フィリピン歴史研究と植民地言説

photo
レイナルド・C・イレート/ ビセンテ・L・ラファエル/
フロロ・C・キブイェン著/永野善子編・監訳
定価2800円+税
四六判/394頁 /2004年初版
ISBN4-8396-0177-1 C0030 Y2800E

●書評●

 ポストコロニアル批評としてのフィリピン歴史研究の新潮流。アメリカ主導の歴史観を真っ向から批判して、いま最も注目を浴びている3人のフィリピン人研究者の論文を集めた注目の書です。

【目次】

第1部 フィリピン革命史研究からオリエンタリズム批判へ―――レイナルド・C・イレート
第1章 一八九六年革命と国民国家の神話
第2章 知と平定――フィリピン・アメリカ戦争
第3章 オリエンタリズムとフィリピン政治研究

第2部 アメリカ植民地主義と異文化体験―――ビセンテ・L・ラファエル
第4章 白人の愛―― アメリカのフィリピン植民地化とセンサス
第5章 植民地の家庭的訓化状況――帝国の縁辺で生まれた人種、一八九九〜一九一二年
第6章 国民性を予見して―― フィリピン人の日本への対応に見る自己確認、協力、うわさ

第3部 変わるホセ・リサール像―――フロロ・C・キブイェン
第7章 リサールとフィリピン革命
第8章 フィリピン史をつくり直す

【著者紹介】

レイナルド・C・イレート(Reynaldo C. Ileto)
1946年マニラ生まれ、1974年コーネル大学博士、現在、国立シンガポール大学教授.
主著:Pasyon and Revolution: Popular Movements in the Philippines (1979); Filipinos and Their Revolution: Event, Discourse and Historiography (1998).

ビセンテ・L・ラファエル(Vicente L. Rafael)
1956年マニラ生まれ、1984年コーネル大学博士、現在、ワシントン大学教授.
主著:Contracting Colonialism: Translation and Christian Conversion in Tagalog Society under Early Spanish Rule (1988); White Love and Other Events in Filipino History (2000).

フロロ・C・キブイェン(Floro C. Quibuyen)
1947年マニラ生まれ、1996年ハワイ大学博士、現在、国立フィリピン大学アジア研究センター准教授.
主著:A Nation Aborted: Rizal, American Hegemony, and Philippine Nationalism (1999).

永野善子(ながの よしこ)
1950年東京都生まれ、一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了(社会学博士)、
現在、神奈川大学外国語学部教授、専攻:国際関係論・東南アジア研究.
主著:『フィリピン経済史研究――糖業資本と地主制』(勁草書房、1986年)、『砂糖アシエンダと貧困――フィリピン・ネグロス島小史』(勁草書房、1990年)、『歴史と英雄――フィリピン革命百年とポストコロニアル』(神奈川大学評論ブックレット11)(御茶の水書房、2000年)、『フィリピン銀行史研究――植民地体制と金融』(御茶の水書房、2003年).


【解説】(永野善子)から
……フィリピンでは、冷戦終結後、とりわけ一九九○年代末から、歴史研究において注目すべき成果が陸続と発表されるようになった。従来定説とされてきた歴史観や歴史解釈が実はアメリカ植民地時代に創られた通説(言説)であると見なされるようになり、第一次資料に新たにあたりながら、アメリカ植民地史観に拘束されない歴史のありようを描き出そうとする動きがそれである。このような試みが近年フィリピン歴史研究の分野で活発化した背景は二つある。
 第一は、一九九二年の米軍基地完全撤収によってフィリピンにおける冷戦が終結したことにより、フィリピン社会のアメリカ離れが加速化したことである。フィリピンは第二次大戦後独立したのちも旧宗主国アメリカと密接な関係を維持してきたため、フィリピン人にとってアメリカは長い間特殊な国であり続けた。しかし、冷戦終結後、フィリピンは近隣アジア諸国との接近を深めつつ、それまでフィリピン人の意識構造のなかに沈潜していたアメリカ的思考様式を問い直す試みが生まれているのである。第二は、一九九六〜九八年にフィリピン社会が「フィリピン革命」百周年を迎えたことである。一九世紀末に勃発したフィリピン革命は、東南アジアにおけるはじめての植民地独立革命であった。フィリピンは独立戦争を経てスペインから独立を獲得するものの、一八九八年の米西戦争とのからみでアメリカが介入し、国際法上、アメリカがスペインから領有権の移譲を受けた。この結果、一八九九〜一九○二年にはフィリピン・アメリカ戦争が展開され、二○世紀前半にフィリピンはアメリカの植民地支配のもとにおかれた。このように独立革命は挫折したものの、今日フィリピン人がもつ集合的記憶において、この独立革命が近代史の原点となっている。この革命から百年を経過したことにより、再び、フィリピン革命を原点としてフィリピンの歴史を書き直す試みが行なわれているのである。
 こうしたことを背景として、長らくフィリピン人の思考様式を束縛してきたアメリカの文化的影響から自らを解き放つ試みが、今日、いくつものうねりとなってわき起こっているように思われる。とりわけ先鋭な問題意識をもってこうした取り組みを行なっているフィリピンの研究者たちは、アメリカでの留学経験をもつ人びとである。彼らは、フィリピンで得た歴史学、政治学、哲学・思想史などの素養を引っさげてアメリカで学び、アメリカ流の学問体系と格闘し、フィリピン人としての歴史的体験を学問としてまとめあげる方法を模索し続けた。そして、かつての宗主国であるアメリカの現実的姿を知ることにより、自らのなかに沈潜してきたアメリカ的思考様式や価値観を、アメリカ社会を鏡として映し出し、その呪縛を解く道を切り拓いていったのである。
 だが、こうした取り組みに対して、旧宗主国アメリカのフィリピン研究学界主流派からは、冷ややかなまなざしが向けられることが多い。とりわけ、フィリピン革命の解釈をめぐっては、アメリカ人とフィリピン人の歴史学者たちの間にはいまなお大きな溝がある。そのことを白日のもとに示したのが、一九九七〜九八年のフィリピン革命をめぐる激烈な歴史論争であった。……
論争の発端は、フィリピン革命百周年を迎えた時期に、アメリカ人歴史学者グレン・A・メイが『英雄の捏造――没後創られたアンドレス・ボニファシオ』(May, 1997)を刊行したことによる。メイはその著書で、フィリピンでは、テオドロ・アゴンシリョ『大衆の蜂起――ボニファシオとカティプーナンの物語』(Agoncillo, 1956)の出版以来、ボニファシオがフィリピン革命を担った民衆の指導者として国民の英雄と見なされるようになったが、ボニファシオに対するこうした評価は、学問的な史料考証にもとづいたものではなく、不確かな史料やインタビュー記録によるものにすぎない、と主張したのである。メイはイレートの『キリスト受難詩と革命』(Ileto, 1979)に対しても批判の刃を向けた。メイによれば、イレートは、「コロルム」と呼ばれる民衆の自然発生的な蜂起形態がもつ千年王国的運動の延長線上に、ボニファシオが率いる結社カティプーナンの変革思想を位置づけたが、この両者をつなぐにあたってイレートが依拠した史料の信憑性が疑わしい、と主張したのである。
グレン・メイがフィリピン人歴史学者たちに放った矢は、フィリピンの歴史学界で大きな衝撃として受け取られ、多くの批判や反論が繰り返された。そうしたなかで、メイの真の意図が、史料考証批判それ自体にあるのではなく、アゴンシリョ以来、フィリピンで再構築されてきたフィリピン革命史像総体に対する全面攻撃であることを見抜き、痛烈な論陣を張ったのもイレートであった(Ileto, 1998, chap. 9)。それは、さながらアメリカとフィリピンの歴史学者の間の、「ポストコロニアリズムをめぐる言説レベルのヘゲモニー闘争」の様相を呈したのである。この論争についてごく表面的な見方をすると、メイとイレートの論争は、アメリカ人歴史学者とフィリピン人歴史学者との間のフィリピン革命史観の相違にすぎないとの判断が成り立つような錯覚を抱きかねない。しかし、メイがフィリピン歴史学者たちに挑んだ論法には、それ以上の問題が内包されていることに注目する必要がある。それは、メイの論法のなかに、アメリカ人歴史学者の思考体系に潜む文化的ヘゲモニーの存在を見てとることができるからであるメイとイレートのフィリピン革命史をめぐる歴史論争は、文化をめぐる権力構造のなかで生起した、旧宗主国と旧植民地との間の非対照的関係のひとつの縮図といえよう。
 以上の問題意識をもって、近年のフィリピン歴史研究の新潮流に接近すると、次の二つの点をその特徴として指摘することができる。第一に、大局的な視野から見ると、二○世紀、とりわけ第二次世界大戦後にアメリカの主導権のもとで構築されてきた世界像に対して批判的な目を向けながら、植民地主義のなかで断片化されてしまった歴史を再構築する試みであること。第二には、一九九○年代の冷戦終結後において、アメリカを先頭とする「グローバル化」が加速度を増し、そうしたなかで、ナショナリズムや国民国家を単位とする集合的記憶は「支配的言説」であるとして、それを脱構築するという議論に注目が集まったように思われる。「ポストコロニアル」という概念は、ナショナリズムや国民国家についての批判的議論に対抗する思潮として、現在その意義を確立しつつあるように思われるのである。このようなフィリピン研究における新しい動きは、近隣東南アジア諸国における歴史研究にも相通じるものがあるばかりか、一九八○年代からインドで展開され国際的にも注目されてきたサバルタン研究などとの共通点も見出すことができるであろう。
…… 日本では、冷戦の終結とともに一九五五年体制がその役割を終焉したにもかかわらず、依然として私たちは未来社会へのはっきりした展望を切り拓けないでいる。だが、そうした道を探し当てる方法は、第二次世界大戦後、とりわけ一九八○年代に私たちの知的世界のなかで一層の影響力を増してきた「アメリカという存在」の意味を捉え直すことから始まるように思われる。この意味で、フィリピン人研究者によるアメリカ植民地言説を脱構築する試みは、私たち日本人が第二次大戦後にたどってきた歴史的歩みを、日本のあるべき将来像に照らしながら再検討するための、重要な手がかりとなるのではなかろうか。私は、私たち日本人の経験と切断したかたちで本書が読まれるのではなく、日本人とフィリピン人との間のポストコロニアルをめぐる歴史的接点を見出すためのひとつの場として読まれることを、切に望むものである。

Top Page> 書籍購入