パプア――森と海と人びと

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 村井吉敬

 定価2500円+税
 A5判並製・168ページ・オールカラー(写真200枚)
 ブックデザイン 戸田ツトム
 ISBN978-4-8396-0265-9 C0030
             

 魔境のパプアから人びとのパプアへ
 村井吉敬さんは歩くことが好きな研究者でした。ジャワを歩き、スラウェシを歩き、ヌサ・トゥンガラを歩き、マルクを歩き、最後に行き着いたのが、そして一番好きだったのが、パプアでした。1993年以降20年間にわたる村井吉敬さんとパプアの深いつきあいの記録です。


【はじめに――トリバネアゲハ、ビンロウジ、パペダ、OPM】
 ワニやイグアナが街を出歩いてニュースになったりする。アジアアロワナが密かに売られたり、日本は絶滅危惧種が平然と出回るクニだ。東南アジアでも日本人目当てのたくさんの密売業者がいる。かつて、わたしのところに、少々あやしげなインドネシア人が剥製前のゴクラクチョウ数十羽を売りに来たことがあった。おそらく本書の舞台「パプア」で密猟されたものだろう。アタッシュケースにしまってあったゴクラクチョウは惨めなものだった。
 「パプア」といえばゴクラクチョウであり、トリバネアゲハである。蝶愛好家なら誰もが獲ってみたい蝶である。インドネシア領に属するニューギニア島西部のパプアや、それと接した独立国パプア・ニューギニア、さらにその周辺の島じまに生息する絢爛豪華な蝶がトリバネアゲハである。トリバネアゲハといっても一種ではない。トリバネアゲハ類には四属、六亜属、二九種、一一八亜種があるとされている。黒地に金属光沢の緑色や青、朱などが映える。人間とは逆のようだが、雌は大型だがずっと地味である。このトリバネアゲハも実は「御禁制品」、ワシントン条約で国際取引が禁止されている。今は大量に人工飼育標本が出回っているので厄介な「商品」ではある。
 わたしはかつて蝶を収集していたことがある。今ならあまり感心もされない趣味だが、タバコをやめるずっと前にやめてしまっている。博物学者・進化論発見者として名高い英人アルフレド・ウォレスは、インドネシアのバチャン島でトリバネアゲハを初めて獲った時(一八五八年)「その華麗な翅を拡げんとした瞬間、私の心臓は激しく鼓動し、血が頭にカッとのぼり、ほとんど失神せんばかりか、このまま死んでしまうのではないかとさえ思った」と記している(『マレー諸島――オランウータンと極楽鳥の土地』(上・下)新妻昭夫訳、ちくま学芸文庫、一九九三年)。
 この本の翻訳者である新妻昭夫さんと一緒にパプアの南にあるアル諸島を歩いていた時、初めて目の前に飛来したメガネトリバネアゲハ(Ornithoptera priamus hecuba)に出会った。一九八八年八月、二人とも捕虫網を持っていた。新妻さんが雄二尾をゲット。わたしはゼロ。悔しい思いをしたが、その後訪れたケイ諸島でわたしも無事ゲットできた。心臓がやはり激しく鼓動し、血が頭にのぼった思いがある。
 憧れのトリバネアゲハだったが、パプアに足繁く通うようになってから、憧れの気持ちは薄らぎ、日本でいえばアゲハチョウやクロアゲハを見るのとさして変わらなくなってしまった。

 ここにいう「パプア」というのは、世界地図でいうと、日本のほぼ真南、赤道直下にある世界で五番目に大きな島ニューギニア島の西半分のことである。国家でいうとインドネシア共和国に属している。東は「パプア・ニューギニア」という独立国である。「パプア」と「パプア・ニューギニア」とは別の国になるので間違えないようにしたい。
 ニューギニア島は文化圏でいえばメラネシア文化圏で、民族グループも動植物相も似通っている。トリバネアゲハも当然のようにパプア・ニューギニアにもいる。
 わたしはパプア・ニューギニアに一九九〇年七月に行っている。パプアに行く三年ほど前である。その時訪れたニューブリテン島のウラモナ(Ulamona)のカトリック神父の館に立ち寄ったことがある。小さいが瀟洒な邸宅の前庭にはブーゲンビリアやハイビスカスが咲き乱れ、柑橘類の木が茂り、ピンクの花がこぼれるように咲いた木もあった。見ているとメガネトリバネが次々に舞い降りてきた。オスもメスもいる。神父さんの目をかすめて次々にトリバネをゲットした。あまりたくさんいると実はどうでもよくなって、神父の館で出された、じゃがいもシチューとソルティソーセージに気が移った。手製のパンまで出てくる。アイスクリーム、パパイヤ、バナナもデザートに出てくる。なんとまあ贅沢なことだろうか。トリバネアゲハとともにあの時食べた生ハムの味が忘れられない。トリバネアゲハ密猟に気づかったのだが、ここの神父さんは、熱帯材の伐採、製材を手がけ、日本への輸出もしているという。トリバネアゲハをとっても怒られる心配はない。
 憧れは薄れたとはいえ、今でもトリバネアゲハにはやはり胸が時めく。特にアレキサンドラトリバネアゲハ、ゴライアストリバネアゲハ、ゴクラクトリバネアゲハなど美しく、珍しいものはいつも見たいと思っている。NGOが珍しいトリバネアゲハを商業的に飼育して売っているところもある。

 もう一つ、パプアといえばビンロウジ(檳榔子、Areca catechu L.)を嚙む習慣がある。ヤシの一種であるビンロウジの小さな実を、キンマ(コショウ科の植物)の葉や房と、さらに石灰と一緒に嚙むのである。苦いだけでおいしいものではないが、パプアでもパプア・ニューギニアでも実に人びとがビンロウジ(インドネシア語でピナンpinang)をよく嚙んでいる。この三つを嚙み合わせるとやがて唾液が真っ赤になってくる。これを嚥下してはいけない。ペッと吐き出すのだ。これが問題になる。家の中などで吐き出されたら床が真っ赤になる。血のようだ。コンクリートの道路もひどいことになる。ポートモレスビーでは野外の吐きだしが禁止になっている。パプアの飛行場でもビンロウジ嚙みは禁止されていた。
 ビンロウジ嚙み(betel chewing)はパプアに限ったことではない。台湾にもあるし、インドにもある。太平洋の島じまでも一般的だ。わたしはパプア以外のインドネシアにはかなり多くの場所を訪れているが、パプアほどビンロウジ噛みは多くは見かけない。パプアに行くとそこいらじゅうでビンロウジ三点セット(ビンロウジ、キンマ、石灰)が売られている。町の路傍ではビンロウジの実を五個くらいの小さな山にして五セットくらい売っている子どもがいる。この習慣は女性にもある。人の家を訪問する時はビンロウジを土産で持っていったりする。わたしも何度か嚙んでみたが習慣化するには至っていない。なぜ嚙むのか、気分が高揚するのだ。それが習慣化してしまうのである。女性でも習慣化している人がたくさんいる。笑うと口が真っ赤、すこしぞっとしてしまう。
 パプアのNGOのスタッフと住民を招いて日本で環境問題のシンポジウムを開いたことがある。驚いたことにパプアからの参加者がビンロウジを持参してきた。こんなにパプアの人が愛好するビンロウジをわたしたちはほとんど知らない。

 パプアの海岸部の人の伝統的な主食はサゴヤシでんぷんである。サゴヤシについてもわたしたちはほとんど知らない。
 サゴヤシは幹の太さが三〇~四〇センチにもなる巨きなヤシである。その樹幹を砕いて、水にさらすとでんぷんがとれる。このでんぷんを水で溶いて、鍋などに入れ加熱しながら透明になるまで練る。葛湯のようなものだ。これをそれぞれの家で作るスープに浸して食べる。魚スープ、酸味の強いスープ、辛みの効いたスープなどさまざまだ。パペダと呼ばれるサゴヤシの料理はパプではやはり欠かせぬ食べ物だ。

 トリバネアゲハ、ビンロウジ、サゴヤシのパペダに次いで最後の話題はパプア独立問題である。政治的に微妙な問題だが、パプアの人びとの多くはいまだにインドネシアからの分離独立を望んでいる。
 パプアの人にとってはパプア独立を願って闘うゲリラ組織OPM(自由パプア運動。自由パプア組織ともいわれる)の存在は希望でもあり、危うい存在でもある。
 パプア人はジョークで「パプア人はみなマラリア、パプア人はみなOPM」という。インドネシア関係者に対しては滅多に言わない。OPMをOperasi Penyakit Malaria(マラリア撲滅作戦)などといって大笑いすることもある。
 わたしは、二〇〇〇年六月二日夜、大発熱をした。三九・五度。記録的な熱だ。また体温計を落とし、壊してしまったのでそれ以降の体温は測れなかった。二度目のマラリアだ。最初になってから約二〇日経っている。午前中、この間、マラリアの薬をもらったアベプラ(州都ジャヤプラ郊外)の薬局に行った。今度は検査をせず、直接医者もどき氏に会い、どうやらまたマラリアになったようだといったら、ベッドに寝かされ、おなかを押さえたり、のどの奥を覗いたりされた。「蚊にしょっちゅう刺されているか? この前の薬は最後までちゃんと飲んだか?」などと聞かれただけで、あとはこの前と同じ薬を出されただけだ。
 この中国系の医者もどき氏は、話し好きの人で、わたしの病状などお構いなしに、他の患者もたくさん待っているのに、なんと一時間もパプア独立について講釈をした。彼は中国系だが、パプアの人が独立を願うのはよく分かる、インドネシアはこの土地で本当にひどいことをしてきたと、長々と話しこんだ。こちらは熱もあり、悪寒がするのにさっぱりそのことを気にしてくれない。
最初の二度のマラリアは三日熱マラリアだったが、その後、沖縄で発症することになるマラリアは熱帯熱マラリアで油断できないものだった。
 二度目の時、おりしも、ジャヤプラでは全パプアの慣習法長やその支援団など総勢数千人が集まり第二回パプア大会議が開催されていた。わたしもマラリアを押して会議をのぞいてみた。当時はパプア問題に前向きな発言をしていたアブドゥルラフマン・ワヒドが大統領の時代で、パプアという呼称や、パプア旗の掲揚(インドネシア旗と併用が条件)まで認めていた。この会議ではやはり「独立」が議論され、ジャカルタ政府はかなり神経質になり、アルウィ・シハブ外相(当時)は、分離独立などあり得ない、外国人が参加しているのは問題、などと発言したことがTVで放映されていた。国家警察機動隊(Brimob)もかなりたくさん集結していた。
 あの時の熱は少し冷めてきているとはいえ、パプアの人びとにとって独立はおそらく永遠に心から去らぬ問題かもしれない。

 パプアにはさまざまな切り口、見方がある。わたしは二〇年ほどパプアを行き来してきた。パプアのとりこになったからである。日本より広いパプアだからまだ行けないところもたくさんある。しかしこのあたりでわたしの見た、わたしをとりこにしたパプアを写真とともにここに報告しておきたい。写真はすべてわたしの撮った写真で、二〇〇二年以後はデジカメの写真である。


【目次】
第1章 パプアに行った
  サシを見に行く
  タブラヌス村
  ビアク島へ
  20年の旅
第2章 パプアって何だ?
  裸族・原始・秘境
  パプア鳥瞰図
  人びとのパプア
  キリスト教と植民地
  日本による戦争
第3章 パプア人はマラリアかOPM――独立したいパプア
  ビアク事件
  なぜパプア旗なのか、なぜ独立なのか
  続く抵抗
  パプアの“春”
第4章 大きな自然と開発と
  ラジャ・アンパット諸島
  浜辺のご馳走
  マリンの人とエコ・ツアー
  移住村
  ファクファクのトビタマ
  ビントゥニ湾――マングローブ、エビ、LNG
  BP社によるLNG開発
第5章 希望のパプア
  ペトルスさんのタブラヌス村
  ペトルスさんと釣りに行く
  セフナットさんのダウィ島
  デキー・ルマロペンのYPMD-Papua


【著者はこんな人】
村井吉敬(むらい よしのり)
1943年、千葉県生まれ。
早稲田大学アジア研究機構上級研究員・研究院教授
専門:東南アジア社会経済研究、特に東部インドネシアの開発と環境
主な著作:『小さな民からの発想』(時事通信社、1982)
     『スラウェシの海辺から』(同文舘、1988)
     『エビと日本人』(岩波書店、岩波新書、1988)
     『グローバル化とわたしたち』(岩崎書店、2006)
市民活動:反公害輸出通報センター、アジア太平洋資料センター(PARC)、ODA調査研究所などNGO活動の中で日本、アジアの環境問題に取り組んできた。
パプアとのかかわり:1993年2月以降20回にわたって渡航。滞在日数は260日ほど。ジャヤプラのNGO村落発展財団(YPMD)の世話になっている。




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