小笠原諸島・父島 大村尋常高等小学校文集(復刻)
なでしこ

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 昭和8年(1933年)7月号[No.137]~昭和14年(1939年)2月号[No.189]

 公益財団法人小笠原協会所蔵
 後藤乾一・大里知子編

 A5判・並製・全3巻(各400~520ページ)・函入り
 定価8000円+税
 ISBN978-4-8396-0331-1 C0095 Y8000E
             

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なでしこ表紙
各表紙


なでしこ本文
本文

1933年(日本、国際連盟脱退)~1937年(日中戦争勃発)~1939年(第2次世界大戦勃発)、日本全土が戦争にのめり込んでいった時代、「南海の楽園」と呼ばれた小笠原諸島の小学生たちは日々、何を思っていたのか。奇跡的に消失を免れた59冊の文集が再現する少年少女たちの日常生活の喜びと哀しみ。


*****


【所蔵】

公益財団法人小笠原協会(会長 渋井信和)
小笠原諸島の日本復帰と昭和19年に本土に強制疎開を余儀なくされた旧島民の帰島促進を目指して、昭和40年5月8日に設立された。現在は、昭和43年6月26日の日本返還を経て、小笠原村民の生活向上、自然環境の保全、旧島民の帰島支援などを主な活動目標とし、これに資する機関紙「小笠原」を年4回、機関誌特集号を年1回発行している。

【編者】

後藤乾一(ごとう・けんいち)
1943年生まれ。早稲田大学名誉教授、(公財)小笠原協会評議員。
近年の著書として、『近代日本の「南進」と沖縄』(岩波書店、2015年)、『「南進」する人びとの近現代史――小笠原諸島・沖縄・インドネシア』(龍溪書舎、2019年)、「日本の南進と大東亜共栄圏』(めこん、2022年)。

大里知子(おおざと・ともこ)
1968年生まれ。法政大学沖縄文化研究所専任所員・准教授。
1968年、小笠原諸島の施政権が日本に返還されたのち、戸籍整備を担当した父の仕事の関係で約1年間父島にて幼少期を過ごした。


【目次】

なでしこ1

昭和8年(1933年)7月号[No.137]~昭和9年(1934年)12月号[No.152]

なでしこ2

昭和10年(1935年)正月号[No.153]~昭和11年(1936年)12月号[No.173]

なでしこ3

昭和12年(1937年)1月号[No.174]~昭和14年(1939年)2月号[No.189]


【まえがき】

 このたび復刻・公刊されることになった『なでしこ』は、公益財団法人・小笠原協会(一九六五年五月設立、詳細は『小笠原協会創立五十周年史』二〇一六年、を参照)が所蔵する、戦前期父島の大村尋常高等小学校の学校誌一三七号から一八九号(昭和八年七月~昭和十四年二月)全五九冊である。

一 時代的背景
 東京都唯一の亜熱帯地方である小笠原諸島。その中心父島は、東京・竹芝桟橋から南へ約一千キロ、黒潮に洗われる人口約二六九三人(二〇二二年六月現在、母島人口は約四五二人)の島である。二〇一一年に世界遺産に登録されたことが示すように(日本で四番目)、小笠原諸島は海陸の豊かな自然に恵まれ、訪れる人々を魅了してやまない。
 この小笠原諸島が日本の領土となったのは、一八七六(明治九)年十月のことである(硫黄諸島は一八九一年)。当初は内務省所管であったが、一八八〇年十一月から前大戦終結まで、東京府の管轄下に置かれてきた。歴史をさかのぼると、徳川幕府は、延宝三(一六七五)年、同諸島に巡察使を派遣し、「此島大日本之内也」の標識を建てたり、あるいは一八世紀後半に『三国通覧図説』を著した林子平ら先覚の経綸家たちが、当時無人島(むにんしま)と呼ばれた小笠原諸島の開拓を唱えたりした。しかしながら、基本的に「鎖国」を国策とする幕府当局からは、かえって危険思想視されてきた事実は広く知られている。この小笠原諸島に初めて定住することになったのは、日本人ではなく、一八三〇年にハワイから移り住んだ三〇人に満たない欧米系、カナカ系(太平洋諸島の諸民族の総称)の小さな集団であった。彼らは主として漁業を生業としたほか、一九世紀前半の捕鯨ブームに乗って寄港する欧米諸国の捕鯨船相手に交易活動を行うなど、半ば自給自足的な生活基盤を築いていった。こうした先住者の子孫たちと、明治初期以来この地に移り住んだ日本人との競存・共存関係が、小笠原諸島の近現代史を貫く大きな特徴の一つとなってきた。
 日本の版図に入って以降、自然条件に恵まれ天産豊かと喧伝されたこの地の開拓・開発をめざし、八丈島を主とする伊豆諸島をはじめ、東京等関東一円からの移住人口も、年々増加していった。小笠原諸島の全体の人口推移を概観すると、一九世紀最後の年一九〇〇(明治三三)年には早くも五五五〇人を数え、その後五千人を下回る時代が続いたものの、第一次世界大戦を機にふたたび五千人を超えるようになり、「大東亜戦争」勃発前年の一九四〇年(昭和十五年=「皇紀二六〇〇年」祭)には、七四六二人(内硫黄諸島住民は一〇五一人を占める)。こうした人口増を支えたのは、年間を通し温暖な気候を利用してのサトウキビや各種蔬菜、熱帯果実、そしてデリス、コカ等の国際市場でも需要が大きかった薬用植物の栽培であった。
 定住者人口が一定規模に達する中で、東京府当局(含現地出張所)や学齢期の児童をもつ住民の間からは、当然のことながら、学校教育の充実を求める声が高まってくる。またそれに先立ち、学校前史として一八七八(明治十一)年には、当時東京府の出張所が置かれた父島・扇浦地区には、「仮小学校」という名の学校が設置された。同年の仮小学校生徒数をみると、日本人十二名(男女各六名)、外国人五名(全員男子)の計十七名が在籍していた(以下の記述は、主として東京都立教育研究所編『東京都教育史通史編1』一九九四年に依拠)。
 その後東京府出張所は、一八八四年に扇浦から天然の良港・二見港をもつ大村地区に移転し、それに伴って、仮小学校という学校名も、大村学校と改称された。この学校が、『なでしこ』の発行母体となる大村尋常高等小学校のルーツである。同時に通学不便をきたすことになる扇浦の学童のために、翌年扇浦学校が開校した。父島以外をみてみると、第二の島母島には、一年後の一八八六(明治十九)年に沖村に母島学校、北村に北村学校が誕生した。さらに大正期に入り一九一三年になると、七百人近い人口に達していた硫黄島にも、唯一の学校として大正尋常(一八年尋常高等)小学校が発足をみた(一九二五年時点の同校生徒数は、尋常科二一二人、高等科三四名。同校については元教員の中村栄寿編(協力硫黄島同窓会)『硫黄島―村は消えた 戦前の歴史をたどる』一九八三年、私家版、参照)。ちなみに父島に設けられた大村学校、扇浦学校両校の発足時のデータをみると、両校とも教員は一名、生徒数は前者は二十四名(男子十四、女子十名)、後者は二十六名(男子十一、女子十五名)であった。
 定住人口も増加し、産業基盤も次第に整備されつつあった小笠原諸島の近現代史の中で、一つの重要な転換点となったのは、第一次世界大戦(一九一四~一九一八年)の終結まもない一九一九年十二月に、父島に要塞の設置が決定をみたことである。前年八月の陸軍決定「父島要塞設置要綱」に基づくものであったが、そこでは「海上及空中ヨリスル敵ノ攻撃ニ対シ我海軍ト相俟テ二見港〔大村〕ヲ援護ス」ることが、父島要塞の重要任務とされた。この背景には、五大国の一員となった日本が、第一次世界大戦後、小笠原諸島の南方に広がる旧ドイツ領ミクロネシア(南洋群島)を事実上統治下に置き、太平洋パワーとして勢力を拡大することに対する列強、とりわけアメリカの対日警戒心の深まりがあった。
 他方、こうした対米関係のきしみが生じる中で、日本は一九二三年二月の「帝国国防方針」改訂において、ロシアに代わりアメリカを第一仮想敵国とする方針を打ち出すに至った。こうして一九二三年三月、大村に父島要塞司令部が設置され、かつそれらの秘密防護のために、父島憲兵分駐所が設けられた。それ以降、人口数千人規模の「南海の楽園」とも形容された小笠原には、憲兵が常駐することになる。こうした中で、外国人の来島や彼らが欧米系住民と接触をすることに、きびしい監視の目が向けられるようになる(当時の社会状況については、石原俊『近代日本と小笠原諸島―移動民の島々と帝国』平凡社、二〇〇七年、石井良則『戦前期の小笠原諸島―その光と影』龍溪書舎、二〇一九年、等を参照)。
 アジア太平洋世界で重要な地政学的意味をもつに至った小笠原諸島をとりまく国際環境は、一九三〇年代に入ると、より緊張の度をますようになる。満州事変(一九三一年九月)、上海事変(一九三二年一月)、さらには国際連盟からの脱退通告(一九三三年三月)に象徴される日本の対外強硬路線は、同時に日本国内の「国家的危機」意識の高揚と不可分のものとなってくる。このことは、太平洋に屹立する小笠原諸島でも、とりわけ強く意識されるようになる。本『なでしこ』の対象となっている時期は、まさに国際連盟脱退直後に始まり、日中戦争の泥沼化、そして将来の東南アジア侵攻作戦を想定したといわれる日本軍の海南島上陸(一九三九年二月)までの期間である。
 そうした中で、日中戦争勃発直後、東京市は、「集団非常時指導要綱」を発布し、皇室への崇拝、時局認識の強化、作業の訓練・武道の重視等を府下の小学校に徹底させた。そうした時代環境が、『なでしこ』中の学童たちの作文からも生々しくうかがわれ、より一層読み手の興味を引く要因となっている。
 ちなみに筆者の手元にある、文部省『高等小学修身書巻二児童用』(一九三八年十二月)の第三課「国民の誠忠」の、次の一節を紹介しておきたい(同書、十頁)。「我等は国家の独立と繁栄のためには、全力を尽くして之に当らなければならない。万一我が国威が傷つけられる恐れがある時は、国民たる者は身体を捧げて国家を防衛すべきである。これは国家非常の時に於て君に忠を至す道である。」
 『なでしこ』は、まさに「国威が傷つけられる恐れがある」と認識された時代の産物であることを、改めて確認しておきたい。詳細は大里知子氏による本資料「解説」、および本文誌面に譲ることとし、一例のみを紹介しておきたい。『なでしこ』第一五七号(一九三五年六月号)で、尋常四年の男子生徒は、こう誓っていた。「いくら大和だましひがあつても天皇陛下の御恩をわすれないで忠義をつくさなければなりません。僕は大きくなつたら立派な日本人となつて天皇陛下に忠義をつくさうとこころざしを立てています。大日本帝国ばんざーい。」

二 戦争勃発と「強制疎開」、そして施政権返還
 大村尋常高等小学校は、開戦九か月前の一九四一(昭和十六年)三月、文部省の国民学校令に基づいて全国の公立小学校同様、大村国民学校と改称される。そして開戦を迎えると、学校を取り巻く環境は一変し、軍事訓練と皇国意識の高揚を両軸とし、南島の生徒たちを「非常時日本」に挺身する人材として養成することに教育の重点が置かれるようになった。
 他方、この間戦局は日本にとって次第に悪化し、一九四四(昭和十九)年七月には、南洋群島の要衝サイパン島が米軍によって陥落させられる。その結果、サイパン島と至近の距離にある硫黄島のみならず、小笠原諸島全域に深刻な危機感が急速に広がってくる。この状況下、米軍の攻撃に対処すべく、学童を含む一般住民の島外への疎開が緊急検討されるようになる。小笠原諸島におけるその最初の動きは、一九四四年三月八日、島庁当局から警視庁警務課長宛てに打電された、次のような電報であった(島庁独自の判断ではなく、要塞司令部、海軍警備隊、憲兵隊とも密接な事前の協議があったと考えられる)。「防空法施行令第八条ノ二ニ該当スル一千五百名ヲ四月末日迄ニ逐次内地ニ引揚グル準備中」。ついで四月七日に至り、東京都(一九四三年六月、府改め)は、軍を含む関係方面と協議の上、「島嶼住民引揚実施要領」を決定する(「強制疎開に至る一連の政策的流れについては、東京都『東京都戦災史』一九五三年、を参照)。
 このような経緯が示すように、小笠原諸島からの学童を含む住民の疎開は、基本的には多くの場合、自発的な形での離島ではなく、政府・軍部・東京都当局の行政指導という形で具体化していった。一九四四年四月から六月十二日までの三回の疎開は、「疎開勧告」に基づくものであったが、その後六月三十日以降七月二十九日までの計五回は、「強制疎開」によるものであった(東京都立教育研究所編、前掲書、六八二頁)。このようにして、全体を通じ六八八六名の人たちの多くは、断腸の思いで生まれ育った故郷の島に別れを告げることになった。小笠原協会の機関誌『小笠原』は、これまでしばしば、疎開した(させられた)旧島民の体験の聞き取り調査記録を掲載してきた。とりわけ烈しい地上戦の場となった硫黄島で、軍命により残留を命じられ戦死した成人男子の遺族からは、三回にわたり詳細な聞き取り調査を上梓している(第五九号(二〇一四年)、第六〇号(二〇一五年)、第六五号(二〇二〇年)を参照)。またその他の特集号でも、『小笠原』誌は父島・母島で当時学童であった旧島民の方々の聞き取り記録を紹介しており、いずれもきわめて資料的価値の高い証言となっている。
 日本の敗戦からまもない一九四六(昭和二十一)年一月二九日、GHQ(連合国軍最高司令部)は、日本政府の行政範囲を、日本本土と周辺の諸小島に限定すると決定し、小笠原諸島は沖縄諸島・奄美諸島と共に米国の直接軍政下に組み込まれることになる。「勧告疎開」・「強制疎開」により父島、母島、硫黄島を去ることを余儀なくされた旧島民は(ただしアメリカ側は、島民社会を分断させる形で、一九四六年十月欧米系島民には帰島を許可した)、翌年七月いち早く小笠原島・硫黄島帰郷促進連盟を結成し、帰島運動さらには施政権返還を日米両国政府に求める運動を積極的に展開する(この間の経緯については、『小笠原協会創立五十周年誌』参照)。
 しかしながら、東西冷戦下のアメリカの極東戦略という厚い壁に阻まれ、運動は容易には進展しなかった。アメリカ政府(とくに海軍)は、「極東における脅威と緊張の状態が存する限り」小笠原諸島の現状を維持するとの、いわゆるブルースカイ・ポジション論を容易に崩そうとはしなかった。
 ベトナム戦争の末期、アメリカが小笠原諸島の施政権返還に踏み切るまでには戦後二十年が経過したが、ようやく一九六八(昭和四三)年四月五日に、日米両国政府の間で「小笠原諸島返還協定」が調印をみた(ただし、かつて一千名の人口を有した硫黄島は、事実上自衛隊の管理下におかれ、旧島民の帰島は今なお認められていない)。奄美諸島の施政権返還から十五年後、そして沖縄返還に先立つ四年前のことであった。

三 『なでしこ』の奇跡的保存
 以上、『なでしこ』をお読みいただく際の背景説明をさせていただいたが、以下ではこの大村尋常高等小学校の校誌の復刻・刊行に至る経緯につき、一言触れておきたい。
 東南アジア近現代史を専攻する編者は、小笠原諸島を直接の研究対象とするものではないが、かねてから、近代日本の「南進」研究との関連で、機会があれば小笠原諸島の歴史とその文化・社会について勉強したいと願っていた。そしてその第一歩として今から数年前、港区竹芝ターミナル内の(公財)小笠原協会をお訪ねし(当時の会長は鍋島茂樹氏)、さまざまなご教示をいただくと共に、各種の所蔵資料を拝見させていただいた。 
 その基本資料の一つが、協会発足当時から年に四回刊行され、今日に至っている四色刷り四頁の機関紙『小笠原』であった。丁寧に整理されたその機関紙を、創刊号から興味深く読み進める内に、第一一三号(一九九一年六月三〇日号)第三面トップに掲げられた、石津道保記「文集『なでしこ』発見される!」という記事にクギづけになった。評者にとって、まさに宝物に出会った感を覚えた。その折の快い興奮を思い出しつつ、この記事の全文を紹介させていただきたい。
 「この度、昭和八年七月から十四年二月に至る間の文集〝なでしこ〟五十九冊が発見されました。〝なでしこ〟は旧父島大村小学校で、八月を除く毎月発行されたもので、昭和八年七月の時点で一三七号となっているので、それよりも十年以上前から発行されていたことになります。全冊保存されていたとすると、大変な部数になりますが、昭和十九年の強制引揚げを経ているので、そのような可能性は考えられません。
 これまでに、二部か三部を大切に保存していた人はありますが、五十九部[冊]という多量を保存していた例はありません。
 この五十九部は、昭和八年から十四年まで父島大村に滞在していた、坪井肇さんのお母さんの千代子さんが、現在まで大切に保存されたものです。戦時中の空襲と、戦後の混乱を経て、東京板橋の街の中で、殆ど傷むこともなく、ひっそりと五十八年もの長い間保存されていたことは、奇蹟と言ってよいと思います。坪井千代子さんの驚くべき几帳面さが、この貴重な資料を残すという奇蹟を生んだのです。
 ページを繰ると、既に老令にさしかかった人たちの幼な顔が思い出されます。そして、あの内地から遠く離れた小さな島にも、戦時色が色濃く流れていることと、当時の豊かな自然の中での子供らの生活が偲ばれます。
 寄贈された坪井さんの御好意に報いるために、永く保存したいと思います。」

   上述した一九三〇年代後半以降、戦争、強制疎開、二十年以上にわたる不慣れな内地での戦後生活という小笠原諸島の旧住民の方々の多大な困難に想いを致すとき、この記事が指摘するように、これだけの量の『なでしこ』が現存していたことは、「奇蹟」と言ってよいであろう。それだけに初めて同誌を手にとって以来、編者はなんとかして現存号を復刻・公刊し、小笠原諸島に関係・関心のある方々のみならず、近現代日本の歴史の一面を知る好個の資料として、広く一般社会に還元できればとの思いを強く抱いた。またそのことによって、『なでしこ』を大切に保存し続け、そして小笠原協会への寄贈を思い立たれた故坪井千代子様のご好意に応えることができるのでは、と考えた。
 この個人的な思いを小笠原協会にお伝えしたところ、当時の会長鍋島茂樹氏、事務局長の林眞一郎氏・菊地輝雄氏から、あたたかいご賛同とご協力をいただくことができた。さらにその後を継がれた現会長の渋井信和氏、佐藤豪介常務理事、齋藤邦雄事務局長からも、引き続き全面的なお力添えをいただき、今回の刊行にたどりついた次第である。
 なお本書で使わせていただいた写真は、二葉以外はすべて石井良則氏から提供を受けたものである。長年にわたり父島・母島で教鞭をとられ、ご退職後も母島を拠点に小笠原研究に取り組まれてきた石井氏に、関係者一同深甚なる謝意を表したい。
 また総計一五〇〇ページに達する浩翰な資料を出版するに際しては、予想を上回る経費が見込まれたが、この点については、編者の旧勤務校である早稲田大学アジア太平洋研究センター所長・黒田一雄教授の力強いサポートを得て、同センター「原口記念アジア研究基金」から全面的な出版助成をいただくことができた。この企画の意義を認め助成をご承認いただいた、黒田所長をはじめ同基金運営委員会の諸先生、そして煩雑な事務手続きを的確に処理していただいた同研究センター事務所の太田幸子さんにも心からの謝意を申し上げたい。
 最後になったが、この貴重な資料『なでしこ』を一読され、その文化的公共財としての価値を評価し、出版を快諾していただいた、(株)めこん社長桑原晨氏の熱意溢れるご努力にも、改めて御礼を申し上げたい。


二〇二二年七月二十日    後藤乾一