アンコール遺産と共に生きる

photo
三浦恵子
定価3500円+税
A5判・上製・400ページ 口絵カラー8ページ
ISBN978-4-8396-0246-8

【関連書】アンコール遺跡とカンボジアの歴史   東南アジアの遺跡を歩く    オリエンタリストの憂鬱

 アンコールの人々は遺跡とどのように共存してきたのか。人々を含む「文化遺産」としてのアンコールを総合的に理解し、その魅力の秘密に迫るための1冊。「文化遺産研究」の最先端を行く本格派です。


【著者はこんな人】

三浦恵子(みうら・けいこ)
英国ハル大学地域学部(東南アジア地域専攻)卒業。
英国ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)地域学修士(東南アジア地域専攻)修了。
ユネスコ・カンボジア事務所文化部勤務。
英国ロンドン大学東洋アフリカ学院 (SOAS) 社会人類学博士号取得。
早稲田大学、共立女子大学、津田塾大学非常勤講師を経て、現在、独国ゲッティンゲン大学文化財研究チーム特別研究員。


【目次】

序章
    カンボジアとの出会い
    アンコールとアンコール・クラウ村との出会い
    アンコールの歴史的概観
    文化遺産をめぐる問題と本書の主旨
    世界遺産アンコールの行為者とそれぞれの関心
    研究アプローチと方法論
    制約、ジレンマ、問題点
    研究地域と対象者

第1章 遺産概念とアンコール
    1. リビング・ヘリテージ概念の再考
    2. 過去と遺産
    3. 遺産の定義:変わる概念
    4. 空間
    5. 場所とローカリテイ
    6. ランドスケープ

第2章 空間と場の知識第二章
    1. 地域社会の知識
    2. 聖域としてのアンコール
    3. アンコール・トムと城門
    4. バイヨン寺院
    5. プレア・ピトゥ寺院
    6. ブランパル・ルヴェーン寺院
    7. セントミア湖
    8. アンコール・ワット

第3章 アンコール・クラウ村と実践知
    1. アンコール・クラウ村
    2. 共同体の生活知
    3. 精霊の身体化された知識
    4. 仏教の知識と実践
    5. 環境の知識と実践
    6. 家族の相続財産に関する知識

第4章 空間からの追放、場からの排除
    1. アンコール・トムからの追放
    2. アンコール時代の追放
    3. シャムによる周辺化、フランスによる追放、イサラクによる介入
    4. 戦争、混乱と剥奪

第5章 実践の規制
    1. 権力の概念、政治文化、権力関係の歴史
    2. 私有地所有の拒否と樹木の違法伐採
    3. 改革と移住
    4. 更なる拒否:禁止と排除

第6章 ター・ネイ会議――さまざまな言説
    1. 支配的な言説ともう1つの言説
    2. 権力関係の社会的動態
    3. 支配の文脈と形式
    4. ガバナンスと市民社会

第7章 地域住民の生活戦略と遺産管理をめぐる論争
    1. 地域住民の戦略と戦術
    2. 遺産保全主義派――観光推進派間の綱引き
    3. まとめと提言

第8章 持続可能な開発
    1. アプサラの新しい管理体制と実践
    2. 社会経済開発計画と観光開発

【序章から】
カンボジアとの出会い

 本書は、文化遺産と人々の共生をめぐる問題をカンボジアの世界遺産の1つアンコールの事例から考えてゆく。しかし、私にとっての出発点は、文化遺産ではなく、カンボジアへの関心であった。そこで、私がなぜカンボジア、そしてアンコールに関わるようになったかについて、いくつかのエピソードから始めたい。
 1980年4月、私はインドシナ難民救済の仕事に関わることを希望して、友人と共にタイに飛び、さまざまな難民キャンプを訪問した。合計約4ヵ月余り、日本ボランティア・センター(現在、日本国際ボランティア・センター: JVC)と国連世界食料計画 [World Food Programme] を通してボランティア活動を行なった。その活動を通して、難民たちから内戦やポル・ポト政権下での生活や逃亡のすさまじい体験談を聞いた。また、難民救済事業の光と影や、タイ軍隊や何人かの難民救済関係者の間で行われた不正、非道徳的行為、弱者の搾取や暴力について知ることとなった。そこで、人間の成し得るあらゆる行為の可能性の広さと自身の無力さなども含めて、極めて多くを学んだ。この時の経験があまりに強烈だったので、カンボジアは、私自身の半永遠的なプロジェクトになったのである。
 ほとんど全てを失った人々は、それでも微笑むことを忘れていなかった。と言うよりもむしろ、微笑むことが生き延びるために必要だったと言う方が正しいかもしれない。友人の知り合いだったカンボジア難民は、少ない配給の食糧で美味しい料理を作って振舞ってくれた。彼女は後にフランスに移住することができたが、ポル・ポト政権下で口がきけない振りをしてやっと生き延びたストレスのためか、フランスに渡ってから精神的に病み、治療が必要となった。難民キャンプや難民収容センターで医療と食糧の支援を受けても、多くの場合仕事もなく、されど帰るところもない人々が意欲的に生きるのは難しい。ある時、難民収容センターで若いクメール人女性たちによる古典舞踊が披露された。余りの美しさに、目が釘付けになった。「泥沼に咲いた蓮の花」を見たと思った(写真)。伝統文化の力に圧倒された瞬間だった。ポル・ポト政権を生き延びた数少ない舞踊学校の教師達が、若い男女たちに古典舞踊を教えていたのである。この経験が、私にとって運命的なものになった。カンボジアと文化について学ぶことが、私のライフワークになったのである。
 1991年パリ和平条約が調印され、それまで争っていたクメール・ルージュを含む4政党が、国民総選挙を開催することに同意した。それに引き続いて、UNTAC(カンボジア国連暫定統治機構)は、1992年3月にカンボジアに設立され、SNC(最高国民評議会)と共に、カンボジアの統治を開始した。UNTACの使命は、国民選挙の実施と、国際的に認められる合法的な新政府誕生までのスムースな転換を見守ることであった。
 私がロンドン大学で修士課程を終える頃、思いがけなくユネスコのカンボジア事務所で無形文化財を担当する国連ボランティアとして働く話が舞い込んだ。これは私にとって願ってもない提案だった。それは、1980年に難民として国を逃れて行った人々や国内で苦難に耐えて生き延びてきた人々が、どのように祖国を再建させていくのかを目撃し、カンボジア復興の一助を担えるまたとないチャンスだったからである。
 1992年11月首都プノン・ペンに到着した。この時、UNTACがカンボジアで顕著な存在感を示していた。UN(国連)と書かれた白塗りの飛行機とヘリコプターが空を飛び、同じように白塗りの4輪駆動の車が、市、町、村の至る所で見られ、青い国連の旗がカンボジア中ではためいていた。カンボジアでは、まだこの時期内戦の傷跡を生々しく残しており、崩れかかった建物、でこぼこの道路、未整備の公共施設が至る所で見られた。カンボジア人は、国連による救済への希望を持ち、国連関係者は、救援の熱意で満ち溢れていた。当時のカンボジアで、白い国連の車と青いベレーを被った国連の平和部隊の兵士たちが、白象に乗った青い救世主(ラーマ王子?)が世紀末に現れ、人々を長い苦しみから救済するという噂(至福千年説)の救世主に見えたのは自然なことであった。

アンコールとアンコール・クラウ村との出会い

 私が最初にアンコールを訪れたのは、1993年1月。ユネスコの伝統絹織物復興プロジェクトでアンコール地域の織物の伝統を調べる調査に参加した時であった。その時は、アメリカ人の人類学者と王立プノン・ペン芸術大学の織物コースのクメール人の女性講師と数人の女学生たちが一緒だった。学生の中には、ポル・ポト政権の幹部の1人、キュー・サンパンの姪もいた。担当教師は、ポル・ポト政権時代に夫と6人の息子全員を亡くしている。「戦争が起こると、社会から美しいものがなくなっていく」と言った彼女のつぶやきは、私の心に深い衝撃を残した。自分の愛する家族の死に間接的だが関わっているキュー・サンパンの親族を教える複雑な思いを、彼女は自身の心の中でどのように向き合っているのだろうか。彼女との出会いは、さまざまな疑問を私に投げかけたが、心の痛みを推察して直接的な質問をすることはできなかった。カンボジアで生活するうちに、多くのカンボジア人が抱えている心の痛みを理解できるようになりたいと思った。国連軍の軍用機でプノン・ペンからアンコールに近いシェム・リアップ市に飛んだ。インドネシア空軍のパイロットが、コック・ピットに入れてくれて、アンコール・トム(「首都」の意。12世紀の終わりから13世紀初頭にかけて建設)やアンコール・ワット(「寺の都」の意。1113年から1150年にかけて建立)を上空から眺めることができた。当時治安が悪かったために、アンコールを訪れる人は極めて少なかった。
 1995年6月、国連ボランティアをいったん退職し、ユネスコの日本信託基金による日本国政府アンコール遺跡救済チーム(JSA)の考古・文化人類班メンバーとして考古学遺物の整理とアンコール周辺の村々で文化人類学調査を行った。その時に中心的に調べたのが、アンコール・クラウ村だった。その理由は、JSAの労働者の多くがこの村の出身者だったことと、アンコール・トムに近い村の1つということだった。アンコール・クラウ村には、大変興味深い伝説が残っており、後に、博士課程の研究の中心地として、この村を選択したのである。


Top Page> 書籍購入