◎朝日新聞 ひと 2008年4月16掲載

作家プラムディヤの4部作を20年かけて翻訳した 押川典昭さん(60)

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 インドネシアを代表する作家なのに、国民の多くは彼の本を読んだことがない。名前も知らない。プラムディヤは悲しい作家である。
 スハルト政権下で政治犯として14年間、投獄された。流刑地で書いた「人間の大地」などの4部作は、すべて「社会の秩序を乱す」との理由で発禁処分になった。
 独立前、オランダの植民地支配に抵抗して押しつぶされていく人々を描いた大河小説は、スハルト独裁の下で何が起きているかを照らし出す書でもあったからだ。
 98年に民主化され、書店に本が並ぶようにはなった。だが、発禁処分はいまだに解かれず、2年前に81歳で世を去った。
 大東文化大で東南アジアの文学を講じながら、その4部作の翻訳に取り組んだ。収容所で書かれ、監視下で出版された原本には誤植も多い。完結編「ガラスの家」を訳し終えるまで、20年余りかかった。
 「プラムディヤの訳業は50年後、100年後に残る仕事」。親友の土屋健治・京都大教授(故人)の言葉が支えになったという。
 今年2月に読売文学賞を受賞。「これが一つのきっかけになって、アジアの文学がきちんと評価されるようになるのではないか。それが一番うれしい」と語る。
 本の帯に「文学は世界を変える」とうたった。「文学には人々を励まし、その悲しみに寄り添い、現状を変える力がある」と信じる。
 文・長岡昇 写真・飯塚晋一  


 
◎第59回読売文学賞 選評 読売新聞2月1日掲載


『人間の大地』四部作


 まず、プラムディヤ・アナンタ・トゥールの「『人間の大地』四部作」(『人間の大地』、『すべての民族の子』、『足跡』、『ガラスの家』)は現代インドネシア文学を代表する大河小説であり、世界文学として高く評価されるべき傑作である。
 独立以前、植民地時代を視野に入れてさえ、この国の歴史は浅い。だからこそ、言語を異にする多くの民族を一つの国民にまとめる過程は波瀾(はらん)に満ちた劇的なものであった。
 この四部作は、ミンケという一人の知的英雄の生涯をたどる形で、二十世紀初頭のオランダ領東インドの政治的状況を巧みなストーリーに乗せて語る。そこに生きた人々の希望と挫折を生き生きと描く。作者がブル島の監獄に政治犯として捕らわれた時期に、多くの不自由を乗り越えて書いた苦労の分だけ、話に密度が加わったかの如くだ。
 そしてまた、これはインドネシアとの縁の深い日本でこそ広く読まれるべき小説である。押川典昭は本国で出版を禁じられたこの作品を、未整理のテクストの解読ともいうべき過程を経て、達意の日本語に移した。我を忘れて読みふけることのできる翻訳文学に仕立てあげた。
 この作品にふさわしい文体の構築と、二十年を費やしての二千七百頁という量の制覇は広く顕彰されるべきである。この傑作がいよいよ日本語圏で多くの読者を得ることを期待する。(池澤夏樹)

出典 カフェインパラ





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