イサーン便り
いまから21年前、仕事で赴任した友人をたずねて初めて訪れたタイが好きになり、リピーターとなり、タイ語をかじり、さらにNGOのボランティアとしてよくイサーン(タイ東北地方)にかよいました。バンコクっ子がよく「イサーンなんてなんにもないじゃない」というとおり、経済的に豊かなところではありませんが、クメール遺跡、自然公園、メコン川など見所はたくさんあるし、なによりもイサーンっ子は気がよくて居心地も悪くありません。そんなわけで、ぜひいちど住んでみたい!と思っていましたが、昨年早期退職し、長年の夢を実現させました。
いざ住んでみるとまだまだ知らなかったこと、住んでいるからこそ気づくことがいろいろあります。これからそんなお話を、地元の人しか知らない穴場のようにご紹介してゆくつもりです。 梶原俊夫
第1回 ピマーイ
タイのアンコールワット
ピマーイはイサーンの玄関ナコーンラーチャシーマー(通称コーラート)からさらに北に60kmほどの郡庁所在地です。イサーンに住むにあたって、長年の友人でタイ語の専門家、江丸さんにここの「オールド・ピマーイ・ゲストハウス」を紹介してもらいました。古い木造の一戸建て。客室は6つしかなく、家族経営ということもあって長期滞在客にはホームステイも同然、居心地のよさは抜群で、わたしもすでに1年以上ここをベースにイサーンをあちこち旅しています。しかしここピマーイそのものも「タイ最大のクメール遺跡」、「タイのアンコールワット」として有名な観光地ですし、意外と謎も多いので、まずはここをご紹介することにしましょう。(写真01)
ピマーイの謎その1 なぜ南向きなのか?
クメールの建築物はたいてい東向きに建っていますが、ピマーイではめずらしく南向きです。これはなぜか? ムーン川のほとりに建てたので地形的な制約で南向きになったという説もありますが、やはり南には首都アンコールがあったからではないか、といわれています。
そもそもピマーイが建てられた12世紀初頭の王はジャヤバルマン6世で、この王はそれまでの王たちとはつながりがなく、代々現在の東北タイにいたようですが、その場所は特定できていません。もしそれがピマーイであるならば、ふるさとに建てた大寺院を首都の方角に向けたとしても不思議はないでしょう。
なおピマーイの中央祠堂は独特の砲弾型をしていますが、これはここではじめて使われたデザインで、のちにスールヤバルマン2世が建てたあのアンコールワットでも採用されています。(写真02)
ピマーイの謎その2 ご本尊は?
ピマーイ寺院はいったいどの神さまを祭っているのか? 正面である南側にはシバ神の像(写真03)があるからヒンドゥー神殿、しかし主祠堂からは仏像(写真04)が見つかっているので、じつは大乗仏教の寺院らしいが…断言はできない、というのが実情のようです。当のジャヤバルマン六世はおもにヒンドゥー寺院を建てていた王さまのようです。この主祠堂の内外を見ると、仏陀の説教像など仏教関係が3つ、シバ神などヒンドゥー教関係が8つ、さらに「降三世明王」(ごうさんぜみょうおう)(写真05)など、あまりなじみのない密教関係の彫刻も3つあり、当時それぞれが混在していた様子がうかがえるといえるでしょう。
ピマーイの穴場
遺跡から1kmほど東にサイ・ガームという巨大なベンガル菩提樹がしげる公園があります。(写真06)半径50〜60mもあるでしょうか。屋根つきドームに入ったような大きな木陰に池からの涼しい風が吹き、遺跡見物の休憩に絶好です。食堂もありますから名物「ピマーイ焼そば」をおためしください(写真07)。なお樹上に住む「白いリス」を目にすると幸運がおとずれるといわれています。
また、南側の「プラトゥー・チャイ(勝利の門)」を出てまっすく行き、「ター・ナーン・サ・ポム(乙女の洗髪場)」から川を渡ると、当時の王道の跡が見られます(写真08)。昔の街道というと熊野古道や古代ローマ道などを思いうかべますが、クメール帝国でも王道は全国に張りめぐらされていたそうです。ここは特に保存されているわけでもなく、ひっそりした未舗装の裏道ですが、アンコールからの4大王道の1本はここピマーイが終点だったそうですから、1000年も前に王さまたちが象に乗り、お供をおおぜい引きつれてここを通ったのかと、しばしの歴史ロマンにひたれることうけあいです。(写真9,10)
第2回 高僧・名僧の寺
タイでは国民の90%以上が上座仏教徒(日本の大乗仏教とは違い、いわゆる小乗仏教)といわれていて、お寺の数も3万をこすそうです。全人口が6000万人ですから、だいたい2000人に1つのお寺がある計算になりますし、人口1万3000のここピマーイにもお寺は5つあります。ちなみに日本全国のコンビニはほぼ3000人に1店の割合だそうです。こうしてみるとかなりの「寺社密度」といえるでしょう。
タイ仏教では毎月4回ほどの仏日にお寺参りをすることになっていますが、ほかの冠婚葬祭が重なったりすると、けっこう忙しいことになります。わたしはゲストハウスの一家の行事にはなるべくつきあっていますので、7月末3日に1回は行ってる計算ですから、日本とはくらべものにならないくらいお寺は身近なものです。
タイに行ったことのあるかたならきっと、白い壁に急傾斜で色鮮やかな屋根と、本堂には金ぴかの仏さまがまつられているお寺が記憶に残っていると思いますが、そういうスタンダードなもののほかにもいろいろな特色を持ったお寺があります。もちろんこれはタイ全国についていえることですが、とくにイサーンの有名な寺をご紹介しましょう。
瞑想寺
タイでは長年きびしい瞑想修行を続けた徳の高い僧をアーチャーンとよびます。このような僧が止住する寺はとくに自然条件のきびしいイサーンにも多いようで、その背後には深い森やけわしい山があり、その崖下のくぼみなど最低限雨露がしのげる場所でひたすら瞑想にふけるのが修行の道です。
このような高僧・名僧はほかの僧とどうちがうかというと、まず普通の信者はもちろん、国王さまご自身とそのご家族がやはり信者として説教を拝聴しにいらっしゃいます。亡くなると盛大な葬儀がいとなまれ、やはり王族が火葬の点火をします。これは僧に限らず故人にとって最高の名誉です。その跡地には記念館や銅像が建てられ、遺品が展示されますが、僧侶の持ち物はほんの数点に限られるので、その質素さに日本との違いを感じさせられます。ときにはその名僧のろう人形が生前の瞑想する姿のまま本堂に安置してあって、これがまさに生き写しなため、そうと知らないとぎょっとさせられることもしばしばです(タイのろう人形がどのくらい精巧か、興味のあるかたはバンコク郊外のろう人形館のサイトに行ってみてください。http://www.rosenini.com/thaihumanimagery/english.htm#)
![]() ▲01.サコンナコーン市パー・スッタワート寺のマン・ブリタット師記念館 |
![]() ▲02.生涯を貧者の救済に捧げた20世紀最高の名僧 |
観光寺
普通のお寺でも本堂に色あざやかな壁画が描かれていることがありますが、観光寺あるいは行楽寺とよばれるところでは、もう絵ではあきたらず、お釈迦さまの前世の物語や地獄絵図を、なまなましいペイントをほどこしたおどろおどろしい人形で立体的に見せてくれて、もう雰囲気はシンガポールの「タイガーバームガーデン」です。 ナコーンラーチャシーマー県のパー・ラック・ローイ寺では、コインを入れると人形が動いて地獄の責め苦を受けるようすが見られたり、「お化け屋敷」のようなしかけの洞窟もあります。こうなると寺全体が「ブッダ・テーマパーク」と化し、広い境内にはレストランもあって半日は楽しめます。しかし知らず知らずに使うコインも半端な額ではなくなりますからご用心。とはいえすべてお布施だと考えれば気はとがめないかもしれません。
![]() ▲03.悪行を重ねるとついに地獄の門へ・・・ |
![]() ▲04.大仕掛けな集金かごにつられてお布施もはずみそう |
ゴージャス寺
徳も高く、さらにお説教がうまくて人気のある住職のお寺にはお布施も多く集まるようで、ルーイ県ダーンサーイのネーンミットウィッパサナー寺は町はずれの小高い丘の上にありますが、その豪華さには目を見張ります。本堂の大きさも普通の寺の2倍を優に超える規模です。たっぷりお金がかかっているにもかかわらず、外装はしぶいこげ茶色に統一しているところがさらに高級感をひきだしています。 中は広々としてほの暗く、荘厳な雰囲気に満ちていますが、さらに驚くのはご本尊で、「チンナラート仏」という仏像が三体もまつられています。これはタイで一番美しい仏像として有名で、ということは高価でもあり、めったにお目にかかることはできません。 いったいなぜそんなに潤沢な資金があったのかというと、住職だったパーオナー師は宝くじを当てるのがうまかった、というんですが、これは説明がいりますね。ご存じの通りタイ人は宝くじが大好きですが、なかなか自分の思いつきだけでは番号を決められません。そこでクルマのナンバー、携帯番号など、なんでも動員してヒントを得ようとします。坊さんのお説教も同じで、ありがたいお言葉のはしばしから想像力を総動員して番号をひねりだすんだそうです。それが当たればもうそのお坊さんの超能力のおかげということになり、ますます人気が高まって莫大なお布施が集まるというわけです。
![]() ▲05.特別仕様のレンガとタイルの本堂 |
![]() ▲06.ほかにはバンコクとピサヌロークにしかないチンナラート仏 |
![]() ▲05.本堂にまつられる師のろう人形はまさに生き写し |
このように神聖なだけでなく、かなり世俗的なものもいりまじってタイの仏教というものは成り立っているように見受けられました。
第3回 タイのジャンヌ・ダルク、ヤー・モーの秘密 その一
わたしが住んでいるナコーンラーチャシーマー県は短くコーラートとよばれることが多いんですが、タイではバンコクに次ぐ大きさで、人口第2位の巨大県(260万人)にしてやはり第2位の大都市(25万人)です。
ここの名物というかシンボルはなにかというと、もう一にも二にも「タオ・スラナリー」という女性(1772〜1852)です。
親しみを込めて「ヤー・モー」(モーおばあちゃん)と呼ばれるこの女性は1826年にコーラートに攻め込んできたラオ(現在のラオス)の軍勢を撃退して、時の国王ラーマ三世からこの称号(「勇敢な女性」という意味)をたまわって、「タイのジャンヌ・ダルク」とまで称されていて、旧市街の正門というべき西側のチュンポン門から町に入ろうとすれば、剣をひっさげてすっくと立つこのタオ・スラナリーの銅像にまず出迎えられることになります。まさに町の中心に立つこのモニュメントはコーラートのシンボルで、一日中参拝客がひきもきらず、お線香の煙がとだえることがありません。(写真01)
タイはもともと女性が強く、男性の「三大王」の向こうをはって「四大女傑」がいるお国柄ですから、ヤー・モーについてもその尊敬度ははんぱなものではありません。そもそも県の名物紹介のキャッチコピーに「絹織物、コーラート焼そば、ダーンクイアンの焼物」とならんで「強い女性」とあるくらいです。県章はもちろん、行政・公共機関から学校、一般企業、みやげ物にいたるまで、こぞってその名前やロゴを使っていますし、コーラートの全郡にはその記念碑を建てた公園が作られています。(写真02:写真03)
どんな人だったかというと、当時の副知事だったプラヤー・プラットトーンカムの妻で、「コーラート婦人会」とでも呼ぶべき組織のリーダー格だったようです。
今でこそタイ第2の大都会ですが、当時はまだ1km×1.7km ほどしかない小さな町でした。ちょうど知事はじめコーラートの主力部隊は現在のシーサケート方面に作戦で出かけていて手薄なところへラオ軍が攻めてきたため、たちまち攻め落とされて町の住民は捕虜となり、ビエンチャンに連行されることになります。
その道すがら、ピマーイ付近のサムリットという平原に夜営したとき、ヤー・モーは婦人会のメンバーや若者としめしあわせてラオ軍の兵隊を酒食で大いにもてなして安心させ、油断しきったところで逆襲に転じ、これを敗走させ、さらにコーラートにもどって砦を築き、バンコクからの援軍が到着するまで持ちこたえた、という大武勇伝がつたえられています。(写真04)
まさに救国のヒロインとしかいいようがありませんが、しかしこのヤー・モーにまつわる話はそのまま長年にわたる「タイとラオ」の関係につながります。以下次回へつづく。
![]() ▲写真01 1934年に建てられた銅像はタイに帰化したイタリア人彫刻家フェローチの作。 |
![]() ▲写真02 県章ももちろんヤー・モーが中心 |
![]() ▲写真03 不動産会社のロゴ | ![]() ▲写真04 古戦場サムリット平原にたてられた戦闘シーンのモニュメント |
第4回 タイのジャンヌ・ダルク、ヤー・モーの秘密 その二
タイとラオスというと、現在はそれぞれ独立国ですが、どちらの国の人びともそもそもは広い意味の「タイ族」に属す家族か兄弟のような間柄です。
ラオスはいまでこそ人口600万ほどの小国ですが、ラオ系の人口はほかに約2000万人います。いったいどこにいるのかというと、タイ東北部つまりイサーンに住んでいます。イサーンの大部分の住民は、昔から移住し続けてきたラオ人の子孫なんです。
ほぼ18世紀初頭までにラオスは3つの王国に分かれていて、それぞれがだんだんとタイの属国になってゆきました。その間にもラオ人はたえずイサーンに進出していましたし、宗主国のタイが大規模に移住させることもありましたが、とにかくイサーンはあまり豊かなところではなかったせいか、当初はラオ人が住みつくままにまかせていました。(写真01)
もともとこの両者が対等な関係かというとそうではなくて、やはりラオは田舎で貧しかったためシャム人からは一段低く見られ続け、今でもラオとかイサーンというとやぼったい、ダサい、というイメージでテレビのバラエティー番組でもよくからかいの対象にされています。でもそれを見て当のイサーン人が大笑いしてますから、そんなに深刻な民族問題というわけでもなさそうです。
事情が変わったのはまず前回お話ししたラオ軍のタイへの侵攻です。これは徐々に勢力を拡大したビエンチャン王国のアヌウォン王が企てたものですが、それまでは兄貴分のタイにおとなしく従っていた弟分が反乱を起こしたわけですから、アヌウォン王は厳しく処分され、首都ビエンチャンはタイ軍の破壊と略奪にあって廃墟となり、大勢のラオ人がイサーンはじめタイ各地へ移住させられました。
さらには19世紀列強の進出、とくにタイにとってはフランスの脅威があります。当時タイの属国だったカンボジアだけでなく、ラオまで割譲させ、ベトナムとあわせて仏領インドシナと称し、かってに「ラオス」という国名まで作ってしまいましたから、タイとしては穏やかならぬものがあったでしょう。(写真02)
このあと、20世紀に入ってタイはさらなる列強の脅威に対抗してイサーンはラオではなくてタイであると強調しはじめます。たとえばそれまで住人を「ラオ・イサーン」(イサーンのラオ人)といっていたのを「タイ・イサーン」(イサーンのタイ人)と呼びかえるようになりました。
このようにタオ・スラナリーをシンボルとしてイサーンとタイの一体化を強めてきたわけですが、最近になって名門タマサート大学の卒業論文に、「タオ・スラナリーの英雄的行為は事実か」というタイトルの研究が提出され、世間を騒がせました。
これは法学部の女子学生が書いたもので、古い記録を調べ、タオ・スラナリーは名声の割には当時の文書ではあまり言及されておらず、むしろ後世にいたっておおいに賞賛されるようになっていること、そして大きな被害をこうむったラオ側の記録にはまったく載っていないことなどから、その実在を疑うものではないが、相当の脚色が加えられている可能性がある、と指摘しています。つまり彼女は「コーラート婦人会」とでも呼ぶべき組織のリーダー以上ではなかったであろうというわけです。(写真03)
確かにタオ・スラナリーのお話にはやや尾ひれがつきすぎている感がありますが、この論文は虎のしっぽを踏んでしまったようで、その後この学生には風当たりが強まり、一時国外脱出を余儀なくされたという噂もあります。
そもそもコーラートはアユタヤ時代にナーラーイ王によって辺境の守りとして作られた町ですし、その後もイサーンにバンコクの統治を徹底するための直轄拠点でしたから、多少なりとも功績のある人物がいたら、最大限宣伝に利用したことでしょう。
2000年に「スリヨータイ」というタイ4大女傑のひとりを描いた大歴史映画が公開され、さらに昨年は同様の「ナレースワン大王」も作られ、タイ人の愛国心を鼓舞する国策映画とも評されていましたが、じつはこの2本の映画の間に「タオ・スラナリー」も計画されていました。しかしこれを知ったラオス側からの猛反発にあい、立ち消えになったようです。(写真04)
アヌウォン王はタイから見れば反逆者で、その侵攻を防いだタオ・スラナリーはまさに救国のヒロインですが、ラオにとってはタイから祖国を解放しようとした英雄ということになりますから、この両国の骨肉の情にも似た関係は、外国人には計り知れないところもあります。(写真05)
ちょうどこの6日からここナコーン・ラーチャシーマーを会場に、ASEAN加盟国による第24回東南アジア競技大会(SEA GAMES)が開かれていましたが、やはり会場の背景にはタオ・スラナリーのシルエットが配されています。ラオスの選手たちはどんな気持ちで競技にのぞんだでしょうか。(写真06)
ちなみに次回2009年のSEA GAMESはラオスのビエンチャンで開かれるそうです。
![]() ▲写真01 手首に糸を結びあう「バーイシー」の儀式も、もとはラオ系の習慣。 |
![]() ▲写真02 イサーンの伊勢神宮、タート・パノムの大祭。ラオ側からも参拝客が押し寄せる | ![]() ▲写真03 タオ・スラナリー像のアップ。 |
![]() ▲写真04 映画「スリヨータイ」のポスター |
![]() ▲写真05 タオ・スラナリーへの願掛けが叶ったときに奉納されるコーラート節 |
![]() ▲写真06 国際競技大会もタオ・スラナリーのもとに・・・ |
第5回 タイの最東端はどこだ?
高校生の時に旅行に目ざめ、日本のはじっこは南(波照間島)をのぞいて20歳までにぜんぶ足跡をしるしました。タイではどうかというと、最北端にはタイに通いはじめた20年前に到達しています。ここはご存じ国境の町メーサーイですから、パッケージツアーで簡単に行けました。
西の果てはメーホーソーンの山の中、ミャンマーとの国境になるようですが、行くのはむずかしそうです。最南端はヤラー県のベートンあたりでしょうか。このあたりは最近かなりキナくさくてあまり行く気がしません。では最東端はどこかというと、ずっとタイランド湾沿いのカンボジア国境あたりかと思ってたんですが、なんとイサーンにありました。
2年前にピマーイに住むようになってから、今まで気になっていた「穴場」をあちこち探訪していますが、そのひとつにコーンチアムがあります。(写真01)
ここはウボン・ラーチャターニー県の東のはずれ、メコン川とムーン川の合流点にある小さな町で、日本のガイドブックではほとんど無視されているところです。まぁイサーンそのものが軽いあつかいですから無理もないんですが、その点ロンリープラネットなど欧米の旅行案内書ではけっこう紙幅をさいて紹介していて、やはり目のつけどころがいいというか、旅行のテーマや条件がちがうということなんでしょうね。(写真02)どのようにいいところなのかというと、町そのものが2本の大河にはさまれた景勝地であることと、まわりにも数ヵ所観光地があるので、その基地に使えるということです。
日本からは7月にウボン・ラーチャターニーのろうそく祭にあわせてバンコクから飛行機で来て、コーンチアム周辺とカオ・プラ・ビハーンのクメール神殿をそれぞれ日帰りでまわってお帰りになるというコースが多いようです。
しかしこれをコーンチアムに数日泊まるスケジュールにすると、途中のムーン川沿いにあるケーン・サプーとケーン・タナの岩瀬で水遊びをしたり、メコン川沿いのパーテム自然公園で岩壁に残された先史時代の岩絵見物がてらトレッキングを楽しんだりできます。(写真03)(写真04)(写真05)
また、コーンチアムのメコン沿いのレストランで船を頼めばパスポートも持たず、おしのび気分で対岸のラオスの観光村を訪問することもできます。(写真06)
さらにコーンチアムから1時間たらずで陸続きの国境、チョンメックに行けますから、ラオスまで足を伸ばす場合も十分余裕をもって入国できることになります。
宿泊施設はどうかというと、外国人相手のゲストハウスが4軒、タイ人行楽客相手の「リゾート・ホテル」が7軒あります。(写真07)(写真08)
さらにもう一軒、ムーン川沿いの広大な敷地に建つ「トーセーン・コーンチアム・リゾート」は、プーケットの一等地にあってもおかしくない超高級ホテルで、ここだけゲストはほとんどが英独仏のヨーロッパ人たちです。ただし超高級とはいっても一番高いバンガローで一泊6000バーツ、スタンダード・ルームならハイ・シーズンでも一泊2500バーツですから、これもイサーンのよさといえるでしょう。(写真09)
昨年11月に友人のむすめさんが友だち連れで遊びに来たのでここにも泊まりましたが、設備も食事もゴージャスでご満足いただけたようです。それにふつうの高級リゾートとちがうのは地元スタッフのフレンドリーさ。客の90パーセントが欧米人のところにかわいい日本むすめがふたり来れば当然かもしれませんが、乗せると仕事をほったらかしても話し相手になってくれる気安さ、これもまたイサーンのよさでしょう。
そうそう、タイの東端のはなしでした。2年前にコーンチアムに来た時に、あちこち探索していたら、ムーン川沿いの高台に石碑を見つけました。いわく「タイのどこよりも早く朝日が昇るところ」。つまり最東端ということです。ここはあと700メートルほどでムーン川がメコン川にそそぐ眺めのいい場所でした。(写真10)
そして今回はむすめさんたちとパーテム自然公園に行ったんですが、断崖のテラスにまたしても石碑を発見。いわく「シャムで一番早い日没地点」。意味がすぐにわからずしばし考えてしまいましたが、つまりこれも東のはずれってことじゃありませんか。いったいどっちがほんとうなんでしょうか? 地図をよくよく見ると、どちらでもなく、本当の東端はさらにメコンを20〜30kmさかのぼったところのようです。
しかしそこは日本ほどカタいことは言わないお国柄、だいたいこのへんはみんな東の端でしょ、とまずコーンチアムに石碑を立て、そのあともっと客の来るパーテムにも立てることにしたが、いちおう先輩の顔を立てて表現は変えてみた、という感じでじつにタイらしいやりかたと申せましょう。
ちなみにピマーイで元旦にテレビを見ていたら、このパーテムの断崖で初日の出を拝む人たちが紹介されてました。その数、200〜300人はいたでしょう。こういう感覚は日本と同じです。そういえば東京からですと九十九里浜とか伊豆半島とか、よく行ったもんですねぇ。しかしご来光に合掌したあとは初詣ではなく、近くのお寺からお坊さんに来ていただいて喜捨をしている姿がやはりタイでした。
しかしこの「最東端の石碑」については、ロンリー・プラネットはおろかタイ人用のガイドブックにさえ載っていません。はじっこに行きたがるのは日本人だけなんでしょうか?
![]() ▲写真01 コーンチアムのイラストマップ |
![]() ▲写真02 メコン川とムーン川の合流点をのぞむ | ![]() ▲写真03 ケーン・タナの岩瀬 |
![]() ▲写真04パーテムの断崖 |
![]() ▲写真05 断崖に描かれた先史時代の岩絵 |
![]() ▲写真06 ラオスの観光村 |
![]() ▲写真07 テラスからの眺めがいいパーク・ムーン・ゲストハウス |
![]() ▲写真08 典型的なガーデン・バンガロー・リゾート | ![]() ▲写真09 トーセーン・コーンチアム・リゾートのレストラン |
![]() ▲写真10 コーンチアムの石碑 |
![]() ▲写真11 パーテムの石碑 |
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