めこん便り
●カンボジア便り
元朝日新聞外報部記者の木村文(あや)さんの「ポル・ポト特別法廷傍聴記」。ポル・ポト特別法廷を最初から傍聴している唯一の日本人記者です。今後2〜3週間に1度の割合で連載を続けていただきます。ご期待ください。木村さんのブログ、編集長を務めるカンボジアの情報誌「ニョニョム」のホームページもごらんください。 |
⇒第1回 自分たちがつづる歴史。それがこの法廷だ
⇒第2回 ツールスレン政治犯収容所(S21)
⇒第3回 「他人のことを気にしてはいけなかった」
⇒第4回 「失われた家族の物語」
⇒第5回 「私を釈放してください」
⇒第6回 起き上がりこぼしと「恩讐の彼方に」
⇒第7回 判決は7月26日
⇒第8回 判決
⇒第9回 ヌオン・チア被告らの「第2ケース」、初公判
⇒第10回 高齢の被告たち、迫りくる時間とのたたかい
⇒第11回 ケース2、本格審理始まる
⇒第12回 被告たちの主張
●イサーン便り
日本の出版社勤めをやめ、大好きなイサーン(東北タイ)のピマーイに腰を落ち着けて優雅なひとりぐらしを堪能している梶原俊夫さんからの便りです。日本ではあまり知られていないイサーンの魅力満載です。 |
⇒NO.1 ピマーイ
⇒NO.2 高僧・名僧の寺
⇒NO.3 タイのジャンヌ・ダルク、ヤー・モーの秘密 その一
⇒NO.4 タイのジャンヌ・ダルク、ヤー・モーの秘密 その二
⇒NO.5 タイの最東端はどこだ?
⇒NO.6 ピマーイのソンクラーン
⇒NO.7 イサーン・クルマ事情
⇒NO.8 タイ−ラオス友好橋鉄道
⇒NO.9 プレーン・コーラート(イサーン節)奉納
⇒NO.10 イサーンのいまいち観光地
●イラン便り
「シルクロード・路上の900日」の著者大村一朗さんは2月はじめからイランの大学に留学しています。日本にはほとんど情報が入ってこないイスラム大国イランの素顔をリアルタイムで伝えてもらうことにしました。ご期待ください。 |
⇒No.1 テヘランは変わったか
⇒No.2 テヘラン大学学生寮23号棟
⇒No.3 アーシュラー ハレの日はかく終わりき
⇒No.4 テヘラン大学園祭の夜明け
⇒No.5 学生たちのイラク観
⇒No.6 テヘラン物件事情
⇒No.7 夏の終わりに
⇒No.8 断食は反米の叫びと共に明ける
⇒No.9 バム震災1周年を訪ねる
⇒No.10 2006FIFAワールドカップドイツ アジア地区最終予選 日本−イラン戦 観戦記
⇒No.11 イラン大統領選挙リポート『革命から26年・イラン人の選択』その1
⇒No.12 イラン大統領選挙リポート『革命から26年・イラン人の選択』その2
⇒No.13 イラン大統領選挙リポート『革命から26年・イラン人の選択』その3
⇒No.14 イラン核問題 情報操作といじめの構造
⇒No.15 イラン核問題A 「強硬派」政府の巧みな舵取り
⇒No.16 レバノン戦争とイラン
⇒No.17 イラン核開発・現地紙に見る世論の推移
⇒No.18 選挙が変えるイラン
⇒No.19 核施設のまちナタンズに行く
⇒No.20 物価高騰 イランの場合
⇒No.21 革命勝利30周年
⇒No.22 イランに「おくりびと」はいるのか?――テヘラン共同墓地ベヘシュト・ザハラーを訪ねて
⇒No.23 第10期イラン大統領選挙 1
⇒No.24 第10期イラン大統領選挙 2
⇒No.25 第10期イラン大統領選挙 3
⇒No.26 アメリカ大使館占拠記念日
⇒No.27 イスラム革命勝利記念日
⇒No.28 イランの政変はどこへ向かう
⇒No.29 在テヘラン・イギリス大使館襲撃事件
●ラオス便り
ラオス在住の島崎一幸氏からの便りです。写真でみるラオスを楽しんでください。 |
⇒第1回 ウドムサイ
⇒第2回 焼畑での陸稲と低地水田の水稲:ホアパン県とボーリカムサイ県
⇒第3回 ラオ・スン(高地ラオ人)の引越
⇒第4回 ラオス北部の伝統的灌漑施設
⇒第5回 ホーチミンルート
⇒第6回 ラオスの焼畑
⇒第7回 特別区 サイソンブン
⇒第8回 サヤブリーから
⇒第9回 タイ、ベトナムとの国境地点
⇒第10回 川を渡る
⇒第11回 国境地域に放置された仏教寺院
⇒第12回 変わるビエンチャン(1)
⇒第13回 変わるビエンチャン(2)
⇒第14回 変わるビエンチャン(3)
⇒第15回 農民参加による灌漑施設工事
⇒第16回 ルアンパバーン県とビエンチャン県サイソンブーン郡の農民参加灌漑プロジェクト
⇒第17回 ルアンパバーン県とビエンチャン県サイソンブーン郡の農民参加灌漑プロジェクトA
⇒第18回 ビエンチャンのピーマイ
⇒第19回 サーラワン、セーコーン、アッタプー
⇒第20回 象と木材と道路の話
⇒第21回 ナムトゥン2ダム
⇒第22回 ラオス初めての鉄道
⇒第23回 メコン河増水!危険水位突破!
⇒第24回 ルアンナムター
⇒第25回 サイニャブリーからルアンパパーンへ
⇒第26回 「ラオス北部県での商品作物の生産と流通」
⇒第27回 ウー・タイ
⇒第28回 ムアンロン、ムアンシン、シェンコック
●インドネシア便り
インドネシア在住のジャーナリスト小松邦康氏によるバンダアチェや爆発後のバリからの報告です。 |
⇒第1回 「アチェを忘れるな!」
⇒第2回 再びバンダアチェの取材を開始 ──2005.1.23
⇒第3回 ヘリコプターから撮影したバンダアチェ ──2005.1.25
⇒第4回 バンダアチェより・写真報告──2005.1.29
⇒第5回 巨大津波から半年のアチェ──2005.7.12
⇒第6回 バリ島同時爆弾テロから二週間──2005年10月20日
⇒第7回 放置された日本の援助──2005年11月26日・バンダアチェ
⇒第8回 巨大津波から1年、追悼も大事だが──2005年12月26日・バンダアチェ
⇒第9回 復興が遅れるニアス島──2006年3月
⇒第10回 ジャワ島地震、現地からの報告──2006年6月19日
⇒第11回 ジャワ島南海岸津波──2006年7月21日
⇒第12回 どこへ行く東ティモール──2006.8.17
⇒第13回 香港のインドネシア人──2006.11.29
⇒第14回 巨大津波から2年 南アチェの村から──2006.12.25
⇒第15回 ジャカルタの洪水──2007.2
⇒第16回 インドネシアの航空機事故──2007.3
⇒第17回 ジャカルタ−マニラ ミッドナイトエクスプレス──2007.6.12
⇒第18回 巨大津波から3年を迎えるアチェ──2007.11.16
⇒第19回 破壊進む熱帯雨林 スマトラ島リアウ州からェ──2007・12・24
⇒第20回 インドネシアで元宇高連絡船に再会──2008.8.8
⇒第21回 介護士の卵はバソ屋の息子──2008.8.21
⇒第22回 オエクシ紀行――もうひとつの東ティモール──2008.10.9
⇒第23回 日本の正月を体験したインドネシアからの介護福祉士
⇒第24回 津波から4年経ったアチェの西海岸を走る
⇒第25回 ロヒンギャ族がアチェに来た
⇒第26回 アチェの津波被災地からマグロを輸出
⇒第27回 カンボジア側から行く世界遺産プレアビヒア遺跡 (番外篇)
⇒第28回 インドネシア最長の橋が開通
⇒第29回 高松で「マスエンダン」上映
⇒第30回 ワメナ再訪
⇒第31回 楽園に戻ったアンボン
⇒第32回 羽田からジャカルタまで乗ったエアアジア
⇒第33回 ムラピ山の噴火と山の番人
⇒第34回 ジャカルタで
⇒第35回 鉄道線路でセラピー
⇒第36回 AKB48の姉妹グループJKT48誕生
●今月のメコン川
●アジアの現代文学について
少し前の新聞からアジアの文学に関する記事を拾ってみました。是非読んでみてください。
アジアの現代作家が見る日本/繁栄に酔い 狭い視野
アジアは、近くて遠い国だ、といわれる。毎年二百万人近い日本人観光客が訪れ、日本商品、日系企業の進出は怒とうの勢いである。対してアジアの人たちの生活、考え方、心を伝える文化の交流は、アジアの現代小説を例にしても邦訳はわずかに数十冊。欧米のそれと比較するまでもない深い文化の途絶がある。入欧脱亜のゆえんである。こうした日本はアジアの人の目にどう映っているだろうか。アジア・アフリカ作家会議のため来日、昨年十一月、青年海外協力隊東京OB会の主催で開かれたアジアの三人の現代作家の講演会からその要旨を紙上録音。加えてアジア研究家の鶴見良行氏にコメントしてもらった。
☆ 何処へ/聞こうアジアの民の声 (鶴見 良行 『辺境学ノート』著者)
新しく就任した日本国首相が東南アジア諸国を訪ね、間をおかずにワシントン詣でをする習慣は岸総理の時代にできた。アジアの声を代弁することがアメリカにたいするセールスポイントになる、と考えたのである。当時はまだ経済大国に成長していなかったから、対米交渉のお土産を用意する必要があった。アジアがそのお土産になった。
ちなみにアジア重視とともに、対米協調、国連尊重が日本外交の三本柱となったのも、岸政権の時代である。日本外交のアジア重視が東条軍事政権の閣僚だった政治家によって打ち出されたことは記憶にとどめてよい。アジア侵略者によるアジア重視である。
それにアジア重視と対米協調が矛盾なくつながるという発想には、かなりの自己欺瞞がある。台湾の黄春明さんが鋭く指摘しているように、日本の経済復興と繁栄を支えたのは、朝鮮戦争とベトナム戦争の特需だった。二つの戦争は、ともに、アメリカがアジアでアジア人を敵としてたたかった戦争である。アメリカの味方はアジアの敵という国際政治の構造がここにはある。
このように安易で便宜的な、したがって事柄の本質において侮蔑的な、日本国政府のアジア処遇について、アジアの側は早くから気づいていたろうが、それがようやく批判の言葉となって私たちの耳にとどくようになったのは、一九六〇年代末である。七十年を境として日本経済のアジア進出は急速に進む。この自棄が日本資本主義発展の一大画期になっていることは多くの兆候がしめしている。
去年、マスコミで話題となった集団の買春ツアーも、大量生産の制度として確立したのは七十年である。この都市にジャンボ機が東南アジアに導入されたからだ。商品としての男が大量に開発され、マニラ、バンコク、北投(台湾)などで商品としての女と組み合わされる状況を私はこの眼で見てきた。
巨大なベルトコンベーヤーは一方通行ではなく、ベトナム戦後はとくに、多くのエンターティナー労働者を帰路のジャンボ機が日本に運んだ。タイ人ホステスやフィリピン人歌手を見ない都市はないほどに、かれらは日本の津々浦々に散っている。
それと見合って、東南アジアのかなり草深い田舎にも、日本人モーレツ社員の足跡が印されるようになった。
この状況になると、対米協調とアジア重視の矛盾は、ますますはっきりしてくる。対米追随の遺制があるため、私たちはそのことの意味を自覚していない。日本国首相は、アジアを廻って「心と心のふれあい」や「憲法九条があるから軍事大国になりません」と説き、ワシントンでは、軍事同盟の強化が約束され、握手がかわされている。日本国指導者は、はっきりと自覚的にウソをつくようになった。これはアメリカにたいしてもアジアにたいしても不誠実な態度である。
第二次鈴木内閣が交渉を再開させようとしている韓国への安保がらみ六十億ドル援助は、レーガン政権が強く望んだものだった。だから現象的には、対米協調とアジア重視は、調和しているように見える。しかし本質においてはまったく逆である。国防予算の三割にも当たるような外国からの援助が、韓国社会の自立性をいかに歪めるかは、誰の眼にも明らかだ。韓国民衆の立場を想えば、これはしてはならない援助だ。
韓国も東南アジアの国々も、強圧的な政権が民衆の口を封じている。だが、地底の声なき声に耳をすますと、かれらが次のように問いかけているように私には聞える。
「日本よ、何処へ」
アジア敵対に向って、日本は戻らざる一線を越えようとしている。
☆ 民衆軸にした関係結べ(フランシスコ・シオニール・ホセ/フィリピン)
フランシスコ・シオニール・ホセ:比の英語文学第一人者
一九二四年生まれ。サント・トマス大学に学ぶ。第二次大戦中、軍医として従軍。その後、マニラ・タイムズ日曜版、ホンコンのアジア・マガジンなどの編集主幹を歴任。また、若い画家のためにソリダート・ギャラリーを開く。一九六八年、農業改良局のコンサルタントに就任する。現代フィリピン英語文学の第一人者。フィリピン・ペンクラブの創設者で、1980年、ラーモン・マグサイサイ賞受賞。代表作は"The Pretenders"(邦題『仮面の群れ』『民衆』。現在、雑誌ソリダリティの編集長。
私の国の歴史を振り返ると、エリートたちは常に支配者に協力してきた。それはスペイン占領下でもアメリカ、日本の支配下でも変わらない。貧富の差は大きい。経済は、きわめて封建的で、いまだに主体は農業。工場労働者の一日の収入は三ドル以下、農業はさらに少ない。ここ数十年、いや数百年、この状態は同じだ。貧しさから抜け出したい、と願ってもかなわず、教育を受けても働き口はない。こうした不満がつのっている社会は、変革が起きても当然だし、起きるのが正しいかもしれない。
過去も現在も、フィリピンのインテリは、いつも日本を見て、日本から何らかの示唆を得ようとしてきた。マニラには今も、多くの日本人が住んでいる。しかし、その大多数は豊かなフィリピン人と一緒に、しかも日本人ばかりがかたまって住んでいる。わずかな例外をのぞいて民衆との接触はない。それは旅行者も同じだ。空港からホテルへ直行。まず日本料理を食べ名所を見て帰る。これも日本の輸出の一つだ。その他には公害、カメラ、中古の機械、自動車がある。日本ほど偉大な国は、もう少しましなものを輸出できないのだろうか。
とは言え、フィリピンに幸福な社会をつくることは日本の責任ではない。私たちの責務だ。しかし両国の間で進められているさまざまなプログラムを、もう少しいいものにはできないか。日本はアジア開発銀行に巨額の金をつぎ込み、安い金利でフィリピン政府を援助している。だが、これは現状維持を助けるだけだ。政府対政府の関係を一段と進めて民衆を媒体とした新しい関係をつくり上げてほしい。
だが未来は厳しい。日本株式会社の勢いは、今やとどめることはできないかに見える。日本は市場を守り、原料を確保するため、再軍備の道を歩むだろう。その間、東南アジア諸国は、依然として弱小国でしかない。自分自身の社会を強め、新植民地主義の矛先をどうにぶらすのか、むずかしい課題だ。いずれは大陸の東南アジアは共産化し、続いてとうしょ島嶼アジアもそうなると予測する人もいる。しかし、私の国にも日本にも、現実を見すえた考えがあり、このような予測の前には崩れることなく働くことができるだろう。
私の好きな言葉に、いまの状態を保つために、われわれは変わらなくてはならない、というのがある。フィリピンが良くなろうと努力している過程の中で、われわれの社会正義と人間の威厳を保つため、日本に助けてもらうことは多い。そして日本もまた、われわれを助けることで良くなっていくのではないか、と考える。
☆ コントロールきかぬ社会(黄春明/台湾)
黄春明:「さよなら・再見」の著者
一九三九年、台湾の宜蘭に生まれる。台北師範、台南師範と転校、最後に屏東師範を卒業する。卒業後、故郷の国民学校で三年間教えたあと、二年間兵役に服す。その後、宜蘭放送局記者、広告会社などに勤務、一方で記録映画を撮りながら小説を書く。民衆の真の代弁者として庶民の生活と情感を描いた作品が多い。日本の買春ツアーを鋭く批判した「さよなら・再見」(邦訳)は台湾で空前のベストセラーとなり、すでにアメリカ、韓国、ドイツで翻訳されている。その他邦訳に「海を見つめる日」「りんごの味」がある。現在、スポーツ用品会社の宣伝部長。
第二次大戦は、私たちに深いキズを刻み込んだ。今、私たちはその悪夢から目覚めたと思ったが、不愉快なことは依然として続いている。それは方式を変え、よそおいを改めただけだ。日本経済が台湾に作り上げた経済機構がそうだ。つまり、日本は鉄砲を経済に持ち変えたに過ぎない。
一般に台湾人は、日本企業が進出、そのために台湾経済が繁栄し、人々の生活が豊かになった、と思っている。そのことは台湾でいま「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本が大流行していることでもわかるだろう。知識人は、日本のことを知りたがり、日本をまねて、もっと生活を楽にしようと考えている。しかし、日本企業は台湾での利益を独占できるし、台湾にとっては、この繁栄が文化面で非常な不幸を招くだろう。私は日本の歩んだ道は、台湾の取る道でないと考えている。
経済大国、日本の裏にひそむものを見聞きしたままあげてみたい。例えば団地。日本人は勤勉だが、その代償が2DKのあの狭い空間でないか。東京の地下鉄や国電は深夜までにぎわっているが、あれで家庭の幸福はあるのか。日本人はよく本を読み、たくさんのベストセラーが生み出されているが、それは良い本でなく、ミニスカートと同じ流行商品に過ぎない。もし文化が飾りものになっているなら悲しむべきことだ。
合成洗剤や化学肥料の使用に反対している主婦に会った。が、私にはこの運動がドン・キホーテを連想させる。農薬に反対すれば問題が解決するのでなく、日本経済が高速で突っ走っている、その仕組みに問題があるのではないか。
日本経済はアラジンの魔法のランプのようだ。ランプは三つの願いをかなえた。一回目は朝鮮戦争による経済の立ち直り。二回目はベトナム特需。三回目は企業の海外進出だ。しかし、三回の発展のあとに河の汚濁や大気汚染を残した。人と人の信頼関係、美しい伝統文化も失った。ランプから飛び出した巨人は、いまや主人のコントロールがきかなくなっている。
だから、私は公害反対運動に尊敬はしても、この行動がドン・キホーテに見えるわけだ。もし、根本的解決にならないと知りつつ、運動を続けているとすれば、それは単に活動家、一人一人に心の均衡を図ろうとしているだけだ。日本の知識人は、良心の不安についてバランスを保とうとするだけで現実の問題に本気で取り組もうとしているようには思えない。
☆ 「反戦文学」なぜ生まれぬ(カーシーナート・シン/インド)
カーシーナート・シン:ヒンディー文学の旗手
一九三六年か七年に、インドのベナレス近郊の村ジーワンプルで生まれる。一九六三年、バナーラス・ヒンドゥー大学文学博士課程修了。すべての作品をヒンディー語で書く。政治的逃避としてのロマン主義傾向の強いインド文学の中で、現実を見つめ批評にみちた作品を発表。文学は社会変革のための武器、と語る。進歩主義作家協会の初代議長でヒンディー文学の第二の黄金期(一九二〇〜四〇年)を築いたプレームチャンド以来といわれ、独立後の同文学に新しい地平を開く旗手と期待されている。邦訳に「わたしの戦線」「ある老人の話」などがある。現在、同大学教授。
文学には国境があって国境がない。矛盾したいい方だが、文学はその国固有の影響を強く受けたものでありながら、世界に通じる普遍的なものだ、と考えている。この前提で見る時、結論から言えば日本文学はアジアに重要な影響を与えることはなかった、と思っている。
わたしが文学を書き始めたのは一九六〇年ごろから。まずアジア、アメリカ、ヨーロッパの作品に興味を持ち、カフカ、カミュ、サルトルなどの作品を読み、日本では太宰治、三島由紀夫、川端康成のものに目を通した。読んでみて疑問に思ったのは日本は物質的に発展しているのに、文学ではどうしてこんなに遅れているのか、ということだ。日本の作家は、社会とか社会闘争などには関心がなく、個人的なことのみに興味を持っているように思えた。日本文学に私は次の二点を知りたかった。ひとつは、日本は戦争で多大な苦しみを受けたのだから反戦文学があるべきだろう。いまひとつは近代化、現代化と日本文化との狭間にあってその葛藤を描く文学はどうか、だったが、少々失望した。
ベトナムは小国だが、ここの文学は力強い。経済、社会、文化的に多くの問題をかかえているだけに強い文学を生み出したのだろう。すばらしい日本文学が、私の目に止まらなかったのは、作品が英訳されていないのか、あるいは日本社会にこうした問題がないのか、私にはよくわからない。文化的問題は文学に現れるものだと思うが、日本では作家の自殺につながるように思う。そこには燃えるものがない。日本のビルや道路に見るように科学、技術はすぐれているが、それにも増して日本文化はすばらしい。日本文化の伝統を大切にする人たちが、近代化や現代化とぶつかり、その闘いが文学に反映されれば、日本の将来の発展につながるだろう。
私の作品「わたしの戦線」を読んだ日本人が、日本の学生運動に似て大変おもしろい、と言って来た。私はがっかりした。日本には一九六八年の学生運動と七〇年の日米安保という二つの重要なことがらがあるはずだ。私はこの二つを文学を通して見たい。私たちはアジアで闘いを続けているが、日本の闘いは何なのか、教えてほしい。
太陽は日本から昇り、アジア、アフリカを照らし、ヨーロッパに沈む、とのインドの格言がある。文学を通じて、私たちが手を結び合っていけること期待している。
【神戸新聞1982年1月3日掲載】
重い問いかけ「知的売春」
「肉体的な売春と、精神的な売春とのどちらがより人間的だと、君は思うか」
フィリピンの作家、ショニール・ホセさんが激しい言葉でそう問いかけてきたのはアキノ元上院議員が暗殺されて間もないころだった。
見上げる舞台では十七か十八歳くらいの娘たちがほとんど裸に近いビキニ姿で踊っている。首都マニラ・エルミタ地区の歓楽街に密集するゴーゴークラブ。娘たちは総鏡張りの壁や天井に映る我が身をさらしながら値踏みする客から声が掛かるのを待っている。やがて酔った欧米や日本、フィリピンの男たちが、まるで物を買うかのように女を選んで店を出てゆく。
「フィリピンの女は陽気でいいよ。カラッとしていて後腐れがないもんな」――無造作に客が残した言葉が気にかかった。
「娘たちは皆、売春がよくないのは百も承知だ。でも彼女たちの稼ぎには妹や弟や親の暮らしまでかかっている。心をマヒさせて陽気さを装わずに、どうして鏡と客の中に裸身をさらせるのだ。私は娘たちに同情こそすれ、見下してしまったら何も見えなくなると思っている。見下すべきは、売春を見て見ぬ振りをし、自分の心を時の権力者に売り渡している者たちだ」――ホセさんはそれを「インテレクチャル・プロスティテューション(知的売春)」と呼んだ。
「知的売春」――私には生まれて初めて浴びせられた重い問いかけだった。日本でも第二次世界大戦中の知識人の戦争責任が問われたことは知っているが、それを「売春」という言葉と直結させて語るホセさんにフィリピンの人々が直面する事態の厳しさが容易ならぬものであるのを教えられた。
今年六十二歳になるホセさんは、マルコス前大統領が政権の座を握った一九六五年、この歓楽街の少し外れに「ソリダリダート(連帯)」と名付けた小さな書店兼出版社を開き、"鏡の国"に生きなければならない娘たちを見つめながら著作活動を続けてきた。代表作「ザ・プリテンダーズ」(日本語版「仮面の群れ」、めこん刊)は二十六年も前に発表された作品であるにもかかわらず、今も読み継がれ、私もむさぼるように読んだのは、そこに醜悪な現実に目をつむり、覆い隠すために仮面をかぶって虚飾の日々を過ごしている偽善者たちの姿が描かれているからだ。
祖国の独立を目指す民族主義を表看板にしながら、裏で外国と通じて利権をあさる政治家。学問の実績ではなく、学内政治を泳ぎ抜き権威を振りかざす学者。そして真実と民衆の利益を追求すると言いながら、貧しさに耐え切れずカネに負けてペンを折る新聞記者の姿はとても他人事には思えなかった。
「やっと書けたよ」――四月初めマニラで再会したホセさんは、人なつっこいくりくりっとした目を輝かせてゲラ刷りを見せてくれた。最新作の題名は「エルミタ」。主人公はマッサージ・パーラーで働く女性だ。
アキノ暗殺後、フィリピンの人々は一喜一憂を重ねてきた。ピープルズ・パワーでアキノ未亡人が政権の座に就いたとき、ホセさんは学者や政治家に呼び掛け土地改革や教育制度の充実策などを次々提言、期待に燃えたが、事態は好転するに至っていない。苦界に身を沈めなければならない娘の数は増えてさえいる。「この世に生を受けて学ぶことの出来た知識と知恵は、人間の尊厳と誠実さを確保するために使いたい」とのホセさんの言葉は今も私の胸に突き刺さったままだ。
【荒巻 裕(バンコク支局)・??新聞「風」欄1988年4月25日掲載】
プラムディヤ氏がマグサイサイ賞に
フィリピンのラモン・マグサイサイ賞基金は、今年の同賞「報道・文学・創造的情報伝達部門」は、インドネシアの文学者プラムディヤ・アナンタ・トゥール氏に授賞する、と発表した。授賞理由は「輝かしい文学作品を通じて、インドネシア国民の歴史的目覚めを啓発した」としている。
同氏は、一九二五年二月ジャワ島生まれ。対オランダ独立戦争に参加、四七年から四九年までインドネシア共産党の日刊紙を編集し、六五年から七九年まで政治犯として流刑された。代表作に「人間の大地」「すべての民族の子」などがある。
同賞は、フィリピン独立後の第三代大統領、故マグサイサイ氏にちなみ、国家建設や産業、学術分野で功績のあった人に贈られ「アジアのノーベル賞」と呼ばれている。
【朝日新聞1995年7月24日「海外文化」欄掲載】
40年ぶりの出国/居留下 夢見た自立
下町の狭い通り。三輪の乗り合い自動車が、けたたましい音を立てて行き交う。
「ジャカルタは、こんなに騒がしかったかな」
二ヶ月ぶりに自宅へ戻り、作家プラムディア・アナンタ・トゥル(74)は妙な感じを覚えた。
しばらくして、その理由に気づいた。三十五年前、兵隊に銃床で殴られ、聞こえなくなった右耳がいくらか、聴力を取り戻したのだ。
「昔は、聞こえなくて助かった。うるさくて、かなわんよ」
米国の大学病院で治療を受けた。「元政治犯」はスハルト時代、ジャカルタ市外へ出ることすら、許されなかった。ところが今年初めに、パスポートがあっさり認められた。
米国の大学やオランダ、ドイツの読者、それにフランス政府から招かれていた。四月、二ヶ月の旅に妻と出発した。四十年ぶりの出国である。
・ 過酷な労働の日々
一九六五年の「九月三十日事件」に連座して、逮捕された。インドネシア共産党が仕組んだ、とされる未遂クーデター。スハルト前大統領が鎮圧し、のし上がる契機となった。
捕まったのは、共産党に近い文学団体に属していたせいらしい。ジャカルタやジャワの刑務所につながれ、六九年、マルク諸島の孤島ブルにある抑留キャンプへ送られた。
一万二千人の収容者を、道路工事や開墾など過酷な「労働」が待ち受けていた。食料も自力で調達し、トカゲやセミも食べた。
虐待と病気で、政治犯たちは次々に命を落とす。地獄の日々、プラムディアは仲間たちに、物語を話して聞かせた。オランダ植民地時代、民族の自立を目指す若者が主人公だ。「人間の大地」をはじめとする連作。のちに海外で高い評価を得た。
・ 小説は発禁処分に
七九年にキャンプが閉鎖され、ジャカルタへ戻った。しかし、小説は出版されるたびに、発禁処分を受けた。
大統領が交代しても、禁書は続いている。陸軍に取り上げられた家や蔵書も、戻らない。
スハルト時代のインドネシアは植民地国家の亜流だった、とみる。ジャカルタに権力と富を集め、軍隊で地方を抑えつける統治を引き継いだからだ。
植民地になる前、島々は「海の道」で結ばれていた。異民族同士は依存し合い、仲良くやっていた、とプラムディアはいう。
激しくなる民族対立も、この過ちが招いた結果、と思える。「新しい指導者に、歴史を学んで欲しい。それが望みだ」
三十二年に及ぶ「開発独裁」に終止符を打ち、新しい時代の幕を開けようとするインドネシア。出直し総選挙をやり遂げたものの、その行方はまだ、はっきりとは見えない。過渡期を生きる人々の姿を伝える。
【福田 伸生(ジャカルタ)・朝日新聞1999年8月18日国際面「インドネシア夜明けの国で」欄掲載】
日本はインスピレーションの源・作家プラムディア氏語る−福岡アジア文化賞を受賞
インドネシアを代表する作家プラムディア・アナンタ・トゥル氏(75)が十八日、福岡アジア文化賞の受賞を記念してジャカルタで記者会見した。
インドネシアと日本について、戦争中の日本の軍政は「インドネシアに多くの破壊をもたらした」としつつ、「独立後、インドネシアが困難に直面すると、日本は常に手を差し伸べてくれた。私にとって、日本はいつも枯れることのないインスピレーションの源だった」と語った。
福岡アジア文化賞は、アジア太平洋地域の文化交流に力を入れる福岡市が一九九〇年に創設した。プラムディア氏は「民族の自立と人間の解放を世に問い続けたアジアを代表する作家」として、今年の大賞(賞金五百万円)に選ばれた。
代表作「人間の大地」は十九世紀末から二十世紀初めにかけてのインドネシアが舞台。オランダの植民地支配下で苦悩するジャワ貴族出身の若者と、オランダ人の愛人として生きるしかなかった女性を通して、民族主義の台頭を描いた。
ノーベル文学賞候補にも名前が挙がっているプラムディア氏は「これまで、インドネシアは悪い面で世界に知られてきた。今回の受賞で、インドネシアが良いものも生み出すことができることを世界に示すことができた」と喜びを語った。
受賞が決まる前、プラムディア氏にジャカルタの自宅でインタビューした。
――三十二年間のスハルト政権とは何だったのか。
ヒトラーと同じファシズム体制だった。ヒトラーに対しては全欧州が抵抗したが、スハルトには、だれも抵抗しなかった。同時代を生きた知識人があまりにも無力だった。西側諸国もスハルト支援に回った。
――一九六五年の九・三〇事件がスハルト政権を生み出した。事件後の共産党弾圧では、五十万人が殺されたともいわれる。
初代のスカルノ大統領は「反植民地主義、反資本主義、反帝国主義」だった。九・三〇事件は、そのスカルノ政権を倒すために利用された。共産党によるクーデター未遂事件とされ、共産主義者は「人殺し」とののしられた。だが、殺されたのは共産党員だった。
――スハルト政権は二年前に倒れ、インドネシアは民主化に踏み出した。
底辺の人々はこれまで、支配層の食い物にされてきた。農民は土地を奪われても訴えるところすらなかった。今、人々はたち上がり権利を主張し始めた。社会的な革命が始まっている。警察も裁判所もいまだに旧体制の人間が牛耳っている。この人たちに正義を求めても無意味だ。だから人々は泥棒を捕まえ、その場で殺してしまうのだ。
――インドネシアの将来について。
私は政治家を信じていない。こんな豊かな国が小さなオランダに何百年も支配され、独立後も貧乏国のリストに載せられたままになっている。政治家がだらしないからだ。若い世代に期待するしかない。
【ジャカルタ18日=長岡昇 朝日新聞2000年7月19日掲載】
若者の対話、出会いが民族つなぐ
スハルト政権が倒れて以来、自由な言論・表現活動が展開されつつあるインドネシアで、いま二人の作家が国内外の注目を浴びている。一人は、インドネシア文学史上最高の作家といわれ、たびたびノーベル文学賞の候補に挙げられるプラムディヤ・アナンタ・トゥールさん(75)。長く獄中作家として知られ代表作『人間の大地』などは発禁処分となっていたが、事実上の解禁となり、昨年は初の欧米講演旅行も行った。もう一人は新人のアユ・ウタミさん(31)。一昨年、初の小説『サマン』でジャカルタ芸術協会の懸賞小説最優秀賞を受け、一躍時代の寵児となった。三月末、インドネシアに二人を訪ねて話を聞いた。
一九八〇年代に出版された『人間の大地』四部作は、ジャワの青年ミンケが主人公。西洋的教育を受けた彼は、妻となる混血女性と、その母であるオランダ人のニャイ(現地妻)との出会いを通して植民地支配に疑問を持ちはじめ、東インド領内の多民族を束ねる「インドネシア」人としての意識を高めていく。
☆ 小説では二十世紀という「新しい時代」の「新しい人」を追求しています。
「その言葉に人権の尊重や民主主義の意味を込めましたが、今のインドネシアにそういう人はいません。ますます原始的になり、すぐに銃で撃つ。エリート層もポリシーがない。これは植民地時代からで、だからこれだけ大きなインドネシアが、あんな小さなオランダに支配された。豊かさゆえに搾取され、今では世界に物ごいして回る国になってしまっています。」
☆ プラムディアさんにとってインドネシア語とは。
「私の母語はジャワ語ですが、幼いころから私の理想は、インドネシア人になることでした。ジャワにまつわるものは過去に置いてきた。インドネシア語こそ自分のもの。モダニズムを求めるミンケの姿に、自分の歴史が反映されていることは否定できません。」
☆ なぜ文学者になったのですか。
「私は組織の上に立って行動する人間ではないから。書くことが、自分の意見を言うための唯一の手段でした。それが個人としての国に対する務めでもあると思う。文学は国家建設の一部です。」
☆ はじめて民主主義的に選ばれたアブドゥラフマン・ワヒド大統領をどう見ていますか。
「私は為政者を信用しない。彼は何度もスハルトに会い、スハルトには恩があると言っていました。過去、スハルトの指示で二百万人以上が殺されたのに、どうして許すという考えが出てくるのか。政治を全部若い世代に任せればよいと思う。少なくとも彼らの口は国家の富を分配するパイで汚れていない。若者たちこそが、スハルトを退陣に追い込んだのですよ。それで権力を手にしたエリートは多いのに、だれも若者に感謝を表そうとしない。若者たちは、虐げられてきた農民や労働者が不正義に対して立ち向かえるよう、彼らを奮い立たせています。」
九八年の政権交代後、著作は本屋に並ぶようになり、町の若者は「彼の本を持つのはプレステージ」と語る。プラムディアさんに会ったのは、ジャカルタ東部のウタン・カユ地区の自宅。妻や子、孫と暮らす。「獄中での拷問のために」耳が遠いという氏に、インドネシア語通訳は、かろうじて聞こえる左耳に大声で話しかけた。
☆ 発禁はまだ解かれないのですか。
「政府に禁を解く勇気はないのです。私はこれに対抗して、この四月から著作すべてをあらためて刊行するつもりです。たまたま海外から十万ドルの寄付が入ったんですよ。」
☆ 日本では、長編四部作の完結編『ガラスの家』の翻訳出版が待たれています。四部作では、アジアの民族意識の覚醒を刺激した国として、日本へも鋭いまなざしを向けていますね。
「当時の歴史を語る上で、日本について触れざるを得なかった。それをどう見るかは日本の読者次第だから、コメントはしたくないが。現在の状況の文脈で言えば、インドネシアで高速道路を造るのは日本車を走らせるためでは・・…と考えたりしますね。これまで日本人がここでやってきたことは、日本に利益をもたらすことでしかなかったのではないかと」
☆ 一昨年は、流刑地ブル島での手紙、メモ類を集めた回顧録が英訳出版されましたが、現在、執筆は。
「強制労働させられたブル島から、解放されてジャカルタに戻ったとたん糖尿病になってしまった。小説はこの八年間、書いてないのです。地名辞典の編さんもしていたが、いまはだれかが後を続けてくれればと思う。」
☆ 世界全体をどう見ていますか。
「外国に出会って民族主義の考えが出てきたのであって、現在はインドネシア個有の民族と海外の人が協力しているのだから、民族主義はもう必要ありません。これからは、すべての民族の相互理解と協力のもとに、限られた資源をどう効率的に使うかを考えなくては。ただグローバリゼーションという言葉は使いたくない。資本主義の絶対的勝利を意味する言葉ですから。」
☆ 何が民族をつなぐでしょうか。
「最初は対話です。ぜひ日本が音頭をとって、地球上のすべての国の若者が出会い、話し合う機会をつくってほしい。インドネシアには期待できない。まだ自分たちの利益の追求で精いっぱいなのです。」
【稲葉 千寿・東京新聞「はじまりへ…羅針盤を人びとに聞く」欄2000年掲載】
インドネシアの民族作家プラムディア氏/国際ペン総会 出席不可能に・「特別招待」を受けたが出入国ビザ下りず
東南アジアを代表する世界的作家、インドネシアのプラムディア・アナンタ・トゥール氏(62)が、十日からスイスで開幕する国際ペンクラブの創立五十周年記念総会に特別ゲストとして招待されていたが、結局参加できないことが九日までに明らかになった。
プラムディア氏は共産党によるクーデター未遂事件とされる一九六五年の九・三〇事件に加担したとして逮捕、七九年末までブル島に流刑された。しかし釈放後も「元政治犯」として市民権を奪われ、ベストセラーとなった代表作「人間の大地」も発禁処分を受けている。関係者によると九日現在、同氏への出国・再入国ビザが下りず、ペン大会出席は不可能となっている。
国際ペンクラブ事務当局は「現状打開のため、全面的に協力したい」という手紙を寄せた。プラムディア氏はこれを受けて、インドネシア語によるメッセージを準備、その中で「これまでの著作に対する発禁処分を解くと同時に、言論活動の自由を完全に回復してほしい」と訴えている。また、六五年に逮捕された際没収された蔵書、文書記録類の返還、市民権の回復などを求めている。
プラムディア氏はインドネシアの民族独立運動を描いた歴史大作四部作の第一部「人間の大地」を出版、八五年には第三部の「足跡」を出版したが、翌年発禁になった。現在は第四部の「鏡の家」の校正に専念している。著作は日本を含む数カ国で翻訳されており、八五年と八六年の二回、ノーベル文学賞候補に指名されている。
【ジャカルタ九日=共同】【??新聞(国際面)1987年5月10日掲載】
反植民地運動描く大河小説/発禁処分になり"口コミ"で販売
現代インドネシア文学の最高峰、プラムディア・アナンタ・トゥール氏(62)の大河四部作が完成。三月二十二日から、その最終部「ガラスの家」が首都ジャカルタで非公式に発売されはじめた。
出版元のハスタミトラ社のラフマン社長から朝日新聞ジャカルタ支局に入った連絡によると、大河小説の前三部、「人間の大地」「すべての民族の子」「足跡」がいずれも当局により発禁処分となっているため、印刷部数は明らかにできず、「口コミ」で売られている状態だという。しかし、オランダ語版がここ二ヶ月の間に刊行されるほか、日、米版も近刊の見通しがあるようだ。
八六、八七両年度のノーベル文学賞候補者にもなったプラムディア氏は東部ジャワ州の生まれ。一九六五年の九・三〇事件(共産党が起こしたとされる反軍部クーデター)の関連分子として逮捕され、流刑地ブル島に七九年まで拘留されていた。大河小説は、この流刑時代に構想されたもので、ジャワ貴族の子、ミンケの民族的自覚と反植民地主義の闘いをロマン豊かにつづっている。
最終部は、オランダと戦うため「イスラム結社」を組織するミンケの受難と死を、セレベス島北東端のメナド出身の高級官僚パンゲマンアンの目を通して描いている。三百五十九ページ。
【田村特派員(ジャカルタ)】