激動のインドネシアと20匹の猫

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小菅伸彦著
定価1900円+税
四六判・並製・266ページ/2006年初版
ISBN4-8396-0194- C0030 Y1900E
●書評

猫好きでインドネシア好き(逆でも可)の人にはたまらないエッセイです。著者は経済アドバイザーとしてジャカルタの政府機関に派遣されている時にちょうどスハルトの退陣騒ぎに巻き込まれ、激動するインドネシアをつぶさに観察する機会に恵まれます。御存じのように、日本人の識者のほとんどがスハルト復活を予想しましたが、スハルトはあっけなく退陣しました。なぜか。経済政策の破綻から民衆がスハルトを見捨てる描写は実に説得力があります。しかし、それはこの本に魅力の半分だけ。あとの半分は「猫」です。この人の猫に対する愛情はもうハンパではありません。行方不明になった猫の捜索、下水で死にそうになっている子猫を泥だらけになって救出するところなど、本当に感動的です。

【目次】

はじめに

□第1章  八年ぶりのインドネシア
チェンカレン(スカルノ・ハッタ国際空港)/ホテルの猫/国家開発企画庁(BAPPENAS バペナス) /ジャカルタの変貌/借家探しとお手伝いさんたち/+ブン・カルノとパ・ハルト――インドネシア人の呼称/+風を探す――チャリ・アンギン

□第2章  ハッタが眠る町 *ジャカルタ1986〜89年
猫たち――カルノとハッタ/ハッタの失踪/帰国まで続けた捜索/猫たち――コロク、ミースケ、コジロー/緑豊かなハントゥア通り/+カキ・リマ――インドネシアの屋台/

□第3章  日本で暮らしたカルノとコロク
帰国/仲良しのカルノとコロク/母の病気とカルノの事故/コロクの死/それからのカルノ 

□第4章 旱魃と通貨危機 *ジャカルタ1997年
ラジオ通りの暮らし/未曾有の旱魃/通貨危機/母の死/子猫(チビとミケ)を連れてきた灰色猫(イブ)/グヌン・キドゥルへの旅行/+インドネシア語と地方語/+クレテック煙草

□第五章  ジャカルタ暴動とスハルト政権崩壊 *ジャカルタ1998年
深刻化する危機/レバラン(イドゥル・フィトゥリ)/新しい猫たち――トラ、シロ、プティ、ギア、ニア/末期症状のスハルト政権/公共料金値上げ、デモ、銃撃事件/ジャカルタ暴動/緊急一時帰国/+一九六五年九・三〇事件

□第6章  スハルト以後 *ジャカルタ1998〜99年
ハビビ大統領/新しい時代/ミケの仔猫――ラマ、タマ、トゥリ、スリ/レオとの出会いとギアの災難/プティの死とイブとの別れ/ブッジョー/国政選挙/その後のインドネシア政治+のるかそるか/

□第7章  カンポンへの引っ越しとチビの失踪
猫たちの将来とカンポンの家/ミケの死/猫たちの引っ越し/カンポン/チビの失踪/+援助と適正技術/+ドゥクン(オラン・ピンタール)――インドネシアの呪術師

□第8章  チビの捜索
森の泉に籠もる/迷ったまま二〇〇〇年を迎えたチビ/夜の山で迷う/二万枚の捜索ビラとドゥクンの予言/再会/+ジャワの蛍

□第9章  チビの帰還とカンポンの暮らし
チビの帰還/お礼のペスタ/カンポンの暮らし/猫たち/イノ伯父さんの死/マルシーの再婚/+ダンドゥットとクロンチョン――インドネシアの大衆歌謡/(囲み)カマル・マンディ(浴室・手洗い)/

補論一 インドネシアのバブル経済とIMF
補論二 軽視された食糧危機

【著者略歴】

小菅伸彦(こすげ のぶひこ)
1945年神奈川県生まれ。経済企画庁勤務を経て1999年より神田外語大学教授。1986〜89年と1997〜99年の2度にわたってインドネシア国家開発企画庁アドバイザーを勤めた。専門はマクロ経済分析、国民経済計算、日本経済論、発展途上国経済。著書『日本はデフレではない――インフレ目標論批判』(ダイヤモンド社.2003年)

【まえがき】から

 一九九七年六月に二七年間勤務した経済企画庁(現内閣府)を退職し、二度目のインドネシア勤務(国際協力事業団、現在は国際協力機構=JICAからの派遣)の機会を得て、九月から九九年八月までの二年間ジャカルタに単身赴任した。ちょうど通貨危機と未曽有の旱魃による経済危機のさなかに赴任したため、スハルト政権崩壊という歴史的事件をまぢかに見ることになり、ジャカルタ暴動による緊急一時帰国などめったにない経験もした。個人的には、着任早々の九七年一一月に母が突然亡くなり急遽帰国したことなどもあって、さまざまな感慨の残るインドネシア滞在となった。
 その前の八六年から八九年にかけてのインドネシア勤務では帰国の際に二匹の猫カルノ(スカルノ、九七年病死)とコロク(九五年交通事故死)を連れ帰ったが、この滞在でも多くの猫たちとの出会いがあった。ジャカルタの借家の先住者であった母猫のイブ(母という意味)と、その子猫のミケが多産で、しかも臆病で敏捷なために、捕まえて避妊手術に連れていくことができず、次々に仔猫が生まれ、猫好きと聞いて門前に棄ててゆく人もいたりして、結局、帰国時には一〇匹以上になった。これではとても連れ帰ることはできないので、二度のインドネシア滞在ともお手伝いさんとして働いてくれたマルシーの郷里の村に預け、世話をしてもらっている。
 帰国後は千葉の神田外語大学で、日本経済や発展途上国経済について教えているが、まとまった休暇をとれるのが教師生活の良いところで、休みのたびに猫たちを訪ね、ジャワの農村で数週間を過ごすことが習慣になった。かつて日本の農村もそうだったように、ジャワの農村はよそ者に対し閉鎖的で、普通はその地域を専門にする農村研究者でもなければなかなか入り込めない。しかし、猫たちの縁で多くの村人と知り合い、帰国してから六年以上経った今でも、行くたびに結婚式や様々な行事に招かれるなど、得がたい体験をしている。
 猫たちがいる村は、ブンガワンソロの歌で知られる中部ジャワの古都ソロから車で一時間弱、ジョクジャカルタからなら二時間半ほどかかる丘陵地帯の農村である。ソロの盆地を隔てて正面にメラピ山とメルバブ山を望む眺めの良いところだ。
 火山の麓は良い湧水に恵まれるが、独立した丘陵地の頂上付近にあるこの村は、いわゆる水貧乏で、水田はわずかで畑地と林地と集落が混在している。もちろん水道もない。農業だけではとても生活してゆけないので、子供の養育をお祖父さん、お祖母さんに委ねて、男は大工、建設関係、女はお手伝いさんなどの仕事でジャカルタやソロ、ジョクジャカルタに出稼ぎに出る者が多い。人口過剰のためインドネシアで貧しい州の壱つに数えられる中部ジャワ州の中でもさらに貧しい地域に属するが、現金収入は少ないものの、村の家の多くは日本の都会の住居よりはずっと広く、実際に生活してみると、何が貧しいのか考えさせられる。現在はまだ、軒が低く、カーブした大屋根を持つジャワの伝統家屋が多いが、村の男たちが出稼ぎで覚えたモダンな家を建てるのが流行しているため、村の景観も少しずつ変わり始めている。
 ジャカルタからこの村までは路線バスなら一一時間、自家用車なら八時間程度で着く。猫たちを村に移した時は、マイクロバスをチャーターして、金曜夜に出て、月曜朝に戻るという強行日程になった。一回で運ぶつもりだったが、バスに押し込んだ猫が騒ぐと他の猫は逃げてしまうということの繰り返しで、結局は五往復する往復する羽目になった。 帰国直前には、イブの最初の子猫で、ミケとともに生まれた雄猫のチビが引っ越し先の村で行方不明になり、大騒ぎになった。すぐにソロ空港経由で現地に行ったが、結局は捜索を現地の人たちに託して帰国することになった。
 警戒心が強いイブは裏庭のプールの向こう側にある植え込みを囲む石積の隙間でチビとミケの子育てをし、子猫たちは少しずつ家に近づいてきて、ベランダの足拭きマットで眠るようになり、またしばらくして居間に入ってきて、私だけになつくようになった。イブは九八年にしばらく姿を見せないと思ったら、痩せ細って足取りもおぼつかなく戻ってきて、すぐにいなくなってしまった。ミケは村に移す前に避妊手術の麻酔事故で死んだ。残ったチビは私にとって特別な猫で、行方不明のチビの捜索が帰国後の私にとって一番の重大事になった。二〇〇一年三月に五キロも離れた村で奇跡的に見つかるまで、ジャワに行くたびにどれだけの距離チビを探して歩き回っただろうか。
 もちろん、現地の人たちにもずっと捜索を続けてもらっていたが、飼い主の私が率先して探さなければ、たかが猫一匹ということで現地の人の真剣さも薄れてしまう。迷信深い現地の人が大切に思っていることは私もやらなければならないので、深い森の中の神聖な泉の暗闇で、雨の中一晩お籠もりもした。一人で夜の山道に迷って遭難騒ぎになりかけたこともあったが、チビが見つかった今はどれも良い思い出だ。
 猫の記憶は数ヵ月程度という。ようやく見つけたチビは呼んでもちょっと振り返るだけで逃げてしまったが、やっと捕まえて抱き上げたとたんに思い出したようで、ごろごろとのどを鳴らし、それからは私から離れなくなった。その他の猫たち、ジャカルタの家の門前に捨てられていたトラとシロ、イブやミケが生んだ猫たち、さらにその子猫たち、二〇匹以上の個性的な猫たちが元気にジャワの村で暮らしている。
 しかし、動物を飼う限り、別れの悲しみも覚悟しなければならない。下水の深い枡に落ちて鳴いていたのを散歩の途中に拾ったレオ。大きくて強い猫に育つようにとの願いを込めてレオと名づけ、実際、他の誰より大きく腕白な猫になったが、二〇〇三年四月に突然逝ってしまった。  交通事故でひどい怪我をして勤務先のバペナス(国家開発企画庁)の中庭にいた三本足のブッジョー(足の切断手術をした獣医さんから幸運という意味のジャワ語の名前をもらった)は強い生命力で何度か病気を乗り越えてきたが、二〇〇四年暮れに眠るように死んでいった。
 たくさんの猫を一緒に飼っているため、感染症で何匹も一緒に死ぬこともある。生まれる仔猫と、そうして亡くなってゆく猫がほぼ同じ位の数で、現在も概ね二〇匹。顔ぶれは少しずつ変わってゆくが、半年毎にこの猫たちと会うことが現在も私の生活の中心である。


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