【大村一朗のイラン便り】

No.9  バム震災1周年を訪ねる

▲共同墓地。一周忌にテヘランから訪れた遺族。
▲共同墓地。家族が寄り添う墓表が目立つ。
▲再建された学校はまだ一校しかなく、
ほかはコネックスを教室代わりに利用 している。
▲コネックスとテントを併用し暮す人々。
▲崩れ落ちたアルゲ・バム。
▲ユネスコは見放さなかった。
▲バザールのコンテナ店舗。
 震災1周年を翌日にひかえた2004年12月24日、私は妻と2人、バム市郊外のアルグ広場に降り立った。テヘランから約1200キロ。20時間に及んだバスの旅だった。
 市の中心部へ向かう乗り合いタクシーに乗り込むと、車窓には、半壊して今も無人のままの商店や、全壊してレンガの小山と化した家々、ぺしゃんこに押しつぶされた乗用車など、まるでつい昨日大地震が起こったかのような生々しい光景が、南国にふさわしいナツメヤシの木々が生い茂るジャングルを背景に延々と続いた。
 バム市はイラン南東部ケルマン州にあり、ホルマと呼ばれるナツメヤシの甘い実とオレンジが産地の小地方都市である。この町の名が以前から世界的に知られているのは、町の郊外に残るアルゲ・バム(バム城砦)遺跡のおかげだ。南北約600メートル、東西約450メートルの要塞都市は、およそ200年前には放棄され、今は「死の町」の異名を持つ無人の廃墟である。遺跡そのものは2000年近い歴史を持ち、様々な時代の暮らしぶりや交易の様子を伝える貴重な文化遺産として、ユネスコの世界遺産候補にノミネートされていた。そんな矢先の2003年12月26日(イラン暦10月5日)、マグニチュード6.5の地震がこの地を襲い、近隣の集落も含めた人口の3分の1にあたる約4万5000人もの人が亡くなった。世界遺産候補アルゲ・バムも無残に崩れ落ちた。
 町の中心エマーム広場でタクシーを降りると、鉄筋コンクリート作りのため全壊を免れたビルが表通りに多く残されていた。今日は休日なのでどこも閉まっているが、多くの建物の鉄筋がひしゃげ、いつ上階が崩れてくるか分からない。全壊したビルも少なくなく、歯が抜けたようにところどころ建物の代わりに列車のコンテナが店舗として置かれている。
 裏通りへ入ると、沙漠のように砂の積もった小道の両脇に、家の門だけが点々と並ぶ。塀も人家も崩れ去り、門構えだけが倒れずに残ったらしい。その門をよりどころにするかのように、コネックスと呼ばれる仮設住宅が小道に沿って並ぶ。バムでは8割の家屋が全壊したと言われている。表通りの半壊の商店を2割とすれば、きっとその8割がもろい日干し煉瓦で作られた民家だったのだろう。ジャングルの小道をどこまで行っても、全壊を免れた民家は見当たらなかった。イラン赤新月社のロゴが入ったテントとコネックスを併用し、人々は復興とは程遠い生活を今も続けていた。
 15人の親族を震災で亡くしたという老婆は、テントをアフガン人に賃貸しし、息子と2人でコネックスに暮していた。かつての住居である瓦礫の山を前に、何よりも早く家を再建させたいと訴えるが、その目処はまったく立っていないという。
 町の誰もが私の質問にこころよく答えてくれた。家族をひとりも失っていない世帯はほとんどないといってよかった。コネックスを支給された時期は世帯によって差があり、震災半年後がもっとも多く、中には2ヵ月、3ヵ月前にようやく支給され、それまでテント暮らしを強いられていた世帯もある。コネックスはトタン屋根の箱型住居で、広さは8畳から12畳ほどと何タイプかある。電気と水道は通っており、ガスはおのおのプロパンガスを使用している。1世帯1コネックスが基本のようだ。瓦礫の中から絨毯や壊れていない家財道具を拾い出し、コネックスの中は感心するほどきれいに整っている。しかし内部は、夏は暑く、冬は寒い。私を招いたコネックスの家人は、「こんなものが生活と言えるかい?」と忌々しそうにコネックスの壁をこぶしで殴った。
 みな一様に、家の再建こそが今一番必要なことだと言い、まるで合言葉であるかのように「政府は何もしてはくれない」という結論に達する。職を失い、男手を失い、多くの世帯に安定した現金収入がない今、自力で家を再建するのは不可能に等しい。積もり積もった苛立ちは、倒壊したかつての我が家を毎日のように目の当たりにすることで拍車がかかるのだろう。
  「政府の発表では犠牲者数は4万5000人ほどだが、実際には6万か7万は下らないはずだ。こんな小さな町だからみんな見知った顔ばかりだが、どこに行ったのか、今では見かけなくなった人がたくさんいる。みんな死んでしまったのだろう」
 死亡者数はもっと多いはずだという意見は多くの市民から聞いたが、それを確かめる根拠はない。町が閑散としているのは、他の町に住む親族を頼ってバムを離れていった人が多いせいもあろう。ただ、住民登録されていないアフガニスタンからの不法就労者などがそもそも犠牲者数に含まれていないばかりか、遺体が掘り起こされもせず、まだ地中に埋まったままという恐ろしい噂も聞く。
 その晩は、震災後も細々と営業を続けていたというバムで唯一のゲストハウスに部屋を取ることができた。
 昼間はテヘランの装いでは汗ばむほどだったが、夜間の冷え込みは思いのほかきびしい。頭から被った毛布は埃っぽく、1年経った今でも重く砂塵を含んでいる。地震が襲ったのは午前5時26分。この暗闇と寒さが、一体どれほど人々の絶望に拍車をかけたことだろう。

 郊外にある共同墓地「ベヘシュティ・ザフロー(花の楽園)」は朝から墓参客の姿であふれていた。今日、ここで震災1周年の慰霊祭が行なわれる。この霊園はもともとイラン・イラク戦争の戦没者やその家族のためのごく小さな共同墓地に過ぎなかった。墓地から向こうは沙漠が広がり、震災後はその沙漠に向かって拡張に拡張が重ねられた。今はバム市街の震災犠牲者1万人近くがこの霊園に眠っている。
 墓のひとつひとつの大きさが胸を打った。ゆうに車1台分はありそうな巨大な墓がほとんどで、それより小さな墓を見つける方が難しい。それらは家族、親族が揃って眠る墓なのだ。この震災での犠牲者は、重いレンガ作りの建築様式が災いし、ほとんどが家屋崩落による圧死だったと言われている。一室で寄り添い眠る家族が一瞬で犠牲となったのだろう。
 午前10時頃には、イラン全土から集まった数万人の遺族たちが霊園に押し寄せ、あたりは一面、悲鳴に近い嗚咽に包まれた。うつむきながら墓石をいとおしげに撫でる遺族の姿に胸が熱くなる。ぼろぼろ涙を流しながら取材するイラン人記者もいる。赤新月社の軽トラックが花を配ってまわり、上空からも警察のヘリコプターが花を撒いた。
 一方で、外国人である私に気軽に声をかけ、お供え物のお菓子や果物を勧めてくれる家族も多い。写真を撮っていいかと訊く私に、どうぞどうぞと墓石とともに親族一同で並んでくれる。
 昼前、ますます混雑を極めてゆく霊園をあとにし、午後はまた小道や裏通りを歩いてまわった。震災1周年という、忌まわしい記憶を思い出させる日にもかかわらず、すれ違う誰もが笑顔で挨拶を返してくれる。車もバイクもクラクションを鳴らし、手を振って通り過ぎてゆく。
 夕暮れどき、半壊の民家の屋上で布を結びつけた竹ざおを振り回す男の姿に足を止めた。その上空には鳩の群れが飛び交い、明らかに男が振り回す竹ざおの動きに反応していた。彼は、屋上から私たちの姿を見つけると、鳩を見においでと手招きした。
 メフディーさん、32歳。彼の2階建ての自宅はすっぱりと右半分だけが崩れ落ちていた。敷地内に置かれたコネックスには身重の奥さんと、ケルマンやザヘダンといった近隣の町から今日のために訪れた親戚が集まっていた。そのなかでひとり終始穏やかな笑みを浮かべている優しそうな青年がいた。その青年は、両親と3人の姉妹、4人の兄弟をすべて震災で亡くし、彼ひとりが生き残ったという。彼のような震災孤児はかつて6000人ほどおり、現在そのほとんどがすでに遠い親族などに引き取られたが、それでもまだ数百人がケルマン市の孤児院で暮らしているという。
 メフディーさんは、サントゥールというイランの伝統楽器のプロの演奏家で、私と妻のためにすばらしい演奏を披露してくれた。そのうえ夕食までご馳走になり、すっかり長居してしまった。別れ際、彼はひとつ頼みごとがあるのだがとおずおずと申し出た。
 「君が日本に帰る際、お願いしたいことがあるんだ。もしまたイランに戻ってくるのなら、そのとき日本の鳩の雛を雄雌で一組、持ってきてもらえないだろうか」
日本からビザを送ってくれないかという申し出をこれまで耳にタコができるほど聞かされてきた私には、彼のリクエストは「かわいい」とさえ思えた。屋上の鳩小屋以外にも、敷地内には病気の鳩の治療小屋を設けられている。新聞の切り抜きを出してきたかと思えば、予想通り鳩に関する記事である。そして、海外の伝書鳩のレースについて熱っぽく語る彼に、他にもきれいな鳥、美しく鳴く鳥はいっぱいいるのに、なぜ鳩なんですか?と私は訊いた。
 「鳩たちが飛び立つ瞬間が好きなんだ。大空へ向かって一斉に飛び立つとき、自分の日常の悲しみやつまらない思いまで一緒に空へと飛んでいってしまう気がするんだ」
 何年もかけて築き上げてきたもの、それは財産であったり家族の絆であったりするが、そういったかけがえのないものが一瞬で崩れ去り、消えてしまうという点では、自然災害は戦争と何ら変わりがないのかもしれない。唯一、戦争と違う点は、ここに憎しみが存在しないことではないか。そうでなければ、この町の人々の優しさや理性は理解できない。互いの悲しみや絶望を思いやりながら、かれらはこの1年を過ごしてきたのだろう。

 最終日、まだ訪ねていなかったアルゲ・バム遺跡へ向かった。拾った乗り合いタクシーの運転手の青年は、道中熱心に遺跡の歴史を説明してくれた。ずいぶん詳しいんだねと私が言うと、この町の人間なら誰でも知ってることさ、と照れもせず答えた。そして遺跡の入口で私たちを下ろすと、運賃を受け取らずに去っていった。
 町の誇りであるアルゲ・バム遺跡は、しかし、無残としか言いようのない状態だった。城塞は崩れ落ち、こころときめく迷宮のようだった城内の市街地は、瓦礫の荒野と化していた。もはや城内を自由に探検することも叶わず、見学者のために設えられた1本の木道を往復することしかできない。世界遺産は見る影もなかった。
 気の遠くなるような修復作業を横目に、私たちがそこから立ち去ろうとしたそのとき、遺跡の入口の石柱に、黄金のプレートがはめ込まれようとしていた。守衛の青年が、それがユネスコの認定章であることを教えてくれた。2004年6月2日、アルゲ・バムは「危機に瀕した世界遺産」として認定されたのだという。町の人へのせめてもの救いである。
 初日にタクシーを降りたエマーム広場は、今日からまた日常の賑わいを取り戻していた。コンテナや半壊の店舗でたくましく商う人々、そしてこの2泊3日に出会った人々のことを思うと、この町がアルゲ・バムのように廃墟と化すことはありえず、生き残った以上生きていかねばならない人々の手によって、再び完全によみがえる日が来るだろうと確信する。それは遠い道のりだろうし、外部からの援助なくしては容易なことではないだろうが。

No.10 2006FIFAワールドカップドイツ アジア地区最終予選 日本−イラン戦 観戦記

 3月21日、ヒジュラ太陽暦を暦とするイランでは、閏年を除けば毎年この日に新年を迎える。1384年の正月は、新春の名にふさわしい、梅もほころぶ暖かな日差しとともに訪れた。人々は真新しい服で親戚まわりをし、子供たちはお年玉の金額に胸ふくらます。テレビでは、外国映画が目白押しだ。
 今年は、その晴れやかな正月休みに、ワールドカップ・アジア地区最終予選日本戦という大イベントが加わった。かつて日本のアニメ『キャプテン翼』が国民的人気を博したほどのサッカー大国である。町を歩けば日本戦の話題には事欠かない。誰もが無邪気に「イランが勝つ!!」と私を挑発した。
 年が明けて4日目、試合前日の24日のこと、わたしは日本、イラン両代表チームが公開練習をしているというアザディ・スタジアムへ足を運んだ。

◎ イラン3、日本0、おしん7
 アザディ・スタジアム正門は、100人を超す一団がイラン国旗を振り回し、騒然とした空気に包まれていた。バスを降りた私に矢のような視線が降り注ぎ、瞬く間に取り囲まれてしまう。
「日本人か?」
「そうだが」
「おー!ツバサがが来たぞ!」「ツバサだ、ツバサだ!」「ナカタは来てるのか?」「ナカムラは来てるのか?」と一瞬にしてモミクチャにされてしまった。 「2人とも来てますよ」
「おしんは?」
「おしんはちょっと……」
 イランでの『おしん』放映はもうかれこれ20年近く前のことになるが、どう考えても『おしん』を観ていない世代でさえ日本人と見ると『おしん』を口にせずにはいられないらしい。『おしん』は1つの伝説なのである。
 小学生の坊やが「イランと日本どっちが勝つ?」と下から見上げるように聞いてくる。彫りの深い、ただでさえギラリと光る無数の眼に囲まれて、わたしはつい言いよどむ。それをいいことに「2−0でイランだよ」「いいや3−0」「3−0だな」。誰もが日本に1点も入れさせたくないらしいのが癪に障る。
「1−1」だ、と私。
 中途半端な答えに一同顔を見合わせる。
「アウエーで同点ってことはつまり、日本の方が強いってことさ」
「ナニィィィィ!!」とまた全員がいきり立ち、不毛な点数の言い争いが始まる。1人が叫ぶ。「イラン3、日本0、おしん7!」。どっと笑いが起きる。なぜかこれには誰も反論しなかった。
 彼らはみなイラン代表選手の公開練習を観に来ていた。今はまだ日本代表が練習中で、中に入れてもらえない。待つことが苦手な若者たちにとって、私という存在は格好の暇つぶしとなった。
「カワグチが指を骨折したらしいけど、楢崎ってキーパーはどうなの?」
「サントスは今回来てるのか。レッドカード2枚もらったはずだけど」
「シンジョウも来てるのか?」
 新庄? 新庄は確か野球の……。
「違うよ、シンジ オノだよ!!」
 さすが練習を見に来るだけあり、対戦相手の選手のことまでよく知っている。
 17時半、1台の大型バスが見えた途端、彼らの興奮は最高潮に達した。イラン代表選手を乗せたバスがようやく到着したのだ。手を振り、国旗を振り、絶叫する若者たち。
「イランの選手が到着したってことは、もうすぐ日本の選手が出てくる頃だな」
「そうしたらどうなっちゃうんだろう。怖いなあ」
「バスを襲ったりしないか心配してるの? 大丈夫だよ。そんなことするんだったら、真っ先に君を血祭りに上げてるよ」
 30分後、練習を終えた日本の代表選手を乗せ、大型バスがスタジアムから出てきた。バスを取り囲んだ群衆は声を揃えて「イラン! イラン! イラン!」と拳を突き上げながらも、スモーク・ガラスの奥にヨーロッパリーグで活躍するナカタやナカムラといった馴染みの選手の顔を見つけようと必死になっている。その横顔に邪気はまったく感じられない。
「明日もこんな風に友好的でいてくれるの?」私の問いに隣の男は答えた。
「明日かあ。さあね、それは神のみぞ知る、だ」

◎ 祭りはすでに始まっていた
 いよいよ試合当日を迎えた。今日は午後、現地日本人会とともに団体バスでスタジアム入りする予定だったが、朝のスタジアムの様子が見たくて一足先に出かけることにした。
 スタジアムへは、直通のミニバスがテヘラン市街のあちこちから出ていた。運転手がイラン国旗を振り回し、「スタジアム!」と叫んでいるのですぐ分かる。
 午前10時、スタジアム前には熱狂する若者を寿司詰めにしたミニバスが次々に到着しては、車内を空にして去っていく。そこから少し離れたスタジアムまで、若者たちの途切れることのない人波が続く。道々にはタバコ、飲み物、ひまわりの種、国旗売りなどの売り子が声を張り上げ、サンドイッチを売る屋台も数軒出ている。サンドイッチ売りの男の話では、スタジアムの門が開きチケットの販売が始まったのが午前7時。一階席のチケット(1万リアル=約120円)は30分ほどで完売したという。2階席は、なんと今日に限ってすべて無料開放されているらしい(ちなみに日本人専用席は15ドルであった)。
 そんなわけで、わたしはチケットを買うこともなくボディチェックのみでスタジアム内に入場した。ボディチェックはかなり入念で、わたしは百円ライターを有無を言わさず没収された。火気厳禁らしい。数ヵ月前の韓国との国際試合で競技中グランドの韓国選手の足元に巨大な爆竹が投げ入れられ、試合中止になったという経緯もあるのだろう。
 ボディチェックだけでなく、警棒を構えた軍事警察が完全な警戒網を敷いている。ときおり調子に乗った若者たちが彼らを挑発し、警棒で追い回されている。小競り合いを遠くから眺めていると、通りすがりの若者があきれたようにぼやいた。
「日本にあんなのあるかい? 見ろよ、国民を警棒でぶちのめして……」  スタジアムの2階席に上がると、まだ10時過ぎにもかかわらずフリーの2階席までかなり埋まり、既にサポーターたちは太鼓を打ち鳴らし、早くもウェーブが観客席をぐるぐると巡っていた。わたしに気づくと、「俺の隣に座れ!」と場所を開けてくれる人も何人かいる。昨日同様とりたてて敵意や危険を感じることはない。しかしこれから始まるのは演劇やコンサートではない。サッカーだ。わたしの身の安全が保証される場所は、試合が始まってしまえば、小さく隔離された日本人用観客席だけなのかもしれない。
 昼前、押し寄せる人波をかきわけ、いったんスタジアムをあとにした。

◎ 大人げないぞイラン人!
 在留邦人日本人会を乗せた大型バス6台がスタジアムに到着したのは、午後4時過ぎのことだった。フリーの2階席にすら座れなかった若者たちが、スタジアム周辺にあふれている。男ばかり。イランではスタジアムでの女性のサッカー観戦は認められていない。ことサッカーに関してはその場の秩序が保たれなくなるおそれがあるからだ。バスに向かって若者たちが気勢を上げると、まるでサファリ・バスから野獣の群れを見下ろすかのように、企業の奥様方の顔が引きつる。イラン人との接触を極力避けるため、日本人席の真裏にあたるスタジアム入場口にバスの頭を1台ずつ突っ込ませて下車させるという、日本イラン両当局の配慮ぶりであった。
 薄暗い通路を過ぎると、西日に照らされた鮮やかな芝生が目に飛び込む。地鳴りのようなイラン人サポーターの喚声に足がすくむ。目が回りそうなほどウエーブがぐるぐる回っている。おまけに突然大音響で鳴り出すダンス音楽。踊り出すイラン人。
(朝からずっとあのテンションのまま!?)
 思わず呆然として、ついイラン人への愛しさがこみ上げてくる。
 日本人席の左右には、イラン人との無用な接触を避けるため10メートルほどの緩衝地帯が設けられている。両者を隔てる鉄パイプで組まれた柵沿いには、警官が何人も配置されている。警官の目を盗みながら、日本人の女の子に向かって手を振ったり、カメラを向けたり、手を合わせて拝むような仕草でおどけて見せる若者がいる。いつまでこんなに友好的な空気が続くのだろうか、と思っていた矢先、「バコンッ」という音とともに何かが頭上から降ってきた。水の入ったペットボトルが2階席から投げ込まれたのだ。その後も小石や棒切れなどが散発的に落ちてくる。こうした事態を予測していた日本人学校の関係者が、用意していたヘルメットを子供たちに配布する。ほかにも独自でヘルメットを持参した企業や団体も見られた。

 18:05、キックオフ。
 日本人席は、向かって右半分が青一色に統一された日本からの遠征サポーター、左半分が服装もばらばらな在留邦人という配置だ。在留邦人にも熱烈なサッカーファンはいるが、「せっかくの機会だから」的な見学派が多数を占めるのは否めない。一方で、日本から10数万円も払ってこの試合だけのために遠征してきたサポーターたち。両者の間に温度差があるのは仕方がないことだが、在留邦人側に身を置くわたしとしては、ついひとこと言い訳したくなる。ハンドマイク片手に指揮をとる3人の応援団の1人でも在留邦人側に足を運んでくれたなら、その温度差がもう少し埋まっていたのは確かである、と。 前半25分、イランに先制点を取られてしまった。イラン人たちが必要なとき以外立ち上がらない(さすがに疲れが出はじめているのかもしれない)のに対し、日本人は遠征組も在留組も総立ちで声援を送り続ける。
 日本のファインプレーやラフプレーのたびに2階席から物が降ってくるのは困ったものだった。そのうち左右のイラン人観客の挑発に中指を見せつけ睨み返す日本人も出てきた。
 後半21分、MF福西が至近距離から左足のボレーシュートを決めると、ゴールの喜びと同時に、わたしたちはハッと頭上後方を振り返る。案の定、ペットボトルやらアイスクリームやら、降ってくる降ってくる。もはや反射神経が作用するまでになってしまった。 しかしその9分後の後半30分、またもやイランFWハシェミアンのヘディングシュートが決まり、イランにリードを許してしまう。一斉に左右のイラン人観客から「ザマミロー!」の罵声の嵐とともに、上から物が……。
 グラウンドには時折、韓国戦に使われたあの手製の爆竹が投げ込まれ、10万人の喚声にも劣らない爆音と黄色い噴煙を上げている。日本人席に落とされないことを祈るばかりだ。
 日本人観客は90分間総立ちでの応援を続けたが、その願い届かず、イラン1点リードのまま試合終了を迎えた。
 イラン人観客は右手でVサイン、左手で人差し指1本を掲げ、2−1で勝利したことを日本人観客に誇示して見せ、「ザマアミロー!」「参ったかコノヤロー!」と目を剥いて挑みかからんばかりである。自分たちの100分の1の人数にすぎない相手に対して、この容赦のなさ……。
 帰りの道は大渋滞し、日本人会のバスはしばしば興奮冷めやらぬイラン人たちに取り囲まれた。相変わらず2−1と指で誇示するものもいれば、日本へ帰国するツアーバスと思ってにこやかに手を振ってくれるものもいる。
 娯楽の少ないこの国にあって、サッカー観戦は丸一日を費やし日ごろの鬱憤を晴らすお祭りなのかもしれない。だとしたら、きっと最高の祭りになったことだろう。身を切る寒さのなか、帰る足もない彼らは、もうしばらく祭りの余韻に浸っていたいのに違いない。

 その晩、空港で報道関係者や日本人サポーターたちの何人かに話を聞いたところ、試合結果はともかく、総合してイランという国に悪い印象を持ったという人には不思議と出会わなかった。もちろん上から物を投げることへの不快感や、柵越しに噛み付くように威嚇してくるイランの若者たちに「怖かった」と漏らす人も多い。しかし、アウエーでの試合やヨーロッパリーグなどの観戦経験のある60代の男性は、「あんなもんだよ。むしろきちんとしてたよ。イデオロギーとか、中国みたいな動員もなく、彼らはサッカーをわかった上でやってることだから、怖いとは思わなかったよ」と好印象を語った。0泊3日の弾丸ツアーではなく個人でやってきた29歳の男性は、「町は思ったより近代的で、空気も景色もきれいだった。バザールとかは正月休みでどこも閉まっていて残念だったけど。イラン人は友好的だったよ。試合前から『3−0』とか『2−0で俺たちが勝つ』とか結構あつかましい連中だなって思ったけど(笑)」。
 今回初めてこの国を訪れた日本人たちは、サッカーを純粋に楽しみ、イラン代表選手の強さを冷静に受け止め、かすかに感じ取った異国の空気や手触りを胸に、日本へと戻っていった。カリカリしていたのは、イラン在住ゆえついイラン人に注文をつけてしまいがちなわたしだけだったのかもしれない。


No.11 イラン大統領選挙リポート『革命から26年・イラン人の選択』その1

▲支持者に囲まれるキャルビ候補。内務省選挙本部での
立候補登録で。
1.選挙戦のハードル
 6月15日、テヘラン市街中心部にあるテヘラン大学スタジアムで、改革派のモスタフィ・モーイン候補(56)の集会が開かれた。
 モーイン候補は、かつてハタミ政権で科学技術相を勤めたが、ハタミ政権の保守派への妥協的な政策に抗議して辞任している。自由と民主化、男女同権、政治犯の釈放、そして憲法改正にまで踏み込む急進的な改革派として、現体制に不満を抱く階層から支持を得ている。イランの人口構成は25歳以下が5割、30歳以下ともなると7割を占める。1979年のイラン革命を知らず、革命の理念などどこ吹く風の若者にとって、政教一致のイスラム体制は窮屈なものでしかない。モーイン候補の選挙戦はこうした若い世代をターゲットに得票を伸ばそうとしていた。
 スタジアムの周囲は交通規制が敷かれ、治安部隊や警官が厳重な警備にあたるなか、支持者が列を成してスタジアムへと向かう。若者、特に女性の姿がやはり目立つ。モーイン候補の選挙スローガン『ふるさとよ、もう一度おまえを建設する』の鉢巻きを締めた支持者で2万5000人収容のスタジアムは徐々に埋まりつつあり、これからサッカーの試合でも始まるかのような熱気につつまれていた。投票日を2日後に控え、これがモーイン候補の最大にして最後の選挙集会である。
 ここまでにいたる道のりは決して平坦ではなかった。イランの選挙でしばしば取りざたされるのが護憲評議会の資格審査である。護憲評議会とは、国会から選ばれた法律家6人と最高指導者(現在はアリ・ハメネイ師)の裁量で選ばれた聖職者6人、計12人で構成される評議会で、国会で承認された法案をイスラム憲法に照らし合わせて審議し、拒否したり、国会に差し戻す権限を持つ。また、各種選挙の立候補者の事前審査も行ない、信仰心や現体制への忠誠度の如何によって、その資格を剥奪する権利も有する。2004年の第7回国会選挙では80名以上の現職改革派議員の立候補資格を剥奪し、その結果多くの改革派議員や改革を支持する国民が選挙をボイコットして保守派が「大勝利」したことは記憶に新しい。そして今回の第9代大統領選挙も例外ではなかった。5月10日から14日にかけて行われた立候補申請に全国から1014人(内女性89人)もの届け出があったが、護憲評議会の審査に通ったのはわずかに6人、そのなかにモーイン候補は含まれていなかったのである。
 審査を通った6人のうち改革派の候補者は、保守派に妥協的との批判もある前国会議長のメフディ・キャルビ師(68)だけで、あとは前大統領アキバル・ハシェミ・ラフサンジャニ師(71)を除けば保守派で固められていた。改革派陣営から批判が噴出したのは言うまでもない。モーイン候補を推薦した改革派最大政党イラン・イスラム参加戦線は、モーイン氏の立候補資格剥奪の根拠を早急に示すよう護憲評議会に強く要求した。
 こうした批判を受けて、翌23日、ハッダード・アーデル現国会議長が資格審査の再考を護憲評議会に促すよう、最高指導者アリ・ハメネイ師に嘆願。ハメネイ師の要請を受け、24日、護憲評議会はモーイン氏とモフセン・メフラリザーデ副大統領(49)の2名に選挙戦出馬資格を与えることをしぶしぶ承諾したのだった。
 モーイン氏の出馬資格剥奪がハメネイ師の鶴の一声で覆された背景には、国民に失望感が広がるのを食い止め、これ以上の投票率悪化を防ぎたいとのラフサンジャニ師や一部の当局者の思惑があったものと思われる。しかし、このモーイン氏の復活劇が、のちのち改革派陣営に取り返しのつかない痛手をこうむらせるのである。

2.保守派の面々
 こうして保守派4人と改革派3人、両派の中間に身を置くラフサンジャニ師の計8人による公式選挙活動が25日、スタートした。
 保守派4人は以下の通りである。マフムード・アフマディネジャード現テヘラン市長(49)、アリ・ラリジャーニ前国営放送総裁(48)、モフセン・レザイ公益評議会書記、兼革命防衛隊司令官(51)、最後にモハンマドバーケル・カリバフ前警察長官(44)である。
 保守派内で設立された調整委員会はこれまで再三にわたり、4人のなかから統一候補を擁立しようと試みていた。なぜなら、この4人のなかから大統領が選ばれ、改革派からの大統領誕生を阻止するのが至上命題だからだ。保守派はバスィジ(動員予備軍、つまり保守派傘下の民兵組織)や革命防衛軍、宗教諸財団、またそれらが運営する企業などの関係者を含め、全人口の1割にあたる約700万人の組織票を有していると言われる。4人もの候補が乱立しては、せっかくの組織票が意味をなさない。
 ところが、保守4人組の足並みはまったく揃わず、統一候補擁立は難航した。4人とも革命防衛隊出身で、年齢も近く、多感な20代前後でイラン革命を経験しているなどの共通点からか、「あいつが降りないなら俺も降りない」という意地の張り合いが多々見受けられた。選挙へのスタンス、政策なども微妙に違っており、アフマディネジャード氏は故ホメイニ師の再来を思わせる原理主義的理想を掲げ、ラリジャーニ氏はイスラム回帰に重点を置きながらも幾分ソフトなイメージを、レザイ氏は現職が革命防衛隊司令官だけありタカ派的発言を好み、カリバフ氏は自らを『実践主義者』であり『改革をもたらす保守』と形容するなど政策面では他の3者よりリベラルな発言が目立った。
 保守派が統一候補への合意を見ないまま、正式立候補届出期間がはじまる5月10日を迎えた。そこへ満を辞して現れたのがラフサンジャニ師であった。彼はそれまで各保守陣営から再三にわたり立候補を乞われながら、決断を先延ばしにしてきた。一方で国民には選挙への参加を強く促し、保守派各候補にはすみやかに統一候補を打ち立てるよう要請してきた。
 ラフサンジャニ師は1989年から97年まで2期大統領を務め、イラクとの8年戦争により疲弊した国内経済の建て直しに力を注いだ。しかし政治的民主化には関心が薄く、そのうえ一族そろって大金持ちで、収賄の噂も耐えない。そのため2000年の国会選挙ではテヘラン区から出馬したものの最下位ぎりぎりで当選を果たしている。当選結果に不満だったのかすぐに国会議員を辞職、公益評議会議長(最高指導者により任免)という要職に就任した。公益評議会は、国会で通った法案に護憲評議会が拒否権を発動し、国会との話し合いが紛糾した際、両者の調停役を果たすという役割を担っている。最高指導者の意思を色濃く反映した護憲評議会と、国民の意思を反映した行政府および立法府、この両者を調停し、ときに超越する立場にある公益評議会の議長職であるラフサンジャニ師は、明らかに大統領を凌ぐ権力を保持しており、敢えて再び大統領の座に就く必要はないように思われる。その彼がいよいよ立候補を表明した。
 「次の選挙では勝者は圧倒的な得票数で当選しなければならない」
 こうした発言から、自身が立候補するのであれば、高い投票率と圧倒的な得票数で当選を果たしたいという意向が伺える。先の国会選挙での苦い記憶からかもしれない。国民の信託を負った大統領として、欧米を相手に大きな駆け引きに乗り出すのでは、との憶測も見られた

3.ボイコット派のねらい
 こうして役者が揃い、5月25日、イラン全土で8人の候補による選挙運動が幕を開けた。テヘランには各候補の選挙本部と、主だった広場に選挙事務所が設置され、運動員は夜陰にまぎれて交通標識や公共施設にまでポスターを貼り始めた。テレビや新聞各紙でも投票日に向けた選挙企画が始まった。
 しかし、国民の関心はラフサンジャニ師の危惧を裏付けるものだった。
 「投票? なんのために投票するのさ。もしするとしても投票用紙に横線一本引いて出してやるよ」。
 市街の警備にあたっていた徴兵の若者は吐き捨てる。
 「どいつもこいつも嘘つきさ。せめて俺だけは嘘つきになりたくないからね」
 投票に行かないという人には、単なる無関心層と、積極的投票拒否者の2種類があった。後者はノーベル賞受賞者シリーン・エバディ女史をはじめ、人権活動家などが呼びかける投票ボイコットに賛同している。曰く、国民の信託を受けていない機関、役職がこの国の主権を握っている現状で、力のない大統領を選んでも意味がないというものだ。彼女たちの指す機関、役職とは、先に挙げた護憲評議会であり共益評議会であり専門家会議(選挙で選出されるがイスラム法学者に限られる)であり、国軍最高司令官(最高指導者により任免)、司法長官(最高指導者により任免)であり、また最高指導者自身(前途専門家会議で選出)である。
 しかしそもそも、この国の統治理念が国民主権ではなく、神権統治であるということかを理解しなければならないだろう。忽然と姿を消した第12代目イマームの再臨を待つ間、神の代理として聖職者がこの世を統治すべしというのが故ホメイニ師の革命思想であり、現在のイラン・イスラム共和国の根幹を成している(イランの国教であるイスラム教シーア派は、預言者モハムマドの血筋を重視し、モハムマドのいとこで娘婿のアリーを初代イマームとし、彼の直系を代々イマーム職として崇めてきた。イマームは11台目まですべてが暗殺され、多数派のスンニー派に対する反権力、反体制の象徴となった。10世紀半ばに12代目イマームは忽然と姿を消したが、それは人間には感知できない存在と化しただけであり、いつかこの世の悪を駆逐するため「再臨」すると信じられている)。
 積極的ボイコット派は、選挙での投票率を低下させることで、この国の統治者が国民の支持を得ていない、つまり合法的な統治者でないことを内外に明らかにし、国連をはじめとする諸外国に圧力をかけやすくし、最終的に国民主権を取り戻すのがねらいである。そこまでの事態に至らなくても、低い得票率で当選した大統領では、核交渉その他の席で欧米諸国に足元を見られる。ラフサンジャニ師がしきりに高い投票率と得票率にこだわるのはそのためだ。しかし、国営メディアの呼びかけにもかかわらず、国民の関心はいまだ高まる気配を見せなかった。


No.12 イラン大統領選挙リポート『革命から26年・イラン人の選択』その2

4.ハタミ政権8年の成果
『新しい思考、新しい政府、新しい政策』
『新しい風、イラン人の明るい明日のため』
『実践主義者、改革者』
『国民と、新しい言葉で』
 これらは改革派候補の選挙スローガンではない。上から順にレザイ、ラリジャーニ、カリバフ、アフマディネジャード各保守派候補のキャッチフレーズや選挙スローガンである。
 彼らの政策は、『生活水準の改善』『雇用創出』『腐敗撲滅』『社会正義』の4点が判で押したように共通しているが、原理保守派のアフマディネジャード氏を除けば、内閣への女性採用やアメリカとの関係改善、外資の積極的導入など、およそ保守派に似つかわしくない政策も掲げている。なかでもカリバフ候補は『あらゆる組織を〈改革〉し、政治的、個人的〈自由〉を保護する』とまで言い切る。
 あたかも改革派のようなこうした保守陣営の振る舞いに、当の改革派陣営は苛立ちを隠さず「国民を騙している」と非難する。しかし、裏を返せば保守派はこうした言説を唱えなければもはや選挙に勝てないという認識があるのだろう。先の国会選挙でも保守派は議席確保のため衛星アンテナの合法化やアメリカとの関係改善などを叫ばざるをえなかったという。
 ハタミ時代の8年では何も変わらなかった、というイラン人は多い。しかし果たして本当にそうだろうか。ラフサンジャニ内閣時代に初めてイランを訪れた筆者は、コミテと呼ばれる宗教警察が市民の生活をかぎまわり、欧米文化の流入阻止に当局が血道を上げているイランを見た。しかし10年経った今、若者は周囲をはばからず大音響でロックを聞き、テヘラン中心街の映画館では最新のハリウッド映画が上映される。路上で、公園で、婚姻関係にない若い男女が手をつなぎ語らう。「そんなものは本当の自由とは呼べない。本当の自由というのは……」と難しい話を始める政治青年もいるが、たわいもない日常の喜びすら禁止され、こそこそ隠れてやらなければならなかった時代の閉塞感や窮屈さが、ハタミ政権下でどれだけ緩和されたことか。
 イランの政治改革は、改革派が叫び、保守派がそれを握りつぶして自ら実行に移すと言われている。一見、改革派に力の限界があるように見えて、実はかれらの叫びが国民の意識を育て、のちのち保守派が実行に移さざるを得ない状況に追い込んでいるとは言えないだろうか。ハタミ時代の空気を吸ったものは、もはや時代が逆行してゆくことを許さないだろう。そして、不採算な国有企業の民営化、地下資源開発への積極的な外資導入、さらに選挙におけるより民主的なプロセスを謳った『選挙法改正法案』や、憲法における大統領の権限を保障する『大統領権限強化法案』(いずれの法案も護憲評議会により却下)の成立等、ハタミ時代が成しえなかった政治的、経済的改革を、いずれ保守派主導で進めていくことが予想される。

▲ラフサンジャニ師のポスターに「大泥棒」の落書き。
5.キーパーソン
 選挙活動が始まる以前から、イランでは政党や新聞社、NGOなど様々な機関が世論調査を行ない、立候補者の支持率を測ってきた。その結果はおおよそ似通ったもので、首位はラフサンジャニ師、2位を保守派のカリバフ候補と改革派モーイン候補が僅差で競うというものだ。しかし、首位のラフサンジャニ師が支持率30パーセントを越えることはなく、50パーセントの得票率がなければ当選できないことから、本番では1位と2位の決戦投票になるだろうと前々から予想されていた。
 保守派のなかで抜きん出た人気を博しているカリバフ候補は、警察関係者は政治活動を行えないという法律により、警察長官を辞任して立候補に及んだ。長官在任中は警察のイメージ改善に努め、イランで初めて婦人警官を採用している。いかなる派閥、政党にも属さず、右でも左でもない『実践主義者』であると自称。最有力候補であるラフザンジャニ師との対決姿勢を立候補当初から明確にしている点など、他の保守系候補者と一線を画してきた。
 カリバフ氏もモーイン氏も、最初の投票でラフサンジャニ師に勝つ見込みは薄い。しかし、決戦投票に及んだ場合、両者ともラフサンジャニ師の得票を上回る可能性が十二分にあった。というのは、決選投票になれば保守派700万の組織票がカリバフ氏に集中するの確実で、それに彼自身の人気票を加えればラフサンジャニ師を凌駕することも不可能ではない。モーイン氏の場合は、最初の投票をボイコットした層が決戦投票では重い腰を上げ、彼に一票を投じる可能性が高い。
 ある学生はモーイン氏への投票動機をこう語った。 「モーインははっきり言って大統領の器じゃない。どうせラフサンジャニが当選するよ。でも僕はモーインに入れる。ラフサンジャニに高い得票率で当選してほしくないんだ。だっておかしいと思わないか? 国会選挙で最下位ギリギリで当選したやつがどうして大統領になれるんだ?」
 ハタミ政権の改革が保守派の抵抗で実らなかったため、モーイン氏の改革路線にも懐疑的な若者は多い。それでもラフサンジャニ師よりは「マシ」と考える人はもっと多いに違いない。
 そのラフサンジャニ師は、選挙を意識してか最近めっきりリベラルな発言が多くなった。ニューヨーク・タイムズのインタビューに対しては、『イスラムの教義では、本来個人の生活の領域にまで踏み込んではいけない。人々の生活の秘密まで暴いてはいけない。人々は心の安寧と安全を感じ、追求できるというのがイスラムであるべきだ』と答え、AFPに対しては『衛星放送ともインターネットともたたかうことはできない(衛星放送合法化やネット検閲に言及したもの)』と答え、イランでも大きく報道された。いつしか改革派寄りの新聞はラフサンジャニ師を保守派候補とは離し、改革派候補の写真と同列に並べるようになっていた。
 もっとも、彼の発言を鵜呑みにするほどイラン人はバカではない。イラン学生通信のインタビューで『国民はあなたのことを大富豪だと思っているようですが』と訊かれ、『わたしはコム(テヘラン南部の宗教都市)に小さな土地を持っているだけですよ』と平然と答えるタヌキぶりである。
 ただ、彼の経験と政治手腕だけは認めるという人は多い。自身のテクノクラートで石油省などを押さえているラフサンジャニ師は、地下資源開発や老朽化した石油施設のメンテナンスに対する外資の導入に積極的で、その点では経済自由化を求める改革派とともに、外資導入を嫌う保守派に対抗してきた。
 イラン経済は石油収入に頼りすぎており、そうした構造から脱却すべきなのは言うまでもない。しかし、その石油収入さえアメリカのイラン・リビア制裁法によって危機的状況を招いている。自国の技術だけでは油田開発は進まず、アメリカ製のパーツ無しでは老朽化した石油施設も修繕できない。そのため自国内で必要な石油まで精製する余裕がなく、原油を海外に売って、精製されたものを買っているという現状だ。
 アメリカの制裁は、イランへの航空機や部品の提供も禁止しており、日本やヨーロッパ諸国もアメリカ市場での制裁を恐れ、右にならえを決め込んでいる。そのためイランは、老朽化した旅客機などの保守点検を海外で行ない、闇市場での部品調達を余儀なくされている。国内線の航空機事故は多く、ハタミ大統領はこうしたアメリカの制裁措置は無辜な国民の命を奪うものだと強く非難している。WTOへの加盟申請も5月26日にようやく始まったが、これも過去9年にわたり23回もアメリカの拒否にあって実現しなかったものだ。
 アメリカとの関係改善は、ラフサンジャニ師だけでなくほとんどの候補が政策のひとつとして挙げているが、欧米が交渉相手と見込んでいるのはラフサンジャニ師ただ1人だろう。

▲モーイン支持集会を後にするイブラヒム・ヤズディ元外務大臣。
▲「ヤーレ・ダベスターニー」を合唱するモーイン支持の若者。
6.モーイン陣営の闘い
 『今回の参戦の主な目的は、自分たちの国が今どうなっているのか気づいていない50パーセントのイラン人を守るためである』
 モーイン氏と、その支持母体であるイラン・イスラム参加戦線やイスラム革命戦士協会は、投票ボイコットではなく、あくまで選挙で勝ち、現体制下つまり憲法の枠内で政治を変えてゆくことを選んだ。かれらの指摘するポイントは、投票ボイコット派と同様、選挙で選ばれない個人、機関へ権力が集中していることへの批判である。
 『護憲評議会の干渉と、行政が法を実行できないことが憲法の抱える問題である』
 モーイン氏のこの発言は、ハタミ政権が断念した『大統領権限強化法案』の趣旨をまさしく受け継ぐものであるが、かれらは一歩進んで憲法のタブーにも言及する。
 『自分はイスラム憲法に忠誠を誓うが、それは憲法に意見を持っていないということではない。憲法にはあいまいな点がいくつかある。そのひとつに、大統領の権力範囲とその責務とのつり合いの問題がある』
 モーイン氏が〈急進的改革派〉と呼ばれる由縁は、イスラム憲法のタブーに果敢に挑戦するからだけでなく、『イラン国民は独裁者を必要としていない』などといった過激な発言にもよる。
 モーイン候補の支持集会でボランティアをしていたコンピューター技師の青年(29)はモーイン氏のこうした発言も支持すると言った。
 「宗教指導者は政治に関わらないでほしい。宗教的に暮らしたい人はそうし、そうでない人はそうする自由があるべきだ。父親たちの世代はイスラム革命の理念を望んだかもしれないが、俺たちは違うんだ」
 イランでは、名指しで最高指導者を非難することは禁止されている。しかし、『独裁者』が誰を指しているかは明白だ。モーイン支持者はその報いを共有しながらここまで闘ってきた。
 「みんな襲撃を恐れて早めに会場を出るのさ」
 スタジアム入口で警備にあたっていたボランティア(モーイン支持者はすべてボランティア)の会社員男性(39)は、演説半ばで出口へと向かう人の流れを指差して言った。これまでモーイン候補の支持集会はたびたび暴徒の襲撃を受け、頭蓋骨骨折の大怪我を負った支持者もいる。この会社員も一昨日路上で襲われ、足に痛々しい傷を負っていた。
 演説を終えたモーイン支持の有力者がスタジアムを去るときは、暴徒の襲撃から守るため、若者が手をつないで大きな人の輪でその有力者を囲って車まで送り届ける。
 「今はまだ安全だ。集会が終わって外へ出たら、気をつけた方がいい」
 スタジアムの外では無数の警官が警備についていたが、「やつらはあてにできない」という。
 モーイン候補の演説で集会が幕を下ろすと、観客席にいた支持者がグラウンドに降り、大騒ぎになった。かれらは手と手をつなぎ、気勢を上げる。誰かが歌い始めた歌が、いつしか大合唱に変わった。

学友よ
君は僕らと共にある
鞭が僕らを打ち据え、嗚咽と痛みがこみ上げる
黒板から僕と君の名は消されてしまった
不正と弾圧の手は残り、僕らの身には未開の荒地が広がるだけだ
僕らはみんな雑草だ
善人のままでは死んだも同然
僕と君の手でこのカーテンを引き裂かなくてはならない
僕と君以外の誰がこの痛みを癒せるというのか
学友よ

 『ヤーレ・ダベスターニー』という、革命前から若者たちに歌い継がれている歌で、今は反体制を象徴する歌となっている。警官が立ち入らないこのスタジアムのなかで、かれらはいつまでも繰り返し歌い続けた。
 スタジアムの外に出ると、治安部隊の兵士が警棒片手にずらっと待ち構えていた。その警棒は必ずしも暴徒襲撃に備えたものではないことがまもなく判明する。集会のあったスタジアムからまっすぐ南へ向かえばエンゲラーブ広場があり、その道は学生デモのお決まりのコースなのである。治安部隊は南へ向かう若者たちを途中の十字路でさえぎり、エンゲラーブ広場へ向わないよう左折を迫る。抵抗を示す者には容赦なく警棒が飛ぶ。そのたびに女学生が「治安部隊は味方!味方!」と声を揃える。
 この日、当選の可能性が薄いといわれた保守派のモフセン・レザイ候補が立候補を辞退した。残る7人の候補はそれぞれイラン全土に散らばり、最後の演説とともに長かった選挙運動に幕を下ろした。


No.13 イラン大統領選挙リポート『革命から26年・イラン人の選択』その3

▲テヘラン大学前の路上に設けられた投票箱。
7.改革派、敗れる
 6月18日午前9時、開票結果を待つモーイン候補の選挙本部はどんよりと重苦しい空気に包まれていた。選挙運動員や新聞記者たちが集まっていたが、昨夜は誰も一睡もしていない。チャイとヌンとチーズだけの簡単な朝食をつまみながら、これまでの開票結果について疲れた表情で議論を交わしていた。
 まだ半分ほどしか開票されていなかったが、結果は思いがけぬものだった。首位は予想通りラフサンジャニ前大統領だが、2位を争そうと思われていたモーイン候補とカリバフ候補が4位、5位と低迷し、これまでの世論調査でほとんど上位に登ったことのないキャルビ師とアフマディネジャード候補が接戦で首位のラフサンジャニ師を追い上げていた。
 「なぜなのかわからない。アフマディネジャードは何かしたかもしれない。例えば偽造身分証を使って複数回投票させたり、もともと投票箱に彼の票を仕込んでおいたり、もちろん何の証拠もないよ。でも保守派候補のなかでさえ彼の人気は低かったんだ。やっぱりこの結果はおかしい」
 モーイン支持の日刊紙「エクバル」の若い記者は憤る。
 「国民は体制が変わることを望んでいたはずだ。この選挙の結果によって、特にアフマディネジャードが当選するようなことにでもなれば、誰もがおかしいと感じ、より一層の体制変換を望むだろう」
 その日に乗ったタクシーの運転手もモーイン候補に投票していた。しかし、彼はモーイン候補の『独裁者は要らない』といった発言などは知らなかった。はたしてモーイン候補やその支持者の声はどこまで普通の人々の耳に届いていたのだろうか。
 その日の夕方、開票結果が明らかになった。投票率は62%と予想を上回り、得票率はラフサンジャニ師21.8%で首位、保守強硬派の現テヘラン市長アフマドィネジャード氏20.1%、穏健改革派のキャルビ前国会議長18・2%、そして上位3位を占めると予想されたカリバフ前警察庁長官と改革派のモーイン元科学相はそれぞれ14.5%と14・3%に留まった。
 キャルビ師とモーイン氏の両方が決戦投票行きを逃したことで、改革派陣営の落胆は大きい。特に終盤で突如2位から3位に転落したキャルビ陣営の落胆と疑心は激しく、『票の入れ替えがあった』と不正を訴え、最高指導者ハメネイ師に票の再集計を求める要請を出した。
 両者は声明のなかで、アフマディネジャード氏に近い保守派動員組織バスィジや革命防衛隊、また保守派寄りの選挙監視機構の干渉があったと指摘。モーイン氏も『弾圧』と『ファシズムの危険』があると警告した。
 護憲評議会は20日、キャルビ陣営からの要請を受け入れ、テヘランなど主要4都市の投票箱を無作為に100個選び、その開票結果を調査した。しかし、不正行為の証拠となるようなものは何も見つからず、これによりラフサンジャニ師とアフマディネジャード氏の決戦投票が24日に行なわれることが決まったのだった。
 日刊紙「エクバル」を訪ねると、イラン・イスラム参加戦線・党中央委員会委員長のハディ・ヘイダリ氏が迎えてくれた。建物には受付の男性と、他1名しか見当たらない。「エクバル紙」と、キャルビ師寄りの日刊紙「オフトーベ・ヤズド」は昨日発禁処分を受けていた。キャルビ師が最高指導者ハメネイ師に出した、票の再集計を嘆願する手紙に、ハメネイ師の息子が特定の候補を支持していたことへの批判が含まれ、それを全文掲載したかどで発禁処分を食ったのだ。発行再開の目処はまだ立っていないという。
 「改革派は(ラフサンジャニ師を含めて)全部で1600万票、保守派は1200万票。改革を求める人間の方が多いことははっきりしているんです。結局、彼ら保守派はアフマディネジャードに組織票を集めることに成功したんですよ」
 改革派はキャルビ師とモーイン候補で票が真っ二つに割れてしまった。一方、保守派はアフマディネジャード氏に票を集めることに最後の最後で成功した。その方法はバスィジや革命防衛隊を全国に放って金品をばらまいたとキャルビ師が批判しているが、真実は明らかではない。だが、仮にそうした不正があったとしても、保守派1200万票は組織票700万票に比べて多すぎる。
 「我々は決戦投票に向け、党を挙げてラフサンジャニ師を支持することに決めました。もちろん、本心じゃない。でも、アフマディネジャードを当選させるわけにはいかないんです」
 ―ラフサンジャニ師が当選し、もし彼の内閣にモーイン氏や参加戦線党首レザー・ハタミ氏が招かれたら、受けますか?
 「受けますよ。党をあげて支援する以上、ラフサンジャニはそうせざるを得ないでしょう。政治ですから」
 経済自由化を求めるラフサンジャニ師を大統領に、改革派からは大物人権派が閣僚に加わる。あるいはそれも悪くないかもしれない。

8.民衆の心理
 『我々の究極のゴールは、すべてのイスラム規定が固く守られるイスラム政権を樹立することです』
 アフマディネジャード候補は選挙戦のさなか、ひたすらイスラムの価値、イスラム革命の理念を説き続けた。曰く、『イスラムは完全な宗教である』『イスラムこそが真実の繁栄を導く』『イスラム政府の義務は正義の確立』……。具体性に乏しかったが、正義と平等というメッセージは、貧困層の胸にダイレクトに届いていたのかもしれない。特に記憶に残ったのは、『人は貧困には耐えられるが、差別と不公平には耐えられない』という言葉だ。
 26年前のイラン・イスラム革命は、もともとは王制打倒が民衆の目的であり、イスラム政権樹立は革命後の権力闘争の産物だと言われる。当時はオイルショックによって産油国イランに未曾有の好景気が訪れていた。社会は急速に財を成してゆく者と、その機会すら与えられない大多数の貧困層とに二分された。貧困層は、時代に取り残される孤独と、アメリカからもたらされる俗悪な文化への敵意、そして自分たちの伝統と文化が失われてゆく不安を募らせ、革命へのエネルギーへと昇華させていったのだ。
 テヘラン中心街ハフテ・ティール広場そばのアフマディネジャード選挙本部を訪ねてみた。喪服のように上下黒で固めた男達に混じって僧侶の出入りも激しい。テヘラン州の選挙対策責任者レザー・ハー氏が答えてくれた。
 「これまでの政府は石油やガスの売買だけに熱心で、それによって潤うのはわずか2500人程度の関係者にすぎなかった。アフマディネジャードの政府は全人口7000万人のための、民衆の政府なのです。石油やガスは神からの贈り物なので、すべての国民にその利益を還元しなければなりません」
 ―どのように還元するのですか?
 「例えば、国民がいま必要としているものをよく検討し、そこに投資します。特に、若者が抱える諸問題の解決が先決です。一例ですが、イランには5100万ヘクタールの耕作可能な土地がありますが、実際に開墾されているのはわずか900万ヘクタールにすぎません。残り80%にあたる4200万ヘクタールを開墾する事業に石油収入と無職の若者を投入するという案もあります」
 これまで一次投票でアフマディネジャード氏に投票したという若者に会うと、必ず「アフマディネジャードはどんな人?」と私は訊いた。返ってくる答えは決まって次のようなものだった。
 「いい人さ。テヘラン市長なのに生活は質素で、家も下町にあって小さくて、僕らと変わらない生活をしている。お昼ご飯はいつもお弁当を自宅から持ってくるんだ」
 下町の宗教的な家庭で育った子供たちでなく、繁華街でたむろして、女の子が通るたびに冷やかしているような悪がきでさえこう答える。
 アフマディネジャード候補は「民衆」の心をうまく捕らえていた。

▲決戦投票前、路上集会で激論を交わすラフサンジャニ
支持者とアフマディネジャド支持者。
9.希望の灯
 22日、日刊紙「シャルク」は決戦投票を翌々日に控えたその日の朝刊で、改革派支持派に街へ出て議論しようと呼びかけた。開始は夕方6時、場所はテヘラン市街の5つの広場が指定された。
 ヴァリアスル広場ではほぼ時間通り、6時過ぎから人が集まり始めた。どこかで議論が始まると周囲に人垣ができ、その人垣の誰かと誰かがまた議論を始める。あちこちに10人程の人垣が自然に生まれ、それを見た通行人がまた集まり、いつしか広場の東と西にそれぞれ500人は下らない群集が出来上がっていた。「シャルク」紙が紙上で呼びかけたのはラフサンジャニ師とモーイン氏の支持者だけだったが、そこにはほぼ同じ数のアフマディネジャード支持者までが集まり、さらに議論をエスカレートさせていた。公式な政治集会ではなく、新聞社が呼びかけた、広場という公共スペースでの自由集会だからこそ成り立つ光景なのだろう。互いにまったく思想の違うもの同士が、いたるところで、誰はばかることなく自分の信条、国の将来について話し合い、思いを吐露している。それは感動的な光景だった。
 外国人である私を見つけて話しかけてきたのは21歳の学生だ。 「僕は1回目の投票には行かなかったけど、決戦投票は行くよ。アフマディネジャードが大統領になったら26年前に逆戻りだからね」
 24歳の新聞記者の女性も真剣な顔で言う。
 「あたしはアフマディネジャードが本当に怖い。ラフサンジャニは大嫌いだけど、最悪よりはマシな選択だわ」
 それを聞いた青年が返す。
 「静かで、穏やかな生活が一番じゃないか。僕は宗教と伝統を大事にしたい」
 夜9時を過ぎても激論集会は終わらなかった。始めるのも、終わらせるのも、人々の意思である。今日の集会が終わっても、今日の日のようなイランがずっと続いていくことを祈りたい。

 24日、決戦投票が行なわれ、翌日開票結果が明らかになった。
 総投票数27,959,254票 投票率56%
 マフムード・アフマディネジャード 17,248,782票 得票率61.6%
 アキバル・ハシェミ・ラフサンジャニ 10,043,489票 得票率 35.9%

 アフマディネジャード政権は9月より始動する。
 26年前、故ホメイニ師が弱者、被抑圧者の救済を掲げて立ち上げた革命政権は、その翌年のイラクのサダム・フセインによるイラン侵攻で急遽戦時体制を余儀なくされ、革命の理想は置き去りにしたまま8年の戦争に突入した。戦後の復興を終え、体制が安定した今こそ革命の理想をよみがえらせようというのがアフマディネジャード氏の本意であるなら、それは興味深い試みである。4年後の選挙が答えを用意しているだろう。


No.14 イラン核問題 情報操作といじめの構造

 2月初旬、前期試験が終わったばかりの閑散としたキャンパスで、偶然クラスメートのひとりハサンと出くわした。彼は私を見ると、にやりと笑って口を開いた。
 「サラーム、元気か? 昨日、日本は賛成票を入れてくれたなあ。日本人ってのは、ちょっと昔に原爆落とされたこと、もう忘れちまってるのか?」
 昨日2月4日のIAEA(国際原子力機関)の緊急理事会において、日本を含む27ヵ国がイラン核問題の安全保障理事会への付託に賛成票を投じた。「安保理への付託」という言葉は、3年前アメリカによるイラク開戦に道を開いた安保理決議1441を連想させるように、これまで数年にわたってイランへの脅し文句であった。それがとうとう現実になってしまった。もちろん、そこで即イラン攻撃が審議されるわけではない。まずは経済制裁からじわじわと始めることになるだろう。いずれにしても、これまでIAEAの枠内の問題であったイラン核問題が、安保理という国際舞台で料理されることになったのは、イランにとっては致命傷だ。IAEAでの協定はけっして義務ではないが、安保理での決議は、違反すればすなわち国際法違反として制裁の対象となる。
 「いいや。日本人は原爆を落とされたことを忘れてはいないよ。戦争を早く終わらせるためだったとアメリカは言うけど、結局は実験材料にされたんだ。それは1つの歴史的事実として忘れないけど、いつまでも恨んでいたって仕方ない」
 私がそう言うと、彼は鼻を鳴らすようにこう答えた。
 「そうだな。それに、原爆2発も打ち込まれて戦争にも負けて、国は米軍基地でいっぱいだけど、最後は経済で勝ったんだしな」
 彼が言いたいことはわかっていた。この世界には正義もくそもない。アメリカの言いなりになって繁栄するか、逆らって潰されるかだ。どんなにイランが正義を唱えようと、西側のメディアが伝えるのは、「世界の秩序を守るアメリカがならず者のテロ国家による核兵器入手を懸命に阻止しようとしている」という構図ばかりである。

イランの石油事情
 ハサンは続けた。
 「イランは核エネルギーの技術を獲得する権利がある。核兵器が欲しいって言ってるんじゃない。どうしてイランだけが持っちゃいけないんだ? イランの石油はあと40年ほどで枯渇してしまう。天然ガスはまだたっぷりあるけど、石油はできるだけ節約していかなければならない。そのためにも原子力発電が必要なんだ」
 イランの石油埋蔵量は、1999年時点で930億バレルとされている。採掘量は1日379万バレルほどなので、単純計算すれば約60年後に尽きることになるが、人口の増加など時とともにエネルギー消費は増すと考えれば、40〜50年後に枯渇するという計算も間違いではない。この事実は、国家財政を原油輸出による収入に頼りきっているイランにとって火急の懸案事項であり、代替エネルギーの確立とともに、石油の国内消費の節約が求められている。
 イランの抱える「石油問題」についてもう少し説明したい。まず、イランは世界第4位の原油輸出国でありながら、国内消費用の石油を大量に外国から輸入している。原油はたっぷりと出るが、精油施設の不足と老朽化のため、国内で精製された石油だけでは国内消費をまかなえず、わざわざ海外から国際標準価格で買い入れているのである。それをリッター10円ほどの国内価格で流通させるために、せっかくの原油収入を補助金として投入することになる。目下イラン政府の目標は「石油輸入中止」であり、そのために国内の精油施設の増加や改良とともに、国内消費を抑えるため正月明け(イラン正月3月21日)にはいよいよガソリンの配給制を始めることが決まっている。
 こうした背景のもと、イランは石油の代替エネルギーとして原子力発電を求めているわけだが、いつの間にか世界では「イランは核兵器製造を目論んでいる」という印象が先走っている。

伝えられないイランの主張と権利
 では、なぜ「イランは核兵器製造を目論んでいる」という欧米の主張がまかり通っているのか。そこには、明らかにマスコミの意図的な報道の仕方がある。
核問題に登場する専門用語は、一般の人には難しい。例えば、争点となっている「ウラン濃縮」という作業は何を指しており、実際どれほど危険なものなのか。そうした説明を抜きにして、「ウラン濃縮活動は国際社会への挑戦である」とか、「イランが核兵器製造につながるウラン濃縮を諦めないかぎり―」などというアメリカ政府ばりの記事を載せて、アメリカのイラン戦略の一翼を担おうとしている日本のメディアのなんと多いことか。
 まず、ウラン濃縮とは何か。天然ウランの中で、原子力発電や核兵器に利用されるウラン235の比重を高めることである。天然ウランを遠心分離器に入れると、軽いウラン235だけが中心付近に残る。この作業を繰り返してウラン235の比重を高めることが、いわゆるウラン濃縮作業である。
 ウラン235は濃縮比率に応じて、低濃縮ウラン(5%以下)、高濃縮ウラン(20%以上)、そして兵器級ウラン(90%以上)の3つに分かれる。原子力発電に必要なのは低濃縮ウランであり、イラン政府が求めているのはこれである。IAEA(国際原子力機関)の監視の下で低濃縮ウランによる核エネルギーの平和利用(つまり原子力発電)を行なうことは、世界のあらゆる国に認められた権利であり、当然、日本もIAEAの監視下でこの低濃縮作業を行なっている。イランもまた、原発のための低濃縮作業だけが目的であり、ひそかに高濃縮を行なわないようIAEAの監視を受けると表明しているにもかかわらず、世界中からこれほどの非難と圧力を受けているのはなぜか。アメリカと敵対しているからである。
 アメリカの言い分は、「低濃縮の技術を獲得すれば、いずれ高濃縮、そして兵器級ウランを獲得することも可能だ」とか、「イランは高濃縮の実験を密かに行おうとしている」といったものだが、長年にわたりイランの核開発を監視してきたIAEAは、そういった証拠は一切ないと退けている。にもかかわらず、こうしたいわれなき非難ばかりを流す報道が巷にあふれ、イランの主張と権利に関しては沈黙が守られているのが現状である。

無駄だった3ヵ国協議
 先に述べたように、イラン側の主張は、発電用のための低濃縮作業を自国で行ない、それ以上の濃縮作業を行なわないようIAEA(国際原子力機関)の監視を受け続ける、というものだ。それを認めないアメリカがイランを軍事攻撃することを恐れたイギリス、ドイツ、フランスの欧州3ヵ国は、何とかイランに核開発を放棄させようと、2003年以来、独自にイランと交渉を重ねてきた。
 この欧州3ヵ国との交渉のさなか、2004年11月、イランは一時高まった安保理付託への危機を回避するため、一切の濃縮活動を停止することに合意した。この停止は、しかし、イランと欧州3ヵ国が何か恒久的な合意事項に達するまでの一時的な措置であり、交渉はここからが本番となる。この交渉期間におけるメディアの報道は巧みである。たとえば、ほとんどの記事で見られるのが、「ヨーロッパ側は○○のような提案をしたが、イランは受け入れなかった」とか、「ヨーロッパ側は○○するように強く要請したが、イランはその姿勢を変えなかった」という修辞法が取られ、常に「ヨーロッパ側が説得と努力を重ね、(イランのために)外交的解決を目指しているにもかかわらず、イラン側は自らの主張に固執し、強硬姿勢を崩さない」という印象を読む者に与えている。そしてそれをイランの"瀬戸際外交"と名づけ、まるでイランがより大きな経済的見返りを得るために欧州3ヵ国を"牽制"し、"揺さぶり"をかけ、わざと交渉を長引かせているかのような書き方をするメディアもある。明らかに読む者に北朝鮮を想起させようとの意図が感じられる。
 本来、この件に関する報道は、イランが何を求め、それに対して英独仏がどのような妥協案を提示したか、というものであるべきだ。なぜなら、そもそもイラン側の主張には何も後ろめたいものはなく、それをヨーロッパ側が譲歩させようとしているのだから。
 交渉の争点は、単純である。イラン側の主張は「核燃料(発電用低濃縮ウラン)とその技術の自国での開発」。それに対してアメリカの意を酌む英独仏は、「イランの核開発の一切の放棄」を求め、見返りとして経済援助やWTOへの加盟促進などを申し出た。この交渉が合意を見ないことは、双方の要求のあまりの食い違いから明らかである。イランが「時間の無駄だった」と憤るのも無理はない。
 2006年1月10日、業を煮やしたイランは、欧州3ヵ国との合意を破棄し、研究用のウラン濃縮作業を再開する。それが引き金となり、去る2月4日の安保理付託となったわけだが、日本のメディアは「イランは協定違反をしたのだから、安保理付託はやむをえない」→「このようにイランは違反を繰り返してきた」→「だから核兵器開発を疑われても仕方がない」という論法の大合唱である。この濃縮停止の協定が合意された時、イラン側が口をすっぱくして「これは自主的な措置で、停止する研究活動の内容や期間はイランが独自に決定する」と述べていたにもかかわらず。
 最近になってロシアが、核燃料をロシアで製造し、それを提供しましょうと申し出た。あくまで濃縮はロシア側で行ない、濃縮技術のノウハウまではイラン側には伝えず、核燃料だけを渡す、というものだ。メディアの論評の中には、「イランの核開発が本当に平和利用が目的なら、この提案を受け入れるはずだ」と決め付けているものがある。しかし、技術を与えない、ということはつまり、先進国が後進国に後進性を強いるということである。イランはこの人をバカにしたような提案を、しかし安保理付託が決まった今、一蹴することができないでいる。

欧米ロシアに翻弄されたイラン近代史
 エネルギー政策は国の根幹である。たとえ積年の信頼関係がある友好国でも、自国のエネルギー政策をその国の手に握られてしまうことは躊躇される。いわんや、相手は欧米ロシアである。
 イランの近代史は、欧米ロシアによる裏切りと搾取の歴史である。ヨーロッパ列強がイランに政治的介入を始めたのは18世紀後半から20世紀初頭に王制を敷いたカージャール朝の時代だ。当時、ヨーロッパで戦争が起こるたびに、どの国も要衝の地にあったイランと同盟を結びたがった。だが、彼らはイランを利用するだけして、自分の都合が変わると、イランへの約束の支援を中止したり、同盟を破棄したりした。
 とりわけイギリスとロシアがイランの商業的利権を奪い合い、イランを半植民地化していった。国民には不人気で脆弱この上ないカージャール朝政府だったが、農民の反乱が起こればイギリスとロシアが鎮圧することになっていた。互いに敵対していた英露だったが、イランに関しては利害の一致から、協力してカージャール朝政府の延命に努め、甘い汁を吸い続けた。
 1908年、イランで初めての石油が発見され、イギリスによって設立されたアングロ・ペルシアン石油会社にその利権は委ねられた。石油の利権にロシアもまた注目し始めた頃、イギリスはさらなる石油利権の確保のため、当時コサック旅団長であったレザー・ハーンにクーデターを起こさせ、カージャール朝を廃し、パハレヴィー王朝を創設させる。しかし、民族主義者であったレザー・ハーンはその後、英露の干渉に抵抗するようになり、ドイツへと心情的に傾斜していく。1941年、英露はイラン国内のドイツ人勢力を駆逐するという名目でイランに連合軍を進駐させ、レザー・ハーンを廃位に追い込んだ。しかし、真の目的はイラン国内の石油利権をドイツに奪われないためだった。
 第2次大戦後、主権の回復と国内経済の復興のためには、イギリスに握られている石油産業を取り戻すことが必要である、という意識がイラン国民の間に広がり始める。それは瞬く間に国民的運動のうねりとなり、1950年、モハンマド・モサッデク議員を中心に進められた石油国有化に関する法案がついに満場一致で議会を通過する。同年、モサッデクが首相に選出されるとともに、アングロ・イラニアン石油会社(アングロ・ペルシアン石油会社の後身)の国有化が宣言された。
 こうしてイランは自国の石油資源を自国の権利として取り戻すことに成功したが、喜びも束の間、怒ったイギリスは世界中にイランの石油を買わないよう圧力をかけ、国際司法裁判所に訴えるとともに、国連安保理にも提訴した。西側諸国はイランの石油をボイコットし、イランは危機的な財政難に陥る。そして1953年、これまでイギリスが独占していたイランの石油利権に割り込む最大のチャンスと見たアメリカが、CIAの画策によって国王派にクーデターを起こさせ、モサッデク政権を転覆させてしまう。こうして、わずか3年ほどで、イランの独立と民族主義の象徴であった石油国有化の夢は、大国の思惑に踏みにじられる結果に終わった。その後、石油資源は欧米メジャーの管理下に置かれるとともに、アメリカの保護を得た国王による独裁政治が、1979年のイラン・イスラム革命まで続くことになる。
 イラン・イスラム革命によって、イランにおける一切の権益を失ったアメリカは、現在まで一貫してイラン敵視政策をとり続けている。クリントン政権はイラン・リビア制裁法(イランおよびリビアと多額の商取引をした外国企業を米国市場で制裁する法律)を発動し、イランの主たる輸出品である石油や天然ガスなどのエネルギー分野でイランと新たな契約を結ぼうとする国に圧力をかけ、契約を破棄させてきた。これまで幾度となく中国とロシアがイランに原子炉の建設を約束してきたが、アメリカによる圧力でことごとく中断された。日本が2000年に開発権益を獲得したアーザーデガーン油田も、開発が決まれば日本から巨額な投資が流れるとして、ブッシュ政権は「核拡散防止とテロ対策」の面から日本に強く中断を求めている。最近ようやく契約がまとまりつつあったインド・パキスタンへの天然ガスパイプラインの建設計画も、「イランに対して何らかの経済制裁が発動された場合、交渉継続を断念するつもりだ」とパキスタン首相が発言し、イラン政府はこの契約がいかに彼らにとって有益なものであるかを説明するのに必死である。
 このような歴史体験を持つイランに、欧米ロシアは、自分たちを信用し、核技術を完全に放棄するよう迫っているのである。ロシアが、今後、イランとの関係悪化やアメリカからの圧力で、核燃料の提供を突然破棄しないという保証がどこにあるだろう。その時ヨーロッパ諸国がイラン側に立ち、イランが納得する代替案を提示してくれる保証など、あるはずもない。

日本の姿勢を問う
 安全保障理事会への付託によって、これまでアメリカが個人的に世界に対して圧力をかけてきたイランへの経済制裁を、今度は国際的な取り決めとして実行できるようになる。イランの対応次第では、軍事攻撃もいずれ検討されるかもしれない。その前にアメリカかイスラエルが単独でイランを爆撃する可能性も十分にある。
 「アメリカの攻撃? 怖くないよ。攻められたらもちろん戦うよ」
 サーズ奏者の芸術学部生が静かに答える。
 30歳のタクシードライバーは、
 「国内の弾圧や革命に巻き込まれるのはごめんだけど、イラン人のことなんか何も知らないアメリカに攻められて、統治されるのはごめんだね。そんなときは戦うよ」
 情報統制の厳しいイランだが、こと核問題に関しては、イラン人は世界中のどこよりも正しい情報をメディアから得ていると言えるかもしれない。イラン政府が核兵器保有を意図しているかどうかはイラン人の間でも意見が分かれるが、少なくとも現段階では核エネルギーが焦点である。その権利を奪うためにアメリカが攻めてくるというのであれば、戦わないわけにはいかない。
 イランの若者の多くが、アメリカの音楽、映画、ファッション、そして自由にあこがれ、現体制の窮屈さに辟易としている。だからといって、ひとたびアメリカが爆撃を始めたら、国民がこぞって体制転覆のために蜂起するなどと、アメリカが誤解していないことを祈るばかりだ。
 一方日本は、イラン核問題の安保理付託に際し、新聞各紙は社説などで、「最悪の事態(イラン空爆のことか、それともイランによる原油輸出停止のことか)を招かないよう、イランは自重すべきだ」とアメリカの恫喝そのままの論法で、本末転倒なイラン批判を展開している。
 いつだったか、川口順子外相がハタミ政権のハラジ外相と会談した際、こんなやりとりがあった。川口外相がIAEAの非難決議をイランは素直に受け入れるべきだと忠告したのに対し、ハラジ外相は「これは国のプライドの問題なのです」と政治家らしからぬ返答をしたのだ。ひょっとしたらハラジ外相は、日本人なら理解してくれるかもしれないと思って、こんな言葉を吐いたのではないか。その時ふと、そう思った。
 先に述べたモサッデク政権による石油国有化が実現したあと、イギリスによる圧力で石油の買い手が見つからず窮していたイランに、日本は手を差し伸べた数少ない国の1つだった。当時、イランが国の独立をエネルギーの国有化に見出したように、日本政府もまた、戦後アメリカから買い続けていた原油を、自前で調達するようになるのが真の独立だと考えていた。そんな日本が目を付けたのが、買い手が付かず安かったイラン原油である。イギリスの強い反対を押し切り、出光石油のタンカー日章丸が神戸港を発ったのは1953年3月。当時イギリスは、イランの原油を購入したタンカーを片っ端から海上で拿捕しており、日章丸はイギリス統治下のシンガポールを避け、遠回りを余儀なくされながらも、翌月、イランのアーバーダン港に無事入港した。日章丸入港のニュースにイラン国中が沸いたという。
 イギリスは日本政府に激しく抗議するとともに、東京地裁に提訴した。日本政府はこれは一私企業の取引であるという態度を貫き、東京地裁もまた、イランの石油国有化の正当性を擁護し、イギリスの訴えを退けたという。
 今、小泉政権はもちろん、マスメディアまでが、アメリカの意に反してイランの正義を代弁することなど、思いも及ばないらしい。
 「日本は経済でアメリカを倒した」
 この言葉が、賞賛から皮肉へと急速に変わっていくのを、ひしひしと感じる今日このごろである。

No.15 イラン核問題A 「強硬派」政府の巧みな舵取り

1.喜びに沸くイラン
 4月10日、イランのアフマディネジャード大統領は国民に向け、「明日、大変喜ばしいニュースを皆様にお伝えします」と発表した。その日はきっと、「喜ばしいニュースって何だ? もったいぶりやがって」と家庭や職場、またホワイトハウスで話題にのぼったに違いない。そして翌日、イラン国民と世界中が注目を集める最高の舞台で、アフマディネジャード大統領は高らかに宣言したのである。「イランはとうとう3.6パーセントの低濃縮ウランの製造に成功しました!」
 その晩の国営ラジオのニュースでは、「人々は広場に繰り出したり、電話をしあったりして、ともに喜びを分かち合いました。また、街路ではお祝いのお菓子を配る市民の姿も見られた」などと報じられた。大袈裟な……、と笑ってラジオを聴いた翌日、私もそのお菓子をもらうことになった。
 「先進技術の獲得」に関するニュースを、イランの国営メディアは好んで流す。国威高揚のためは勿論だが、おそらく国民もこの手のニュースは好きなのだろう。イランを含めたイスラム諸国では、なぜ現代かくもイスラム世界は西洋キリスト教世界に遅れをとっているのか、というテーマがかなり重要なテーマとして議論されている。実際、中世まで、イスラム世界の科学の獲得と蓄積に対する熱意はすさまじく、文明としてはキリスト教世界を凌駕していたのである。かつて世界帝国を築いた栄光のペルシャの歴史を持ちながら、今では石油だけが頼りの途上国に甘んじるばかりか、「悪の枢軸」などと西側から後ろ指をさされている現状に憤懣やるかたない思いを抱いているイラン人は多い。ムスリムとして、またペルシャの末裔として二重の劣等感を抱えたイラン人が、このウラン濃縮技術獲得のニュースに小躍りするのも無理はない。しかも、これだけ国際的な圧力を受け、西側の手助けもなく獲得した最先端技術である。
 その後、国内メディアからは、「核技術はその国の発展の度合を測るものである」とか、「核技術は先進国と途上国を隔てる指標である」といった言葉までが聞かれた。そのせいか、テヘランで町の声を拾ってみても、「核技術万歳」という回答ばかりが耳につく。
 「イランにとって、核のエネルギーは石油に代わるエネルギー源として必要だよ。何より経済的だ。施設を整えて技術を獲得するまでは金も時間もかかるけど、その過程を終えればいつまでも安く安定してエネルギーを供給できる」コンピューター機器販売店の男性(40歳)は歯切れ良く答えた。
 このウラン濃縮成功のニュースは、国連安保理がイランに対し、4月28日までにウラン濃縮に関する作業を一切中止するよう求めている最中の出来事だった。
 「中止なんてしないよ。ロシアと中国はイランの味方だし、イギリスも中立に近い。安保理に付託されても問題ない」会社員の男性(35歳)は答えた。濃縮成功という既成事実と国民の支持を得て、イラン核開発は加速し始めていた。

2.風向きの変わったイラン情勢
 4月15日、テヘラン市内で催されていたイラン石油博覧会が盛況のうちに閉幕した。閉幕後の会場付近は、テヘランでもめったに見かけないネクタイ姿の外国人ビジネスマンや報道関係者であふれ、その中を1台の大型バスが他を押しのけるように会場を後にした。中国人関係者を乗せた貸切バスである。時あたかも、アメリカ議会がイランのエネルギー分野に巨額の投資をした外国企業に米国政府が経済制裁を加えることを義務づけるイラン自由支援法案の可決を目指している最中だった。
 一方、ウラン濃縮に成功したイラン政府は、度重なる西側からの中止要請や、空爆や小型核兵器の使用も辞さないというアメリカの「心理戦」に屈することもなく、とうとう濃縮作業停止期限である4月28日を迎えた。
 この日、IAEA国際原子力機関のエルバラダイ事務局長は国連安保理に報告書を提出した。この報告書の内容如何によっては、安保理における今後のイラン核問題へ対応が決まる。8ページにわたる報告書には、イランが安保理やIAEAの要請を無視してウラン濃縮を続けたことへの批判はもちろん書かれていたが、今年2月までのIAEAに対するイランの協力姿勢をある程度評価もしていた。また、これまでイラン側から申告された核物質以外、何も問題となるものは発見されていないこと。しかし、まだ未解決な問題も多く、さらなるイランからの協力と信頼の醸成措置が必要であること。そして最後にIAEAは本件に関し、何ら結論には達しておらず、今後どのよう措置が取られるべきか判断を下すことはできない、と結んでいる。これに対しイラン政府は即日、「IAEAの枠組みにおいてのみ協力を続ける」という声明で回答した。
 ところがアメリカの反応は、イランにウラン濃縮停止を求める決議を国連安保理に提出し、もしイランがこれに従わなければ経済的あるいは軍事的制裁措置を許す国連憲章7章を適用する、というものだった。ほとんどの日本のマスコミはそれにならい、「IAEAの報告書はイランの協力不履行を非難するもので、イラン核問題は今後、法的拘束力のある制裁措置を議論する、新たな段階に入った」という一方的な主旨でこのニュースを伝え、勝手に話の舞台を安保理に進めてしまった。
 イラン核問題が「新たな段階」に入ったのは確かだが、実際には上記のような事態とは正反対で、むしろイラン人を安心させる材料が整えられつつあった。
 ロシアはイランへの防空ミサイルシステムの売却をアメリカの中止要請を拒否して履行する予定だと表明し、中国は30日、イランと1000億ドル(11兆円)にものぼる石油と天然ガスの契約に近々調印する意思を伝えている。それを踏まえてか、これまでアメリカの中止要請により紛糾していたイランからのパイプライン敷設計画を、パキスタンが合意した。このパイプラインはパキスタンを経由してインドへ到達する予定だが、中国への延長も考慮されているという。
 日本が15億ドルの開発予算を投じたイランのアザデガーン油田開発を、アメリカの中止要請にもかかわらずまだ手放していないことを思えば、1000億ドルを投じた中国が、今後国連安保理によるイランへの経済制裁や軍事制裁に同意するはずはない。
 イランが停止期限である4月28日を守らなかったことで、アメリカとその同盟国が国連安保理でイラン制裁決議を目指す一方、そこでの中露の拒否権は必至であり、結局アメリカは自国の議会で可決されたイラン制裁法案(イラン自由支援法案)で他国の企業を脅す以外に策はないというのが現状のようである。
 4月10日、イランのモッタキー外相がスイスのBerner Zeitung紙との会見で語った言葉が印象的だった。「我が国は27年間にわたり、アメリカによる種々の制裁下に置かれてきたが、今ではどのようにして制裁に対処したらよいのか、よく学んできた」

3.アメリカの攻撃はあるか
 テヘランの街角は普段と変わらない。公園では老人たちがチェスを楽しみ、街路樹の桑の実を子供たちが取り合い、八百屋の店先にはクルディスタン地方から出荷されたイチゴが山積みされ始め、あちこちで少しずつワールドカップの話題が登り始めた。この日常がある日突然失われるということは想像しづらい。しかし、バグダットもそうだったと聞く。アメリカ侵攻の直前まで、普段と変わらぬ日常が繰り広げられていたそうだ。
 国連安保理でイランへの軍事的制裁措置が取られる可能性は現在ほとんどないと言ってよいが、アメリカが単独で攻撃を開始する可能性は、アメリカ自身が否定していない。当のテヘラン市民はこの潜在的な危機に対し、どう考えているのだろうか。
 「アメリカが攻めてくる可能性? ないと思います。イランはアフガニスタンやイラクとは政治状況が違います。イギリスや中国、ロシア、ヨーロッパ諸国とも良い関係を保っているし。特に、今、ロシアと中国はイランに武器を売ってくれている。仮にアメリカが攻めてきても、武器を売って支援してくれると思いますよ」海外留学を直前に控えた女子大生のMさんはそう答える。
 テヘラン大学の金曜礼拝で警備員をしている55歳の男性も、「アメリカはイランを攻撃することはできないよ。イランは、アフガニスタンやイラクとは違うんだ。国民はまとまっているし、軍備も整っている。他国との友好的な関係もある。彼らは絶対勝つことはできない。もし、アメリカが攻撃するとしたら、まず核施設を爆撃するだろうね。でもそのあと地上軍を派遣してテヘランを制圧するまで何日もかかるだろう。その前にイランがホルモズ海峡を封鎖してしまったらどうなる? 彼らの地上軍がテヘランに達する前に、世界は大混乱になって、戦争の継続をアメリカに許さないだろう」と自信満々に答えた。
 アメリカの攻撃の可能性についてテヘラン市民に聞いてみると、判で押したようにこうした答えが返ってくる。それらは国営メディアを通した政府要人の発言そのままである。市民は核問題に関して、新聞やテレビを通して情報を得ているし、関心も低くない。しかし官製メディアや当局の厳しい統制下で活動するメディアから得られる情報は、正論である一方で、画一的であり、イラン人のアイデンティティーをくすぐる意図的なものが多い。
 「アメリカはイランの実力をよく知っている。彼らはイラクとアフガンで手一杯だ。もうひとつ前線を広げる余裕はないよ。今イランを攻撃すればどうなるか、良く分かっているはずだ」35歳の会社員が答える。
 つまり、イラン政府ひいてはイラン人は、「アメリカ政府はそんなにバカじゃない」と評価しているわけである。だが、イラクでの失敗はどうなのか。アメリカの情報機関はそんなに信頼に値するのだろうか。アフマディネジャード大統領がイランのウラン濃縮成功のニュースを伝えたその翌日、アメリカのローブ大統領補佐官がアフマディネジャード大統領を「交渉のできるまともな人間ではない」とこき下ろした。ローブ氏はさらに、「イランは奇妙な歴史感覚やイデオロギーで凝り固まった人たちに導かれており、(外交的解決は)難しくなるだろう」と発言している。アメリカ人の若者の75パーセントが地図上でイランの場所を指定できないという、ナショナル・ジオグラフィックによる調査結果が先日メディアに流れたが、他国への無関心と無理解は政治の中枢にも及んでいるのではないか。大統領を補佐する人間が、近い将来戦争をするかもしれない国に対してこの程度の認識で、果たしてアメリカは正確な情報に基づく合理的な政策の取れる国と言えるのだろうか。私は多くのイラン人のようには楽観できない。
 テヘラン中央部のエンゲラーブ広場でピザ屋を営むフサイン氏は、官製メディアの情報統制に縛られない意見を持っていた。それは、彼の置かれた特殊な環境がそうさせたものなのかもしれない。
 「イランの核開発の権利? ま、誰に聞いたって『必要だ、権利がある』って言うだろうな。けど本当は内心どうでもいいと思っているはずさ。核エネルギーがあっても国民1人1人の生活はたいして変わりはしないよ」

≪代替エネルギーとしては?≫
「そもそも石油の輸出による利益は国民の懐には入ってこない。核エネルギーによって国内の石油消費を抑えて輸出に回したところで、どうせその利益も一部の人間が分捕ってしまうさ」

≪電気代が安くなったりはしませんか?≫
「さあね。そんなことより頻繁に起こる停電をなんとかしてほしいよ」

≪アメリカの攻撃の可能性は? 怖くはありませんか?≫
「正直。怖いとか、僕の場合、そういう次元じゃないんだ。戦争になったら即前線に出なければならない。それはもうどうしようもない義務なんだ。あとは、残された家族や子供たちへの心配。それだけだ」

 フサイン氏は既に11年前に兵役を終わっているが、予備役兵として登録されているため、有事の際はすぐ召集がかかる手はずになっているという。イランでは、毎年100万人近い若者が2年間の兵役義務に就くが、そのうち体力その他で秀でた600人ほどの兵士が予備役として登録されるという。

≪アメリカの侵略に対して戦うという気持ちは?≫
「防衛戦がいつも正しい戦争とは限らない。戦争はしょせん、国のトップどうしが始めるものさ」

 イランを取り巻く情勢は、この1ヵ月でずいぶんと変わった。国際情勢の追い風に乗って、イランは近隣諸国や中国、そしてロシアとの関係をさらに強化してゆくことだろう。軍事、エネルギー政策では、ロシア、中国、中央アジア諸国で構成される上海協力機構へのオブザーバー参加が決まっており、また地域間の経済交流ではイスラム南西・中央アジアのASEANとも呼ばれるECO経済協力機構で、正式メンバーとして活動を活発化させている。
 1979年のイスラム革命以降、西側世界とも共産主義陣営とも対峙し、革命の輸出を恐れた中東諸国からは疎まれ、世界の異端児を地で行ってきたイランだが、冷戦構造が崩壊し、中露の台頭とアメリカの衰退を機に、今、少しずつ世界の中で自らの地位を築きつつあるように見える。
 核問題という国家の一大事が一転、孤立主義から協調外交へと重心を移すきっかけとなるなら、アメリカの圧力もある意味、功を奏したと言えるかもしれない。

No.16 レバノン戦争とイラン −イスラムの大義に揺れる大国−

▲テヘラン:町なかにはあちこちにヘズボッラーの指導者
ハサン・ナスロッラー師を支援するポスターが。
▲学生組織によって張られたポスター。「レバノンの虐げ
られた信仰深い勇敢な若者たちの固い拳が、今、侵略者た
ちの醜い顔に振り下ろされ、彼らの硝子のような自尊心が
打ち砕かれている」
▲20年計画で中国西安からイタリアローマを目指す
「地球と話す会」の隊長・合田大次郎さんと大村さん(左)。
今回は14回目の遠征で、首都テヘランからイラン北西部の
タブリーズを目指すという。出発の朝。
  ◆志願する若者たち
 レバノン戦争に対する安保理決議が審議されている最中、テヘラン中心部にあるテヘラン大学の正門前では、保守派学生たちによるイスラエルへの抗議集会が開かれていた。特設ステージの上から学生が気勢を上げると、手にレバノン国旗やレバノンのシーア派組織ヒズボッラーの黄色い小旗を手にした聴衆からどよめきのようなシュプレヒコールが上がる。
「アメリカに死を! イスラエルに死を! イギリスに死を!」
 ステージの袖から2人の学生がそれぞれアメリカ国旗とイスラエル国旗を持ち出してくると、それまで周囲を取り巻いていたメディアのカメラが一斉に彼らを取り囲んだ。お決まりの国旗炎上の儀式である。最初からアルコールでも含ませてあるのか、2枚の国旗は瞬く間に灰と化した。
 集まっているのは主にバスィージと呼ばれる動員組織(革命防衛隊の下部組織でもある)のメンバーや、バスィージや宗教系団体に所属する保守派学生である。主催団体には10以上の団体名を連ねてあるが、夏休みでほとんどの学生が地方に帰省しているためか、聴衆はせいぜい50〜60名といったところだ。しかし、壇上の学生は大群衆に語りかけるかのような絶叫で、声明文を読み上げる。
「1つ! 我々はイスラム共同体、特にイラン国民と政府に対し、迫害下にあるレバノン国民への全面的支援、とりわけ財政的、軍事的支援を、できうる限り行なうよう要請する。 
 1つ! 我々学生たちはヒズボッラー戦士たちの隊列に加わる準備ができており、各大学の専門家はレバノン再建のため全面的な支援を行なう準備ができていることをここに宣言する。
「1つ! 我々は……」
 イスラエル軍によるレバノン侵攻が始まってからというもの、義勇兵としてヒズボッラーの抵抗運動に身を投じようというイラン人学生の姿を、新聞などで幾度か目にした。全国に「レバノン志願兵派遣」のための登録本部が設けられ、登録用紙に必要事項を書き込む学生の姿が報じられた。
 新聞の報道によれば、登録用紙にはいくつかの質問が書かれているという。「アラビア語の知識はあるか」、「どのような武器を扱えるか」、「どのような領域で、レバノンの同胞たちを支援することが可能か」などの質問である。異国の戦争に自ら身を投じようという学生たちの存在にも驚きだが、それ以前に、彼らは果たして戦地で役に立つのだろうかという疑問が先に立つ。イランでは学生は卒業後まで兵役を猶予されているからだ。 「なあに、用紙に名前だけ書いてそれで終わりさ。中には本気なやつもいるかもしれないけどな」
 自分も17歳の息子がいるというタクシー運転手は、志願兵のニュースをそんなふうに笑い飛ばす。
 −もしあなたの息子さんが志願兵としてレバノンに行きたいと言ったら?
「まだ徴兵前だから行っても何もできやしないさ。それでも行きたいって言うんなら、行かせてやるよ。同じイスラム教徒を助けるためだ」
 イスラム教徒には「防衛ジハード思想」というものがある。イスラム教徒の住む地域を「イスラム共同の家」ととらえ、異教徒がそこへ攻撃をしかけた場合、たとえ遠く離れていようとイスラム教徒は同胞を助けるべく「ジハード(聖戦)」に赴くか、武装闘争を物理的に支援しなければならない。アフガニスタンへのソ戦侵攻と米軍による空爆、イラクにおける駐留英米軍、あるいはチェチェン、パレスチナ、カシミール……、それら「異教徒によるムスリムへの虐殺」に対し、外国から多くの「義勇兵」が参加したのは、この防衛ジハード思想によるものである。

◆イラン政府のジレンマ
 レバノン戦争が始まってしばらくすると、テヘラン市街のいたるところに、豊かなあごひげを蓄えたヒズボッラーの指導者ハサン・ナスロッラー師のポスターが張られるようになった。大きな広場や交差点には数メートル四方の巨大ポスターも見られる。その数はイランの最高指導者ハーメネイー師のものより多いかもしれない。 「ハサン・ナスロッラーは優れた指導者です。イランでも尊敬されていますよ。イラン人は一般的にアラブ人が嫌いですが、彼だけはイスラエルに対し勇敢に戦いを挑んでいますからね」
 国営企業に勤める30代の男性はこう答えた。
 長いゲリラ活動の末、2000年にレバノン南部からイスラエル軍を撤退させた実力は、ヒズボッラーがシーア派組織であるにもかかわらず、広くイスラム社会で認知されるきっかけとなり、彼の名声をも不動のものにした。
 ヒズボッラーは1982年、レバノン内戦のさなかに設立され、レバノンにおける反イスラエル闘争とシーア派の地位向上の中心的役割を果たす組織となった。アメリカはヒズボッラーを「テロ組織」と認定しているが、その内実は軍事部門と民生部門に別れ、民生部門ではベイルート南部や貧困地帯で学校や病院、診療所の設立などの福祉活動に力を入れるとともに、テレビ、ラジオ、新聞など独自のメディアを有し、その広範な活動から常にレバノン国会に議員を送り出してきた合法政党でもある。その理念はイランのイスラム革命の影響を強く受けていると言われ、表向きイランは否定しているが、財政的にも軍事的にもイランの支援を受けていると言われる。そのためアメリカは、今回のイスラエルのレバノン侵攻当初から、イランを非難してきた。イスラエルがレバノン南部に落とした爆弾が、その破片からアメリカ製であることをヒューマン・ライツ・ウォッチが指摘している一方で、アメリカはヒズボッラーが打ち放つミサイルやロケット弾を、さしたる証拠もなくイラン製だと決めつけ、紛争の長期化の責任を一方的にイランに押し付けてきた。英米のこうした非難をかわすのは、イラン政府も慣れたものである。しかし、たとえ義勇兵とは言え、イラン国籍の若者がヒズボッラーと合流したとあっては話が別だ。
 7月も半ばを過ぎた頃から、若者たちのレバノン行きを否定する発言が、イランの政府関係者から相次いだ。バスィージの司令官も「(志願兵登録センター等は)国の正式な機関とはまったく関係がなく、(民間の)宣伝活動にすぎない」と述べ、火消しにやっきになった。
 今回、イスラエルがレバノン南部への空爆および地上部隊の派遣により本格的な戦争を開始したのは、ヒズボッラーによって2人のイスラエル兵を人質に取られたことを口実に、この際、ヒズボッラーを徹底的に叩いて壊滅させようというのが真のねらいだったと言われる。と同時に、これまでヒズボッラーを支援してきたシリアとイランも巻き込み、一機に中東大戦争に発展させ、アメリカの大中東計画を遂行してしまおうという意図を、イラン政府が警戒していなかったはずはない。イスラエル軍は今回、シリア・レバノン国境付近を何度も空爆し、トラックに果物を積み込もうとしていたシリア人農夫33名を殺害している。また、シリア国境付近に無人偵察機を飛ばすなどして散々シリアを挑発してきた。まずシリアに、そしてシリアと盟友関係にあるイランに戦火が拡大する可能性をイラン政府は十分警戒していたはずである。
 イラン政府は、国家としては当然の行動として、戦争に巻き込まれぬことを第一命題としながら、その一方で、イスラム諸国会議機構にレバノン支援の会議も持ちかけ、内外に反米・反イスラエルのプロパガンダを打ちまくり、国内に対しては、ムスリムとしての精神的な支援こそレバノン市民とヒズボッラーの戦士たちを勇気付けるものだと呼びかけた。町の至るところに張り出されたハサン・ナスロッラー師のポスターも、募金を呼びかけるバスィージのテント小屋も、そうした活動の一環であろう。国営企業や官公庁では、月の給料の1日分をレバノン市民のために寄付しましょうと呼びかける張り紙が張られ、応じる社員も多いと聞く。
「中東で事が起こったからといって、すぐに軍隊を送れという話にはならないよ。彼らは彼ら自身の国のために戦っているんだ。僕らはそれに対し、こうしてお金を集めて政府に預け、食糧や毛布やテントや医療品を送る。君たちの国のピースウイングジャパンがやっていることと変わらないさ。つまりNGOだよ」
 着飾った、派手な女の子が行き交う週末の繁華街、粛々と募金活動を行なう黒服のバスィージの青年が私に語ってくれた。そのテント小屋では、募金とともに、ヒズボッラー所有の衛星チャンネルの映像を大型テレビで流していた。
「こうしてヒズボッラーの映像を流すことも文化的支援の一環さ。何より大切なのは、ムスリムとして自分の存在を示し、彼らに1人ではないことを教えてあげることさ」

◆イランを突き動かすもの
 イラン政府による保守派学生への懐柔策にもかかわらず、イスラムの大義に忠実な学生義勇兵の第一陣がいよいよレバノンへと旅立ったのは、7月も終わりに近づいた頃だった。しかし、彼らはトルコとの国境でイラン側から出国を阻まれ、2日間の座り込み抗議の末、ようやく出国スタンプを押されたが、今度はトルコ側に入国を拒まれているという。彼らはヒズボッラーの旗をはためかせ、カーキ色の軍服に目出し帽といういでたちだったため、トルコ側から「普通の旅行者の格好をしてきてください」と言われているという。
 それからわずか数日後、ヒズボッラーからイランの若者に宛てて、次のようなメッセージが届いた。
『目下のところ前線は限られており、増援部隊の必要性はありません。我々ヒズボッラーはまだ戦力の10パーセントしか使用しておらず、必要ならまず自身の全部隊を召集し、その後、レバノン市民に支援を求める予定です。日々、イラン国民の皆様からは、レバノンでの支援、参加方法をお問い合わせ頂き、感謝しています(以下略)』
 その後、彼らが無事トルコに入国を果たしたというニュースも、第二陣が出発したというニュースも聞かないまま、8月14日の停戦合意を迎えた。この日、テヘランでは、ヒズボッラーの勝利を祝して、夜空に花火が打ち上げられ、あちこちで通行人にお菓子やジュースが振る舞われた。そして翌日にはもう、町中からバスィージのテント小屋が姿を消していた。
 イランは政教一致の宗教国家である。政府は保守的で、その政府を支える保守層の中でも最も過激なグループとして、バスィージといった民兵組織が存在する。と思っていたが、このレバノン戦争の間、彼らさえ手を焼く保守層があることを知った。それはむしろ、「層」という言葉で表現するより、若者の純粋さであり熱狂そのものである。
 この国の総人口の55パーセントは24歳未満である。この若さというエネルギーは、27年前のイスラム革命を成就させ、1997年の大統領選挙では改革派のハタミ政権を生み出し、1999年には暴力的な反体制デモをイラン全土に吹き荒れさせ、そうかと思えば昨年、保守強硬派と呼ばれるアフマディネジャードを大統領の座に据えた。今回、レバノン戦争へ志願した若者は、実際のところごく少数派に過ぎない。しかし、この小さな火種が、場合によってはどう転ぶか分からないという恐ろしさを、イラン政府はよく知っていたのかもしれない。
 1ヵ月あまりに及んだレバノン戦争は、数日後にはもうイランからその痕跡を消しているだろう。しかし、アフガニスタンではタリバン残党による米軍への攻撃が再燃し、イラクでは混迷から回復する道筋さえ見えず、パレスチナでは相変わらずイスラエルによる圧政が続いている。自国の安全保障とイスラムの大義というジレンマは、これからも中東の大国を悩まし続けてゆくだろう。

No.17 イラン核開発・現地紙に見る世論の推移   2006/9/15

街のキオスク。新聞はここで(テヘラン)
◆日本より多い新聞数
 テヘラン市街が動き出す午前6時、街角のキオスクが店を開く。店の脇には、すでに暗いうちに配達されていたその日の朝刊の束が、10個ほど山積みにされている。
 「一番売れるのはハムシャフリー、うちでは500部仕入れるよ。次はジャーメジャム、それにシャルグがそれぞれ150部。俺かい? 俺はスポーツ新聞しか読まないけどね」  キオスクの販売員はそう答えながら、新聞の束を手際よく店先に並べてゆく。数えてみると、普通紙、スポーツ紙合わせて、ざっと60紙は下らない。各州に無数の地方紙があることを考えれば、この国の新聞の数は相当なものである。
 イランの新聞の歴史を紐解けば、1837年に初めての日刊紙が創刊され、1905年の立憲革命まで、およそ70年をかけて新聞メディアが民主主義と言論の自由を育んでいった歴史がある。現在のイスラム共和国体制下にあっては、新聞創刊に当局の認可が必要なのは勿論のこと、内容がイスラム体制に反していないかという厳しい制約がある。にもかかわらず、これほど多くの新聞がしのぎを削っているのは、ラジオとテレビという放送メディアが国営部門に限られているため、成熟したこの国の言論が、新聞を通してしかその発露を見出せないのかもしれない。ここ数年、発禁処分を受けた多くの新聞、あるいはそのために活躍の場を失ったジャーナリストたちがウェブジャーナルを開設する動きも活発だが、各家庭でのパソコン普及率の低さを思えば、キオスクでコイン1、2枚で気軽に買える新聞に勝る情報メディアはないだろう。
 しかし、イランの新聞数の多さには、もう1つ理由がある。それは、政党や自治体の機関紙が多く含まれることである。テヘランで最大の発行部数40万部(2000年まで全国紙だったが当局の要請により現在はテヘラン市のみで販売)を誇るハムシャフリーはテヘラン市が発行元である。それに続く発行部数を持つジャーメジャムはイラン国営放送のオフィシャルペーパーである。イラン第2の発行部数を持ちながら今年になって発禁処分を受けたイランはイラン国営通信のものだった。さらに、発行部数十万前後の政党系日刊紙が無数に存在する。
 こうした中、政党や政府機関とまったく繋がりを持たない有力日刊紙として、シャルグが挙げられる。2003年7月に創刊された若い新聞社だが、発禁処分を乗り越えて、今も発行を続ける改革穏健派の有力紙として国民の信頼は厚い。発行部数は伏せられているが、25万部から30万部と推定され、国内3番目の発行部数と言われている。
 テヘラン市民にどの新聞をよく読むのかと尋ねると、多くの人がハムシャフリージャーメジャムシャルグといった上位3紙の名をすべて挙げる。つまり、左右織り交ぜて、バランス良く情報を取り入れようという姿勢が窺える。あるタクシードライバーは筆者の質問にこう答えてくれた。
 「新聞を選ぶ基準は、それが右寄りか左寄りかじゃなく、自分自身だよ」
 つまり、紙面を見て、自分で判断して、その日の新聞を決めるということだ。配達制度の整った日本にはない柔軟性である。

◆包括案への回答をめぐる報道
 8月23日、キオスクに並んだ新聞各紙は、ヨーロッパ包括案に対しイランが回答を与えたというニュースを一面トップで伝えた。この包括案は約2ヵ月前に国連安保理常任理事国とドイツを加えた6ヵ国によってイランに提示され、各種の見返りを与える代わりにウラン濃縮活動を即時停止するよう求めたものだった。これに対する回答期限が8月22日。回答内容はイラン政府の要請で公表されなかったが、最大の焦点であるウラン濃縮の即時停止をイランが拒否したことだけは明らかにされた。
 23日付のアーフターベ・ヤズド(改革派・イラン・イスラム参加戦線)は、包括案への回答が公開されなかったことに対し、こうした秘密主義によって国内から幅広い意見を集めることができない点と、じき欧米の政府高官やメディアから回答内容が少しずつ漏れてくることを指摘し、「イラン人が海外メディアから情報を得ることを奨励しているようなものだ」と批判した。この批判は見事に的中し、当事国のメディアでありながら、西側から伝えられる情報に振り回されるような報道が、その後の国内各紙に目立った。
 24日、包括案へのイランの回答に対する西側からの反応がひと通り出揃うと、この日のレサーラト(保守派・イスラム連合党)は一面トップで、「アメリカの破壊連合は崩壊寸前」、「ヨーロッパ諸国はアメリカを支持してアフガニスタン、イラク、レバノンに巻き込まれたが、さらなる深刻な竜巻には巻き込まれたくないと思っている。イランとの関係における中国、ロシア、フランスの莫大な経済的利益は、アメリカが意図する制裁拡大にとって深刻な障害である」というニューヨークタイムズの記事と、「イランへの経済制裁は、イランが石油を武器にして抵抗した場合、より大きな損害を西側諸国にもたらすだろう」というワシントンポストの記事を引用した。ケイハーン(保守強硬派)もまた、一面トップに「イランの回答は5+1の相違を広げた」との見出しで前述のニューヨークタイムズの記事を引用し、さらにユナイテッドプレスが「イランへの経済制裁で石油価格の高騰は避けられない」と報じていることを伝えた。
 26日付のレサーラトは、「脅しはもういい。我慢にも限度がある」との大見出しで、「もしその限度を越えたなら、イラン国民は議会にNPT脱退を迫るだろう。イラン国民は政府に抑止力のため核兵器を作らせるかもしれない」との、モハンマドレザー・バーホナール国会副議長の発言を一面トップで伝え、多くの新聞もこの発言を報じた。
 保守系各紙が、イランの権利の強調と、西側の反応への苛立ちによる挑発的な記事を伝える中、改革派、穏健派に属する新聞には、対話の道を探る姿勢が目についた。23日付、カールゴザラーン(穏健改革派・建設奉仕党)は社説の中で、「イランでは核活動を中断する意思は少なくとも公式には存在せず、西側にもこのイランの希望に柔軟に接する兆候は見られない…(中略)、もし両者が互いにまったく柔軟に接する用意がないと気付いたなら、イラン核問題における政治的、技術的論争は、威信の戦いの色を帯び……抑制は誰からの手からも奪われるだろう」と懸念を述べている。
 また、シャルグは24日、紙面一面を割き、「核戦略の手本 日本と北朝鮮の経験」と題する特集記事を載せた。この特集記事では、「対照的なこの2国から、我が国の核政策決定者は学ぶことができる」とし、北朝鮮の核開発の経緯と、戦後日本の核開発の経緯を詳細に描き、照らし合わせている。「北朝鮮の指導者が、もし核兵器獲得が自国の地位と名誉を国際社会で押し上げると考えていたのなら、実際、このような変化は起こっていないばかりか、他国に比べ、より貧しく、より経済は遅れ、国際社会でより低い地位を得たと言わねばならない」と、「国家の威信」を声高に叫ぶイラン首脳陣を批判する一方、戦後日本が国際社会の懸念から独自の核開発を妨げられ、日本の核開発が平和目的だとIAEAから完全に承認されるまで20年近い歳月を要したことや、日本が国際社会から信頼を得るために、率先して軍縮条約等に調印してきたことなどが述べられ、行動と忍耐によって国際的信頼を勝ち取ってゆくことの必要性を訴えるとともに、自国の権利の主張に偏りがちな現政府の国際アピールの仕方に忠告を与えている。
 こうした姿勢に少なからず影響を与えたのは、8月2日のドイツのフィッシャー元外相のイラン訪問ではないかと思われる。彼はイラン・イスラム参加戦線党首(当時)レザー・ハータミー氏との会談で、西側はイランの平和的核開発の権利を十分理解しているとした上で、万が一、イランが核兵器を入手した場合、トルコ、サウジアラビア、エジプトなど中東諸国が次々に核兵器獲得に走り、中東での核競争が開始されることは最悪の事態であり、西側の何よりの懸念がそれであることを真摯に伝えた。そして、イランと西側の信頼がまだ醸造されていないのがこの問題の根本であり、両者が互いに一歩後退し、交渉をやり直すべきだと訴えた。
 その後、保守系各紙の間でさえ信頼構築という言葉がイラン核問題のキーワードとして語られるようになった。1人の人間の真摯な訴えがメディアの空気を変えることもある。アメリカの恫喝的な一言でそれが覆ってしまうのも、国際問題が所詮、人と人との心の問題であることを物語っている。

◆アメリカとの関係
 前述したシャルグの特集記事の中で、次のようなくだりがあった。
 「たとえアメリカの信頼を得られなくても、それ以外の国々の信頼を得ることで、アメリカを恥じ入らせることができるだろう。国際的信頼を得ることはイランに機会を与え、国際的信頼を失うことはアメリカに機会を与える」
 このくだりから察するところ、イランにとって、アメリカという国はもはや国際社会の中に含まれないということである。
 日本人にとって、アメリカを無視して国際社会を捉えることは難しい。日本で報じられるイラン核問題への論評には、決まって「イランは国際社会に背を向けるのか」、「対イラン決議は国際社会の重大な警告だ」と主張が見られ、こうした表現からは、日本にとって国際社会とはアメリカそのものであるという見方さえできる。なぜなら、イランの核開発に対し断固阻止を叫んでいるのは、実際のところアメリカだけだからである。
 一方、イラン人にとってアメリカとは、巨大な存在でありながら、革命以来27年間にわたって自分たちを「悪の枢軸」、「テロ支援国家」と罵倒し続け、諸外国に自国への経済制裁を強要してきた国である。
 中国と家具の貿易を行なっている筆者の友人は、国連による経済制裁の可能性について、「俺たちはずっと経済制裁を受けてきた。今さら何の制裁だよ」と意にも介さない様子だった。アメリカによる敵対、制裁は、今やイラン人にとって当たり前の事実であり、今後もアメリカ無しでやっていく覚悟が、人々の内に無意識に芽生えていたとしてもおかしくはない。昨年のイラン大統領選挙では、改革派、保守派双方の立候補者がこぞってアメリカとの関係改善を公約の1つに掲げたが、その結果は、唯一そうした公約を掲げなかったアフマディネジャードの勝利であった。そして今、この穏健改革派の新聞でさえ、アメリカを必要のないものと切って棄てている。
 イランの民主化を叫び続けてきたアメリカに、今、熱心に手を差し伸べているのは、皮肉なことにイラン政府である。シャルグが29日に伝えたところでは、イラン石油国有公社がアメリカの石油会社にイランの石油産業プロジェクトへの参加を呼びかけたという。同公社の専務理事によれば、目下、アメリカではイラン制裁法によって2000万ドルを越えるイランのエネルギー部門への投資は禁止されているが、こうした呼びかけによってアメリカの政治家の考え方が変わるかもしれないからだという。
 また、26日のハムシャフリーは、イギリスの日刊紙ガーディアンが暴露した、包括案へのイランの回答内容を一部引用して報じた。それによると、イランは回答の中で、アメリカによる一部の主要な制裁の解除と、アメリカがイランの現体制の変更を追及しないという確約を求めているという。そして、こうした要求が実現されるならば、ウラン濃縮作業の停止もあり得るという。
 イランの回答がガーディアンの報じた通りであるならば、イラン政府は核問題の解決とともに、対米関係も一気に解決してしまおうという魂胆なのだろうか。逆境をチャンスに変える見事な綱渡りと言える。今後のアメリカの対応に注目したい。



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