すべてのいのちの輝きのために

――国際保健NGO・シェアの25年――

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シェア=国際保健協力市民の会
定価2500円+税
A5判・並製・328ページ
ISBN978-4-8396-0216-1

【関連書】NGOの選択 NGOの時代 NGOの挑戦(上) 
 難民キャンプのパントマイムネグロス・マイラブ 母なるメコン  イサーンの百姓たち

 
シェアは医師、看護士を中心とする保健・医療専門のNGOで、その地道な活動が評価され、今年「東京弁護士会人権賞」と「毎日国際交流賞」を受賞しました。第1部は活動史、第2部はテーマ別の実践記録と提言です。プライマリ・ヘルスケア、母子保健、公的保健システム、保健教育、エイズ対策、緊急派遣、在日外国人のための保健医療活動など、いずれも実践に基づく真摯な議論は説得力があります。医療用語の解説など、専門性も重視しました。 

【著者はこんな人たち】

シェア=国際保健協力市民の会
  健康で平和な世界をすべての人とわかちあう(シェア)ために、草の根の立場から行動を起こした医師・看護士・学生等が中心となり、1983年に結成された非営利活動法人。
  地域の人々と協力して、自発的な助け合いによる健康づくりを目指している。タイ、カンボジア、東ティモール、南アフリカ、日本において、地域保健やエイズへの取り組みなどを通して、いのちを守る活動を続けている。
  第22回東京弁護士会人権賞、第20回毎日国際交流賞受賞。

【目次】

序章 保健NGOの人間として21世紀を生きる

第1部 活動の軌跡
  第1章 JVC事務所での居候時代
  第2章 江戸川事務所での自立
  第3章 飯田橋事務所 組織体制整う
  第4章 上野事務所時代 広がるネットワーク

   ・ 第2部 国内保健NGOとして取り組んだ課題と学び

  第5章 プライマリ・ヘルス・ケア――シェアがタイで学んだこと
  第6章 母子保健活動――カンボジアの活動とアフガニスタンの今を通して考える
  第7章 公的保健システムの強化と連携――カンボジアでの保健ボランティア育成
  第8章 保健教育――東ティモールでの実践と学び
  第9章 エイズ――タイ、南アフリカ、そして日本
 第10章 緊急救援――海外と日本での活動と学びから
 第11章 外国人のための保健医療活動――在日外国人と日本の社会





   【「序章」から】   本田 徹(シェア代表)
1. 草創の頃    個人的なことから始めて恐縮だが、シェアが誕生する少し前の1980年代初頭、長野県の佐久にいた私の主な関心事は鍼灸(しんきゅう)を中心とする東洋医学に習熟することだった。その頃、NGOについての関心や知識はほとんどなかったと言ってよい。
  1977〜79年、青年海外協力隊員として、マグレブの一部を成す北アフリカのチュニジアに派遣され、小児科医として働いた。そこで、途上国における地域医療とかプライマリ・ヘルス・ケアの実際を学ぶことになったが、それを帰国後も続けるという展望を当時は持ち得なかった。現在と違い、医療職や看護職の若者が、協力隊以外で海外に出て活動する機会はほとんどなかったと言ってよい。
   私は途上国でのささやかな経験を生かせる場として、日本の農村地域医療のメッカと言える佐久病院を選び、4年間、若月俊一先生のもとで学び、働かせていただいた。当時急速に進化・普及しはじめていた超音波やCT、内視鏡といった画像診断技術に魅せられながら、自分自身は「手仕事としての治療学」の幅を広げたいという気持ちを抑えがたくなった。そこで、当時東洋医学の看板を掲げ、多くの鍼灸師の卒後研修を引き受けていた、東京世田谷の日産玉川病院の代田文彦先生(故人)を頼り、上京した。1983年夏のことである。鍼灸の見習いや内科の臨床を玉川病院で行ないつつ、現在栃木県で産婦人科医として活躍する木内敦夫さんらの誘いで、すぐ日本国際ボランティアセンター(Japan International Volunteer Center: JVC)の活動に引き込まれていった。当時阿佐ヶ谷にあったJVC事務所の狭いが熱気に満ちた雰囲気は独特で、新しい時代の始まりを告げるようなところがあった。その頃のことは、前川昌代さんの執筆する第1章に写し取られているのでここでは深入りしないが、草創期に一番お世話になり、シェアのスピリット醸成と組織としての方向性を示してくださったという意味で、最もご恩を感じている4人の方のことに触れておきたい。
 2.4人の恩人――栗野鳳、室靖、高見敏弘、星野昌子
  故・栗野鳳氏は長年外交官としてアジアや中東の国々を歴任され、シリア、カンボジアの大使まで務められた方である。外務省を退官後、広島大学の教授として同大学の平和科学研究センターを率いられたが、NGOの育成にも極めて熱心で、私の知る限りでも、JVC、幼い難民を考える会(Caring for Young Refugees: CYR)、パレスチナ子どものキャンペーン(Campaign for Children of Palestine: CCP)は、栗野氏の一方ならぬお世話になっている。シェアについても、創立直後から会員となられ、静かに、しかし熱心に、夫人の美代子さまと一緒に支え続けてくださった。1975年ポル・ポトがプノンペンに入城する直前まで日本大使として残り、ぎりぎりのところでカンボジアの人々を置いて自分たち外国人だけが安全なところへ避難しなければならなくなったことに対して、大きな精神的呵責と苦悩にさいなまれ、一晩で髪が白くなられたといった逸話も聞く。自身の体験から、政府や外交の持つ欺瞞と偽善に大きな疑問と批判を持ち続け、市民社会の主体となるべきNGOの成長とエンパワーメントに期待を寄せてくださったことは想像に難くない。
  手元にある、「日本国憲法の平和原理についての一考察」[栗野 1984]を改めて読んでみて、その格調と精神性の高さに打たれるとともに、「平和」、「人権」、「開発」を三位一体(トリニティ)のものとして捕らえ、これらに関わる「地球問題群」(グローバル・プロブレマティーク)を、日本の市民が総体として取り組むべき課題だと切々と訴えておられる姿に感銘を覚える。
  「日本は『平和外交』を唱えてきているが、その『平和』は単に日本人が国内で平穏無事に暮らしていき、『経済大国』やその国際的プレゼンスを維持伸張しうるような『平和』、或いは単に戦争や直接的暴力が排除されている状態というに過ぎない、狭義の平和ではないか。」[同上]という、今日に通じる批判の厳しさ・慧眼に襟を正さざるをえない。
  栗野氏の考え方の中では、日本国憲法の9条と並んで、前文のとくに第2項に謳われている「平和的生存権」が重要であった。その意味で、2008年4月17日、市民3000人以上が原告となって起こされた「自衛隊イラク派遣差し止め訴訟」において、名古屋高裁の歴史的違憲判決を引き出した原告代表が、NGO界出身の池住義憲さん(元・アジア保健研修所事務局長)だったということも、栗野さんが後代に託したメッセージとの暗合として感慨深い。
  シェアが1988年にカンボジアでJVCと共同して母子保健活動を開始することとなり、助産婦の釘村千夜子さんと私が派遣されることになった時、一番喜んでエールを送ってくださったのは栗野さんだった。
  故・室靖氏との私の出会いは、協力隊の派遣前研修で、当時の広尾訓練センター(現・JICA地球ひろば)に講義に来てくださったときだった。講義の詳しい内容はもう記憶にないが、欧米の開発協力の仕方に比べての日本の政府開発援助(ODA)や民間協力の質的な差や改善すべきところを大胆に指摘する視点は新鮮だった。単に欧米が最良というのではなく、スリランカのサルボダヤなどの先行NGOの例も引いての説得力あるお話だったと思う。
  佐久病院を辞め、1983年東京に来てほどなく、私は文京区湯島にあった東和大学国際教育研究所に室さんを訪ね、シェアの月例会でぜひお話してくださいとお願いした。狷介孤高なところのある人だったが、「お前たちが始めたNGOなら応援してやらねばなるまい」、という感じでお越しくださった。1984年発行の『ボン・パルタージュ』4号に掲載されているその時の講演趣旨を読むと、いまだに古びていないことに驚く。
  「その国々の人々の自立を側面的に援助すべきであり、更にそれよりもその自立を妨げない事が大切であると(西欧諸国も)気がついてきた。彼らに与えることではなく、彼らから奪わないことであるという考えである」
  「必要なのは、専門化した医療技術の移転でもなければ、それを相手国で行なうことでもなく、……必要なのは、保健教育なのである」
  その後、シェアが辿ることになった道を驚くほど啓示的に語っている。室さんに関しては、日本における開発教育のさきがけ魁となった、開発教育協議会(現・開発教育協会)が1982年に誕生する上で、ソクラテス的な「産婆」役を彼が果たしたことも忘れてはならない。
  高見敏弘氏のことを、アジア学院という事業の独創性ばかりでなく、日本のNGO界の指導者としても高く評価していたのが室靖さんで、たぶん彼の薦めまたは紹介をいただいて、シェア設立の翌年(1984)夏、大挙19名で那須野に1泊のスタディ・ツアーを行なった。アジア学院のすがすがしい屋外階段教室で聴いた高見さんの講演は、キリスト者としての気魄と高潔さに満ちた感動的なもので、昔、内村鑑三が青年たちをうならせた説教はこんなだったのだろうなと思われた。
  「神様から与えられるヴィジョンは、一人の人間が一生のうちに達成できるものではありません。何代にもわたる人々が懸命に取り組んで、やっと達成できるかというほどのものです。このヴィジョンつまり人類にとって真に大切なものが何かをはっきり示すのが、リーダーたる者の役割です。その意味で、現代はリーダー不在の時代です。私たちが何か遠大な事業を興すとき重要なのは、普遍的な目標を、だれにとっても易しい、的確な言葉で標語化することです。そこで私どもは、アジア学院の掲げる言葉として、『共に生きるために』(That we may live together)を選びました」[『ボン・パルタージュ』6号]
  シェアの出発に当たりいただいた「はなむけ」の言葉として最高のもので、その後私たちが試練に会うたびに高見先生のこのスピーチを思い起こし、みずからの足らざるところを振り返り、新たな勇気をいただいている。
  星野昌子氏と改まって言うより、シェアにとって星野さんは、<SHARE>の名づけの親であるとともに、私たちがJVC事務所に机1つ借りて「ごまめの歯ぎしり」をしていた1980年代後半の頃、じっと温かく突き放す方針を保持されたこわい人である。シェアがもっと果敢に現場に飛び込んでいってくれることをだれよりも期待していたのは、星野さんだったが、私たちがなんだかんだ愚図を言って本気にならないことに業を煮やしていらした。それが私には痛いほどよく理解できた。星野さんがいわば手塩にかけたJVCに比べ、シェアは不肖の息子ならぬ不肖NGOだが、日本の医療現場を捨てきれない往生際の悪さが、よくも悪くもシェアの25年を特徴付けた。そのことが、一方で在日外国人や野宿者医療などの課題に対するシェア独自の取り組みを可能にしたが、星野さんがシェアに託した夢は、世界中で今も絶え間なく繰り広げられる難民・災害・戦場を含む、修羅場でまなじり眦を決して働く力を持ったNGOだったように思う。
  「シェアはこれから何をしたいの?」という星野さんの「直球の問い」をまっとうに受け止め、私たちとして、本物の答えを出していくことができるだろうか? 必死に答えようとする努力を通して、星野さんに対する少しの「恩返し」をしなくてはと、こちらの老い先も見えてきたいま、思うところ切である。(以下略)
  

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