【大村一朗のイラン便り】

No.18 選挙が変えるイラン

▲無秩序に張り巡らされた選挙ポスター。テヘラン
▲専門家会議、地方議会、国会中間選挙の三つの投票箱が並ぶ、モスク内の投票所。テヘラン
◆イスラム民主主義
 イランは「イスラム共和国」である。最高指導者が神の代理人として国家を統治する「神権統治」と、それとは一見相反しそうな「民主主義」。この2つの原則を国是としている。イランではこれを宗教民主主義(イスラム民主主義)と呼んでいるが、民主主義の部分をどう実現するのかというと、大統領、国会議員、地方議会議員、そして、最高指導者の任免権を持つ専門家会議議員を国民が直接投票によって選ぶことで成り立っている。このうちの国会中間選挙と、さらに地方議会、専門家会議の議員選挙が2006年12月15日、イラン全土で同時実施された。
 今回の選挙は、昨年5月に行なわれた大統領選挙に比べると、選挙運動に対する制約が多く、街頭演説なども許可されないため、国民の間での盛り上がりも認知度もいまひとつであった。町の人にインタビューしてみても、立候補者がどういう人物なのかよく分からないため、投票に行くかどうか分からないという人が多い。特に専門家会議の議員は普段あまり表には出てこない高齢の法学者ばかりで、大の大人でも候補者の名前と顔の見分けがつかないという。
 専門家会議は、豊かな見識を備えた86名の、主にイスラム法学者(つまりお坊さん)で構成される任期8年の評議会である。その役割は、最高指導者の職務を監督し、病気や死亡の際に新たな最高指導者の選出を行なうことだ。つまり、間接的ではあるが、国家の最高指導者を国民が選ぶことができるという点で、イランの標榜する宗教民主主義を支える最も重要な機関であると言える。そして、現在の最高指導者ハーメネイー師が高齢であるため、今回の専門家会議選挙は特に重要であると見られていた。ただし、最高指導者が存命中は、専門家会議の仕事は年にわずか2回の会合のみであり、しかも非公開であるため、それがどういう内容のものなのか、国民にはまったく知らされていない。
 イランの民主主義のもうひとつの柱、地方議会選挙は、今回で第3回目を迎える。第1回地方議会選挙は、第1期ハタミ政権の1年目である1998年、彼の公約の1つとして実現した。この選挙では、改革派が原理主義派(保守派のこと。イランでは改革派に対する保守派の総称として用いられる)をくだして各市町村の議席の多数を獲得した。しかし、第2回市町村議会選挙が行なわれた2002年は、原理主義派が勝利し、テヘラン市議会では現大統領アフマディネジャードがテヘラン市長に選出されている。
 1998年の市議会開設とともに、市の予算が国家予算から独立し、市は各種使用税など独自の歳入を確保できるようになった。さらに現在、公共交通機関、電話、電気、ガス、水道、交通警察など、その運営が国から市へ委譲されることが検討されている。国政レベルの影響力はなくとも、より国民の生活に密着した行政府として、市町村議会の重要性は高まっている。

◆連合形成への歩み
 イランの無数の政党、政治グループは、選挙になると改革派と原理主義派(保守派)の二派に分かれて相争うため、連合形成が勝敗の鍵となる。投票日へ向けて、長い時間をかけて調整を行ない、原理主義派連合、改革派連合を形成し、双方、統一候補者リストの作成を目指す。そういう意味では多数政党制でありながら二大政党制に近い。しかし、原理主義派、改革派共に、無数の政党の意見をとりまとめ、統一候補者リストの提出に至るのは至難の業である。先の大統領選挙では、結局最後まで調整がつかず、保守派は3人、改革派は4人に候補者が割れ、票の拡散を招いた結果、改革派が惨敗した。
 こうした大統領選挙の結果は、今回の両陣営の連合形成に大きな影響を与えている。原理主義派は、大統領選勝利によって、その後かえって内部分裂を招いたと言われる。1700万票という圧倒的な得票数で勝利したアフマディネジャードの支持派は自信を強め、その非妥協的で急進的な政策から、改革派のみならず比較的穏健な原理主義派からも距離を置かれるようになっていった。そして今回の選挙では、結局、各派の努力もむなしく、最終的に原理主義派は大きく2つに割れた。1つはアフマディネジャード政権支持派の「奉仕の芳香」、もう1つはガーリバーフ・テヘラン市長(大統領選ではアフマディネジャード氏に破れた)を支持する「原理主義大連合」である。一方、改革派は、改革派の3大政党、「国民信頼党」、「建設の奉仕者」、「イラン・イスラム参加戦線」が「改革派連合」として共闘することが決まり、地方議会選挙での統一候補擁立に成功した。「国民信頼党」は、前国会議長キャルビー師が率い、「建設の奉仕者」、「イラン・イスラム参加戦線」はそれぞれラフサンジャニ師、ハタミ師と関わりのある政党である。この改革派連合の共闘は画期的なもので、改革派メディアは選挙前から、今回の選挙では勝敗そのものよりこの三党の連合形成の方に大きな意義があると評するほどだった。
 こうして、原始主義派大連合、奉仕の芳香、改革派連合の三つ巴の争いは、12月15日、投票日を迎えた。

◆大統領派の惨敗
 15日は朝から、国営放送が投票所の様子を繰り返し生中継していた。
「あなたはなぜ投票所に足を運んだのですか。今のお気持ちは?」
 投票箱に列を作る市民にレポーターがマイクを向ける。選挙権をもらったばかりの15歳の少年は生真面目な顔でこう答える。
「国の運命を決めるためです。とても嬉しいです」
 ちなみに、知り合いのある15歳の女子中学生は、「知らない人ばかりだから、白紙で投票する」と言っていた。4年後の選挙からは、選挙権が18歳以上に引き上げられることが決まっている。確かに、15歳の中学生にとって、今回の選挙は難しすぎる。
 投票日から3日後の18日には各州における3つの選挙の開票結果がほぼ明らかになった。
 まず、地方議会選挙の結果は次のようなものである。全州での各派の得票率は、改革派連合39.7パーセント、原理主義大連合28.7パーセント、奉仕の芳香3.4パーセント、無党派28.2パーセント。各市町村で改革派と原理主義派が票を分け合っているが、全体としては改革派の勝利と言っていい。さらに無党派の当選者の多くが今後、改革派と共同歩調を取るだろうと言われている。
 一方、専門家会議議員選挙では、そもそも原始主義派大連合、奉仕の芳香、改革派連合それぞれの候補者リストがかなり重複していたため、地方議会選挙のように各派の得票率を正確に割り出すことはできない。たとえば、テヘラン選挙区(定数16人)では、各派の候補者リストにのぼった16名のうち、ラフサンジャニ師やロウハニー師(ハタミ政権で核交渉チームのリーダーを務めた)を始めとする7人もの法学者が、改革派連合と原理主義大連合双方のリストに名を連ねている。
 ラフサンジャニ師は先の大統領選挙で、穏健な原理主義派の候補として立候補しながら、改革派陣営の一員としても振舞い、特にアフマディネジャード氏との決戦投票では完全に改革派陣営の支援を受けて戦った。そして、今回の専門家会議議員選挙でも、原理主義大連合、改革派連合双方のリストに名を載せて、同じような立場を演じている。
 その一方で、アフマディネジャード大統領の政策を支持する奉仕の芳香は、この2名を自派のリストから排除し、大統領の精神的支柱であるメスバフ・ヤズディー師やホシュバクト師といった強硬右派の法学者を中心に候補者リストを出してきた。したがって、専門家会議議員選挙における各陣営の勝敗は、テヘラン選挙区におけるラフサンジャニ師派対、メスバフ・ヤズディー師派の勝敗で計ることができる。そして蓋を開ければ、ラフサンジャニ師が2位に50万票以上もの差をつけ、150万票の得票数でトップ当選を飾ったのに対し、メスバフ・ヤズディー師は88万票で6位当選に留まった。さらにロウハニー師が84万票で7位当選を果たしたのに対し、ホシュバクト師は落選した。次期最高指導者を任命する可能性が高い今期の専門家会議の選挙で、穏健保守派が勝利した意味は大きい。
  テヘラン地区から欠員2名を選ぶ国会中間選挙でも、改革派系のソヘイラー・ジェロウダールザーデ氏と、原理主義大連合のハサン・ガフーリーファルド氏が当選を果たし、奉仕の芳香が押した候補者は落選した。

◆過激主義の敗北?
 原理主義大連合の勝利と、改革派連合の躍進、そして、奉仕の芳香の敗北という結果で選挙は幕を閉じた。
 アフマディネジャード大統領派の敗北を、海外メディアの多くは、ホロコーストや核問題などに関する過激発言や急進的な対外政策、とりわけ核問題で国連安保理による非難決議を招き国家を危機に陥れたことへの国民の回答であると評した。
 しかしイランでは、一部の強硬派が再三NPTからの脱退を叫ぶ中、国際社会でイランが孤立せぬよう、あくまでNPTに留まり、国際法規の枠内で核開発を進めるというこれまでの方針を堅持してきたアフマディネジャード政権に対し、国民はさほどの危機感を持っていなかったし、むしろイラン人にとっては、核兵器所有を公言したイスラエルになんの懸念も示さず、何ひとつ法的逸脱のないイランに非難決議を採択した安保理に対する怒りや不信感の方が強かったはずである。アフマディネジャード政権の対外政策には、確かにハタミ政権時代のような妥協が一切見られないのも確かではあるが、欧米中心の「国際社会」に対する挑戦と、自国の権利の主張という点では、現政権のプロパガンダはある程度国民の間に浸透し、支持を受けていたといっていい。今回の選挙結果に対する欧米メディアの分析、つまり奉仕の芳香の敗北が現政権の対外強硬路線に対する国民の警告であるとの見方は、そうであってほしいという欧米メディアの幻想でしかない。
 では実際のところ、奉仕の芳香の敗因は何なのか。まず今回の地方議会選挙で国民が求めていたものは、カリスマ性でもイデオロギーでもなく、経済政策であり、市政を担う実務能力であった。改革派連合のテヘラン地区の候補者リストには、ハタミ政権下の閣僚級が顔をそろえ、原理主義大連合のリストには前警察庁長官やテヘラン市議会議長、また現職テヘラン市議など、立候補者の専門性と実務能力を最大限アピールする内容であったのに対し、奉仕の芳香のリストは、「大統領支持派」であること以上にアピールポイントを持たない貧弱なものだった。
 統計によれば、ハタミ政権下で維持していた7パーセントの経済成長率が、アフマディネジャード政権下では4.5パーセントまで低下している。イランの経済成長20年計画では、若年人口の増加に合わせて年間50万人の雇用創出が求められているが、この2年間で達成した雇用はわずか20万人だという。その一方で、ここ数ヵ月間で20万人から40万人もの人が職を失った。もっとも、一般市民はこうした統計など見ていない。話を聞いた多くのテヘラン市民が言うのは、改善されない物価高や生活の諸問題である。
 15ヵ月前、「正義と公正」、「弱者救済」の旗を掲げ、大統領選を制したアフマディネジャード大統領は、「もしかしたら何かを変えてくれるかもしれない」と、まるで救世主のように国民の目に映った。しかしそれから15ヵ月、こつこつと市民のためになる法案も通してきたが、それ以上に目立ったのは、イラン全州訪問や、アフリカ諸国、南米諸国への訪問、性急な核開発、また、反米基金の設立などといった、国民の生活とは関わりのない動きだった。有能なテヘラン市長時代の実務能力と、生活の改善を期待していたイラン国民が、この15ヵ月間の大統領の経済的業績に失望し、その批判票として改革派連合、大原理主義連合の側に一票を投じたというのが、今回の選挙結果だったのではないだろうか。

◆今後の展望
 ところが、選挙結果が明らかになって以降、国内の改革派系メディアからも、奉仕の芳香の主な敗因は核問題での強硬路線を始めとする彼らの過激主義であるとする論調が出始めた。改革派系の新聞は、選挙結果を論評する際、「穏健・改革」という言葉と対置させるかのように「過激主義」という言葉で見出しを飾り、必要以上に現政権が過激主義であることを煽り立てた。こうした論調は選挙前にはさほど見られなかったもので、欧米メディアの論調に便乗したかのように見える。いずれにせよ、現政権派の敗北を目の当たりにし、昨年の大統領選挙の際の1700万票という国民の圧倒的支持はもはやないものと思い、現政権へのおおっぴらな非難を解禁したかのようである。
 改革派は今後、各地方議会において、原理主義派とある程度の妥協を強いられることを受け入れているようである。改革派連合の選挙参謀も、地方議会における原理主義派と改革派連合の共同作業は経済20年計画の推進であると語っている。また、そのような共闘は、地方議会内での大統領支持派の勢力を完全に抑え、原理主義派と大統領派の亀裂をこのまま、あるいはこれ以上大きくすることにもつながる。
 改革派と原理主義派をつなぐ役割を果たすのは、改革派に極めて近い穏健原理主義派の面々であり、その中心的存在としてラフサンジャニ師が今後大きな政治力を振るうことは間違いない。
 各派はすでに、来年2月の第8期国会選挙と、その翌年の第10期大統領選挙を見据えている。どちらも今回の連合形成の体験を貴重なものとし、経済政策重視の姿勢をさらに打ち出すことで、国民の支持獲得に努めるだろう。だがその前に、たとえ短いスパンでも何らかの成果を出さない限り、次の選挙では勝てないことも、各派は今回の選挙で学んだはずだ。
 イラン国民は批判票を投ずることで、生活への不満を為政者に訴えてきた。しかし、訴えても無駄だと考え、投票にすら行かない市民は、まだまだ多い。


No.19 核施設のまちナタンズに行く

▲ナタンズ市 野菜の朝市
▲遊んでくれたアフガン人兄弟
▲アービヤーネ村郊外の田園
◆イラン核技術国民記念日  イラン暦ファルヴァルディーン月20日、西暦で言えば今年の4月9日を、イラン政府は核技術国民記念日と名づけ、国中で祝祭の式典を執り行なうと発表した。この日は、昨年の2006年4月10日、イランが3.6パーセントの低濃縮ウランの製造に成功したことを公表した日であり、その1周年目に当たるこの日をイラン核技術国民記念日と名付け、式典を催すとともに、新たにまた政府から「嬉しいお知らせ」があるという。イラン中部、ナタンズ核施設での特別式典には大統領も出席すると聞き、私は9日早朝、ナタンズへと向かった。
 ナタンズの核施設はテヘランからそう遠くない。テヘランの長距離バスターミナルからバスに揺られること3時間、バスはテヘランから南に246キロのカーシャーンに着く。カーシャーンよりさらに南75キロ先のナタンズ市までは乗り合いタクシーが頻発しており、核施設は、カーシャーンとナタンズ市のほぼ中間に位置している。
 カーシャーンで乗り込んだ乗り合いタクシーには、ナタンズ市在住の男性が同乗した。彼に、イランの核政策をどう思うか聞いてみた。
「これ以上、問題を大きくするべきじゃないと思うけどね。イランには長距離ミサイルの技術がすでにあるから、核弾頭を搭載する技術くらい、たやすいものさ。もちろん、政府が核兵器を持たないと言っているのは信用してるよ。でも、西側が信用していない以上、問題は大きくなってゆくばかりだよ」
 この2年間の間に、アメリカとイスラエルがイランの核施設を攻撃するかもしれないという報道が繰り返し行なわれてきた。そうした報道は次第に具体性を帯びてきており、今年2月には、イスラエル空軍がナタンズ空爆を意図して英領ジブラルタルまでの往復飛行訓練を行なっているとする報道があり、またペルシャ湾に停泊中の米空母による4月空爆説が、ロシアの国営放送によって3月と4月に繰り返し報じられていた。もしアメリカが核施設を空爆すると、そこから数10キロしか離れていないナタンズ市を含めた周辺地域は放射能汚染で壊滅する可能性がある。核施設のそばで暮らすことに不安はないのだろうか。
「それは大丈夫。核施設本体は地下深くにあり、しかも厚いコンクリートの壁で覆われてるからね。貫通弾? 知ってるよ。それでも地下施設に被害を与えるのは無理だと思う」
 そうこうするうちに、運転手が前方を指差し、核施設に着いたよと教えてくれた。一面の荒野と、背後にはうっすらと砂色のキャルキャス山脈が横たわっている。低い鉛色の空の下で、数基の高射砲が頼りなげに空を睨んでいる。
 施設の門前には数台のパトカーが停まり、関係者のものと思われる車両も見られるが、私がインタビューをしたかった熱狂的な保守系市民の姿は見られない。時刻は午前11時、幸い式典はまだ始まっていないらしい。施設内への入場を試みるが、許可証を持った関係者以外、立ち入りはできないと丁重に断られた。
 周囲を見回してみると、1人の若者が風上に背を向け、寒そうに芝生の上に座り込んでいる。話しかけてみると、彼も式典のためにカーシャーンからやってきたのだという。 「大統領に会えると思ったんだ。会って、仕事をくれって頼もうと思ったんだけどね」 26歳のバスィージ(市民動員軍)だという彼は、現在無職で、アフマディネジャード大統領に直訴するためにやって来たという。バスィージ出身の大統領になら自分の声が届くかもしれないと思ったのだろう。
 バスィージ青年と話し込んでいると、パトカーが脇に停まり、職務質問してきた。このとき、パスポートを家に忘れてきたことに気が付いた。早朝、慌しく家を出たせいだ。 「ちょっと来なさい」
 式典どころではなくなってしまった。私はそこで1時間ほど待たされたあげく、カーシャーンの警察署まで連行されることになった。パトカーがカーシャーンへ向かう途中、あろうことか『祝!核技術国民記念日』の横断幕を掲げ、核施設へと向かう、市民を乗せた何台ものバスとすれ違った。カーシャーンの警察署では、穏やかながら4時間近く事情聴取され、夕方になってようやく解放された。パスポート不所持では宿にも泊まれないため、そのままテヘランに一旦戻るしかなかった。
 その晩、テヘランの夜空には打ち上げ花火が上がり、テレビのニュースではナタンズ核施設での式典の模様と、施設前で熱狂的にイランの核の権利を叫ぶ市民の姿が映し出されていた。そしてこの日、イラン全土の学校では朝9時に鐘が鳴らされ、全校生徒で「核エネルギーは我々の明らかな権利!」、「アメリカに死を!」、「イスラエルに死を!」、「神は偉大なり!」の大合唱が唱えられたという。

◆再びナタンズへ  翌日の各紙の朝刊は、前日のナタンズ核施設でのアフマディネジャード大統領の演説の写真を1面トップで飾った。私はそれらの新聞に目を通しながら、再びバスに揺られて南を目指していた。核施設周辺住民の話をもっと聞いてみたいと思ったのだ。
 保守系、改革系、どの新聞も、一面の見出しは『イランは核エネルギーの産業化段階に入った』、あるいは『3000機の遠心分離機に6フッ化水素を注入』でほぼ統一され、紙面は祝賀ムード一色である。昨年12月の専門化会議議員選挙と地方評議会選挙で大統領派が完敗し、改革派が大幅に議席を伸ばした際、改革派系各紙はここぞとばかりにアフマディネジャード政権の性急な核政策を非難し、アメリカに付け入る隙を与えて国を危機に陥れるべきではないとする論評を載せたものだが、今朝の朝刊はすっかり保守系各紙と足並みを揃えている。私は、昨夜テレビで見た、アーガーザーデ原子力庁長官の談話を思い出す。
「我が国の若い研究者たちは自らの人生をイランの核開発に捧げてきた。核施設に泊まあり込んで、毎日16、17時間も働いた。海外の企業も研究者も我々のそばにはいなかった―」
 これは言ってみれば、イラン人にとって、現在進行形の『プロジェクトX』なのだ、とそのとき私は思った。昨日の式典ではアフマディネジャード大統領も涙ぐんでいたという。改革派各紙の論陣までもが思わず愛国主義に流されてしまうのも無理もない気がした。
 前日と同様、カーシャーンでバスを降り、ナタンズ市行きの乗り合いタクシーに乗り換える。核施設の前を通過する際、なにげなく前日の式典と記念日について運転手に話題を振ってみる。
「そりゃ嬉しいよ。祝うべきことさ。アメリカや西側にあれだけ圧力を受けながら成し遂げたことなんだから!」
「アメリカ人やイスラエル人のことをどう思いますか?」
「彼らの政府のやり方は気に食わないけど、べつにアメリカ人やイスラエル人そのものに対し、悪意はないよ。ユダヤ人はもともとイラン人と仲が良かったんだ。アケメネス朝だったかな、王妃はユダヤ人だったし、イスラエルのゴッズ寺院もペルシャが建ててやったんだ。あの時代はイスラムもユダヤもなかったからね。でも今だって、イスラエルの前の首相はイランのヤズド出身なんだよ。イラクの前アメリカ大使もハリーザーデって名前だったから、あれもイラン系だろう。それより日本はどうなんだよ。原爆まで落とされて、それでもアメリカとずいぶん仲良くやってるよな。アメリカ人に対する憎しみはないのか?」
 イランでは、アメリカやイスラエル政府を罵る言葉は至るところで耳にするが、国民そのものに対する感情を尋ねると、この運転手のように至って冷静な答えが返ってくる。イランはまだアメリカともイスラエルとも戦争をしておらず、アメリカやイスラエル兵の手で無残に同胞を殺されるという経験がない。それが、イラン人にこうした理性を残している所以かもしれない。一方で、20万人近い犠牲を伴ったイラクとの8年戦争を経て、イラン人はいまだにイラクの国民に対する嫌悪感を捨て切れず、米軍占領下のイラクの惨状を見ても、概して冷淡である。同じように、ひとたびアメリカによる空爆が始まれば、イラン人のこうした理性も瞬く間に消し飛んでしまうに違いない。
 タクシーは荒野の中の一本道を恐ろしいスピードで走り続ける。スピードメーターは壊れていて、時速何キロなのかは分からない。右手に見えていたキャルキャス山脈の山並みが険しさを増し、鋭い岩盤の頂に残雪がところどころ見られるようになると、左手前方に、緑に包まれたナタンズ市が見えてきた。

◆ナタンズの沈黙と日常  ナタンズ市は人口1万5000人ほどの、ありふれた地方都市だ。キャルキャス山中には桃源郷のような美しい山村が散らばり、そうした周辺住民も含めれば、3万人近い人々がこの一帯に暮らしている。ナタンズ核施設は、実際にはこの町より若干カーシャーン寄りにあり、施設で働く労働者もほとんどカーシャーンの人だと聞く。しかし、ひとたびアメリカによる核施設への攻撃が始まれば、まっさきに放射能汚染で壊滅するのは、風向きから考えて、施設の南部に位置するこのナタンズ市周辺地域である。
 タクシーは親切にも町の中心イマーム広場の宿の前まで送ってくれた。この小さな広場を中心にバザールとも呼べない小規模な商店街が広がり、その先には、藁を混ぜた土塀作りの旧市街がある。迷路のような旧市街の中には、水パイプの軸を作る木工職人や、陶器職人の店があり、その先にこの町の歴史遺産である古いモスクがある。このモスクの建立は10世紀のブワイフ朝時代にさかのぼり、その後14世紀のイルハーン朝期に増築され、ほぼ今の形となった。金曜モスクとして現在も現役で、夕方の礼拝時間になると、モスクのスピーカーから礼拝を呼びかけるアザーンが流れる。旧市街の暗い小道にアザーンがこだますると、あちらこちらの家から、男たちが木戸を開けて顔を出し、互いに挨拶を交わしながらモスクへと向かう光景が見られる。
 翌朝、宿を出ると、イマーム広場のすぐそばでは野菜の朝市が開かれており、イラン人の食卓に欠かせないハーブ類が山積みで売られていた。写真を撮ってよいかと男性の売り子に尋ねると、それは勘弁してくれと立て続けに首を振られた。イランでは頼まなくても向こうから「俺を撮れ」と言ってくるのが普通なのだが、ここでは若い男性の売り子のほとんどから撮影を拒否され、「あのじいさんならきっと撮らせてくれるよ」などと教えられる始末だった。
 昨日は昨日で、宿をとる際、宿のオーナーはわざわざ役所に電話して、外国人を泊める許可を求めていた。この町自体が明らかに外国人を警戒している様子で、これまでイランでは体験しなかったことばかりだ。
 その後、町の人に昨夜の宿のことや、撮影拒否の話をしたところ、「まあ、核施設のこととか、色々あるからね。でもあんまりそういうことは話さない方がいいよ」と忠告してくれた。イラン国中が核技術国民記念日に沸く中、当のナタンズ市民は、この問題を避けるかのように、普段と変わらずひっそりと暮らしている。
 そんなナタンズだが、金曜モスクは今日も何組かの外国人ツアー客でにぎわっている。ツアー客が甘やかすからだろう。小学生の子供が私を見ると駆け寄ってきて、「ペンをちょうだい」とねだる。身なりのこぎれいな普通の子供たちがそんなことを言うので、「乞食でもないのにそんなことを口にするもんじゃない」と説教してみるが、けらけらと笑いながら行ってしまった。
 しばらく旧市街を歩いていると、また下校途中の小学生に出会った。その二人組みはこぎれいな身なりとは言い難く、坊主頭で、背の低い方の子は明らかに兄弟のお古と思われるぶかぶかのセーターを着ていた。写真を撮らせてくれと頼むと、「アフガン人なの?」と訊いてくる。
「違うよ。日本人だよ」
「カーブルから来たの?」
「だから違うってば」
「写真ならあっちで撮ろうよ」
 彼らはそう言うと、私を先導して駆け出した。着いた先は、誰かの私有地のようだが、辺り一面ユリに似た小さな白い花が咲き乱れ、桜の木も満開である。そこで彼らは木に登ったり、花を摘んだりしながら私に写真を撮らせてくれた。聞けば、やはり2人は兄弟とのことだ。上の子がモハンマド君12歳、下の子がアリー君10歳。
「もっときれいな場所もあるよ!」と彼らはまた私を先導して歩き出した。道路を外れて、誰かの農園をそのまま横切って行く2人を、急ぎ足であぜ道沿いに追いかける。数分歩くと、さきほどよりきれいな花畑にたどり着いた。彼らに撮った写真を送ってあげようと思い、住所を聞いてみたが、2人とも正確な自分の住所を知らないという。家に行ってみれば分かるだろうと思い、そのまま2人の家へと向かった。
 途中、彼らは何人かの人を指差しては「あれはアフガン人だよ」と教えてくれる。なぜ分かるのかと訊くと、知ってる人だからと答える。
「君たち、もしかしてアフガン人?」
「そうだよ!いつかカーブルに行くんだ。その前にゴムとマシュハドにも行って、マシュハドには親戚がいるんだ。それからキャルバラにも参拝して、あ、あのおじさんもアフガン人―」
「お父さんは何してる人?」
「レンガ積みだよ」
 弟のアリーがどこかへ消えたかと思うと、しばらくしてキュウリとリンゴの入ったビニール袋を片手に嬉しそうに戻ってきた。バザールまでひとっ走りして、知り合いのアフガン人の売り子からもらってきたのだと言う。キュウリをぽりぽりと3人で頬張りながら歩き続ける。もうずいぶん町外れまで来てしまった。
「もうすぐだよ。近くにはイマームザーデ(歴代イマームを祭る参拝所)があるんだ」
 そのイマームザーデもかなり過ぎて、周囲が農園ばかりになった頃、ようやく彼らの家に到着した。壁があちこち剥がれ落ちた古い家だ。あいにく両親は留守で、家には番地の札も付いていない。残念だが、住所は諦めるほかなさそうだ。
 彼らはイマームザーデに遊びに行こうと誘ってくれたが、私はそろそろこの町を出発しなければならなかった。小さな手のひらと握手を交わし、2人の家をあとにした。

◆アメリカへの不信感  その日の午後、私はナタンズの町から程近い、キャルキャス山中のアービヤーネ村に向かった。アービヤーネ村は、山の斜面にある、赤土の壁で統一された美しい景観の村として有名で、観光客にも人気がある。
 しばらく村を散策してみるが、平日のせいもあって実に閑散としている。観光客向けに整備された村のメイン道路には、ぽつりぽつりとお土産のドライフルーツを売る老人がたたずんでいる以外、誰一人目にしない。聞けば、若い人たちは皆、都市部へ働きに出ているという。町で売られている電気乾燥のドライフルーツとは違い、ここのドライフルーツは天日干しで、そのためか甘みが強くておいしい。しかし季節柄かリンゴと梨しかない。他にお土産らしいものは見当たらず、安い食堂や宿もない。せっかく海外の旅行ガイドにも乗っている有名な村なのに、これでは観光客がお金を落とそうにも、落としようがない。
 村を出ようとしたところ、中年男性ばかりが乗った1台の乗用車が私の傍らで停まった。私がナタンズ方面に向かうと知ると、乗せていってくれるという。彼らはサーデラート銀行の監査役で、アービヤーネ村支店の監査のため、村から40キロほど離れたバードルード市からやってきていた。車を運転しているのは、アービヤーネ村支店の支店長である。
 車中では話がはずみ、幹線道への分岐で下車する予定が、せっかくだから今夜はバードルードまで一緒に行って、彼らの寝泊まりする銀行支店に泊まってゆけということになった。
 バードルードはナタンズの北東20キロの地点にあり、鉄道や古くからの街道沿いにあることから、ナタンズ市より幾分活気がある。人口は2万人ほど。「風の河」を意味するバードルードは、その名の通り風が強い。町の周囲は、この町の特産であるザクロの広大な果樹園に囲まれ、果樹園の新緑が、荒野を渡ってくる強風を和らげる役目を果たしている。
 町の中心街にあるサーデラート銀行の前で監査役の2人と私を車から降ろすと、アービヤーネ村支店長は村へと帰っていった。イランでは銀行の建物の上階は、たいていその支店の支店長宅になっているが、ここでは関係者の宿泊所になっていた。今夜ここへ誘ってくれた監査役のモフセニーさんとジャアファリーさんは、1週間近くここに寝泊まりしながらアービヤーネ村支店へ毎日通っていたという。だが、その仕事も今日でようやく終わり、明日は本店に帰れるのだそうだ。モフセニーさんはさっそく家に電話をかけ、明日は家に帰れると家族に報告している。
「こんなふうにいつも地方を飛び回っているんですか? 家族と離れ離れで、大変なお仕事ですね」
 私がそう言うと、ジャアファリーさんは、「いや、地方出張はローテーションになっていて、1ヵ月に1回、1週間の出張が回ってくるんだ。会社も考えてくれているよ。イラン人にとって、家族は何より大切なものだからね」と言い、モフセニーさんの電話が終わるや、今度は自分がかけ始めた。
 テレビでは夕方のニュースが始まっていた。イラクで拉致され、最近解放されたばかりの在イラク・イラン領事館の二等書記官のニュースが流れていた。この二等書記官はイラク北部アルビルのイラン大使館に勤務中、米軍の急襲を受け、そのまま連れ去られて行方不明になっていた人だ。4月に入ってようやく解放され、イランに帰還すると、拘束中に激しい拷問を受けたことを公表した。アメリカはこの件への関与を否定しているが、イランはCIAの関与を確信し、国連や国際赤十字を通してアメリカに抗議している。
 テレビの画面には、二等書記官の身体に残る生々しい拷問の傷跡が映し出されている。足には何箇所もドリルによって開けられた穴が残り、脊髄も損傷している彼は、車椅子での生活もままならない。
「見なよ。あれがアメリカのやり方だ。人間性のかけらもない。イラン人は絶対あんなことはしない。文化の違いだよ。アメリカは歴史がないからな。人間性の面で培われてきたものもないんだよ。あれでよくよその国の人権がどうこう言えるよ。イラン航空機爆破事件を知っているか? 1988年にペルシャ湾で、アメリカ艦艇によってイランエアーの航空機が撃墜され、乗客290人が殺されたんだ。そういうことを平気でする国なんだ」
 ジャアファリーさんはテレビを見ながら憤っている。どうにも怒りが収まらないらしい。私はそのときになって、サーデラート銀行がアメリカによって経済制裁の対象銀行にされていることを思い出した。ジャアファリーさんは頷くと、こう言った。
「そうだとも。そのせいで、まあ、いくらかの損害は受けたよ。うちを介してイランと貿易を行なっていたヨーロッパの企業は、他の銀行に変えざるを得なかったしね」
 ドアのベルが鳴ったかと思うと、階下からアービヤーネ支店長が鍋を抱えて上がってきた。遅くなって申し訳ないと挨拶しながら、絨毯の上に食布を敷いて、ご飯や鳥のトマト煮、ヨーグルト、ハーブのサラダなどを並べ始める。奥さんの手料理だという。わざわざアービヤーネ村に戻って取ってきたのだそうだ。私たち3人が食事をしている間も、支店長はキッチンで食器を荒い、食後のお茶の用意までして、さらに私のために明朝のバスの時間をバス会社に電話で問い合わせてくれた。支店長は食後の鍋や皿を集めると、「何か他に御用はないですかな」と丁重に尋ね、この1週間の監査役の苦労をねぎらい、帰っていった。監査役2人は、別に偉そうにふんぞり返っているわけでは決してないが、やはり監査する側とされる側では、立場がずいぶんと違うようである。
 食べ過ぎて動けないという私を、モフセニーさんが散歩に誘ってくれた。あらかた店を閉め、閑散とした夜の商店街をぶらぶらと2人で話しながら歩く。 「アフマディネジャード政権というのは、イラン人にとって、どうなんでしょう。この1年半、よくやっていると思いますか?」
「ああ、良くやっていると思うよ。ハタミ政権に比べれば色んな違いはあるけれどね。例えば? そうだね、ハタミ政権では、表現の自由や欧米との関係改善が進んだよね。一方、アフマディネジャード政権は、その逆の面もあって、幾分過激な言動も見られるけど、国内の団結や、地域諸国や途上国との関係強化を進めている。ハタミ政権とアフマディネジャード政権は正反対の性格のように映るけど、どちらも目的は1つ、国家の発展だ。そういう意味では同じだよ。改革派だ、保守派だと争っても、国の発展を目指すという意味では同じなんだ」
「アフマディネジャード政権の核エネルギー政策は少し性急だと思いませんか? 下手したらこれを口実にアメリカは攻めてきますよ」
「いいかい、アメリカの目的はイランに核開発を放棄させることなんかじゃない。イランのイスラム共和制を崩壊させることが目的なんだ。革命から28年、アメリカはいつだってそのチャンスを狙って、言いがかりをつけてきた。核開発も口実の1つに過ぎないんだ。たとえイランがアメリカのご機嫌を取って核開発を中断したとしても、また別の口実を持ち出してくるだけさ。つまり、我々が核開発を進めようが進めまいが、アメリカの政策は変わらないってことさ」
「でも、近い将来、もしアメリカが期限を設けて、例えば1ヵ月以内に核開発を停止しなければ、地域の安定を乱す要因と見なし、イランの核施設を空爆する、というような最後通牒を突きつけてきたら、イラン政府と国民はどういう選択を取るんですか? つまり、戦争してでも核開発を進めるつもりですか?」
「まずね、イラン政府は性急な結論を出さないで、戦争でも核開発停止でもない選択肢を模索するだろうね。それともう一つ、アメリカがイランを攻めることはないと思うよ。イラクとアフガニスタンであれだけ苦い経験をしてるんだから」
「そうでしょうか。アメリカがイラク攻撃をほのめかしていたとき、世界中は、アメリカはアフガニスタンで手いっぱいだからと、イラク攻撃には半信半疑でした。しかし、結局アメリカはイラクを攻撃しました。イラン人は少し楽観的すぎやしませんか?」
「イランは、イラクともアフガニスタンとも違う。イランの団結や軍事力、地域諸国とのつながりは、アフガニスタンやイラクの比じゃない。さっきも言ったけど、イランは改革派と保守派で分裂しているわけじゃない。冗談でアメリカが来てくれたらなあなんて言ってる若者たちだって、ひとたび侵略者が攻めてきたら、きっと銃を持って戦う。この団結と軍事力に対し、アメリカは勝利できない」
 私はモフセニーさんの話を聞きながら、以前に何度も似たようなやり取りを繰り返してきたことを思い出した。核問題だけに注目していると、つい全体が見えなくなってしまう。本当はイラン人にとって、イラン核問題に対するアメリカの横槍など、これまで繰り返されてきた言いがかりの1つにすぎないこと。アメリカの言い分などいちいち聞いていたら何もできないこと。アメリカの真の目的がイスラム共和制の崩壊であること。これらアメリカ政府のイランに対する根本的な悪意を、イラン人は既存の事実として受け入れてしまっているのだということを、私はようやく思い出した。
 散歩を終えて宿舎に戻ると、ジャアファリーさんが暇そうにテレビを見ている。モフセニーさんが私とのやり取りをかいつまんで説明すると、ジャアファリーさんはやおら起き上がって、我が意を得たりといった顔で語り始めた。
「そうさ、アメリカはイランには勝てない。アメリカだってよく分かっているはずさ」 「アメリカにそれだけの分別があればいいんですけどね……。だって、アメリカって結構目論見違いの失敗を繰り返してますよ。イランの団結や軍事力だって、しっかり把握しているかどうか、怪しいもんです」
「いいさ、仮に攻めて来たら来たで、戦うだけだ。それが正義だ。国を守るために戦うこと以上に尊い行ないはない。そうじゃないか? イラン人の意識は、間違っているか?」
「いえ……。イラン人はみんな、イマーム・ホサインなんですね」
 私がそう言うと、「よく分かってるじゃないか!」と2人は満足げに笑った。イマーム・ホサインはシーア派3代目イマームで、ササン朝最後の皇帝の娘を娶ったことなどから、古くからイラン人に人気がある。西暦680年、4000人のウマイヤ朝軍に対して、73人で立ち向かい、自らの正義と信仰を貫いて殉教したキャルバラの悲劇は、毎年イスラム暦モハッラム月に行なわれる追悼行事アーシュラーを通して、今もイラン人を陶酔させてやまない。イマーム・ホサインはシーア派にとって、権力と圧制に対する正義の戦いのシンボルであり、近代では革命や戦争の中で常に重要なファクターとして精神的かつ政治的な役割を果たしてきた。イマーム・ホセインの物語の中では、死は勇ましく、尊く、そして美しいものなのだ。
 翌朝、私は2人に別れを告げ、テヘランへ戻る車中の人となった。
 荒野の中を、比較的古いアスファルト道が北へと伸びている。荒野にはラクダ草に混じって、黄色い小さな花が随所に見られ、砂漠にもはかない春が訪れていることを教えてくれる。そんな景色の中に、点々と高射砲台が見えはじめ、核施設のそばまでくると、それは数100メートル置きに並ぶようになった。朝の7時前からすでに砲手は砲台に上り、何もない曇り空を睨んでいる。聞いた話では、核施設に対する空爆ないしミサイル攻撃には、まず迎撃ミサイルが応戦し、これら無数の高射砲はその後の補完的な役割を果たすのだという。
 地中深く、厚いコンクリート壁に覆われたウラン濃縮施設を破壊するため、アメリカとイスラエルは、普通のバンカーバスター(地中貫通弾)ではなく、小型核を搭載した核バンカーバスターを使用するのではないかと言われている。そのため、ナタンズは、広島・長崎以降、世界で初めて核攻撃される危険が最も高い場所と言われている。
 以前、アフマディネジャード大統領は演説の中で、「核施設が攻撃されて破壊されたなら、さらに良いものをまた作ればいい」と国力を誇示する発言を行なった。この発言には、周辺住民の甚大な被害に対する視線はない。同じように、アメリカとイスラエルは、「核施設という軍事目標へのピンポイント攻撃」の了解を、いずれ世界に求めるかもしれない。しかし、核施設への'ピンポイント'攻撃などありえないということを、世界の人々は知ってほしい。


No.20 物価高騰 イランの場合

▲米
◆イラン再訪  今年、2008年5月、ほぼ1年ぶりにイランに戻った。1年で首都テヘランの様子が様変わりするはずはないが、かつて暮らした地区を訪ねてみると、ファーストフード店やこぎれいなブティック、新しい銀行などが目に付き、改めて1年という時の流れを痛感した。
1年前と比べて、もうひとつ目に付くのは、物価の高騰である。交通費、賃貸料、雑貨、食品、程度の差こそあれ、ほとんどすべてのものの値段が、1.5倍から2倍近くに跳ね上がっている。公式発表では、今年のインフレは20パーセントというが、それどころではない。
この異常な物価の値上がりは、世界規模での原油価格高騰とそれに伴う物価の高騰、そして西側による経済制裁に原因がある、と政府はさかんに言う。一方で、野党系列のメディアはそうした大統領の発言を責任転嫁であると非難し、保守派の重鎮たちからさえも、現内閣の経済政策へ非難の声が上がっている。
だが、この物価高騰には、政府の経済政策のまずさとともに、別の人為的な側面もかなり影響しているようだ。
例えば、1年ほど前、テヘランでは洗濯機用洗剤が店頭から消えた。その後少しずつ市場に出回るようになったが、価格は以前の3倍近く跳ね上がり、十分店頭に並ぶようになった今も価格は下がらない。
砂糖が品薄であるとメディアで流され、騒ぎになったこともあった。トマトが品薄で通常の3倍以上の価格がしばらく続いた時期もある。そしてつい最近では、チャイ、つまり紅茶がなくなるという噂が流れ、人々が買いだめに走った。小売店はそれに便乗して値上げしたが、それでも1人で何箱も買いだめする人の姿が見られた。結局、それも風評に過ぎないことがのちにわかった。
もはや、どれが本当の品不足で、どれが人為的な風評なのか判別できず、次はどの業界が甘い汁を吸う番なのかと巷ではささやかれるまでになった。

◆米の価格高騰  こうした人為的な側面が最も強調されているのが、この国の主食である米の価格高騰である。
イランでは米はおおまかに、1級米、2級米、外国米などと分類されるが、とりわけ1級米はこの1年で3倍以上も値上がりし、1キロの値段が5000トマン(約600円)するものも珍しくない。2級米はその半額ほど。主にインドやパキスタン、タイから輸入される外国米はさらに安い。
新聞などでは、米の価格高騰の原因について、いくつかの推測が挙がっている。例えば、@ 世界的な食糧価格の一環に過ぎず、輸入米の価格が高騰したため。
A 昨年、降水量が少なく、今年、市場に出回っている国内産米の量が例年に比べて少ないから。
B 今年の降水量が少なく、来年市場に出回る米が少なくなることが予想されるため、国民が買いだめに走っている。
C 米の価格を吊り上げるための経済マフィアの暗躍。
D 政府内にインサイダー取引を行なう者がある。

@については、政府がさかんに繰り返してきた主張だが、イラン人はそもそも外国米をほとんど食べないと言っていい。「イラン人にとって米に代わる食べ物はない」と言われるほど、彼らは独特の香りを放つイラン米に固執する。あまり人気のない外国米の価格が国内産米の価格全体にこれほど影響を及ぼしているとは考えにくい。
Aについてはどうやら風評であり、Bについてはある程度事実であるようだ。今年の水不足については、テヘランでも、季節の変わり目の雨が例年より少なかったように感じる。地方のダムの入水量が例年の数分の1であるとのニュースも目にする。そうしたことから、来年度市場に出回る米は少ないだろうと予想し、人々が買いだめに走っているという。
そこで早速、近所の米屋に訊いてみた。すると、今年は例年に比べ、確かに米がよく売れているという。一部、人々が買いだめに走っていることも否定しないという。しかし、だからといって米が不足しているわけではなく、倉庫には常に1級米から外国産米まで在庫は豊富にあるという。とすれば、需給関係からではなく、意図的な価格の吊り上げがどこかで行なわれていると見ることが妥当である。
そうしたことを踏まえ、とうとうCやDの可能性がメディアで取りざたされ、政治家の発言の中にも見られるようになった。

◆闇業者の暗躍  以前、国内の米の価格高騰を、世界的な食糧価格高騰の一環であると言っていた政府も、次第に経済マフィアの暗躍を口にするになった。
アフマディネジャード大統領は6月23日に行なったメディアとのインタビューで、経済マフィアのやり方について述べ、「国民はそれが誰だかわかっていると思う。だから私がそれをAさんとかBさんなどと名指しするつもりはない」と語った。
国民誰もが知っている人物。この国の経済を自由自在に操れるような大物。そう聞いて浮かぶのは、この国の実質ナンバー2であり、何かとアフマディネジャード大統領と反目し合っているラフサンジャニー師ということになるのだろうか。
「ラフサンジャニーだけじゃない。政府の中には情報を流用して、自分の利益にしている人間がいっぱいいるよ」
「イランではいつの時代も、こっそり自分のポケットをいっぱいにしているやつらがいたもんさ。今だって変わらんよ」
町の人は、この物価高の責任が誰かといったことにはあまり関心がないらしい。もちろんラフサンジャニー師が関与している証拠はなく、だから大統領も名指しはしない。いずれにせよ、市民は怒りをあらわにすることもなく、どこか諦めた様子で、暴風雨が吹き去るのを待つかのように、この物価高にもじっと耐えている。その姿には、歴史を通して、異民族の侵入、支配階級による圧制、大国の介入に常に晒され、乗り越えてきたイラン人の諦観が垣間見られる。

◆夏の終わりに  イランでは、米とともにナン(パン)が主食である。街中には焼き立てのナンを売るナン屋があちこちにある。そのナン屋の行列が最近長くなったと言われる。米を食べる量を控え、ナンでお腹を満たす家庭が増えたのだ。米と違い、小麦は政府が補助金を出し、価格の変動を抑えているため、ナンの値段も1年前と変わっていない。
イラン人は国産米をこよなく愛する。外国米など食べれる代物じゃないという言葉もよく聞く。ところが最近、インド米の人気が急上昇しているという。イランの米どころ、カスピ海沿岸に住む私の友人は、初めて食べたインド米のうまさに驚き、「いっぱい食べ過ぎて太るから、買わない方がいい」とまで言った。
さっそく近所の米屋を覗いてみると、以前は2種類だったインド米が、4種類の品揃えに増えている。売れ行きは上々だそうだ。値段はイランの2級米程度。試しに少し買って、その晩、炊いてみた。これが本当にうまい。イラン米の独特の香り、味を存分に備えている。幸い転じて福となすとはこのことだろうか。
しかし、気を良くしてばかりはいられない。この夏は例年にない水不足と、そのための電力不足で、イランでは毎日2時間の計画停電が夏の間中実行された。まもなく迎える秋の収穫に、この水不足がどれほど響くことになるのか心配されている。また、こうした不安が巷に広まり、人々が新たな買占めに走ったり、闇業者が暗躍することになるのが、最も危惧される。


NO.21 革命勝利30周年

▲「革命記念日 アザディータワー」
(ここから)行進の終点アザディー広場。30年前、
フランスから帰国したホメイニー師をテヘラン市民は
この広場で盛大に出迎えた。
▲「革命記念日 露店」
メインストリートのアザディー通りだけでなく、
主な行進ルートにも市が立っている。
▲「革命記念日 ステージ」
行進への親子連れの参加を見込んで、
子供向けのイベントが多く目に付く。
 2009年2月10日、イランはイスラム革命勝利30周年記念日を迎え、各地で盛大なセレモニーが行なわれた。毎年この日は革命記念日として国民の祝日とされ、イラン全土で行進が行なわれる。今年も、政府の呼びかけで、首都テヘランでは朝9時半から、事前に指定された市内8ヵ所で行進が開始された。
 8つの行進は、市内西部にあるアザディー(自由)広場を目指す。午前10時半には、アザディー広場に通じるアザディー通りは、各方面から合流した人々で埋まっていた。
 この行進のメインストリートとなるアザディー通りの歩道には、様々な団体のブースや、テレビとラジオ各局のステージが設けられ、多種多様な催しが行なわれている。歌謡ショーもあれば、著名な聖職者の演説もあり、人気のある子供向け番組の収録が行なわれているステージの前では、集まった親子連れで押し合いへし合いになっている。消防署の前を通りかかれば、レンジャー部隊がビルの壁面の垂直降下を披露している。驚いたのは、12歳くらいの少女の一団が、揃いの衣装でステージの上で踊りを披露していることだ。厳格なこの宗教国家で、その光景はあまりにまぶしく、華やかなものだった。
 路肩には様々な露店が地面に品物を並べ、ちょっとしたバザールになっている。こうした露店は数年前までは許可されていなかったという。衣服や日用雑貨の露店とともに、イランの冬の風物詩、そら豆の煮付けや砂糖大根の煮込みの屋台もあちこちに見られ、市民はそれらを冷やかしながら、アザディー広場へ向かって、楽しそうにそぞろ歩いている。
 ようやく前方に、ゴール地点のアザディータワーが見えてきた。だが、その威容を遮るかのように、衛星打ち上げロケット・サフィール2号の実物大模型が、誇らしく群集を出迎えている。多くの人がこのロケットの前で記念写真を撮っていた。
 この人工衛星は去る2月2日、革命30周年を記念して打ち上げられた。海外から一切の援助を受けず、衛星打ち上げロケットも、人工衛星も、そして管制システムも、すべてイラン人研究者の手によって作られたことが内外に対して喧伝され、革命後30年間の成果として誇示された。
 常に西側からの制裁にさらされ、最先端技術と呼ばれるものがほとんど入ってこないイランでは、この自力での人工衛星打ち上げ成功のニュースは、国民のプライドを十分にくすぐるものとなった。
 「まずアメリカに言いたい。イランは外国に頼ることなく、すべて自分で出来る。それを誇りに思う。こうして衛星だって作った」。
 衛星ロケットの前で私に声をかけてきた20歳の青年は、そう語った。彼はあと10日で兵役を終えるという。
 黒ずくめに不精髭をたくわえた、一目で熱狂的保守層と分かる初老の男性が話しかけてくる。
 「革命直後はまだ海外から小麦も大麦も、あらゆる食糧を輸入に頼っていた。俺はバンダレアッバースの港で働いていたからよく覚えているよ。それが今じゃあ何だって自給できている。地下鉄、高速道路、造船、そして人工衛星だって作った。国中の村々に電話が通じるようになり、携帯電話まで持っている。最高指導者バンザイ!政府バンザイ!若者バンザイ!みんな大好きだ。こうして日本からやってきて俺の話を聞いてくれるお前さんにも感謝したい。俺はこの国を離さない!」
 家族とはぐれてしまったという45歳の男性会社員は、革命から今日までの30年間をどう評価するかとの問いに、次のように答えてくれた。
 「革命後、政府が決めた5ヵ年計画や様々な開発計画がこれまで継続されているのは嬉しいし、国民もそれを支持してきた。決めた通りに進んでいるかと言えば、必ずしもそうではないし、もう少しうまくやれたかもしれない。でも、それは普通のことだと思う。とにかく、最高指導者が当時、王政の欠陥を見て、変えたいと望んだことは、変えている。それは評価したい」
 多くの人が異口同音に、現体制への支持と肯定の言葉を率直に語った。この行進とセレモニーを、純粋にお祭りとして楽しむために多くの市民が足を運んでいる一方、政府が保守層や学校児童、公務員、各宗教団体に動員をかけ、テヘラン南部の村や近郊の街からも大型バスのキャラバンを組んで人々をかき集めてきたという背景から、こうした結果になるのは当然かもしれない。
 帰りに乗ったタクシーの運転手は、27歳、革命を知らない世代だ。マイクを持たない私の問いかけに、彼は革命への思い入れなど全くないと無関心に答えた。
 イランでは、30歳未満、つまり革命後に生まれた人口が、総人口の7割近くを占める。今後、革命理念の更なる風化は避けられないという現実に対し、現体制は抗うことなく、最善の舵取りを模索しているように見える。かつてはアメリカとイスラエルへの抗議デモだった革命記念日の行進が、今や純粋なお祭りに変わりつつあることがそれを物語っている。

NO.22 イランに「おくりびと」はいるのか?――テヘラン共同墓地ベヘシュト・ザハラーを訪ねて

▲イラン最大の共同墓地ベヘシュト・ザハラー墓地の正門
▲遺体洗浄場の建物
▲遺体洗浄室の浴槽
▲洗浄を終えた遺体
▲埋葬地の一区画
映画「おくりびと」のオスカー受賞のニュースは、映画大国イランでも、主要紙の文化欄や芸術欄で少なからず取り上げられた。そこでは、真摯な社会的ドラマとして評価されてはいるものの、この映画がイランで公開されることは、まずないだろう。男性の納棺師が女性の遺体を着替えさせたり、身体を拭いたりすることは、イスラムの倫理に触れるからだ。
イランには、納棺師という仕事は存在しない。なぜなら、棺桶そのものが存在しないからだ。死者は洗浄されたのち、白布で包まれ、そのまま墓穴に納められる。強いて言うなら、遺体を洗い、最後の処置を施し、白布に包む仕事が納棺の仕事に当たる。イスラムでは、果たしてどのように人を「おくる」のか。それを見るため、テヘラン郊外の共同墓地ベヘシュト・ザハラーへ向かった。

◆テヘラン市民の行き着く場所
 テヘランから南へ40分ほど車を走らせた郊外に、広大な共同墓地ベヘシュト・ザハラーがある。イスラム教徒は土葬であるため、衛生面や場所を取ることなどを考慮し、たいていどこの町でも、郊外の荒野に広大な共同墓地を擁し、ほとんどの市民がそこへ葬られる。ベヘシュト・ザハラー墓地も、人口800万のテヘラン市民の共同墓地として、今も拡張を続ける総面積434ヘクタールの広大な墓地だ。
 墓地の門を車でくぐると、直線道路が延々と続き、その左右には、木立に囲まれた墓地がどこまでも続いている。
 「ここは1つの国みたいなもんだよ。大統領も、軍隊も、芸能人も、一般市民も、みんなここに眠っているんだから」
 今日、ここへ私を案内してくれたスィーロスさんが言う。
 「もう何回も来たことあるけど、広すぎて道順が覚えられないね」
 私たちが探していたのは、ガッサール・ハーネと呼ばれる遺体洗浄場だ。
 イランでは、自宅に遺体を安置し、通夜や葬儀を催す習慣はない。家族が亡くなれば、その当日か、遅くてもその翌日には埋葬される。埋葬にあたって、遺体とその関係者がまず訪れるのが遺体洗浄場である。
 ようやくたどり着いた遺体洗浄場は、周囲の静寂とは対照的に、喪服に身を包んだ数百名の人々であふれかえっていた。突然の訃報に、まだ心の整理もできていない人々が、いたるところで泣き崩れている。

 大理石でできた建物から、洗浄を終えた遺体が担ぎ出されてくるたびに、「ラー イラーハ イッラッラー(アッラーの他に神はなし)」の掛け声と、遺族の泣き叫ぶ声があたりに響き渡る。遺体洗浄場の入り口は、男性用、女性用に分かれており、誰でも自由に建物の中に入り、遺体の洗浄を見学できる。
 見学サロンは、部屋の左右両面に張られたガラス窓越しに、洗浄室の様子を覗き込むことができるようになっており、どこか産婦人科の新生児室を思わせる。洗浄室には、石造りの台座と浴槽が4セット置かれ、緑のつなぎにゴム長靴とゴム手袋、腰痛対策の太い革ベルトといういでたちの洗浄人の男たち5、6人が待機している。
 遺体は、黒いナイロンの袋に入れられ、担架で運ばれてくる。それを2人がかりで石の台座に乗せると、ナイロンの袋を開け、遺体の着ているものを手際よくハサミで切り、あっという間に丸裸にしてしまう。今度はそれを空の浴槽に横たわらせ、身体全体にシャワーをかける。大きなスポンジで立てた泡で身体中を包み込むように洗い、防腐剤入りの液体をバケツで身体全体にかけ、身体に傷口などがあれば、そこに薬品をふりかける。そして、再び台座に戻すと、ビニールと何枚もの白布で身体を巻き、頭と足の先を白い帯で縛り、再び担架に載せて、遺族の待つ外へ送り出す。1人あたり、ものの5分もかからない。手馴れた作業だ。
 次々に運び込まれ、運び去られてゆく遺体。病院で長い闘病の末に亡くなった遺体には、それとわかるタグが付いている。一方、事故や、自宅で亡くなった場合には、必ず検死が行なわれ、そうした遺体には、喉元から下腹部付近にかけて、縦一文字の派手な縫合跡が見られる。
 見学サロンでは、自分の親族の遺体が運ばれてくるまで、他人の遺体洗浄を興味深げに見学する人が多い。ナイロンから遺体が顔を出すたびに、ギャラリーからのため息や舌打ちが響く。それが若者であれば、「かわいそうに」、「事故かな」、「病気だろ」とささやきが漏れる。
 実際、20代と思われる若者の遺体が多いのに驚かされる。建設現場で鉄筋の下敷きになって亡くなったという青年の洗浄では、遺族や友人の泣き叫ぶ声がサロンに響いた。小児癌だろうか、骨と皮だけになった10歳くらいの男の子の遺体には、直視できず、首を振りながら立ち去る人も少なくなかった。縫合跡のある、20代の若者の洗浄では、ガラス窓に頭を打ちつけ、「なぜ先に行く」とつぶやきながら、その様子を見守る父親の姿があった。
 「自殺だってよ。薬で」
 まわりにいる誰かがささやく。
 「あの父親、麻薬中毒だな。しゃべり方でわかる」
 イスラムでは、自殺は、完全に楽園への扉が閉ざされる、償いようのない罪とされる。そこに至るまで、この青年はどれほどの精神的ストレスに苦しんだのだろう。見渡せば、この父親以外、彼の洗浄を見守る人の姿はないようだった。

 洗浄室の男たちの仕事は、少々荒っぽいものだった。シャワーも薬液も顔面から浴びせかけるし、けっして邪険な扱いではないものの、遺族の見ている前でもう少し丁寧にできないものかと思った。そもそもこの作業を5分で終わらせること自体、無理がある。だが、日に100体以上の遺体がここに運ばれてくるのだから、5分で1体を終わらせなければ、日が暮れてしまう。イスラムでは、埋葬は日没前に終わらせなければならない。それは彼らの腕にかかっているのである。
 遺体洗浄の光景は、たとえ無残な手術跡があろうと、事故による無残な損壊があろうと、目を背けたくなるようなものではけっしてなかった。それはおそらく、彼らが亡くなって一両日中であるため、遺体がまだ新しく、その表情に至っては、生きた人間の安らかな寝顔となんら変わりがないからだった。顔にシャワーをかけられた瞬間、驚いて目を覚ますのではないかと思えるほど、人間らしさを残していた。
 不謹慎を覚悟で言えば、私は、次々と運ばれてくる遺体を見ているのが、とても面白かった。死には、それぞれ理由があり、その人の人生が滲む。死体という、最も無防備な姿を眺めるのは、その人の人生を覗き見ているような感じさえした。裏を返せば、同性とはいえ、大勢に赤の他人に自分の遺体の洗浄を見学されるのは、ずいぶんなプライバシーの侵害である。洗浄中、死者の尊厳をかろうじて守っているのは、下腹部に掛けられた1枚の布切れだけだ。
 スィーロスさんが横から私につぶやく。
 「ここに来ると、本当に人生について考えてしまうよ。つまらないことで人といがみ合っていることが本当に馬鹿らしく思えてくる。だって、人生なんていずれ、ほら、こんなふうに終わるんだから」
 テヘラン市民のスィーロスさんにとっては、これら4つの浴槽は、いずれ必ずそのうちの1つに自分も横たわり、同じようにシャワーと薬液を頭から掛けられる場所なのだ。私とは、抱くリアリティーの質が違うのは当然だ。


◆死者の行く末を案じる
 洗浄を終えた遺体は、親族の男たちの肩に担がれ、埋葬場所へと向かう。私は、24歳で肝臓を病んで亡くなったという青年の葬列とともに歩いた。
 この青年のいとこだという男性が、肩を抱えられながら泣き崩れる人たちを指差し、あれが故人の母親、あれが半年前に結婚したばかりのお嫁さん、などと教えてくれる。つい昨日亡くなったばかりなのだから、死者との別れもまだ十分にできていないのだろう。泣き叫び、全身で悲しみを表している。
 埋葬地には、網の目のように墓穴が掘られている。実際には、1つ1つ掘られたものではなく、巨大なプールのようなものをブルドーザーで掘り、その内部をレンガの壁で格子状に区切り、その1スペースが1人用の墓穴となる。深さは2メートルほどあり、上下2段に区切って埋葬することも可能だ。
 埋葬を前に、ここで最後の儀式が行なわれる。墓穴に横たわった死者に、最後の礼拝を行なわせるのだ。白布の結び目を解き、死者の顔を少しだけ外に出してやり、その顔をメッカの方角に向けさせる。そして、あたかも生きている人間が礼拝を行なっているかのように、近親者がその肩をゆすってやる。次に、聖職者が死者に向かって特別な祈りを捧げ、その中ではイスラムの預言者やイマームたちの名が唱えられる。埋葬された夜、死者の傍らに天使が現れ、そうしたことを試問するからだ。死者はそれに正しく答え、晴れてあの世へと旅立って行く。
 最後に、遺体の上から泥が流し込まれる。泥で遺体を封じ込めると、上から石板で閉じ、その上にさらに土が盛られる。
 墓穴の中に、故人の遺品を忍ばせる習慣はない。現世への執着を最も醜いこととするイスラムでは、物品を埋葬することはもちろん、死者に化粧をほどこしたり、美しく着飾らせたりすることさえ、無意味な行為とされる。イスラムでは、来世に持ってゆくべきものは、現世の行ないだけであるとされる。それによって、最後の審判の日、地獄行きか天国行きが決まるからだ。
 「裸でこの世に生まれてきたのだから、裸でこの世を去ってゆけばいい。死者に金持ちも貧乏もないでしょ」
 スィーロスさんによれば、残された遺族にとって何より重要なのは、死者が楽園にゆけるかどうかだけだという。
 死者を送り出した後、遺族は3日目、6日目、40日目に、改めて死者の追悼式を行なう。近所のモスクを2時間ほど借り切り、お坊さんを呼んで礼拝を行ない、その後、招待客に昼食を振舞う。遺族は40日忌まで黒い服を着て喪に服す。
 盛大な追悼式を催す代わりに、自宅で身内だけの簡単な式を行ない、浮いたお金を貧しい人に寄付する遺族もいる。また、週末には、甘いナツメヤシの実を商店で買い、他のお客にふるまうため、レジの横に置いてゆく人もいる。こうした寄付やふるまいは、死者の魂を安らかにし、その旅路を平穏なものとするためだ。
 映画「おくりびと」の魅力の1つは、日本人ですら気づかなかった、死者をおくる様式美に触れることだ。イランにはイランの、イスラムにはイスラムの、死者をおくる様式美というものがあるのなら、それを見てみたい。そう思って訪ねたベヘシュト・ザハラーの遺体洗浄場だったが、彼らの仕事の中に、洗練された美はなかった。彼らの仕事は、死者を清めるというよりも、埋葬後の、腐敗による臭気や伝染病の発生を防ぐための処置という意味合いの方が強い。
 この違いは、現世を仮の住処とし、来世の永遠こそを重んじるイスラムの死生観によるものだろう。イスラムでは、残された遺族にとって何より重要なのは、死者の来世での魂の安らぎであり、死者が楽園にゆけるかどうかだ。残された遺族の心情を慮ることではない。そのため、遺体の洗浄に様式美が伴う必要は全くないのだ。
 では、遺族の心情に重きを置く、日本の納棺師のような仕事は、イスラムの死生観の前では無意味な存在となってしまうのだろうか。
 後日、映画「おくりびと」を観たイラン人の友人は、その感想をこう述べた。
 「納棺師の仕事によって、残された人の心が救われたり、考え方が変わったりする。それだけでも、とても意味のある仕事だと思う」
 人の心は、時に、宗教や習慣の違いを容易に乗り越えてしまえるほど、柔軟なものなのかもしれない。さもなければ、この映画がオスカーを取ることなど、なかっただろう。

No.23 第10期イラン大統領選挙 1

▲街頭で道行く車に支持を訴えるムーサヴィ候補の支持者たち
▲路上での市民による討論
▲アフマディネジャード候補を支持する商店 テヘラン南部の下町で
▲幅広い年齢層に広がるムーサヴィー候補の支持者
 6月12日に大統領選挙の投票が行なわれてから、まもなく2週間が経とうとしている。しかし、いまだにテヘランをはじめとするイランの主要都市では、散発的な騒乱が起きており、今後それが沈静化してゆくのか、それとも抑えようのない火の手となってイラン全土を覆ってしまうのか、まったく予測できない状態になっている。今期イラン大統領選挙のこれまでの流れを振り返ってみたい。

◆前例のない選挙戦
 今回の大統領選挙は4人の候補者で争われた。現職のアフマディネジャード大統領(保守強硬派)、革命防衛隊の元総司令官レザーイー(保守穏健派)、元国会議長で国民信頼党党首キャッルービー(改革派)、イランイラク戦争時代に首相を務めたムーサヴィー(改革派)の各氏である。
 選挙戦が進むに連れ、保守派の支持を糾合するアフマディネジャード候補と、ハータミー元大統領などの改革派の支持を集めるムーサヴィー候補の保革対決という構図が色濃くなってきた。しかし、いずれも過半数を獲得することなく、この2名による決戦投票が行なわれるだろいうというのが大方の予想だった。
 選挙運動は、内外のメディアが目を見張るほど盛大で活気があり、そして自由なものだった。学生や若者を中心に、テヘランでは毎日のように大きな広場や目抜き通りに各候補者の支持者が集まり、道行く車に自分の候補への支持を呼びかけたり、ポスターを配ったり、スローガンを叫び、歌い、議論し、明け方まで騒いだりし、その様子はイランの選挙史上、類を見ないものだった。
 選挙に対する熱気とこうした自由な空気を生み出すのに大きな役割を果たしたのは、イラン国営放送の選挙特番だった。
 選挙の投票率は、体制の正当性を証明する目安となるため、政府は選挙のたびにメディアを通じて、投票は国民の義務だとさかんに呼びかける。だが、今回の大統領選挙では、呼びかけるだけでなく、候補者1人1人に17.5時間ずつ時間を割り当て、くじ引きで決まった順で、政策説明や専門家との答弁、選挙用ドキュメンタリーの放映などといった様々なテレビ番組に出演させ、有権者に支持を呼びかける機会を4人の候補者に平等に提供したのだ。中でも最も注目を浴びたのが、各候補総当たりで行なわれた1対1の討論番組だった。その中でも物議を醸したのが、アフマディネジャード候補とムーサヴィー候補の討論だった。
 ムーサヴィー候補は、アフマディネジャード候補のホロコースト発言や、イギリス兵の長期にわたる拘束といった、この4年間の彼の外交政策の数々が、いかにイランの品位を貶め、イラン人のパスポートを無価値にしたかと糾弾した。アフマディネジャード候補は、ムーサヴィー候補を支持しているラフサンジャニ師の名を挙げ、彼の家族がいかに収賄に手を染めていたか(これを口にするのはこれまで完全なタブーとされていた)、また、ムーサヴィー候補の夫人が不正に学位を取得しているなどと言って非難した。それはもはや討論とは呼べない、中傷合戦、なじり合いと言ってもよいもので、険悪な空気のまま幕を閉じたのだった。
 街角での市民による討論が始まったのは、その頃からだった。もともとイラン人は話し好き、議論好きである。誰かが討論を始めれば、すぐ人垣ができ、その隣で新たな討論が始まり、いつのまにか数十人、あるいは100人以上の大討論会が繰り広げられる。いつしか若者だけでなく、幅広い年齢層が草の根で選挙活動に参加するようになっていた。そして、メディアもそれを好ましいものとして積極的に報道した。選挙への熱は否応にも高まっていった。

◆3候補による異議申し立て
 そうして迎えた投票日。投票所には午前中から長蛇の列ができた。4年前の大統領選挙では、午前中の投票所など閑散としたもので、人々は投票終了間際の夕方から、夕涼みがてら投票に向かったものだった。今回は高い投票率が期待された。
 そして一夜が開け、集計結果が発表された。アフマディネジャード64%、ムーサヴィー36%。アフマディネジャードの圧勝だ。投票率は85%という驚異的な数字に達した。
 海外のメディアも、そしてイランの国営メディアでさえ、今回の選挙を、変化を求める国民的な大きなうねりとして、これまで好意的に伝えていた。多くの人が、何か新しい時代が始まるような気がしていた。4年前の大統領選挙より20%も増した高い投票率が意味しているものは、普段選挙には興味のない人たちまでもが、何かを変えたいという思いから、重い腰を上げて投票所に足を運んだことではなかったのか。なのに、どうしてその結果が、現状維持を求める人たちの圧勝なのか。
 聞いてみると、私の周囲でアフマディネジャード大統領に投票した人はけっして少なくない。ムーサヴィー派の拠点の1つであるテヘラン大学の学生の女の子でさえそうだった。彼女は言った。
 「大統領になる人は、庶民の生活と同じレベルの生活をしている人じゃないと駄目よ。お腹が減っていない人が、空腹の苦しみを理解できるはずないでしょ」
 汚職とは無縁な、清貧で庶民派の大統領。それは4年前の選挙で、常に黒い噂の耐えないラフサンジャニ元大統領との決戦投票だからこそ効力を発したイメージであって、今回の選挙では、悪化の一途をたどる失業率やインフレなど、国内の経済政策が焦点のはずではなかったのか?
 「ムーサヴィーは自分の経済政策についてたいしたことは語ってないわ。ただアフマディネジャードの政策を批判して、自分はあれをやる、これをやると主張してただけ。彼の掲げる自由とか変化とかのスローガンに一部の若い人たちが踊らされていただけよ」
 確かにアフマディネジャード大統領には、根強い支持層がある。彼を支持する人は口を揃えて、アフマディネジャードほど小さな辺境の村まで出かけていった政治家はいないと口にする。確かに、アフマディネジャード大統領はこの4年間、せっせと地方全州を回ってきた。彼はどこへ行っても大群衆に囲まれ、一般市民からの陳情書を山のように受け取っていた。改革派支持者が浮かれていたのはテヘランだけのことで、地方では、まだまだ彼の人気は衰えていなかったのだろう。
 だが、それにしては極端な結果が報じられている。イラン国営通信が報じた4人の候補の生まれ故郷の開票結果によれば、レザーイー候補の出身地の村では、900票のうち830票がアフマディネジャードに、ムーサヴィー候補の村では、7000票のうち5000票がアフマディネジャードに、そしてキャッルービー候補の町では6万4000票のうち4万票がアフマディネジャードの得票となっている。そして彼がテレビ討論の中で痛烈に批判したラフサンジャニ師の生まれ故郷でも、やはりアフマディネジャードが圧勝している。
 すぐに他の3人の候補者から、開票結果に対する異議が唱えられた。中でもムーサヴィー候補は敗北を受け入ず、必ず自分が勝利しているはずだとし、票の再集計を求め、法的処分に訴えると声明を出した。
 それに呼応するかのように、午後からテヘラン各地区の広場に、ムーサヴィー支持の若者らが集まり、抗議の声を上げた。一部が暴徒と化し、治安部隊は集会を解散させるため、広場にいる若者を男女かまわず無差別に殴打し、催涙弾も放った。選挙前の自由な空気が、もう別の世界の出来事のようだ。(つづく)

No.24 第10期イラン大統領選挙 2

▲数十万人規模と言われた改革派による行進
 現職のアフマディネジャード大統領の圧勝という開票結果を受け、他の3候補が大規模な不正があったと声を上げ、その支持者らはデモを強行し、テヘラン市街は一気に騒乱状態に飲み込まれようとしていた。事態を重く見た最高指導者のハーメネイー師が、ムーサヴィー候補と会見したのは開票翌日の14日の夜だった。
 この会見でムーサヴィー候補は、把握している不正行為のいくつかをハーメネイー師に訴え、ハーメネイー師は、開票結果に対する異議申し立ては、法で認められた権利であるとし、選挙を監督する護憲評議会に審査を行なわせると約束した。


◆革命後最大のデモ
 改革派とその支持者らは、この会見の結果に一縷の希望を託すことになった。一方で、保守派の法学者と法律家で固められている護憲評議会が開票結果を覆すことなどあり得ないという悲観論もあった。いずれにしても、改革派にとってなすべきことは、政府に圧力をかけてゆくことだった。翌15日、ムーサヴィー候補とキャッルービー候補の呼びかけで行なわれたデモ行進は、数十万人という、革命後最大規模の参加者を記録した。
 当局はこのデモ行進に許可を与えず、デモを強行する場合、排除のためには実弾使用も辞さないと前もって警告していた。この日の午後3時頃、行進のスタート地点、エンゲラーブ広場には、わずか500名ほどの参加者が集まっているに過ぎなかった。彼らがテヘランを東西に貫くアーザーディー通りをアーザーディー広場に向かって歩き始めると、瞬く間に行進は膨れ上がり、途中、ムーサヴィー候補とキャッルービー候補が演説を行なった際には、その数は最高に達した。
 私がアーザーディー通りに着いたのは7時過ぎだったが、人の数は少しも減っていなかった。誰もが笑顔で行進を楽しんでいるのが印象的だった。スローガンは叫ばれず、代わりに、スローガンの書かれた画用紙を掲げて歩いていた。そのため、これだけの大群衆にもかかわらず、行進は静かで平穏に保たれていた。
 途中、ある箇所に通りかかると、若者らが「右に向かってピースサインを」と呼びかけた。右手にはバスィージ(革命防衛隊傘下の民兵組織)の施設があった。そして別の若者は群衆に向かって、自分の唇に人差し指を当て、けっしてスローガンを叫んだり野次を飛ばしたりしないよう注意を促した。騒いで彼らを刺激し、デモへの攻撃や鎮圧の口実を与えないようにするためだ。それでも時おり、スローガンを叫んでしまう若者がいる。そんな時にはまわりの人たちが、「スローガンを叫ぶな!」といさめるのだった。
 しかし、平穏に行なわれていたこの日のデモ行進も、日が暮れてからは騒乱に変わった。別のバスィージの施設から黒煙が立ち上り、治安部隊による威嚇射撃が実弾に変わり、一部の暴徒が投石や焼き討ちを行なった。当局側の発表で、この夜だけで最低7名が亡くなった。

◆絶たれた希望
 デモや抗議集会は毎日途切れることなく行なわれ、日が暮れてからは、100人単位ほどの小さなグループが市街のあちこちで「アッラーは偉大なり」とスローガンを叫びながら練り歩く姿が見られた。治安部隊との散発的な衝突も絶えなかった。
 当局側は、外国人によるデモの取材をいっさい禁止とし、テヘランに支局を構える海外メディアの記者に対しては、支局外での取材では記者証を無効とし、もし治安部隊に捕まっても身の安全は保障しないと脅しをかけた。
 内外のジャーナリスト、改革派の大物政治家、学生の活動家らが次々と逮捕されていった。
 落選した3候補とその支持者らの要求は、あくまで選挙の再投票、つまりやり直しである。しかし、護憲評議会は一部の票の再集計を主張していた。そんな中、6月19日のテヘラン金曜礼拝で、最高指導者ハーメネイー師が説教を行なうことになった。
 ムーサヴィー支持者らは、ハーメネイー師に最後の希望を託していた。普段、金曜礼拝の説教など見向きもしない人たちまで、この日の説教だけはテレビに噛りつくようにして見ていた。自分たちが危険を犯して1週間続けてきた抗議運動が、最高指導者の英断に結びつくことを祈って。
 しかし、その期待はあっけなく裏切られた。ハーメネイー師の口からは、再選挙はあり得ないこと、自身がアフマディネジャードを支持していること、そして、これ以上の抗議運動には重い代償が伴うという、デモ終結への最後通牒が言い渡されたのだ。
 この演説を聞いた改革派の支持者らの多くは、「終わった」という思いと、「始まる」という思いの2つを胸に抱いたに違いない。「終わった」とは、最高指導者が完全に自分たちの要求を拒んだことで、再選挙の実施という、体制維持という大前提のもとで行なってきた要求に一縷の望みもなくなったということである。実際、これまでの改革派の運動は、反政府運動であり、けっして反体制運動ではなかった。多くの疑惑があっても、本当に、どの程度の不正があったのかは誰にもわからない。しかしこれほどの国民からの抗議があるのなら、政府は民主主義を標榜する以上、その声に耳を傾ける義務がある。ところが、政府の回答は、改革派を根絶やしにするような大弾圧であり、それに対する最高指導者のお墨付きだった。このことへの怒りと絶望が、人々にこの騒乱を反体制運動へ向かわせるのではないかという「始まり」の予感を持たせたと思う。
 最高指導者の説教の翌日、テヘラン各地でデモ隊と治安部隊が衝突し、火の手が上がり、ヘリコプターが飛び交い、町は騒然とした空気に包まれた。(続く)

No.25 第10期イラン大統領選挙 3

▲護憲評議会による票の一部再集計の様子を放映する
イランのテレビ・ニュースチャンネル
 20日にテヘラン各地区で激しい騒乱が起ってから、比較的静かな日が続いた。24日には、国会前での抗議集会が夕方から予定されたが、失敗に終わった。改革派支持者らが集まる前に、治安部隊がその地域一体を裏通りに至るまで完全に占拠し、誰も近寄れないようにしてしまったからだ。この治安部隊のやり方は、デモ隊の集結を未然に防ぎ、治安部隊との全面的な衝突を回避する点で功を奏していると言える。規模が膨れ上がったデモを無理に鎮圧すれば、犠牲者が膨らみ、収集がつかなくなる恐れがあるからだ。
 大統領選挙の監督権限を持つ護憲評議会は、6月29日に全体の10パーセントの票の再集計を行なうと約束していた。一方、ムーサヴィー候補とキャッルヴィー候補は、あくまで選挙のやり直しを求めていた。双方の折り合いがつかないまま、とうとう29日を迎え、護憲評議会は2候補の代表者が欠席する中、一部票の再集計を行なった。そして、大方の予想通り、選挙の健全性を宣言し、アフマディネジャード大統領の再選を発表したのだった。
 改革派の支持者たちの目には、すべてが茶番に映ったに違いない。数十万という数がテヘランでデモ行進に参加し、今回の選挙結果に異議を訴えている中、当局はそれを徹底的に弾圧し、この2週間近くの間に多くの改革派政治家や活動家、ジャーナリストを逮捕、拷問しておいて、何が健全な選挙だと思っているだろう。そして海外のメディアのほとんどは、そうした声を代弁し、デモ弾圧の映像を繰り返し流しは、あたかも「自由を求めるイラン市民」対「強硬派政府」の戦いがイラン全土で繰り広げられているかのような報道を行なった。
 しかし、実際には、イラン国内は割れている。アフマディネジャード大統領の支持者の多くは、「もう終わったことなのに」と改革派のデモを冷ややかに眺め、ムーサヴィーらの要求に対しては、「選挙に負けたから最初からやり直せなんて話があるか。選挙結果はいつも世論調査通りになる訳じゃない」と苛立ちを隠さない人も多い。政府の強硬な弾圧姿勢に対して、疑問を投げかける声も聞かれない。
 一方、デモや騒乱に参加している人をすべて改革派とひとくくりにすることもできない。ムーサヴィーが呼びかけるデモ行進や抗議集会は、当局との衝突を避けるために、けっしてスローガンを叫ばず、静かに、平和的に行進を行なうことが守られていた。もちろん、こうした平和的なデモに参加する人たちの中にも、治安部隊やバスィージの挑発によって、暴徒と化す若者たちもいただろう。しかし、多くは平和的な行進が終われば解散し、それ以降も残ったり、新たにその時間から加わったりする者たちが、声高にスローガンを叫び、暴徒と化しているという声は、一般市民からも聞かれるものだった。
 いずれにせよ、29日に護憲評議会が一方的に票の再集計を決行し、選挙結果を覆すほどの大きな不正はなかったと発表したことで、ムーサヴィー側はこれ以上、法の枠内で選挙結果に異議を唱える術を失った。にもかかわらず、ムーサヴィーもキャッルービーも、異議申し立てを取り下げる気はまったくないようだ。つまり、最高指導者が約束し、実行させた再集計の結果も受け入れないということであり、ここまであからさまな最高指導者との対決姿勢は、革命後30年間の中で初めてと言ってよいものだった。
 イランイスラム共和国は、「ヴェラーヤテ・ファギーフ(イスラム法学者による統治)」を国是とする。「イスラム体制」は、お隠れ状態にあるシーア派12代目イマーム・マハディーが再臨するその日まで、神に変わってこの世を統治する権限を与えられているのだ。したがって、イスラム体制とその最高指導者に敵対することは、神に敵対することに等しい。この論理から、保守派の聖職者の中には、ムーサヴィーを極刑に処せとの声も上がっている。
 神権統治のこの国では、最高指導者の権威は絶対でなければならない。真の宗教的権威者として人々を導かなければならない。ところが今回の騒乱では、最高指導者の言葉に、一部の人々は従わなかった。体制は宗教的権威を補おうと、政治的、軍事的権威を行使した。それによって騒乱は一時的に収まったが、体制はいずれ、そのツケを払わされることになるかもしれない。


No.26 アメリカ大使館占拠記念日

 11月4日。今朝は、この秋一番の冷え込みだった。
 昨日は、テヘランにしては珍しく、朝からの雨が終日降り続き、深夜には暴風雨になった。このままもう一日雨が続けば、明日のデモも中止かな、などと淡い期待が胸をよぎったが、一夜明け、朝の目覚ましがなったときには、まぶしい朝日がカーテンの隙間からこぼれていた。
 今日、11月4日、イラン暦アーバーン月13日はアメリカ大使館占拠記念日である。1979年、イスラム革命が勝利したその年、急進派学生たちが、「スパイの巣窟」とされたアメリカ大使館を急襲、占拠し、大使館員らを444日間に渡って人質にとった。それ以来、この日は反米、反覇権主義の記念日となり、また、学生の日ともされている。
 毎年この日には、保守派の学生たちが旧アメリカ大使館前に集い、「アメリカに死を」、「イスラエルに死を」のお決まりのスローガンが叫ばれる。そうした官製デモには興味はないが、今年は違う。9月に行なわれた「世界ゴッツの日」同様、改革派が便乗デモを呼びかけているのだ。
 しかし、改革派は場所を発表していなかった。恐らく、これまで集合場所や行進ルートを事前に発表したことで、治安部隊や体制派市民に先を越されてきた経緯から、今回あえて未発表にしたものと思われる。体制派はもちろん旧アメリカ大使館前に集合することになっているが、改革派のデモは、恐らく市内のいくつかの中心的広場で分散して行なわれることになるだろう。旧アメリカ大使館にも近く、これまでのほとんどのデモの舞台となってきたハフテティール広場ならハズレはないだろうと目星をつけ、家を出た。
 朝のバスは込んでいる。新型インフルエンザはイランでも広がりつつあるが、満員のバスの中でもマスクをつけている人は一人もいない。僕は持ってきたマスクをつけようとしたが、あろうことか耳に回すゴムが片方切れていた。下駄の鼻緒が切れたような嫌な気分だった。
 しかし、実際、今日のデモはそれほど恐れるには価しない、と僕は自分に言い聞かせる。記念日といっても、平日だ。仕事のある一般の人が参加できる時間帯じゃない。改革派のデモの規模は、1ヵ月半前のゴッツの日ほど膨れ上がることはないだろう、と考えた。
 20分ほどでバスはヴァリアスル広場に近づいた。繁華なこの広場には、平日の午前中にふさわしい人出が見られたが、店という店は破壊や焼き討ちを恐れて軒並みシャッターを降ろしている。そして、街路の至るところに5人、10人のグループで警備にあたる治安部隊の姿があった。
 目指すハフテティール広場まであと1キロほどだというのに、道路は車両通行止めで、バスはこれより先には進めないという。バスや車を降りた人々の群れが、歩行者天国となった広い道路を、ハフテティール広場へと流れてゆく。
 そのときだった。若い男女5、6人のグループが、改革派のシンボルであるピースサインを高々と掲げ、「ヤー、ホセイン!ミールホセイン!」(※)と叫んだのだ。次の瞬間、周囲の数十人が、その次の掛け声ではさらに多くの人が、そして、声は瞬く間に水の波紋のように広がり、あっという間に1千人近い人たちが一斉に声を上げた。
 大地を揺るがすような叫びの中で、僕はひとり、呆気に取られて立ちすくんでいた。
 こんなに多くの人が、という驚きと同時に、この国の失業率が20%近いことを思い出した。職を持っていたとしても、イランでは多くは個人経営で、決まった時間に出社しなければならないサラリーマンは少ない。デモは休日でなければ盛り上がらないということは決してないのだ。
 行く手に小さな小競り合いが見えた。そこは北からの道路がぶつかるT字路で、やはりこの先のハフテティール広場を目指す人の流れが次々と合流していた。治安部隊が展開し、そこで人々の流れを食い止めていた。ハフテティール広場行きをそこで阻止するつもりらしい。
 プロテクターで身を固めた治安部隊は、10人ほどの単位で行動し、騒ぎの場所へゆっくりとにじり寄っては、デモ隊を後退させる。時おり乾いた空砲が聞こえるが、催涙ガスはまだ使われず、衝突も起きていない。しかし、誰か一人でも投石を始めれば、一気に騒乱が始まる緊迫した空気に満ちていた。退路を確保しながら、しばらく様子を見る。カメラを出せるような空気ではない。イラン人ですら、カメラ付き携帯を手で隠すように撮影をしている。デモの取材では小型のデジカメですら目立ってしまう。高画質のカメラ付き携帯を買わなければと痛感した。
 道路の向こうで、一人の青年が治安部隊に取り押さえられた。その途端、辺り一帯から、「ウォー」と鬨の声が上がる。この声には、いつも戦慄と武者震いを覚える。身も心も高揚して、一緒に雄叫びを上げたくなる。もし彼らと声を合わせることが出来たなら、恐れはそのまま勇気へと変わり、きっと、怖いものなど何もないという気持ちになるに違いない。この戦慄と興奮は、麻薬のような恍惚感を人を与える。僕はこの感覚を得たいがために、恐怖を押し殺してまで、またデモの只中に足を運んできたのではないかとさえ思う。もしかしたら、多くの人がそうなのかもしれない。
 それからまもなくして、治安部隊の前で後退する人の流れとともに、僕はヴァリアスル広場に戻った。そこもすでに多くの改革派市民であふれ、あちらこちらからスローガンの合唱が聞かれた。
 腕時計を見ると、すでに11時半近かった。とっくに職場に着いていなければならない時刻だ。旧アメリカ大使館はもちろん、ハフテティール広場でさえ、この様子ではたどり着けそうもないのは明らかだった。騒乱の前に立ち去らねばならない悔しさと安堵の両方を抱えながら、僕は市バスに飛び乗った。
 バスはテヘラン市街を南北に貫くヴァリアスル通りを北へ向かう。行く先々で、気勢を上げる人々の姿を路上に見た。治安部隊との衝突も始まり、催涙ガスに逃げ惑い、互いにタバコの煙を掛け合う人々の姿もあった。
 バスは治安部隊のバイク部隊と何度もすれ違う。彼らは無線で連絡を受けては、市内のあちこちを転戦しているようだ。そんなバイク隊の一つが僕の乗ったバスの脇を通り過ぎようとしたとき、道路の向こうから彼らに向けて一斉に投石が始まり、バイク隊も特殊な銃で応戦を始めた。イラン人の乗客たちもさすがに焦って、「ドアを閉じろ、早くバスを出せ!」と運転手に向かって口々に怒鳴っている。
 突然、バスの後部半分の女性エリアから、改革派学生の愛唱歌「ヤーレ・ダベスターニーエ・マン(学友たちよ)」の合唱が始まった。

   学友よ
   君は僕らと共にある
   鞭が僕らを打ち据え、嗚咽と痛みがこみ上げる
   黒板から僕と君の名は消されてしまった
   不正と弾圧の手は残り、僕らの身には未開の荒地が広がるだけだ
   僕らはみんな雑草だ
   善人のままでは死んだも同然
   僕と君の手でこのカーテンを引き裂かなくてはならない
   僕と君以外の誰がこの痛みを癒せるというのか
   学友よ

 溌剌としたその歌声を聞きながら、僕は思った。この混乱はこの先まだまだ続くだろう、と。この国がこれまで、国民と体制の団結を内外に誇示するために行ってきたパレードや官製デモは、今、分裂と反体制を叫ぶ場として、変化を求める市民に絶好の機会を与えている。こうした官製デモやパレード、セレモニー、記念日に類するものは、それこそ年に10回以上ある。その一つ一つが危険な暴発をはらんだものなら、はたして政府はその全てに、正しく対処してゆけるのだろうか。

※ ホセインは預言者ムハンマドの孫であり、シーア派3代目イマーム。シーア派イスラム教徒にとって抵抗と殉教というイデオロギーの象徴的存在。ミールホセインは、先の大統領選挙の結果に異議を唱えた改革派候補、ムーサヴィー元首相のファーストネーム。


No.27 イスラム革命勝利記念日 2010年2月11日

▲官製デモの行進 女性は圧倒的にチャードル姿が目立つ
▲最高指導者のポスターを自転車に取り付けていた男性.
▲様々な売り子がお祭り気分を盛り上げる
◆厳戒態勢の祝日  2月11日の革命記念日(※1)を前に、もう1年が経ったのかと、時の過ぎ去る速さに唖然としてしまう。昨年の革命記念日では、様々な出店や歩行者天国を楽しむ体制派市民の姿に、官製デモも悪くないなと感じたものだった。こんなことなら来年は妻と子供も連れてきてやろうなどと呑気なことも考えたが、あれから1年、今年の革命記念日は1人で出かけてゆくのも気が引けるほど緊張が高まっている。
 政府は例年通り、数え切れないほどの政府機関や公的機関の職員、家族を動員し、デモ行進への参加を国民に呼びかけていた。一方、改革派も、抗議デモの開催を呼びかけていた。激しい衝突の起こったアーシュラーの騒乱(※2)からおよそ1ヵ月半、今回の顛末がどのようなものになるのか、内外が注目していた。
 毎年、革命記念日の官製デモは、イラン全土の市町村で様々な規模で催され、首都テヘランでは市街7ヵ所から始まる行進が、テヘランの西の玄関口アーザーディー広場の終点で合流し、同広場で昼前に行なわれる大統領の演説を大群衆で盛り上げる手順となっていた。
 朝10時、私は、多くのデモ隊が通過する市街中心部エンゲラーブ広場にやってきた。直径100メートルほどの広場の周囲には、飲み物やお菓子、子供向けの冊子やCDなどを配布する様々な機関や団体のブース、民族音楽のステージ、革命の写真展、赤新月社の献血車などがところ狭しと並び、「アメリカに死を!」などのお馴染みのスローガンを叫びながら歩行者天国を楽しむ黒ずくめの体制派市民で賑わっていた。その数に匹敵する治安部隊のものものしい警戒さえなければ、その様子は昨年の革命記念日のお祭りムードと何ら変わりないものだった。
 「ちょっとちょっと、ミスター! 何やってるの?」
 携帯電話に自分の声を吹き込んでいたら、さっそく制服の警官5人に囲まれた。幸い今日は職場がらみの仕事で来ているため許可証がある。首からかけた許可証を見せると、少し困惑した様子で解放してくれた。この1枚の許可証がなければ、この時点で拘束、そして良くて国外追放、悪くてスパイ罪で拘留か。人や行動への評価が、お上の許可ひとつで180度変わってしまうのは、なんともバカらしい話に思えた。

※1革命記念日: アメリカの傀儡政権として君臨していたパフラビー王政が打倒され、国王の海外逃亡と入れ替わるように、フランスに追放されていた革命の指導者ホメイニー師が帰国し、1979年のこの日、ホメイニー師によって革命勝利宣言が出された。

※2アーシュラーの騒乱: イスラム教の預言者ムハンマドの孫である3代目イマーム・ホセインの殉教を悼む儀式アーシュラーは、シーア派最大の宗教儀式である。去る12月27日に行なわれたアーシュラーでは、例年通りの追悼儀式とともに、改革派の抗議者らによる大規模な反政府デモも行なわれ、治安部隊との激しい衝突が起った。神聖な追悼儀式を汚したとして、当局と体制派市民の強い反発を招いた。


◆保守派の市民たち
 エンゲラーブ広場を後にし、5キロ先のアーザーディー広場へ向かって歩くことにした。
 テヘランを東西に貫くこの目抜き通りは、体制護持のスローガンを叫びながら歩く官製デモでほぼ埋め尽くされている。その数は数十万規模か。この人出に加え、沿道にはびっしりと治安部隊が待機し、ビルの屋上では銃を構えた要員が目を光らせている。改革派のデモ隊が入り込む余地はまったくない。
 テヘランの大学で建築学を学んでいるという真面目そうな青年が話しかけてきた。今日の行進になぜ参加したのかと訊ねてみた。
 「動機は1つや2つではありません。イスラム教徒でありシーア派である私たちは、統治体制に関して理想や考えがあります。歴史を見返せば、私たちが自らのアイデンティティーを取り戻すことができたのは、(イスラム共和制になってからの)この31年間だけです。長い歴史において私たちは、宗教的にも国民としても権利を奪われ、従属を強いられてきましたが、今は地域で最も有名な国となり、自分たちの意見を堂々と語ることができる。そのために私たちは革命で多くの殉教者を出しました。それを守っていかなければなりません。こうした信条は、その強弱の差はあっても、すべてのイラン人が持っているものです」
 こうして誰かにマイクを向けて話していると、何度も私服警官に肩を叩かれ、道路脇に誘導される。彼らが手荒なまねをすることはなく、取材許可証を確認するとすぐに解放してくれる。改革派との衝突が予想される今日、外国人に対する完全な取材規制が敷かれており、海外メディアは大統領の演説が予定されているアーザーディー広場の中でしか取材活動を許されていないからだ。
 テヘランの高校生だというグループが、楽しげに私を冷やかす。インタビューさせてよと頼むと、興奮気味にマイクの前に立って話し始めた。
 「この行進はイランの壮大な力を示すものであり、そこに参加するのは神の神聖な命であり、僕らはそれを自らの義務と考えています。最近の騒乱に参加した者たちは、権力を欲するだけの偽善者であり、チャンスとばかりに機会を利用しているだけです。そしてMKO(※3)といった反体制テロ組織を海の向こうから国内に呼び込もうとしている。デモを起こして騒いでいる彼らはけっして我々の国民ではありません」
 体制への支持と、 改革派への激しい嫌悪をよどみなく語ってくれる彼らは、私が私服警官に連れていかれると、解放されて戻ってくるまで心配そうに待っていてくれる。
 海外のメディアは、この日のデモを、食事とお土産付きの1日バスツアーと称して、テヘラン周辺の村落から村人を大量にかき集めてきただけの動員デモだと笑うかもしれない。それも事実だ。でも、純粋に最高指導者やアフマディネジャード大統領、そして法学者による統治というこの国の原則を支持してやまない人たちが、今日この場に馳せ参じているのも事実だ。
 80年代、生まれたばかりの革命政府を守るため、イランイラク戦争に従軍し、命をかけて戦った人たちや、その戦いで命を落とした「殉教者」の遺族たち。あるいはそうした価値観を支持する人たちが、今この国の体制を支えている。彼らは、政府から手厚い保護を受け、その人生は、経済的にも精神的にも体制と一体化したものである。体制が唱える理念や価値観は、そのまま彼らの価値観であり、彼らの思想も、叫ぶスローガンも、体制の枠を超えることはない。つまり、彼らにとっては、このイランイスラム共和国には、完全な思想の自由、言論の自由、表現の自由があるに等しい。反体制のスローガンを叫んで拘束され、それで言論の自由がないと主張している改革派の抗議デモなどは、彼らにとって理解しがたいものでしかないのだ。
 古ぼけた自転車に、「アメリカに死を!」のプラカードを苦心して取り付けようとしている老人がいる。写真を撮っていいかと訊ねると、「おお!もちろんだ」と笑顔で胸を張り、緊張した面持ちで自転車とともにカメラの前に立ってくれる。
 彼らは善良な市民なのだ。その一方で、改革派の抗議デモを「暴徒」、「破壊者」、「外国の手先」、「敵」と呼んではばからず、治安部隊の流血の弾圧も支持する。そんな体制派市民と接していると、善悪の区別をどこで引いていいのか分からなくなる。

※3MKO: ムジャヒディン・ハルク(イスラム人民戦士機構)。イランの反体制派組織。イスラム革命では反王政として宗教勢力と共闘する立場にあったが、革命後、政教一致の現体制が成立すると弾圧の対象となる。拠点を海外に構え、イスラム体制の打倒を目指し、イラン国内でのテロ活動など武装闘争を展開する。


◆遠い団結への道のり
 昼過ぎ、なんとかゴールのアーザーディー広場に到着したときには、残念ながら大統領の演説は終わっており、群衆は解散し始めていた。歩行者天国だった通りには市バスが走り始め、路上に散らかった無数のポスターやゴミが、雨交じりの強い風に舞っていた。私もそろそろ職場へ戻らなければならない時刻だった。
 タクシーの運転手は、私が記者証を首から提げているのを見ると、今日の行進の様子はどうだったかと尋ねてきた。
 「なかなかの人出でしたよ」
 「騒がしくなるのはこれから夜にかけてさ。今ごろヴァリアスル広場やアーリアシャール広場では衝突が始まってる頃さ。見なよ」
 見ると、治安部隊のバイクが数十台、これまでも幾度かデモの行われた市街西部のアーリアシャール広場に向かって疾走してゆく。
 「死者が出なければいいけど」
 「死者は出ないに越したことはないけど、彼らには声を上げる権利があるんだ。その権利を奪われるのなら、路上に出るしかないじゃないか」
 「お子さんは?」
 「いるよ。1人は大学生だ」
 「デモへは?」
 「行くなと言ってあるさ。今日みたいな日は特に、家にいろと強く言ってきたよ」

 運転手が言っていたように、この日の午後、市街数ヵ所で小規模な衝突があったらしい。
 この晩、妨害電波によってBBCやVOAをはじめとする衛星放送の主要なチャンネルはまったく映らず、改革派のデモ参加者が撮影したデモの様子を確認することはできない。ネットもメールもほとんど繋がらない。デモに参加しようとした改革派の指導者が体制派のグループの襲撃を受けて負傷したことや、多くの改革派のデモ参加者が拘束されたことだけが、海外メディアの配信記事で確認できただけだ。
 一方、国営メディアでは、革命記念日の行進に数百万の大々的な参加があったとし、国民の団結と連帯を内外に誇示する報道が繰り返しなされ、最高指導者や政府高官は国民の英雄的な参加を称えた。
 情報を完全に閉ざされ、国営メディアの勇ましい声だけが鳴り響くこの国で、改革派も体制派も、自分の信じたいと思う情報だけを信じ、相手への敵意をたぎらせてゆく。こんな状況で、どんな和解の糸口が見つかるというのだろう。


No.28 イランの政変はどこへ向かう

▲ テヘラン市街西部の玄関口アーザーディー(自由)広場。
  イラン現代史の様々な場面で重要な役割を果たしてきた。
  広場中央に立つアーザーディータワーは夜間、美しくライトアップされる。

◆改革派からのデモの呼びかけ
中東アラブ諸国の政変を受け、イランでも2月14日から反政府デモが開始された。2009年6月の大統領選挙の不正疑惑に端を発した抗議デモは、選挙からおよそ半年間続いた後、現在までほぼ1年余りにわたって頓挫していた。それがアラブ諸国の政変が飛び火した形で突如復活した。
2月に入ってから、抗議運動の指導者であるミールホセイン・ムーサヴィー元首相と、メフディー・キャッルービー元国会議長は声明の中で、エジプトとチュニジアの国民との連帯を叫ぶためのデモ行進を14日に行なうと発表し、内務省にデモを行う許可申請を行なった。
イラン政府はこれまで、アラブ諸国の抗議運動に支持を表明し、それを独裁と覇権主義に抵抗する市民運動として賞賛するだけでなく、32年前のイラン・イスラム革命を手本としたイスラムの覚醒であるとし、自らのイスラム体制を正当化する材料として大々的に喧伝してきた。その手前、改革派からの「連帯のデモ行進」の許可申請を受理するか否かが注目されていた。受理しなければ、アラブ諸国の政変への支持と矛盾すると非難され、受理すれば、多くの改革派、または反政府勢力の市民が街頭に出て、アラブ諸国の政変が飛び火したかのような騒乱を招きかねないからだ。
結局、イラン政府はこれまでの改革派市民に対する強硬姿勢を貫き、このデモを不許可としたばかりか、街頭での不穏な動きには断固たる措置を取ると表明した。こうした中、1年以上のブランクを持ちながら、どれだけの市民が危険を覚悟でこのデモに参加するのか。私はまったく予想が出来なかった。

◆イラン反政府デモの再燃
14日のデモ当日、午後3時過ぎには、テヘラン市街中心部のエンゲラーブ広場を始め、かつてデモが展開された主な広場や通りに、かなりの人が集まっていると情報が入った。すでに治安部隊が催涙弾を放ち、市民との衝突も起っているという。
私は夕方、職場を後にすると、恐らくはデモ隊が最終的に集結すると思われるアーザーディー広場に向かった。市内の交通は混乱し、市中心部へ向かう公共交通機関はほぼ麻痺していた。
タクシーを乗り継いでようやくアーザーディー広場に着いてみると、そこは思いがけなく、普段と変わらない夕方の喧騒しかなかった。プロテクターに身を固めた治安部隊の姿を多く目にするが、デモ隊らしき人影は見当たらず、ものものしい警備を横目に帰宅を急ぐ人々であふれていた。アーザーディー広場へ至るアーザーディー通りの警戒は厳重で、デモ隊はここまで到達できなかったのか、あるいは私が訪れたタイミングが悪かったのかは分からない。そこからわずか北にあるアーリアシャフル広場でも、治安部隊とともに、バスィージ(体制派市民の動員軍)の若者たちが、威勢よくバイクを乗り回している姿だけが目についた。
翌日のBBCのニュースで、14日のデモには数万人の市民が参加した他、地方の大都市でもデモが行われ、2人の犠牲者と多数の逮捕者が出たと報じられた。
イラン政府は、このデモは、アメリカやイスラエルと繋がりのある破壊者、ならず者、MKO(イランの反体制テロ組織)、王政支持者、バハーイー教徒(イランの現体制下では弾圧の対象となっている)らによって引き起こされたものだと断じ、デモを呼びかけた改革派の指導者たちを激しく糾弾した。イラン国会では、一部の議員らが、ムーサヴィー、キャッルービー両氏を処刑すべきだと気勢を上げた。
その後、18日と21日に、14日のデモの犠牲者を追悼する4日忌と7日忌のデモが行なわれた。

◆アラブ諸国とイランの相違
チュニジアのベンアリ政権の崩壊、エジプトのムバラク大統領の辞任、そしてリビア、バーレーン、イエメンなどで騒乱が拡大する中、果たしてイランの抗議運動はこれらアラブ諸国の政変に続くものとなるのか。私はそうは思えない。イランでは、西洋的な自由主義を求める多くの市民が現体制に不満を抱く一方で、現在のイスラム体制とイスラム革命の理念を支持する保守層もまだまだ厚いからだ。
エジプトの革命では、わずかな数の親大統領派が、ほんの数日、抗議デモに抵抗を見せた。しかしイランでは、政府が一声かければ、数百万近い体制派市民をテヘランに集め、デモ隊に対峙させることが出来るだろう。さらに、エジプトでは軍が中立を守ったのに対し、イランには体制に忠誠を誓う13万人の革命防衛隊がいる。たとえエジプトやチュニジア以上の規模で抗議デモが起ったとしても、イラン政府には、他のアラブ諸国の政府や国王のように、デモ隊の要求の一部にさえ、譲歩することはありえない。
さらに、イランの改革派による抗議デモは、まったく統一されていない。もともと選挙のやり直しを求めて始まった運動は、次第にアフマディネジャード大統領の辞任、さらには体制変革へと先鋭化しながらも、指導者であるムーサヴィー元首相も、キャッルービー元国会議長も、体制の枠内での自由化、民主化を求めるに留まり、一部のデモ参加者から不満が出ている。14日以降行なわれている抗議デモも、ある者は体制への不満を、ある者は経済への不満を訴え、また、社会に対する鬱憤を晴らすために暴れたいだけだの者もいるだろう。失業や不況への不満を訴える市民が多くいながらも、このデモでは、それに対する明確な要求も目的も叫ばれてはいない。
目下、改革派の指導者2人の住居は、政府によって完全に封鎖され、通信も遮断されており、2人の安否も定かではないという。改革派のグループは声明を出し、この封鎖を解かなければ、3月2日に再度デモを行なうと表明している。しかし、この抗議運動がどこへ向かおうとしているのか、今はまだ、当のイラン市民ですら分からない。


No.29 在テヘラン・イギリス大使館襲撃事件

先月29日に発生した、イランの学生たちによるイギリス大使館襲撃事件は、世界で大きく報道されたものの、その真相は事件から1週間たった今も明らかにされていない。果たして、この襲撃が学生たちの自発的意思で行なわれたものなのか、それともイラン政府が背後で操っていたのか、だとしたらイラン政府の目的は何なのか。西側諸国は早々にイラン政府を黒幕と決め付け、イギリス政府は事件の翌日には在ロンドン・イラン大使館の閉鎖を決めた。ノルウェーは在テヘラン大使館を一時閉鎖し、ドイツ、フランス、オランダは自国大使を本国に召還した。イラン政府はこうした決定を性急なものと非難し、政府要人の間からは襲撃した学生達を擁護し、イギリスを非難する発言がさかんに寄せられた。

◆イギリスの黒い経歴
イラン近代史に刻まれたイギリスの経歴は、イラン人の記憶に消えることのない怨念を残している。1979年にイスラム革命が成就するまで、イギリスはアメリカとともに、民衆を弾圧するパフラヴィー朝を常に支持しながら、イランの石油資源を自らの管理下に置き、宗主国のように振る舞ってきた。イラン政府の言葉を借りれば、イスラム革命勝利後もイギリスは態度を改めることなく、イランの新体制を崩壊させる努力を続けている。2009年のイラン大統領選挙後の騒乱では、イギリスBBCペルシャ語放送の扇動的な報道は、イランの政府と現体制を支持する階層にとって目に余るものだったろう。そして、近年のイランの核問題、人権問題、その他、イランが非難の的となるあらゆる国際問題において、率先してイランを非難する側に立ってきたのがイギリスだった。

◆事件の背景 このたびの大使館襲撃事件の発端は、IAEA国際原子力機関におけるイランへの非難決議、駐米サウジアラビア大使暗殺計画に関する国連総会での対イラン決議採択、国連人権理事会における対イラン非難決議、さらに核問題に関連する欧米諸国による金融独自制裁の強化という出来事が、このわずか2ヵ月間ほどの間に立て続けに起ったことによる。このうち人権理事会のものを除いた決議や制裁は、どれも根拠が非常に曖昧で、西側諸国のでっち上げと見るアナリストも少なくない。イギリス政府はこれら全てにおいて賛同あるいは主導的な役割を果していたが、イランの政府と国民のプライドを最も傷つけた最近の出来事は、在テヘラン・イギリス大使館による、テヘラン市内の所有地における大量の樹木の伐採だった。
テヘラン市北部の閑静な一角に、イギリス大使館が所有し、その職員らの官舎が置かれたゴルハク庭園がある。この庭園の樹齢50年から150年の樹木300本以上が、最近、イギリス大使館の独断で伐採され、焼却された。全般的に乾燥した気候のイランでは、緑生い茂る森や林はそれだけで価値がある。樹木の伐採はたとえ自分の所有地であろうと、当局へ届け出る義務がある。テヘラン市はイギリス大使館による伐採を違法なものとして司法当局に提訴したが、違法云々よりも、イラン国民にとっては、イギリスのこの宗主国然とした振る舞いこそが我慢のならないものだった。
こうして、イギリス大使館襲撃の前日に当たる11月28日、最高指導者ハーメネイー師は「イラン海軍の日」の演説で、イギリスに対する怒りを爆発させる。それに呼応するかのように、一夜明けた29日の正午、大使館襲撃のわずか2時間前、イランの政府系ファールス通信は、「我々は、アーバーン月13日(アメリカ大使館占拠記念日)をイギリスに対して繰り返す。そして、ゴルハク庭園の返還とイギリスとの断交を政府に要求する」としたイスラム系学生団体の声明を報じた。

◆どこまでがシナリオか
大使館前には1000人近い、主に学生たちで構成されるデモ隊が集結した。このデモは事前にイラン当局の許可を得ており、当局からイギリス大使館側に通達され、イギリス大使館側の要請に従って、警備のための治安部隊も多数配備されていた。
集結したのは、バスィージ(革命防衛隊傘下の市民動員軍)に所属する学生がほとんどだろう。基本的に、政府の指示なくバスィージがデモを挙行することはない。そのため、このデモも完全な官製デモであり、いわば学生を利用してイギリスに抗議と圧力を加えるための政府の手段の1つである。だからといって、その後に起った大使館内乱入も政府の意思だろう、と考えるのは早計である。興奮した学生たちが暴走したという見方もけっして否定できないからだ。何もかも予定調和の官製デモだったからこそ、治安部隊はこの暴走に対処できず、国営テレビもうっかり生放送を続けてしまった可能性も否めない。

◆保守派内部の抗争の道具へ
翌日から、イランの政界からは、イギリス大使館乱入事件に対する2つの異なる姿勢が見受けられた。1つは、ラーリージャーニー国会議長を始めとする最高指導者に近い筋からの、イギリスのこれまでの振る舞いを非難し、学生たちを擁護する意見だ。そしてもう1つが、内閣閣僚やテヘラン州知事といったアフマディネジャード大統領に近いグループからの、事件に遺憾を示し、イギリスに対して謝罪に近い配慮を見せるコメントだ。
国際舞台で矢面に立ち、各国のイラン大使館を管轄する内閣が、今回の事件に対して国際的慣習に則った常識的対応をするのは当然のこととして、最高指導者と国会議長に近い派閥が、あえてイギリスを怒らせ、国際社会でイランの評価を落とすような強硬なコメントを発している理由は何なのか。そんなことをしていったい誰が得をするのか。
ここからは私の推測だが、イギリスをあえて怒らせる理由は、イランがイギリスとの国交をもはや必要としていないからではないだろうか。イランへのスパイ活動と発展の妨害にしか興味のない国との国交など、百害あって一利もない。いっそアメリカやイスラエルとのように国交を断絶してしまった方が良い。イラン体制指導部がもしそう考えているのなら、学生による大使館乱入は、それが政府のシナリオであれ、暴走であれ、いずれにせよ次の国会選挙のための道具に過ぎない。今、学生たちを擁護し、イギリスへの非難を表明することによって、国内のナショナリズムを刺激し、保守層の支持を取り込むことができる一方、それができない大統領と内閣は人気を失うことになるからだ。
次回の国会選挙は、改革派の参加しない、保守派だけの選挙になることが見込まれている。イギリスとの関係を悪化させるついでに、選挙でアフマディネジャード大統領派に差をつけるために、体制指導部の一部が大使館乱入事件を利用したというのが私の見立てである。

No.30(最終回) イラン危機と市民の声

▲ 春分の日に始まるイラン暦の新年ノールーズの飾りを並べる商店街。
人々は、身の回りの品々を新調し、新たな年に備える。
この時期だけは、制裁も物価高もどこ吹く風
◆戦争への危機感
 イスラエルによる対イラン攻撃の可能性が示唆されている中、イラン政府は依然として「核の平和利用」の権利を声高に叫び、一歩も譲歩する姿勢を示さない。イランの核開発が表ざたになった2003年以降、イラン攻撃のシナリオは毎年のように提示されてきたが、今度ばかりはイスラエルのプロパガンダと切り捨てられない現実味を帯びている。イラン政府が、「攻撃を受ければ断固たる回答を示す」と強硬姿勢を貫き、ホルモズ海峡での軍事演習を繰り返す中、当のイラン国民は現在の情勢をどう見ているのか。

「戦争が始まる可能性より、始まらない可能性の方が高いと思う。どんな攻撃に対しても、政府は倍にして報復すると言っているし、イスラエルにイランを攻撃する度胸はないでしょう」(テヘラン大外国語学部女子大生)

「戦争は起こらないよ。中国とロシアが拒否権を発動するだろうから、国連による軍事介入はあり得ない。イランがホルモズ海峡を封鎖したら話は別だが、それをやれば中露も拒否権を出すに出せなくなり、世界を敵に回すことになるから、ホルモズ海峡封鎖は絶対にやらない。EUがイラン産原油禁輸制裁を今年夏に発動するまでに、イラン側はなんらかの措置を取るだろう。例えば、今イラン政府の高官たちがトルコに行ったり南米諸国に行ったりしてるのは、ベネズエラ辺りにイランの原油を安く買い上げてもらう相談でもしているんだろう。いずれにせよ、イランの指導者はホルモズ海峡を封鎖して自分から戦争を招くほどバカじゃないよ」(テヘラン電気店店主)

「イラク、アフガニスタンと戦争続きで、イランとの新たな戦争をアメリカ国民は許さないよ」(テヘラン弁当屋店主)

「戦争は起こるかもね。国にとっての損害? そんなことはこの国の政治家にとってはどうでもいいことだよ。彼らは自分のポケットマネーで戦争を始めるんじゃない。国民の税金でやるんだから」(テヘラン食堂従業員)

「いつでも受けて立つよ。戦争ってのは、万全の体制を整えて、地の利がある自分の領土で迎え撃つ方が勝つものなんだ。俺は(イラン・イラク戦争の)前線にいたからわかる」(テヘラン・タクシー運転手)

「戦争になったら、また殉教者がたくさん出て、みんなイスラム共和国バンザイって叫んで、それで政府は安泰。彼らにとってはその方が助かるんじゃない?」(テヘラン・国営企業勤務)

「戦争が起こるかどうかはわからないけど、起こったなら、僕は進んで戦地に行くよ。多分まわりの友達もみんなそう。言っとくけど、僕はバスィージ(イランの体制派民兵組織)じゃないからね(笑)」(テヘラン・工科大学学生)

 市内に研究用原子炉、そして郊外には軍事転用を疑われる核施設を備え、真っ先に攻撃の対象となる可能性がある首都テヘランでは、食料品の買いだめが始まっているという噂もある。しかし、概して市民の間に危機感はなく、また、国家の未曾有の危機に際して行動を起こそうとする動きも見られない。

◆経済制裁への市民の憤り
 イスラエルによる対イラン軍事攻撃の可能性とともに、経済制裁によるイラン国民の困窮が西側メディアによって報じられている。それはまるで、制裁が効果を上げていると説くことで、イスラエルに攻撃を思いとどまらせようとする海外メディアの善意のようにさえ受け取れる。とはいえ、海外メディアの記者からインタビューを受ければ、水を得た魚のように生活の窮状を雄弁に語るのがイラン人だ。仮に2年前、3年前にインタビューが行なわれたとしても、同じような回答が市民から得られただろう。
 イランに対する西側の制裁は、1979年のイスラム革命の勝利以降、30年以上にわたって大なり小なり形を変えて続けられてきた。実際、激しいインフレも高い失業率も今に始まったことではない。昨年末から報じられているイランの中央銀行と原油そのものに対する西側の独自制裁は、これまでの制裁の中でも決定的なものと言われているが、こうした現状は果たしてイランの市民生活にどのような影響を与えているのだろうか。
 私設両替商が軒を連ねるテヘラン中心街のフェルドゥスィー通り。どの両替所も、『外貨有りません』の張り紙が張られている。世界市場の動きとは反対に、イラン国内では自国通貨リアルの暴落と、外貨の高騰がこの数ヵ月続いており、私設両替所で外貨を手に入れることはほぼ不可能になった。海外旅行や海外送金に外貨を要する市民は途方に暮れている。
 最近、アメリカの制裁対象に指定されたイラン・テジャラト銀行の行員は、外貨が市場に出回らない理由を、欧米諸国によるイラン産原油禁輸措置の決定によるものだとした。
 「石油の輸出が止まればいずれ外貨がイランに入ってこなくなり、国内は外貨不足になる。それを見越した金持ちや両替商が、手持ちの外貨を手放さず、溜め込んでいるんだよ」

 国内での外貨の高騰によって、輸入品の価格が上昇している。一方で、肉や野菜、乳製品といった国内産は、ここ何年も続くインフレ以上の値上がりはしていないと、国営企業に勤めるゼイナブさんは言う。
 「イランの中央銀行と原油に対する制裁が決定されてからまだ2ヵ月しかたっていない。市民生活への直接的な影響はまだ出ていないと思うけど、海外でお金を下ろそうとしたらそれが止められていたり、渡航ビザが取れなかったり、そういうことに対する精神的な疲労を市民は感じている」
 さらに、2月に入ってから、ベルギーに本拠地を置く国際的な銀行決済ネットワーク・SWIFTが、アメリカ財務省の要請を受け、このネットワークからのイランの追放を検討している。
 中国から家具を輸入するホセイニーさんは、「SWIFTから除外されたら、もう終わりだよ。イランは北朝鮮のように完全に孤立する。僕は田舎でジャガイモでも作るしかない」と溜息まじりに答えた。
 SWIFTは、210ヵ国、9000社以上の金融機関が加盟する国際ネットワークで、SWIFTからの除外は、イランの銀行が発行するLC(信用状)が価値を失うことを意味し、イラン国内の貿易業者は海外と一切の取引ができなくなる。ホセイニーさんは怒りの矛先を、イラン政府と西側の双方に向ける。
 「常に対立姿勢で歩み寄ることを知らない今の政府のやり方のおかげで、国民がどれほど不便な思いをしているか。でも、SWIFTからの除外は完全に僕らのような個人業者の首を絞めるものだ。市民を追い詰めて、政府への不満を煽るのが欧米のねらいだとしたら、それは検討違いで、むしろ全くの逆効果だ」
 イランの多くの市民は、すべての問題を西側諸国に転嫁する政治家の言葉を鵜呑みにすることも、盲目的な政府批判を繰り広げるもなく、現状への憤りを内に溜め込んでいるかのようだ。
 SWIFTはアメリカの要請に対し、自社だけが名指しされるのは遺憾だとし、米グーグルや米マイクロソフトなどの、メールを含めた関連サービスのイランからの撤退を要請している。これが実現すれば、欧米はイランを世界の中の孤島と化すことが出来る。一方で、イラン政府は、海外からの有害な情報を遮断するため、かねてから推進してきた国内専用インターネット回線の普及に本腰を入れることになるだろう。


※大村さんは3月16日に帰国するので、今回が最終回となります。
6年にわたりイランの人々の生の声を伝えていただきました。イラン情勢をこのようにリアルに伝える報道はほかにはなかっただけに、とても残念です。『シルクロード・路上の900日』のようなエネルギーあふれる本をまた執筆してくださることを期待します。


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