ベトナム戦争の「戦後」

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中野亜里編
定価3500円+税
四六判上製/456ページ/05年初版/05年第2刷
ISBN4-8396-0184-4 C0030 Y3500E
●書評



 早いもので、1975年のサイゴン陥落からもう30年です。ベトナム戦争はベトナムだけではなく、世界中に大きな影響を残しました。しかし、日本人は南ベトナムの民族解放戦線にやたらに肩入れしたので、そのベトナムがカンボジアに侵攻したらわけがわからなくなりました。アメリカはいまだにベトナム戦争後遺症をひきずっています。そして、肝心のベトナムは「戦後」、いったいどうなってしまったのでしょう。
 どうも、日本の「ベトナム世代」は思い入れで目が曇り、事態をきちんと見ることができないようです。そこで、いずれもベトナム世代以降の、在日ベトナム人を含む若手研究者、ジャーナリストがベトナム戦争の「戦後」を考えなおしてみようということになりました。全く新しい刺激的なベトナム論、ベトナム戦争論です。



【目次】

第1部 ベトナムの戦後
1 ベトナムの革命戦争(中野亜里)
2 記者が見た英雄たちの戦後(グエン・ミン・トゥアン)
3 統一ベトナムの苦悩――政治イデオロギーと経済・社会の現実(中野亜里)
4 南部の貧困層と国際NGO活動に見る戦争の影響(船坂葉子・高橋佳代子)
5 ベトナム人民軍の素顔(小高泰)
6 人々の意識を荒廃させた経済・社会政策――ドイモイ前の「バオカップ」制度(小高泰)
7 抗米戦争と文学(森 絵里咲)

第2部 ベトナムの戦争と関係諸国
1 日本から見たベトナム戦争とその戦後(渡部恵子)
2 アメリカにとってのベトナム戦争――今も続く「泥沼の教訓」論争(水野孝昭)
3 周辺諸国にとってのベトナム戦争(鈴木真)
4 ベトナム革命戦争と中国(中野亜里)
5 国際共同体の一員として(中野亜里)

年表・索引


【執筆者一覧】

□中野亜里(なかの あり) 早稲田大学、國學院大學、城西大学、城西国際大学、慶應外国語学校非常勤講師。現代ベトナムの政治と外交を研究。
□グエン・ミン・トゥアン 東京外国語大学非常勤講師。1997〜2000年ベトナム祖国戦線機関紙『ダイドアンケット(団結)』政治・経済部長。1994〜99年ハノイ市人民評議会員。
□船坂葉子(ふなさか ようこ) 日本語教師。元NGOベトナム駐在スタッフ。ホーチミン在住。
□高橋佳代子(たかはし かよこ) 特定非営利活動法人トッカビ子ども会スタッフ。元NGOベトナム駐在スタッフ。
□小高 泰(おだか たい) (社)国際情報研究会研究員、大東文化大学非常勤講師。1992〜93年ハノイ総合大学歴史学部留学、ベトナム国防省軍事史研究所特別講義受講。1994〜96年在ベトナム日本国大使館専門調査員。
□森 絵里咲(もり えりさ) 東京財団研究員。ベトナム現代文学専攻。
□渡部恵子(わたなべ けいこ) 読売新聞英字新聞部記者。1997〜2000年ハノイ特派員。
□水野孝昭(みずの たかあき) 朝日新聞ニューヨーク支局長。1992〜94年ハノイ特派員。1996〜99年ワシントン特派員。
□鈴木 真(すずき まこと) ジャーナリスト。元日本経済新聞編集委員。1992〜95年日本経済新聞シンガポール、バンコク、ハノイ各特派員。バンコク在住。


【はじめにより】

 二〇〇五年四月三〇日は、ベトナム戦争終結から三〇年目にあたる。日本でベトナム戦争と言えば、一般的に一九六〇年代初めから七五年まで、ベトナムの民族解放勢力が米軍および南ベトナム政府軍と戦って勝利した戦争を意味している。しかし、「ベトナム人に『ベトナム戦争』と言ったら、『どの戦争のこと?』と聞かれた」という類のエピソードを時々耳にする。つまり、ベトナム人にとって米軍との戦いとは、数十年にわたる民族解放と社会主義革の闘いの、あくまで一つの局面だったのである。
 一九世紀末にフランスの植民地となったベトナムは、太平洋戦争直前に日本軍の占領下に置かれた。ホー・チ・ミンが指導する革命勢力は、一九四五年八月に日本軍から権力を奪取する「八月革命」を遂行し、同年九月二日に独立を宣言した。しかし、やがてフランスが復帰し、一九四六年から五四年までの八年間を完全独立をめざす「抗仏戦争」にあけくれた。
 フランスに勝利したものの、一九五四年のジュネーヴ停戦協定で国土は南北に分断され、社会主義体制の北ベトナム、アメリカの同盟国南ベトナムという、二つの国家が並立することになった。北ベトナムとそれに支援された南ベトナム解放民族戦線は、南ベトナム政府軍およびそれを支援する米軍と戦い、一九七三年一月のパリ和平協定で米軍を完全撤退に追い込む。一九七五年四月三〇日、革命勢力は南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)を制圧し、南北統一を果たした。この過程は「抗米戦争」と呼ばれている。 ベトナム戦争と聞いて日本人が思い浮かべるイメージは、一九六五年以後の米地上軍の派遣や米軍機による空襲、これに抵抗する民族解放勢力のゲリラ戦が中心だろう。しかし、ベトナム革命の中の抗米救国闘争とは、武装闘争・政治闘争・外交闘争を総合したより長期的で多面的な闘いだった。武装闘争の部分だけ見れば、革命勢力側の犠牲はあまりにも多く、その戦術も必ずしも優れたものではなく、米軍に勝ったとは言い難い。むしろ、敵があきらめて撤退するまで負けなかったと言うほうが正確だろう。日本のメディアでしばしば「智将」と形容されるヴォー・グエン・ザップ将軍も、元は歴史学者でプロの軍人ではなかった。
 日本人が見ていた戦争と、ベトナム人が経験したそれとは全く異なるものだった。そういう意味で、本書ではベトナム人にとっての「抗仏戦争」や「抗米戦争」と、日本人から見た「ベトナム戦争」とを区別して呼び分けている。
 南ベトナムのサイゴン陥落をもって抗米戦争は終結した。しかし、それは決して平和な時代の訪れを意味しなかった。ハノイの共産党政府は、南部の社会主義化を急ぎ、経済指導に失敗して人々の生活を圧迫した。ベトナム人民軍は、カンボジアのポル・ポト政権による国境攻撃に対抗して一九七八年末に同国に侵攻、以後一〇年間にこの土地で五万人もの戦死者を出すことになる。カンボジア介入政策の見返りは、中国による対ベトナム「懲罰」攻撃と、諸外国による援助停止だった。戦乱で国力を使い果たし、国際的に孤立したハノイ指導部は事態の打開を図り、一九八六年一二月にドイモイ(刷新)路線を打ち出した。歴史的な路線転換の結果、カンボジア問題の政治解決と対中国関係の正常化が実現したのは一九九一年、アメリカとの国交正常化に至ったのは一九九五年のことである。抗米戦争終結から実に二〇年が経過していた。
 長期的な視野で見れば、ベトナム人にとっての戦争とは、「フランス植民地主義」「日本軍国主義」「アメリカ帝国主義とその傀儡」を相手とした戦い(南ベトナム側にとっては「共産主義の脅威」との戦い)、さらに「中国膨張主義・覇権主義」およびそれに操られたカンボジアの「ポル・ポト派ジェノサイド一味」との戦いのすべてを意味している。第二次世界大戦から一九八〇年代後半まで、ベトナムは何らかの形で外敵との軍事的な緊張を抱え、戦時体制もしくは準戦時体制の下にあった。

 そのベトナムを、日本人はどのような目で見てきたのだろうか。冒頭に記したエピソードには、長期にわたる戦乱の犠牲になったベトナム人への同情と憐憫、さらにはベトナム特需(在日米軍から日本企業への大量発注、戦争のための輸出の増加など)で繁栄を謳歌した日本人としての、いささかの罪悪感が混じった強い思い入れが伺える。
 ベトナム戦争時代に青年期を過ごした世代、特に反米・反戦運動に携わった日本人の間には、ベトナムと言えば「悲惨な戦争の犠牲になった美しくも哀しい国」、ベトナム戦争と言えば「英雄的な人民の勝利」というイメージが定着している。そこには、いわば二重の神話─―社会主義革命という神話と、アメリカ帝国主義に対する民族解放闘争という神話―─が形成されている。そして、ソ連ブロック崩壊後も「社会主義志向」を守るこの国に対して、民族解放を成し遂げたベトナム(ソ連や中国、北朝鮮とは違うベトナム)の社会主義だから……と、何かを期待する。そして、貧富の格差や福祉の欠如といったこの国の実情を知ると、「社会主義なのにどうしてこうなのか?」「社会主義の良いところはどこに残っているのか?」と戸惑う人もいる。
 一方、ベトナム戦争以後に生まれた日本人の中では、ベトナムはエキゾチックでおしゃれな国として商品化され、かわいい雑貨、ヘルシーなエスニック料理などが消費の対象になっている。今や、多くの若者がグアムやバリに行くのと同じ感覚で、ホーチミン市でショッピングを楽しんでいる。彼らが物乞いのストリート・チルドレンを目にしても、発展途上国によくある現象と受け止めるだけで、社会主義とか革命戦争という歴史的背景には思い至らないかも知れない。メコン川のクルーズに来た女子大生が、「ホー・チ・ミンって誰?王様?」と平然と口にする光景など、ベトナム反戦運動に情熱を注いだ世代には噴飯ものだろう。
 しかし、その反戦世代とて、当時は主にテレビや新聞から情報を得るしかなく、ましてや現地に行くことなど、今からは想像もつかないほど困難だった。社会主義陣営に属する北ベトナムとは一九七三年まで国交がなく、その実態はほとんど知られていなかった。サイゴン「解放」のニュースは多くの人々に歓迎されたが、戦火がおさまり、ジャーナリストが引き上げた後のベトナムの内情については、ますます情報が乏しくなった。
 したがって、解放されたはずの南部から数十万の人々が脱出して「ボートピープル」と呼ばれる難民となり、アメリカの侵略を撃退したベトナム人民軍が、同じ社会主義の隣国カンボジアに侵攻し、やはり同じ社会主義の中国と戦争を始めた時、このような事態をどう解釈してよいかわからず、混乱した人も少なくなかっただろう。一九七〇年代の後半から八〇年代を通して、日本人は訳のわからないベトナムに対し、次第に無関心に、あるいは冷淡になっていった。ドイモイ路線が公表された時も、ソ連のペレストロイカに倣ったものという程度にしか受け止めず、にわかには関心を寄せなかった。
 この国が再び日本人の注目を集めるのは、抗米戦争終結から二〇年近くを経た一九九〇年代の前半である。ドイモイ路線下で活発に経済発展する都市の情景がテレビや新聞に登場し、「廉価で勤勉な労働力」「豊富な天然資源」「七〇〇〇万人(現在は約八〇〇〇万人)の大市場」に希望が託されるようになった。それ以前の十数年にわたる混乱期については、ほどんど問題にされることはなかった。その結果、反戦世代がノスタルジアをもって振り返る悲劇的で英雄的なベトナム・イメージと、その一世代下の若者たちが見る市場としてのベトナム・イメージに二分された表層的な認識ができ上がってしまった。

 ベトナムの国家や人間は、歴史を見る者の視点によって全く違う姿に映る。誰が善玉で誰が悪玉か、誰が加害者で誰が被害者か、その位置づけによって相手を肯定的に評価するか、否定的に排除または無視するかが変わってくる。反戦運動を経験した世代なら、ベトナムを植民地にしたフランス、侵略戦争をしかけたアメリカ、その同盟者である旧南ベトナム政権が悪役で、それに抵抗する革命勢力、すなわち南ベトナム民族解放戦線と北ベトナムが善玉、と受け止める人がおそらく多数派だろう。しかし、少ない情報に依存しながら、しかも最初から過度の期待を込めて対象を見ていたのでは、バランスのとれた歴史認識を持つことは難しい。
 たとえば、革命勢力側に好意的な視線が注がれたため、旧南ベトナム政権は「アメリカの傀儡」という一言で切り捨てられ、その内実は未だに詳しく検証されていない。インドシナ地域に詳しい知識人の中にも、統一後のベトナムから脱出したボートピープルを指して、「革命勢力の人々を拷問、虐殺していた連中が逃げ出したのだ」と断言する人さえいた。ベトナム革命勢力の正しさを信じる人々は、一九七八年末にベトナム人民軍がカンボジアに侵攻してポル・ポト政権を倒したことについても、同政権がいかに残虐だったかを強調することで、ベトナムに正当性を見出そうとする。
 確かに、ホー・チ・ミンらが掲げた民族解放や社会主義革命の理念は崇高である。その主張通りの国家ができ上がれば、そこには理想的な社会が実現するだろう。だが、理念が完璧であるだけに、為政者が間違いを犯しても、それを批判することが難しい。批判者は、アメリカ帝国主義や反共主義に与する者、社会主義政権の崩壊を望む者、という目で見られてしまうこともある。しかし、革命の理念と現実、つまり革命指導部が言っていることとしていることには大きな隔たりがある。本書でも取り上げているような貧富の格差や、共産党官僚の腐敗現象もその例である。それは否定しようのない現実なのだが、それに強いアレルギー反応を示す日本人もいる。
 ベトナムで貧困層の支援活動をしているある三〇歳前後の日本人女性は、反戦運動を経験した父親がいる。しかし、ストリート・チルドレンの実態をはじめ、ベトナム社会の現状を説明しようとしても、父親は断固として耳を貸さない。実際にベトナムに来てもらい、いろいろ案内もしたが、悪い面には目を向けようとしないという。戦争報道を通してベトナムを見つめ、アメリカ帝国主義者を駆逐した後の社会に何らかの理想を期待する世代と、現在のベトナムの有り様を先入観なしに受け止める世代とのギャップを物語るエピソードである。
 反戦運動世代の日本人には、今のベトナムの貧しい人々を見て「アメリカが侵略戦争や経済封鎖をしたせいで……」と気の毒がったり、共産党官僚の汚職の話を聞いて、「南ベトナムの資本主義の悪影響だ」と頭から決めつける人もいる。障害者の姿を見ると、反射的に「米軍が撒いた枯葉剤」に結びつけて考える人もいる。抗米戦争期から既に一世代を経ているのに、日本人の方がむしろベトナム戦争から脱却せず、この国を見る時には一九七五年で時間が止まっているかのようだ。
 ベトナムの人々は、アメリカ帝国主義の被害者としてしか語る意味がないのだろうか? 正しい理念を掲げて侵略軍と戦い、膨大な犠牲を出した貧しい弱小国だから、その指導者が犯した誤りには触れるべきではないのだろうか?
 日本人が抱く民族解放戦争や革命後社会のイメージと、ベトナム人が生身に刻んできた各時代の記憶とは全く違うものである。ベトナムの複雑な現代史は、とても善悪二元論で理解できるようなものではない。外国人が勝手にヒーローと悪役を決め、ベトナム戦争を勧善懲悪のストーリーに仕立て上げることは許されないだろう。
 当然のことながら、同じベトナム人でも世代によって戦争に対する認識には大きな開きがある。たとえば、抗仏戦争のディエン・ビエン・フーの勝利(一九五四年)や、抗米戦争のサイゴン陥落(一九七五年)を記念するセレモニーが催されても、戦中派は過去を懐かしみ、誇りに思うかも知れないが、働き盛りの世代は生活に追われてそれどころではなく、莫大な税金を使ったセレモニーなど無駄だと考える人も少なくない。そして、抗米戦争終結後に生まれた若者の多くは、民族解放闘争の歴史には無関心で、知識も少ない。
 日本人がベトナムを見る時、一九七五年でいったん記憶が途切れ、ドイモイ以後へと一挙にタイムスリップするのでは、断片的で偏った認識しか持てなくて当然だろう。ベトナム人としても、三〇年以上も前のナパーム弾に焼かれた人々の写真や、近年のオートバイが溢れるホーチミン市の街頭風景だけで自分たちを判断されたくないはずだ。
 本書では、ベトナムに対する断片的なイメージのジグソーパズルをつなぎ合わせ、ベトナム戦争とその後の時代を様々な角度から見つめ直し、現代のベトナムを過去からの連続性の上に位置づけることを試みたい。(後略)


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