カンボジア北東部のラオ村落における対人関係の民族誌

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 山﨑寿美子

 定価5500円+税
 A5判・上製ハードカバー・320ページ・写真多数
 ISBN978-4-8396-0310-6 C3039
 
             

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 ストゥントラエンはカンボジア北東部のメコン川流域に広がる辺境州です。首都プノンペンから遠く、ラオス南部と接し、州都(ストゥントラエン)の住民の半数はラオ人だと言われている特殊な地域です。実際、州都ストゥントラエン(ラオス語ではストゥントゥレン)はラオス南部では「シエンテーン」という古名で知られており、ラオス南部のシーパンドーン(4000の島)との行き来がいまだに盛んです。しかし、ラオスから見てもやはり「遠い」地域であることには変わりなく、ラオスからもカンボジアからもあまり注目を集めることはなかったのですが、近年、開発や観光の面からその特殊性が脚光を浴びるようになってきました。人類学的にも、民族・言語の混合が著しいこの地域の文化は研究対象として非常に興味深いものがあります。
 本書は、ストゥントラエンのメコン川沿いのラオ人集落に2年余にわたって住み込み、特にその対人関係のありかたを観察した結果をまとめたものです。



【目次】
第1章 ストゥントラエンのラオ――カンボジア北東部の村落世界
第2章 「ハック・カン」――親密な間柄を築く
第3章 「ハック・カン」の流動性
第4章 上座仏教の食施をめぐる競合
第5章 僧侶と村びとの親密な関係とその変容
第6章 姻族関係の緊張と変容



【まえがきから】
 本書の舞台となるカンボジア北東部のストゥントラエン州は、国家の周縁に位置し、ラオスとの国境域にある。メコン水系と森林に恵まれ、首都プノンペンから国道7号線をひたすら北上していくと、視界に緑が広がり、川の湿り気を感じるようになる 。
 2007年7月8日、ローカルバスに乗ること9時間弱、小雨の降るストゥントラエン州都に、はじめて降り立った。まず感じたのは、なんて静かで、のどかな場所だろうということだった。他州のような人ごみも喧騒もなくバスを降りようものなら必ず客引きに走り寄ってくるバイクタクシーもいなかった。
 州都の街並みを歩いてみると、良質の木材を贅沢に使用した高床式住居が並んでいた。屋敷地も広々として、周囲には果樹や野菜がたくさん植えられていた。この地域は土地も森林の恵みも豊かなのだと、一目でわかった。初めて訪れた場所に抱く新鮮さはもとより、この地域の落ち着いた雰囲気がすぐに気に入ってしまった。
 しかし、私がストゥントラエンのラオ人について研究することになったのは、全くの偶然であった。もともと国境域には興味があったが、カンボジアのマジョリティである、クメール人の研究をする予定でいた。しかも、恥ずかしながら、当初はカンボジアにラオ人が暮らしていることすら知らなかったのである。
 2年ほどフィールドワークをする心づもりで、2006年8月にカンボジアに渡航してから、いくつかの州をまわって調査地を探した。そして、2007年1月には、タイと国境を接するバンテアイミエンチェイ州のクメール村落で滞在させてもらうことになった。調査地を決める際、カンボジアのなかで辛い料理が食べられている地域を探した。周辺のタイやラオスと異なり、クメール人は一般的に辛い料理をあまり好まない傾向にある。しかし、タイとの国境域では辛い料理が食べられているという話を聞きつけ、知り合いが紹介してくれたクメール人のNGOスタッフとともに、村々を訪れては食事をご馳走になった。この地域は、かつて1世紀あまりにわたって、タイが統治していた。現在でも、タイの紙幣バーツが使用されたり、クメールの紙幣リエルをバーツに置き換えて数えたり(たとえば、100リエルを1バーツと呼ぶ)、バンコクやイサーン(タイ東北部)へ出稼ぎに行くものが多いなど、タイとのかかわりが深い。カンボジアは周辺諸国に比べて民族的差異が強調されにくい傾向にあったが、私は当初、食の嗜好の違いを通して、他民族との接触や影響について知りたいと考えていた。
 バンテアイミエンチェイの農村部では、方言と言ってもよい、独特のクメール語が話されている。シェムリアップ州の言葉に近いため、しばしば「シェムリアップ訛り」とも言われる。母音が強く、アクセントやイントネーションも、ラジオやテレビで流されるいわゆる標準語とは異なる上、タイ語の単語も混ざっていたりする。私が村で滞在をはじめたときは、村びとの話す会話をなかなか聞き取れないばかりか、私の話すクメール語を笑われたりもした。しばらくすると少しは耳が慣れ、人びとを真似て発音ができるようになってきた。なんとか身につけたいと必死だったのか、用事があってプノンペンに出ると、今度はバンテアイミエンチェイの「訛り」が抜けず、笑われてしまうこともあった。
 食に関して言えば、バンテアイミエンチェイの村では、確かに唐辛子が多く食べられてはいたものの、食生活が豊かとは言い難かった。それは1つには、自然環境によるところが大きかった。周囲に川がないため、人びとの重要なタンパク源となる魚は、降雨によって水の張った田んぼや、その脇にできる水路で捕るくらいであったが、降雨が足りないとそれも期待できず、タイから安く運ばれてくる養殖魚を買い求めていた。また、土地が痩せているのに加え、稲作や畑作は天水依存のため、降雨が不足すると十分に育たなかった。このような状況で、なにも食料がない時は、唐辛子を炒っては叩き、それに塩と酸味の果実などをあわせて、ごはんのおかずにしていた。夜中に男性たちが野原でとってくる蛇や野ネズミやカエルも、貴重な食料だった。
 村びとの生活用水として、池が1つ掘られていたが、全世帯が十分に使えるほど大きくはなく、水浴びをするのも気がひけた。そうしたなか、私は村びとともに、日照りが続く乾季をしのぎ、雨季に入って雨が降ればなんとか田植えをし、半年を過ごした。徐々に村びととも打ち解けてきたのだが、その一方で、食料や水が不足している状況で、私が居候先の負担になっているのではないかという後ろめたさも募っていった。
 そして、2007年6月のある日に、ひょんなことから、私の滞在について不安を感じている村びとの話を聞いてしまった。それで、随分と悩んだすえ、村を出ることに決めた。まずはプノンペンに行き、数週間を過ごしたが、調査地から逃げ出したも同然だった自分を責めた。しばらくすると、居候先から電話がかかってきて、いつ戻ってくるのか、どうかしたのかと聞かれ、はっきりと言えないまま、愛着と心苦しさがつきまとった。そして、その時点で既に、カンボジアにやってきてから1年が経過しつつあり、これから調査地を変えて調査を1からやりなおすことなんて、自分にできるだろうかと、途方に暮れていた。
 そのようなとき、王立プノンペン大学で教鞭をとっていたクメール人のドーク・ヴティ氏とイー・ラッタナ氏が、ストゥントラエンに行ってみてはどうかと勧めてくれたのである。2人は日本に留学した経験があり、その当時から知り合いの先輩だった。カンボジアに帰国してからは、大学の教員として働いており、私のプノンペンでの生活から調査の手続きに至るまで、多方面にわたって細やかな気遣いとサポートをしてくれていた。そして、私がバンテアイミエンチェイから戻ってきて、大学の食堂で一緒に昼食をとっていたとき、ヴティ氏は、沈んでいる私を案じて、ストゥントラエン行きを提案してくれたのだった。ストゥントラエンも国境域であるし、ラオ人が多くいるから、きっと興味深い調査ができるに違いないと言い、すぐに彼の学生の知り合いをたどって、同州出身のラオ人の大学生、ティを紹介してくれた。
 2007年7月1日、私はヴティ氏とラッタナ氏とともに、プノンペンの名刹ウナロム寺院で、ティと面会した。彼は当時21歳で、成績が優秀であったため、高校卒業後に授業料免除と奨学金を受けて、プノンペンの国立大学に進学していた。しかし、父親を早くに亡くし、経済的に余裕がなかったので、寺院の庫裏に寄宿していた。私たちは、雨の降りだしそうな午後に庫裏を訪れ、脇のベンチに腰掛けながら、ティと手短に話をした。彼は痩身で肌が黒く、時々作ったような笑顔になるものの、あまり表情を緩めなかった。そして、始終ヴティ氏とラッタナ氏の方を向き、流暢なプノンペンのクメール語で、ストゥントラエンに私を連れていくと約束し、具体的な交通手段について話していた。お世辞にも愛想がよいとは言えないティとの面会において、私は緊張と不安が先に立ち、ほとんど発言することができなかった。
 ともあれ、その翌週の7月8日、大学が長期休暇に入ったティとともにバスに乗り込み、ストゥントラエンに向かうことになった。ただ、このときはまだバンテアイミエンチェイの村への愛着やわだかまりをひきずっており、調査地を変更してよいものか悩んでいたが、ひとまず行ってみてから考えようと思った。
 ティの家は州都にあり、彼の母親プニーが1人で住んでいた。私たちが到着すると、ラオ料理として有名な、真っ黒でどろっとした淡水魚の和え物、「ラープ(laap)」 を作って迎えてくれた(口絵参照)。ティの父親もラオ人で、警察官をしていたが、6年前に病死したという。プニーはKS村の近隣村の出身であるが、軍施設の清掃員として働きながら州都で暮らしていた。彼女は息子との会話を含め、通常はクメール語で話をしていたが、ラオ語もでき、出身村などから客が来たりするとラオ語で話をしていた。そして、私がラオ村落に行きたいと知ると、どの村でラオ語が日常的に話されているのかを教えてくれた。
 そしてティは、その後、数日間にわたって、いくつかのラオ村落へ私を案内してくれた。彼が村びとに私を紹介するとき、「彼女はカンボジアの『少数民族』、特に僕たちの側(ラオ)の研究をしているんだ。しかも、食に興味があるよ」と付け加えるので、そのうち私も、「少数民族ラオ人の食文化を研究している学生」などと、自分を位置づけなおすことになった。
 KS村は、ティがはじめに案内してくれた場所だった。7月10日、彼は、がたつくバイクの後ろに私を乗せて、雨が降った後でぬかるんだ道を進み、いくつかの木橋を越えて、父方の伯母にあたるモーンの家に連れていってくれた。その日、家には、モーンと、彼女の夫カムサイ、祖母のヌピーがいた。ティは、モーンに聞かれるがまま、首都での大学生活について話したあと、ラオの食文化に興味を持っている日本の「友人」として、私を紹介した。そのときモーンは、「そう」と言って、私をじっと見つめただけであった。
 バンテアイミエンチェイをはじめ、クメール村落では、初対面であっても屈託のない笑顔で迎えられることが多いのだが、モーンに限らずKS村で出会う人びとは、あまり表情を変えなかった。そのため、当初は、とっつきにくそうだという印象を持った。しかし、その一方で、その方が村びとたちと関係を築きやすいかもしれないとも直感的に感じた。また、バンテアイミエンチェイでは、教育や開発を支援するNGOスタッフとともに村を訪れたためか、私もNGO関係者のように扱われることがあったが、KS村では、ティが連れてきた友人として捉えられ、仰々しい対応もなされなかったので、私も身構えずにすみそうだった。
 それからもう1つ、調査地を選ぶ決め手となったのは、その日モーンが昼食にと食べさせてくれた、魚類の発酵食品であった。彼女は、ティと私を台所に誘い、「ケムマークナット(khem maak nat)」 を出してくれた(口絵参照)。それは、淡水魚を塩漬けにして、ショウガ科のナンキョウ(Alpinia galangal)、ニンニク、炒米、パイナップルを加えて発酵させたもので、私はそのとき初めて食べたのだが、その美味しさに感動してしまった。塩分がパイナップルの甘味と調和し、ナンキョウや炒米の香りが引き立っていた。あまりの美味しさに、自分で作ったのかとモーンにたずねると、彼女は「自分で作ったのよ。ここでは何でも自分で作る。ラオは、何でも自分で作るのよ」と言った。私は、この発酵食品の味と、それを作りだすKS村の人びとに魅かれたのだろうと思う。別の村も複数まわったのだが、そのたびにKS村のことを思い出し、結局、KS村に滞在させてもらうことに決めたのである。
 後日モーンが、出会った日の出来事について、笑いながら私に語ったことがある。ティは突然、前触れもなく日本人を連れてきた。急だったので、その日は食べ物がケムマークナットしかなくて、日本人がラオの発酵食品を食べられるのかと心配した。それで、こっそりティに聞くと、彼は「スミコは何でも食べるから大丈夫さ。パーデークなんて、食べられるどころか彼女の好物なんだ。唐辛子にも強くて、僕でも食べられないような辛い料理をパクパク好んで食べるんだ」と言った。それで、ケムマークナットを出してみた。そうしたら、私が美味しがって食べている。それを見て、なんて養いやすい日本人なんだろうと思ったと言う。パーデーク(paadeek)は、淡水魚に塩と少量の米糠を加え、甕で寝かせてつくられる発酵食品の1つであり、調味料や副食としてさまざまに食べられる。それは保存食となるほか、ラオ料理の味の基本としても重要である。しかし、淡水魚の生臭さや発酵特有のにおいがするため、外国人などは耐えがたい臭気として敬遠することも多い。それゆえ、村びとは、パーデークを食べられるかどうかで、自分たちと相手との間に線引きをするということがよくある 。
 調査地を変更することに迷いもあったものの、このようなエピソードを含め、ストゥントラエンの村々をまわるうちに、私は、カンボジアの辺境に息づくラオの生活世界にどんどん魅了されていった。そして、2007年8月から本格的に、KS村のモーン家に滞在させてもらうことになった。
 なお、本書ではバンテアイミエンチェイのクメール村落での出来事は扱わないが、そこでの滞在経験がなかったならば、KS村の人びとの、ひいてはカンボジアのラオ人の生活世界や対人関係の特徴にも気がつけなかったかもしれない。そして何より、その経験によって私自身が、居候先でのふるまい方を学び、KS村での滞在においては多少なりとも気を配ることができるようになったという点で貴重なものであった。また、今後、何らかの形で、バンテアイミエンチェイの生活世界についてもとりあげる機会があるかもしれない。そう感じたのは、2016年4月に、思い切って9年ぶりに、バンテアイミエンチェイの村を再訪したときのことだった。そのとき、村びとたちが、9年前に突然いなくなった私のことを案じ、寂しがってくれていたことを知ったのである。私を見つけた瞬間、向こうから、ものすごい勢いで駆けてきた居候先の女性を前にしたとき、思わず涙があふれてきた。彼女に抱きしめられながら、わだかまりを感じて、つながりを切ろうとしていたのは私自身であって、村びとはむしろ、どうやったら良い関係を築けるかと考えてくれていたのかもしれないと気がついた。そのとき、村での出来事や、人びとの生活様式、過去の経験の語りなどが、一気によみがえってきた。と同時に、9年という歳月のあいだに、村を取り囲む環境がかなり変化し、村びとのほとんどがタイへの出稼ぎに出払ってしまっている状況に驚きもした。また、バンテアイミエンチェイにある、いくつかのラオ村落にも、そのとき初めて訪れたのだが、国境域であっても、カンボジア北東部と北西部とでは、生活環境も言語なども、だいぶ異なるように見えた。このような国境域の比較という点を含め、いつか、バンテアイミエンチェイの生活世界についても、とりあげることができたらよいと考えはじめたところである。
 本書の記述は、2007年7月から2008年12月までの18ヵ月間にわたって行なったKS村でのフィールドワークと、その後に継続して行なっている短期調査(2010年12月~2011年1月の2週間、2011年7月の1週間、2012年4月の1週間、2013年3月の2週間、2013年8月~9月、2014年8月~9月、2015年8月~9月、2016年4月~5月の合計約5ヵ月間)に基づく。
 ここで、私が滞在していたモーン家の家族構成と、そこでフィールドワークをはじめた私の日常について、簡単に説明をしておきたい。2007年8月当時、モーン家には、家主のモーン(57歳)、夫のカムサイ(67歳)、祖母のヌピー(109歳)、三男のカムマイ(27歳)、末娘のリーン(19歳)が住んでいた。モーンの子供は、もともと9人いたが、そのうち5人は病気で幼い頃に他界し、2人は既に結婚して家を出ていた。また、カムマイは、州都で日雇い労働をしており、週末しか家に戻ってこなかった。
 そこに私が加わって、寝食を共にし、調理、片づけ、家屋の掃除、稲作や菜園の手入れ、漁などを、見よう見まねで手伝いながら、徐々に、モーン家の「娘(luuk saav)」となっていった。そして、少しずつ、他の村びとともつきあうようになり、家を訪問してはおしゃべりをしたり、モーン家で作った料理や甘味をおすそわけに行くこともあった。また、田植えや稲刈り、脱穀などの農作業を手伝ったり、さまざまな儀礼に参加していくことで、人びとの生活サイクルや信仰、価値観などを学んでいった。とはいえ、私は当初、村びとを呼ぶのですら戸惑った。というのも、人びとは相手を呼ぶとき、親族関係や年齢差に応じて、名前の前に呼称を付けるのだが、それがよく分からなかったのである。しかし、しばらくしてから、モーン家の「娘」として、「妹」のリーンに倣って相手を呼んでみることにした。すると、相手もそれに応じて、私をモーン家の「娘」と位置づけ、親族名称をつけて呼んでくれるようになった。
 言語については、モーン家では日常的にラオ語が使われていたが、私は当初、クメール語で、しかもバンテアイミエンチェイ訛りのクメール語で、コミュニケーションをとるしかなかった。ラオ語と似ているとされるタイ語には、少し触れたことがあったため、単語や表現の一部は聞き取れたが、声調は全く異なるし、独特の言い回しも多かった。そこで、一から学ぶ覚悟をし、滞在をはじめて1週間が経った頃、リーンに願いでた。リーンと私は、毎晩、板間に2畳ほどの茣蓙を敷き、蚊帳を吊って、川の字になって寝ていたのだが、その日の夜、いつものように彼女と寝転がりながら、できたら翌日からラオ語で話しかけてもらえないか、ラオ語を話せるようになりたいからと伝えた。すると彼女は、からかいながらも嬉しそうに承諾してくれた。翌朝には母親に伝えたのだろう、モーンも嬉しそうに微笑みながら、私にラオ語で話しかけてきた。それからは、モーン家のみならず、村びとたちが少しずつ、私にラオ語で会話をしてくれるようになった。私はまずは耳を慣らそうと、村びとたちの会話を聞き、そこで出される物の名前や状態、人びとの動作などに照らして、具体的に覚えていくようにした。知らない単語や表現はできるだけ記憶にとどめ、1人になったときにノートに書きとどめた。私が理解できないと、村びとがクメール語で言い直してくれたり、リーンが例えを出して説明してくれることもあった。床についたときふと、人びとの会話の表現を思い出すと、既に寝入っているリーンの横で、懐中電灯を手繰り寄せてメモを引き出し、それらを書きとめ、ごにょごにょと反復してみることもあった。このようにしてなんとか少しずつ、村びととラオ語でコミュニケーションがとれるようになっていった。
 本書のテーマは、モーン家をはじめ、そこで出会った人びとが、日常的に築いている対人関係のありかたであるが、以上のように、偶然のかかわりからお世話になることになったラオ村落での、手さぐり状態ではじめた私のフィールドワークが基となっている。また、フィールドワークにおいては、私が村びとの関係性に取り込まれていったと同時に、私の存在や言動が、人びとの関係性に何らかの影響を与えていた可能性もある。


【著者はこんな人】
山﨑寿美子(やまざき・すみこ)
筑波大学大学院人類学修了。文学博士。愛国学園大学准教授。カンボジア北東部、ラオス国境近くのストゥントラエン州の小村に住み込んで、2年余にわたってフィールドワークを続ける。カンボジア語とラオス語に堪能で、現地の料理にも詳しい、人類学の異才として期待されている。


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