ラオスは戦場だった

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竹内正右著
定価2500円+税
A5判/160頁 (内48頁カラー)/2004年初版
ISBN4-8396-0178-X C0030 Y2500E
●書評
1975年8月22日。中国製ロケット砲を引きビエンチャンに入城したラオス人民解放軍女性部隊。
【関連書】メコンに死す  ラオス概説  

 写真で見るラオス現代史。1970年代以降のラオスの歩みを貴重なスクープ写真と詳しいキャプション(日本語と英文)で再現した本です。中心テーマは「戦争」と「モン族」。特に、ベトナム戦争の時アメリカに協力したため戦後共産側から迫害され、23万人がアメリカに移住したモン族(NHK・BS『30年目の戦後処理――アメリカと共に闘った民族』が反響を呼びました)の写真は貴重です。

●本文の写真から

1974年12月7日。ローンチェン(現サイソムブーン特別区内)。モン特殊攻撃部隊兵士とモンの女性たち。後列中央にフランス人軍事顧問の姿が見える。沖縄の基地から来たアメリカの白星隊がモンの人々を訓練した。1961年8月29日ケネディ大統領が国家安全覚書80を承認。それが悲劇のはじまりだった。

1990年12月9日。ホーチミン・ルートを扼するJ.F.ケネディの最重要戦術ポイント、国道9号のセーポーンに残されたアメリカ製の戦車。




【目次】

まえがき
第1部 秘密戦争
第2部 共産主義者の勝利のあとで
第3部 ラオス退役軍人会の息子たちはイラク戦争に
あとがき

【著者プロフィール】
竹内正右(たけうち しょうすけ)
フォト・ジャーナリスト
1945年満州生まれ。早稲田大学卒業。1973〜82年、ラオス、カンボジア、ベトナム、タイに滞在。特にラオスでは共産化が進む中で西側最後のジャーナリストとしてしぶとく取材を続け、1975年8月の「ラオス人民解放軍ビエンチャン入城」、1977年の「集団労働に駆り出される小中学生」など、数々のスクープ写真をものにした。80年代後半から再びラオスを撮りだし、ライフワークのモン族の取材では移住先のアメリカにまで取材を広げて、世界的な評価を得ている。
著書『モンの悲劇』(毎日新聞社、1999)、『ドキュメント 1975.4.30 ベトナム戦争の記録から』(共著、パルコ出版、1976)、『20世紀の瞬間 紛争のない世界を子どもたちへ』(共著、共同通信社、1999)

【まえがき】
 「南を解放するには、まずラオスを共産化させねばならない」。1951年、ベトナム労働党(インドシナ共産党を改称)第2回党大会でのホーチミンの言葉である。
 1954年5月、ディエンビエンフーでフランス軍はボーグエンザップ将軍率いるベトミン(ベトナム独立同盟)軍に屈辱的な敗北を喫し、第1次インドシナ戦争に終止符が打たれた。しかし、中国の共産党政権の影響を懸念し、フランス軍にCAT(Civil Air Transport,エア・アメリカの前身)の飛行機と武器、資金を援助していた米国は、アジアの共産化を恐れ、同年7月のジュネーブ協定締結後もインドネシアに介入を続けた。
 1961年1月に米国大統領となったジョン・F.ケネディはラオスで「特殊戦争」を開始する。米軍が直接戦うのではなく、軍事顧問団として戦闘に介入するというものである。その最大の目的は、ソ連・中国の支援を受けた北ベトナム軍がラオスを走るホーチミン・ルートを利用して南下するのを防ぐことだった。ホーチミン・ルートはその9割がラオス領に建設されていたのである。
 しかし、1965年3月8日、ベトナム中部ダナンの海岸についに米国海兵隊等9個連隊が上陸、「ベトナム戦争」が本格的に始まる。サイゴンに本部を置く米国軍事支援顧問団(MAAG)はホーチミン・ルート分断のために「戦略村作戦」を展開。またラオス北部のファティ(リマサイト85)に設置された全天候電子誘導サイトは、ハノイ、ホーチミン・ルート、そしてパテートラーオの本拠地サムヌアを爆撃するための拠点となった。米国は東北タイのウドンタニーやナコーンパノム、タクリを基地に300万トンという信じ難い量の爆弾をラオス全土に投下すると共に、山岳民族モンを訓練してモン特殊攻撃部隊(HSGU)を組織した。山岳戦でモンにラオやベトナムの共産側兵士を殺させるという戦略である。しかし、ホーチミン・ルートは、北ベトナムにとっては南部攻略のために死守しなければならないものだ。ラオスでの戦闘は激化し、おびただしい数の死者が出た。だが、前線にジャーナリストが近づくのは不可能で、その全貌が明らかにされることはなかった。ラオスの戦いは「秘密戦争」そのものだった。
 1975年4月30日、サイゴンが陥落し、米国はインドシナから逃げ出した。ベトナムは多大な犠牲を払って、この戦争に勝利したのである。
 8月22日、ビエンチャンが陥落する。しかし、ラオスの戦争はまだ終わらなかった。米軍が去り、おきざりにされたモンの兵士とその家族を待っていたのは共産側からの報復だった。本当の「モンの悲劇」はそこから始まったのである。
 それから30年。
 2004年の今、アメリカはイラク、アフガニスタンで大量のクラスター爆弾を投下し続けている。アメリカがこのクラスター爆弾を最初に投下したのはラオスである。そして、クラスター爆弾の子爆弾900万個が今なおラオス山中に眠っている。
 2004年6月、イラクでモン兵士の最初の死者が出た。ラオスから米国に逃れて再定住したモンは米国生まれのモンを含めると23万人をこえた。そして、米軍に加われば市民権を得やすくなるという理由で、多くのモンの青年が異国の戦場に赴いている。戦争は終わっていない。

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