ワセダアジアレビュー №11 特集「台湾を考える」

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 早稲田大学アジア研究機構編

 定価952円+税
 A4判並製・96ページ
 ISBN978-4-8396-0256-7 C3030
             

 研究、時事問題、NGO、エッセイ…早稲田大学のアジア研究者を中心に、多彩な書き手が集まって、アジアを論じます。特集を軸に、軽く読めて、深い内容をモットーに、年2回のペースで発行していきます。今月の特集は「台湾を考える」です。
早稲田アジア研究機構とは

【目次】
巻頭口絵写真「国民党のデモ/台湾総統選動員を競う」 若林正丈・朝日新聞社
機構長コラム 「姿かたちは見えねども」 小口彦太
フィールドから──Photo Essay 「山地のフィールドワークへ、山地のフィールドワークから」 松岡 格
巻頭論文 「麺麭(パン)と愛情のディレンマ──「総統直選」が刻む台湾政治の足跡[1996~2012]」 若林正丈

【特集】
台湾を考える
「拡大と変容を続ける台湾と中国の経済関係および日本企業の機会」 佐藤幸人
「3・11後の日台関係──台北からの光景」 村上太輝夫
「植民地期台湾における「都の西北」の世界──早稲田大学台湾校友会の内と外」 岡本真希子
「台湾化の行方──馬英九政権の文化政策」 菅野敦志
「台湾政党組織研究の現状と課題」 松本充豊

シリーズ歴史の証人
元内閣官房長官 野中広務氏に聞く

次世代研究者論文
「「弱国」の対立──尖閣諸島・釣魚島漁船衝突事件から見る日中関係の深層」 張 望
「朝鮮三・一独立運動とキリスト教──運動参加者たちの地域的偏差」 松谷基和

IAS研究プロジェクト報告
「大震災とアジア──2つのシンポジウムから」 村井吉敬

次世代投稿論文
「朝鮮総督府による「朝鮮農業」・「朝鮮米」政策──定量分析結果を中心に」李 光宰

OAS第9回国際シンポジウム報告
「3・11後の日本とアジア──震災から見えてきたもの」 坪井善明

第49回アジアセミナー報告
「アメリカ・日本における租税条約・タックスシェルターの比較──国際課税と新たなコンプライアンス」 ウィリアム・バンズ

北朝鮮社会研究プロジェクト
「人類学による北朝鮮社会研究の展望と試み」 伊藤亜人

My Field :ワセダからアジアへ
「国境を越える「脱原発」と「震災救援」──東日本大震災から見えた東アジア共同体の姿」 吉岡達也

アジアを食べる@早稲田界隈
「つながる、味わうタイ料理」 砂井紫里

書籍紹介
小林英夫

What’s going on?
早稲田大学アジア研究機構からのお知らせ

アジアのNGO 活動現場から
「東ティモール:学生主体NGOが取り組む国際協力」 林 綾音


【巻頭エッセイ】
小口彦太(コグチ ヒコタ)(早稲田大学アジア研究機構長)
姿かたちは見えねども

 清朝時代の基本的法制資料に雍正朱批諭旨というのがある。平たくいえば、官僚から上申されてきた行政および司法の原案に対して朱筆でもって雍正帝が加筆修正したものである。このように、中国の皇帝は行政及び司法の万般にわたって自ら意思決定をなしたのであり、皇帝独裁が紀元前二二一年以降の皇帝支配の理念型であった。したがって、意思決定の主体が誰であるかはきわめてわかりやすい。わかりやすいということは、批判の矛先が直接皇帝へ向けられてくるということでもある。だから、中国では法家思想が出てきたし、実は法家思想が最も支配的思想でもあった(「支那に発達した独裁政治は、法治主義によってのみ遂行し得る政治である」とは日本を代表する法制史学者中田薫の名言である)。時代が変わって、現代の中国も、その点はわかりやすい。党が国家を指導する中国では、誰が意思決定をなしているのか、容易に判断できる。それは党総書記であり、党政治局常務委員であり、党中央委員総会である。
 誰が意思決定をなしているのかという上記の設問を日本に引きつけると、そう単純ではない。畏友水林彪さん(日本法制史学者)がどこかで論じていたと記憶するが、日本の天皇制の理念型は幼少の帝(みかど)であったそうである。天皇自らの意思決定を予定していない。当然、他の誰かがこれを行なっているわけである。では、現代日本での究極の意思決定主体は誰であろうか。憲法○○条は、国会は国権の最高機関と定められ、その国会で選出された議員により内閣が構成される、議員内閣制を採っているので、内閣総理大臣が最高の意思決定主体ということになるはずである。「なるはずである」という言い方は、実際にはそうではないという意味を含んでいる。一例を挙げれば、沖縄米軍基地移転をめぐって、時の総理大臣が県外に移転するとの意思を再三に渉って表明したにもかかわらず、その意思はまったく無視された。外務省も防衛省も、その首相の意思を一顧だにしなかった。では、一体誰が首相とは異なる意思決定をしたのか。これが皆目わからない。分からないから、公の場での議論にはなり得ない。また、責任のとりようもない。
 この特異な日本の意思決定の在り様の悲劇的典型例が日中戦争から太平洋戦争、そして敗戦へといたる日本指導者の戦争責任の問題である。このことは高名な政治学者が「超国家主義の論理と心理」で述べたところである。そして、その構造は今に至るもちっとも変っていないように思われる。意思決定の主体が見えてこないのである。見えないままに、「いつの間にか」一定の方向に向けて意思が醸成されるという薄気味悪さを日本の意思決定はもっている。
 私は政治学者ではないので、以上のような議論は素人議論であると言われるかもしれない。アジアの他の国々では、重要問題の意思決定はどのようなメカニズムでなされているのか、日本のような、姿かたちの見えないところで決定がなされる国がアジアの他の国にもあるのかどうか、是非知りたいところである。






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