【書評再録】
◎文化人類学(旧民俗学研究)2005年70−1号掲載

変容する東南アジア社会――民族・宗教・文化の動態
加藤剛編著

 東南アジアとは、どのような「まとまり」をもった地域なのか。
 今日的感覚では東南アジアは、ASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟する10ヶ国(フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポール、タイ、ブルネイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー)に、2002年に独立した東チモールの11ヶ国をあわせた領域と考えるのが一般的である。
 しかし、そのASEANにしても、1967年の結成当初は、フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポール、タイの5ヶ国が加盟するだけであった。1984年に加盟したブルネイを含む自由主義陣営6ヶ国と、社会主義国家であるベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーの4ヶ国とは、没交渉の時代がながかった。これら両陣営の関係に変化が生じたのは冷戦終焉後のことであり、ASEANが社会主義陣営を包摂した10ヶ国体制(ASEAN10)を確立したのは、1999年のことにすぎない。
 そもそも東南アジアという名称は、第2次世界戦争中に連合軍がコロンボにおいた「東南アジア司令部」がその初出である。それ以前の東南アジアは、英領マラヤや仏領インドシナ、蘭領インドなどに分割されることはあっても、現在のような東南アジアといった「まとまり」は存在しえなかった。現在、ASEANを中心に東南アジアは、その自律的なまとまりを形成しつつあるのである。
 このような背景のもと、東南アジアは、大陸部と島嶼部に分けて紹介されることがおおかった。この2分法は、たしかに大陸部がモンスーン気候であるのに対し、島嶼部では湿潤熱帯気候が卓越しているといった生態学的妥当性、ベトナムを除く大陸部が上座仏教に帰依するのに対し、フィリピンを除く当初部ではイスラームを信奉するという宗教的妥当性、大陸部にはチベット・ビルマ語族、タイ語族、モン・クメール語族が分布するのに対し、島嶼部ではオーストロネシア語族がおおいとの言語学的妥当性をもつ。
 他方、大航海時代に西洋人と接触するようになる以前から、東南アジアはひとつの世界を形成していたとするアンソニー・リードらの歴史研究に顕著なごとく、近年、東南アジアをひとつのまとまりとして捉えようという試みもはじまっている。そのひとつが、人口移動に着目したフロンティア社会論である。
 本書は、1999年度から2001年度にかけて編著の課統合を研究代表者として組織された科学研究費補助金による共同研究「東南アジア社会変容のダイナミクス:民族間関係・移動・文化再編」(基盤研究A)の成果である。フロンティアとの術語はもちいていないものの、人口移動は、プロジェクトの副題にあるように本書のキーワードである。ミャンマー、タイ、ラオスの大陸部3ヶ国、インドネシア、マレーシア、フィリピンの島嶼部3ヶ国を研究対象とする本書は、編者自身が自負するごとく、1冊の書物で、東南アジア地域の社会と文化を、これだけ広域かつ多面的に論じたものは、おそらく皆無であろう。
 加えて本書の特徴は、すべての論考が多かれ少なかれ国家の周縁に位置する地域や社会、あるいは国境息に焦点をあてた点にみいだせる。第1章の石川登は、マレーシア国家の際周縁に位置し、インドネシアと国境を接するサワラク州のマレー村落を研究の舞台としている。第2章で貞好康志があつかうのは、インドネシアで政治問題が暴力化するたびに、しばしば攻撃対象とされるマイノリティの華人である。高岡正信とタウィーシン・スップワッタナーが、第3章で対人エリートに見られる対ラオス観を考察するなかで注視するのは、タイの中のラオ人の位置づけである。また、第4章で林行夫は、東北タイからラオスに跨って生活するラオ人の仏教実践を論じている。第5章で速水洋子は、タイとミャンマー国境域に居住するカレン人社会を、第6章で長津一史は、フィリピンとマレーシアの国境海域に生活するサマ人社会を、第7章のモハメド・ユスフ・イスマイルはタイ国境息に隣接するマレーシアのシャム人社会をとりあげている。小瀬木えりのは、第8章で首都マニラの周辺ではなく、ビサヤ諸島で生産される布をめぐる復興運動について考察している。最終章で加藤が研究対象とするリアウは、マラッカ海峡をはさんでマレーシアを望む位置にある。
 編者が認めるように、この構成は、まったくの偶然だそうだ、このことは、現在の東南アジア研究者の関心が、国家の中心ではなく、周縁に惹かれる傾向にあることを示唆しているといえよう。他方で、越境的現象に対する関心は、そもそもこうした現象が、近年、より日常化していることの反映でもあろう。
 東南アジアの自律的なまとまりは、まだまだ将来的な存在でしかありえないが、国境にかぎらず境界を跨ぐ人口移動――跨境活動―-といった同時代的現象は、現在の東南アジアを理解する鍵のひとつである。

評者:赤嶺淳(名古屋市立大学)


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