イサーン便り
いまから21年前、仕事で赴任した友人をたずねて初めて訪れたタイが好きになり、リピーターとなり、タイ語をかじり、さらにNGOのボランティアとしてよくイサーン(タイ東北地方)にかよいました。バンコクっ子がよく「イサーンなんてなんにもないじゃない」というとおり、経済的に豊かなところではありませんが、クメール遺跡、自然公園、メコン川など見所はたくさんあるし、なによりもイサーンっ子は気がよくて居心地も悪くありません。そんなわけで、ぜひいちど住んでみたい!と思っていましたが、昨年早期退職し、長年の夢を実現させました。
いざ住んでみるとまだまだ知らなかったこと、住んでいるからこそ気づくことがいろいろあります。これからそんなお話を、地元の人しか知らない穴場のようにご紹介してゆくつもりです。 梶原俊夫
『イサーンの旅』 アップデータ、ご活用ください。
第1回 ピマーイ
タイのアンコールワット
ピマーイはイサーンの玄関ナコーンラーチャシーマー(通称コーラート)からさらに北に60kmほどの郡庁所在地です。イサーンに住むにあたって、長年の友人でタイ語の専門家、江丸さんにここの「オールド・ピマーイ・ゲストハウス」を紹介してもらいました。古い木造の一戸建て。客室は6つしかなく、家族経営ということもあって長期滞在客にはホームステイも同然、居心地のよさは抜群で、わたしもすでに1年以上ここをベースにイサーンをあちこち旅しています。しかしここピマーイそのものも「タイ最大のクメール遺跡」、「タイのアンコールワット」として有名な観光地ですし、意外と謎も多いので、まずはここをご紹介することにしましょう。(写真01)
ピマーイの謎その1 なぜ南向きなのか?
クメールの建築物はたいてい東向きに建っていますが、ピマーイではめずらしく南向きです。これはなぜか? ムーン川のほとりに建てたので地形的な制約で南向きになったという説もありますが、やはり南には首都アンコールがあったからではないか、といわれています。
そもそもピマーイが建てられた12世紀初頭の王はジャヤバルマン6世で、この王はそれまでの王たちとはつながりがなく、代々現在の東北タイにいたようですが、その場所は特定できていません。もしそれがピマーイであるならば、ふるさとに建てた大寺院を首都の方角に向けたとしても不思議はないでしょう。
なおピマーイの中央祠堂は独特の砲弾型をしていますが、これはここではじめて使われたデザインで、のちにスールヤバルマン2世が建てたあのアンコールワットでも採用されています。(写真02)
ピマーイの謎その2 ご本尊は?
ピマーイ寺院はいったいどの神さまを祭っているのか? 正面である南側にはシバ神の像(写真03)があるからヒンドゥー神殿、しかし主祠堂からは仏像(写真04)が見つかっているので、じつは大乗仏教の寺院らしいが…断言はできない、というのが実情のようです。当のジャヤバルマン六世はおもにヒンドゥー寺院を建てていた王さまのようです。この主祠堂の内外を見ると、仏陀の説教像など仏教関係が3つ、シバ神などヒンドゥー教関係が8つ、さらに「降三世明王」(ごうさんぜみょうおう)(写真05)など、あまりなじみのない密教関係の彫刻も3つあり、当時それぞれが混在していた様子がうかがえるといえるでしょう。
ピマーイの穴場
遺跡から1kmほど東にサイ・ガームという巨大なベンガル菩提樹がしげる公園があります。(写真06)半径50〜60mもあるでしょうか。屋根つきドームに入ったような大きな木陰に池からの涼しい風が吹き、遺跡見物の休憩に絶好です。食堂もありますから名物「ピマーイ焼そば」をおためしください(写真07)。なお樹上に住む「白いリス」を目にすると幸運がおとずれるといわれています。
また、南側の「プラトゥー・チャイ(勝利の門)」を出てまっすく行き、「ター・ナーン・サ・ポム(乙女の洗髪場)」から川を渡ると、当時の王道の跡が見られます(写真08)。昔の街道というと熊野古道や古代ローマ道などを思いうかべますが、クメール帝国でも王道は全国に張りめぐらされていたそうです。ここは特に保存されているわけでもなく、ひっそりした未舗装の裏道ですが、アンコールからの4大王道の1本はここピマーイが終点だったそうですから、1000年も前に王さまたちが象に乗り、お供をおおぜい引きつれてここを通ったのかと、しばしの歴史ロマンにひたれることうけあいです。(写真9,10)
第2回 高僧・名僧の寺
タイでは国民の90%以上が上座仏教徒(日本の大乗仏教とは違い、いわゆる小乗仏教)といわれていて、お寺の数も3万をこすそうです。全人口が6000万人ですから、だいたい2000人に1つのお寺がある計算になりますし、人口1万3000のここピマーイにもお寺は5つあります。ちなみに日本全国のコンビニはほぼ3000人に1店の割合だそうです。こうしてみるとかなりの「寺社密度」といえるでしょう。
タイ仏教では毎月4回ほどの仏日にお寺参りをすることになっていますが、ほかの冠婚葬祭が重なったりすると、けっこう忙しいことになります。わたしはゲストハウスの一家の行事にはなるべくつきあっていますので、7月末3日に1回は行ってる計算ですから、日本とはくらべものにならないくらいお寺は身近なものです。
タイに行ったことのあるかたならきっと、白い壁に急傾斜で色鮮やかな屋根と、本堂には金ぴかの仏さまがまつられているお寺が記憶に残っていると思いますが、そういうスタンダードなもののほかにもいろいろな特色を持ったお寺があります。もちろんこれはタイ全国についていえることですが、とくにイサーンの有名な寺をご紹介しましょう。
瞑想寺
タイでは長年きびしい瞑想修行を続けた徳の高い僧をアーチャーンとよびます。このような僧が止住する寺はとくに自然条件のきびしいイサーンにも多いようで、その背後には深い森やけわしい山があり、その崖下のくぼみなど最低限雨露がしのげる場所でひたすら瞑想にふけるのが修行の道です。
このような高僧・名僧はほかの僧とどうちがうかというと、まず普通の信者はもちろん、国王さまご自身とそのご家族がやはり信者として説教を拝聴しにいらっしゃいます。亡くなると盛大な葬儀がいとなまれ、やはり王族が火葬の点火をします。これは僧に限らず故人にとって最高の名誉です。その跡地には記念館や銅像が建てられ、遺品が展示されますが、僧侶の持ち物はほんの数点に限られるので、その質素さに日本との違いを感じさせられます。ときにはその名僧のろう人形が生前の瞑想する姿のまま本堂に安置してあって、これがまさに生き写しなため、そうと知らないとぎょっとさせられることもしばしばです(タイのろう人形がどのくらい精巧か、興味のあるかたはバンコク郊外のろう人形館のサイトに行ってみてください。http://www.rosenini.com/thaihumanimagery/english.htm#)
▲01.サコンナコーン市パー・スッタワート寺のマン・ブリタット師記念館 |
▲02.生涯を貧者の救済に捧げた20世紀最高の名僧 |
観光寺
普通のお寺でも本堂に色あざやかな壁画が描かれていることがありますが、観光寺あるいは行楽寺とよばれるところでは、もう絵ではあきたらず、お釈迦さまの前世の物語や地獄絵図を、なまなましいペイントをほどこしたおどろおどろしい人形で立体的に見せてくれて、もう雰囲気はシンガポールの「タイガーバームガーデン」です。 ナコーンラーチャシーマー県のパー・ラック・ローイ寺では、コインを入れると人形が動いて地獄の責め苦を受けるようすが見られたり、「お化け屋敷」のようなしかけの洞窟もあります。こうなると寺全体が「ブッダ・テーマパーク」と化し、広い境内にはレストランもあって半日は楽しめます。しかし知らず知らずに使うコインも半端な額ではなくなりますからご用心。とはいえすべてお布施だと考えれば気はとがめないかもしれません。
▲03.悪行を重ねるとついに地獄の門へ・・・ |
▲04.大仕掛けな集金かごにつられてお布施もはずみそう |
ゴージャス寺
徳も高く、さらにお説教がうまくて人気のある住職のお寺にはお布施も多く集まるようで、ルーイ県ダーンサーイのネーンミットウィッパサナー寺は町はずれの小高い丘の上にありますが、その豪華さには目を見張ります。本堂の大きさも普通の寺の2倍を優に超える規模です。たっぷりお金がかかっているにもかかわらず、外装はしぶいこげ茶色に統一しているところがさらに高級感をひきだしています。 中は広々としてほの暗く、荘厳な雰囲気に満ちていますが、さらに驚くのはご本尊で、「チンナラート仏」という仏像が三体もまつられています。これはタイで一番美しい仏像として有名で、ということは高価でもあり、めったにお目にかかることはできません。 いったいなぜそんなに潤沢な資金があったのかというと、住職だったパーオナー師は宝くじを当てるのがうまかった、というんですが、これは説明がいりますね。ご存じの通りタイ人は宝くじが大好きですが、なかなか自分の思いつきだけでは番号を決められません。そこでクルマのナンバー、携帯番号など、なんでも動員してヒントを得ようとします。坊さんのお説教も同じで、ありがたいお言葉のはしばしから想像力を総動員して番号をひねりだすんだそうです。それが当たればもうそのお坊さんの超能力のおかげということになり、ますます人気が高まって莫大なお布施が集まるというわけです。
▲05.特別仕様のレンガとタイルの本堂 |
▲06.ほかにはバンコクとピサヌロークにしかないチンナラート仏 |
▲05.本堂にまつられる師のろう人形はまさに生き写し |
このように神聖なだけでなく、かなり世俗的なものもいりまじってタイの仏教というものは成り立っているように見受けられました。
第3回 タイのジャンヌ・ダルク、ヤー・モーの秘密 その一
わたしが住んでいるナコーンラーチャシーマー県は短くコーラートとよばれることが多いんですが、タイではバンコクに次ぐ大きさで、人口第2位の巨大県(260万人)にしてやはり第2位の大都市(25万人)です。
ここの名物というかシンボルはなにかというと、もう一にも二にも「タオ・スラナリー」という女性(1772〜1852)です。
親しみを込めて「ヤー・モー」(モーおばあちゃん)と呼ばれるこの女性は1826年にコーラートに攻め込んできたラオ(現在のラオス)の軍勢を撃退して、時の国王ラーマ三世からこの称号(「勇敢な女性」という意味)をたまわって、「タイのジャンヌ・ダルク」とまで称されていて、旧市街の正門というべき西側のチュンポン門から町に入ろうとすれば、剣をひっさげてすっくと立つこのタオ・スラナリーの銅像にまず出迎えられることになります。まさに町の中心に立つこのモニュメントはコーラートのシンボルで、一日中参拝客がひきもきらず、お線香の煙がとだえることがありません。(写真01)
タイはもともと女性が強く、男性の「三大王」の向こうをはって「四大女傑」がいるお国柄ですから、ヤー・モーについてもその尊敬度ははんぱなものではありません。そもそも県の名物紹介のキャッチコピーに「絹織物、コーラート焼そば、ダーンクイアンの焼物」とならんで「強い女性」とあるくらいです。県章はもちろん、行政・公共機関から学校、一般企業、みやげ物にいたるまで、こぞってその名前やロゴを使っていますし、コーラートの全郡にはその記念碑を建てた公園が作られています。(写真02:写真03)
どんな人だったかというと、当時の副知事だったプラヤー・プラットトーンカムの妻で、「コーラート婦人会」とでも呼ぶべき組織のリーダー格だったようです。
今でこそタイ第2の大都会ですが、当時はまだ1km×1.7km ほどしかない小さな町でした。ちょうど知事はじめコーラートの主力部隊は現在のシーサケート方面に作戦で出かけていて手薄なところへラオ軍が攻めてきたため、たちまち攻め落とされて町の住民は捕虜となり、ビエンチャンに連行されることになります。
その道すがら、ピマーイ付近のサムリットという平原に夜営したとき、ヤー・モーは婦人会のメンバーや若者としめしあわせてラオ軍の兵隊を酒食で大いにもてなして安心させ、油断しきったところで逆襲に転じ、これを敗走させ、さらにコーラートにもどって砦を築き、バンコクからの援軍が到着するまで持ちこたえた、という大武勇伝がつたえられています。(写真04)
まさに救国のヒロインとしかいいようがありませんが、しかしこのヤー・モーにまつわる話はそのまま長年にわたる「タイとラオ」の関係につながります。以下次回へつづく。
▲写真01 1934年に建てられた銅像はタイに帰化したイタリア人彫刻家フェローチの作。 |
▲写真02 県章ももちろんヤー・モーが中心 |
▲写真03 不動産会社のロゴ | ▲写真04 古戦場サムリット平原にたてられた戦闘シーンのモニュメント |
第4回 タイのジャンヌ・ダルク、ヤー・モーの秘密 その二
タイとラオスというと、現在はそれぞれ独立国ですが、どちらの国の人びともそもそもは広い意味の「タイ族」に属す家族か兄弟のような間柄です。
ラオスはいまでこそ人口600万ほどの小国ですが、ラオ系の人口はほかに約2000万人います。いったいどこにいるのかというと、タイ東北部つまりイサーンに住んでいます。イサーンの大部分の住民は、昔から移住し続けてきたラオ人の子孫なんです。
ほぼ18世紀初頭までにラオスは3つの王国に分かれていて、それぞれがだんだんとタイの属国になってゆきました。その間にもラオ人はたえずイサーンに進出していましたし、宗主国のタイが大規模に移住させることもありましたが、とにかくイサーンはあまり豊かなところではなかったせいか、当初はラオ人が住みつくままにまかせていました。(写真01)
もともとこの両者が対等な関係かというとそうではなくて、やはりラオは田舎で貧しかったためシャム人からは一段低く見られ続け、今でもラオとかイサーンというとやぼったい、ダサい、というイメージでテレビのバラエティー番組でもよくからかいの対象にされています。でもそれを見て当のイサーン人が大笑いしてますから、そんなに深刻な民族問題というわけでもなさそうです。
事情が変わったのはまず前回お話ししたラオ軍のタイへの侵攻です。これは徐々に勢力を拡大したビエンチャン王国のアヌウォン王が企てたものですが、それまでは兄貴分のタイにおとなしく従っていた弟分が反乱を起こしたわけですから、アヌウォン王は厳しく処分され、首都ビエンチャンはタイ軍の破壊と略奪にあって廃墟となり、大勢のラオ人がイサーンはじめタイ各地へ移住させられました。
さらには19世紀列強の進出、とくにタイにとってはフランスの脅威があります。当時タイの属国だったカンボジアだけでなく、ラオまで割譲させ、ベトナムとあわせて仏領インドシナと称し、かってに「ラオス」という国名まで作ってしまいましたから、タイとしては穏やかならぬものがあったでしょう。(写真02)
このあと、20世紀に入ってタイはさらなる列強の脅威に対抗してイサーンはラオではなくてタイであると強調しはじめます。たとえばそれまで住人を「ラオ・イサーン」(イサーンのラオ人)といっていたのを「タイ・イサーン」(イサーンのタイ人)と呼びかえるようになりました。
このようにタオ・スラナリーをシンボルとしてイサーンとタイの一体化を強めてきたわけですが、最近になって名門タマサート大学の卒業論文に、「タオ・スラナリーの英雄的行為は事実か」というタイトルの研究が提出され、世間を騒がせました。
これは法学部の女子学生が書いたもので、古い記録を調べ、タオ・スラナリーは名声の割には当時の文書ではあまり言及されておらず、むしろ後世にいたっておおいに賞賛されるようになっていること、そして大きな被害をこうむったラオ側の記録にはまったく載っていないことなどから、その実在を疑うものではないが、相当の脚色が加えられている可能性がある、と指摘しています。つまり彼女は「コーラート婦人会」とでも呼ぶべき組織のリーダー以上ではなかったであろうというわけです。(写真03)
確かにタオ・スラナリーのお話にはやや尾ひれがつきすぎている感がありますが、この論文は虎のしっぽを踏んでしまったようで、その後この学生には風当たりが強まり、一時国外脱出を余儀なくされたという噂もあります。
そもそもコーラートはアユタヤ時代にナーラーイ王によって辺境の守りとして作られた町ですし、その後もイサーンにバンコクの統治を徹底するための直轄拠点でしたから、多少なりとも功績のある人物がいたら、最大限宣伝に利用したことでしょう。
2000年に「スリヨータイ」というタイ4大女傑のひとりを描いた大歴史映画が公開され、さらに昨年は同様の「ナレースワン大王」も作られ、タイ人の愛国心を鼓舞する国策映画とも評されていましたが、じつはこの2本の映画の間に「タオ・スラナリー」も計画されていました。しかしこれを知ったラオス側からの猛反発にあい、立ち消えになったようです。(写真04)
アヌウォン王はタイから見れば反逆者で、その侵攻を防いだタオ・スラナリーはまさに救国のヒロインですが、ラオにとってはタイから祖国を解放しようとした英雄ということになりますから、この両国の骨肉の情にも似た関係は、外国人には計り知れないところもあります。(写真05)
ちょうどこの6日からここナコーン・ラーチャシーマーを会場に、ASEAN加盟国による第24回東南アジア競技大会(SEA GAMES)が開かれていましたが、やはり会場の背景にはタオ・スラナリーのシルエットが配されています。ラオスの選手たちはどんな気持ちで競技にのぞんだでしょうか。(写真06)
ちなみに次回2009年のSEA GAMESはラオスのビエンチャンで開かれるそうです。
▲写真01 手首に糸を結びあう「バーイシー」の儀式も、もとはラオ系の習慣。 |
▲写真02 イサーンの伊勢神宮、タート・パノムの大祭。ラオ側からも参拝客が押し寄せる | ▲写真03 タオ・スラナリー像のアップ。 |
▲写真04 映画「スリヨータイ」のポスター |
▲写真05 タオ・スラナリーへの願掛けが叶ったときに奉納されるコーラート節 |
▲写真06 国際競技大会もタオ・スラナリーのもとに・・・ |
第5回 タイの最東端はどこだ?
高校生の時に旅行に目ざめ、日本のはじっこは南(波照間島)をのぞいて20歳までにぜんぶ足跡をしるしました。タイではどうかというと、最北端にはタイに通いはじめた20年前に到達しています。ここはご存じ国境の町メーサーイですから、パッケージツアーで簡単に行けました。
西の果てはメーホーソーンの山の中、ミャンマーとの国境になるようですが、行くのはむずかしそうです。最南端はヤラー県のベートンあたりでしょうか。このあたりは最近かなりキナくさくてあまり行く気がしません。では最東端はどこかというと、ずっとタイランド湾沿いのカンボジア国境あたりかと思ってたんですが、なんとイサーンにありました。
2年前にピマーイに住むようになってから、今まで気になっていた「穴場」をあちこち探訪していますが、そのひとつにコーンチアムがあります。(写真01)
ここはウボン・ラーチャターニー県の東のはずれ、メコン川とムーン川の合流点にある小さな町で、日本のガイドブックではほとんど無視されているところです。まぁイサーンそのものが軽いあつかいですから無理もないんですが、その点ロンリープラネットなど欧米の旅行案内書ではけっこう紙幅をさいて紹介していて、やはり目のつけどころがいいというか、旅行のテーマや条件がちがうということなんでしょうね。(写真02)どのようにいいところなのかというと、町そのものが2本の大河にはさまれた景勝地であることと、まわりにも数ヵ所観光地があるので、その基地に使えるということです。
日本からは7月にウボン・ラーチャターニーのろうそく祭にあわせてバンコクから飛行機で来て、コーンチアム周辺とカオ・プラ・ビハーンのクメール神殿をそれぞれ日帰りでまわってお帰りになるというコースが多いようです。
しかしこれをコーンチアムに数日泊まるスケジュールにすると、途中のムーン川沿いにあるケーン・サプーとケーン・タナの岩瀬で水遊びをしたり、メコン川沿いのパーテム自然公園で岩壁に残された先史時代の岩絵見物がてらトレッキングを楽しんだりできます。(写真03)(写真04)(写真05)
また、コーンチアムのメコン沿いのレストランで船を頼めばパスポートも持たず、おしのび気分で対岸のラオスの観光村を訪問することもできます。(写真06)
さらにコーンチアムから1時間たらずで陸続きの国境、チョンメックに行けますから、ラオスまで足を伸ばす場合も十分余裕をもって入国できることになります。
宿泊施設はどうかというと、外国人相手のゲストハウスが4軒、タイ人行楽客相手の「リゾート・ホテル」が7軒あります。(写真07)(写真08)
さらにもう一軒、ムーン川沿いの広大な敷地に建つ「トーセーン・コーンチアム・リゾート」は、プーケットの一等地にあってもおかしくない超高級ホテルで、ここだけゲストはほとんどが英独仏のヨーロッパ人たちです。ただし超高級とはいっても一番高いバンガローで一泊6000バーツ、スタンダード・ルームならハイ・シーズンでも一泊2500バーツですから、これもイサーンのよさといえるでしょう。(写真09)
昨年11月に友人のむすめさんが友だち連れで遊びに来たのでここにも泊まりましたが、設備も食事もゴージャスでご満足いただけたようです。それにふつうの高級リゾートとちがうのは地元スタッフのフレンドリーさ。客の90パーセントが欧米人のところにかわいい日本むすめがふたり来れば当然かもしれませんが、乗せると仕事をほったらかしても話し相手になってくれる気安さ、これもまたイサーンのよさでしょう。
そうそう、タイの東端のはなしでした。2年前にコーンチアムに来た時に、あちこち探索していたら、ムーン川沿いの高台に石碑を見つけました。いわく「タイのどこよりも早く朝日が昇るところ」。つまり最東端ということです。ここはあと700メートルほどでムーン川がメコン川にそそぐ眺めのいい場所でした。(写真10)
そして今回はむすめさんたちとパーテム自然公園に行ったんですが、断崖のテラスにまたしても石碑を発見。いわく「シャムで一番早い日没地点」。意味がすぐにわからずしばし考えてしまいましたが、つまりこれも東のはずれってことじゃありませんか。いったいどっちがほんとうなんでしょうか? 地図をよくよく見ると、どちらでもなく、本当の東端はさらにメコンを20〜30kmさかのぼったところのようです。
しかしそこは日本ほどカタいことは言わないお国柄、だいたいこのへんはみんな東の端でしょ、とまずコーンチアムに石碑を立て、そのあともっと客の来るパーテムにも立てることにしたが、いちおう先輩の顔を立てて表現は変えてみた、という感じでじつにタイらしいやりかたと申せましょう。
ちなみにピマーイで元旦にテレビを見ていたら、このパーテムの断崖で初日の出を拝む人たちが紹介されてました。その数、200〜300人はいたでしょう。こういう感覚は日本と同じです。そういえば東京からですと九十九里浜とか伊豆半島とか、よく行ったもんですねぇ。しかしご来光に合掌したあとは初詣ではなく、近くのお寺からお坊さんに来ていただいて喜捨をしている姿がやはりタイでした。
しかしこの「最東端の石碑」については、ロンリー・プラネットはおろかタイ人用のガイドブックにさえ載っていません。はじっこに行きたがるのは日本人だけなんでしょうか?
▲写真01 コーンチアムのイラストマップ |
▲写真02 メコン川とムーン川の合流点をのぞむ | ▲写真03 ケーン・タナの岩瀬 |
▲写真04パーテムの断崖 |
▲写真05 断崖に描かれた先史時代の岩絵 |
▲写真06 ラオスの観光村 |
▲写真07 テラスからの眺めがいいパーク・ムーン・ゲストハウス |
▲写真08 典型的なガーデン・バンガロー・リゾート | ▲写真09 トーセーン・コーンチアム・リゾートのレストラン |
▲写真10 コーンチアムの石碑 |
▲写真11 パーテムの石碑 |
第6回 ピマーイのソンクラーン
謹賀タイ新年!ソンクラーン(タイ正月、毎年4月13日〜15日)も終わって暑さも本番、このところ40度をこす日もめずらしくありません。うまい果物の季節も本番です。
さてイサーンのソンクラーンはよそとちがうのかというと、そんなことはまったくありません。まさに民族大移動というべき大渋滞をのりこえて故郷に帰り、家族・友人とひさしぶりに会ってひと騒ぎ、という全国的なパターンで、水かけ以外は日本の正月と同じようなもんです。
ではいったいなぜ水をかけあうようになったのか? まあ確かにこれだけ暑いと、人から水をかけられても一瞬の涼がとれて気持ちがいいかもしれません。ちょうどタイでは酷暑の4月8日がお釈迦さまの誕生日で、日本でも潅仏会(かんぶつえ)といって仏像に甘茶をかけてお祝いしますね。中には調子にのってかっぽれを踊ったりする人もいるようですが(笑)、これはお釈迦さまが生まれたとき、龍が天上から舞い降りてきて香湯をそそいで祝ったという伝承からきている行事のようです。もちろんタイだけではなく、ほかの小乗仏教の国、ミャンマー、カンボジア、ラオスでも同様です。とすると、水かけ祭は仏教の潅仏会がもとになってるんでしょうか?
さて一方、インドにはホーリーという、春の到来を祝って全国的に色水をかけあい、色のついた粉を塗りあうという、なかなか派手な、どっちかというとあまり巻きこまれたくないようなヒンドゥー教の祭があります。タイのソンクラーンでも水をかけあうだけでなく、水でといた白い粉を顔に塗りあうんですが(これはふだん水浴びのあとにつけるタルカム・パウダーです)、潅仏会ではだれにも粉はかけませんから、形としてはホーリーに近いといえるでしょうか。でもタイでは水に色はつけません。
ことしのソンクラーンにはここの常連客ウォーターマン(仮名)がわざわざ日本からやってきたので、ピマーイだけでなくゲスト・ハウスの一家のホームタウン、ドンヤイ村でも正調ソンクラーンを体験してきました。ここはピマーイから北へ15kmほどの農村です。ソンクラーンのメイン会場はドンヤイ寺でした。初日は歌謡ショーと少年ムエタイ(キックボクシング)、子どもクイズ大会などのアトラクションで、村のいたるところではもうはなばなしく水のぶっかけあいが始まってます。(写真01)
水かけには陣地型(家の前に水を用意して通る人やクルマにかける)と出張型(トラックに水をつんでかけまわる)があって、若いもんを満載したピックアップ同士がすれちがうと、たがいにスピードを落とし、たちまちはげしく水しぶきと歓声が上がり、双方大笑いでびしょびしょになって次の獲物をさがしに行くというにぎやかさです。(写真02)
こちらは午前中はピマーイのゲスト・ハウス前に陣取って、次々とやってくるピックアップと交戦し(?)、バイクや通行人は止まってもらっておだやかに・・・といってもシャツのえりををつまんで背中にたっぷりと・・・かけさせていただきます。午後は自分たちがピックアップに乗って村まで往復し、腕が痛くなるほど水をかけまくりました。われらがウォーターマンはテニスできたえた腕にモノをいわせて、正確なコントロールでびしびしとショットをきめていました。
こう書くと、けんか腰の祭みたいに聞こえてしまうかもしれませんが、そもそもは幸運と長寿を願って年長者の手のひらに水をそそぐ、という習慣ですからいたずらじゃありません。したがっていくら水をかけられても、粉をぬったくられても怒っちゃいけません。にっこり笑って…やりかえすだけです。その美風は徹底していて、水かけがけんかになってしまうような場面は一度も見ませんでした。しかし日本でやったらどうなるでしょうか…
最近流行の装備は高性能水鉄砲でしょうか。射程距離(?)も年々のびていますが、いかんせんすぐタマが(水が)つきる。そこでおととしごろから、スキューバ・ダイビングのように水の入ったボンベを背負うタイプが出ています。ま、どっちにしても引き金を引く指が痛くなるので長くは戦えません。第一水量がもの足りない。やはり機動性からいってもトイレで使う柄のついた手桶がいちばんでしょう。柄がないと力が入らないし滑りやすく、水かけピックアップ同士がやりあったあとには道路にいくつかかならず落っこちてます。(写真03)
いよいよ2日目は帰省してきた村人の数もピークで、寺では潅仏会がおこなわれます。タイの仏教は形式的な面が強いともいわれますが、意欲のあるお坊さんがいると儀式もニュー・ウエーブが取りいれられるようで、今回は聖糸の張りかた新しいものを感じました。
それは会衆の頭上に格子状に聖糸をはりめぐらせ、さらにその結び目のひとつひとつから糸をたらし、全員にいきわたらせるというものです。従来は会場をぐるりと1本の糸でかこむだけでしたから、やはり一体感はちがってくるんじゃないでしょうか。会衆はお線香とこの糸をもって合掌し、読経、説法のあと、仏像とお坊さんと村のお年寄りたちに水をかけて「ソンクラーンの儀」はおしまいです(敬老の日も兼ねてるわけです)。あまった水はそれぞれ持ち帰って家の仏像にかけます。余談ですが、会衆は500人以上いましたから、水をかけてもらうほうも時間はかかるし指はふやけるしでけっこうたいへんです。(写真04)
さてピマーイとドンヤイ村で水かけのウォームアップ(?)をしたあと、ゲストハウスの連中とコーンケーンにでかけました。ここはイサーンで3番目のおおきな町ですが、たぶんソンクラーンの派手さは当地で一番じゃないでしょうか。目抜きのシーチャン通りを300メートルほどカーオニアオ(もち米)通りと呼んでホコ天にし、両側には20〜30メートルおきにステージがつくられて、ダンス・ショー、モーラム、ロックバンドとなんでもありの大音響・無礼講水かけ状態です。ただし感心なことに禁酒ゾーンに指定されていて、酒の販売はご法度でした。(写真05)
ここで水をかけてかけられ、粉をぬってぬられて遊んでいるうちに、背後からどどど、とおおきな水音が聞こえ、みなあわてて逃げだす気配です。振り向いてみると、目に飛びこんできたのは消防車の放水でした! 祭りの感興きわまった署員がとうとうはじめちゃったようです。わたしも逃げおくれてほんの数秒間くらってしまいましたが、水圧はかかっていないものの、あの大水量ですからまともに立ってはいられません。子どもに体当りされたくらいのショックはあります。「まったく暴徒鎮圧じゃないんだからほどほどにしてくれよぉ」、とみんな言いたげでした。(写真06)
そういえばピマーイではピックアップに積んだ水がなくなったら、消防署の陣地(?)に行くとただでたっぷり補給してくれました。これはいったい住民への公共サービスなのか、はたまた税金のむだづかいなのか、などとこまかいことを考えるのはもう日本人の悪いくせが出てるってことなんでしょうね。(写真07)
(防水の使いきりカメラなので画質にやや難があります。ご了承を)
▲写真01 ずぶぬれでクルマが走るとガタガタふるえるほど寒い |
▲写真02 若いもんはピックアップで出張型がすき |
▲写真03 豪快なフォームを披露するウォーターマン |
▲写真04 ひとりに一本の聖糸 |
▲写真05 粉をいっぱいかけられるのはかわいい証拠! |
▲写真06 あろうことか善良な市民に放水する消防車 |
▲写真07 やはりイサーンのお弁当はガイ・ヤーン(焼き鳥)ともち米 |
第7回 イサーン・クルマ事情
タイは日本車の独壇場
一度でもタイにいらしたことがある方ならご存知でしょうが、タイではバス・トラックから乗用車まで石をなげれば日本車にあたるというくらいで、そのシェアなんと85パーセント。ほとんどのメーカーが工場をもち、タイ製として輸出をのばしつつタイ国内でも販売に力を入れています。2007年のタイにおける新車販売台数は約63万台でしたが、メーカー別のシェア上位3社はトヨタ44.7%、いすゞ23.9%、ホンダ9.3%、とくに人気のあるのが商用車はいすゞとトヨタ、乗用車はトヨタとホンダです。
売れ筋はピックアップ
ここであれっ、いすゞのどんなクルマが売れてるんだろう、と思ったかたもいらっしゃるでしょう。ここにタイならではの事情があるんですが、じつは日本とちがってタイでは発売される新車のうち6割以上が1トンピックアップトラックです。バンコクはいざしらず、田舎では荷物も人間もめいっぱい積めるピックアップがなんといっても重宝です。
ほかにも荷台はすこしせまくなりますが、4ドア・ピックアップというタイプも、セダンとトラックのいいとこどりで人気があります。なにせタイでは荷台に何人のってもおとがめなし。オートバイも同様で3人はあたりまえ、こどもがまじれば5人でも。日本でも今を去ること40年くらい前はなんでもオッケーでしたけど・・・
そういえばはじめてタイに行った1980年代には、タクシーは何人乗ってもいいということになっていて、おもしろがってわざと詰め込んでみたりしたもんです。運ちゃんも入れて男ばかり8人というのが最高記録でした。さすがにいまは定員を守らないとつかまります。
クルマは貴重品
クルマの値段は日本より割高で、普通のタイ人にとってはそうそう気軽に買えるものではありません。ピマーイに住むにあたって、まずホンダのジャズ(日本ではフィット)を新車で買いましたが、値段は70万バーツ(約210万円)でした。同じタイプが日本では170万円で買えます。
しかし田舎では公共交通が不便なこともあって、ちょっと無理をしてでもみな車を欲しがります。ですから日本のように三年ごとに買い替えてしまう消耗品のようなものではありません。ほとんど一生ものといっていいような貴重品です。
そういうわけで、そうそう新車が買えるわけもなく、中古車を選択する人も多いので、車の値段は下がりません。日本なら三年後にはほとんど値段がつかないでしょうが、このジャズは5年乗っても50万バーツ以下になることはないといわれてます。
かってにベンツ!
バンコクで、大きな爆音を上げて街を走るトゥクトゥク(オート三輪タクシー)に乗ったことがある方もいらっしゃるでしょう。これはサームローともよばれ、もともとは日本のダイハツ・ミゼットを改造したもののようですが、いまでも庶民と外国人観光客の足として活躍しています。タイ国内でもいろいろなタイプがあって、たとえばバンコクではもとになっているのはミゼットですが、中部の大都市ピサヌロークのは、マツダK360タイプが主流です。もちろんタイのオートバイメーカーのものもありますが、問題は騒音と排気ガス。しかし環境問題にはうるさい昨今、ついに天然ガス仕様のトゥクトゥクも開発されました。とするとさらにすすんで電池式などもできるんでしょうか。音のしないトゥクトゥクというのはちょっとさびしい気もしますが・・・
こんなトゥクトゥクのうしろにはよくベンツのマークがついていて知らない人は驚かされますが、そこはコピー大国のこと、こんなものは夜店でふつうに売っていたりします。
ロット・クボタ
このように改造車づくりもまだまださかんですが、田舎ではボディーまで自作してしまうメーカー、というか個人経営の工場があってエンジンさえあればいかようにもボディーをのせてくれます。ここで売れ筋なのがロット・クボタ(正式にはロット・イーテン)とよばれるトラックです。
その名前からおわかりのとおり、このトラックの心臓はあの名耕耘機から移植されたエンジンで、排気量は1000ccもなく、出力も20馬力ほどのところに大きな荷台をかぶせられてしまうわけですから、出せるスピードはフルスロットルで時速2,30kmがせいぜいですが、サトウキビやキャッサバを満載してまだまだ元気に活躍しています。あまりにのろくて渋滞をひき起こすということでバンコクには乗り入れ禁止をくらっていますが、これこそローカルヒーローといえるでしょう。ちなみにお値段は新車で20万バーツ。イサーンにお住まいのさいには一台いかが?
▲写真01 ピックアップを改造したミニバス |
▲写真02 タイで買ったホンダ・ジャズ |
▲写真03 往時の日本でライバルのミゼットと覇を競った |
▲写真04 トゥクトゥクのモデルカー |
▲写真05 ベンツのトヨタ・・・? |
▲写真06 田舎のかくれた名車ロット・クボタの雄姿 |
第8回 タイ−ラオス友好橋鉄道
今回はラオスねたになってしまうかもしれませんが、イサーンとラオスは兄弟のようなもんですから、多少の縄張りあらしには目をつぶっていただいて、このあいだ開通したラオス初の鉄道のおはなしです。
厳密に言うと初めての鉄道は、インドシナ連邦時代にフランスが物資運搬用に南部コーン島に敷設したかなり狭軌の「トイ・トレイン」のようなもの、ということになるようで、これはいまでも残骸が残っています。でも普通の人が料金を払って利用する公共交通機関としては、この友好橋線がやはりラオス初ということになるんじゃないでしょうか。
1994年に友好橋が開通した時から鉄道を通す予定はあったようですから、15年かかって夢が実現したことになります。今年3月5日にタイからはシリントーン王女、ラオスからは首相?が出席して開通式が行なわれています。
(写真01)
こちらは4月29日にノーン・カーイ駅から対岸のター・ナーレーンまで乗車しました。前日夕方に着いたんで確認のためいったん駅に行ってみると、朝と夕方に1本ずつ出ていると時刻表にあります。10:45発のは69EXPという列車で、バンコク20:00発、ノーン・カーイ8:25着の夜行寝台ですが、ター・ナーレーンまでこの列車がそのまま行くわけではなくて、着いたらノーン・カーイ発の友好橋線に接続しているということです。待ち合わせが2時間以上もあるんじゃとても「接続」とは言えないと思いますが、なんだか飛行機の国際線乗り継ぎに必要なMTT(最短乗り換え時間)がそのまま適用されてるみたいでおもしろいですね。朝食やパスポート・コントロールを通る時間も見込んでるんでしょうか。
もう1本17:05発のは913EXPという列車番号で両駅を往復するだけのシャトル便です。
念のため駅員に聞くと、「朝は10時、夕方は4時です」との答え。まあ早めに来なさい、ということでこう言ってるようです。
(写真02)(写真03)
翌朝9時半ごろ駅に行ってまず切符を買いました。するとパスポートを見せろというじゃありませんか。料金20バーツといっしょにわたすと、手書きで番号を控えていました。さすが国際線です。
まだ時間は十分ありましたが構内の写真も撮っておきたかったんで、手続きをしてしまおうとホームに新設されたイミグレに行ってみると、ちょうどパソコンを立ち上げて業務を開始したところでした。ここでもパスポートのほかに切符を見せます。空港で出国するときに搭乗券を見せるみたいですね。チェックが終わると柵で囲まれたベンチのある待合スペースへ。でもここは完全に閉ざされているわけではなく、いくらでも出入りができます。わたしもホームへ出て行って写真を撮りまくっていました。
(写真04)(写真05)
10時を過ぎても友好橋列車は入線する気配がなく、やはり定時は無理なのかなと思っていたら、10時10分に大編成の列車が到着しました。プレートを見ると、これが時刻表にあったバンコク発の夜行です。8:25着のはずがほぼ2時間遅れ…途中で事故でもあったのかとお思いでしょうが、これはタイの鉄道ではあたりまえ、いやむしろバンコクからあの長距離を来たことを考えればりっぱなタイムと言えるでしょう。いやに待ち合わせ時間が長いと思ったら、こういう事態を見こしているわけですね。
(写真06)
▲写真01 |
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▲写真04 |
▲写真05 |
▲写真06 |
この列車はさっさとホームから出て行きましたが、これじゃ友好橋線はよくても11時ごろ発車だな、と踏んで売店で水を買い、線路わきのトイレに入っていると、ジーゼル・エンジンの音が響いて列車が入線してきました。もう一気に出発するようです。あわててホームを小走りしてさっき手続きをすませたイミグレのゲートには入らず、横を通過しようとしたら、駅員風の男性が「パスポート!パスポート!」と大きな声を出してイミグレに行くよう促します。こっちも「さっきすませました! ちょっとトイレに行ってたんです!」と叫びかえして乗車しました。乗客は全部で20人。欧米人が3人、タイ人が4人。それに運転士や車掌など関係者が数人。あとはわたしもふくめて全部日本人です。それもみなカメラをさげて…さすがは鉄ちゃん、鉄子の国だけのことはありますね。
列車は2両編成で、座席数は100以上ありますが、この日はみんな先頭車両の最前部にかたまってしまいました。
(写真07)(写真08)
全員が乗車したとみると、すぐ発車。時刻は10時48分。なんと時刻表に3分遅れという驚異的な正確さです。日本人乗客全員がカメラを用意して身構える中、列車はゆっくりと橋への勾配を登って車道に合流します。わたしはレインボー・ブリッジや瀬戸大橋などからの連想で、友好橋も上下2段になっていて鉄道は下側を通っていると勘違いしていましたが、そうではなくて、レールはクルマが走る路面の上下線のレーンにまたがっています。ですから列車の通過中はクルマは通行止めということになります。
スピードは約40キロ、乗客はみな窓から体を乗り出してビデオをまわしたりカメラのシャッターを切ったりで大忙し。こちらも最前部に陣取って鉄路の心地よい振動を味わいながら撮影にいそしみました。
(写真09)(写真10)
ひととおりのシーンをおさえて席にもどると、さっき乗車するときにイミグレに行けと声をかけてきた係員がやってきて、「パスポートを拝見」というじゃありませんか。どうもさっきは納得していなかったようで、確認に来たようです。イミグレのスタンプを見て疑いは晴れましたが、やはりホームのイミグレは囲い方がゆるやかでチェックしたあとでも駅の外に出られるし、逆にノーチェックで列車に乗ってしまうこともできますからこうして密出入国を防ぐために不審な客を見張っているようです。制服の兵隊が3人同乗していて、この人は私服でしたが、その眼光の鋭さは鉄道公安官なんてもんじゃなく、公安警察か軍の特殊部隊みたいでした。
(写真11)
そうこうするうちに列車は渇水期のメコン川を渡ってラオス側につき、ほんのしばし田園風景の中を走ってター・ナーレーンの駅に到着します。ついこのあいだタイの援助でできたばかりですから、平らに整地された広々とした敷地に真新しい典型的なタイの駅舎とホームがあるだけで情緒も味わいもありません。ここにももちろんラオス側のイミグレがあって入国手続きしますが、バスのルートと違っていいことは圧倒的にすいていることでしょうか。しかしその分免税店などもなく閑散とした雰囲気です。
(写真12)(写真13)(写真14)
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▲写真12 |
またビエンチャンに行くにも公共のバスはなくてトゥクトゥクかロット・トゥー(乗りあいマイクロバス)しかありません。トゥクトゥクは1台200バーツ、ロット・トゥーは400バーツでした。もちろん人数が増えれば頭割りになりますから、フル乗車でひとり70バーツというところでしょう。
ロット・トゥーの運ちゃんニコンさんのはなしでは…「鉄道が通ったっていっても1日たった2本だしねえ、客だってせいぜい2、30人のもんだから、たいした稼ぎにはならないよ。客にとっちゃまっすぐビエンチャンまで行けたほうがいいだろうけど、ラオスにはそんな金はないし。でも橋からの道路は去年日本が直してくれたから助かってるよ」
(写真15)
バスで橋を渡れば料金は同じ20バーツですが、イミグレはかなり混みます。さらにビエンチャンまでの交通費も同じようなもんですから時間的には列車が有利。しかしバスはほぼ15分おきに出ますが列車は1日に2本だけ、となるとまだまだバスを選ぶ人のほうが多いんじゃないでしょうか。ター・ナーレーンの駅で「帰りはバスにしようね」というカップルの声も聞こえましたし、実はわたしもそうしたんですが、それはビア・ラオ(ラオス・ビール)をおみやげに買いたかったからで、免税店や飲食店などの規模はバス・ルートのほうが圧倒的に大きく、駅のはキオスクほどでしかありません。
(写真16)
将来的にも観光客を運ぶよりはメコン回廊の一環として物資輸送のほうに重点を置いているように見受けられた友好橋線。それでもメコン川を鉄道でこえる唯一の橋ですし、マニアにとってはたまらない魅力があるのではないかと思います。
▲写真13 |
▲写真14 |
▲写真15 |
▲写真16 |
第9回 プレーン・コーラート(イサーン節)奉納
このたび めこん から「イサーンの旅」を刊行することができました。こちらもいちおうコーラートの住民なので、3年前、この本の取材に取りかかる時に現地の習慣に従ってターオ・スラナーリー(通称ヤー・モー)に、「つつがなく仕事がはかどりますように」と願をかけてありましたから、先日「おかげさまで出版にこぎつけました」とプレーン・コーラートを奉納し、願ほどきのお礼参りをしてきました。
▲ヤー・モー像 |
▲ヤー・モー像に詣でる参拝客 |
▲像の前でプレーン・コーラートを奉納 |
以前にもこのコラムでご紹介したとおり、ターオ・スラナーリーはコーラートの守り神で、住民の絶大な信仰を集めています。旧市街のまんなかに銅像が建てられていて、たいていはここにお参りに行きますが、彼女を祭る場所としてもう1ヵ所、旧市街の東北のはずれにサーラー・ローイというお寺があります。ここはターオ・スラナーリー自身が建てたお寺であり、その菩提寺でもあって、ここにもいくつか彼女の像があって参拝客が絶えません。
ここでふつうにお参りする場合は、一般のお寺参りと同様に花や花輪、ろうそくと線香のセットをお供えし、仏さまにするのと同じように座って三拝します。ここでもっと強く願をかけたい場合や、それまでの願い事がめでたく満願成就となったような時は、特別に「プレーン・コーラート」を奉納します。プレーンは歌という意味ですからこれは「コーラートの歌」ということになりますが、そう訳してしまうとちょっと感じが出ないので、「イサーンの旅」では「コーラート節」としたとおり、じっさいには伝統的なタイの古典芸能です。
このように神様に歌舞音曲を奉納する習慣は世界中どこにでもあるでしょうし、バンコクではラーットプラソン交差点(グランドハイアット・エラワンホテルの角)にブラフマー神(日本では梵天さま)を祭ったエラワン・プームというお堂がありますが、かなりのご利益があると評判なので参拝者が引きも切らずやってきますし、同時に願がかなってお礼参りにくる人もたくさんいて、踊り子を雇って奉納するきらびやかな踊りをご覧になったことがあるかたも多いでしょう。
このプレーン・コーラートを初めて見たのは、こっちにロングステイを始めてしばらくしてからコーラート市内をあれこれ見て回っていた時です。サーラー・ローイ寺を見物・参拝してから本堂の裏の広場に行ってみると、そこには小振りなヤー・モーの像があって線香の煙が絶えず、参拝客もおおぜい来ていました。そしてその広場では何組もの民族衣装を着たグループが、手ぶり・身ぶりまじりになにやら口ずさんでいたんですが、最初はなんだか分かりませんから、伴奏もついていないし、なにかのおけいこごとをしているアマチュアのグループが集まって練習しているのかと思いました。
日本でなら、たとえば日舞ではおけいこであってもお師匠さんの前でひとしきり舞ってみせるだけでけっこう緊張感があるというか、始めと終わりがきちんとしてますよね。ところがプレーン・コーラートはそんなぴりっとしたものはなくて、実にのんびり、悪く言えばだらだらしたパフォーマンスで、こりゃやっぱりタイだなぁと思わせてくれます。(伴奏すらありません)。
そもそもタイには昔から王室を中心に、特にカンボジアの影響を受けたクメール風の古典舞踊などの伝統芸術がありましたが、コーラートはつい19世紀までいまだ開発の手が及ばない地域でしたからそんな高尚なものが盛んに行なわれるはずもなく、アユタヤ時代の民間芸能が移住者のコミュニティごとに受け継がれて今に至っているもののようです。
ところでイサーンの人口のほぼ70~80%はラーオ出身の人たちで、かれらは独特の楽器「ケーン」(日本の笙ににている)を伴奏にしたモーラムという伝統芸能を持っていますし、今でも祭りやイベントではルーク・トゥン(タイのみちのく演歌)と並んでメインのパフォーマンスですから、神様に奉納するのもそういったものになります。しかしここコーラートにはラーオ系の人は少なくて、たいていは中部から移住してきた人たちの子孫ですから、イサーンのシンボルであるケーンも使われないということになります。
こういった歌と踊り(というよりは手ぶり、身ぶり)の組み合わせはもとはといえば口伝の物語に調子をつけて語り聞かせるうちに一定の形ができあがっていったもののようです。
▲予想外にモダンな本堂は建築賞もうけている |
▲エラワン・プームの踊りの奉納 |
▲チャイヤプームの守護神、ポー・プラヤー・レーにケーン演奏を奉納する市民 |
さていよいよ1月のある日曜日に、ゲストハウスのおばちゃんたちとプレーン・コーラートを奉納に行きました。地元の人たちは、メインストリートにある銅像は観光客用だという意識があるようで、今回はサーラー・ローイ寺へ行くことに。お供え物も豚の頭、鶏の丸ゆで、ご飯、果物、菓子と精一杯張り込みました。パフォーマーはその場で選ぶこともできますが、この日は前もって口コミで紹介してもらった、名調子が評判のソムキットさんとそのグループを午前10時に予約してありました。
ではパフォーマーたちは実際にどんなやりとりをするんでしょうか。まずリーダーのソムキットさんがヤー・モーに奉納の口上を述べ、スポンサーのわたしが唱和します。
「本日、拙著『イサーンの旅』刊行にあたり、ヤー・モーさまにご報告かたがた、初版完売、再版重版、印税ざくざくとなりますよう祈願しに参りました・・・」なんてことを縷々述べてお線香とろうそくをお供えしたあと、ほかの3人のメンバーがそろってプレーン・コーラートが始まります。
▲まず口上を述べる |
▲ソムキットさんの耳に手を当てるきめポーズは、ヤー・モーのお声を聞きたい、というしぐさらしい |
▲豪華なお供え物 |
「ヤー・モーに伏してお知らせいたします。カジワラ氏が「イサーンの旅」出版にあたり、プレーン・コーラートを奉納しに参じました。同氏の幸福と健康と安楽を祈念し、同書が何千部も売れますよう、このプレーン・コーラートを奉納いたします。どうかヤー・モーのお耳に届きますように」
「ヤー・モーの御霊はいずこにおられることか。どうぞ近くにおいであそばして、カジワラ氏が奉納いたしますプレーン・コーラートをお聞きください。だれもがヤー・モーの御霊は霊験あらたかと敬い、事故や不幸に見舞われれば願をかけ、プレーン・コーラートを奉納いたします。ヤー・モーの御霊はいずこにおられることか。どうぞ近くにおいであそばして、プレーン・コーラートをお聞きください」
「日本国より参りしカジワラ氏に常にヤー・モーのご加護がありますように。同氏の願い事が望み通りに叶いますように。同氏の著書「イサーンの旅」が1億冊ほどまでも売れますように」
こんな調子で4人がかわるがわる即興の歌詞を歌うというよりは唱えながらゆっくりと手をひらひらさせて踊りますが、この踊りにも特に型があるわけじゃありません。ですから日本舞踊のようになんとか流として確立しているものではなく、まあ悪く言えばしろうと芸のようなもんですが、いろいろくすぐりのセリフが飛び出したりして楽しく笑ってすごせました。
ちなみにパフォーマンスの時間は30分、これで料金は200~300バーツですが、10分オーバーの熱演だったのでチップを各人に20バーツずつはずみました。
みなさんもコーラートにおいでの節は記念にどうぞ。
▲4人で1チーム |
▲ゆるい芸風がイサーンらしい |
第10回 イサーンのいまいち観光地
▲堂々とした大クリスタル仏塔 |
▲トイレは無色の瓶や王冠も使っておしゃれなまとめかた |
▲鐘突き堂と給水塔納 | ▲本堂は緑が基調 |
▲仏法の輝きを放つ本堂 |
▲ご本尊も明るく華やかなお姿 |
昨年暮れにおかげさまで「イサーンの旅」を刊行することができましたが、その取材でほぼ3年間にわたって各地を訪れ、数多くの名所旧跡・神社仏閣をめぐりました。定番観光地のほかにも興味をそそられる場所やイベントは多く、「本邦初紹介」も少なからずありましたが、やはり何事も玉石混淆ですから、いわゆる「がっかり観光地」も多々ありました。
念のために申し添えますが、「がっかり観光地」とは評判を聞いて行ってはみたもののそれほどではなかった、という観光名所で、日本では札幌の時計台や京都タワー、世界ではシンガポールのマーライオン、コペンハーゲンの人魚姫像などがあげられています。
イサーンに限らずタイでしたら、日本人は各地にあるタイガーバーム・ガーデンのような派手な観光寺にがっかりさせられることが多いようで、まあこういうところは最初から選に漏れますからいいんですが、問題は微妙に境界線上にある物件(?)です。
そんな読者におすすめするほどではない、でも切り捨ててしまうのも惜しいような「いまいち観光地」のひとつがこの「ワット・パー・ラーン・クアッド」つまり「100万本の瓶の森の寺」と言えるでしょう。
正式には「ワット・パー・マハー・チェディー・ケーオ」(大クリスタル仏塔の森の寺)というこの寺はシーサケート県クン・ハーン郡にあって、あの有名なクメール遺跡のカオ・プラ・ビハーンに行くルートの途中になります。
この寺の特徴は、境内のすべての建物がビールの空き瓶で建てられていることで、特に本堂は日光をさんさんと浴びて光り輝き、内部もクリスタルを通した光に満たされて参拝者はまるで「仏法の輝き」に包まれるようだと言います。
こちらも何事も「百聞は一見にしかず」を実践している身ですから、あるときカオ・プラ・ビハーンの取材がらみで立ち寄ってみました。ここはタイ航空の機内誌でも紹介されているほどですから、よほど有名なところかと思って行ってみたら、なんの道しるべもなく、何回かクン・ハーンの町で道を聞いてやっとたどりつきました。山門には確かに「大クリスタル仏塔の森の寺」とあります。平日の午後だったせいか参拝客もいません。
▲意匠を凝らした瓶のレイアウト
さっそく中に入って行きましたが、どの建物も遠目には燦然と輝くわけでもなく、特に斬新なデザインでもなく、ごく普通の寺社建築に見えます。しかし近づいてよく見るとどうでしょう、どの建物も壁という壁、柱という柱にはびっしりと空き瓶が埋め込まれているんです。それもほとんどが緑と茶色の瓶に統一されていて、その向きも一定の方向と組み合わせに従っているので、非常に整然とした幾何学的な模様に見えます。
聞いた話では、このありがたいお寺は1981年の建立で、その20年ほど前から町中に捨てられていたビール瓶をリサイクルの目的で集めていたそうです。しかし、これが膨大な量になったため、お金に換えるのはやめて、ついにそのビール瓶で本堂はじめすべての建物を建ててしまったとのこと。講堂や仏塔はもちろん、火葬堂に給水塔やトイレまであらゆるところに空き瓶が建材として使われているという徹底ぶりです。
100万本をこえるというビール瓶のほとんどはハイネケン(緑)と地元の銘柄チャーンビール(茶)の2種類で、これをうまく組み合わせて色彩的効果も出しています。
しかしタイのお寺では僧侶は厳しい戒律を守っていて、特に飲酒は御法度でこれを破ればたちまち破門となります。空とはいえ、元はビールが入っていた瓶などでお寺を建てたりしていいもんなんでしょうか。あるいはもっと深い意味があるのか、いや実は単にきれいに見えるからという理由で使っただけなんでしょうか。なかなか俗人には理解しがたい面もありました。もちろんさすがに仏像に空き瓶は使ってませんでしたが…
現在残念ながらカオ・プラ・ビハーンは閉鎖中ですが、めでたく再開されて観光にいらっしゃるかたは、(ご用とお急ぎがなければ、と付け加えておきますが)どうぞお立ち寄りください。
しかしチャーンビールはいいとして、こんな田舎でハイネケンを飲む人がそんなにいるんだろうかという点がちょっと疑問ですね…
▲もちろん山門と塀も…
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