【書評再録/2000年以前】
メコン川流域、アジア全域

メコン 石井 米雄文・横山 良一写真

評者・丹藤佳紀▼

-川に生きる人々、流域の歴史-

 仮初めのベトナム停戦協定が結ばれた一九七三年、夏の連載企画取材のためベトナム領内のメコン河を砂利運搬船で下った。中国・雲南省を流れるメコン上流のランツアンチアン瀾滄江に手をひたしたこともある。そんな出会いを思い起こしながら石井氏の文と横山氏の写真で構成された本書を読んだ。
 著者が初めてメコン河に接したのは第二次ベトナム戦争が起きる前の一九五七年。読売新聞も協力した稲作民族文化総合調査団に加わってのことだった。
 その後、メコン河の中流、下流一帯では戦争や紛争が続き、最近になってようやく止んだ。ひさしぶりに東北タイのメコン流域を訪れ、著者二十年来の念願を実現した紀行を含む本書も「平和の配当」のひとつである。
 メコン河はチベット高原に源を発し、中国からベトナムまで合わせて六か国を通過する。本書によると、この東南アジア随一の大河はそれぞれに特徴のある六つの河区に分けられるという。
 このうち、ラオス流域の第四河区と雲南の第六河区以外は船で航行した著者の叙述は、河に生きる人々を描き、流域の史実を探り、河流のありようの違いを書き分けて読者をメコン河流域に誘う。
 インドシナを統治したフランスがメコン河を遡航して中国との交易を図ろうとしたことはよく知られている。それを阻んだのが大小さまざまな滝の幾重にも続く「コーンヌの滝」であった。それがいかに難所であったか、が詳細に説明されており、お陰で私もまだ見ぬ河区のイメージを描くことができた。
 また、巨大なアンコール遺跡群を築いたクメール帝国とその後の「港市国家」カンボジアについての考察も興味深い指摘を含んでいる。メコン河の遊水池役を果たしているトンレサップ湖が生産性の高い漁場であるばかりでなくクメール帝国と南シナ海を結ぶ「水上の道」だった――など。
 裏表紙から逆にたどる横山氏の七十九葉の写真は豊かな色彩と水気をたたえ、メコンのほとりに立ったような感じを読者に与えてくれる。

母なるメコン、その豊かさを蝕む開発
リスベス・スルイター著・柿崎一郎、高橋宏明、中野亜里訳

評者・松本 悟(図書新聞1999年11月20日掲載)▼

-経済開発が人々の生活や環境に落とす影‐思考を読者にゆだねながら 今日のメコン開発の土台を時には緩やかに時には激しく伝える-

 

本書は硬派の、それでいて写真をふんだんに使ったメコン河紀行である。
  メコン河はチベットを源流に中国雲南省を縦断し、ビルマとラオス、タイとラオスの国境を形成しながらカンボジアへと流れ込み、川幅数キロに達する最下流ではベトナムの穀倉地帯メコンデルタを包み込みながら南シナ海に注ぎ出る全長四四〇〇キロの国際河川である。インドシナ(ベトナム)戦争当時は「戦場の河」と呼ばれた。共産主義政権樹立後、タイとラオス、ベトナムとカンボジアの紛争などによって、しばらくは近寄ることすら一種の冒険だった。それがソビエト東欧の崩壊とカンボジア和平によって、今や国際援助と海外投資による「開発の河」に変貌しつつある。
  メコン河については、その豊かな自然、多様な民族・文化、活気ある生活、六カ国にまたがる国際性、未開の大河が醸し出すロマン…そんなイメージの中で少なからぬ紀行記が世に出されてきた。本書がそれらと大きく違うのは、紀行記ではあまり触れられることのない「経済開発が人々の生活や環境に落とす影の部分」に筆者たちがこだわり続けたことだろう。オランダの社会派写真家リスベスとメコン河流域の開発と環境に詳しいカナダ人活動家グラーニャのコンビがそれを実現させた。それにしても「豊かさを蝕む開発」とはちょっと行き過ぎにも思えるタイトルである。"The Mekong Currency"、言ってみれば「メコンの流れ」という程度の意味しかない。むしろ本書の帯にある「人と自然を考える旅」というほうがしっくりいく。経済開発による負の影響という重いテーマを、文字どおりメコンの流れのように時には緩やかに、時には激しく伝えている。
  二五〇頁余りの三分の一以上を占めるリスベスが撮影した白黒の写真。彼女が捕らえたメコンの情景には常にメッセージが込められている。ごつごつした肌をまとった老木、打ち上げられた川イルカの死に顔に浮かぶ微笑み、ダム建設のためにダイナマイトで吹き飛ぶ早瀬。あまりくどい解説はない。数頁ごとに付せられたぶっきらぼうな章見出しと共に、思考を読者に委ねているとしか思えない。社会派ではあるが、告発調ではない。流域の人々の笑顔が多いが、楽しい物語ではない。ところが写真にばかり目を奪われていると見えないものがある。取材を行なった時代である。この本の写真は一九九一年から九二年にかけて撮影された。その時期ラオスでは、外国人だけでなくラオス人すら居住している県境を越えて移動するのに政府の許可が必要だった。更にほとんどの主要幹線道路は未舗装で、外国人が山岳地帯に入ればすぐに怪しまれるような時代だった。ベトナムも似たような状況だったし、カンボジアに至ってはポルポト派のゲリラ活動が続いていた。そうした困難な時期のメコンをリスベスが静かに映し出すことができたのは、写真家としての腕以上に、本書の冒頭部分を書いたグラーニャのおかげだろう。私は彼女と一年余りラオスで一緒に仕事をしたことがある。彼女の卓越した情報収集力、タイ人やラオス人の気質への深い理解とそれに根差した交渉能力が、ダム開発のような共産主義政権下で批判はもとより議論することすらタブーな問題にも、政府の耳を傾けさせることを可能にしていた。彼女が旅の舞台を作り上げ、そこで見事にリスベスが演じた。その結実が本書なのである。
  メコン河流域国で草の根の開発協力や調査研究活動を行なっているメコン・ウォッチと日本国際ボランティアセンター(JVC)が、共同で原作の翻訳作業を始めたのは一九九五年だった。あれからすでに四年が経過し、原作が書かれてからは七年の月日が流れた。変化の激しいアジアにあって、これじゃあふた昔前のメコンだなあ、などと思って刷り上がったばかりの本書を手にとり、かつては英語でゆっくり読み進めたラオスからメコンデルタまでの旅を、今度は日本語で急流くだりをしてみた。あにはからんや、今のメコンとあまり変わっていない…。もちろん経済危機の影響など最近の変化は盛り込みようもないが、それでもこの本には、今日のメコン河開発の土台がしっかりと描かれていることに気がついた。経済開発の青写真は今と全く変わっていない。もし違いがあるとすればどれほど現実味をおびてきているかという点だけである。  
アジア経済危機でしばらく日本のマスコミから姿を消していたメコン河流域開発の文字が、最近再び目につくようになった。リスベスとグラーニャが歩いた七年前と同じ顔をして現れるのか、それとも新たな開発の衣を着ているのか。本書はその道標となるだろう。二十一世紀のメコン河流域開発を見つめる目をこの本が与えてくれるに違いない。

 

海が見えるアジア
門田 修著

評者・池澤 夏樹(週刊文春「私の読書日記」欄1997年2月20日掲載)▼

-海の自由と哲学の喜び-


 旅はある程度まで馴れであり技術だが、その先は才能である。もんでん門田修を見ているとそう思う。たぶん今の日本でいちばんの旅の名人。太平洋の西半分の島々と沿岸、それにインド洋の全域について最も詳しい。二十年近く前に彼の最初の著作である『海のラクダ』(中公新書)を見た時、日本にもこんな旅をする奴がいるのかと感心した。行く先々で人の暮らしの中に入ってゆく。その土地の生活が何でなりたっているか、官庁の統計ではなく、人が働く姿から推測する。土地の人が食べているものを食べ、飲んでいる酒を飲み、同じ床に坐って喋る。生活を写真に撮る。しかし、居つかない。あくまでも旅人。
 『海が見えるアジア』はその門田が海と陸の接点に生きる人々をアジア各地にたずねての報告集である。そういえば門田は内陸に入ることが嫌いらしい。今までの旅もすべて海の旅だった。
 「できれば、旅に出るまえに、『インドネシアに行く』とか、『タイに行く』などと言いたくない」と彼は言う。「『ジャワ海に行く』、『南シナ海に行く』と、言いたい」。 国境は人と人を分かつが、海は人をつなぐ。われわれはフィリピン人とインドネシア人は別の種類の人々と信じて疑わないが、スールー海には両国の間を行ったり来たりしている漂海民がいて、門田が興味を示すのはそのような人々、国家の決める条件ではなく自然やその時の財の流れによって生きかたを選んでいる人たちなのである。亡くなった鶴見良行の方法に似ているが、あそこまで学問的ではなくて、その分だけ自由。
 今回の本がカバーする範囲も広くて、北は間宮海峡のあたりから、アジアの沿岸に沿って南下し、セレベス海・ジャワ海・南シナ海を細かく回って、最後はインド洋とアラビア海の境にまで至る。出てくる地名の大半は普通の日本人が聞いたことのないものではないだろうか。パリの鞄屋の所在は知っていても、スラウェシがどこにあるかは知らない。寿司ネタの新顔トビッコを口にして、それがどこから来たかを思うものはいない。われわれにとってそれほどアジアは遠い。
 バシー海峡(どこかわかりますか?)に浮かぶサブタン島で出会ったシン君というインド人の青年の話-「高校を卒業したとき、父親からどこか外国に行って商売するように命じられた。シン君は英語が通じるということでフィリピンを選んだ。資本金をいくらか持って、雑貨を仕入れては段ボール箱に詰めて行商している。何の伝手もない。二年がたち、来年ぐらいにはバスコに店を開きたいという。その場所もほぼ決まったらしい。すごいものだ。華僑に対して印僑という言葉があるが、まさにその最前線にたった一人で立つ青年だ。可愛いところもあり、毎晩のようにインドの実家に甘えた声で電話している」。
 日本でも若い者の貧乏旅行は話題にはなっているが、みんなが同じコースを同じように回っているのでは意味がない。『地球の歩き方』シリーズや行く先々の日本人の定宿の情報ノートに頼らず、自分でリスク・コントロールをしながら人の行かない土地に踏み出す秘訣を門田の本に習うといい。

緑色の野帖 桜井 由躬雄著

評者・森谷 正規(毎日新聞1997年5月25日掲載)▼

-東南アジアの豊かな文化を実感する-

 「東南アジアの文化は、海と高温多湿な気候条件に即している。常食はサカナとコメ、伝統着は一枚布を巻きつけたもの、住居は木造高床である。東南アジアの村落調査をしていると、この三種の組み合わせがどんなに快適なものかがわかる。翻ってみると、この文化は南シナ海を経由して、日本にまで到着している。私たちもまたサカナとコメ、キモノ、高床式住居に住んでいるし、なによりも快適なものと思っている。つまり私たちの文化の根源は、東南アジアを中心とする地域に始まっている。東南アジアが美しいと思う心は、実は日本が美しいと感ずる美意識と同じものだ」
  東南アジア研究者である桜井さんは、二十年近くもこの地域を隈なく歩きまわった。どこまでも続く緑あふれる水田、森の中の小さな盆地にある箱庭のような棚田、海岸に連なる緑の魔境のマングローブ林、放棄されてジャングルとなったゴム林、山中の小さな村で三〇頭もの羊の首を切る犠牲祭、日本人が指導して作った原始的な浄水器で精製するサゴヤシデンプン工場。
  地域研究というのは、まず感性をもって地域を把握することから始まるという。フィールドワークがあって、その地への土地感があって、つまり旅をしてこそ理解が進む。 桜井さんは東南アジアの各地への旅で歴史と文化を探った。ベトナム北部の銅鋤、メコン河岸の銅鼓、スマトラの巨大な石像、ボルネオの稚拙なヒンドゥー像。タイ東北部の中世の巨大な溜め池。
  第一章の三〇〇〇年前のベトナム北部、フングエン遺跡から始まって、第一九章のドイモイのハノイまで、年代を追って並べて、各地への旅の随想を歴史の記述をまじえて繰り広げている。歴史家ではない地域研究者の描く古代、中世は、はるかなる文化をありありとイメージしながら想い浮かべて書かれてあり、東南アジアの国々には古くからとても豊かな文化が進んでいたのだと実感できる。
  桜井さんは、文化と文明の相違に拘る。「文化はそれぞれの自然環境の中で、その環境を利用し、その環境に適応した人との生活要素が集積され、伝承されたものだ。伝統的な農業はもっとも典型的な文化だ」。一方、文明は「環境をこえて伝播する能力をもった生活様式」であり、近代科学技術もその一つである。
  ところで私は、日本は「高度技術大衆化文明」を生み出したとの説を述べているのだが、いよいよその文明がアジアに伝播する時代となった。この本でもよくわかるのだが、アジア諸国は文化が進んだ豊かな国々であった。たまたま歴史の一時期において、西洋に生まれた近代の科学技術と産業に遅れていただけだ。
  アジア諸国の技術と産業の発展にかける情熱とエネルギーは、時がきたって怒涛の勢いで迸り出ようとしており、東南アジアはその先頭にある。十年、二十年後には目を瞠る発展を成しとげているに違いない。
  そのアジアの発展を正しく認識し、また、高度技術大衆化文明が二、三十億人ものアジアの大衆に急速に普及することから生じる重大問題を深慮して、日本がアジアといかに付き合っていくかを深く考えることが不可欠である。それには、アジアの歴史とそれぞれの国に個有の文化を知らねばならない。
  これは、アジアにかかわりのある人のすべてが読むべき本である。

東南アジアの古美術-その魅力と歴史-
関 千里著

評者・上床 亨(「陶説」日本陶磁協会発行、1996年10月号掲載)▼

 兎に角面白い本です。私の様に東南アジアの陶器に興味を持っている者は勿論、さほど興味を持っていない人でも引き込まれてしまう本です。既成の美術書とはひと味もふた味も違います。
  私の記憶によれば一九七五~六年時代の「関美術」では高麗、李朝、日本の古窯、などが多く扱われていた様におもいます。七九~八〇年頃より東南アジア特にタイの古陶の紹介が多くなり、八六年には「SEKI GALLERY」となり、東南アジアの古陶専門ギャラリーとして確立し、現在に至っています。
六十枚以上のカラー写真、二百数十枚に及ぶモノクロ写真を配し、魅力ある品々との、思いで深い出会いを綴りながら、それらの魅力的な作品を育んだ民族の文化、宗教、生活習慣など歴史的背景を推考し、また、考古学的調査研究も参考にしながらも、自らの眼で確認した印象を自らの感性で推論し述べられている。特に、一九八四年タイ北部の山中での山岳民族による大発掘に遭遇し、そこで発見された「白釉緑彩陶」については多面的な考証が加えられ、また時を同じくして出現した、ペグー出土といわれる半人半獣の磚についての論考などは、魅惑的な東南アジア世界のイマジネーションをかきたてるものがあります。二十章、四百八十ページに及ぶ文章も時を忘れて読了してしまうことでしょう。
  タイの古陶に関する発掘、調査、研究はこの二十数年が一つの大きな山であったような気がします。そしてこの二十数年をタイの古陶と共に過ごし、この大作を物すことができた幸せは、著者が一番よく承知かと思います。兎に角面白い、一読をお薦めいたします。

アジア動物誌 渡辺 弘之著

東京新聞1998年10月20日掲載▼

 ガムテープは何にでもくっつく強力な粘着のりが塗られているが、反対側の面には付かない。その秘密は、表面に塗られたワックスだ。同じワックスは、チョコボールの表面にも塗られている。おかげで、手で触ってもべとつかない。ワックスの原料は、インドや東南アジアにいる、体長1センチ余りのラックカイガラムシが出す分泌物だ。
観光客に人気があるタイの「ゾウの学校」や、シャモの闘鶏、「かみつき魚」と呼ばれる魚を使ったシャム闘魚なども登場する。カブトガニ、クモなどを食べる話もある。
 著者は長年、東南アジアで森林を研究している京都大学教授。民衆と結び付いた動物を選び、科学だけでなく、民俗学的な面も紹介している。

評者・野中 健一(三重大学人文学部)(エコソフィア1999年3月号掲載)▼

  「あなたはカイガラムシを食べている」という、どきっとする話から本書ははじまる。タイトルには「動物誌」とあるが、このように本書には、昆虫、鳥、は虫類など、小動物が数多く登場する。また、それらの動物たちのさまざまな利用を中心に、人々とのかかわりをとらえた「民族動物学」への貢献を意図したものでもある。登場する動物が小動物だからといってあなどってはいけない。本書では、アジア各地で人びとがこれほどまでに多様に巧みに小動物を利用するのかという驚きとともに、そこに暮らす人びとの小動物とのかかわりにおいて生じるさまざま心情―こだわり、愛情、慈しみ、あるいはしたたかさ―が克明に描きだされ、人と動物とのかかわりの大きさを知ることができる。それをアジアの動物誌として提示した本書の意義は大きい。
 わたしは、この本をベトナム現地調査に携えていった。その道中はまさに本書が描きだす世界をたどるものであり、実感しながら読了した。たとえば、車での移動中にひとりが道ばたの家に並べられた貝に目を止め、その家を訪ねた。その庭には森で捕まえられたという野鶏が飼われており、闘鶏の話がでてくる。そこへ主人があらたな獲物をもって帰宅し、食用のハチを採る話にもつながる。このような具合に、生活のある一場面においてもさまざまな動物との結びつきをうかがい知ることができる。デルタ地帯を行けば、水の浸かるところに稲がつくられ、アヒルが飼われ、魚が養殖され、タニシが採られ、イナゴが採られと、その場所の環境が多彩に利用される景観を見ることができる。人びとの一挙一動、目にする光景から片時とも目が離せない。あとがきのなかで、著者は「あのとき、この話は聞いておかないといけなかった。あのとき、無理にでも車を停めて写真を撮っておくべきだった」と後悔の念を述べている。その気持ちは評者も同感である。偶然にみかけたものから往々にして思わぬ展開につながっていく。それほど生活のさまざまな場面に小動物が登場するのである。これほどに、アジアというのは、おやっと思ったらその機を逃さず見聞することが、大切となるフィールドなのだ。
 本書からは、このように生活の身近な存在としての動物を介した、人と自然との有機的な結びつきをつかみとることができる。本書のような視点はナチュラル・ヒストリーを編むうえでも必要になってくると思われる。またその視点は、「動物・昆虫をも含めた非木材、林産物生産での熱帯林と山村社会維持があってもいい」という主張のように、きわめて現代的かつ将来の人類的課題ともなる問題にも向けられている。本書では、こういう問題にたいし、現実の人びとの動物利用、たとえば「タマムシのブローチ」から言及しているのである。国家レベルで議論されていてはムシされてしまうような現場の事実が、じつは重要な問題であることを端的に示してくれる。
 今後、本書で「アジア」の事例として提示された動物たちと人びととのかかわり方には全世界でどれほどの普遍性があるのか、アジア地域において共通するものなのか、あるいは、アジアのなかでの民族差、地域差がどれほど存在するのかという観点から、いっそう研究が進められていくことが課題となろう。

チャンパ 桃木 至朗、樋口 英夫、重枝 豊著

読売新聞「記者が選ぶ本」欄 ?年2月6日掲載▼

 二世紀末から十七世紀にかけて、ベトナム中部の海岸平野を中心に栄えた王国がチャンパである。海のシルクロードの拠点として東南アジア史の一方の主役の座を占めながら、アンコール文明の陰に隠れ、マイナーな存在だった。このため、研究も進まず、「海洋民チャム族による」「周辺諸国に圧迫され続けた」「インド化した国家」という一九二〇年代に打ち出された国家像が、そのまま受け入れられてきた。
  こうした固定的なイメージからの脱却を、三人の著者がそれぞれの立場から試みた。桃木は歴史学、重枝は建築史、樋口はチャム族の末裔をカメラで追うことでチャンパの主体性や多様性を浮かび上がらせ、全アジア的な視点からチャンパ史の再構築を図っている。
  その重要な資料となるミソンやビンディンなど多くの遺跡群が崩壊の危機に瀕している。日本はアンコールだけでなく、ベトナムの遺跡の保存修復にも協力しなければなるまい。

タイ

バンコクの好奇心 前川健一

SKY WALKER CLUB(H.I.S monthly communication magazine)1996年7月18号掲載▼

 あくまで旅行者の視点に徹しているのがいい。
 著者・前川健一氏が前書きで述べているように、この本はバンコクの街歩きが基本になっている。一度はバンコクに足を運んだことのある人には、「そういえばこんなシーンがあった」とニヤリとすることになる。
 史上最悪とも言える交通渋滞の道。この道を渡る極意は「とにかく、所かまわず渡る」なのである。なにも著者は読者に禅問答を投げかけているのではない。バンコクではこうするのが一番「賢明」なのだと著者は語る。道つまり車道というのはそこを走るものに優先権がある。だから「所かまわない」ものには相手も「所かまわない」わけで、横断者は「所かまわないもの」として認識される。目の前の一台をやり過ごして前足に重心を移しかけると、その陰からトゥクトゥク(オート三輪)が急ハンドルを切って飛び出し、バイクタクシーがわずかな隙間を狙ってアクセルを吹かしてくる命がけとはまさにこのことである。はるか彼方500m先の歩道橋まで歩く旅行者にはあまり関係ないのかもしれないけれど・・…。
 もう一つド肝を抜くのが、「サイ・プラスチック」。タイ語で「ビニール袋に入れる」と訳す。道端の屋台などでこの一言をいうと、「あああ・・…」と叫んでいるまに袋に入れてくれる。お菓子や汁気のない惣菜類ならとも欠く、ドボドボのスープやごはんなどを放り込まれると、いかに旅慣れた旅行者といえども閉口してしまう。とにかくビニール袋は大車輪の活躍、風情を超越した趣というものがある。
 著者はこの「異文化」を批判することは一切しない。解釈は最低限にとどまっている。異文化の中を漂う旅人の心地よさが行間に垣間見える「旅行人類学」とも言える本だ。

バンコクの匂い 前川 健一著

読売新聞「この本この人」1991年10月7日掲載▼

-延べ三年の滞在で観察 克明なタイの食事風景-

 アフリカから東南アジアの各都市を歩き回ったり、住んでみたり。「独身だからできるといえるのか、それだから独身なのか?来月からまたバンコクに出かけ町と人を見て回ります。約半年はいるつもりで、バンコク住まいは、のべにするとすでに三年ぐらいです。食べものが自分に合っていることもありますが、他の都市とくらべ日常雑多なことが、ダイナミックに動いていて、居心地もよいのです」
 東南アジア関係の本だと、専門的な社会、経済、文化のほかは麻薬、難民、スラムなどセンセーショナルなテーマのものが目につくが、本書のようにバンコクに住んでいる一般のタイ人の動きを記録した種類の本は、テーマが雑然とするだけに、書きにくく、それだけ少ない。
 前川さんが昨年出した「バンコクの好奇心」は、非常に日常的なパン、菓子、バス、横断歩道など約五十項目について、それぞれの歴史の中で、いまそれがどうなっているかを資料と引き合わせながらとらえられている。
 本書はその続編といえるもので、前著作との違いは、前川さんがバンコクで見て、感じて、匂いをかいでとらえたものを描いている。
 アパート事情、ショッピングセンターのディスプレーからそこにいる若者の生活、日本料理の受容度、流行歌手のコンサート風景、橋のいろいろ、運河での舟乗り体験など。
 前川さんは各場面でタイ人がどう行動するかを克明に記している。料理店を例にとると、三十代半ばの男女カップルがカツ丼、天丼、ぎょうざ、ライス、ミカンジュースを注文して、どういう食べ方をしたか。大きなカツをかみ切って食べるのか。スプーンをナイフ代わりに使うのか。また、二十代前半の女性三人はカツ丼、鮭茶づけ、カレーうどんをとって、どう食べたか。カツ丼を食べるとき、タイ人の伝統的な食べ方とどう違うか。前川さんは、これらを観察しているときに、自分の注文したものはとっくになくなり、あわててヤキソバを注文、それもなくなりコーヒーを注文している。
 高級ホテルのレストランでは見られないタイの一般の人たちの食事風景を通してバンコクの匂いがただよってくる。

まとわりつくタイの音楽 前川 健一著

評者・松村 洋(ミュージックマガジン1994年4月号掲載)▼

 タイのポピュラー音楽について日本語で書かれた初めての本である。著者・前川健一氏の専門は食文化だが、タイ音楽の概説を音楽の専門家が誰も書かないので仕方なく自分が書いたと、あとがきにある。音楽の専門家は何をやっているんだと叱られてしまった。反省!
 しかし、タイ音楽を概観した第2章の記述は最小限で、著者の関心は音楽そのものよりもむしろ音楽の周辺へと向かう。歌手の芸名の特徴、音楽テープ屋の店先、ラジオの話。こうした周辺的な話の方に著者の個性が発揮されていて面白い。だが、本当はもっと脱線して遊べる人だと思うが、今回はやや控えめ。全体のバランスを考慮したのだろうか。
 特に、東北タイのうたい語り芸、モーラムの公演に徹夜でつきあった体験を書いた第4章が楽しい。寺の祭などで行なわれる公演は、いたってのんびりしたものだ。前川氏は、こう書いている。
 「私もまた、こうしたダラダラとした雰囲気がすっかり気に入った。ホールの椅子に縛りつけられたようなコンサートは、もうゴメンだ。屋台のソバ屋に腰をおろし、ソバを食べながらステージを眺め、タバコを一服。ちょっとおしゃべりをして、境内を散歩する」 本書も、あまりせっかちにタイ音楽の知識を得ようなどと考えず、のんびりと読んだ方が楽しめる。
 著者がタイ音楽を溺愛していないのも良い。面白くない、くだらないと思う歌には、辛辣な評価が下される。概して現代のポップス系ヒット曲に対して、点が辛い。だが、著者は自分の足で音楽テープを捜し歩き、つまらないテープを山ほど聴き、その中から宝物を自分の耳で見つけ出している。だから、私は著者の意見を尊重する。
 本書には、歌手についての詳しいデータ、音楽スタイルの分析、アルバム紹介などはほとんどなく、そういうものを期待するマニアには物足りないかもしれない。しかし、この本を読めば、自分の足と耳を頼りにタイ音楽の森に分け入って行くための準備は十分にできる。
 タイ語、人名等のカナ表記については、若干気になる箇所もあるが、まずは適確。ただし、ダーキーの本名(127頁)は「・コンスックディー」が正しい。また、スラポンが67年に殺されたとある(96頁)が、正しくは68年である。

タイの花鳥風月 レヌカー・ムシカシントーン著

評者・四方田 犬彦(東京新聞1991年12月15日掲載)▼

- 豊かな感受性の結晶 -

 タイという国が好きなので、仕事や研究に、タイ関係の本は書店で目につけば買って帰って読むことにしている。といっても英文の類書を参考にした安直なクッキングブックはもうたくさんで、本当に面白い本はなかなか本屋を探さなければ発見できないものだ。 プラヤー・アヌマーンラーチャトンの『回想のタイ 回想の生涯』(井村文化事業社)は、文字通りバンコクの南方熊楠とも呼ぶべき知的巨人の三巻本の自伝で、僕はこの書物を通して実に多くのことを学んだ。
 ムシカシントーンの『タイの花鳥風月』は、同じ自伝的エッセーといっても、南国に咲き乱れる花々に思いを託した優雅な書物である。著者はインドでタイ人と結婚し、滞バンコク十数年を経る日本人女性。火焔樹(かえんじゅ)、猫の乳、姫の爪(つめ)といった不思議な名前をもつタイの植物を通して、あるときは十三世紀に記された仏教宇宙論を論じ、別のあるときは友人知人の行く末を思い、すぎさりし歳月を回顧する。端的にして要領を得た、みごとな散文である。巻頭に飾られたカラー写真も美しい。
 タイの微妙な季節の変化をかくも魅力的に描きだせたのは、作者の豊かな感受性だろう。散文を磨いてきたのは、その体験をめぐる思索である。

タイ鉄道旅行 岡本 和之著

評者・鶴田 育子(週刊文春「文春図書館」掲載)▼

- 全線乗車の、ほとんど神業、驚異の世界 -

 タイの鉄道といえば、マレーシア半島を駆け抜ける国際列車。
 ロマン溢れる列車の旅に憧れて、私も、バンコクからシンガポールまで一気に下り、インドネシアへ飛んで、再び列車で北上するという壮大な計画をたてたことがある。時は四月、濡れぶとんを被ってサウナに入っているような暑気真っ盛りのことだった。
 ところが、期待と裏腹、私が乗った国際列車は、貨車かと見紛う三等車。天井はボコボコ、窓はガタガタ。座席は、ほとんどシートがなくて、あるのは椅子型の鉄パイプだけという代物。赤いザックを背負った一人旅の身としては、できればそんな列車には乗りたくなかったが、ビザ切れ当日に、目指す国際列車の発車曜日を間違えたと気付いたのだから仕方がない。
 赤土の荒野を南へ進む列車の中は、照り付ける太陽に炙られて、意識も遠のく灼熱地獄と化していた。狭い通路は、どでかいビニール袋で占拠され、座席の下まであひるや鶏がいっぱいで、車内の空気はじっとり重く動かない。行商人風乗客たちは、慣れた手つきで鉄パイプに紐を巻きつけ尻を乗せ、新聞紙に包んだ焼き飯など食べているが、湯気のでそうな脳味噌を持て余すばかりの私は、動いたと思うとすぐ止まり、止まったが最後、何十分も動かない列車の中で、ひたすら暑さに耐えるのみ。
  そんな私を見兼ねたのか、隣に座っていた女性が、唐突に黄色いタオルを差し出した。これで汗を拭けということか。旅は道連れ世は情け。あれ?でも、私は自分のタオルを持っている。じゃあ、このタオルはいったい何なのだ?
  突然、列車がガタンと止まり、屋根の上からバラバラ人が降りてきた。いつの間にか列車の回りは制服姿の警官だらけ。前後のデッキからも挟み撃ちで警官一行が車内に乗り込み、天井やら壁やらを警棒で力任せにガンガン叩きだす。それで天井があんなにでこぼこなのか、と悠長に納得していると、隣の女性が意味ありげな目配せで、タオルをバッグに入れろと合図する。えっ!この黄色いタオル。縫い目の中に麻薬でも縫い込んであるのだろうか。私を乗せた三等列車は、密輸貿易の拠点といわれるハジャイを通過しているのだから、その可能性は大である。ヒエーッ、どうしよう・・…。マレーシアでは麻薬の密輸は極刑だ・・…。
 タイの鉄道というと、九年たった今でも、そんな密輸列車体験が鮮やかに私の脳裏に蘇る。 黄色いタオルの持ち主は、荷物を絡げて降りるとき、私の手から何も言わずにスルリとタオルを抜き取った。ハラリと捲れたタオルの縫い目に私は夢中で目を凝らしたが、そのタオルがなんだったのか私にはよくわからなかった。幻影を見ているように暑かったあの日の出来事は、彼女の親切だったのか。私には、今でもやっぱりわからない。そんな予期せぬミステリーが、タイの列車では、ちょくちょく起こる。
 タイ国鉄が旅客運行している十六路線全線を踏破したという著者の手になる本書は、そんなタイ鉄道の乗り方から、政治、経済、地名の由来、食べ物、鉄道敷設の歴史まで、盛り沢山の情報が、教科書をひもとくように整然と各章に満載されている。地元のタイ人でも、これだけ知っている人はまずいない。言葉の壁やシステムの煩雑さをものともしない著者の情報収集能力は、五年近くタイに住み、タイ語をしゃべって取材活動をしていた私にとってさえ、ほとんど神業、驚異の世界だ。
 タイの息吹を体験したい読者には、出家僧のように淡々とした著者の語り口がもどかしいかもしれないが、タイのことを知的に追求したいという人には、太鼓判の読み応え。本書は、ちょっとしたタイオタクの本なのである。

四国新聞「時の人」欄1994年5月16日掲載▼

-綿密な取材、タイをふかんできる力作-

 きっとタイの人はだれもやったことのない、タイの鉄道十六路線、計約四千㌔の全線乗車。その記録をまとめて「タイ鉄道旅行」を出版した。
 「きっと」と言い切れるのは、タイ人独特の鉄道に対するイメージがあるからだ。「遅いというのが最初に来て、運賃が高い、汚いと続く。日本人のように旅の途中を楽しむ意識が希薄だから、お金のある人は飛行機を、一般の人は便数も多く便利なバスを使う。日本人のような鉄道マニアはまずいない」 
 本は、単なる旅行記ではなく、綿密な取材によって歴史、文化、風俗などを随所にちりばめ、一読すればタイがふかんできる力作だ。
 「私は鉄道マニアではないんですが、"おたく本"になったかもしれないな」。一九八三年、初めての海外旅行でタイに。すっかりタイのとりことなり八九年、タイの大学の研究助手として再びこの国に来た。「三年のつもりが、居ついてしまい」、以後、通訳やフリーランスの記者などをしながらタイで生活している。
 「タイ鉄道旅行」は、現地発行の日本語の月刊誌に連載していたものを大幅に加筆した。
 一番好きな線は、バンコクのトンブリ地区を走るメークローン線。通勤列車にもなっている同線は「タイ国鉄で唯一、日本の山手線並みのすし詰め状態が味わえる」そうだが、「だんだん失われていくこの国特有のけん騒が、沿線に今でも残っていて、ほっとする」。
自身はもちろん全線乗車したが、本の上では筆者が実際に乗っていない区間が一ヵ所ある。「出版されてから気がついたんです。どこかは、本を買って調べてください」
散歩が趣味。足の向くまま、どこでも歩く。バンコク市内の民家の二階で一人暮らし。三十九歳。埼玉県生まれ。

評者・船津 和幸(信濃毎日新聞「夏休み・私が薦めるこの一冊」1994年7月24日掲載)▼

 私は日ごろから学生諸君にアジアの友人たちと出会う旅を勧めている。それは鉄道の旅に限る。出会いの意外性や楽しさのなかで、アジア的生き様を強烈に体験すること請け合いである。
 本書はタイの鉄道全線を踏破した著者による実践的マニュアルであり、同時に各駅停車の視線からの優れた庶民文化論にもなっている。スナップ写真を見るだけでも、車中に持ち込まれる日常生活の雑然さ、食文化の刺激的におい、陽気な人々の歌声や談笑の喧騒が伝わってくる。柔軟の心の若者諸君よ、読み終えたらすぐにタイに飛びたまえ。

バンコクのかぼちゃ-女ひとりタイで暮らせば 中川 るな著

評者・桂井 宏一郎(古今書院「地理」1994年5月号掲載)▼

- 女性の描いた異文化理解の場面 -

 「バンコクのかぼちゃ」とはおかしな題だなと思って「あとがき」を読んだら、「シンデレラのかぼちゃは一二時を過ぎると、またもとのかぼちゃに戻ってしまったそうです。私のタイの暮らしもそんなもんでした。でも、かぼちゃの馬車の話は、よそにはなかなかわかってもらえないので、バンコク暮らしの間ずっと紙に向かって話して聞かせていました」とあって、なるほどと思った。
  著者は青年海外協力隊員として、バンコク郊外にあるモンクット王工科大学建築学部産業デザイン学科で繊維デザインの講師を約二年半勤め、帰国後は多摩美術大学の修士課程で学ぶかたわら制作に励み、本業の染物で新制作展に入選したほか、絵画・ファッションでも入選するなど多才な人で、文章の面でもタイの生活を生き生きと描写してくれて感心した。文章だけでなくこの本には著者自身の筆になる挿絵で、OLのファッションからタイ・マッサージ、かぼちゃプリンの作り方などの説明があり、さらに、図鑑のように紙幣・バスの切符・果物各種のイラストが入っていて、実に盛り沢山で実用的なタイ・ガイドブックなのである。
 バンコクにはたくさんの日本人がいるが、いわゆる駐在員はタイ語は日常会話程度で、タイ文字は読めない人がほとんどだ。その点、中川さんの強みはタイ語で書かれた学生の答案を採点できるほどタイ語に堪能なことで、タイの普通の人の生活ぶりや考え方が、納得行くように説明されていて、異文化理解のために有用な本である。とくに、終わりの二章「バンコクOLファッション」と「あなたは日本人が好きですか?」は、評論として出色と思う。
 ファッションの章では、同じ「ボディコン」でも体型・生地の違いから、タイでは「ボディコンスタイル」がOLのキャリアファッションとして認められているという社会状況の違いまで、豊富なイラストを加えての比較文化論として鮮やかに述べられている。
  「日本人が好きですか?」の章に出てくる著者の同僚ウィナイ先生に「タイ人の八〇%は日本が嫌いだ」といわれて著者は悲しくなるが、個人のレベルでは「兄妹みたいだ」と言ってくれるほど、よい関係で一緒に仕事をしているわけで、この辺り外国人と付き合う際に個人レベルと国レベルではかなり差があるという重要な問題が提起されている。タイの人は一般に、日本というと、金持ち・進歩しているというので、著者もときには「そういうなら、タイ人もストレスを貯めて働き蜂になって働いてみればいい」と心のなかでつぶやくこともあり、国際交流とか国際親善というものが、言うは易く行なうのはいかに難いか、上手に描かれている。欲をいえば、著者の仕事の面の学生たちとの交流で、このような問題がどのように解決されていったかも、書いてほしかったと思う。 

朝日新聞1994年4月14日掲載▼

- マイペンライの国 タイにひとり暮らせば-

 〈「美しい」も「普通」も国や環境によって変わる〉
 タイは、とてもとても暑い国。バンコクの年間平均気温は三〇度近くにもなります。気候も、風習も、言葉も違う国に、旅行ではなく、働くために訪れた中川さん。青年海外協力隊で、三ヵ月の語学研修を受け「けっこう話せる気でいた」タイ語も、現実は「半年くらいたってようやくでした」。また、テキストの文字は読めても、看板などの飾り文字は「ミミズが這ってる・・…」。
 「話せないのは語彙不足のせいだって思っていました。でも実際は、何がいいたいのかを筋道立てて考えられれば、言葉が違っても話せるものなんです。無口になってしまうのは、言葉を組み立てる能力が欠けてるせいなんだ・・…そう考えちゃうほど、言葉の壁は厚かった」
 日々の生活は、平日は大学で授業をし、夕方になると市場へ買い出しにでかける「タイの人と何ら変わりない暮らし」。休日はバンコクまで足を延ばし、「大福やみそを買っている普通の日本人」になる。「タイ社会のなかで、いろいろな位置に自分を置けるんです。それは特権でもあるのですが、"自分はなにものだ"ということをはっきりさせておかないと不安になってしまう」
 混乱しながらも、言葉にも慣れ、驚きや珍しかったことがあたり前に変わってくると、タイの人が美しいと思っていることを美しいと感じるようになるといいます。例えば服装。タイの女性、特にOLには独特の美学があるようで、「いわゆるボディコン(笑)」。色遣いは明るく鮮やか。スカートはあくまでタイト、ズボンやTシャツは遊び着として見なされ、通勤着には使われません。素材も体にフィットするストレッチ素材ではなく、化学繊維が好まれます。
 「最初のうちは暑いからって木綿の服ばかり着てたんです。でも、化学繊維の方が早く乾くし、アイロンもいらない。発色もいいし、合理的なんですよ」
 テキスタイルを専門とする中川さんらしいご意見です。なぜボディコンが美しく見え、なぜフレアスカートを見かけないかはいまだになぞだそうですが、次第にタイになじんでいく自分も不思議でした。
 「だから、日本から友達が来ると、うれしいんですけどちょっと違うなと感じ、逆にタイの人たちに囲まれた暮らしに戻るとホッとする自分がいたんです」 
 〈自分なりの「サバイ」と「サヌック」をみつける〉
 タイの人々の気質を表現する時、しばしば用いられる言葉に「サバイ・サヌック・マイペンライ」があります。楽しい、気分がいい、問題ない・大丈夫という意味を持つこれらは、乱暴にいってしまえば「タイ人の三大主義」。
 特に「マイペンライ」はとてもよく使われる言葉。細かいことは気にしない、何とかなるさ大丈夫、という大らかな考え方は、「しょうがないなあと思いつつ、妙にうれしくもあった」と中川さん。
 「すごく柔軟に物事を受け入れるけれど、生活のペースはくずさない。自分が一番いい状態を大切に暮らしているんです」
 中川さんの場合もしかり。日本の生活のすべてを持ち込まない。タイのすべてにも染まらない。自分にとっての「サバイ」と「サヌック」を見つけながら、タイでの暮らしは営まれていったのでしょう。
 二年半、一度も日本に帰らずに過ごした中川さんが、いざ帰国という段になると、「日本の社会に対応できるか、行く前よりも不安だった」。けれどタイに残ることにも戸惑いがあったといいます。
 「タイに行ってよかったなって思えたのは、日本に帰ってきてからでした。今では"ふるさと"っていう感じかな」
 タイで教師をしてみて自分の未熟さを感じ、もっと勉強をしたいと、帰国後は大学院への道を選びました。卒論のテーマはずばり「タイ」。「バンコクのかぼちゃ」は卒論の発展形で、この本を通じ、世界の中心は一つではない、たくさんの「普通」が存在するんだ、ということを感じてもらえたらうれしい、と中川さん。
 「タイに行って成長したなんてとても言えない。退行です(笑)。強いていえば、目線が変わったかな。日本からという一点ではなく、けれどタイからというわけでもない。もっと別の場所から物事を見られるようになった気がします」
 現在はテキスタイルから少しはなれて、オブジェ作りに励む毎日。タイで感じた、"肉体と外界との境界"のようなものが、作品のヒントになっているとか。けれど物を作ることはとても個人的な作業なので、「こんなゴミ出しててよいのかしらって時々思う(笑)」。
 「いずれはゴミがゴミでなくなって、社会とのつながりができたらいいな、と。世の中にはいろいろな"国際貢献"があるけれど、私としては自分の仕事が、たまたまどこかの国で何かの役に立っていた、そんな物作りがしていけたら、と思っているんです。」

タイの象 桜田 育夫著

評者・青木 保(週刊文春1994年5月5日号掲載)▼

-この巨きな動物を身近にもつ世界に生きる人たちがわかる-

 「欧米人は犬が一番利口な動物だと言うがそれは彼らが象を知らないからで、ほんとうは象が一番利口な動物だとタイ人は自慢する」と著者は書いている。私自身アジアの象のいる国々を訪れる度に、こんなおお巨きな動物を身近にもつ世界に生きる人たちと、せいぜい馬か牛ぐらいの動物しかいないところの住民とでは、自然や文化や世界そして人間についての考え方が大分ちがうのではないだろうか、と思う。 
 この本を読むと、やはりタイでは象がさまざまな形で人間と文化に影響をあたえていることが解る。タイ象はいわゆるアジア象であるが、アフリカ象とくらべ少々小ぶりではあるものの、「利口でおとなしく、清潔で物覚えがよい」ので、何よりも人間から親しまれ、崇められる存在である。日本人にとっては抽象的な存在でしかないといってよいこの動物について、冒頭の一章「象を測る」が詳しく教えてくれる。象の生殖器は腹の中に収まっているので雌雄を見分けるのが難しいことから、その睡眠時間は短く一日約四時間地面に横になって眠り、寿命は八十歳~百歳、寒さに弱く、歩く速度は時速四~五キロメートル、一日六時間以上歩けず、三日歩けば二日休まねばならず、輸送手段としては効率的ではない。視覚も嗅覚も敏感で、聴覚はとくに良く、騒音や人間の汚いことばを嫌う。二トンの重さのものを休まずに一キロメートル引っ張ってゆけ、鼻で七百キロの物を持ち上げるが、力比べでは人間を同じ体重になるだけ集めて力を合わせると人間の方が強い。
 これはタイの自然と文化・言語に深く通ずる著者がタイ象の「総まくり」をしようと試みた本である。現在タイでは野象一九七五頭、家象二九三八頭、合計四九一三頭の象がいる。野生動物保護政策をしいているのに野生の象は開発や狩猟の犠牲となって減少しており、この動物の生存にとっては危機的な状況である。
  象の役割は、戦い、輸送、仕事、宗教行事、見世物やサーカスとあるが、現在でも北タイの林業ではチーク材の運搬に欠かせない。象の訓練場所を訪れてつぶさに観察しながらの記述は精彩に富む。
  タイで象が崇められてきたのは、王と善行を共にし、戦いでは王を乗せて先頭で戦う存在であり、また力の象徴とのイメージがあるからで、建国以来、象はこの国の王の権力の象徴となってきた。アユタヤ時代には象局という象専用の役所が設けられたほどである。
 象は宗教とも深く結びついている。韓国や日本などの北伝の大乗仏教と、タイやスリランカの南伝のテーラワーダ(小乗)仏教との大きなちがいに象の存在があると私自身思うのだが、民間信仰から仏教までいかに象がタイ人の信仰生活と強くかかわるものであるのかを解り易い形で述べた「象を崇める」の章は本書の中でも白眉である。バンコクの中心街にある有名なエラワン・ホテルの敷地内にあるサーン・プラ・プロム(ブラフマー神の祭祠所)は、ご利益神としてタイ人に人気の参拝所であるが、ここに木製の象が主神を護る象神としておかれていることの理由を追究することから、仏教がいかに深く象の存在とかかわってきたかが語られる。バラモン=ヒンズー教でやはりご利益神として名高いガネーシャ神は象の顔をしている。象と神話、象と法律、白象の話、狩猟の中でももっともスリルがあるとタイ人のいう象狩りなど話題はつきず、戦時中日本軍が戦略上つくった泰緬鉄道における象の役割の話では日タイ関係にまでおよぶことになる。さらに街角の象という楽しい写真の数ページがあり、象祭りとタイ象の将来について開発と野生動物保護との微妙なバランスの問題提起が示唆される。タイ象についての「総まくり」、十分堪能した。いつのまにかタイの歴史と現在についての知識が伝わっている。

私は娼婦じゃない-タイのメールオーダーブライドの告白-
パカーマート・プリチャー著・石井 美恵子訳

評者・久田 恵(週刊読書人1994年10月21日掲載)▼

- 花嫁カタログ販売の実態 システムを空洞化させる希望を描く-

 この本は、「花嫁のカタログ販売」と呼ばれる方法でドイツ人男性と結婚したタイ女性が書いたドキュメント小説である。
 著者パカーマート・プリチャーは、短大を出てタイで公務員をしていたが、失業して収入を絶たれてしまう。ついには、外国に渡って金持ちの男を掴むしかないと決意し、やり手のタイ女性が経営する「結婚斡旋会社」を通してドイツに渡る。その彼女が、紆余曲折の末、結婚をするまでを克明にたどったもので、「花嫁カタログ販売」の実態やそのシステム、それを利用するアジアの多くの女性やお金で花嫁を買おうとするドイツ人男性の姿が、その背景も含めて見事に描かれている。
 不法入国に目を光らせる空港の入国手続きを通過する時のスリル、斡旋会社の事務所で自分を選ぶ男性の出現を待ついらだち、
 試験的な同居をしては、希望に添わないと言って、帰されたり、帰ってきたり、だましたりだまされたりのスッタモンダ、などなど、当事者でなければ書くことができないようなリアルなエピソードに溢れていて、先進国の男性とアジア女性の関係の「ありよう」を知る手掛かりがいくつも報告されている。
 私の知る限りでは、こういった「花嫁のカタログ販売」は、オーストラリア男性とフィリッピン女性の間でも以前から多く行なわれているし、クェートやサウジアラビアの富裕な男性が、何番目かの妻をアジアから買う事例も少なくない。
 また、嫁不足の日本の農村青年とフィリッピン女性との多額なお金を払っての「お見合いツアー」も有名だし、最近は、ロシア女性と日本男性の「花嫁カタログ販売」を行う「国際結婚斡旋会社」などもある。
 つまりは、こういった「花嫁売買」システムは、ドイツだけではなく世界各国にあって、貧しい国の女性と豊かな国の男性の間で生じている普遍的な構図でもあるわけで、日本の男性とアジアの女性との現在進行中の目下の関係と驚くほど似ていることに改めて驚かされる。
 ただ、この本の著者を含めて、「金で買われる妻」となろうとするアジアの女性たちが、単なる「女が被害者である」構図を突き破って、むしろこのシステムを「結婚」と引き替えに「金を引き出せる男性」を得る手段と意識して相手をシニカルな目できっちり値踏みしてタフに生きている側面も見逃せない。
 しかも、その相互にエゴイスティックな関係にさえ「愛情」や「優しさ」を人は求めずにはいられず、それなくしては生きられないことを誰もが知るわけで「私は娼婦じゃない」は、その宣言でもある。
 この作品が多くの人に読まれ心を打ったのは、「男と女の結婚の幸福」は、お金では買えない、ということがしかと伝わり、女性たちの精神の自立が「花嫁カタログ販売」という悲しむべきシステムさえ空洞化させるのだ、という希望が描かれているせいだろう。

評者・山崎 朋子(週刊文春「文春図書館」1994年10月13日掲載)▼

- ドイツに流出せざるをえなかったタイの女性は… -

 東北地方をはじめ全国の農山村男性に結婚難現象がいちじるしくなり、それに対応していわゆる〈フィリピン人花嫁〉や〈スリランカ人花嫁〉のあらわれたのは、七、八年前のことであった。そして今は、夜の東京=新宿や池袋などを歩くと、フィリピン女性やタイ女性の日本人男性を誘う姿がごく普通に見られる。
 貧しさにあえぐ国からは、まず、男性は筋肉労働力として、女性は性的商品として富める国へ流出してゆくというのが、歴史の示して来たところだ。日本の場合、明治・大正期の北米移民や〈からゆきさん〉がそうだったが、その日本が富める国に変わった現在、第三世界の男性・女性が日本へやって来ているというわけである。
 そのような状況のなかで、本書は、わたしたちに新たな情報をもたらしたものだと言ってよいだろう。というのは、この書物は、タイの女性が-それは第三世界の国の女性がということでもあるのだけれど、日本にだけでなく、遠くヨーロッパの国にまで流出している、いや、流出せざるを得ないという事実を示しているからだ。
 著者のパカーマート・プリチャーはタイの女性で、自身の〈メールオーダーブライド〉としての体験を、赤裸々とは言えぬまでもかなり正直に綴ったもの。訳者は「小説」と記しているが、小説よりも、体験記と見てはじめてある迫力を持って来ると言ってよいだろう。
短大を出てバンコックで公務員をしていた「私」が職場の人間関係につまずき、また姉の離婚で家計が苦しくなったことから、「もっと良い生活をするために」、ドイツ人との結婚を斡旋する会社に手紙を出す。その社長はドイツ人だが夫人はタイ人で、集めたタイ女性を滞在期限三ヵ月の観光ビザでドイツ入りさせ、その期間内に幾人ものドイツ男性との見合いと同棲を繰り返させるのである。その同棲は性交渉を伴っており、ドイツ人男性の側からすれば、「自分が気に入って結婚するまで、つぎつぎと女性を味見できる」というものであった。
 「私」はドイツに飛び、斡旋された牧師と会社の販売部長との二回の同棲のあと、三十六歳のエンジニアにめぐり会い、そのエンジニアに気に入られて結婚式を挙げ、当初からの目的であった「もっと良い生活」をつかんだかに見えた。-というのは、夫となったそのドイツ男性は、タイの文化に理解があり、「私」を愛するまさにその故にタイの実家への毎月の送金も引き受け、「私」を国際ドイツ語学校へ通わせてまでくれたのだから。
 しかし、悲劇は、彼女が夫とともに念願の里帰りをしてドイツに戻って間もなく起こった。夫が交通事故に遭って、死はまぬがれたものの、下半身麻痺の体になってしまったのである。タイの肉親たちは、「まだ若いのだし、離婚して帰国し、再出発を」とすすめるけれど、「私」は、身体障害者になってしまった夫と添いとげようと考えている-というのがあらすじだ。
 不思議に思ったのは、現代ドイツで専門職を持つ三十代・四十代の男性が、一体どうして自国に配偶者を得られず、タイに〈メールオーダーブライド〉を求めなければならないのかということ。そのことについては一行の言及もないことが、かえって、この書物が〈タイ女性〉の〈実録〉であることを証していると言ってよいかも知れない。
タイでベストセラーになったこの本の読者にはタイの若い女性が少なくなかったようだが、パカーマート・プリチャーが彼女たちに宛てての結論は以下のとおりであった。-「絶対に私のわだちを踏まないでいただきたい」と。「タイの女性が、私のまねをしようなどと考えないように」と。

バンコク・自分探しのリング 吉川 秀樹著

評者・松原 隆一郎(東京大学助教授・社会経済)(読売新聞1999年4月25日掲載)▼

- 自己を見つめる男女5人を紹介 -

 タイの国技・ムエタイのジムは、タイ全土に散在している。選手たちは寝食を共にし、一日に二度の稽古と無数の試合を重ね、いつの日かルンピニー、ラジャダムナンというバンコクの二大殿堂に登場する日を夢見る。本書にも描かれるように、ジムの雰囲気が日本の相撲部屋などと最も異なるのは、不思議な開放感を漂わせている点だ。
 タイ人選手は年端もゆかぬ子供からベテランまで、いずれも有名になり金を得て家を持ちたいというハングリー精神を抱いている。彼らに混じり、外国人も汗を流す。日本人を含め、多くは本国でプロのキックボクシング・ジムに所属し、修行に来ている人々だ。ところがジムによっては、評者のように旅行中に立ち寄ったアマチュアまで稽古に混ぜてくれるところがある。レベルの低い奴が横にいても自分は自分ということか、選手たちは嫌がる気配も見せない。集団生活をしていながら、人間関係に粘着性がないのである。
 この開放感に親しみ、稽古を続けてタイでプロ・デビューしてしまう日本人がいるという。著者は飲み友達という距離から、そうした五人の男女の心境を聞き取っていく。むろん金は目的にしようがないから、タイ人とは動機が違う。貯金を崩しさえしながら、何の娯楽もないジムに居着いている理由は何か。
 「会社での仕事から逃げた。今度は逃げたくない」。「ギリギリの状態で生きる体験をしてみたい」。「孤独になりたい」。「アル中の過去から遠いところで燃えつきたい」。こたえはまちまちだが、共通点がある。他の誰でもない、自分を体感したいという、喘ぎにも似た願いである。
 皆、良い目をしている。「環境が不自由であるが故に、そこで生きる日本人はそれに抗するだけの何かを抱いている」という著者の見込みを実証する写真である。溢れる自由を持ちながら自分を見つめる場を持てない国は豊かではない、改めてそう思わされる。

タイ人と働く-ヒエラルキー的社会と気配りの世界
H.ホームズ、スチャーダー・タントンタウィー著・末廣 昭訳

評者・西 牧男(西国際コンサルティング事務所代表)(日本労働研究雑誌「読書ノート」欄2000年12月号掲載)▼

 十数年前、クーラーのよく効いていない工場の一室で一ヵ月に一度の生産性向上と品質管理のための会議をやっていた。発言者も一定ならその結論も一定という、これは会議ならぬ儀式であった。会社の創業以来20年にわたりこんな意味のない会議をやり続けてきていたのかと思うと頭が痛くなってきた。
 この本を読んでいるとその情景がありありと思い出される。一度発言者を替えてみてやれと、従来の部門長ではなくその部下を指名して発言させたところ、その発言内容は言語も不明瞭なら意味も不明瞭というものでとても会議にならなかった。本書にはタイ人は他人の前で公然と自分の意見を言うような習慣はなく、直属の上司に反対するような意見は出さないと書いてあり、なるほど、あの時突然に発言者に指名され、おどおどしながら周囲を眺め回していた人たちが今にしてようやく理解できた。
 また、残業を命じてもなかなか協力しない部門があったが、その部門責任者が家を新築した時に祝い事に呼ばれた。その家が当該部門の社員たちの協力で大工を使わずに建てられたと語るのを聞いて唖然としたことがあり、こんなことをしているならもう少し会社の残業に協力したらどうだ、と一人でつぶやいていたこともあったが、彼らの人間関係ではさもありなんと読みながらうなずかされた。この本を読んでいるとそうした"以前の事柄"を単に感傷的に思い出させるのではなく、手を打ったり、膝をたたいたり、うなずいたりと今のアクションにつながるのがとても楽しいところである。もう一つこの本の特色は、"ファラン"(タイ語で欧米人のこと)の視点から見ている所にある。タイにいてタイ人やタイ在住日本人とはよく話をするが欧米人と話をする機会は非常に少なく、彼らのタイ人についての見方に触れたことはあまりなかった。たとえ、機会があったとしても彼らの見方がタイ人についてなのか日本人についてなのかが理解できなかったのではないか。たとえば、会議のときに自分の意見を言わないというのは日本でもあり、そのために"根回し"が必要だと論じられていたのはそんなに遠い過去ではないし、意味不明のヘラヘラ笑いもまだあるし、こうした書物になって初めて彼らなりの見方がわかる。また欧米人特有の分析の仕方があり、タイ人には通常の微笑みが12種あり、それにプラス笑おうとするけれど顔がこわばって笑いにならない微笑みまでもをあげている。
 日本人はタイ人と似たような微笑みをもつ人種だけに、逆に、なかなかそこまでの分析は思い至らないが、本書を読んで初めて知った微笑みの種類も結構あった。
  また、最後の解説が懇切で欧米人と日本人の視点のずれをうまくカバーしている。タイ人も変化しているという視点は非常に重要なもので、実際1997年の経済危機を境にタイ語の使用の仕方が変わってきているように私自身も感じる。私の友人の一人は何かというとサバイ(快適)という単語を連発していたが危機以降は使わなくなった。毎日テレビ・ラジオで皆で節約しましょうという宣伝がなされていたら自分だけがサバイとは言ってられないようだ。過去・現在とタイに仕事でかかわっている人たちだけでなく、日本人も含め"ひと"のビヘービアに興味を持っている人には十分におもしろい書物である。たとえばプラデート(権勢)やプラクン(恩恵)といった概念は政治学や社会学の観点からも興味のあるものでタイとかかわりをもたない人にとっても十分に楽しめる。
  しかし、最も読んで興味を持たれるのは、タイ人と今実際に仕事やその他の活動をしていて悪戦苦闘している人たちであろう。タイへ来たばかりで全くタイ人のことがわからないという人たちから、タイにも長くタイ語もできるがそれでも煮え湯を飲まされるような思いをしている人たちまで、すなわちタイ在住の外国人すべての座右の書であろう。

タイ人たち ラーオ・カムホーム著・星野 龍夫訳

北海道新聞1988年11月21日掲載▼

 東北タイ(イサーン)は乾燥した高原地帯で、しばしば干ばつに襲われ、タイでも貧しい地域の代名詞となっている。この短編集はほとんどがそのイサーンを舞台にして書かれている。土地を地主に取られそうになる農民。選挙に当選したものの暗殺される政治家。乗り合わせたタクシーが逃走中の強盗だったため一味と間違われる僧。王族の血をひく社長の甥を、親方のようには「神」とは信じない、作者自身を思わせる象使いの青年。原題の「ファー・ボー・カン」は「空は限りなく広い/だが、なぜか/この人の世の狭さは…」といった詩句からとられている。まさにこの題名通りの人々が登場する。

評者・岸本 葉子(朝日ジャーナル1988年12月9日号掲載)

- 「この国の音楽に似た優しさを持つ文章だ」と『タイ人たち』を訳した星野龍夫さん- 初版二五〇〇部は、思い切った数だという。
「これまで訳したものも、五〇〇部、千部といった数。アジアのものでも、旅行ガイドの方がずっと売れます。それだけ、文学となるとじっくり取り組まないとわからないからでしょうね」
 短編小説集『タイ人たち』は、星野龍夫さんの一〇冊目の訳書であり、はじめて手がけたタイ文学の本。歴史や方言の研究のためラオスに下宿していた六八年、訪れたバンコクの本屋の棚に、ラーオ・カムホーム著のこの本を見つけた。
 「ラオスでタイ人の友だちから聞いてはいたんです。東北タイの人の書いたそういう本があるよと。"まちの人"でない作家なんて、当時は非常に少なかったし」
 何カ国語にも訳されていると聞き、タイ社会を理解するのに重要な本だと、読み始めたあとから知るようになる。
 日本では東南アジアの文学を訳して出すなど、考えられない時代のこと。出そうという機運がようやく起こったのは七九年。
 「当時タイに移っていた私にも声がかかったんですが、かれこれ二〇年近く日本の文学から離れてたので、いきなり現代タイの代表作に手をつけるのはこわいという気持ちがあったんです」
  最初の一冊が後回しになったゆえんである。
 つねに"村の人"の視点に立ち、社会派と評される作者。七九年の軍事クーデターでは一時期スウェーデンに亡命していた反骨の人も、もうすぐ六〇歳になる。五八年に発表された同著は、作品を加え版を重ねること九回。生涯タイ文字を知らなかった母親のために「字の読めない母に捧ぐ」との献辞がある。
 「小説の中では権力者を相当皮肉ったりあげつらったりしてますが、目はやさしいし文章も美しい。裏側からそっと言うような、むしろ古典文学の表現に近い。音の大きいところより、あるかなきかの音にこそ意味がこめられているのが東南アジアの音楽の特徴ですが、そういうような文章ですね」
 三〇年前の作品もあるが、買収政治など地方社会の問題は今も同じ。作品の意味は失われるどころか大きくなっていると語る。
  研究の本拠を日本に移した今も、東北タイのロイエットに下宿を持つ。ラオスのころ学校に連れて行ってやったりしていた大家さんの子どもは、今では立派な大人になった。ワンカムというラオス名を持ち、向こうではその名で親しまれている。

評者・永井 浩(毎日新聞1988年11月16日掲載)▼

-しゃにむに貢献「恐ろしい」-

 タイの作家、ラーオ・カムホーム氏と、都内で夕食をともにする機会をえた。今回の来日直前に日本語訳が出た氏の短編集『空は遮らず』(邦訳『タイ人たち』)は、すでに英、仏、スウェーデン、シンハリ語など十カ国語以上に訳され、海外で最も有名な現代タイ小説となっている。
  円高を機に日本からの集中豪雨的な投資ラッシュが続くタイ。その東北部の農村に居をさだめ、つねに下層農民の視点から自国の矛盾を仮借なくえぐる反骨の作家に、日本はどう映るか。
 「日本は"恐ろしい国"になってきたといわれている。何かをやろうとするとそれをやり抜くのは良い国民性だ、と私も尊敬している。しかし、タイはタイ人の国なのに、その持ち主の心にかまわず、日本人はタイでしゃにむに前に突き進もうとしている。タイの農民はいま、メガネをかけネクタイをした日本人がいたるところにうろついているのを見て、何をしにきたのか、と夜も眠れないほど心配している」
  ドキッとするような氏の言葉をきいて、十一日に閣議了承された六十三年版外交青書の一説を思いうかべた。
  「世界に貢献する日本」をうたった青書は、ASEAN(東南アジア諸国連合)諸国への最近の日本企業の進出拡大などにふれ「我が国は極めて大きな経済力を有する安定勢力として、この地域の一層の発展に積極的に貢献する必要がある」と述べている。  だが、私たちが「貢献」と思いこんでいることも、相手国の民衆には「恐ろしさ」と受け取られているかもしれないとしたら・・…。
 ラーオ・カムホーム氏は「めこん」の桑原社長に「こんな本を出して大丈夫なのですか」と心配そうな顔をした。いまの日本では売れそうにない本だから、小さな出版社の経営に負担を強いるのでは、の意味である。
 「世界に貢献する日本」を本当に真剣に考えるのなら、こうした作家の作品こそ、できるだけ多くの日本人に読まれてほしい。

ウィモン・サイニムヌアン著・桜田育夫訳

評者・大石 芳野(ステラ1992年9月18日号BS週刊ブックレビュー抄録欄掲載)▼

 アジアの現代文学シリーズの第11巻に収められている作品。著者は、タイ中部の貧農の家に生まれ、バンコクのスラムで育った新鋭の作家。1984年に発表されたこの作品は、タイ国民の信仰の対象である寺と僧侶のあり方を痛烈に批判して、話題を呼んだ一冊。
 タイの農村地帯は、蛇の多いところらしいんです。著者はそういった自分の生活の中にある蛇を、ひとつは動物として、ひとつは仏教のたとえとして扱っています。
 この小説では、蛇を貧しい人を苦しめる、どんよくなものという悪い意味で描いています。農村が非常に貧しいのに、お寺だけは貪欲な蛇のように肥えていくというタイの現実を批判しているんですね。タイという国は、お寺がたくさん集まって国家を形成している。お寺の上に王様がいるわけです。だから、お寺を批判することは王様を批判することになってしまう。そこで、著者は自分の言いたいことを小説で表現しているわけです。この問題は、まさにタイの社会派といわれる人たちが悩んでいる問題なんですね。
 ですから、この本の出版自体、ずいぶんセンセーショナルなことでしょう。でも、その社会的な問題を除いて純粋な小説として読んでも、十分おもしろいと思います。

サライ1994年10月20日号掲載▼

-賛否両論の反響を呼ぶタイの現代小説を読む-

 寺や僧侶を批判したため、1984年に発表されるや大反響を呼んだタイの現代小説が翻訳された。
 タイの仏教(南方上座部仏教)では、現世で積んだタムブン功徳により来世の幸福が得られると信じられ、寺への寄進や献金がもっとも優れたタムブンとされた。成長にしたがい大きな餌を呑む蛇の生態が、敬虔な信仰心を食い物に私腹を肥やしていった僧侶の姿に重なっている。
  東北の寒村を舞台に物欲にうごめく人物を表題にたとえた真船豊の戯曲『鼬』にも似た印象だが、蛇を貴重な蛋白源とするタイの農民のバイタリティには圧倒される。文壇では仏教批判はもちろん、貧村の生活を取り上げる作家が何十年もなかったという事実からも、明日の変革を予感させる小説といえよう。

ラオス

メコンに死す ピリヤー・パナースワン著・桜田育夫訳

▼毎日新聞1988年7月27日

 東南アジアの小数民族が何を悩み何を考えているかの情報は少ない。本書はラオス解放戦争の中で敵味方に分裂して苦悩するモン族(通称メオ)のなまの声を伝えてまことに興味深い。ドキュメンタリー小説の形をとっているが、材料はすべて著者(タイ人)の綿密な調査から得られている。インドシナの人種差別を知る重要な文献として推賞できる。

▼西遊新聞1988年7月25日

-添乗員のおすすめするこの一冊-

 インドシナ戦争というと、1964年に拡大したベトナム戦争を中心に目が行きがちである。が、ここでは、米国やベトナムなどの主人公達とは全く掛け離れたモン族に視点を置いて話が進んで行く。
 モン族とは、日本語で「メオ」「苗」などと呼ばれている山岳民族のことだが、彼らは自分達を「モン」と誇りを持って呼ぶ。同名で7世紀頃、ドヴァーラヴァティー国を建てたモン族とは全く別の民族だ。中国南部やインドシナ半島の山岳部に広く住んでいるが、本拠地は中国貴州省の山岳部ともモンゴルとも言われている。彼らの移住が本格的になったのは19世紀に入ってからで、原因は中国内の混乱――大平天国など――によるものだった。そして再び、中国革命が彼らに新たな大移動の動機を与える。しかし、南下する彼らの前には常に先住民族が立ち塞がり、迫害され、抗争を繰り返した。
 常に国家規模の、もしくは代表される民族の立場からの作品ばかりの中で、ラオスの、特に少数民族モン族の目を通して描かれたことで今まで知り得なかったインドシナ戦争の裏側を垣間見ることができる。北ベトナムに支援されるパテト・ラオ。一方、米国から強力な物資援助を受ける政府軍。1960年から71年にかけて激動するラオス国内で、左右両派に分かれてモン族同士が血で血を洗う様子がドキュメント・タッチで描かれている。
 この本はタイ人によるものだが、彼は4年間にわたりモン族の難民キャンプに足を運んで交流をはかり、彼らの習慣等を学んだ。そのため、各所でモン族の独特な風俗習慣が非常に豊かに表現されていて、ともすれば重苦しい政治色濃い作品になるのを防いでいる。さらに特徴的なのは、モン族のラオスにおける社会的位置である。ラオ・ルム(平地に住むラオ)族が彼らモン族をかなり低く見下している点、それとは対照的にモン族がラオ・ルム族以上に「土地」に愛着を持っている、ということがくっきり書かれていて、多民族国家ラオスの社会構造を窺い知ることができる。
 特別な知識がないと、初めのうちは登場人物の立場の理解がいくらか難しいかも知れない。が、数少ないラオスについての1冊ということで特におすすめしたい。また混沌としたインドネシア半島や、中国南部の少数民族に興味をお持ちの方には必読の1冊です。


ベトナム

ハノイの憂鬱 桜井 由躬雄著

- クールで的確な報告-

 ベトナム戦争が終結して、十四年になる。すっかり過去の事件になった。だが、いまだにベトナムとその首都ハノイは、一番縁遠い地だ。ふつうの方法では、自由な旅行ができない。東ヨーロッパの社会主義国が、いまや大変動のただなかというのに、モンスーンの社会主義国はどうなっているのか。
  たまさか、紀行文やジャーナリストの報告にふれることはあっても、細部まで信頼できるものは、ほとんどない。それだけに、二年間にわたってハノイの日本大使館に出向して現地を体験した、この報告は、たいそう貴重だ。しかも、その著者はベトナム史の専門家。ことに農村共同体の形成を論ずる第一人者。
 さて、読みはじめて、先入観がかなり当たっていることが分かる。貧困、非衛生、社会主義らしい非能率。なにもベトナムばかりのことではないが、著者をもいらだたせ、憂鬱にさせる要素に不足はない。あの戦争はなんだったのか。反米抗戦は、人間の解放につながらなかったのか。疑問は続こう。
 だが、ついで著者の目は当然のように輝きだす。その国は、社会主義化しているのではなく、ただ民衆化しているだけなのだと看破する。大量のタンス預金、それにブラックマーケット。国営工業の無能をつぐなう、伝統的な農村手工業。くわえて、中国仏教をベースにして、いまなおベトナム人をとらえる民間宗教。ついにはホーチミンまで祈願の対象としてしまうほどの純朴な篤信。
 生産力の低さや経済政策の混乱、官僚組織の横柄さ。それらの暗部をこえて、民衆化の活力が、ベトナムの健康さをたもち、未来を照らしてくれるのではないか。そんな希望をあたえる。そこにも「絶対的な価値観として、自由への憧れが存在するのではなかろうか」。
 やや細部にこだわりすぎの感もあるが、褒め過ぎも、けなしすぎもない、クールで的確なベトナム報告だ。そのことが、アジアを見るために絶対の条件だと思う。
▲毎日新聞1990年2月19日掲載

- 社会主義と神の両立-

 なぜベトナムなのか。
 一九四五年生まれの著者は、一度目は「偶然」、二度目からは「宿命」だと言っている。
 高校生のとき、安保反対のデモに居合わせ、大学生のとき、米国が北ベトナムで起こした第一次トンキン湾事件のニュースに触れた。これは「偶然」。
 そして、何百万人もの同世代の青年たちの中で、なぜか自分がベトナムからのニュースに興奮し、それが何度も積み重なっていったのは、「宿命」。
 七五年、ベトナム戦争が終わる。しかし、地域研究としてのベトナム研究は、本格的には、この七五年に始まったのだと、著者は述懐している。
 この本は、その後、京都大学東南アジア研究センターに就職した著者が、在ベトナム日本大使館の専門調査員としてベトナム現地に滞在した際の思索と見聞を、日記風の形式にまとめたものである。著者のベトナム滞在は、八五年一月から約二年間に及んだ。
 ベトナムは、社会主義国であると同時に、今も仏教の盛んな国である。それは、日本と同じく中国仏教を基本とし、八百万の神々を習合しながら、現世利益を求める。つまり、そこではマルクス主義と神々は「深刻な対立を必要とせず、いわば政治の領域と信仰の領域を異次元のものとして両立させることができている」。
 激しい下痢に襲われたときに、"女中さん"の進言でホー・チ・ミンの肖像画を購入し、彼女と一緒にそれに向かって「ナモアジダフアット(南無阿弥陀仏)」と拝んだという著者のエピソードが、欧州的な意味合いでの「偶像崇拝」のいやらしさを持たないのも、そのような歴史的背景とつながっているせいだろう。
  "ホー・チ・ミンの時代"を過ぎ、ベトナムは激しく揺れながら、新しい時代を模索している。この本は、その激しい息遣いとともに、それを包み込むベトナムのゆったりとした歴史のリズムをとらえる。
▲福井新聞1990年3月12日掲載

ベトナムのこころ 皆川 一夫著

- 自然体でしなやかに生きる ベトナム人の生き方に共感と羨望-

 朝から晩までバイクが街を走り回り、市場では威勢のいいかけ声が飛び交う。街の熱気に気圧されてカフェや食堂に逃げ込むと、店員の何気ない物腰がたおやかで優美だったり、何気なく飾られた一輪挿しの花が見事にインテリアにはまっていたり。ベトナムに魅了されるのは、動と静のこんなギャップを目にしたときかもしれない。
「ベトナム人は常に人生における遊びの部分、すなわち余裕を持って生きる『六割人生』の人々である/自然体でしなやかに人 生を生きていく」(本書より)。
 人生を程よく楽しみながら、達成すると決めた六割の部分については決して譲らず、したたかに粘りまくる。中国やフランスの支配、アメリカとの争いにも屈しなかったベトナム人の強靱さは、そんなところから発していると本書は語る。
筆者は、72年に外務省から語学研修生としてサイゴンに派遣されたのを皮切りに、外交官としてベトナムに関わり続け、奥さんもベトナム人という現地通。サイゴン解放前夜からドイモイで大きく国が動いた90年代半ばごろまでの街の変遷、そして体験から学んだベトナム人の物の考え方やつきあい方のコツなどを愛情深く描き出している。
 贈り物をするとき「たいしたものではありませんが」といい添える謙遜の習慣やごまかし笑いをする日本人と似た部分、個人主義が強く論理的という日本人と異なる部分。それを読み解くヒントとなることわざや古い物語、そして筆者の実体験の数々が全体に説得力を持たせている。特に筆者のベトナム人妻の母親から届いたお悔やみの手紙は情感豊かないい文章で、彼らの人生観をよく表している。
 日本人が学校で「わが国は資源が乏しく国土が狭い」と教わるのと対照的に、ベトナム人は「豊かで美しいベトナム、金の森と銀の海」と教わるのだという。こんな幼いころの体験もまた、日本人と似ているようで根本が大きく違うとわれわれに感じさせる理由なのだろう。「今の日本は『実体乏しき金持ち国』となっている印象があるのに対し、ベトナムは『実体豊かな貧乏国』という感じがするのである」(本書より)。
 執筆当時から15年あまりの時がたち、ベトナムは新興の金持ち国に近づきつつある。わたしたちの国は、実体豊かな金持ち国になれているのだろうか。
▲山田 静(ライター)・ベトナム航空機内誌「HERITAGE」2013年7月~9月(秋)号掲載

-「六割人生」の余裕 肩の凝らない恰好のベトナム入門書-

 かつての「戦争と難民の国」、今や新たな海外市場として最も〈熱い〉「アオザイ美人の国」。ドイモイ政策による急速な経済開放以後、日本でも関連の映画公開が相次ぎTVドラマの舞台となり、また観光やビジネスで彼の地を直接体験する人も増えている。著者が「竜宮城」にたとえるこの国の魅力に虜となる人が増える一方、〈生き馬の目を抜くようなところだ〉という話も伝え聞くのだが、この一見相反する二つの印象がコインの表と裏であることを、本書は教えてくれる。
 著者が初めてこの地を踏んだのは、ベトナム戦争最中の一九七二年。以来、日本大使館員(語学研修生の二年間を含む)という立場での通算十年にわたる滞在、そしてベトナム人女性を二度目の妻として迎えるという、人生の折々に触れた〈ベトナム〉が綴られている。
 ベトナムと言えば、彼らがなぜ大国アメリカに勝利し得たのかに誰しも興味をそそられるが、著者は一貫して、ふつうの人々が「何を考え、どんな生活をしているのか」を個人的体験に基づきつつまとめている。「人生を暗く思い詰めることなく」、「完璧は求めないが、六割の部分については死守」するしなやかな生活姿勢、また自らの国土を「豊かな美しいベトナム、金の海と銀の海」と呼び「人生を愛する」楽天性にこそ、四十年にわたって戦い抜いた強靭さを見るのである。それを支えているのは、たとえ統計上GDPが240ドルでも食卓には農海産物があふれる(特に南の)国土の豊かさであるらしい。
 その他、感嘆に値する器用さや読書欲の高さ、男を頼らない女性の強さなど印象的な「ベトナム人の特質」は枚挙に暇がないが、なにより驚きだったのは、「君子一言はバカ君子、二言他言は賢い君子」という諺があるほどの臨機応変な考え方だ。機を見て言を左右にしつつ、少しずつ物事を動かし「動くのを待つ」。人の弱みにもつけ込む交渉上手。日本では不道徳でさえあることが、ここでは徳なのだ。それが「六割人生」の余裕を支えていることを思えば、思い込みがふっとほどけてゆく快さすら感じられる(実際にそこで暮らしてみてどう感じるかはまた別なのだが)。
 最後に特筆すべきは、ベトナム人の心の書「金雲 (キム・ヴァン・キェウ)」の粗筋が巻末に付されていることだろう。19世紀初頭に、美貌の遊女の転変著しい生涯を人生への深い洞察をこめて描いた物語は、「ベトナム人の魂、人生観そのもの」だと著者は言い切る。聖書やコーランにも似た「心の糧の一書」として一般庶民の暮らしに溶け込み、人生の指南となり支えとなり、あるいは本をぱっと開いた時に現れる文章で将来を占うことまで行われるという。比類なく美しいという韻文に直接触れることは叶わないが、千年にわたる中国支配から百年のフランス植民地時代、四十年のアメリカとの戦いを経て現在に至る歴史の変転を思うとき、そのような文学を持ち伝えてきた人々の心の厚みが思われる。
 これから彼の地への旅行または赴任を控えた向きには、肩の凝らない恰好の入門書となるだろう。
▲桑原 香苗(ライター)・週刊読書人1997年8月8日号掲載

ベトナム革命の内幕 タイン・ティン著・中川 明子訳

- 共産党一党支配の暗部を告発-

 「ドイモイ」(刷新)の合言葉とともにベトナムが改革・開放に大きく舵を切って十年あまりが経過した。経済と社会の諸相はこの間、急激に変化した。しかし、その陰で牢固として変わらぬものも少なくない。その象徴は共産党による一党支配である。
 権力の独占がいかに腐敗と停滞をもたらすか。自由の抑圧がどれほど国民の活力をそぎ、国の建設に障害となるか。著者は過去を振り返り、現状を鋭く告発する。四十四年の党員歴を持ち、記者として党首脳とも身近に接した。その豊富な経験が本書を説得力あるものにしている。
 中国やソ連に比べて穏健だったとされるベトナムの革命も行き過ぎや流血と無縁ではなかった。著者によると、五〇年代の農地改革では一万人以上の地主層が処刑された。集団指導という共産党神話の内実も暴露される。「同志的団結」の陰には親ソ派と親中派の激しい路線対立、指導者間の個人的確執が隠されていた。
 著者は「解放という名目で逆に人間を抑圧し、集団の大義で個人のあらゆる創意を圧殺」する共産党を糾弾する。その上で政治の自由化と複数政党制への移行こそが民族和解と国家発展の道だと説く。
 政治の自由化を万能の特効薬と見るのはナイーブ過ぎるかもしれない。この劇薬を副作用なく処方する手立てが明示されているわけでもない。しかし、著者の焦りにも似た思いは十分理解できる。本書が書かれたのは六年前だが、問題提起は今なお新しい。共産党統治の内実が本質的に何も変わっていない何よりの証明である。
  解放と革命の側に身を置いた当事者による幻滅と告発の書という点で、本書はチュオン・ニュ・タン元南ベトナム臨時革命政府法相の回想録(邦訳「ベトコン・メモワール」)に続くものだ。現代史の空白を埋める貴重な証言はいずれも国を捨てるという形でしか実現しなかった。この悲劇的な構図こそ、この国の現実を象徴している。
▲鈴木 真(日経ウィークリー編集部次長)・日本経済新聞1997年11月16日掲載

女たちのベトナム 村田 文教著

 ベトナムへの海外からの直接投資は九六年が最大だった。しかし、現在は年を経るごとに投資額が減少している。一時は「最後の投資楽園」などと期待された。ドイモイ政策実施後、米国・韓国・中国などかつての「敵国」とも国交回復をはかり、ASEANに加盟し全方位外交も成功したかにみえた。とくに米国との国交正常化を果たしたときには、一~二年の間には米国が最恵国待遇を与えるのではないかと予想され、日本や韓国の企業は「輸出拠点として活用できる」と色めきたって進出を試みた。
  だが、九七年のアジア通貨危機でベトナムも少なからず影響を受け、輸出産品としてのコメの価格がタイと逆転するという現象が生じた。つまり、輸出(価格)競争力がなくなったのである。その上、米国の最恵国待遇についても、現時点ではまだ不透明である。
 著者の村田文教さんは、ベトナムがドイモイ政策を引っさげて国際舞台に飛び出ようと激しく活動しはじめた時期に、日本経済新聞の記者としてハノイに駐在した。
  村田さんはこの本で「通貨危機以降のベトナムの現状を知ってもらいたい。さじを投げずに永い眼で見守ってほしい」ということを主張したかったのだという。いうまでもなく「花見経済の後」も、ベトナム人は必死に働いている。とくに女性たちの活躍が目立つのである。党幹部から行商人まで、いろいろな職業をもった女性たち三〇人を通して、ベトナムの現状を知らせようとしたわけである。
  通読してみて、登場したベトナムの女性たちの共通項は、「上昇志向」を持っていることだと理解できる。日本企業はベトナムに何を求め、期待したのだろうか?それは「儒教的精神基盤を持つ、知的な働き者」と捉えたのではなかったのか。社会主義国であるとか、 インフラが整備されていないとかの投資環境の不備については、十分承知してベトナムと取り組もうとしたのではなかったのか。とすれば、ベトナムは今なお日本企業の期待に応えているのだと理解できる。
 村田さんは、インタビューを通じてベトナムの現状を知らせると同時に、「政治-矛盾との戦い」「経済-花見経済の後で、ポストドイモイの行方は」「社会-時針から秒針へ、急激に変わる社会」に分け、これからの課題についてもコンパクトにまとめている。この部分はベトナムの今後を考えるのに大いに参考になる。
 ところで、三〇人のベトナム女性の中にミー=ズィエンさんという女優のインタビュー記事がある。彼女にベトナムの映画業界について「まだ、多くが即席ラーメンのようなものですね。優れた映画製作者が出てきておらず、従来の戦争映画の殻を破りきれておりません。顧客のニーズとは無縁の世界です」と語らせる。村田さんによれば「中堅女優」なのだそうだが、かなりストレートに課題を提起している。その彼女の出演する映画が来年春に日本で公開される。そして、同時に彼女も来日予定である。
▲村上 三男(協会全国理事)・日本とベトナム(日本ベトナム友好協会)1999年9・10月合併号

パリ ヴェトナム漂流のエロス 猪俣 良樹著

 旅の始まりは、トゥイ・キェウ。彼女はヴェトナムで語り継がれる長編叙情詩の女主人公。類い希なる美女にして才女、数奇な人生を歩んだヒロインである。人を恋することに命をかけ、しなやかな強さ、自在さを備えたキェウとは、いったいどんな人物なのか。今なお舞台で女優たちによって演じられているというキェウ。そのキェウに会いたい。こうしてヴェトナムへと旅立った著者は、アオザイの美女との出会いを皮切りに女優・キェウを追いかけ、さらにはパリへ、ロスへと旅を続ける。キェウの生き方に強烈なエロスの匂いを感じた著者の、幻の美女探しの旅。
▲読売新聞 2000年8月6日掲載

はるか遠い日-あるベトナム兵士の回想 レ・リュー著・加藤 則夫訳

- ここに文学の仕事がある・社会をより人間のほうに引き戻す試み-

 ベトナムの話を読みながらも、私は国境のことを忘れ、自分の国の小説の世界にはいっているような気分になった。
  貧しい村で生まれたサイは、農村の古い因習に縛られながら成長していき、自分の力で世界を切り開いていく。軍隊にはいり、優秀な成績で誰よりも早く大学に進学し、志願して軍隊にはいる。軍隊はアメリカとの戦争を遂行中である。貧しいのだが意気に燃えた若々しいベトナムの戦場の描写は、走りながら歴史を読んでいるようで爽快だ。
 第一部がいわば挫折を知らぬ右肩上がりの青春時代の物語だ。因習により本人の意思ではなく幼くして結婚した妻トゥエットとの愛のない葛藤が物語に陰影をつけるのだが、物語は主人公の成長の過程を丹念に追っていき澱みはない。同級生フォンとの純愛も、主人公の心理に美しい陰影を刻む。
 第二部は復員の物語である。大きな戦争を挟んだため時代の流れが澱み、逆流し、滑らかに流れなくなり、多くの人は挫折さえする。日本は敗戦になったが、ベトナムは勝った。敗ければ挫折も甘美になり、抒情さえ漂ってくるのだが、勝ったために復員兵士の生き方は困難になる。社会から必要とされているテーマを、小説家が全力で取り組んだ作品といえる。
 第二部は戦争に勝利した喜びもなく、こんなふうに語りはじめられる。
「サイは、過酷な軍隊生活が、今は無性に懐かしかった。十七年間の兵役中、十一年は最前線にいた。その間、一度も休暇は取らなかった。ひたすら死と向かい合っていた。妻の実家の『階級成分問題』がなければ、解放軍の英雄称号を得ていたかもしれない。しかし、彼のために犠牲になった仲間たちの死を思えば、それもささいなことだ。悪性の高熱に冒されたり、激しい敵の砲弾に晒されながら、彼をかばって命を落とした人間は数えきれない。自分の命を救ってくれた仲間への恩は一生忘れないであろう。」
 戦う相手があり、生きる目的が整然としていて、自己犠牲さえもいとわない時代は、人間の生き方は感動に満ち、人は神々しくさえもあるのだ。戦争中には一体感を共有し、精神的に人々は幸福であったろう。ところが勝ったとはいえ戦争がなくなれば、虚脱感さえともない、時代は閉塞する。そして、もしかするとその時に、文学はやるべき仕事をはっきりと見定め、本当の幸福な時に至るのかもしれない。日本の戦後文学も、そのようにして存在したのである。
 ベトナムは一九四五年にフランスから独立し、建国と同時に三十年戦争にはいり、一九七五年四月に大勝利を迎える。それとともに難民が大量に発生し、カンボジア侵攻によって国際的に孤立し、世界最貧国に転落する。そのような時代を背景に、レ・リュー『はるか遠い日』は一九八六年に出版された。
 レ・リューが行った文学の行為とは、長い戦争によるベトナムの自己像の歪みを、修正しようとする試みである。本書は閉塞状況に無力感を抱いていた人々の心を捉え、五十万部を超える大ベストセラーになったという。
  戦争英雄にもかかわらず一般社会でうまく生きられない主人公を描くことにより、社会をより人間のほうに引き戻そうとする。それが本来文学の果たすべき大きな仕事である。私たちの国でも激しい経済活動の後、自己像の歪みという深刻な問題に直面している。ここに文学の仕事があると、私は勇気をもらった。
▲立松 和平(作家)・週刊読書人2000年8月18日掲載

- ベトナム社会の中で個人の内面描写に成功-

 読書と旅は似ていると時おり感じる。そこには、未知の世界との出会いがあるからだ。ベトナムの人気作家、レ・リューが描く「はるか遠い日」も、これまで紹介されることの少なかった、ベトナム人の日常と文化を垣間見ることができる興味深い一冊だ。
 時は、抗仏レジスタンス勝利(一九五四年)直後。ベトナム北部農村で生まれ育った十歳のサイには、親が決めた三つ年上の妻がいる。当時、農村で見られた早婚の風習だ。だが彼はどうしても彼女を好きになれず、やがて思いを寄せあう女性ができる。しかし、しきたりや体裁を重んずる一族の中で離婚は許されない。彼は、妻から逃れるために軍隊に入隊し、解放戦線の最前線へと旅立っていく・・…。
  本書では、農村の生活や風習、夫婦と家族のあり方、軍隊生活、都会(ハノイ)と田舎の考え方や生活慣習の違いなど、一つ一つのエピソードがリアルに描かれ、物語を豊かにしている。ところどころで日本の文化に似たものを感じる反面、社会主義の国だからだろうか、まったく異なる部分もあり、その差異が面白い。
 また、サイの半生を通して、様々なことを考えさせられる。愛、家族、戦争、そして自分とは?裕福ではないが家柄が良く、成績優秀で人望も厚いサイ。戦争で活躍し、戦後、社会的地位も確立した彼は、他人から見れば羨ましい存在だったに違いない。けれど彼は自分の生きかたを周囲に左右され、苦しみを抱え続けた。時代の変化の中、挫折をしながらも、彼は自己を見いだし前進していこうとする。その力強さに、ベトナム人が持つ底力を感じた。
 この小説が世に出たのは、ベトナムがドイモイ政策(経済の自由化と社会改革を目指した政策)を導入する直前の一九八六年のことだ。そしてこの作品は、訳者、加藤則夫の言葉を借りれば、「新しい文学が試行錯誤の中で追求してきた、悩み傷つく個人の内面描写に成功した小説」である。その結果、本書は、ベトナムでもっとも権威のある作家協会最優秀賞に選ばれている。
 ドイモイ後、急速な経済発展を続けるベトナム。急激に変わる時代の中、この作品は未だ版を重ね、ベトナム人に読み継がれている。彼らもまた、自己を探し求めているのかもしれない。
▲水谷 香織(ジャーナリスト)・公明新聞「読書」欄2000年11月27日掲載

カンボジア

ポル・ポト伝 デービッド・P・チャンドラー著・山田 寛訳

- 仏の教育を受けた青少年期-

 現代史で最も謎めいた人物の一人、ポル・ポト氏は一九七七年、党・政府代表団を率いて中国を公式訪問した。北京特派員だった評者は、空港でこの人物を撮影したことがある。
 この訪中によって、ポル・ポト氏とはカンボジア共産党のサロト・サル書記であることが初めて確認された、と本書はいう。
 カンボジア紛争は、冷戦が解け、中ソ対立にもピリオドが打たれた後、国連安保理主導の解決にこぎつけた。しかし、紛争の発端もそうだが、こうした大状況は、カンボジア内部の政治勢力とそのリーダーの葛藤、対立や協力などがあって初めて現実の要因になり得た。
  クメール・ルージュ政権は、都市からの住民排除、紙幣の廃止そして後に明らかになる数百万人の"処刑"などによって世界を驚倒させた。こうした統治のよって来る所以を見る上で、ポル・ポト氏という指導者の人となりは鍵になるものだろう。
  本書はその謎の人物像について初めて困難な「ジグソー・パズル」(訳者あとがき)を組み立てたものだ。文献と本人を知る人々からの聞き書きで生涯を克明にたどった著者は、いくつかの興味深い事実を本書で掘り起こしている。
 王宮に近い恵まれた家庭に育ち、パリ留学を含めて宗主国フランスの教育を十七年も受けた主人公の青少年期からは後に「現代のヒトラー」と非難されるような冷血はうかがえない。
 ベトナム戦争がなければポル・ポト政権もなかった-とする著者は、もちろんベトナムとの関係について丹念に跡付けている。しかし、その著者にして最後には「とらえどころのなさ」を口にせざるを得なかったという点は現代史の闇の深さを示すものだろうか。
 ただ、私有財産や市場の廃止といった理念の共通性を考えれば、文化大革命開始の六六年と政権掌握後の七七年の中国訪問にもう少しウェートをかけてもよかったと思う。もっとも中国側の対応が明らかになるにはまだ時間を要するだろうが。
▲丹藤 佳紀・読売新聞「読書」欄1994年12月5日掲載

- 大量虐殺者の正体とは-

 一九七五年四月-七九年一月の約三年八ヶ月の間に、ポル・ポトが指導するカンボジアで百万人に及ぶ人々の不自然死が発生した。その事実が後になって判明し、ポル・ポトの名は大量虐殺者として全世界に知れ渡った。だが、ポル・ポトがどんな経歴で、どんな人物かについては長い間霧に包まれていた。
 カンボジア現代史の第一人者のチャンドラー教授の英文による原著が九二年に出版されると、カンボジア問題に関心のある人はこの本に飛びついた。九四年夏、プノンペン行きの飛行機の中で、欧米人の多くがこの本を熟読している光景を見た。
 その待望の書の日本語訳が丁寧な翻訳で出版された。
チャンドラー教授は、八六年から九二年にかけて、カンボジアだけでなく米国、フランス、オーストラリアなどで、ポル・ポト(本名はサロト・サル)の関係者など五十二人とインタビューして証言を丹念に集め、さまざまな文献や記録と照合しながら、ポル・ポトの全貌を学術的に明らかにしようとしている。
  著者の冷静な筆致と客観的な分析は、読み手からすると"かっかそうよう隔靴掻痒"の感がないでもない。静かで上品で物柔らかな元教師が、なぜ百万人にも及ぶ同胞の大虐殺を指導したのかという秘密がいま一つわからない。特に、ツールスレン尋問センターで二万人を超す男女が尋問され拷問された揚げ句、なぜ殺されなければならなかったのか。なぞは解けていない。
 これは単に、ポル・ポトという指導者個人の資質だけに関するものでなく、当時の「民主カンボジア」という政治機構のメカニズムの問題であろう。その全体像が解明されるまでにはしばらくの時間が必要である。
 にもかかわらず、本書は、ポル・ポトの正体を初めてとらえた本であり、カンボジアを知るためだけでなく、政治と人間と暴力との関係を考察するためにも不可欠な第一級の書物であろう。残酷だが興味は尽きない。
▲神戸新聞1994年12月18日掲載

カンボジア・僕の戦場日記 後藤勝著

-戦場で生死に向き合う若者-

 「横で、一人の兵士が仰向けになり、倒れ込んだ…ああ、血だ…僕は気が狂いそうだった」-。映画の一シーンのような錯覚を覚えるが、それはつい二年前、一九九七年のカンボジア内戦の一シーンだ。そして、それはコソボやアフガニスタンの戦場で今も繰り返されている光景だ。
  本書は、戦場カメラマンの生き方にあこがれた青年が、カメラを手にカンボジア内戦を一年にわたって取材した記録だ。「僕の戦場日記」というサブタイトルは一見、不謹慎なようにも響くが、「何人が死亡しました」「背景は…と言われています」とよそ事のように伝えるテレビや新聞の報道からは決して感じられない戦争のリアルさが行間からあふれてくる。
  「どうして来たのか」と問う兵士に「怖いけど来てしまった。戦闘の写真が撮りたい」と答え、砲撃の中で塹壕に身を伏せ、「死にたくはない。明日の朝帰ろう」と決心しながらも、翌日には戦場に向かっていく。また、カメラを向けた負傷兵に、「俺の写真をいくらで売るんだ」と怒鳴られたことも正直に記されている。「客観性」や「中立」をうたい、現地の人々と距離を置いた「報道」ではなく、一人の若者が、間近に死を感じ、逡巡する姿がある。
 そして、何よりも本書に収められた写真が、戦争の真実を表している。体をまるめ銃弾におびえる兵士、狂ったように逃げまどう少女…。戦う兵士たちの心にも触れている。塹壕で「故郷に帰りたい」とつぶやく兵士や支給されたわずかのビタミン剤を「田舎に帰ったら子供に飲ませるつもりだ」という兵士がいた。
  大手メディアの報道に比べると、本書は極めて私的な記録といえるかもしれない。が、確実に「人の姿」を伝え、今の時代を浮かび上がらせる。情報があふれる中で、私たちは本来の肉声や感情をマヒさせられ、管理されている。そんな時代に、「人との出会い」によって真摯に自分に向き合おうとする著者の生き方に、同じように世界の紛争地を訪れてきた私は強い共感を覚える。
▲長倉 洋海(写真家)・信濃毎日新聞1999年5月16日掲載

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