【書評再録/2000年以前】
台湾

さよなら・再見 黄 春明著・田中 宏、福田 桂二訳

- 日本人には苦い読後感-

 最近になって、ようやくアジアの現代文学が少しずつ翻訳出版される兆しが見られるようになって来たのはよろこばしいことだ。本書もその動きの中の一点といえる、一九三九年生まれの台湾の作家の短編小説集である。
 この作品集がわれわれにとって特別の意味をもっていることは、その表題作「さよなら・再見(ツァイチェン)」の冒頭の幾行かを読めば直ちに納得できるだろう。  「この二日の間に、私は二つ罪なことをしてしまったのだが、思い返してみると、愉快な気持ちが湧いてくるのを抑えきれない。
 その一つは、七人の日本人を我が同胞の女性のところへ案内して遊ばせたこと、もう一つは、その日本人たちと一人の中国青年の間にニセの橋をかけた・・…つまり嘘の通訳をしてやったことだ」
 「私」は勤務先の会社の社長から、大事なお客である日本人たちを自分の郷里の温泉地に案内し、特別の接待をするように命じられる。この日本人客は"千人斬りクラブ"を作っていて、女性目当てに遊びに来たものらしい。「私」は「ポン引きの仕事」を引き受けるか否かについて悩むのだが、結局業務命令を実行する。
  空港に出迎えた「七人の侍」を「私」は温泉に導くが、道々のやりとりの間に、優越感、不安、欲望、憶測などの入りまじる日本人客の姿が、微妙な表情をともなって描き出される。酒の席から「女の子」を部屋に呼ぶまでの日本人たちは、何か寒々とした影を引いている。インド秘薬をスプレーで自分の身体にかけたので、それの効き目の切れぬうちに何とかしてほしい、と「私」に求める彼らの様は、滑稽でもあり、また惨めでもある。
 温泉地からの帰途、「私」の一行は汽車の中で台湾大学の4年生に出会う。日本に憧れを抱いているらしいその若者の態度に不快を感じた「私」は、日本人に対しては中国侵略戦争を、若者に対しては民族の誇りの欠如を、それぞれ相手が指摘している、と偽りの通訳をする。やがて別れる時、日本人は「再見」と声をかけ、中国青年は「さよなら」と挨拶して去っていく。
  決して深刻にではなく、軽過ぎるくらい軽妙に書かれた一編なのだが、それだけにむしろ面白いとは言い切れぬ苦い後味が残る。日本人のまだ書いたことのない日本人像がここにある。それにしても、台湾でベストセラー(一九七四年刊)であるこの作品集の邦訳が、アメリカ、西ドイツ、韓国に続く四番目のものであることは考えさせられる。
▲朝日新聞「読書」欄1979年10月28日掲載

- 鋭い社会意識をふまえた「土生土長」の作風-

 筑波大学で教えている台湾出身の文学者張良澤は、『朝日新聞』(七九年一一月五日付夕刊)に寄稿した文章の冒頭で、「私などは幼い頃から三脚仔(サカア)と呼ばれている」と述べている。三脚仔−三脚人間の小倅の謂である。一九三九年に生まれた彼は日本の台湾統治時代の学校教育を受けたことはない。だが「両親が、日本教育を受け、日本式に"改姓名"をし、配給品を貰うために日本語を常用する"国語家庭"を作って、"皇民"になることはなかったものの、人間でもなければ畜生ではない中途半端な怪物になってしま」ったためである。この筆法でいくならば、本書の作家もさしずめ三脚仔と呼ばれてきた世代に属することになるだろう。張良澤の両親がそうであったように彼の両親も、植民地統治下の「皇(国王)民」化政策から自由であったはずはなく、そのうえ、張良澤とも同年に生まれているのである。
  しかし、三脚仔と呼ばれてきた世代に属するゆえに、日本の台湾統治時代は、彼らには陰画の中の風景として記憶されてきたといえるだろう。したがってまた、かつて植民者として彼らの周囲に立ちはだかったはずの日本人も、やはり陰画的な存在でしかなかったといえよう。
 とはいえ、戦後ふたたび彼らの前に現れた日本人は、いうまでもなく陰画的な存在ではなかった。三編の作品が収録されているこの小説集で、表題作の「さよなら・再見」が関心をひくのは、その、陰画的な存在から陽画的なそれに転じた日本人像が、この三脚仔世代の作家の目にどのように映ったかにある。この小説の冒頭に見える次のような説明は、その一端を物語っている。「この二日の間に、私は二つ罪なことをしてしまったのだが、思い直してみると、愉快な気持ちが湧いてくるのを抑えきれない。/その一つは、七人の日本人を我が同胞女性の所へ案内して遊ばせたこと、もう一つは、その日本人たちと一人の中国青年の間にニセの橋をかけた・・…つまり嘘の通訳をしてやったことだ」
 「私」は勤務先と取り引きのある馬場ほか六人の日本人を台北の空港に迎えた。仕事にかこつけては南米、東南アジア、韓国、台湾などへ出向き、オンナを買いあさるのを趣味としている千人斬りクラブの「七人の侍」だ。この日も彼らは、一方に空港税関からも決して没収されることのない千人斬り用の武器を引っさげ、他方にはシーメン西門町でも叩き売りされているようなナイロンストッキングをオンナたちへの土産に、空港に降りた。これを迎えた「私」は、社長命令にあらがいきれず「七人の侍」を郷里の温泉へ案内したうえ、「ポン引き」の役まで演じねばならないサラリーマンだ。できることといえばせいぜい、「嘘の通訳」による憂さ晴らしというわけである。ところで、経済大国を背にしてやって来た「七人の侍」は、かつての中国侵略にもかかわっていた。そうした経歴と現在の境遇からくる優越意識、不安、欲情、それから「私」の怒りなどが、道々の遣り取りや「嘘の通訳」の過程でさらけだされていくのである。
  これに類した韓国のユーモラスな小説を読んだ記憶があるが、この一編も以上のようなあらすじが想像させるほどには深刻でない。むしろ軽妙で、ときにはユーモラスでさえある。さりとて、『夜と霧』の著者が侵した側に対して堅持すべき態度として「許せ、されど忘れるな」と説いた、その範囲を踏みはずしているわけではない。したがって、半世紀もの長きにわたって侵されてきた台湾の民衆感情や機微に疎い読者には、読後の後味が苦いのはやむをえぬことであろう。
 ところで、先刻も触れたようにこの小説集には他に「りんごの味」「海を見つめる日」の二編が収められている。表題作よりまとまりがあるように思われるが、前者は、地方から稼ぎのましな都会へでて来た一家が、大黒柱をアメリカ人の自動車にはねられて脚を失くした代償に、見舞品の「りんごの味」を生まれてはじめて味わう話、後者は、幼くして養女に売られ、その後再び養家から売られて娼婦に身を落とした主人公が、若い漁師の子を身籠ることで足を洗い、自立した生活への一歩を踏みだす物語である。どちらにも、最低辺に生きる民衆の哀歓がリアルに描かれているが、同時に作者の温かい目を感じさせずにはおかない。
  この作家の文学を訳者は、「写実主義的傾向の非常に強い」「土生土長(土地に生まれ、土地に育った)」の作風からきたものと解説している。これは、第三世界の文学に共通する、作家の鋭い社会意識の投影と受け取ってよいのではあるまいか。言い換えれば、作家が鋭い社会意識を踏まえ、リアリズムにもとづいて底辺の民衆の姿を描いた結果が、台湾では「土生土長」の作風となって表現されるに至ったということである。いずれにしても、活性化の必要に迫られているこんにちの日本文学にとって、この小説集が示唆するところは少なくないといえよう。
▲安 宇植(アン ウシク)(評論家)・朝日ジャーナル1980年1月18日掲載

- 70年代 日本人観光客の波・同胞にも鋭い風刺-

 国際線でただ一つ羽田空港から離陸する台湾の中華航空機が台北郊外の中正空港に着くと、思い思いの土産を手にした中国人客がどっと降り立った。が、この物語の初めに出てくる主人公と"七人の侍"の戯画的な出会いのような、日本人客の名前を大書した紙で迎えられたグループは一組しか見当たらない。
  「あの便は、台湾の人たちが商用や観光で日本に行くのにもっぱら利用しますからね」 台北市内への高速道路を飛ばしながらタクシーの運転手はそう説明した。日本から台湾への人の流れは年間約九十万人、台湾から日本へ同三十万人(八八年)。十一年前の七七年にはそれぞれ五十万人、八万人で、この間、全外国人客の六〇%にも達していた日本人客の比率は四六%に落ちている。かつて、ほぼ日本からの一方通行だった観光客の流れも、数の多少はともかく相互交流の形をとり、日本人以外の客が増えていることを示すものだ。
 七人の日本人観光客の"買春旅行"をテーマにしたこの小説は七〇年代初めに書かれた。勤務先の社長の指示でその「ポン引き」役をやらされる作者の分身、黄青年は、同胞の女性を、しかも故郷の温泉場礁渓でとりもたなければならなくなり、自己嫌悪の念にかられる。一夜の騒ぎのあと、一行は帰りの汽車で、父親の勧めで「中国文学の研究」のため日本に留学する中国人学生と乗り合わせる。黄はニセの通訳で学生と七人の日本人双方をヘコませるのだが、この場面は小説のクライマックスである。
 作者の黄春明氏に勤務先の広告会社で会った。ちょうど用事があるというので、礁渓へ案内してもらった。
 「日本が悪いと言っているのではないし、観光旅行を責めているのでもない。過去を忘れないこと、そして一緒に向上していくという考えを持ってほしいことを訴えたかった」
 台北市内を抜け、やがて紺碧の海が左手に見える高速道路の車中で黄氏は静かに語った。
 この作品が台湾で話題になっていたころ、韓国でキリスト教系女子大生が「キーセン観光反対」のデモをして話題になった。高度経済成長を遂げた日本からの海外渡航がピークを記録したことのアジアでの突出した現われだったのだろう。
  途中、ひなびたドライブインに立ち寄って休憩した際、黄氏に「手洗いは?」と聞かれ、原作の一場面を思い出した。坪林渓谷の山道で七人が立ち小便をするくだりである。そこで黄青年は中国人が日本人をののしるわけを理解する。
 そういえば、司馬遼太郎『街道をゆく2』(韓のくに紀行)に韓国の釜山の倭城跡の石垣に《あなたに犬を禁ず》とハングルで書かれていたとある。司馬氏はその文字は《倭人どもに対しても暗黙の寓意をもつであろう》と穏やかに書いていた。
 この作品のキーワードの一つに「千人斬り」がある。作中の日本人観光客は自ら「千人斬りクラブ」を名のっているのだが、日本軍将校が中国大陸で民衆を対象にやったと伝えられる千人斬りを意識したものかと聞くと黄氏は「そうです」と答えた。彼らの人数も、黒沢明監督の映画「七人の侍」から借りたと思われる点など、「侍ニッポン」を暗示し強調する表現が随所に出てくる。
 黄氏の前の世代の台湾作家たちは、日本の植民地統治の影響から作品自体を日本語で書かなければならなかった。「自分の文字、自分の言語」で創作を始めた黄氏は、「郷土文学」派と呼ばれるが、台湾の「親日の形がだらしなく、自覚がない」と厳しく批判する。
 主人公の黄青年は、日本人客に《日本で恥ずかしいと思うようなことや、ぐあいが悪くてやれないようなことは、当然他の国でもやるべきじゃないでしょう》とその行状についてさとらせるとともに、日中戦争に加わった過去を思い起こさせる。同時に《父は私に日本はいいといつもいっています》と語る中国人大学生をも《もっといいと想像している国へ行ってしまうことばかり考えている、今の若い連中》と批判する。作者は、台湾に生きる中国人としてのアイデンティティー(自己認識)の確立を訴えたかったのではないか。
 国民党の一党独裁下、しかも戒厳令で沈黙を強いられていた台湾で、沖縄返還協定の調印された七一年、尖閣列島(中国側は釣魚島と呼ぶ)領有問題で学生がデモを行い、新しい動きとして注目された。
  またこの年、台湾は国連から追われ、翌年のニクソン訪中、日中国交正常化と続く中で国際的に閉そく状況に陥っていた。そうした時代状況の中で、黄氏のアピールは台湾の民衆に確かなものとして受け止められたようだ。
 やがて着いた礁渓は、オフシーズンとあって客の姿もあまりなく、百軒ほどに増えたという温泉旅館街は陽光の中でひっそり静まりかえっていた。
 隣の宣蘭まで行く黄氏は別れ際ポツンと語った。
 「豊かになった今では、台湾からバンコクなどへ遊びに行く人たちも多くなりました」
▲丹藤 佳紀(文)・読売新聞「20世紀文学紀行・79台湾」欄1989年9月4日掲載

- 日本人批判の小説を書いた台湾の作家・黄 春明-

 「民族の自尊心を深く傷つけられ、書かずにはいられなかった」。台湾で空前のベストセラーになり、日、英、独、韓国語に翻訳されている「さよなら・再見」。日本人ビジネスマンたちの買春観光案内役をさせられた台湾青年の苦悩を描いた短編小説だ。
 「広告会社に勤めていたときの体験がもとです。日本人は台湾のことを金もうけか、女遊びの場としか見ていない。軍事侵略なら民族が団結して闘えるが、経済侵略は本質が見えにくいので恐ろしい」
 八月十五日の玉音放送に、祖父は「勝った!」と狂喜、父は日本人のように号泣した。「五十年間の植民地、軍国主義文化の下で育ち、日本語で話し、酔えば日本の軍歌を歌い出す父親の世代。彼らは今の日本の経済支配の構造を見抜けず、日本人に勝手なことをさせている。そういう若い世代の怒りをこめたのが受けたのでしょう」
  八歳で母を亡くし、祖母や継母と合わず、家出放浪生活。退学になった師範学校の図書館にしのび込み、偶然、禁書の魯迅やゴーリキーにふれて文学への目を開かれた。家出少年時代に接した貧しい下積みの人々の苦しみを描いた作品を次々に発表。「土生土長」(土地に生まれ土地に育った)作家として、植民地時代の日本語による文学や、大陸から逃れてきた人たちの文学とは違った新しい現代台湾文学の旗手に。
  だから、愛着深い台湾を踏みにじるものへの憤りがほとばしる。「『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が翻訳されたり、日本に学べ、という動きが最近目立っているが、日本の道は決して台湾の道ではない。本当に『日本第一』なのか、自分の目で確かめたい」と、来日した。
▲松井 やより記者・朝日新聞「ひと」欄1981年11月11日掲載

[めこん HomePageへ]