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2026年3月発刊!
レジェンドと呼ばれた熱血大使、波乱の54年を独白……。
危機一髪、内戦最前線の恐怖。邦人遺体確認の悲しみ。難民キャンプの衝撃。迷走する政治権力者への不安。和平と復興の喜び。新生カンボジアへの希望。
フン・セン(前首相)と長年一対一の「サシ」で、しかもカンボジア語で語り合ってきた篠原さんならではの数々の一次資料が詰まった最上のカンボジア現代史ですが、熱血大使の真骨頂はやはり「現場」の話です。
著者 篠原勝弘 プロフィール
1967年 4月 外務省入者
(横浜市立大学文理学部文科国際関係中退)
7月 在カンボジア日本大使館(カンボジア語研修生)
1969年 9月 同大使館アタッシェ
1972年11月 アジア局南東アジア第一課事務官
1977年 1月 在仏大使館二等書記官
1979年 1月 在象牙海岸大使館二等書記官
1980年 8月 在タイ大使館二等書記官
1983年10月 アジア局南東アジア第一課課長補佐
1989年 2月 在米大使館一等書記官
1991年 9月 在カンボジア大使館参事官
1994年11月 アジア局南東アジア第一課地域調整官
1999年 3月 経済協力局民間援助室長
2001年 7月 在カンボジア大使館公使参事官
2004年 2月 在チェンマイ総領事
2007年 7月 在カンボジア大使館特命全権大使
2009年 9月 外務省退官
10月 公益財団法人CIESF(シーセフ)副理事長
兼在カンボジア代表
[目次]
ひとり、国道に
第1章 カンボジアになじむ
プノンペン一九六七年
プノンペン着任
カンボジア語の学習
一九六七年のプノンペンの街並み
華僑系住民とベトナム系住民
お坊さんになる
最も正統なカンボジア語の守護者
私はトマラッケタオ
僧王から教わった瞑想
地球は丸くない
カンボジアの歴史
アンコール王朝まで
フランス保護国時代そして独立
第2章 激動のカンボジア
混乱の始まり
シハヌーク殿下
一九七〇年の政変
ロン・ノル政権とアメリカ
頼られたアメリカの事情
棚ぼた式クメール・ルージュの勢力拡大
暗黒のロン・ノル政権
不思議な国から不安な国へ
ロン・ノルと彼を取り巻く人たち
ロン・ノルの政治構想
戦場を駆け抜けたジャーナリストたち
日本人ジャーナリスト行方不明
沢田教一さん
危機迫るカンボジア
一九七二年プノンペンとロケット弾
内戦のカンボジアに残った日本人たち
只熊中尉
カンボジア人と結婚した日本人女性たち
日本橋
反戦への想い
帰国
第3章 悲劇のカンボジア
三年八ヵ月二〇日間、ポル・ポト時代の悪夢
日本大使館閉鎖
時間が止まったプノンペン
難民が語るポル・ポト時代
アインさんが語る強制労働
日本にいたカンボジア人たち
ポル・ポト政権が目指したもの
ポル・ポト政権の崩壊と難民
ヘン・サムリン政権と難民キャンプ
日本のNGOの黎明期
難民受け入れの長期化
笑顔のないキャンプ
和平と復興への道
一二年ぶりのカンボジア
所得の低下と外国に頼るという意識
ソ連からの援助
自力で和平への道へ
念願の和平成立
カンボジアの和平の意味
世界に認められなかった政権
名前だけの救国戦線
中国とベトナム
ヘン・サムリン政権承認問題
社会主義を捨てたカンボジア
ヘン・サムリン
チア・シム
日本のカンボジア政権承認問題
第4章 カンボジア和平
和平への道のり
再び、カンボジアへ
家族はバンコク、私はプノンペン
国連の平和維持活動とカンボジア人の感情
民主的な政権の誕生なるか
選挙と治安の悪化
山田ボッパナさん
明石康さん
カンボジア最高国民評議会の誕生
フン・セン
フン・センとクメール・ルージュ
シハヌーク殿下とフン・セン
フン・センと日本
フン・センとベトナム
カンボジア和平を支えたのは
カンボジア和平の立役者
カンボジア和平への日本の関与
カンボジア和平における国連の役割
UNTACへの日本の参加
第5章 新しいカンボジア
四度目のカンボジア
日本大使として赴任
大使としての責務
シハモニ国王
要人との再会
人民党と野党の駆け引き
プノンペンと地方の格差
豊かになれない農民
地方公務員のいないカンボジア
地方分権への動き
地方分権失敗の理由
カンボジアの経済
自給自足から私有財産へ
誰も持たない時代から無法地帯へ
UNTACから投資の始まりへ
中国の投資の時代へ
カンボジア独自の産業を
一〇年ごとの経済変動
会社組織を作ること
隣国との関係
ベトナムとの国境問題
タイとの国境問題
ラオスとの国境問題
カンボジア人とカンボジア社会
ナショナリズム
宗教に対する寛容さ
芸術的才能
カンボジアのビジネス
技術の価値が低い社会
大使からNGOへ
大使としての責任
「顔がある」協力
カンボジアの新しい体制
フン・セン体制からフン・マネット体制に
フン・センの野党弾圧
フン・マネットへの期待と不安
民主化への道
謝辞
解説 木村文
[本文より抜粋]
ひとり、国道に
一九七〇年四月六日、私はカンボジア東部の、ベトナム南部国境に近いスヴァーイリアン州の国道一号線上にひとり取り残されて、途方に暮れていました。
四月は乾期の真っ最中で、この日は朝から焼けつくような日射しが照りつけていました。農閑期で乾いて白っぽくなった田には人影はなく、ふだんは交通量の多い国道一号線ですが、前にも後ろにも車は一台も見えません。反政府ゲリラが潜んでいるためか、国道の両側に点在する商店や農家はすべて戸を閉めて、中で人が息をひそめているような妙な静けさがあたりを支配していました。
カンボジアはこの年、シハヌーク国家首席(以下、シハヌーク殿下と書きます)がソ連と中国を訪問した隙に右派のロン・ノル首相がクーデターを起こし、さらにこのロン・ノル新政権に対してカンボジア共産党の解放勢力、クメール・ルージュが各地で蜂起して、内乱状態になっていました。この日、スヴァーイリアン州のベトナム国境付近のチプーという小さな町を反政府ゲリラが攻撃しましたが、反撃したロン・ノル政府軍が珍しく撃退に成功しました。私は大使館員としてチプーでのロン・ノル政府のブリーフィングに参加してこのことを知ったのですが、ブリーフィングの途中で抜け出した日本人記者が国境に向かったまま帰ってこないという知らせがそのあと入ってきたのです。
私は一緒に参加していた日本人記者数名とともにひとまずスヴァーイリアン市に戻り、そこで行方不明者の情報を集めることにしました。すると、私たちのところへ、国境から戻ってきたというアメリカ人ジャーナリスト、ショーン・フリンがバイクでやってきて、国境近くで日本人記者が乗っていたという緑色のダッジを見たと言うのです。彼は西部劇俳優エロール・フリンの息子で、フリーランスのフォトジャーナリストとして有名な存在でした。ショーンはさらに、パテート・ラーオ(ラオス愛国戦線)の兵士もこの目で見たとも言い、あわただしく国境に戻っていきましたが、そのあと二度と帰ってきませんでした。

