本書は、カンボジアを取り上げて、1993年から2023年の30年間の変化を総合的に検討する。カンボジアという1つの国の環境と社会、そこで生きる住民がつくり出した経済や文化の近年の状況を、1990年代の過去の状況を念頭において俯瞰し、「カンボジアは変わったのか」という問いを複数の分野・方向から考えてゆく。30年という年月を経れば、当然ながら、その国、社会、文化の多くの部分で眼に見える形の変化が生じている。ただ、明らかな変化の裏に変わっていない部分があったり、外形的には変わっていないように見える特徴の裏に内的な変化が見られたりする場合もある。そのように見過ごされがちな事実を、マクロな状況の変化と共に丁寧にたどり直し、1つの歴史経験の総体を考えてゆく。
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カンボジアは、東南アジアの大陸部にあり、日本の半分ほどの国土面積の、比較的小さな国である。世界遺産アンコール・ワットの存在で知られるように、古くは王権が栄えた。また、19世紀後半から20世紀半ばにかけて、隣国ベトナム、ラオスとともにフランスの植民地支配を受けた。独立は、1953年である。その後の一時期は、他のアジア諸国と同様に経済開発と近代化の時代を謳歌した。しかし、1970年代初頭から1990年代まで、戦火と孤立につつまれた。
このようなカンボジアの現代史を考える際のキーワードが「体制移行」である。体制移行とは、政治体制、つまり国家権力が敷いた統治制度の転換を意味する。20世紀のカンボジアの歴史には、封建制(伝統的王権)から民主制へ、民主制から独裁へ、独裁から共和制へ、共和制から共産制へといった具合に、政治体制の転換がいくつも見られた。その中でも、特に興味深く、同時代的な視点から見ていま改めて注目されるべきだと考えられるのは、1993年に生じた体制移行である。
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19世紀末にフランスの植民地支配下に置かれたカンボジアでは、王が、少数のエリートと共に政治を行ない、人民を統治していた。それが、20世紀の半ば過ぎに新しい形へ変化した。第2次世界大戦の終結後の世界に、民族自決の動きが拡大したのである。カンボジアでも国王のノロドム・シハヌーク(Norodom Sihanouk)が外交を進め、独立を勝ち取った。独立後の国内には、議会が設けられ、民主制の政治体制が敷かれた。しかし、それは短命に終わった。つまり、王位を父に譲って、自らを国家元首としたシハヌークが独裁的な統治を開始した。シハヌークは、冷戦構造下の国際政治の中で中立外交を展開し、国内では経済開発と国民統合に力を入れた。最初は順調に見えたが、1960年代には内政が行き詰まり、汚職や不正義が社会に横行するようになった。そして、1970年3月、隣国ベトナムで共産主義勢力を相手に戦っていたアメリカを後ろ盾としたロン・ノル(Lon Nol)らのクーデタが起こり、シハヌークが失脚した。それ以後、首都プノンペンに建てられた共和制の政府と、シハヌーク支持者に共産主義勢力を加えて組織された民族統一戦線との間で、内戦が始まった。この内戦は、ポル・ポト(Pol Pot)らを指導者とする共産主義勢力の勝利で終結した。後にクメール・ルージュと呼ばれるようになった共産主義者らは、1975年4月17日の勝利の後に、民主カンプチアという共産制の国家を建設し、既存の社会の改造を試みる急進的な政策を次々に打ち出した。よく知られるように、その統治は、飢餓や病気、大規模な粛清殺人を原因として170万人とも言われる大量の死者を生み出し、1979年1月に崩壊した。同政権内で吹き荒れた粛清を逃れた民主カンプチアの幹部らに救国戦線を結成させ、それを支援する形でベトナムがカンボジアに侵攻したのである(民主カンプチアはそれ以前、ベトナム領内への侵攻を繰り返していた)。クメール・ルージュの幹部は、タイとの国境地帯へ逃げた。その後、1980年代のカンボジアでは、ベトナムを後ろ盾として社会主義を掲げた国家と、クメール・ルージュら反政府勢力との対立の下で、内戦が続いた。この時期のカンボジアは、冷戦構造の中、国際的に孤立し、外部者には国内の状況がよく分からなかった。一方で、1980年代の後半に、冷戦構造の崩壊という世界秩序の転換が生じた。1989年にベルリンの壁が崩れ、東西対立の緩和が始まったのである。それが、カンボジアの紛争を終結に導いた。プノンペンの社会主義政権を支援していたソ連やベトナムなど東側の諸国も、タイ国境の反政府勢力側の難民の生活支援等をしていた西側諸国も、これ以上カンボジアの紛争を続けさせる意味が見出せなくなった。そこで、国際社会が呼びかけ、カンボジアの紛争の当事者である国内勢力によって1991年10月にパリ和平協定が結ばれた。さらに、紛争解決のための統一選挙を国連が計画し、加盟国に準備への協力を呼びかけた。今日のカンボジアは、このような形で実施された1993年の選挙の後に成立した国家のもとにある。
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UNTACは、「国連カンボジア暫定統治機構」と日本語で称される組織、UnitedNations Transitional Authority in Cambodiaの略称である。それは、カンボジア全国民の参加によって選挙が実施され、その結果に基づいて新しい政府が樹立されるまでの期間の国内統治を、カンボジア国内の政治勢力に代わって国連が暫定的に請け負うためにつくられた組織である 。組織のトップには、日本人の明石康氏が着任し、1992年から1993年までカンボジアで活動した。日本は、UNTACの平和維持活動に参加させるため、それまで海外に出ることがなかった自衛隊を、国会での激しい論争の後にカンボジアへ派遣した。日本人の警察官やボランティアも、選挙準備の支援に関わった。すなわち、1993年のカンボジアの「体制移行」は、国際社会が後押ししたものであった。それは、外部者が、カンボジアの国土に暫定的な統治体制を敷き、準備し、実現させた転換であった。日本も、官民を挙げてその実施を支援した。カンボジアでそれ以前に生じた体制移行にも、外国の影響を受けたケースがあった。しかしそれらは、冷戦下の大国の対立を背景としていた。それに対し、1993年の「体制移行」には、国連という国際社会の代表組織の存在が全く異なる特徴を与えていた。中国やロシア、アメリカが一国主義に向かい、世界が分断にさらされる今日からは想像し難いが、1980年代末から1990年代にかけての世界には、平和を希求するグローバルな気運があった。第2次世界大戦以降の世界秩序をつくってきた冷戦構造が雪解けを迎え、当時の世界では各地で、紛争の当事者による和平交渉が始まっていた。1990年代初頭のカンボジアの紛争解決は、そのような世界の動きに後押しされたものだった。しかし、カンボジアの今日の状況は、30年前に、大きな希望とともに人びとが羨望していた未来そのものなのだろうか。日本をはじめとした国際社会が「良きもの」として推進した政治制度や国家システム、経済原理の導入は、カンボジアの社会と人びとに、どのような幸せをもたらしたのだろうか。
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1993年の「体制移行」は、政治システムの転換というだけなく、市場経済の浸透という意味でも、カンボジア社会の歴史の大きな転換点であった 。社会主義を掲げた1980年代の同国にも、社会の様式と人々の生活の一部に、市場経済の原理が働いていた。1989年に国名が変更され、社会主義が政策として放棄されると、市場経済の制度の導入が少しずつ進んだ。しかし、市場経済の制度化を広い範囲で国家が推進するようになったのは、1993年以降である。紛争終結によりその社会と人々の生活が、グローバルな経済につながり、市民の生活や自然環境の管理など、様々な方面で急速な変化が生じた。
1980年代のカンボジアの社会主義は、建前と実態のギャップが大きく、旧ソ連や中国、ベトナムのように社会の末端にまでその統治の様式を浸透させたものではなかった 。そして1993年以降、政府は、市場経済を積極的に導入し、その力で社会の復興を進めようとした。海港と首都を結ぶ主要な国道など、物流を担う道路インフラの整備が急がれ、外国投資を呼び込むための制度の整備が進められた。1998年にクメール・ルージュが消滅し、治安状況が大きく改善すると、地方の村々でも市場向け商品作物の栽培が拡大した。同時に、首都近郊に建てられた工場や、国外の労働市場を目指し、農村人口の出稼ぎが増加した。
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本書は、市場経済を基礎とする国家制度の導入が1990年代以降のカンボジアの社会、住民生活、自然環境などの変容とどう関わるのかという問題も、複数の視点から検証する。現代日本のように、市場経済が既に生活の基礎となってしまった社会に暮らすと、そのルールが社会をどう変えたのかという問題を実体験を持って振り返ることができない。しかし、「体制移行」以後のカンボジアの事例では、そのプロセスを進行形の変化として確認することができる。本書の各章から、近代化・グローバル化の普遍的な特徴を再検討し、また21世紀の東南アジアという地域と世界の文脈の中で、カンボジアが見せる独自の展開を確認してゆこう。