扶南・真臘・チャンパの歴史

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 鈴木峻著

 定価4000円+税
 A5判・上製ハードカバー・224ページ
 ISBN978-4-8396-0302-1 C3022
 
             

扶南(ふなん)=紀元2世紀から7世紀にかけてインドシナ半島の南部(現在のカンボジア・ベトナム)を拠点にインド・中国との交易で栄えた国家。7世紀以降、歴史から消える。
真臘(しんろう)=扶南の傘下にあったクメール人の国家。扶南に代わってカンボジア東部を中心にタイ東北部・ラオス南部を支配するが、8世紀に分裂、その一部がアンコール王朝を作る。
チャンパ=2世紀から15世紀までベトナム中部に栄えた国家。主体はチャム人(現在は少数民族)で、独特の文化を持つ海洋国家だが、分裂を繰り返し、わからないことが多い。中国の文書では「林邑」→「環王」→「占城」と呼び名が変わる。

この3つが古代の東南アジアで最も有力な国家で、おたがいに深い関係を持っていたことは事実ですが、詳細は不明です。著者は、長年、欧米の研究と漢籍(中国の文書)を渉猟して、3つの国家の関連を中心に壮大な「古代史図」を提示しました。



【目次】
第1部 南部
まえがき

序章 歴史のあらすじ

第1章 扶南の成立と滅亡と再生
1-1  扶南の建国と発展 
1-2  扶南と中国 
1-3  陸路の扶南――陸路依存の時代 
1-3-1 陸路の拠点シーテープの存在 
1-3-2 チャナサ王国など中間王国の存在 
1-3-3 ドヴァーラヴァティ(堕和羅鉢底) 
1-4  海の扶南 
1-4-1 西海岸の主要港の支配 
1-4-2 ベンガル湾横断直行ルートとケダーの興隆 
1-4-3 扶南の亡命先としての盤盤国と室利仏逝の成立 
1-4-4 盤盤における大乗仏教とシュリヴィジャヤの宗教 

第2章 真臘――前アンコール王朝 
2-1  真臘が扶南を追放する 
2-2  真臘の出発点としてのシーテープの役割 
2-3  扶南の首都 
2-4  真臘――前アンコール王朝 
2-4-1 イシャーナヴァルマンの全土統一 
2-4-2 聖山とピラミッド 
2-5  真臘の終わりのはじまり 
2-5-1 真臘の朝貢と「水真臘」と「陸真臘」の分裂 
2-5-2 前アンコール王朝(真臘)の末期 
2-6  賈耽の『皇華四達記』が示す陸路と海路
2-6-1 陸路で文単経由羅越への道 
2-6-2 海路でベンガル湾へ抜ける道 
2-6-3 羅越の位置はマレー半島北部 
2-7   M.ヴィッカリーのセデス批判 

第3章 扶南のその後と室利仏逝の成立 
3-1  生きていた扶南 
3-2  扶南の消滅と室利仏逝の登場とその後 
3-2-1 狼牙修国(ランカスカ)の朝貢 
3-2-2 干陀利と赤土国と室利仏逝
3-3  室利仏逝の消滅とシャイレンドラの台頭 
3-4  M.ヴィッカリーの理論的問題点 
3-4-1 M.ヴィッカリーの誤解のその1 
3-4-2 M.ヴィッカリーの誤解のその2 
3-5  真臘のまとめ 

図表1 真臘王朝の諸王 
図表2 アンコール王朝の諸王 

第4章 アンコール王朝  
4-1  ジャヤヴァルマン2世 
4-2  ジャヤヴァルマン2世の本拠地ロリュオス 
4-3  シュリヴィジャヤ・グループの戦略 
4-4  ジャワ(闍婆)はマレー半島も意味していた 
4-5  リゴール碑文 
4-6  ロリュオス地区からアンコール地区へ 
4-6-1 ヤショヴァルマンのアンコール地区への遷都 
4-6-2 ラジェンドラヴァルマン2世とジャヤヴァルマン5世 
4-6-3 スルヤヴァルマン1世 
4-6-4 ハリプンチャイ歴史物語 
4-7  チョーラ(注輦)の三仏斉侵攻
4-8  スルヤヴァルマン2世――シュリヴィジャヤとの断絶――ヒランヤヴァルマン家の台頭、ダンレック山脈の北側の勢力 
4-9  ジャヤヴァルマン7世(仏教王) 
4-10  破滅に向かうアンコール王朝 
4-10-1 周達観の『真臘風土記』 
4-10-2 アンコール王朝の最後 

第5章 チャンパ史(12世紀末まで) 
5-1  林邑の建国 
5-2  林邑の初期の朝貢  
5-3  中間期(南斉から隋まで)の林邑と朝貢 
5-3-1 王位継承にまつわる漢籍の混乱 
5-3-2 中間期の朝貢実績 
5-4  唐時代(618~907年)の朝貢と環王 
5-4-1 林邑の唐への入貢、750年が最後
5-4-2 林邑時代のまとめ 
5-5  占城の時代 
5-5-1 占城の朝貢と国王など
5-5-2 ヴィジャヤ王国の登場 
5-5-3 大食との関係強化 
5-5-4 アンコール王朝や大食との相克 

参考文献 

索引

あとがき


【まえがき】
 私は2010年に『シュリヴィジャヤの歴史』(めこん)を上梓し、2012年にはその英語版であるThe History of Srivijaya (めこん)を書いた。内容は、フランス人歴史学者ジョルジュ・セデスが作り上げてきたシュリヴィジャヤ像が多くの点で誤っていることを指摘し、全面的に修正したものである。
 私はこの書を書き上げてから古代史というものの方法論的難しさを改めて認識した。20世紀以降に生きてきた人間としての狭さを改めて実感せざるをえなかった。1500年あるいはそれよりも前の人々の歴史を我々には書くだけの実力がはたしてあるのだろうかという素朴な反省である。シュリヴィジャヤ史でいえば、セデスの、シュリヴィジャヤの首都はパレンバンであったという明らかに間違った認識が100年近くも半ば「定説」に近いような形で存在しつづけたことひとつを取り上げてみても、我々はいかに怪しい「歴史認識」の上に立っているのかということである。この「パレンバン説」などはきちんと『新唐書』を読みこなしていれば、およそ成立しえない学説だった。
 『新唐書』には「室利佛逝、一曰尸利佛誓。過軍徒弄山二千里、地東西千里、南北四千里而遠。有城十四,以二國分總。西曰郞婆露斯」と最初に書いてある。「軍徒弄山二千里」とはホーチミン市沖合のコン・ダオ島で、そこから2000里(約800Km)のところに室利仏逝はあり、東西1000里、南北4000里の長細い国土であり、傘下に14の城市(属領)があり、国を二分割して統治していた、西は「郎婆露斯」である、ということである。ここでもっとも大事なキー・ワードは「郎婆露斯」である。「郎婆露斯」とはどこか? 桑田六郎博士は『南海東西交通史論考』において次のように述べている。

 (新)唐書室利仏逝の絛には二國分総西曰郎婆露斯とある。九世紀中頃即武宗宣宗の世のIbn Khordãdzbeh及びSuleymãn所記の裸人國Langabãlūsが是に当る。是はSirandib(Sri Lanka)から十乃至十五日程、Kilah(Kedah)まで六日程で、今のNicobar諸島を指し。その名は後世まで用いられている。(p.199)(下線は筆者。以下も同じ)

 「郎婆露斯」とはLangka Balus、つまり「ニコバル諸島」のことである。この言葉を正しく読み解いていれば「シュリヴィジャヤはどこであったか」などという議論は100年も前に解決済みであったはずである。しかし、遺憾ながら桑田博士自身は室利仏逝はパレンバンにあったという結論を著書の上では修正されなかった。間に合わなかったのか、理由は不明である。
イブン・フルダードベーの記述ではセイロン(Sirandib)を出てからランガ・バールス(Langabalus)までが10~14日かかり、そこからKilah(Kedah=ケダー)まで6日間という旅程が示されている。5世紀はじめ法顕がたどった航路もまさにこのルートであったと考えられる。法顕の「耶馬提」はマレー半島であり、唐以前の漢籍に書かれている「闍婆」とはほとんどの場合「マレー半島」なのである。これを「ジャワ島」に置いてしまってはまったく史実を離れてしまう。5世紀にジャワ島が仏教国であったり、訶羅旦がジャワ島を統治していたということはありえない。訶羅旦はどう考えてもマレー半島のケランタンである。5世紀ごろには仏教が伝来、普及していたし、大型の自然石に刻まれた古典的な「仏足石」もコタバルに存在する。このようなものはマレー半島には数多くあるがジャワ島やスマトラ島では発見されていない。
 私はフェイスブックの東南アジアの友人がいくつものグループを作って古代史の研究をしている仲間に入れてもらっているが、彼らが言うには、東南アジア古代史研究は「ジグソー・パズル」のチップをいくつかのテーブルに分けて「組み立て」ようとしてもとても「正解」にはいたらない。大きな1つのテーブルに集めてやらないとだめだという。まことに的を射た意見であり、東南アジア古代史研究のあるべき方法論を的確に提起している。国別に分かれてナショナリズムのセンチメントにどっぷりつかりながら「我田引水」の議論をいくらやってもきりがないという彼らの認識である。ところが、欧米や日本の歴史学者が書いた「東南アジア史」は個々の小さなテーブルに任意にジグソー・パズルのチップを持ってきてその範囲で「全体像」を組み立てようとしてきたと言っても過言ではないであろう。だから権威者であるセデスがシュリヴィジャヤはパレンバンだと言ってしまったら、それを否定できない限りパレンバン説を前提にジグソー・パズルの組み立てを試みるから、きちんとした結論がそもそも出るはずがないのである。
 私は幸か不幸か「歴史学の専門家」としての教育は受けてこなかったので、一経済史学徒としてこの東南アジア古代史の研究にひとりで取り組んできた。諸先輩の学説を丁寧に読み、必要な「漢籍」を拾い読みし、かつ東南アジアでの駐在経験もあるので土地勘を頼りに各地を見て回った。早めに大学教師をやめたので時間は十分にあった。それで書き上げたのが『シュリヴィジャヤの歴史』である。 いうまでもなく東南アジア古代史は資料的制約が多く、いわば随所に「ミッシング・リンク」がある。それをどう補っていくかは歴史家の想像力・能力である。しかし、既存の権威者に無批判に追随し、自ら思考停止に陥っている歴史家は間違った仮説をそのまま受け入れて間違いを拡大再生産していかざるをえない。ミッシング・リンクを補っていくには歴史家の「合理的思考」が何よりも求められる。それには考古学のみならず、経済地理学的な知識・常識など多方面の学問的知識も要求される。『シュリヴィジャヤの歴史』は英語版をめこんから出版していただいたおかげで東南アジア諸国の研究者の目に触れる機会にも恵まれ、少なからぬ反響を呼び、彼らとの議論の中で新たな発見もしている。と同時に、彼らの間には私の仮説の理解者は確実に増えている。
 今回私があえて「扶南と真臘と林邑の歴史」を上梓した目的は、この隣接する3地域の間の関連を明らかにしたいためである。扶南から室利仏逝、シャイレンドラ、三仏斉へという一連の流れについては前著で既に明らかであるが、実はアンコール王朝についてもシュリヴィジャヤが300年近く支配していたことを明らかにしたかったためである。
 アンコール王朝は実質的に「扶南の流れをくむ」王朝だったのである。それは大乗仏教の広範な普及によってもうかがわれる。ただし「朝貢貿易」についてはアンコール王朝時代には300年間も行なわれなかった。こういう事実を無視してアンコール王朝は「東西貿易の要」であるといった主張をするアンコール史の権威者の存在には驚かされる。それはシュリヴィジャヤから掣肘を受けていた何よりの証拠である。
 林邑(チャンパ)については扶南と深い関係を持っていた時期が存在したことは明らかであり、さらには占城(チャンパ)についてもアンコール王朝の支配を受けていた時期があったことは確かであるが、全体としては独自の道を歩んだことは間違いない。しかし、林邑の朝貢も750年以降途絶えてしまった。それはシュリヴィジャヤの動きとも関係していると考えられる。ただし、チャンパについては支配者が北と南に分かれていた時期もあり、その歴史の全容を明らかにするのは困難であったことは率直に認めざるをえない。
 私がここで方法論として指摘しておきたいことは「東南アジア古代史研究」においては「経済地理学」的視点がもっと取り入れられなければならないということである。もちろん過去の歴史家も地理学的要素は取り入れてきたが、誤った解釈に引きずられてきた人があまりに多い。それは権威者とされる学者の理論を無批判に受け入れるからである。資料的な制約はもちろんあるが、おおよその経済発展の流れと歴史的進化は密接に関係しているという点は忘れられるべきではない。
 単に漢籍や碑文の字句を読み解くだけでは「歴史」は論じられないことはいうまでもない。歴史という「たて糸」を通すには経済地理学的な経過を解明していかねばならない。私が東南アジアの古代史について書き続けるのは「議論を本道に戻す」ことが目的である。現状のパレンバン説は余りにひどすぎるのである。「シュリヴィジャヤ史」の研究以外の、たとえば「考古学」といった分野で優れた実績を上げている人は多いが、肝心の「シュリヴィジャヤ史」をセデス理論に任せていたのでは、最後は間違った結論に陥る危険も少なくない。東西交易史においては「西方」とジャワ島がメイン・ルートであり、スンダ海峡がその中間点であるといったセデスの理論に見られるごとく、極端にマレー半島の重要性を無視した現在の「通説」なるものが史実・実態からかけはなれたものになっている。そういう理論を根幹から改めていかない限り、東南アジアの古代史は迷路から脱出することはできない。
 また、基本的な用語解釈の間違いも少なくない。「闍婆」を単純に「ジャワ島」と解釈しては大きな間違いのもとである。唐以前においては「闍婆」はしばしば「マレー半島」を意味していた。法顕が「耶馬提」にたどり着いたと記しているが、気象条件を考えれば、マレー半島西岸(たぶんケダー)以外ではありえない。
 そもそも「扶南」、「真臘」、「林邑」の歴史についても首尾一貫した「定説」と言えるようなものは存在しがたい。それぞれについて歴史家によって様々な解釈が行なわれているが、必ずどこかに間違いや誤解がついて回る。そもそもセデスの「シュリヴィジャヤ=パレンバン説」に依拠している限り「定説」などは書けるはずはないのである。
 しかし、これら3国の歴史について、私は僭越ながら大筋はどういうものであったかということの見当はつけられた確信している。それは「シュリヴィジャヤ史」という東南アジア古代史の背骨とも言うべきものが明らかになったので、それの隣接地域とも言えるインドシナ半島(真臘とチャンパ)についてもかなり踏み込んで書けるようになってきたためである。室利仏逝がマレー半島にあったということが確定されれば、扶南は「自然消滅」ではなくて盤盤国に計画的に時間をかけて亡命して、後に「シュリヴィジャヤ」を建国し、さらに勢力をマラッカ海峡とジャワ島(シャイレンドラ王国)にまで拡大したのだという筋道が明らかになる。
 現在タイやカンボジアやベトナムはそれぞれ「国境」を異にしているが、古代国家の歴史を考える場合、現代の国境概念を念頭に置いていると大きな過ちを犯しかねない。扶南や真臘の歴史はカンボジア史として狭く限定して論じるわけにはいかない。そこで改めて「扶南と真臘とチャンパ」の歴史はいかなるものであったかを全体的に概観する必要があると考え、本書をあえて上梓するものである。


【著者はこんな人】
鈴木 峻(すずき たかし)
1938年8月5日満州国・牡丹江市生まれ。
1962年東京大学経済学部卒業。住友金属工業、調査部次長、シンガポール事務所次長、海外事業部長。タイスチール・パイプ社長。鹿島製鉄所副所長。(株)日本総研理事・アジア研究センター所長。
1997年神戸大学大学院経済学研究科兼国際協力研究科教授。2001年東洋大学経済学部教授。2004年定年退職。その間、東京大学農学部、茨城大学人文学部非常勤講師。立命館大学客員教授。
経済学博士(神戸大学、学術)。
主な著書『東南アジアの経済』(御茶ノ水書房、1996年)、『東南アジアの経済と歴史』(日本経済評論社、2002年)、『シュリヴィジャヤの歴史』(2010年、めこん)。The History of Srivijaya(英文。2012年、めこん)


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