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​大使、カンボジアを駆ける

著者  篠原勝弘

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装幀 臼井新太郎

解説 木村文


定価1500円+税
ISBN978-4-8396-0340-3 C0030 Y1500E
四六版・並製・224ページ

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2026年3月発刊!

 レジェンドと呼ばれた熱血大使、波乱の54年を独白……。

 危機一髪、内戦最前線の恐怖。邦人遺体確認の悲しみ。難民キャンプの衝撃。迷走する政治権力者への不安。和平と復興の喜び。新生カンボジアへの希望。


 フン・セン(前首相)と長年一対一の「サシ」で、しかもカンボジア語で語り合ってきた篠原さんならではの数々の一次資料が詰まった最上のカンボジア現代史ですが、熱血大使の真骨頂はやはり「現場」の話です。

著者 篠原勝弘 プロフィール

1967年 4月      外務省入者

                        (横浜市立大学文理学部文科国際関係中退)
              7月      在カンボジア日本大使館(カンボジア語研修生)
1969年 9月      同大使館アタッシェ
1972年11月      アジア局南東アジア第一課事務官
1977年  1月       在仏大使館二等書記官
1979年  1月       在象牙海岸大使館二等書記官
1980年 8月      在タイ大使館二等書記官
1983年10月     アジア局南東アジア第一課課長補佐
1989年 2月      在米大使館一等書記官
1991年  9月       在カンボジア大使館参事官
1994年11月      アジア局南東アジア第一課地域調整官
1999年 3月      経済協力局民間援助室長
2001年 7月      在カンボジア大使館公使参事官
2004年 2月      在チェンマイ総領事
2007年 7月      在カンボジア大使館特命全権大使
2009年 9月      外務省退官
             10月     公益財団法人CIESF(シーセフ)副理事長

                          兼在カンボジア代表

[目次]

ひとり、国道に

第1章 カンボジアになじむ

 

プノンペン一九六七年
プノンペン着任
カンボジア語の学習
一九六七年のプノンペンの街並み
華僑系住民とベトナム系住民

お坊さんになる
最も正統なカンボジア語の守護者
私はトマラッケタオ
僧王から教わった瞑想
地球は丸くない

カンボジアの歴史
アンコール王朝まで
フランス保護国時代そして独立

 

第2章 激動のカンボジア

 

混乱の始まり
シハヌーク殿下
一九七〇年の政変
ロン・ノル政権とアメリカ
頼られたアメリカの事情
棚ぼた式クメール・ルージュの勢力拡大


暗黒のロン・ノル政権
不思議な国から不安な国へ
ロン・ノルと彼を取り巻く人たち
ロン・ノルの政治構想

戦場を駆け抜けたジャーナリストたち
日本人ジャーナリスト行方不明
沢田教一さん

危機迫るカンボジア
一九七二年プノンペンとロケット弾
内戦のカンボジアに残った日本人たち
只熊中尉
カンボジア人と結婚した日本人女性たち
日本橋
反戦への想い
帰国

第3章 悲劇のカンボジア


三年八ヵ月二〇日間、ポル・ポト時代の悪夢
日本大使館閉鎖
時間が止まったプノンペン
難民が語るポル・ポト時代
アインさんが語る強制労働
日本にいたカンボジア人たち
ポル・ポト政権が目指したもの

ポル・ポト政権の崩壊と難民
ヘン・サムリン政権と難民キャンプ
日本のNGOの黎明期
難民受け入れの長期化
笑顔のないキャンプ

和平と復興への道
一二年ぶりのカンボジア
所得の低下と外国に頼るという意識
ソ連からの援助
自力で和平への道へ
念願の和平成立
カンボジアの和平の意味

世界に認められなかった政権
名前だけの救国戦線
中国とベトナム
ヘン・サムリン政権承認問題
社会主義を捨てたカンボジア
ヘン・サムリン
チア・シム
日本のカンボジア政権承認問題

第4章 カンボジア和平


和平への道のり
再び、カンボジアへ
家族はバンコク、私はプノンペン
国連の平和維持活動とカンボジア人の感情
民主的な政権の誕生なるか
選挙と治安の悪化
山田ボッパナさん
明石康さん
カンボジア最高国民評議会の誕生

フン・セン
フン・センとクメール・ルージュ
シハヌーク殿下とフン・セン
フン・センと日本
フン・センとベトナム

カンボジア和平を支えたのは
カンボジア和平の立役者
カンボジア和平への日本の関与
カンボジア和平における国連の役割
UNTACへの日本の参加

第5章 新しいカンボジア


四度目のカンボジア
日本大使として赴任
大使としての責務
シハモニ国王
要人との再会
人民党と野党の駆け引き

プノンペンと地方の格差
豊かになれない農民
地方公務員のいないカンボジア
地方分権への動き
地方分権失敗の理由

カンボジアの経済
自給自足から私有財産へ
誰も持たない時代から無法地帯へ
UNTACから投資の始まりへ
中国の投資の時代へ
カンボジア独自の産業を
一〇年ごとの経済変動
会社組織を作ること

隣国との関係
ベトナムとの国境問題
タイとの国境問題
ラオスとの国境問題

カンボジア人とカンボジア社会
ナショナリズム
宗教に対する寛容さ
芸術的才能
カンボジアのビジネス
技術の価値が低い社会

大使からNGOへ
大使としての責任
「顔がある」協力
 
カンボジアの新しい体制
フン・セン体制からフン・マネット体制に
フン・センの野党弾圧
フン・マネットへの期待と不安
民主化への道

謝辞

解説 木村文
 

[本文より抜粋]

ひとり、国道に


 一九七〇年四月六日、私はカンボジア東部の、ベトナム南部国境に近いスヴァーイリアン州の国道一号線上にひとり取り残されて、途方に暮れていました。
 四月は乾期の真っ最中で、この日は朝から焼けつくような日射しが照りつけていました。農閑期で乾いて白っぽくなった田には人影はなく、ふだんは交通量の多い国道一号線ですが、前にも後ろにも車は一台も見えません。反政府ゲリラが潜んでいるためか、国道の両側に点在する商店や農家はすべて戸を閉めて、中で人が息をひそめているような妙な静けさがあたりを支配していました。
 カンボジアはこの年、シハヌーク国家首席(以下、シハヌーク殿下と書きます)がソ連と中国を訪問した隙に右派のロン・ノル首相がクーデターを起こし、さらにこのロン・ノル新政権に対してカンボジア共産党の解放勢力、クメール・ルージュが各地で蜂起して、内乱状態になっていました。この日、スヴァーイリアン州のベトナム国境付近のチプーという小さな町を反政府ゲリラが攻撃しましたが、反撃したロン・ノル政府軍が珍しく撃退に成功しました。私は大使館員としてチプーでのロン・ノル政府のブリーフィングに参加してこのことを知ったのですが、ブリーフィングの途中で抜け出した日本人記者が国境に向かったまま帰ってこないという知らせがそのあと入ってきたのです。
 私は一緒に参加していた日本人記者数名とともにひとまずスヴァーイリアン市に戻り、そこで行方不明者の情報を集めることにしました。すると、私たちのところへ、国境から戻ってきたというアメリカ人ジャーナリスト、ショーン・フリンがバイクでやってきて、国境近くで日本人記者が乗っていたという緑色のダッジを見たと言うのです。彼は西部劇俳優エロール・フリンの息子で、フリーランスのフォトジャーナリストとして有名な存在でした。ショーンはさらに、パテート・ラーオ(ラオス愛国戦線)の兵士もこの目で見たとも言い、あわただしく国境に戻っていきましたが、そのあと二度と帰ってきませんでした。
 当時、ラオスも、アメリカが支援する王国政府と北ベトナムが支援する解放勢力との間で内戦状態にあり、この解放勢力がパテート・ラーオと呼ばれていたのですが、ベトナム戦争の取材が長く、ラオスにも滞在していたショーンは両国に共通する反政府解放勢力の総称という意味で「パテート・ラーオ」という言い方をしたのでしょう。
 スヴァーイリアン市の日本人記者たちはこの情報に勢いづき、また大使館からは、現地に残って引き続き情報を入手すべしとの指示が来ました。私は捜索に向かうことにしました。チプーの先で日本人が乗っていた車が見つかったという情報をまずは行って確かめなければなりません。スヴァーイリアン市からチプーまではおよそ二五キロ、ちょうど国境近くまで行くという青年がいたので、古びたバイクの後ろに乗せてもらうことにしました。ところが、スヴァーイリアン市からチプーを抜けて小一時間ほど走ったところで、私はバイクから降ろされてしまいました。青年は国境近くまで行くと言っていたのに、突然、「私の家はこの付近だから降りろ」と言うのです。日本人を連れていることでカン
ボジア共産党反政府ゲリラに襲われるかもしれないと怖くなったのでしょう。
 この時ばかりは焦りました。人も車もいない国道にひとり取り残され、仕方なく国境に向かって歩き出したのですが、まわりを見渡すと塹壕の中に政府軍の兵士が伏せているのが見えるではありませんか! 嗚呼、私はもしかしたらここで命を落としてしまうのかもしれない、そんな恐怖に襲われました。
 その時、幸いにも、フランス国営放送の記者たちの車が通りかかり、私を拾ってくれたのです。彼らは情報をきちんと集めており、日本のフジテレビの記者の車が動けない状況で乗り捨ててあること、拉致の可能性があることを教えてくれました。そして、自分たちはその車を発見したら、すぐそこから戻るが、それでいいか、と聞くのです。もちろんそんな危ないところに長居は無用、こちらに異存はありません。すぐに飛び乗って同行させてもらいました。
 確かに、日本人記者が乗っていたという緑色のダッジは道の中央に遺棄されていました。人の姿はありません。車はそこですぐUターンして、全速力でスヴァーイリエン市に戻りました。さすがに戦場慣れしている人たちでした。車をぶっ飛ばして、行くのも速ければ逃げ足も速く、感心したものです。後日、フジテレビの方からフランス国営放送がこのとき撮影した映像を見せていただくと、国営放送の車が国境から約一〇キロの現場に近づくと黒い服のゲリラが四方に散り、木の陰に隠れる様子が鮮明に写っていました。あのときフランス国営放送の車がもし通りかからなければ、一歩間違えれば、私は死んでいたところだったと今でも身震いします。
 一九七〇年頃から七二年までの間に、七人の日本人ジャーナリストが行方不明となりました。残念ながら、このフジテレビの高木裕二郎さん、それから同行されていた記者の日下陽さんも、その後、行方不明のままです。誰が拉致したのか。この時期、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が拉致した場合は当人の身元の照会をした後に釈放していたので、行方不明のままのケースは、おそらくクメール・ルージュによって拉致後殺害されたと考えられます。
 高木さんの奥様からは、私が日本に帰った後も連絡をいただき、何度かお話をしたことがあります。何十年たった後も、ずっと高木さんの行方不明について調べていらっしゃいました。ご遺体に対面するというのは非常に悲しいことですが、行方不明という状態はご家族を長い間にわたって苦しめるということを実感いたしました。当時のカンボジアは、この年一九七〇年三月一八日の政変以後、戦時下体制となっていました。三月二三日には、追放されたシハヌーク殿下が北京で、ロン・ノルに対抗するためクメール・ルージュ
も引き入れて、亡命政権を樹立、ロン・ノル政権とシハヌーク殿下率いる「カンプチア王国民族連合政府」との対立が鮮明になりました。カンボジア国内では、華僑や富裕層、シハヌーク殿下を慕う王族や政府高官、裕福なベトナム系の人々の国外脱出が始まりました。
 ロン・ノル政権は軍事力を補強するため、南ベトナムに居住していたソン・ゴク・タン元首相(かつての反仏民族主義者)と同派の右派軍人を呼び入れました。そして、カンボジア国内にいるベトナム人を「ベトコン狩り」と称して拘束し始めました。このチプーの反政府ゲリラの攻撃は、規模は小さなものでしたが、カンボジアにベトナム戦争が波及する発火点のようなものでした。
 この当時、私はカンボジア現地での二年間の語学研修を終えて、一九六九年九月から在カンボジア日本大使館勤務となっていました。肩書は副理事官―外交職員の最も低いランクの職員で、これを四〜五年勤めると書記官に昇格するというものです。大使館では、現地語が使えるということで、政務書記官の下でカンボジア情勢担当ということになっていました。要するに「何でも屋」です。まだ二五歳で、元気だったから、使いやすかったのでしょう。私も何事も勉強という思いから上司から言われたことは文句も言わず実行しました。このチプーの事件は、ロン・ノル政府軍事広報部が内外の新聞記者と大使館の政務担当を招待したものでした。これが、その後五四年に及ぶ私とカンボジアとのかかわりにおける象徴的な事件と言えるかもしれません。

株式会社めこん

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