとして唸るところである。それだけに「東祖谷山村の現在」が1ページ足らずで終わってしまうのが、二度唸らずにいられない。
 フィリピンから多くの女性が流出しているように、日本から多くの日本人女性が流出している。フィリピン国内では、海外で稼ぐ女性のいる家族の下で、さらに再生産労働を強いられるというより弱い立場の親族や女性がいる。女・女格差がある。有吉佐和子が『非色』で描いたように戦争花嫁の笑子が、ニューヨークのキャリア組日本人女性の家で家政婦をするように。日本人女性の出生率の低下は日本国民の減少と直結している。外国籍女性の出生率の上昇は、果たして「日本国民」の増大へと向かうであろうか?最終章の「ごちゃごちゃしてきたない」フィリピンへ、「いつ行くの?」と母親に聞く息子。定年後はフィリピンで過ごしたいという日本人夫もいる。日本は、子どもたちに「選ばれる国」になるのであろうか?
 本書は、日本人男性と来日したフィリピン人女性の目で書かれている。女子大に勤める私は、ほとんど日本人女性ばかりの学生に、あなたの子どもが学校に行く頃には、クラスに2人はクロス・カルチュラル・チルドレンがいるはずであり、同じ母親として、外国籍の女性と「多文化共生」していって欲しいと伝える。日本人のお母さんが、どのように外国籍のお母さんたちと共生していったらいいのか。日本人の母親世代が、異なるエスニシティの同性とどのように共存していくかは大きな課題の一つであろう。滋賀県の長浜で中国籍の母親が起こした悲劇は、一方で多文化共生の難しさを、一方で、変化しようとしない日本社会の体質の根深さを示した。本書は、ごく普通の日本人女性に読んで欲しい。本のオビに、お母さんへのメッセージを入れたらどうだろうか。

嘉本伊都子(京都女子大学現代社会学部助教授)


◎2006年07月23日 朝日新聞掲載

フィリピン―日本 国際結婚
佐竹眞明、メアリー・A・ダアノイ著

■当事者の思い、子育ての悩み
 学童のいる家の方なら、気づいておられるだろう。フィリピン人を親に持つ子供が身近に増えているという状況に。
 ところが、その内実となると、ほとんど知られていない。日比国際結婚の背景から当事者たちの思いや子育ての悩みに至るまで、きちんと調べて報告したのは、本書が初めてではないか。
 著者たち自身が、日本人男性とフィリピン人女性の研究者夫婦である。その強みをいかんなく発揮して、日本人側とフィリピン人側の双方から多彩な声とデータを集めることに成功している。それらの共通項をひとつだけあげるとすれば、フィリピン人(大半が女性)に対するステレオタイプのまなざしから脱しようと苦闘してきた点だ。
 日本人と結婚して日本に定住したフィリピン人女性は、陽気でしたたかな"ジャパゆき"でも、家を守る従順な"農村花嫁"でもない。私たちと同じく、日本社会で堅実に働き、ささやかな幸せを願う人々なのである。
 ただし、家族第一主義は日本人よりはるかに強い。フィリピンの路上に倒れていても、見知らぬ誰かが助けてくれるという本書の記述に、かの国の人々の魅力が端的に表されている。
評者:野村進(ジャーナリスト・拓殖大学教授)

◎月刊オルタ 2006年5月号掲載

あぶない肉
西沢江美子著

 米国の牛肉禁輸、BSE、鳥インフルエンザ・・・・・・。私たちの食卓を襲う「肉問題」とはいったい何か?戦後の農村で育ち、農業や女性、暮らしなどをテーマにこれまで日本各地を精力的に飛び回ってきた著者は、私たちが直面する食肉の危機について考える。豚肉、牛肉、鶏肉が肉になるまでのプロセスの中には、薬漬けの飼料、食肉汚染連鎖、グローバル市場の中で広がった人畜共通伝染病など、さまざまな問題がある。著者はそのひとつひとつに切り込んでいく。そしてこうした現状への代案として、流通や飼料のあり方の変革、そして有機畜産への道が提示されていることは大きな可能性だと感じる。最終章では実践編として「肉の選び方・食べ方」や「どこで買えばいいのか」などの情報も得られる。
評者:内田聖子

◎月刊クーヨン 2006年5月号掲載

あぶない肉
西沢江美子著

おとうさん、牛丼屋に並んでる場合でしょうか?

 今年2月、フランスでも鳥インフルエンザが確認された。ひいきのレストランにも、フォアグラや野鳥などが入ってこなくなるという。ごくごくたまにのぜいたく品とはいえ、あーあ、である。
 著者がこの本の執筆には苦労したとおっしゃるように、食肉関連の「事件」は次々と発生。その大きな原因はまさに、もうひとつ苦労した理由に挙がる「家畜を飼う、肉をつくる、売る、食べる、それぞれの距離が遠い」ことだろう。「吉野家の牛丼がなくなってしまうと行列ができ、アメリカ牛にBSEが発生したという問題などすっとんでしまう」との著者の嘆息に頷きながら思う。ここに列挙される「危険」を避けるには、安全な食肉を求めるとともに、食生活全体を本気で見直さなくてはならないはず。巻末の「食べ合わせで<毒出し>になるレシピ」は、そのうえで役立てたい。


◎文化人類学(旧民俗学研究)2005年70−1号掲載

変容する東南アジア社会――民族・宗教・文化の動態
加藤剛編著

 東南アジアとは、どのような「まとまり」をもった地域なのか。
 今日的感覚では東南アジアは、ASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟する10ヶ国(フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポール、タイ、ブルネイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー)に、2002年に独立した東チモールの11ヶ国をあわせた領域と考えるのが一般的である。
 しかし、そのASEANにしても、1967年の結成当初は、フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポール、タイの5ヶ国が加盟するだけであった。1984年に加盟したブルネイを含む自由主義陣営6ヶ国と、社会主義国家であるベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーの4ヶ国とは、没交渉の時代がながかった。これら両陣営の関係に変化が生じたのは冷戦終焉後のことであり、ASEANが社会主義陣営を包摂した10ヶ国体制(ASEAN10)を確立したのは、1999年のことにすぎない。
 そもそも東南アジアという名称は、第2次世界戦争中に連合軍がコロンボにおいた「東南アジア司令部」がその初出である。それ以前の東南アジアは、英領マラヤや仏領インドシナ、蘭領インドなどに分割されることはあっても、現在のような東南アジアといった「まとまり」は存在しえなかった。現在、ASEANを中心に東南アジアは、その自律的なまとまりを形成しつつあるのである。
 このような背景のもと、東南アジアは、大陸部と島嶼部に分けて紹介されることがおおかった。この2分法は、たしかに大陸部がモンスーン気候であるのに対し、島嶼部では湿潤熱帯気候が卓越しているといった生態学的妥当性、ベトナムを除く大陸部が上座仏教に帰依するのに対し、フィリピンを除く当初部ではイスラームを信奉するという宗教的妥当性、大陸部にはチベット・ビルマ語族、タイ語族、モン・クメール語族が分布するのに対し、島嶼部ではオーストロネシア語族がおおいとの言語学的妥当性をもつ。
 他方、大航海時代に西洋人と接触するようになる以前から、東南アジアはひとつの世界を形成していたとするアンソニー・リードらの歴史研究に顕著なごとく、近年、東南アジアをひとつのまとまりとして捉えようという試みもはじまっている。そのひとつが、人口移動に着目したフロンティア社会論である。
 本書は、1999年度から2001年度にかけて編著の課統合を研究代表者として組織された科学研究費補助金による共同研究「東南アジア社会変容のダイナミクス:民族間関係・移動・文化再編」(基盤研究A)の成果である。フロンティアとの術語はもちいていないものの、人口移動は、プロジェクトの副題にあるように本書のキーワードである。ミャンマー、タイ、ラオスの大陸部3ヶ国、インドネシア、マレーシア、フィリピンの島嶼部3ヶ国を研究対象とする本書は、編者自身が自負するごとく、1冊の書物で、東南アジア地域の社会と文化を、これだけ広域かつ多面的に論じたものは、おそらく皆無であろう。
 加えて本書の特徴は、すべての論考が多かれ少なかれ国家の周縁に位置する地域や社会、あるいは国境息に焦点をあてた点にみいだせる。第1章の石川登は、マレーシア国家の際周縁に位置し、インドネシアと国境を接するサワラク州のマレー村落を研究の舞台としている。第2章で貞好康志があつかうのは、インドネシアで政治問題が暴力化するたびに、しばしば攻撃対象とされるマイノリティの華人である。高岡正信とタウィーシン・スップワッタナーが、第3章で対人エリートに見られる対ラオス観を考察するなかで注視するのは、タイの中のラオ人の位置づけである。また、第4章で林行夫は、東北タイからラオスに跨って生活するラオ人の仏教実践を論じている。第5章で速水洋子は、タイとミャンマー国境域に居住するカレン人社会を、第6章で長津一史は、フィリピンとマレーシアの国境海域に生活するサマ人社会を、第7章のモハメド・ユスフ・イスマイルはタイ国境息に隣接するマレーシアのシャム人社会をとりあげている。小瀬木えりのは、第8章で首都マニラの周辺ではなく、ビサヤ諸島で生産される布をめぐる復興運動について考察している。最終章で加藤が研究対象とするリアウは、マラッカ海峡をはさんでマレーシアを望む位置にある。
 編者が認めるように、この構成は、まったくの偶然だそうだ、このことは、現在の東南アジア研究者の関心が、国家の中心ではなく、周縁に惹かれる傾向にあることを示唆しているといえよう。他方で、越境的現象に対する関心は、そもそもこうした現象が、近年、より日常化していることの反映でもあろう。
 東南アジアの自律的なまとまりは、まだまだ将来的な存在でしかありえないが、国境にかぎらず境界を跨ぐ人口移動――跨境活動―-といった同時代的現象は、現在の東南アジアを理解する鍵のひとつである。

評者:赤嶺淳(名古屋市立大学)

◎2006年1月15日 中国新聞「読書」 掲載

越境するポピュラー文化と〈想像のアジア〉
土佐昌樹・青柳寛編

共鳴・反発・潮流映す

 ヤマンバ・ギャル、琉球ポップス、アジアのムービーロード、「韓流」ブーム・・・。本書を構成する論文が取り上げる対象は多種多様で、全体として整然としているとは言いがたい。しかし、本書の雑多性はまさしく今、アジア各地で国境を越えて共鳴し、反発し、拡散している文化の諸潮流のダイナミズムを反映したものだ。
 国際文化交流事業を生業としている評者にとって、特に考えさせられたのが、韓国での日本の大衆文化受容を研究する張竜傑氏の論文だ。同氏は、文化のグローバル化が進行する中で、韓国の若者が脱「反日」に向かいつつあり、彼らが日本のポピュラー文化をどうとらえるようになってきたかを論じている。1990年代末に日本の大衆文化開放をめぐって議論が沸騰した時、韓国は自らを振り返り、そこで変化が起きた。自己反省に立脚した文化産業の躍進、自文化への自信などを経て、日本に対するゆとりが生じたのだ。
 ここで張氏は、重要な指摘をする。今日の韓国で「日流」が目立たないのは、従来の「反日」イデオロギーの作用によるというのだ。
 韓国政府は70、80年代に、「低俗な日本文化」の輸入禁止という建前に固執していた。そこで、固有名詞の置き換えなどの処理をして目立たぬ形で、もしくは不法輸入というルートを通じて、日本文化が韓国社会に持ち込まれ、韓国民はそれを知らずに受容し、消化していた。為政者の意図をこえ、文化は流動し受容していくのだ。
 最近の日本の論壇で、文化を政治や経済の摩擦を解消するため、戦略的に利用しようという趣旨の議論がある。張論文が紹介している韓国の経験から学ぶべきは、文化は送り手の思惑通りに制御できないし外国との政治的な不和の解決を文化に求めるのは無理があるということだ。米国の対中東文化外交がうまくいかないのも、この辺の機微を理解していないからか。「文化には文化の存在意義がある」と認識した上で、対話と協働を積み重ねていくことが、文化交流のあるべき姿なのではないだろうか。

評者:小川忠(国際交流基金企画評価課長)

◎2006年1月20日 西日本新聞「読書館R」 掲載

激動のインドネシアと20匹の猫
小菅伸彦著

猫大捜索inインドネシア

 失踪した飼い猫を捜して山に入って日が暮れ、自分が遭難。という経験を持つ猫好き、小菅伸彦という人の本『激動のインドネシアと20匹の猫』(めこん)。経済企画庁勤務や国際協力機構(JICA)とのかかわりで、"インドネシア国家開発企画アドバイザー"という仕事を2度務めた彼が、駐在時代のインドネシア情勢について・・・というよりも、インドネシアで出会い、ともに暮らした多くの猫たちにまつわる出来事を主に書いた本だ。
 遭難してまで彼が猫を捜したのは、首都ジャカルタから車で8時間の農村だ。現地の人々の多くは、「村の大切なお客の一大事」と、仕事を放り出して捜索に協力。今もインドネシアでは強い影響力を持つという「伝統的、土俗的な呪術者」への相談を勧められたりしながら、約1年半の猫探し。果たして結果は。
 猫捜索の様子を通して分かってくるのは、インドネシアにおけるこの農村の人々は、互いの結びつきを大事にする気風や、貧しい中でも村の集まりや儀式にだけは金をかけるような生活習慣を持っていること。そんな状況に著者は、今後必要な近代化と"古き良き"雰囲気の折り合いを思って、ちょっと切なげだ。

評者:松本サルト(フリーライター)

◎2005年11月27日 朝日新聞「読書」欄 掲載

ベトナム戦争の「戦後」
中野亜里編

知られざる暗部やため息すくいとる

 ベトナムのホーチミン市(旧サイゴン)で、不動産業者の"見習い"をしたことがある。むろん取材の一環だったのだが、そのとき一九七五年の"サイゴン解放"(もう三十年も前のことだ!)の裏面をしばしば見せつけられた。
 一例をあげると、日本人駐在員らにマンションや一戸建てを賃貸する家主の多くは、旧北ベトナム出身の軍関係者であった。彼らはサイゴン陥落後、南ベトナム政府や軍の高官が所持していた家屋を、"分捕り合戦"のようにして手に入れ、それらを外国人に法外な値段で貸し付けては暴利を貪っているのだと、現地の事情通は声を潜めたものである。
 本書を読み、こうしたベトナムが「戦後」抱えてきた問題を、アカデミズムの立場から本格的に論ずる研究者たちがようやく現れてきたと思った。  ここで列挙されているのは、日本人の大半にとって初めて知ることばかりであろう。たとえば、かつて英雄視された南の解放戦線は、政権を握ったベトナム共産党により、存在そのものが事実上、抹殺されている。たとえば、ベトナム戦争中、北ベトナム軍や解放戦線も、民間人虐殺に手を染めていた……。
 私自身、ホー・チ・ミン時代の北ベトナムで粛清の嵐が吹き荒れ、一万数千人もの人々が処刑されていた事実や、ホーチミン市の人口の半数近くが、どこにも住民登録をされておらず、社会的権利も持たないという現状を知らなかった。
 しかし、著者たちは、ベトナムの暗部ばかりを、ことさらに暴き立てているのではない。ベトナム戦争中は"ベトナム反戦"で勝手に思い入れ、いままたエスニック・ブームで勝手に思い入れる日本人の視線の届かぬところで、ベトナム人たちが日々どのように生きてきたかを、彼らのため息までそっとすくいとるようにして伝えているのである。
 勝手に思い入れ、勝手に幻滅する、そんなことでいいのか、と本書は言う。この問い掛けは、古くはソ連や中国、近年では韓国と北朝鮮に対して繰り返されてきた、われわれの他国へのまなざしの危うさにも向けられているはずだ。

評者:野村進(ジャーナリスト・拓殖大学教授)


◎2005年11月21日 産経新聞「読書」欄 掲載

ベトナム戦争の「戦後」
中野亜里編

「反戦世代」に進める概説書

 今年の夏に実施された某新聞社の読者アンケートによれば、戦後60年で最も大きな影響を与えた出来事は、第一位がベルリンの壁崩壊とソ連崩壊、第二位が米同時テロ、次いでベトナム戦争が第三位だったという。このことは、終結して今年で丸30年がたっても、日本人にとってベトナム戦争が大きな事件として記憶されつづけていることを物語っている。
 ただ、多くの日本人は。「ベトナム戦争のベトナム」という悲壮で英雄的なイメージと1990年代半ば以降に形成された「有望な投資先、経済成長の著しい国としてのベトナム」「アオザイやベトナム料理などが人気の観光地としてのベトナム」という明るいイメージを分裂したまま並存させているのが現状ではなかろうか。本書は正にそういったギャップを埋めて、連続したものとして戦後のベトナム像を提示しようと試みている。
 本書の執筆者のほとんどは「ベトナム反戦世代」より若い世代の研究者・ジャーナリストであり、「ベトナム反戦世代」のような「思い入れ」に囚われることが少ない。その良さが出ているのが第一部の「ベトナムの戦後」である。報道機関や文学の世界にみられる思想・言論の統制、腐敗党官僚の下の人々の受難、福祉政策が欠如し国際NGOに依拠せざるをえない貧困層の支援、隠蔽されてきた人民軍内部の否定的現象、ドイモイ以前の配給制度の不合理さとその後遺症など、戦後ベトナム社会主義体制の問題点が具体的に浮き彫りにされている。
 第二部の「ベトナムの戦後と関係諸国」では、日本、米国、中国、タイ、カンボジア、ラオスとの関係がベトナム戦争を機軸にして各章で手際よくまとめられている。対中関係の紆余曲折ぶりには、あらためてベトナムの困難さを感じさせられる。
 本書は政治・外交の分野を中心としたベトナム現代史の優れた概説書として高く評価でき、とりわけ「ベトナム反戦世代」に一読を薦めたい本である。

評者:東京外国語大教授 今井昭夫

◎現代女性文化研究所ニュース No.12掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

 ネグロスでどうしても会いたい女性がいた。大橋成子さん。本書の著者でとにかく型破り、豪快。
 78年にアジア太平洋資料センターに入り、編集長、事務局長を経て91年、ネグロスへ。ネグロス・キャンペーン委員会の現地駐在員として日本との架け橋をすることになるが、ここまでは、なるほど、のお話。
 ところが、彼女の人生は並みではなかった。かつて反政府運動の闘士だったフレッドとめぐり合い、恋に落ちたのだ。しかも彼は5人の子連れ。96年に結婚した彼女は一気に5人の母親になり、フレッドの故郷漁村のナヨン村に住むことになる。
 ときに楽しく笑いがこみ上げてくるけれど、なぜ豊かな緑の島が飢餓の島になったのか、ネグロスの悲惨な歴史、フィリピンが抱える諸問題、NGOの現実的な課題など、それらがナヨン村のコミカルな日常と共に語られる。その大橋さんにインタビュー。しかもマッチョなフレッドまで一緒に!
 「毎年夏には日本の高校生とこちらの農村の子どもたちとの交流キャンプをするのですが、電気もトイレもない。日本では考えられない暮らしでしょ。みんな手も足も出ない。それが一週間ぐらいすると、引きこもりの子が顔を輝かせて自分から外に向かうようになるんです」。自然の中での生活が子どもたちに与える大きな不思議な力。
 大橋さん自身、今後も生活のベースはもちろん日本ではなくネグロスだという。貧しいけれど、親切でうわさ大好きな村の女たち、あるがままに自由に生きられる心地よさ。「あなたはいかが?」と逆に聞かれてしまったが、私もたった一週間の滞在で大橋さんの気持ちがなんだか分かるような気がした。(岡田記)

◎インパクション149号 ブックレビュー掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

フィリピンの現在を生活感覚で描く  年の違い具合や姓が同じことから、姉として尊敬していた成子さんが、フィリピンに移り住んでもう10年。子連れ男と一緒になって、ネグロス島ナヨン村という小さな漁村で元気にしていることは知っていたが、本書はその詳細を教えてくれた。そうか、日本酒の一升瓶片手に夜中まで飲んでいた成子さんは、アルコールの種類をラム酒にかえて、こんなに楽しい日々を送っていたんだ!
 成子さんはノンポリだった学生時代、ひょんなことからタイの学生交流会議に参加して、政治の季節の学生デモに遭遇する。公害を輸出する日本企業の製品をボイコットする人々に出会い、目からウロコの体験をする。大学卒業後はアジア太平洋資料センター(パルク)の専従スタッフとして10年以上もアジアとの連帯運動にかかわり、その後、ネグロス・バナナの民衆貿易で知られるオルター・トレード・ジャパンの社員になる。つまり「禁欲的なアジア」の時代からの筋金入りの「活動家」である。その彼女が恋に落ちてフィリピンに住むようになったというのは、ごくごく自然ななりゆきのようだが、本書には、NGO活動家と、「生活人」である住人の意識のギャップも描かれている。
  「自立のための支援」として始まったネグロス・バナナの試行錯誤からは、ネグロスの人々の暮らしに根ざしたプログラムがいかに大切か、具体例とともに明らかになってくる。
 砂糖農園で雇われて働いていた人々が農地改革によって自分の土地を持てたあと、どうやって自立していくか。そこには、雇われ人気質に慣れた男たちの意識、借金が当たり前の生活、男女の役割分担などもからみ、けっして「農地改革=めでたし、めでたし」とはいかない。こうした「課題」を成子さんは、ナヨン村での生活感覚いっぱいに書き進めていく。それはそのまま、彼女が家族や土地の人々にとけこんでいくプロセスになっている。
 とにかく本書の醍醐味は、5人の子連れ狼フレッドとの出会い。フィリピン解放闘争の闘士フレッドには、当時、うえは12歳から下は3歳の子どもがいた。40歳まで東京で「肩肘はった独身時代」を送っていた「がんばってつっぱる」成子さんは、フレッドとの結婚でいきなり5人の子持ちになったのだ。しかも、フレッドと子どもたちの辿ってきた人生は、ドラマのようにフィリピンの歴史と現実を表している。
 ドラマはそれだけでは終わらない。4年前、フレッドはナヨン村の村長になったのだ。
 NGO職員が、いつの間にやら村長夫人(家族内では最高司令官)になり、今では孫までいるというのだから、彼女自身が感慨をこめていうとおり、「何が起こるのかわからないのが人生だ」。
 村長選挙や、野菜づくり、村の祭りなど、内側から描かれた村の女たちのパワーと知恵には、読んでいて心が躍る。最後に成子さんはこう記している。
 「ネグロスで生活をしていて感じる魅力は、たとえ経済や産業は単一農業や大資本家に独占されていても、人々はけっして単一の色に染まらないという文化だ」。クラシック調やラップ調、歌謡曲風と好きな音でそれぞれが歌い、音痴な人も自分の歌声に酔いしれ、それが結果として良いハーモニーになっているという。
 そんなハーモニーを、成子さんも奏でているのかと思うと、自称・妹としては、ほんとにうれしい。そして、私の近所にいるフィリピン人母・日本人父を持つ悪がきや可愛い子たちにも、故郷フィリピンの話を聞いてみたいな、と思った。

評者:大橋由香子

◎季刊ピープルズ・プラン 2005年夏31号書評掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

 フィリピン・ネグロス島と聞いて、何を思い浮かべるだろう。砂糖?バナナ?それだけではない、豊かなネグロス島での10年にわたる生活を中心につづられたのが本書である。全編を通じて描き出されるネグロスの豊かさ――あふれるばかりの豊かさで満ち溢れていることがなによりも本書の魅力となっている。ただし、先進国もしくは都会ではすでに喪失された、どっかのTV番組がノスタルジックに美化しがちな「途上国もしくは田舎にある豊かさ」に圧倒されたわけではない。著者のネグロスを見つめる視線のやわらかさ、それが捉える人々の多様さ、そしてネグロスが経験してきた想像を超える歴史。それぞれが画一化されがちな私たちの生活、価値観、視線をゆさぶる豊かさに満ちているのだ。

──人びとを見つめる柔らかな視線を堪能

 著者は、NGO職員としてフィリピンと出会い、日本ネグロス・キャンペーン委員会(JCNC)の調査員としてネグロスに赴任する。ネグロスでの駐在生活が終わりにさしかかり、帰国もせまった1995年、5人の子連れのフィリピン・マッチョ男、フレッドに出会い意気投合、ナヨン村で暮らすことに。独身駐在員生活から急展開、一挙に5人の子持ち、後にはパートナーが村長になった(ならされた?)ため村長夫人に。いやはや本当に「何が起こるかわからないのが人生」である。
 普通なら『波乱万丈』にでも取り上げられそうな意外な人生展開だが、「この人ならそうなるかなあ」と妙に納得してしまう。生きる姿勢が柔軟で豊かなのだ。人生はこうこうあるべきなんていったものさしが少しずつ伸び、縮み、広がり、その最初の規律さを失い、著者を自由にしていく。しかし最初はがちがちものさしで「肩肘をはって」いたと著者はいう。1975年の初海外体験はタイ、民主化運動の真っ最中だった。そこでアジアと日本のいびつな関係に衝撃を受けた著者は、NGOに参加し、「連帯」をキーワードにアジアとの共生をめざした運動に没頭していく。次に出会ったフィリピンは、反マルコス・解放運動が盛り上がる熱い時代を迎えており、資本の論理がまかり通る日本で活動する人びとにとって、輝ける希望の星であった。
 著者はフィリピンの人びとを「闘う民衆」として単一色で塗りつぶし、ある意味あがめていた。その意味では、「普通」だったとも言える。。つまり、自戒をこめていいたいことだが、アジアもしくは途上国にかかわる人の多くが、何かしらの単一色で相手を眺めていることが多いからだ。「貧困」だとか「かわいそう」だとかにはじまり、「なまけもの」「無知」といった差別的なものから、「豊かな自然」「スローライフ」といった美化するもの、「闘う民衆」といったものまで、ひとくくりにして理解しようとし、理解したつもりになっている。駐在員として現地にいようが、この視線の貧困さは簡単に抜け出せるものではない。
 だが著者は「目線をがくんと下げ」ることに成功した。美しい自然も脅威をもたらす自然も、濃い田舎の人間関係もやさしさも、たくましさも言い訳だらけの言葉も、貧しさも理不尽で見栄っ張りな金使いの荒さも、しょうがない政府やお役人も、「ここはこうだから」とひとくくりにできない豊かさを、そのやわらかくなったものさしを広げてすべて包み込んだのである。がくんと下がった目線が見つめる人びとは、闘うおばちゃんであり、美しいゲイであり、コチョコチョ(噂話)好きな母ちゃんであり、博打で一攫千金をねらいフィエスタで散財する父ちゃんであり、学校のイベント資金づくりに駆り出される悪ガキたちだった。いたるところにちりばめられた「なんでそうなんねん!」と突っ込み満載のエピソード。そこで繰り広げられる等身大の人びとの「現実」をただ受け止めて共に悲しみ、憤り、そして笑う。目線がいまだ上がりっぱなしの東京在住NGO職員としては、活字で組み立てられた風景の中とはいえ、ネグロスの人びとの出会いを充分に堪能することができた。大橋さんに感謝である。

──過酷で豊かな歴史を語る人びと

 豊かなのは、現在進行形の人びとの暮らしだけではない。彼らの経験してきた歴史――それはフィリピンの歴史であり、ほんの数十年の間にめまぐるしく変わる、過酷で豊かな歴史なのだ。その歴史をかいくぐってきた、新しい家族であるフレッドと5人の子どもたち。
 ネグロスは緑豊かな島であり、そして飢饉の島でもある。16世紀にさかのぼるスペイン植民地時代から、アメリカ支配、日本支配そして現在にいたるまで100年以上、砂糖だけがこの島の主要産物だった。ネグロスは、砂糖による単一経済で成り立ってきたし、今でもそうである。遅々として進まない農地改革により、まだまだアセンデーロ(農園主)が砂糖産業を牛耳り、土地、経済、政治、社会を独占している。拡大しつづける貧富の格差、そしてマルコスの暗黒時代。民族自立、解放、反独裁を掲げる人びとは共産党に参加し、「解放の神学」が教会から広がっていく。そして、ピーピルズ・パワーによるマルコス追放、アキノ新政権の誕生とアメリカ主導の「左翼勢力掃討」作戦、フィリピン政府によるネグロス空爆。一方でネグロス島では、唯一かつ最大の砂糖輸出先であったアメリカによる特恵待遇の停止と国際的な砂糖価格暴落のダブルパンチにより、砂糖に頼る経済は大混乱に陥った。人びとは飢えに直面し、国政的な援助が開始され、「自立」に向けたさまざまな取り組みが行われていく。
 こうやって歴史を「縮めてまとめて」しまうと、なんだか歴史の教科書だかどっかのNGOの刊行物だかを読んでいる気分になり、自分で書いていてもげっそりしてしまうのだが、歴史はそれを誰が語るか、で大きく違ってくる。まさにフィリピンの熱い政治の時代を生きてきたフレッドや子どもたち、そして村の人たちが語るからこそ、歴史がまさに歴史となる。共産党に参加し「山に入って」活動していたフレッドは、それぞれの場面で使いわけてきたためいくつも名前を持っている。子どもたちは、幼い頃経験した空爆により失語症になり、空爆トラウマに悩んでいる。「キレイ、カンタン、キモチイイ」(日立のコマーシャルのキャッチフレーズだったかな)が崇められる社会で生まれてこのかた生きてきた私としては、過酷さや残酷さと隣り合わせの豊かな歴史を、ただ手探りで理解しようとするしかないが、「わけあり」の歴史をくぐってきた家族や村の歴史が、現在の生活と重ね合わされながら、著者の暖かいまなざしによって描きだされていく。その紡ぎ出された歴史に素直に心を打たれてしまう。

──NGOとは何か?

 そして、NGOという援助組織の人間として、やはり真剣になって読んでしまうのは、ネグロスの自立のために支援活動を行ってきた著者の経験が語られる部分である。日本ネグロス・キャンペーン(JCNC)は、前述の砂糖危機からの一連の緊急援助活動を行うために1986ねんに立ち上げられ、そしてその後、農業を軸とした「自立」に向けた長期的な支援を手がけていく。しかし、循環を基礎にした農業の実践、「生産から販売・消費までを農民たちが主体となりその仕組みを作る」ことを目的とした活動は、そう簡単にはいかない。試行錯誤、七転び八起きの奮闘。少しずつ手ごたえや変化を感じつつ、著者はこう問いかけてくる。「自立とは何だろう。『自立のための支援』とは何だろう。では、支援する側は自立できているのか。『非営利団体』という意味しか持たないNGOとはそもそも何なのか?そこで『活動する』自分たちは何者なのか?」と。
 私はこれらの問いに対する明確な答えを持ってはいない。答えられない、というのが正直なところだ。自立した社会とはと問われれば、「関係性が創出され、循環性が確立され、そして多様性が見られる社会でありうんぬん」と述べることはできるかもしれない。しかし、実際に必要なのは、そこに生活している人の目線で考えた自立とは何かを皮膚感覚で理解できるかどうか、なのだろう。
 だとすれば、ネグロスであれそこにいない自分たちにとって、やはり常に問い続けなければいけないことは、後者の質問――NGOとは何か、自立しているのか?ということだろう。そもそもNGOの「自立」とは何か?支援する側は、支援される側がいないと成り立たない。軍需産業を延命させるために戦争を繰り返す某国のパターンのような、援助産業を延命させるために「貧困」や「貧しい人びと」、そしてそれらを「改善させるためのプロジェクト」を作り出していく。変わるべきものの多くが自分たちの足元の社会にあるにもかかわらず、わざわざ海外へ出かけていって援助という仕事を「創出」する。それがいまや自衛隊と一緒に意気揚々と出かけてしまうこともあるからひどいものである。「NGOとはこうえるべき論」を振りかざしてもしょうがないなあと思う反面、NGO職員の端くれとして著者の問いかけを無視するわけにもいかないとつくづく思うのである。でもまあ、「そんなに考えなさんな、だまってカウカウ(牛のように)働くしかないさ」――そうそう「カウカウがんばりましょう」でいきますか!

評者:普川容子 アジア太平洋資料センター<PARC>事務局長

◎Halina「新刊書紹介」 2005年8月1日 第97号掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

  「ねえ、ねえ、読んでみて」と人に勧めたい本は、そう日常的にあるものではない。フィリピンはネグロス島のナヨン村にやってきた「NGOのつっぱり女と5人の子連れのマッチョ男の物語」という帯表紙からイメージされる内容よりも、『ネグロス・マイラブ』はずーっと面白い本なのだ。大橋成子さんは日本ネグロスキャンペーン委員会の現地駐在員としてネグロスに入り、2〜3年で帰国するつもりだったのが、「その予定は完全に狂い」「腐敗したフィリピン政府を打倒するのだと武装勢力に身を投じた」こともあるフレッドとその子どもたちと「ずっと一緒に暮らしたい」という気持ちになり、以来10年ナヨン村に住み続けている。「肩をいからせてNGO駐在員の仕事をしてきたのが」「やたらににぎやかでおせっかい者が多いナヨン村」で暮らしているうちに、「ある日ガクンと肩の力が抜けて、駐在員の目で見ていたネグロスの現実が、まったく違う角度から違う色彩で映るように」なる。そこで、「ズームの広がった目で、これまで自分が関わったネグロスのこと、変な継母と暮らす子どもたちのこと、ナヨン村のおかしな話、この島に生きる人々のさまざまな挑戦を」書いたのが、ぜひ読んでほしいこの本だ。
 ナヨン村に生きている人たちの笑い声や怒鳴り声、煮物の匂いがしてくるようなナマの話が展開されていると同時に、大橋成子という一人の女が70年代後半から生きてきた日本とフィリピンをアジア、世界の政治、経済、文化の歴史的コンテキストからきちんと捉えているところがスゴイ。
 6月のある日東京で『ネグロス・マイラブ』の出版記念パーティーが開催された。80年代にフィリピン民衆連帯運動に首をつっこんでいた懐かしい顔が多くあった。解放、自由、民主主義、主権、平等、参加、ジェンダー、人権、エコロジー、正義、共生、持続的、などなどという言葉の意味する社会変革の運動に、当時取り組んできた金のない多様な「イイ人」たちが、本当に久しぶりに集まった。あの当時の一人であった大橋成子は、今もその社会変革の夢をナヨン村で相当心の余裕を持って追い続けているような印象を受けた。それがつれあいフレッドの村長選挙であったり、水道プロジェクトであったり、農村女性ネットワークのジェンダーワークショップであったりする。20年前の大橋成子がそのために闘っていた"自由"は今、人の目を気にせず、「自分の感じるままに生きていけるネグロス」で、「一人称で本音」を語り、ナヨン村のおしゃべり女の仲間として「なるようになるさ、ケセラセラ」と楽天的に生きることも意味している。
写真も沢山、つれあいフレッドのイラストも入った楽しい「大橋成子的」な本を、ねえねえ、読んでみて。

◎クロスロード「今月の本紹介」9月号掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

──国際ボランティアを考えるための本
『ネグロス・マイラブ』
『モッタイナイで地球は緑になる』

 英国で開かれたG8と呼ばれる先進富裕国の指導者による会議では、「南」の貧困対策への援助拡大が大きく取り上げられた。
 私自身は、アフリカを中心として深刻化する貧困問題に、国際社会の一員として、日本など「北」の府夕刻が援助の量と質を向上させるのは当然と思う。
 ただ、援助議論で私たち「北」の国民・市民が留意しなければならないのは、援助される側の自立のシナリオである。
「魚をあげるより釣り竿を」「魚より魚を獲る網を」とはよく言われる。援助という行為が、何よりもまず、生活向上を必要とする人々の積極的学びにつながらなければ、「あげる側」の都合(「社会的に評価されたい」など)で自己完結してしまうだろう。
 助けることはどう自立につながるのか。この問いに明確な答えをアフリカとアジアの事例で示唆してくれる、出たばかりの本が2冊ある。ケニアの植林運動を紹介した『モッタイナイで地球は緑になる』と『ネグロス・マイラブ』である。両方とも女性による本で、少なくとも援助と自立を考える上で重要な二つの点が共通している。
 一つは、援助対象となる地域の人々が、どう自らの状態に気づき、自立していくかが、プロセスないし運動としてきわめて具体的に記録されていることだ。ケニアのマータイさんは、地域の人々の生活の一部ないし糧となっている自然環境の回復を通じて、自立のシナリオを根気強く進めていく。英文のタイトル『グリーンベルト運動:アプローチと経験を分かち合う』のほうが彼女の主張を正確に伝えている。その試行錯誤の運動の中で大勢の農村女性が「免状を持たない森林官」となって巣立っていく。
『ネグロス・マイラブ』の大橋成子さんも、期限と中身が限定されている「開発プロジェクト」の枠組みから大きく踏み出し、人々の海の中で考え、共に働きかけるプロセスを記述している。
 もう一つは、両者とも、政治に手を染めていることである。援助議論では、政府とともに援助事業をしている場合、しばしば政権の腐敗への言及がタブー視されがちであるが、大橋さんはパートナーとともに、マータイさんは投獄されながらも政治に正面切って関与してきた。政治の不正と戦った結果、大橋さんのパートナーは村長に、マータイさんは国会議員、副大臣になっている。二冊とも、社会を変える手段としてどう政治を利用したらいいかという経験談にあふれている。マータイさんは、政治だけを悪者にする風潮をなげき(237ページ)、大橋さんは村長選で「金に汚く、ずるく、うそだらけの人々と、勇気、情熱、革命を選んだ人々」(39ページ)を発見する。
 これら政治体験から読者に伝わってくるメッセージの一つは、人々が変わることなくして、政治は変わらない、政治を変えなければ、よりよい社会サービスも、より弱者にやさしい社会も、税金がとれる豊かな社会も実現しないということだ。  援助する側は彼らに代わって政治をするわけにはいかないが、相手国の人々の目覚め、自立を妨げ、結果として腐敗した政治を持続可能にしてはならないだろう。

勝俣 誠(明治学院大学教授)


◎JTECS友の会NEWS 66号 BOOK REVIEW掲載

やすらぎのタイ食卓
ラッカナー・パンウィチャイ他著

「日本で手に入る食材で」・・をテーマに、厳選された55品のレシピを紹介。調理方法のイラストは個性的でかわいらしいだけでなく、とても丁寧に描かれていて分かりやすい。また落ち着いた誌面レイアウトや色調はそれだけで"やすらぎ"を感じてしまうもの。ところどころに登場する食にまつわるコラムは上質のデザートといったところだろうか。


◎JTECS友の会NEWS 66号 BOOK REVIEW掲載

ラオスは戦場だった
竹内正右著

 ベトナム戦争当時、米国に協力したため多くの犠牲を強いられたモン族の姿を主要テーマに、戦後のラオスをスクープ写真で綴ったドキュメンタリー写真集。ベトナム、カンボジア、タイといった周辺国に加え、今のモン族の姿をアメリカにも追っており、貴重な写真を見ることが出来る。
冷静に切り取られた作品の数々とそこに加えられた必要最小限のキャプションは言い様の無い説得力を持ち、戦争の悲惨さと人々の苦しみを静かに語ってくれる。


◎JTECS友の会NEWS 66号 BOOK REVIEW掲載

絶望のなかのほほえみ 〜カンボジアのエイズ病棟から
後藤勝著

 カンボジア・バッタンバンのエイズ病棟を3年に渡って取材、患者や関係者の姿を追ったフォトドキュメンタリー。
 殺伐とした病棟の中で、死を目前にそれぞれの思いを向けられたレンズに託した患者たち。フィルムにはそのやるせなさ、怒り、寂しさ、悲しみ・・全てが収められ、読者に大きな衝撃を与える。医師は言う。
 「今、エイズという第二の内戦がカンボジアを襲っているのです。患者たちを助けたい。何かあなたにできることはありませんか」


◎アジア経済 2005.2 掲載

フィリピン歴史研究と植民地言説
レイナルド・C・イレート/ ビセンテ・L・ラファエル/フロロ・C・キブイェン著

 本書は、現代フィリピンの歴史学を代表する学者3名の論文を、編者が独自に集めて翻訳した論文集である。本書の構成は、以下のとおりとなっている。第1部「フィリピン革命史研究からオリエンタリズム批判へ」(レイナルド・C・イレート)[第1章 1896年革命と国民国家の神話/第2章 知と平定―フィリピン・アメリカ戦争―/第3章 オリエンタリズムとフィリピン政治研究]、第2部「アメリカ植民地主義と異文化体験」(ビセンテ・L・ラファエル)[第4章 白人の愛―アメリカのフィリピン植民地化とセンサス―/第5章 植民地の家庭的訓化状況―帝国の縁辺で生まれた人種、1899〜1912年―/第6章 国民性を予見して―フィリピン人の日本への対応に見る自己確認、協力、うわさ―]、第3部「変わるホセ・リサール像」(フロロ・C・キブイェン)[第7章 リサールとフィリピン革命/第8章 フィリピン史をつくり直す]。
 イレートは、第1章で20世紀のフィリピン史の代表的な教科書をとりあげ、フィリピン人歴史家もヨーロッパ史の視点からの啓蒙主義・合理主義的なフィリピン史解釈に囚われていることを指摘する。第2章では比米戦争に焦点をあて、特に戦時中と直後の住民の強制移住、コレラ防疫、センサス実施という3つの政策を検討して、「友愛的同化」と表現されるアメリカのフィリピン統治の本質を暴きだす。第3章では、1960年代以降のアメリカ人のフィリピン政治研究が、いまだに地方のボス支配、パトロン=クライエント関係によってフィリピン政治を特徴づける植民地的言説から抜け出ていないことを明らかにしている。ラファエルは、第4章でまずアメリカ植民地初期のセンサスの形式、実施過程、フィリピン人表象に、アメリカ植民地主義の表出を読み取り、第5章では植民地に来た白人女性の残した記述から植民地的言説を抽出している。第6章では、世紀転換期のフィリピン人エリート層の日本への期待、日本統治期の対日協力者のレトリック(抵抗としての協力)、民衆の日本人についてのうわさを取り上げて、フィリピン人の「国民性」のある側面を照射する。キブイェンの2章は、「反革命・同化主義者」というホセ・リサール像がアメリカの植民地主義者によって意図的に作られたこと、フィリピン人のナショナリスト歴史家までこのリサール像に囚われて誤った評価していることを、実証的に明らかにしている。
 これまで、フィリピン歴史学の大家による通史などは翻訳されていたが、フィリピン史の専門的な論文集の翻訳出版は本書が初めてであろう。「解説」で編者が指摘するように、「植民地支配を数世紀にわたって経験したフィリピンにおいて、今日にまでその社会の深淵に植民地近代性が潜むという歴史的状況を見つめ直し、それに対して批判的検討を行なっている」(360ページ)という共通点をもつが、3人が歴史解釈について必ずしも見解を同じくしているわけではない。キブイェンはイレートの研究に対して批判的である。その点を含め、本書はフィリピン歴史学の最新の論点と最高の水準を満たしていると言えよう。とはいえ、本書は専門家のみに読まれるべきものではない。豊富な訳注によってフィリピン史の知識のない読者にも十分に理解可能であり、歴史学の門外漢にも大きなインパクトを与える。評者は通読して、本省はフィリピン歴史研究であると同時に、アメリカとそのイデオロギーの理解のためにも重要な示唆をもつと感じた。ラファエルのセンサスについての議論は、文化人類学の近年の関心事項にも通ずるものである(青柳真智子編『国勢調査の文化人類学―人種・民族分類の比較研究―』古今書院2004年)。また、イレートの代表作『キリスト受難史と革命』の翻訳作業が本書の編者等によって進められていることを付け加えておこう。
 本書について、歴史学の専門家による本格的な書評が書かれることを期待したい。

評者:玉置泰明(静岡県立大学大学院国際関係学研究科教授)


◎アサヒカメラ 2005年4月号 BOOK INTERVIEW 掲載

ラオスは戦場だった
竹内正右著

秘密にされた戦争
竹内正右さんは1973〜82年、戦火のインドシナに身を置き取材を続けた。そして今回、ベトナム戦争からイラク戦争までのラオスの実情を本にまとめた。

−なぜラオスですか。
「ベトナム戦争の時代に、旧南ベトナムのサイゴンに入りました。フリーなので1ヵ月に一度、ビザ取得のため出国しなくてはならない。そうしてインドシナを回っているうちにラオスの戦争が日本で伝えられているのとは全く違うことがわかった。また75年4月30日にサイゴンが陥落して半年後、西側のジャーナリストはみんなラオスから追い出されて、ぼく一人だけになった。ぼくは革命前から税金を払い、内務省に登録していたから退去させられなかったんでしょうね。それで、とことんやってやろうと思いました。 写真は主にAPなどアメリカの通信社に発表していました。政権が代わって新しい国旗を掲げたり、不要となった旧紙幣の束を焼くシーンなどは、わかるようにカラーでと撮り分けていました」
−取材で危険な目にも遭われてますね。
「76年、ベトナム軍に1日拘束されていろいろ尋問されたし、79年にはクメール・ルージュに捕まり、AP電で報じられたこともありました。ポル・ポト軍の敗走を撮っていたので相手にとってはとんでもないフィルムですよね。隠したのが見つかれば殺されますから出しました。報道は無鉄砲ではいけないし、守っていたら撮れない。状況判断はむずかしいですね」
−写真集のテーマは。
「ラオスでは、公式には戦争は存在しなかったんです。アメリカにとっても、ベトナムにとっても秘密戦争だった。北ベトナムは南に進攻するためにラオスにルートをつくって下らないと勝ち目はなく、戦略上、共産化しなければならなかった。それを防ぐためにアメリカは山岳民族モンを訓練して特殊部隊を組織した。アメリカ軍の代わりに共産軍と戦わせたのです。モンにおびただしい数の犠牲者が出ました。婦女子の犠牲者も多かった。97年にアメリカがようやく特殊部隊と認めましたが、彼らの犠牲がなかったら、アメリカ軍の死者は5、6倍になっていたとペンタゴンが分析しています。そして今もベトナム軍のモン掃討作戦は続いており、またアメリカへ逃れたモンの子孫たちの約3千人が軍に所属してイラクに派遣され、2004年6月に最初の死者が出た。モンの悲劇は終わっていないのです」


◎毎日新聞「今週の本棚」2005年7月31日掲載

ネグロス・マイラブ
大橋成子著

 五人の子持ちのフィリピン人と結婚した日本女性の生きざまを通して、数多の真実を知ることができる。その真実とは、フィリピンで大統領が変わっても改革がなかなか進まない現実、無茶苦茶というべき村の政治、農民たちのひどい苦しさと脱出への苦闘、それを助ける日本のNGOの頑張り、金の面ではとても貧しい農漁村の生活、苦しくても陽気なフィリピン人の国民性などであり、内容がきわめて豊富な本だ。他国において独り生き抜くことによって知らされる真実は、小説をはるかに越える内実を持っている。
 大橋成子さんは、学生時代にアジアに目覚めてNGOで働いていたが、フィリピン農民を支援するために無農薬バナナの栽培を助けて日本に輸出する団体に移って、ネグロスに住んだ。フィリピンの中ほどにある島のネグロスは、19世紀半ばに砂糖農園と化したのだが、1980年代に生じた砂糖価格の暴落で、飢餓の島として世界に知られた。それを救うNGOの活動の一つがバナナ栽培である。
 だがそれは、容易ではなかった。輸送が悪いと熟して日本の港で廃棄され、突然の病虫害で根こそぎ焼く羽目にも陥った。その中から、野菜中心の地道な農業を育てようという活動が始まった。だが、依存病にぶつかった。何代の続いた農園労働生活で、賃金を貰ってのみ働き、金に困れば地主に泣きついて借りるというメンタリティーになっていて、なかなか自主的に働かない。
 大橋さんが苦闘していた中でめぐりあったのが、フィリピン共産党の教育担当であったフレッドだ。アキノ大統領が始めた民主化はつかの間であり、やがて共産党に全面戦争をしかけて、米国のCIAはネグロスを「低強度戦争」の実験場にした。フィリピン政府軍は、米国の支援を受けて空爆でネグロス南部を破壊尽くした。妻に逃げられたフレッドは、五人の子どもを親に預けて、各地を転々とする生活を送っていた。
 大橋さんがフレッドに会ったのは、ネグロスの政治情勢を聞くためだが、二人でラム酒を飲んで、話ははずんで意気投合した。NGOで肩肘張った独身生活をしていたが、ネグロスの生活で肩の力が抜けていて、老後の生活をともに過ごせる人だと結婚を決意した。子どもたちには「変なおばさん」と気に入られて「私たちと一緒に住もうよ」とプロポーズされた。
 ネグロスの小さな村に住み込んで、大橋さんは大きく変わった。それは目線であり、駐在員の目で現地を見るのではなく、村人の一人として共に住む者の目であり、これはその報告だ。
 フィリピンは、日本人の目から見るとじつに不可思議な国である。ここまでに紹介したのは堅い話で、発展途上国の中でもとくに厳しいフィリピンの実情を知って、苦しさが理解できる。
 だが苦しい中でとても陽気なのであり、面白い話が次から次に出てくる。選挙にお祭りのような大騒ぎをし、しかも誰が当選するか賭けがはびこる。学校が子どもたちのビューティー・コンテストを主催して、競ってお姫様のようなドレスを着る。PTAが資金集めのためにビンゴゲーム大会を開く。フィエスタ(祭り)は二日間開いて、誰も寝ようとしない。町がゲイ・コンテストを主催する。
 フィリピンの田舎の人たちはとても素直であり、しょっちゅう怒り、泣き、笑う。ネグロスで1週間寝食を共にする交流に参加した日本の高校生は、最後の日に別れるのが辛いと泣き出した。「日本ではこんなに笑ったり、泣いたり、怒ったりしたことはありませんでした」
(森谷正規)

◎『オルタ』(アジア太平洋資料センター)2005年4号掲載

ラオスは戦場だった
竹内正右著

 ベトナム戦争時、米国は、300tもの爆弾をラオス全土に投下すると共に、山岳民族モンを訓練してモン特殊攻撃部隊を組織した。75年サイゴンが陥落した後、ビエンチャンも陥落し、ラオスから米軍が撤退。残されたモン兵士は、共産側の報復を受けることとなる。この本は、73〜75年を中心に筆者が撮った写真を解説つきで紹介。ベトナム戦争時に米国がラオスで行なっていた戦争は、ほとんど知られていないが、筆者が撮った写真には、その時代に何が行なわれていたのかが克明に記録されている。渡米したモンのラオス退役軍人の子孫がイラク戦争に参軍。まt、ラオス国内に残る多数の不発弾が現在も被害者を出しているという事実。戦争は、現在も続いているという現実をつきつけられる。(猿田由貴江)


◎J朝日新聞2005年6月15日夕刊 日本人脈記 ベトナムの戦場からB掲載

絶望のなかのほほえみ 〜カンボジアのエイズ病棟から
後藤勝著

 岡村(昭彦)にきっかけをもらい、長倉(洋海)に鍛えられた写真家がいる。4月に「絶望のなかのほほえみ――カンボジアのエイズ病棟から」(めこん)を出した後藤勝(38)。バンコクを拠点に社会問題を追う。
 工業高校を1年で中退し、希望を失っていた17歳のとき、古本屋で岡村の「南ヴェトナム戦争従軍記」(岩波新書)に出合う。暗記するほど読み返した。アルバイトでカメラを買い、中米へ。数年後、エルサルバドルで撮った連作写真を日本の雑誌に売り込んだ。自信はあったが、編集者の手紙が届く。「長倉という人がそこで良い仕事をしている。もっと人間に迫り、心を揺さぶる写真を」。長倉は後藤の目標になった。
 97年にカンボジアに入った直後、内戦が再燃し前線へ。「なぜ来た?」。兵士に聞かれ、「怖いけど来てしまった。戦闘の写真が撮りたい」。負傷兵には「おれの写真をいくらで売るんだ」と怒鳴られた。この時の写真ルポ「カンボジア・僕の戦場日記」(めこん)で後藤は世に出る。面識のなかった長倉が書評を寄せた。
「本書は極めて私的な記録といえるかもしれない。が、確実に『人の姿を伝え、今の時代を浮かび上がらせる』
 後藤はその後、途上国のエイズや人身売買などにテーマを広げた。戦争だけでなく、世界には不条理な死があまりに多い。「レンズを向けた人から託されるものの多さに、おののく日々です」


◎『JAMS News 』(日本マレーシア研究会会報)No.31掲載

獅子の町・海峡の風
佐藤考一著

 本書は、インドネシア、マレーシア、シンガポールを「マラッカ3国」とまとめ、それぞれの社会の特徴を整理したうえで、この地域の文化や自然をまとめたものである。
 本書も、「癒しと呪い」を中心的なテーマの1つにしていると言うことができる。インドネシアやマレーシアのドゥクンとシンガポールのタンキーを取り上げ、その実態を紹介して考察を加えている。インドネシアではスハルト大統領自らドゥクンを利用していた。また、シンガポールのように経済開発が進んだ国においても、HDBの1階の自宅の一部を改造して廟にしている例が見られる。これを著者は、人間の弱さと、それを克服しようとするあがきの現われでって、日本を含めて人間社会に共通する生き様を示すものであると結論付けている。それはまた、通信技術やファッションで世界の最先端を行くシンガポールの住民たちが怪談を好み、宝くじを当てるのに近親者の霊を呼び出そうとする姿とも重なるところがあるという。
 本書は、著者が「マラッカ3国」をすみずみまで歩き、身体で感じてきたものを書き記したものである。それだけに、情報のディープさでは群を抜いている。マレーシアの全ての州でナシゴレンを食べ比べてみたり、マレーシア、インドネシア、シンガポール各国の動物園を訪ねてオオトカゲの餌の時間を比べてみたりと、本書は普通ではなかなか思いつかないような情報で溢れている。中国のケ小平、台湾の李登輝、シンガポールのリー・クワンユーがいずれも客家の出自であるというのはよく言われることだが、さらに一歩踏み込んで「この3人はいずれも客家方言が話せない」と見ているところが一味違う。唯一残念だったのが、この3国を「マラッカ3国」とする呼び方を本書ではじめて知ったが、その名前については本書で説明がなかったことだ。これについては機会があったらぜひ伺ってみたい。
 本書のもう1つの特徴は類書に比して写真の点数がとても多いことである。ほぼ全ての項目にカラー写真が何点も入っているが、なかでも、各種スポーツの紹介では分解写真のように何枚もの写真で動きがわかるような見せ方をしてくれるし、動物の項目では紹介された動物それぞれに写真が添えられている。しかも、その写真のほとんどが著者自身の撮影によるものだという。マレーシア、インドネシア、シンガポールのさまざまな文物について、文献で知っていても実物を見たことがないという人にとっても本書はお勧めの一冊である。(山本博之)

◎『DACO 』158号 BOOK REVIEW掲載

間違いだらけのタイ語
中島マリン・吉川由佳著  赤木攻監修

    タイ語学習の壁をよじ登る一冊

 本書は、最近自分のタイ語が伸び悩みだなと感じている人にうってつけの本である。外国語学習を車選びにたとえる大胆な書名。しかし中を開ければそれが決して奇をてらった表現ではないことが分かる。全7章の中に日本人の間違いやすい146の誤用例が正しい表現とともに併記されている。間違いタイ語は×、正しいタイ語は○。Pointでは基礎知識を数行にまとめ、それに続く説明も簡潔で分かりやすい。2色刷りの見やすいレイアウトのせいでタイ文字と発音記号の併記も気にならない。
 品詞活用のないタイ語は系統的に教えにくい言葉で、決定版といえる文法書はまだ世界のどこにもない。コチコチの文法説明がなかなかできないのである。その点、生きたタイ語に長く触れてきた2人の著者が採用した本書のスタンスは単純明快である。つまり「なぜ間違っているのか」という文法解説には目もくれず、「とにかくそうなっている」。
 これって一見無責任に見えて、実は語学学習の基本なのである。実用とは名ばかりの類似書が多い中、「習うより慣れろ」と思い切って使えるタイ語に的を絞った点は大いに買える。ちなみに主な対象は初級タイ語を終えた長期滞在者か。1000語程度のタイ語を知っていないと例文を読みこなすには少しきついかもしれない。
 最後に、監修者の赤木氏は前大阪外国語大学学長でタイ学の専門家。同氏の関連監修書に『タイ語読解力養成講座』がある。

評者・宇戸清治(東京外国語大学教授)

◎毎日新聞2004年12月12日掲載

上海で働く
須藤みか著

 上海はいま、活気が全市に漲っていて、住んで働くのに非常に魅力的な都市である。  その上海で働いている元気いっぱいの日本人たち18人にインタヴューしている。ほとんどが20−30代の若者たちだが、40−50代の人も若干いる。不動産営業、フローリスト、日本語教師、CMプロデューサー、シュークリーム店経営、服飾デザイナー、電子部品メーカー工場統括部長、植物組織培養業など千差万別である。つまり、上海はどのような職でも受け入れるのだ。  もっとも、働き暮らすのに日本のようには平穏無事ではない。「えっ、どうして」というようなことがあっても、楽しければ良いという前向きの人、上海は思う存分仕事をして、しっかり稼げる街ですよ。

◎朝日新聞2004年10月24日掲載

フィリピン歴史研究と植民地言説
レイナルド・C・イレート他著

   長らくアメリカの植民地だったフィリピンは、アメリカナイズされた社会でいかに生きるかという先例を私たちに示しているとも言える。また、1900年前後の比米戦争におけるアメリカの姿は、軍事介入を「愛他的行為」とし、フィリピン人が「互いに殺し合うのを防ぐために彼らに銃を向けた」点で、百年後のイラクでの現状を黙示していたかのようだ。
 本書は、国際的注目度の高いフィリピン史研究者3人の論文集で、一般の読者には馴染みにくさもあろうが、豊富な訳注により興味深く読める。たとえば"国民的英雄"と呼ばれるホセ・リサールを、当時の宗主国スペインとの併合論者で、革命を拒否した人物とみなす、かの国の進歩的知識人に広く共有されている見方は、アメリカによる巧妙なプロパガンダの結果であることが論証される。
 骨絡みのアメリカ化から歴史をどう奪い返すのか。この問い掛けと、私たちも無縁ではありえない。

評者・野村進(ジャーナリスト)

◎読売新聞 2004年8月29日

マックス・ハーフェラール
ムルタトゥーリ 著

  植民地支配批判の古典

 「私はコーヒーの仲買人で、ラウリール運河三七番地に住んでいる」。この有名な一文ではじまる本書、『マックス・ハーフェラール、もしくはオランダ商事会社のコーヒー競売』は、十九世紀のオランダ東インド、現在のインドネシアを舞台とする近代オランダ文学の古典である。
 あるいは歴史の教科書で心当たりのある方もいるかと思うが、十九世紀、オランダ東インド会社では悪名高い「強制栽培制度」が行われた。これは原住民にその労働と時間と土地の一部を割かせ、コーヒー、砂糖、藍、茶、タバコなど、ヨーロッパの市場で大いに儲かりそうな農産物を栽培させた制度で、一八三〇―五〇年代にはオランダはこの制度によってその歳入の三十―五十パーセントを調達した。本書はこの制度の過酷さ、さらにはオランダの植民地支配そのものに根ざす偽善、暴力、腐敗、癒着、事勿れ主義を描き、同時にこれを、オランダでコーヒーと砂糖を扱って大いに潤う二人のオランダ商人の豊かな生活と対照する。
 著者の本名はエドゥアルト・ダウエス・デッケル。スマトラ、メナド、モルッカ、ジャワなど、オランダ東インド各地で行政官として勤務経験のあるオランダ人である。ムルタトゥーリとはダウエス・デッケルが古代ローマの詩人ホラティウスの詩の一節から作ったラテン語で、「われ大いに受難せり」を意味する。
 本書は一八六〇年に出版され、十九世紀後半には強制栽培制度批判の書としてオランダで大きな論争をまきおこした。また十九世紀末以降は、植民地支配批判の書として、インドネシアではもちろん、その他のアジアの国々でも、ホセ・リサールのようなナショナリストによって広く読まれ、現在では「ポスト・コロニアル」研究のテキストとなっている。翻訳はひじょうに丁寧で読みやすい。昨年十月刊だが、あえて勧めたい。佐藤弘幸訳。
評者 白石隆(京都大学教授)

◎西日本新聞「ASIAトゥデー」、2004年5月17日掲載

韓国で働く
笹部佳子著

 ソウル在住のフリーアナウンサー、笹部佳子さんが韓国での暮らし方のノウハウや、実際に現地で働く人たちのインタビューなどをまとめた「韓国で働く」を出版した。単身渡韓した自身の経験を基に、ビザの取り方、住まいの探し方など、年々身近になる隣国で生きるための指針や生活情報が詰まっている。
 内容は「旅立つ前に」「日常生活」「住まい」「仕事を探す」などの項目ごとに、笹部さんが現実に困ったことを中心に丁寧にアドバイスが書かれている。例えば薬など「日本から持参した方がよいもの」のリストのほか、生活用品の安い買い方、賃貸住宅の種類と家賃の相場、求人情報の見つけ方―などなど。
 こうした韓国で即役立つ情報が、並載されているソウル在住の17人の日本人のインタビューに表れた韓国生活の楽しさ、苦労、働く中で得た韓国人観あるいは日韓関係への視点などと重なり合う形で、「韓国で働く(暮らす)」ことの意味や全体像が浮かび上がる仕組みだ。
 インタビューに登場する日本人は、自分1人で韓国に来て、現在大きな組織に属していない人を選んだという。テレビディレクター、美容院経営、コピーライター、ロックミュージシャン…。企業駐在員とは異なる、実に多様な職種の日本人が現在韓国で働いていることに驚かされ、2つの国の「近さ」にあらためて気付かされる。
 笹部さん自身、NHKを退職後、福岡でフリーのアナウンサーをしていた2000年、サッカーワールドカップを前に「韓国での成功」を夢見て海を渡った。なけなしの貯金60万円を手に、家賃月60万ウオン(約6万円)の地下室から韓国生活をスタートさせた。語学学校に通う傍ら、日本語教材のナレーター、日本語情報誌ライターなどの仕事を自分の力で見つけ、ここまでやってきた。お金がなく米だけを食べる日々の中で、「体当たりしないと死んでしまう」との思いから必死で頑張ったという。歴史的背景から、日本人ゆえに受ける厳しい視線にも耐えてきた。
 それでも笹部さんは「この国には自分自身の可能性を試す面白さがある」という。役割をあらかじめ決め仕事をする日本とは異なり、すきまだらけだが何でも自分の裁量でやれてします魅力に加えて、一度信頼関係を築いたら心底支えてくれる人たちの存在。「本当に苦労は多いし、あまりお勧めしないけど、なおかつ来てみたいという人たちのためになるなら」。笹部さんが著書に託した、万感こもるメッセージだ。
ソウル支局 藤井通彦

◎HOT CHILIPAPER「book release information」、7月号掲載

韓国で働く
笹部佳子著

 女性起業家、ミュージシャン、大学教授…韓国に暮らし、あらゆる分野で活躍している日本人17人のインタビューを掲載。さらに、ビザの取得法や仕事の探しについて、家探しや運転免許の取得、銀行口座の開き方など、韓国で生活するためのノウハウが詳しく紹介されている。著者は、韓国に魅せられ、留学した元NHKアナウンサー。

◎日米タイムズ、2004年2月28日掲載

カリフォルニアで働く
浅田光博著

 ナショナル・フットボールリーグ(NFL)49ersのチアリーダー安田愛さん、シリコンバレーのバイオテクノロジー起業家でNHKのど自慢グランドチャンピョンの桝本博之さん、気持会のソーシャルワーカー吉本明美さん――。
 ベイエリアでもなじみの顔がたくさん登場し、それだけでも興味がそそられる本書のタイトルはずばり『カリフォルニアで働く』。めこんから出版されている「海外へ飛び出す」シリーズの第四弾で、著者の浅田光博にとっては『フィリピンで働く』に続き二冊目になる。よくぞここまでそろえた、というようなユニークかつバラエティーに富んだ職業に従事する21人を取材し、それぞれの角度から仕事観、生活観などを思う存分語ってもらっている。
 「日本で生活する悩める人たちに、生きていく活路を見つけるためのヒントを提供したい」と浅田が言うように、本書はアメリカで働きたいと思っている日本にいる日本人向けの指南書だが、すでにこちらで生活し「カリフォルニアで働く」を実践している人にとって読む効用なしかといえば、そういうわけではない。改めて外国で働くことの意義を考えさせる、これも本書の役目だろう。
 実際に当地に住む者には、人物と話の背景が分かりやすく、つらさ、楽しさ、うれしさはよく理解できるはず。それぞれの話に「そうそう」と共感することも、「えーっ」と驚くことも、また反発することもあると思う。ちなみに筆者の場合は誇らしさと反省だった。同じ日本人で、同じ土地で、こんなにもいきいきとしている人がいるということはまるで我がことのように誇らしく、日本にいる両親に読ませようという気持ちにらなった。が、我が身を省みると"いきいき度"がそこまでないと感じてがく然。半面、「よし頑張ろう」という志気は高まる。生活に疑問を抱いている人、とくにこれから就職(転職)しようと考えている人にはヒントを与えてくれるだろう。
 本書はまた、ベイエリアの情報書でもある。たとえば、教育学博士の田中真奈美さんの話はバイリンガル教育の実情を、弁護士の藤木慎太郎さんは気になる法律の話を説いている。こういった話はこちらにいる者でしか実感できない。
 巻末には「インフォメーション」としてカリフォルニアで生活する上で必要な情報が細かく掲載されている。渡米したばかりの人には、非常に便利。
 浅田は冒頭でフィリピンとカリフォルニアでの取材活動を通して「海外でこそ力を発揮するタイプ」の存在を見、その筆頭が大リーグで活躍するモントリオール・エクスポズの大家友和選手と言う。このタイプ、周りにたくさんいそうな気がする。

◎清流、6月号掲載

夫婦で暮らしたラオス
菊地良一・菊地晶子著

 2000年から2年間、農業普及番組の制作指導のためにラオスで暮らしたテレビ・ディレクターとその妻が綴った生活体験記である。 国民1人当たりのGDPが日本の100分の1といわれるラオスだが、高度成長以前の日本を思わせる素朴で人情味あふれる人々の暮らしに2人は魅せられる。甘味と酸味のきいた料理、市場でのおあばさんとの気さくな語らい、子供たちが水浴びをするメコン川の夕景などが豊富な写真とともに紹介される。新年に親族が集まって開かれる、幸福を祈願する儀式「バーシー」や、雨季の終わりに寺院で行なわれる灯籠流しなど、独特の習俗も興味深い。 悠久のの時間の流れにみを委ねている人々を慈しむ夫婦の眼差しは、同時に効率とスピードを追求する日本への問題提起ともなっている。

◎クロスロード、5月号掲載

夫婦で暮らしたラオス
菊地良一・菊地晶子著

 ラオスの首都ビエンチャンで農業普及テレビ番組の制作指導に当たっていた2年間の体験をまとめた1冊。日本人が忘れてしまっている「スローライフ」。人情あふれる素朴な生活とゆったり流れる時間がラオスにはある。忙しい日常から一時離脱し、本書の与えてくれる「スローライフ」を味わいたい。

◎日本農業新聞、2004年2月23日

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 タイの最貧地帯といわれる東北地方の村、イサーンは、昔から培ってきた知恵と、地域に生きる人たちが力を合わせ、国際化を切り抜けてきた。貧しくとも誇り高いイサーンの農民とそれを支援した日本の非政府組織(NGO)の熱い思いの活動記録だ。
 世界の農民たちを踏みにじるグローバリゼーションと大量消費社会の嵐。タイでは近代化の名のもとにさまざまな法的規制、課税が農民の知恵と文化を切り裂く。しかし、それらに対抗して、有機農業、地場市場など、さまざまな試みが成功を収める。支援した日本の若者たちの熱い思いが頼もしい。
◎『農業と経済』(昭和堂発行)2004年6月号

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 本書は、タイ国東北部の農村で、地域経済や地域社会の再興に尽力してきたNGO活動家の記録である。経済発展の進むタイで、遅れた農村地域・貧困の代名詞となっていたのが東北タイである。その人口の大多数を占める農民は、これまで変動の激しい輸出農産物の価格や、抜け目のない中間業者、政府の気まぐれな経済政策に文字通り翻弄され続けてきた。その彼らが、著者たちの活動をひとつのきっかけとして、多様な地域資源を有効かつ持続的に活用できるような等身大の農業・経済システムの構築をめざしてさまざまな活動をはじめる。そのひとつが、村の朝市や、村と町を結ぶ農産物直売市場の実現である。物資の供与や財政的支援を中心とする従来型の援助ではなく、経験交流を通した人づくりの主眼をおき、あくまで村人自身を主役として小さくても確実なところからはじめる、というNGOならではのプロジェクトの基本方針が、ここではみごとに成功をおさめている。
 本書の特徴は、そうした地域おこしの活動が、無味感想な記録としてではなく、著者と地元農民との交流を軸にいきいきと描かれているところにある。そこでは東北タイ人が愛する酒と歌が、重要な要素としてしばしば登場する。たとえば村人のドブロク作りが、それを誇るべき伝統として回復しようとした農民の運動が実を結んで合法化されたというのは実に愉快な話だ。そうした社会運動(やそれが対峙している現実)は、プロの音楽家によって歌として表現され、その歌がまた運動や人びとの日常生活の支えとなっている。本書には他にも、東北タイの農業や環境の変容、農民の日常生活の変化、NGO活動の動向などに関する記述が豊富に盛り込まれており、農民の視点から東北タイの社会と経済の変動を理解するための優れた入門書ともなっている。
 なかでも私が感銘を受けたのは、ある農民が祖父からよく聞かされたという次の言葉である。「とれた魚を長く保存するのに一番よい方法は、独り占めするのではなく、他人に分け与えることだ。そうすれば、自分が獲れなかった時に助けてもらえるから」。この言葉は、いまではもう薄れてしまった「分与の経済」が以前のタイ農村には存在していたことを示すと同時に、現在の世界の困難を打開するためにも重要で、深い知恵のありかを示唆しているように思えてならない。たとえば、これを「戦争やテロリズムを防止するのに一番よい方法は、富を独り占めするのではなく、それが他人にも行きわたるようにすることだ」と読み替えてみることはできないか。相互不信と暴力の悪循環に落ちゆく世界のなかで、著者とその仲間たちの国境を越えた軽やかな連帯の運動は、別の未来の可能性をたしかに提示してくれる。

評者 近畿大学農学部講師 鶴田 格

◎Trial & Error、2004年3-4月号

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 「タクシン首相に見習え」
そんな言葉が昨年のWTOカンクン会議前後から日本のマスメディアで見られるようになった。AFTA交渉に積極的なタイの首相を、構造的経済停滞から抜け出すために日本もみならったらどうかという論調の中でである。
 しかし、タイの人々には何が起こっているのか。タクシン政権は三十バーツ医療の提供や土地なし農民への耕作地付与など、自ら「ウアアートーン」(=惜しまぬ扶助)と命名した政策を打ち出し、底辺層からの支持が厚いという報道が多いが、本当にそうなのだろうか。
 「イサーンの百姓たち――NGO東北タイ活動記」を読むと、ウアアートーン政策もAFTAも、タイの農民や百姓たちにとってはあまりありがたくないもの、かえって迷惑なもの、ということがわかってくる。
 それは、タイの百姓たちはタクシンが持ち出すずっと以前からウアアートーンの仕組みを持っており、それが弱められてしまったのは他ならぬ政府の開発優先政策のためなのだという彼らの認識が、自分たちの言葉でこの本にはっきりと語られているからだ。そして、それを取り戻すには、AFTAに乗ってジャスミン米やドリアンを遠くの誰かに食べてもらう必要はなく、以前の仕組みのねじを少しまき直し、身の回りにいる人々とつながることだけで充分なのだということを、朝市プロジェクトなどの新しい活動の中で彼らが示しているからである。
 自立を模索するタイの百姓の前にはさまざまな問題が出現する。会議で話しても結論の出ない話題は酒席へもつれこむのが常だ。著者がイサーンの人々からゲーオ(グラス)というあだ名を冠されたのは、そこまでとことん付き合い、首を突っ込んだからだ。新しいかたちのNGO活動記だ。
評者:岡本和之(ジャーナリスト)

◎恋するアジア、43号掲載

イサーンの百姓たち
松尾康範著

 タイの中でも東北イサーンは貧しいところである。社会のグローバル化(巨大資本が乗り込んでくる。社会のグローバル化(巨大資本が乗り込んでくる)により村はどんどん貧困になっていき、それに抗して手作り農業を確立し、地域(市場)を設営し、自立の道を探っていく。この本にはその活動記が書かれている。ただ残念なのは、地元の農民の声があまり書かれていないことである。活動を進める代表の声は書いてあるが、活動に参加していない人、市場のルールに反感を覚える人など、幅広い周辺の人の声が書かれていれば、もっと説得力の増す本となっただろう。こうした活動は大きくなれば硬直化(閉じて過度にシステム化され官僚的になる)していく危険がある。そのへんの矛盾をどう回避していくのか、目先の策だけでなく、システム構築の将来についても述べて欲しかった。著者はまだ若く思考はナイーブ。著者に好感を持つ本だった。

◎北海道新聞『世界文学・文化アラカルト/インドネシア』、2004年2月12日掲載

マックス・ハーフェラール
ムルタトゥーリ 著

植民地時代伝える名作
 1860年の出版とともにオランダでセンセーションを巻き起こした小説「マックス・ハーフェラール」の日本語訳が再び出版された。戦中の1942年(昭和17年)に訳されたときには文部大臣推薦図書になった。戦後は目にすることもなくなってしまったが、今回の訳書(佐藤弘幸訳、めこん刊)は原作の素晴らしさを遺憾なく伝える素晴らしい訳に仕上がっている。
作者は、ジャワに派遣されていたオランダ人植民地官僚の一人であったダウエス・デッケル、ペンネームを「ムルタトゥーリ」という。この小説は作者の分身ともいうべき主人公マックス・ハーフェラールの口を借りてオランダの過酷な植民地政策を内部告発したもので、たちまち当時の問題作となった。本国と植民地を行き来する植民地官僚たちの世界、オランダ社会の東インドに対する認識、土地の役人とオランダ人官僚との関係などさまざまな事柄が、この小説から読み取れる。作者のリアリスティックな描写は、研究者のための貴重な歴史的資料ともなってきた。一方、一冊の文学作品としても高く評価され、今なお十九世紀のオランダ文学の不朽の名作として読まれ続けている。
 ムルタトゥーリはこの小説が出版された後もいくつかの作品を発表したが、不遇のうちに1887年、ドイツで客死する。現在、彼の作品と研究書を集めた小さなムルタトゥーリ博物館がアムステルダム市内にある。そこには世界の二十七の言語に翻訳された「マックス・ハーフェラール」が並べられている。インドネシア語には一九七〇年代に翻訳され、版を重ねている。このような書が当時の政治的な圧力を受けながら宗主国で出版されたこと、オランダ文学の名作として読まれ続けていることは興味深いことである。オランダ領東インド時代のインドネシアや、オランダとの関係を知るための格好の書である。
評者:森山幹弘(南山大学助教授)

◎文化人類学(旧民俗学研究) 2004年69−3号掲載

ゴーゴーバーの経営人類学――バンコク中心部におけるセックスツーリズムに関する微視的研究
市野沢潤平 著

 野心的な作品である。中心的な内容とすれば、バンコクのゴーゴーバーの民族誌的研究という、それ自体一般の耳目を集めるであろうトピックであるが、研究成果を一民族誌の枠にとどめることに満足せず、「経営人類学」という未だ本格的な一分野として形成されていない分野名称を前面に出して、その「視座の価値」を強調し、「<親密性産業>の経営人類学的研究」として位置づけている。したがってその論理構築において、最も関連する分野と考えられる経済人類学に対しても批判的な評価を下すばかりでなく、さらに人類学の領域を越えて、新古典派経済学や経営学の見方にも批判の矛先を向けることで、「経営人類学という視座」の有効性を浮き彫りにしようと試みている。そのような大胆な試み自体には何ら異議を唱えるものではないが、現代の経済学や経営学を専門とする研究者にとって妥当性ある批判であるのかどうか、私自身そのような分野には門外漢ではあるものの、一抹の懸念を持った。懸念を払拭する意味でも、幅広い読者に読まれるべきである。
 さらに大きな懸念は、「経営人類学」という名称のもとに行われてきた先行研究への言及の皆無、あるいは少なさである。経営学者村山元秀がすでにその名称で複数の著作を出しているし、人類学内でも中牧弘允が経営学者や経済学者とともに行ってきた学際的な研究成果が幾つかある。後者については、本書の冒頭部にわずかに言及があるばかりで、著者は自らを、そのような先行研究の中でどのように位置づけているのかほとんど不明なままである。
 以上のような不確かな大枠の内側で、仕事あるいは職業の民族誌としての記述説明にはおおいに関心が惹かれる。まず、「従来のセックスツーリズム研究の本流である、女性に対する家父長制的な支配と抑圧の構造をマクロ的な視点から描きだす」といったアプローチではなく、ミクロの視点から、バーガールとお客の間のface-to-faceの多様な関わりの有り様ばかりにとどまらず、さらにバーガール間の人間関係のあり方も記述することで、この仕事あるいは職業の、重層的な意味での不安定性という一大特性が浮き彫りにされている。
 この作品は、第4章「ゴーゴーバーの市場論」と第5章の「経済外的な関心と私的な親密性」の二つの章が中核を成していると思われるが、クリフォード・ギアツのバザール型市場論を引き合いに出して類似と相違を明らかにすることで、バザール型市場論を拡大してみせている。その議論も興味深いが、私が最も楽しく読めたのは、バーガールの職業形態が「オクシモロニック・ワーク(Oxymoronic=撞着語法)」と著者が命名するような性格のものであるという指摘と説明内容である。舌のもつれそうなオクシモロン(oxymoron)という用語は、「無慈悲な親切」「公然の秘密」「ゆっくり急げ」「輝かしい失敗」といった表現のように、「意味が矛盾する2つの語句を並べて言い回しに効果を与える修辞法」という意味だという。バーガールの仕事とは、一言で言えば「<親密性を売る>仕事」と表現できるようなものだそうであるが、本来、気が合うとか、馬が合う、好みのタイプだ、といった個人的感情に根ざす「親密性」というものは本質的に「商品になりえない」ものであるのだから、「親密性を売る」と呼ぶにふさわしいバーガールの仕事の性格には、「公然の秘密」といった表現と同列の自己矛盾を孕んでいると著者は指摘する。つまり、バーガールとは一種の個人経営者として、体を張って経済的計算をしながら利益を得ようとするものでありながら、お客によりよくアピールするには、むしろ個人感情のような、いわば「経済外的関心」があったほうがよく、結果として経済的成功の可能性を高めることができるというのである。愛人関係や本当の恋愛関係から発展してお金持ちと結婚にすら至るのは、いわば究極の成功例であるという。無論、親密でお人よしというだけでは、逆に客に騙される可能性も高いわけで、バーガールは「経済的関心」を持っていることを大前提にしている。しかしお客も、バーガールとはそのようなものであることがわかっているからこそ、私的な親密性――それはバーガールの主観に照らしても、経済内的な計算の枠を越えた心情である――が客にはアピールする力となることに論理的な矛盾はない。
 また、このように、経済的計算ばかりでなく、それをも離れたところで私的な親密性を表現する職業女性の元に、日本人や欧米の男たちが足繁く通う背景として、男女平等意識が高まり、男というだけでは自動的に尊重もされなくなった先進諸国の現実や、たとえば日本などの性風俗の有り様が、ファッションヘルスなど、男女の間の感情を差し挟まない画一した性サービスとなっているといった現実もあるという。男の甘ったれであり、国威の差を個人レベルの差異と錯覚した男の身勝手と言えばそれまでだが、バンコクのゴーゴーバーは、そのような要素も背景として成り立っているという。国際的性ツーリズム産業を微視的に見ることは、ゲスト国の有り様にも光が当てられることになる。  最後に、できれば後学のためにも、どのような調査方法、あるいは調査上のリスクマネジメントが取られていたのか、紙面をさいてより詳しい説明を聞かせていただきたいとも思った。

評者:住原則也(天理大学国際文化学部地域文化研究センター)

◎文藝春秋「BOOK 倶楽部」、2004年4月号掲載

ゴーゴーバーの経営人類学
市野沢潤平 著


タイ実地調査でバーガールの経済効果を読みとく


評者:松原隆一郎(経済学者・東京大学教授)
   福田和也 (文芸評論家・慶応大学教授)
   鹿島茂  (フランス文学者・共立女子大学教授)

松原:女性の晩婚化と同時に男性の未婚率も上昇しているわけですが、その背景とも言える観光風俗産業について、経営人類学という観点から論じたのが、市野沢潤平氏の『ゴーゴーバーの経営人類学』です。
タイのゴーゴーバーは、風俗店といっても直接的な売春ではなく、客とバーガールが出会う場であって、女性を連れ出せるけれども、店外で性交渉を持つかどうかは店側は関知しないのが特色です。酒を飲んで帰るだけでもいいし、実際はそういう客のほうが多い。女性は自営業主なわけで、その経営形態が分析されています。
日本からは年間70万人の男性客がタイを訪れていて、もちろん全員がゴ−ゴーバーに行くわけではないけれど、一方東京都では三十代前半の男性の未婚率が54%といいますから、無関係の現象とはいえないでしょう。
鹿島:これは修士論文に大幅加筆した本だそうですが、タイでの長期にわたるケーススタディーが詳細に書かれているのがいいですね。<ケース12>で紹介されている、日本から月々送金しているのにたまにタイを訪れてもあまり歓迎されない男性の例なんて、哀れすぎる(笑)。
『結婚の条件』で結婚は経済的な営みと書かれていたけれど、この本でも、バーガールという存在が自己利得を最優先させるエコノミック・マンとして分析されている。ただし、当然ながら男女の仲だから、最大の利益を得るという目的の他に、客との間に恋愛や友愛が生じて、関係が多様化しているのがおもしろい。
松原:ゴーゴーバーに魅了された観光客は年に十回以上もタイを訪れるそうですが、彼らは日本にいる時も男同士である種の社交空間を作っていて、インターネットにはタイ風俗の情報交換サイトがいくつもあるし、ガイド本も売られている。日本では80年代から風俗目的の観光旅行があったけれども、いまは単なる買春ではなく、もっと複雑で独特な現象に発展していることがよく分かります。
福田:<ケース15>の山本君という男性も、最初は性交渉を目的としていたけれども、最近はバーガールと友達感覚で付き合うことに価値を感じていて、あからさまに客として扱いを受けると気分が壊れるというのは、昔ながらの廓話ですがね。
松原:日本の場合、ソープのような性交渉の場では恋愛感情は拒絶されるし、逆にキャバクラでは性交渉に発展したら女性の負け。しかしゴーゴーバーは、恋愛と性交渉が両立可能な不思議な空間で、とくに対女性弱者である「負け犬」男性にとっては、日本の風俗店にはない魅力があるわけですよ。
鹿島:日本でも80年代までは。温泉地や歓楽街のソフト・ピンサロで、性交渉と擬似恋愛が共存していたんです。ハード・ピンサロではいきなり性交渉が始まるけれども、不思議なことに、そこでも性欲処理だけで終わらずに微妙な恋愛感情が生じる。馴染み客となって何度も通ううちに、情が湧いてきたりする。いわんや、性交渉なしのクラブでは擬似恋愛ばかり。なかにし礼を代表とする70年代前半の歌謡曲では、そうした水商売関係が随分歌われてきました。
僕は、1985年のプラザ合意が、日本の風俗を変えたんだと思うんですよ。ピンサロ黄金期が、円高を契機に、東南アジアに流れたんじゃないかな。
松原:タイにはマッサージパーラーと風俗もあって、性行為自体を売るという点では、こちらの方がピンサロに近い。ゴーゴーバーは、あたかも自由恋愛が可能であるかのような幻想が売りである点が、特徴なんです。
鹿島:今の日本では、恋愛を夢みる部分も、イメクラという形で制度化されてしまったからね。
福田:擬似恋愛があるのは、イメクラよりも援助交際だと思いますよ。
鹿島:いや、それはフィールドワークが足りない(笑)。というのも、擬似恋愛というのはある程度閉じられた空間の中で、複数の人間の中から相手を選び、かつ相手に選ばれるという設定が必要なんですよ。不特定多数の踊り子と客が邂逅して、その中から気に入った相手に話しかけるというゴーゴーバーのシステムは、それをよく踏まえている。
松原:日本人男性は知らない女性に話しかけるのが苦手でしょう。海外ではなぜか話しかけやすくなるんですが、さらにゴーゴーバーでは女性の方から話しかけてくれる。しかも、風俗でありながら表面上はただ酒を飲んでいるだけなので、日本人のシャイな男性にとっては非常に幻想を持ちやすい状況です。イメクラでも援交でも、これほど男性は救われないと思いますね。
――略――

◎週刊朝日「本棚の隙間」、2004年3月12日掲載

ゴーゴーバーの経営人類学
市野沢潤平 著

  幻のような擬似恋愛ゲーム

 切実さと展開の意外性で、目が離せない漫画がある。『週刊ビックコミックスピリッツ』掲載の『ルサンチマン』だ。
 ボーナス時のソープが唯一の楽しみという主人公「たくろー」は冴えない三十男、印刷工場で働いている。旧友の越後は引きこもりだが、最近妙に余裕がある。追求すると参加型の美少女ゲームにはまっており、ゲームの中では美少年「ラインハルト」として五人の美少女にかしずかれているという。さっそく大枚をはたいてゲームを始めたたくろーは、バーチャル世界で高校時代に若返り、南海の孤島で美少女キャラクター・月子に出会う。ところが彼女は何故か「他に好きな人がいる」と言い、「誰かに気にとめてほしんだよ」と泣くたくろーに、「私、いつもたくろーさんのこと考えてるもん!」と胸を叩く。現実のたくろーは、顔面や両手にリモコンを装着し、自室で悶えているだけなのだが。
 作中の時代は2015年。ソフト開発に携わっている友人に尋ねると、技術的にはありうる設定だと言う。女性から冷たい視線で値踏みされたり話しかけられて無視されるのに耐えられない男性にとっては、他人ごとではない話だろう。では現在の現実はどうか。
 『ゴーゴーバーの経営人類学』を読むと、1980年代からバンコクのパッポンや近年ではスクムビット周辺、ビーチリゾートに集中立地する「ゴーゴーバー」がこの美少女ゲームと等価であるかに思えてきた。16歳から23歳あたりの女性たちが水着もしくはトップレスで踊り、着席して酒を飲む客の間を回遊しては話しかけ、ドリンクをねだり、交渉が成立すれば店外デート(「オフ」)してくれる。
 タイの風俗店といえば、80年代まで日本人による「買春パッケージツアー」が批判を浴びた。ゴーゴーバーもそのたぐいと思われるかもしれないが、事情は相当に異なる。買春は公式には犯罪であるために、ゴーゴーバーは場所を提供し、連れだし料とドリンク代を収入源とする。客にしても飲んで喋り、踊りを眺めるだけで帰る場合の方が多いという。女性たいは個人事業主として「オフ」で営業するのだが、性交渉は月に10回に満たない。
 ではゴーゴーバーは、何を売っているのか。それは「私的な親密性」だ、と著者は述べる。売春が行われたとしても単発であるだけでなく愛人となったり、食事やディスコに出かけるだけの関係から恋愛・結婚もありうる。愛人からの送金を元に、若い日本人男性をヒモにするケースすらある。男性にとっては幻のような
擬似恋愛ゲームがそこでは繰り広げられているのだ。
 本書は実は修士学位論文で、仕上げるために市野沢氏は1年間に週5日、1日当たり3、4軒を梯子し続け、30名ほどを元に24の具体的なケースを記述している。「ケース21」の男性「オサム」は、半年を日本で期間工として勤め、残りはバンコクで過ごす。「日本にいるときに比べ、遥かに女性と打ち解けやすい」からだ。相応の努力も惜しまない。タイ語を独習し、毎日地道に各店舗を周遊しては、まだすれておらず口説きに乗りやすい十代女性を探している。ここにも、もう1人の「たくろー」がいる。
 ここで紹介されているのは、「男性旅行者による解発途上国の女性の搾取」といったフェミニスト的視角では説明つかない現象だ。タイで金銭を伴う性交渉は、日本人女性がタイ男性に支払う形でも行われているし、春になると学生も大挙して飛来してバー通いを始める。といって主流派経済学の理解も及ばない部分がある。性交渉にかんしてバーガールは安すぎる支払いを「面子がつぶれる」と考え拒否するし、男性側の究極の目的は、金銭を伴わない恋愛関係に入ることという風に、経済外の動機が強い。
 日本では女性の晩婚化とともに男性の非婚化も顕著になっているが、「ゴーゴーバー」現象は確実にそうした傾向を下支えしている。
評者:松原隆一郎

◎世界週報(時事通信社)2004年8月3日号

シルクロード・路上の900日
大村一朗 著

─ひたすら歩く1万2000キロ

 手に持てば辞書ほど分厚く重たい。章ごとに旅程を示す地図と中央部に数葉のスナップ写真があるだけの無味乾燥な体裁。果たして最終章まで読了できるのか、そんな不安がよぎる。ところが読みだしたら止まらない。未読部分のページがだんだん少なくなるのが惜しくなる。ローマに早く着きたいという気持ちと、そんなに早く着いていいのかという著者の複雑な心境が共感できる。
 最近にない不思議な読書経験だがその理由を考えてみた。めっぽう面白いのだ、と言ったら著者に失礼になる。なぜなら著者は大まじめなのだ。大学3年生の時、シルクロードを西安からローマまで1万2000キロを徒歩で歩き通すと決意し、大学卒業と同時に2年半で実行してしまった。それは壮絶としか言いようがない苦難の旅だ。
 著者が自らに課した戒律は「ひたすら歩く」こと。生活道具を詰め込んだリュックを背に炎熱の砂漠の道も、酷寒の天山の道もひたすら歩く。通り過ぎる乗用車やトラックから「乗れ」と親切に声を掛けられても断る。それはあらゆる誘惑を退ける青年修道僧のような趣さえある。
 象徴的な出来事が中国新疆ウィグル自治区の省都ウルムチで起きる。旅券の滞在期限切れを理由に、公安当局が即刻国外退去を命ずる。期限延長を交渉するが相手は頑として聞き入れない。外国人立ち入り禁止区域に日本人がウロウロするのを警戒したのかもしれない。ならばと、彼は香港にとって返してビザ更新し、再びウルムチに戻り天山北路を歩きだす。中央アジアのトルクメニスタンからイランへ入る国境でも同じ経験をする。
 だが、彼はひたすら歩くことをやめない。何が彼を駆り立てるのか。それは未知への遭遇ではないか。私事になるが、書評子も著者が歩いたシルクロードのほぼ全行程に行ったことがある。と言っても飛行機とバスを乗り継いでの旅行だが、時速100キロ近いバスツーと一日30キロ前後の徒歩旅行とにどれほど違いがあるか本書を読んではっきりと分かった。
 明日は何が起きるか。どんな風景が現出するか。それが、ある意味でバックパック・ツアーの楽しみであると同時に本書のページをめくる魅力でもある。例えばウズベキスタンである家庭に招かれ一家挙げて歓待される。一夜明けて財布がなくなったことに気づく。
 もちろん悪い話ばかりではない。むしろ温かく歓迎される話の方が多い。特に「危険だから行くな」と言われたルーマニアのロマ(ジプシー)村落での交流はほほ笑ましい。「中国から歩いてここまで来た」と言うと村中総出でごちそう攻め。「うちの娘を嫁にもらえ」と言いだす婆さんも出てくる。
 最終目的地ローマ市街を見下ろすカピトリーネの丘に立った時の感想がいい。「すべてが終わって、やはり自分はからっぽになってしまったのだろうか」と問いつつ「これからが本当の勝負なのだ」と思い直す。青年だけに与えられた特権かもしれない。(増山榮太郎)

◎じゃかるた新聞「読書欄」、3月27日掲載

シルクロード・路上の九〇〇日大村一朗 著

  ――西安からローマまで徒歩で

 一人の日本人青年が中国の西安からイタリアのローマまで二年半かけ、徒歩で旅した記録である。すごいことを思いつき、達成したものだ。そのことだけで脱帽し、賞賛に値する。
 今、日本人の海外旅行は飛行機で速く目的地に行き、豪華なホテルに泊まり、ガイドブックを頼りに観光するのが主流だ。安宿に泊まり、屋台などで安く食事を済まし、長期の旅を楽しんでいるバックパッカーもときどき見かけるが、1万2千キロもの距離を歩き通すことが目的の旅など聞いたこともない。
 私は読めば読むほど、著者の体験に圧倒され続けた。
中国の内陸部には外国人未解放区が点在している。公安に見つかりパトカーで解放区の町まで連行されるが、事情を説明し、また元の地点に戻り、徒歩旅行を再開させてもらう。
 中央アジアでは零下10度まで下がったテント内で凍傷にかかり、片耳をなくした自分の顔を想像し、泣きそうなほどうろたえる。
 数日間村一つない国を歩くため、食糧をロバに乗せ雪道を出発するが、逃げられ、追いかけっこをする羽目になる。そしてそのロバと心を通わせる。 物にあふれたイランに入る