大村一朗のイラン便り
NO.1 テヘランは変わったか

▲テヘランの映画館・ターミネーター3

▲テヘランの町の風景
700万を数える西アジア屈指の大都会、テヘラン。しかし、この町に足を留める旅行者は案外少ない。イスファハンやシラーズといった地方の観光都市に比べ、旅情を誘う歴史的建造物も少なく、あまりに都会的すぎることが最大の原因だろう。 私がテヘランを訪ねるのは実に9年ぶりのことだった。かつて私は中国からローマまでの徒歩旅行のさなかにあり、隣国トルコの、特にイスタンブールといった大都会の若者たちの欧米化したライフスタイルに目を見張ったものだが、そうした光景を今はテヘランの街角で見ることができた。スマートなジーンズに皮ジャケットやハーフコートを着こなし、ポマードで撫で付けた長髪にサングラス。女の子たちは一応、腰周りと髪の毛を隠し、イスラミック・スタイルを遵守しているものの、身体のラインはほとんどあらわであり、スカーフも後頭部だけ覆う程度で、あってないようなものだ。街の映画館ではアメリカの暴力的な映画が堂々と上映され、ポップス・ミュージックが誰はばかることなく流れ、恋人たちは手をつなぎ公園をそぞろ歩いている。そしてどこからか軽快な電子音が流れてきたかと思うと、誰かがポケットをまさぐる。携帯電話もかなり普及し始めているようだ。 「東京とさして変わらんなぁ・・・・・・」 そうつぶやいたのは、まだイラン人の友人の車であちこち連れて回ってもらっていたときのことだ。ひとたび自分一人で出かけるようになると、印象はがらりと変わってしまった。 例えば、バス停でバスを待っていると、ひっきりなしにバスがやって来るが、そのバスがどこ行きなのか、イラン人たちはみな運転手や乗客に確認してから乗り込む。バスには一応番号が振られているが、バス路線図というものがそもそも存在しないので、いつも利用しているバスでもなければ、そのバスがどこ行きなのか運転手に聞いてみなければわからないのである。1台のバスを見定めるのも大変なのに、目的地まで2台、3台と乗り継がなければならないこともざらだ。数百台ものバスが集まるバスターミナルに着いてしまった日には、目当てのバスを見つけるのに30分は食らう。ようやく乗ったら乗ったで、下車するときには「降ります」と叫ばなければならない。「降ります」のペルシャ語を知らず、何度乗り過ごしたことか。 イランでは、乗り合いタクシーという安価な交通手段もまた、庶民の足として活躍している。自分専用で乗るというのは特別な場合のみで、タクシーといえば乗り合いを指す。乗り合いなら、専用で乗る5分の1程度の運賃で済むのだ。もう30年近くモデルチェンジをしていないというペイカン社の古ぼけた車が目の前でスピードを緩めたら、それが「乗るか?」の合図だ。タイミングを逃さず自分の行き先を大声で叫ぶ。行き先が合わなければ、車は停まることなく走り去る。私がいくら叫んでもタクシーは停まってはくれない。これにもどうやらコツがあることを、私はしばらく経ってから知るのである。言葉も分からず、文字もろくに読めず、こんな調子で私は毎日のようにどこかの街角で途方に暮れていた。 「行きたい場所に行く。ただそれだけのことだろ。なんでこんなに苦労しなければないんだ・・・・・・」 路線図を見て、券売機で切符を買って電車に乗り込めば、あとは居眠りしていても目的地まで連れていってくれる。そんな当たり前の日本の暮らしが楽園のように思えてくる。 機械や自動音声を相手にすべてが事足りてしまう、他人との接触を極力省ける効率化を追求したのが都会の暮らしだとすれば、ここは非効率の極地だ。バス一台乗るのにいったい何人に話しかけ、親切にされたり、不親切にされたりして一喜一憂しなければならないのだろう。東京とは正反対ではないか。 郊外にある、お世話になっているイラン人宅にくたくたになって帰り着くのは夜遅くだ。明日も出かけなければならないと思うと気が滅入る。私は外出にほとほと嫌気がさし、なかば鬱状態になっていた。旅ならば、この街から逃げ出してしまえば済むことだが・・・・・・、だからテヘランには旅行者が少ないのだろうか。しかし、私はここで生活をしていかなければならない。 9年前のあの旅で、私は毎夜民家や食堂に泊めてもらいながら、この国を歩き通した。ペルシャ語のほとんどわからない私に、かれらは構わず国家や宗教について様々な話を聞かせてくれたものだ。通過した国々の中で、人との対話がとりわけ多かったのがこの国だ。いつかペルシャ語をきっちりマスターして、かれらともう一度話をしたい。そんな想いを残しながらこの国を去って9年、私は再びこの地に戻ってきた。今回は通り過ぎるだけの旅人ではなく、ジャーナリストとして。 対話なくしては隣町にも行けない。首都にしてこれなのだ。イランは見た目ほど、実は変わっていないのかもしれない。そしてそれは、本来望むところではないか。などと心底から思えるようになるには、実際もうしばらくの時間が必要だった。
No.2 テヘラン大学学生寮23号棟


▲学生寮
交通手段を乗りこなせるようになるにつれ、街の空気が少しずつ肌に馴染んでくるのを感じる。乗り込んだバスに、思いもよらぬ場所へ連れていかれることも、最近ではほとんどなくなっていた。 1週間が過ぎ去る頃、私はテヘラン大学付属のペルシャ語研修センターに入学し、市街地にある学生寮に居所を移した。 学生寮は大学そのものと見まがうほど広く、敷地内には生活棟、スーパーマーケット、大小の食堂、パン屋、学習室、インターネットルーム、小さな映画館、そして理髪店まで、学生生活に必要な施設が一通り揃っている。バスに15分ほど揺られるだけで書店や電気店、映画館などがひしめくテヘラン大学の学生街に行けたし、私が通うペルシャ語研修センターへも30分ほどかかるがバス一本で行くことができた。 あてがわれた23号棟は、敷地のどんづまりにある留学生専用の生活棟だった。この23号棟だけでも二人部屋が70室ある。東は東南アジアから西はアフリカまで、世界中のイスラム諸国から集まった留学生が暮らしている。みな流暢にペルシャ語を話し、誰も英語など使っていない。 私のルームメイトは、サルーという名のタジキスタン人だった。明るく世話好きで、私が困っていないかいつも気にかけてくれるやさしい男だ。彼はその人柄から友人の多い男で、夕食はいつも、誰かが作ったフライパンの炒め物を数人でつつきながら賑やかに食べることとなった。 彼らのペルシャ語の議論に、私はもちろん口を挟む術を持たない。一人、黙々と食べ、黙々と聞くだけだ。そんな私を気に掛け、サルーやその友人たちが英語で言ってくれる。 「お前一人会話に参加できなくて悪いな。でも、お前は今はひたすら聞くことに専念しろ。それが一番の勉強になる」 「そう、そのうち記憶に残る単語が一つ二つと増えてくる。そうしたら、恥ずかしがらずにその意味を質問しろ」 ここにいる誰もが、私の居心地の悪さを理解してくれていた。皆、同じ苦労をしてきたからだろう。 寮生活がようやく軌道に乗り始めた頃、サルーはここでの
No.3 アーシュラー ハレの日はかく終わりき 2004年4月12日



3月1日、預言者ムハンマドの孫エマーム・ホセインがイラクのカルバラで戦死した命日を明日にひかえ、テヘラン市街は騒然とした空気に包まれていた。 私は友人のイラン人の車で、市街西部のピルズィーという下町を目指していたのだが、街のいたるところで50人、100人、あるいはそれ以上と大小様々な一団に行く手を阻まれ、何度も道を迂回しなければならなかった。彼らは「ダステ」と呼ばれる、地域単位の集まりで、ここ1週間ほど夜毎集まっては鎖の束で身体を鞭打ちながら街路を練り歩いていたが、今日明日は祭りのクライマックスとあって昼間から道路を占領して気勢を上げている。 ダステは、アローマットと呼ばれる馬印を先頭に、まずは子供たち、そして威勢の良い順に黒づくめの男たちが続き、なかほどに台車に載せたスピーカーと音響機器、マイクを握った青年や、ドラムやシンバルの楽隊で構成されている。 街中には、天幕の張られた芝居小屋のようなものもあちこちに見られる。これはヘイヤットと呼ばれ、各ダステの本部のようなものだ。ダステは毎夜近隣を練り歩いたのち、自分たちのヘイヤットへ戻り、ふるまい飯をもらって解散するのである。 ようやくピルズィーにたどり着くと、友人はある1軒の民家の前で車を停めた。路上は真っ赤な鮮血で染まり、首のない羊が5頭横たわっている。ヘイヤットとは別に、この日は近所や友人など仲間内でも羊を殺して食事をつくるのである。 その家の中庭でチャイを飲んでいると、おおまかに解体された肉塊が巨大な桶に盛られて運ばれてきた。「手伝うかい?」。手斧とナイフを渡され、巨大な骨付き肉をこぶし大ほどの大きさにさばいていく。近所の男たちとともに肉塊と格闘すること1時間余。やれやれ終わったと思ったら、それはまだ序の口にすぎなかった。 庭には直径1メートル20センチはある大鍋が5つ用意されていた。これらの肉をすべて使って、今からスープを煮るのだ。 ガスバーナーが点火されると、オールのような巨大なひしゃくで船を漕ぐように鍋をかき回す。水をなみなみと張った大鍋にはそれぞれ羊1頭分の骨付き肉と数種類の豆類が入っているので相当重いが、鍋底が焦げ付かないように絶えずかき回していなければならない。 汗びっしょりになってひしゃくを漕いでいると、裏方の女性が何度もチャイやジュース、茶菓子を運んできてくれる。そのうち客人が訪れては、15分、30分と鍋をかき回して帰ってゆく。女性も、1分、5分と短いが、少し鍋をかき回して、また新たに訪ねてきた客にひしゃくをバトンタッチする。この鍋かき回しリレーは途切れることなく続いたが、なにぶん鍋は5つもあるため元の面子が鍋から解放される時間はほとんどない。暑いうえに、時折、煮えたぎったどろどろのスープの飛沫がひしゃくを持つ手にはねて、腕には何箇所か軽いやけどの痕ができていた。この苦行は果たしていつまで続くのだろうと思っていた矢先、目の前で鍋をかき回しているおばさんが私に言った。 「かき回しながら、天国にいるエマーム・ホセインに願い事をするのよ。仕事のことでも家族の健康のことでも何でもいいから」 客人がやって来ては鍋をかき回して帰っていく理由がようやくわかった。 「もし願い事がかなったら、来年また来てちょうだいね」 聞けば、ここで父親の健康を祈って帰宅したら病床の父親が起き上がってピンピンしていたなどという話もあるという。昔、初めてこの庭でスープを煮たときは、少し大きめの鍋1つだけだったという。ここで鍋をかき回してホセインに願い事をし、願いがかなって翌年、お礼の気持ちを込めてわずかなお金や食べ物を持ってくる。そうして今、これら巨大な鍋が5つ、ここにあるのだ。 午後の2時から煮込み始めて、夜11時には肉塊も脂肪も骨も8割方溶けてしまった。ちょうどその頃、あるダステが近くのヘイヤットで今日最後の行進を終えるというので、見に行くことにした。 150人ほどのダステが、ヘイヤットの前でクライマックスを迎えていた。マイクの青年の絶叫とドラムのリズムに合わせて、鎖で我が身を打ち付ける男たち。殉教したホセインの痛みをそうして自らの身体に刻むのだ。それが終わると皆ぞろぞろとヘイヤットの中へと入っていく。真っ暗な屋内は彼らの汗の匂いでむせ返っていた。再びマイクを握った青年がエマーム・ホセインの名を絶叫し始める。 「ホセイン!ホセイン!ホセイン!ホセイン!ホセイン!ホセイン!ホセイン・・・・」 鎖ではなく、今度はみな両手で自分の胸をたたく。私はすっかり気おされながらも、内心、この濃密な空間に自分一人だけが傍観者でいる不自然さに耐えられなくなってきた。おずおずと自分の胸をたたき、そして、つぶやいてみる。 「ホセイン、ホセイン・・・・・・」 その瞬間、彼らのリズムがスッと体内にすべりこんできた。私は熱狂の渦と同化した。そして急にこんなふうに思えてきた。これもありだな、と。日本人だって神輿をかついで馬鹿になる。ワールドカップで馬鹿になる。熱狂そのものはどこにだってある。それがエマーム・ホセインというシーア派のルーツの殉教を悼むことだって別にいいではないか。鎖で自分を打ちながらボロボロと泣いている若者たち。それもありなのだ。大事なものは人それぞれなのだから。 午前4時、14時間燃え続けたガスバーナーの火が消された。鍋の中の固形物は完全に姿を消し、白濁したスープが完成した。夜が明けると、昼間の客人たちが小鍋や桶を持ってスープをもらいにきた。 アーシュラー最終日。西暦680年のこの日、エマーム・ホセインはカルバラで敵の刃に斃れた。このカルバラでの戦役がシーア派とスンニー派の命運を分けることとなる。西暦632年に預言者ムハンマドが逝去してから、イスラーム帝国の統治はカリフ(預言者の代理人)に委任されていたが、このカリフ職は本来、前カリフによって推挙され、ムハンマドの教友たちによる協議のすえ選出されるのが筋であった。ところが第4代カリフ、アリーが暗殺されると、ウマイヤ家のムアーウイヤという当主が自らカリフを宣言し、さらに長子ヤジードにその職を譲ってしまう。この勝手な世襲に反対し、預言者ムハンマドの血統を重んじてカリフ・アリーをあくまで支持したのがシーア派の始まりである。アリーの息子ホセインはウマイヤ軍に戦いを挑み、西暦680年のこの日の正午ごろ、カルバラで悲劇的な最期をとげるのである。 その時刻に合わせてダステは最後の熱狂を見せる。ヘイヤットの前では、ウマイヤ軍の大将ヤジードに扮した若者がイランの町々を襲うという設定でテントに火を放つ、ホセイン殉教の再現劇を催す。それが終わると、最後にヘイヤットでふるまい飯をもらい、10日近く続いた一連のアーシュラーの祭事はほぼ終了した。その日の夕刻には、街路に残された祭りの残骸を片付ける清掃局員の姿や、大鍋を洗う家々を目にし、ハレの日のあとのむなしさが早くも街に漂い始めていた。 殉教を悼む宗教儀式とはいえ、イランの人々が国をあげて騒ぎ、語り、食べ、共同体のきずなを確かめ合う、それは明らかに「祭り」であった。私はそんな「祭り」を持つかれらを少しうらやましく思った。 その日の晩、カルバラで爆弾テロが起こったというニュース速報を目にし、私たちは言葉を失った。フセイン政権が倒れ、25年ぶりに盛大なアーシュラーを催したシーア派の聖地カルバラで、何者かのテロにより150人を越す命が失われた。私が目にした今日の日と同じように、近隣同士でハレの日を過ごした人たちが、今、むごたらしい悪夢のさなかにいる。そう思うと、憤りを抑えることができなかった。
No.4 テヘラン大学園祭の夜明け



▲寮メインゲートに掲げられた学祭の横断幕
▲盛り上がる地元演奏家のステージ
▲イスファハン州ブース



▲ブースを見学する人々・手前はヤズド州ブース
▲各地方独自のチャードール(遊牧民の移動式テント)
▲皮肉たっぷりの学生自治会ブース。手前の張り
紙には「イランの現実を大学キャンパスに、キャンパスの現実を自治会ブースに見よ」。実際にはここまでひどくない…。
紙には「イランの現実を大学キャンパスに、キャンパスの現実を自治会ブースに見よ」。 実際にはここまでひどくない…。 イランでは西暦ではなくイラン暦を用い、毎年春に新年が始まる。今年は西暦の3月20日に1383年の新年を迎えた。 丸二週間の正月休みが明け、里帰りしていた学生たちが寮に戻り始めた頃から、寮の敷地内にはイベント用のテントが建ち始めた。テントは敷地内のメインストリートに沿って300メートルにも及び、一体何が始まるのかとイラン人学生に尋ねると、学園祭とのことだった。 5月2日(西暦)、学園祭は華やかに初日を迎えた。普段は男しか見かけない寮内に女子学生があふれ、それだけで華やかである。会場であるメインストリートには幅7メートルほどずつで区切られたブースが並び、そこではイラン各州の名産や、パネルやパンフレットによる文化紹介がされている。イランには28の州があり、さらに主だった都市の紹介ブースもあるので、展示ブースだけでも40近い。どのブースもその州の地方色を生かした凝った設計で、ここ数日学生たちが金槌やノコギリ片手に手作りでこしらえたものだった。昨夜は初日に間に合わせるために徹夜だったという学生もいる。 この催しは正確には「スチューデント・フェスティバル・オブ・プロビンスィズ・カルチャー」と呼ばれ、要はテヘラン大学生による州文化展示会なのである。期間は8日間。日本の学園祭とは違い、サークルやクラブ単位などでの出し物はない。出身州によってそれぞれ自分たちのブースの運営にたずさわるのである。なにかと男女が分け隔てられるこの国で、こうして男女揃って自分たちの州のブースを作り上げ、数日肩を並べて過ごすのだから楽しくないわけがない。 寮内の体育館では、毎日、各州主催のステージが催された。600人ほど収容できる会場にはその州出身の学生たちが押しかけ、立ち見まで出るほどだ。ステージでは民族舞踊や、その州で活躍している歌手や演奏家を招いてのコンサート、地元のテレビで活躍している漫才師を招いたり、詩の朗読があったりと、個性的なプログラムを組む州もある。 それにしても、この盛り上がり方は異常である。かれらの好きな西洋音楽ではなく、地元出身のおじさんたちによる伝統的な四重、五重奏に学生たちは割れんばかりの喝采を送り、アンコールの声を合わせる。地元市長がかれらの州を称える演説をすれば、しばらく口笛と拍手がやむことはない。一緒に行ったイラン人学生に「イラン人は自分の州が大好きなんだね」と訊くと、「そりゃそうさ。お前は違うの?」と言われてしまった。イスラムとしての共同体意識、地元への帰属意識、さらには自分の生まれた町や村への愛着。そうしたものがかくも巨大なエネルギーを生み出すことを、また改めて実感させられたのだった。 しかし、それから2、3日も経つと、私はもう学園祭に足を向けなくなった。正直、飽きたのである。メインストリートの展示ブースでは学生たちが親切にその州の文化や見所について教えてくれたし、それ以外にも各州の遊牧民が使用するチャードールと呼ばれる移動式テントの実物がいくつも並び、そこでは民族衣装を纏ったおばさんたちがかれらの日常食を振る舞ってくれたりもした。しかし、何か足りない。おもしろくないのである。 どのブースも立派で、ずいぶん金がかかっていた。よくよく調べると、テヘラン市や大学当局をはじめ各省庁の協賛があり、学生たちは自分たちのブース設営に1トマンも出していないという。学園祭と名が付いてはいるが、つまるところ行政のお膳立てによるただの展示会なのだ。おもしろくないのは、学生たちの個性がどこにも見当たらなかったからだ。 この学園祭は今年で3回目を迎えるが、そもそも2年前、なぜこのような催しを開くことになったのか。ある学生は「ガス抜きさ」と言う。 5年前、1999年のテヘランでの騒乱事件はまだ記憶に新しい。改革系『サラーム』紙の発禁処分に抗議して学生たちが蜂起し、それに保守系民兵組織が攻撃をしかけて学生を煽り、その後は泥沼状態でイラン各都市に飛び火していった事件だ。1979年のイラン革命以来最大規模と言われたこの騒乱事件は、実はここテヘラン大学生寮に端を発したものだった。以来毎年その時期が来ると、学生たちはデモを行い、寮の前のカルギャル通りは戒厳令下のように軍隊か警戒網を敷く。 「こうやって学園祭で女の子たちと楽しくやって、ステージ見て騒いで、デモの前に日ごろの鬱憤を晴らさせるんだよ」 なるほど、確かにステージでのかれらの熱狂を見ていると、溜まり溜まった日ごろの憂さを晴らしているという感じがしないでもない。一部の学生はスタッフの制止も聞かず、立ち上がって何度も気勢を上げては周囲のひんしゅくを買っていた。こういう連中がデモに便乗して兵隊に石を投げたりするんだろう。6月の定例デモへの予防策というのも案外穿った見方とは言い切れないかもしれない。 また別の学生はこうも言う。 「この時期になると学生たちはおかしくなるんだ。故郷にいる家族のことを想ったりして、ふさぎがちになる。だからこういうイベントがあるといいと思うよ」 イランにも五月病があるとは驚きだった。2週間の正月休みを故郷で過ごし、新学期が始まりちょうどひと月たった今頃、かれらはぼんやりと無気力になるのだという。 「まあ、毎日がんばって勉強してるんだから、年に1度くらいこういうお祭り気分を味わったっていいだろ」 と、あまり深くは考えない学生もいる。 いずれにせよ、娯楽と呼べるものが極端に少ないこの国で、エネルギーをもてあましている学生たちには、この学園祭は貴重な存在に違いない。始まりはどうあれ、いつかこの会場に学生たちの自主企画が次々と生まれ、かれらの表現の場として賑わう日が来るかもしれない。 ところがある日、ほかより数日遅れて完成した1つのブースに目が留まった。そのブースの展示は州の物産などではなかった。中にクモの巣が張り、腐った野菜の入った壊れた冷蔵庫、「故障中」と張り紙の貼られた落書きだらけのトイレ、「10年後にはこうなる」と立て札を立てた瓦礫の山など、皮肉とジョークたっぷりに学生寮の設備改善を求めたオブジェが並んでいた。 このブースは学生自治会が作ったものだった。今回初めての目論見だという。 「学長に文句を言われたりはしない?」 自治会メンバーの女の子に訊ねると、彼女はにこりともせずこう答えた。 「もし何か言ってきたら、冷や水を一杯飲ませてやるわよ」 くだらないこと訊かないでよ、とでも言いたげに、彼女の目は冷たかった。 怖い女の子だなあと思いつつも、私はようやく腑に落ちた思いで学園祭会場をあとにしたのだった。
No.5 学生たちのイラク観
イラクで日本人が巻き込まれる事件が立て続けに起こっているせいか、最近日本の友人から送られてくるEメールは、たいてい私の身を案じる言葉で締めくくられている。心配してもらって申し訳ないくらい、イランは平和である。少なくともアルカイダからテロの標的にされている日本よりは。 平和であるばかりでなく、テヘランは静かである。しばしば学生運動の震源地となるテヘラン大学でも、隣国の惨状に声を上げる学生の姿はない。テレビやラジオからは毎日イラク関連のニュースが流れ、事の次第は学生たちの耳にも届いているはずなのだが。 「君らは無関心だな。隣国があんな状態になっているのに、なぜ誰も声を上げない?」 学生たちにそう訊ねると、ある者はばつ悪そうに、ある者は開き直ったかのようにこう答えるのだった。 「アラブ人は昔、イランを征服して俺たちの文化を破壊したからね。イラン人は基本的にアラブ人が嫌いなんだ」 同じイスラム教徒としてのシンパシーはないのだろうか。 「今アメリカと戦っているのは、もともとサダムの仲間だったやつらさ。そんな連中のために何をしろって言うんだ?」 関係のない一般市民が大勢命を落としていることについては? 「サダムがどれだけ悪いやつだったか、イラク人もイラン人も本当によく知っている。それをアメリカが追い出したんだ。アメリカ軍を攻撃する方が理解できないよ」 イラン・イラク戦争について言及する学生も多い。8年続いたこの不毛な戦争で、イラン人は25万人以上の死者を出している。戦後24年たった今も、開戦記念日、勝利記念日、ホラムシャフル奪還記念日などを盛大に祝い、そうした記念日のたびに生々しい記録映像がテレビなどで流される。人々の記憶から戦争の爪跡はまだ消えていない。 「捕まったイラン兵がナイフで首を切り落とされるんだ。その映像を見た知り合いの女性は寝込んでしまい、しばらく何も食べられなかったよ」 「俺が10歳の時父親はイラクとの戦争で死んだ。わずか10歳で父親を失ったんだ」 アラブ人への嫌悪感とイラク戦での恨み。さらに、これが本音なのかもしれないが、自らが直面する問題を訴える学生も多い。 「隣国の戦争より、国内の政治的、経済的苦境をどう改善するかだ。自由がない、仕事がない、誰だって自分の身近な問題の方が大事だろ」 対岸の火事より、我が家の台所が火の車というわけだ。 実際にはここ数年、イラン経済の成長率は7パーセントを維持しており、今後も石油資源による安定した外貨収入が見込まれている。それでもまだ、現在のイランの国民総生産は1979年の革命前の3分の1に過ぎないと言われている。また、6800万人の総人口の55パーセントが24歳未満であり、毎年雇用機会を求める若者をこの国の労働市場は受け止めることができない。ほとんどの学生が卒業後、2年間の兵役に就く(父親がイラク戦で殉教している場合、免除される)。その後の就職先について訊ねても、誰も明確な答えを持っていない。イラン一のエリート校でこれだ。ましてや学歴のない若者にとって、夢のある未来など描ける状態ではない。ハタミ大統領への支持率低下も、国民の半数以上を占める若者の経済問題、つまり雇用問題が改善されないことへの反映だ。 5月19日、市街地中央のエンゲラーブ広場で大規模な反米・反イスラエル集会があった。前日テレビやラジオなどで呼びかけられたこの官製デモには数千人の市民が集まり、お決まりの「マルキ バル アメリカ(アメリカに死を)!」のシュプレヒコールと、巨大なアメリカ、イスラエル人形の炎上パフォーマンスで盛り上がっていた。 だが、このデモの只中にいても、人数の割にはまったく迫力に欠け、人々の表情にもイラクとパレスチナの実情に本当に危機感を抱いて集まってきたという深刻さは感じられなかった。後で学生に聞いた話だと、こういった官製デモは、公的機関の職員等が職場単位で参加させられ、参加しないと後々具合が悪いのだという。実際、デモがお開きになったあとは貸切バスで帰っていく集団をいくつか見かけた。 イスラム教徒には「防衛ジハード思想」というものがある。イスラム教徒の住む地域を「イスラム共同の家」ととらえ、異教徒がそこへ攻撃をしかける場合、たとえ遠く離れていようとイスラム教徒は同胞を助けるべく「ジハード(聖戦)」に赴くなり、その武装闘争を物理的に支援するなりしなければならない。アフガニスタンへのソ戦による侵攻と米軍による空爆、またイラクにおける駐留英米軍、はたまたチェチェン、パレスチナ、カシミール……、それら「異教徒によるムスリムへの虐殺」に対し、外国から多くの「義勇兵」が参加したのは、この防衛ジハード思想によるものである。 6月の初旬、外国の複数のニュースサイトでおもしろい記事が流れた。イランの革命防衛隊の一支部が、「殉教作戦」と称して自爆攻撃志願者をイラン各地のイスラム教大学で募り、その登録用紙に1万人を超す男女学生が署名したというのだ。登録用紙には「攻撃対象」として、①イラクの占領米英軍、②エルサレムの占有者(イスラエル)、③サルマン・ラシュディ(「悪魔の詩」の作者)、の3つが挙げられ、自分が攻撃対象にしたいものにチェックを入れるようになっている。 核査察で苦境に立たされ、イラクの二の舞を危惧するイラン当局が、「防衛ジハード思想」の存在を今一度世界にアピールしたかったのかもしれない。だが、本当に1万人もの登録が集まったのか確かめる手立てはない。その登録用紙は金曜礼拝の説教のあとで学生たちに配布されたという。休日にわざわざ大学のモスクへ礼拝に訪れる熱心な神学生たちなら、その手の説教に感化されて、勢いで登録に及んだのかもしれない。 「登録すれば何かもらえたんじゃないか?」とある学生は笑い飛ばした。 この国の建て前と本音、表と裏。その乖離の大きさに私はしばしば戸惑ってしまう。
No.6 テヘラン物件事情
相方をイランに呼び、一緒に生活するため、5月の半ば頃から不動産屋まわりを始めた。 当初はアパートなど探さず、近くの夫婦用学生寮に移り住む予定だったが、思いがけなくそこは正規の学部生や院生しか受け入れておらず、私のような語学研修課程の学生は入居できないことが判明した。そんな訳で、急遽アパートを探すことになったのである。 「不動産屋」というペルシャ語を覚えてみると、これまで何かの事務所だろうと思っていたほとんどが不動産屋であることがわかった。商店街を歩けば、ここにもあそこにも「マスキャン(住まい)」などの文字をおもてに掲げた看板が見つかる。そのうちの一軒に入ってみた。 「アパートを探しているのですが」 「借りるのか、買うのか?」 「借ります」 「いくらだ?」 イランでのアパートの借り方は、日本のそれとは少し違っている。不動産屋で「いくらか?」と訊かれるとき、それは入居時に大家に支払う保証金と、その後、月々支払う家賃とを意味している。 「保証金は500万トマン、家賃は3万トマンほどで……」 「ないね」 そこはタジュリーシュと呼ばれる山の手の繁華街で、学校が近いのでこの辺りにいい物件が見つかればと探し始めたのだが、この辺りの相場は私の希望金額の倍近いことが次第にわかってきた。 テヘランという町は、北にエルブルース山脈を戴き、市街地は南へ向かってなだらかに下っていく。タジュリーシュは背後にすぐ急な山肌が迫り、南部の町並みを見下ろす最も北よりに位置する街区であり、外国人や政府要人はもちろん、この国で上流意識を持つ人々が多く住まう地区でもある。緑が多く、山からの清冽な雪解け水がいたるところに流れている。 町ゆく人の装いは明るく、洗練され、特に女性は下町である南部に比べて、カラフルなスカーフやマーントに身を包み、タイトで露出度の高い服装をしている人が多い。スカーフは、まとめた後ろ髪にひっかける程度で、七部袖で腕もあらわに、襟足は大きく開き、素足にサンダル履きも当たり前だ。それは、この付近が単に山の手であることを意味するに留まらず、聖職者の統治を国是とし厳格なイスラム法を国法とするこの国において、富裕層がそれに反し自由な空気を求め、また発信している地域であることを意味していた。 私は学校の近くを諦め、そこからバスで30分ほど南へ下った、学生寮のあるアーミラバード近辺を探し始めた。しかしそこも山の手であることに変わりはなかった。 ところで、私の言い値である保証金500万トマンとは、日本円に単純換算して約60万円である(家賃3万トマンは4000円ほど)。この保証金は退去時に全額返還される。大家はこの保証金を運用して新しい物件を建てたり買ったりするが、銀行に預けておくだけでも年率10数パーセントを超える高金利のためかなりの収入になる。 つまり、大家と交渉して保証金を安くしてもらい、代わりに月々の家賃を高くするという支払い方もある。大家の収入に変わりがなければどちらの支払い方法でも良いような気がするが、実際には住人が月々の家賃を滞納するケースが多く、大家としてはできるだけ保証金を多く取り、確実な収入に結び付けたいという計算がある。 私のアパート探しは、学校から次第に遠ざかる不安を諦めに変えながら、南へ南へと徐々に下っていった。そして実際、標高とともに物価も家賃もわずかずつだが下がっていく。 ところで、500万トマンとはイラン人の平均年収のおよそ4倍に相当する。仮に保証金100万トマンの物件があったとしても、この国の若者に容易に用立てられる金額ではない。一体この国の学生や、夢を抱えて都会に出てきた若者たちは、どうやって住む場所を確保しているのだろう。なかには同じ目的を持った者同士、お金を出し合いグループで部屋を借りるケースもあるらしいが、若者の気軽な一人暮らしは相当な資産家の子弟でもないかぎり無理なようだ。したがって、かれらが親元を離れ自ら居を構えるのは、結婚を契機にした場合にほぼ限られる。 イラン人の結婚は一般的に、花嫁が家財道具一式を買い揃え、花婿が住居を用意するという慣習が今も残っている。婚約はしたものの、住む場所を用意できないため、正式な結婚に踏み切れないカップルも多い。貧乏な若い男女が四畳半一間で同棲を始めるというような気楽なことはできないのである。「あ~、俺も結婚したいよ。金さえあればなあ」と友人のイラン人がしきりにぼやいていたのが思い出される。 そうした要因もあり、単身者向けの小さな物件というものがなかなか見つからなかった。「狭い部屋でいい」といくら言っても、どこも最低70~80平米の、明らかに家族向け の物件ばかりを紹介されるのだ。 アパート探しはさらに南下し、テヘラン市街を東西に横切るアザディー通りにまで近づくと、イラン人の友人たちが心配し始めた。 「アザディー通りより南には行くな」 テヘラン市民にとって、アザディー通りは町を「南」と「北」に分ける明らかな境界線として存在していた。その一線より下、つまり南部は、「治安が悪い」、「文化がない」、「人の住むとこじゃない」と散々な言い様をする「北」のイラン人もいる。 「南部に住んでいるのは純粋なイラン人じゃない。トルコ系やクルド系、アフガニスタンからの連中なんかが大勢住んでいるんだ」 私はその言葉に逆らい、通りの南側でも不動産屋を探した。この近くのエンゲラーブ広場からなら、片道1時間かかるが、学校まで1本のバスで行けたからだ。さらにもっと南へ下れば、より安くて小さな部屋が見つかったかもしれない。それに南部こそ、元来テヘランの中心であり、人情あふれる下町である。200年近い歴史を持つバザール地区もこの南部にあり、一歩路地裏に入れば、入り組んだ小道に古い土壁の家々が連なる昔ながらの生活がある。しかし、私にとってはこのエンゲラーブ広場が学校へ通うための南限だった。 6月に入り、私はエンゲラーブ広場のそばにようやく希望通りの物件を見つけた。そこはトルコ系住人やアフガニスタンからの出稼ぎ労働者の居住区を見下ろす、アザディー通りより小道を一本「北」に折れたところにあった。路肩の溝には北部を潤したあとの汚水が勢いよく流れ、さらに南部へと、付近のゴミを押し流していた。 No.7 夏の終わりに 6月に入る頃から、街路に警官や軍人の姿が目立つようになった。彼らは街角に立って熱心に交通整理をしてくれ、おかげで普段まったく無秩序に等しい信号機のない交差点などは、ずいぶんと渡りやすくなった。しかし実のところ、彼らの任務は毎年この時期に行なわれる学生デモ(イラン便り4を参照)への警戒である。聞けば昨年も同様の警戒網が敷かれていたという。 しかし今年、学生寮でデモが行なわれることはなかった。大学側が期末試験を早め、早々に寮を閉鎖して学生たちを田舎に返してしまったためだ。一方、夏休みを迎えて街に学生達の姿が半減しても、ものものしい警備は相変わらず続いていた。 8月も半ばを過ぎた、ある日のことだった。表通りで連れ合い(6月21日イラン入り。市街地中心部エンゲラーブ広場付近のアパートに同居中)と立ち話をしていたとき、突然後ろから誰かに乱暴に肩をつかまれた。驚いて振り返ると二人組の軍人が立っていた。 「歩道で話をするな」 意図を量りかねてぽかんとしていると、 「歩道で話をするなと言っているんだ!」 と怖い顔でもう一度繰り返した。 30秒ほどしてようやくそれが「公道で女の子と楽しそうに話なんかするな」という意味だとわかった。 そこは私が通う学校からさほど遠くないタジュリーシュと呼ばれる閑静な山の手地区で、すずかけの並木が連なるその表通りには、気の利いた品揃えの高価な店がところどころ並び、外国人の姿も珍しくない。テヘラン南部のモスクの前ならいざ知らず、このタジュリーシュで、しかも外国人の自分が、ただ歩道で女性と立ち話をしていたぐらいで肩をつかまれることが意外でならなかった。 当局による風紀指導が厳しくなってきたという話は、確かに最近あちらこちらで耳にしていた。週末の夜、ドライブ中の若いカップルにその関係を尋問したり、タクシーを片っ端から捕まえてパーティー帰り(テヘランの若者は週末によくホーム・パーティーをする)の乗客をアルコール感知器にかけたり、といった話だ。 8月に入ってからは、ギラン州とセムナン州の両州で、服装規定から著しく外れた女性が200人近く逮捕され、1200人ほどが口頭による警告を受けたというニュースが流れた。ちなみにこの国の女性は、ルーサーリー(スカーフ)、あるいはマグナエと呼ばれる、顔を出すための穴のあいた袋状の布を頭から被って頭髪を隠し、身体のラインを隠すためのマーントと呼ばれるイスラム・コートの着用が宗教、国籍を問わず義務付けられている。しかし実際には、若い女性の多くはジーンズにスニーカーやサンダル、その上に薄手のサマーコートのようなものを着て、ルーサーリーも髪の毛が透けて見えるような薄手の涼しげな素材のものを後頭部に引っ掛けるように軽く被っている。それでも真夏は女性にとって酷な季節であることに変わりはない。 取り締まりの行なわれたギラン州はカスピ海南西岸に位置し、セムナン州はテヘラン市の東に隣接する。この両州の地方都市で、流行に敏感な若い女性たちが逮捕の憂き目にあったわけだが、もし流行の最先端をゆくテヘランで同じキャンペーンを徹底させたらどうなっただろう。テヘラン中の警官を総動員しても間に合わないにちがいない。そう思った矢先の9月初旬、とうとうテヘランでも一斉取り締まりが行なわれた。報道によれば、警察のほかに500人似のぼる自警団員、バスィジと呼ばれる保守派支持の市民が動員されたという。街中で女性たちが捕まっている一方、彼女たちのファッションをリードするブティックにも捜査のメスが入った。この夏から、店頭のマネキンにもルーサーリーを被せなければならないとの規定ができた。 テヘラン市市議会はこの夏、女性に関するもう一つの画期的な計画も発表している。テヘラン市内の五つの公園に「女性専用エリア」を設けるというものだ。 テヘランには、噴水などを備えた大きな緑地公園がいくつもあり、基本的に娯楽というものが少ないこの国の市民にとって、かけがえのない憩いの場となっている。公園なくして家族の週末はありえないと言っても過言ではなく、木曜の夜には(イランでは金曜日が安息日で休日)どの公園もゴザと夕食用の食材、煮炊き用のバーナーを持ち込み、ピクニックに興ずる家族連れで混雑している。その公園に、「男性の目を気にすることなく」「服装コードに縛られず、リラックスでき、運動もできる」という名目で、外からは見えない女性専用エリアを設けるというのだ。 このニュースについて知人のイラン人男性に意見を聞くと、「女性がリラックスできる場が増えるのはいいことだね」と答えた。しかし、隣にいた妻(24)は腹立たしげにこう反論した。 「そんなもの女性の自由の拡大とはまったく無縁で、社会から女性の存在を隔離したいだけよ。ルーサーリーなんて家に帰れば外せるし、何も公園でそんなエリアに入ってリラックスしたいなんて思わないわ」 しかし実際、公園で一人たたずむ若い女性に男がしつこく声をかけている場面は少なくない。 「本来、男女の間に仕切りを設けるのではなく、男性は女性に迷惑をかけたり不愉快な思いをさせない。そういうことを理解しあうことの方が大切なんだけどね」 このニュースについて、ある年配のイラン人男性はそう答えた。 イランでは、市バスは車体の中ほどに仕切りを設け、前後で男女を隔てている。地下鉄には女性専用車両があり、女性はその車両以外に乗っても構わないが、実際には夫婦でさえ別々の車両に乗ることを選ぶ。学校も大学に入るまでは完全に男女別学だ。 この夏の一連の風紀取り締まりを、私は5月から第7回国会がスタートしたせいだと思っていた。この国会は2月の国会選挙で圧勝した保守系議員が大半を占めるもので、彼らは選挙に勝利した以上、支持者に対して何らかのポーズを見せなければならない。その一環として、最も容易な女性への取り締まりを始めたのだろうと思っていた。 しかし当のテヘラン市民に訊ねると、国会が代わっても内閣までは代わっていないので政策そのものに大きな変化はないはずだという。それに、服装の取り締まりは今になって始まったものではなく、薄着になり始める初夏や、外国から要人を招いたりする直前にはよく行なわれるものらしい。つまり、最近になって政府がある方向に傾き出したというわけではないという。 締め付けたり、緩めたり、その繰り返しで当局は、若者の心理が一定の基準を超えないようにバランスよく操っているのだ。97年にハタミ政権が誕生して以来、この国の自由は増したと外国では報道され、確かにそれ以前に禁止されていた多くのことが徐々に問題にすらされなくなってきている。しかし、それも表面上のアメとムチに過ぎない。 「服装や文化の規制緩和はさして重要なことではない。女の子と街中を歩けることだって、たいした意味はない。そんなものは本当の自由ではないのだ」 以前私に語ったある学生の言葉が、今になって思い出される。 これからイランは核問題で国際的に孤立してゆくだろう。それに応じて国内での「引き締め」も強まるかもしれない。しかしそれとて外国へ向けたポーズに過ぎないことを、この国の国民は冷めた目線で見据えるだろう。そして、夏の酷暑がいつか過ぎ去るように、次の季節をしたたかに待つのかもしれない。 しかし、もし国連で経済制裁が決まったなら、破壊される国民経済を目の当たりに、かれらは自らの明日を本気で考え始めるかもしれない。
No.7 夏の終わりに


▲ルーサリー(スカーフ)を被せられたマネキンたち
6月に入る頃から、街路に警官や軍人の姿が目立つようになった。彼らは街角に立って熱心に交通整理をしてくれ、おかげで普段まったく無秩序に等しい信号機のない交差点などは、ずいぶんと渡りやすくなった。しかし実のところ、彼らの任務は毎年この時期に行なわれる学生デモ(イラン便り4を参照)への警戒である。聞けば昨年も同様の警戒網が敷かれていたという。 しかし今年、学生寮でデモが行なわれることはなかった。大学側が期末試験を早め、早々に寮を閉鎖して学生たちを田舎に返してしまったためだ。一方、夏休みを迎えて街に学生達の姿が半減しても、ものものしい警備は相変わらず続いていた。 8月も半ばを過ぎた、ある日のことだった。表通りで連れ合い(6月21日イラン入り。市街地中心部エンゲラーブ広場付近のアパートに同居中)と立ち話をしていたとき、突然後ろから誰かに乱暴に肩をつかまれた。驚いて振り返ると二人組の軍人が立っていた。 「歩道で話をするな」 意図を量りかねてぽかんとしていると、 「歩道で話をするなと言っているんだ!」 と怖い顔でもう一度繰り返した。 30秒ほどしてようやくそれが「公道で女の子と楽しそうに話なんかするな」という意味だとわかった。 そこは私が通う学校からさほど遠くないタジュリーシュと呼ばれる閑静な山の手地区で、すずかけの並木が連なるその表通りには、気の利いた品揃えの高価な店がところどころ並び、外国人の姿も珍しくない。テヘラン南部のモスクの前ならいざ知らず、このタジュリーシュで、しかも外国人の自分が、ただ歩道で女性と立ち話をしていたぐらいで肩をつかまれることが意外でならなかった。 当局による風紀指導が厳しくなってきたという話は、確かに最近あちらこちらで耳にしていた。週末の夜、ドライブ中の若いカップルにその関係を尋問したり、タクシーを片っ端から捕まえてパーティー帰り(テヘランの若者は週末によくホーム・パーティーをする)の乗客をアルコール感知器にかけたり、といった話だ。 8月に入ってからは、ギラン州とセムナン州の両州で、服装規定から著しく外れた女性が200人近く逮捕され、1200人ほどが口頭による警告を受けたというニュースが流れた。ちなみにこの国の女性は、ルーサーリー(スカーフ)、あるいはマグナエと呼ばれる、顔を出すための穴のあいた袋状の布を頭から被って頭髪を隠し、身体のラインを隠すためのマーントと呼ばれるイスラム・コートの着用が宗教、国籍を問わず義務付けられている。しかし実際には、若い女性の多くはジーンズにスニーカーやサンダル、その上に薄手のサマーコートのようなものを着て、ルーサーリーも髪の毛が透けて見えるような薄手の涼しげな素材のものを後頭部に引っ掛けるように軽く被っている。それでも真夏は女性にとって酷な季節であることに変わりはない。 取り締まりの行なわれたギラン州はカスピ海南西岸に位置し、セムナン州はテヘラン市の東に隣接する。この両州の地方都市で、流行に敏感な若い女性たちが逮捕の憂き目にあったわけだが、もし流行の最先端をゆくテヘランで同じキャンペーンを徹底させたらどうなっただろう。テヘラン中の警官を総動員しても間に合わないにちがいない。そう思った矢先の9月初旬、とうとうテヘランでも一斉取り締まりが行なわれた。報道によれば、警察のほかに500人似のぼる自警団員、バスィジと呼ばれる保守派支持の市民が動員されたという。街中で女性たちが捕まっている一方、彼女たちのファッションをリードするブティックにも捜査のメスが入った。この夏から、店頭のマネキンにもルーサーリーを被せなければならないとの規定ができた。 テヘラン市市議会はこの夏、女性に関するもう一つの画期的な計画も発表している。テヘラン市内の五つの公園に「女性専用エリア」を設けるというものだ。 テヘランには、噴水などを備えた大きな緑地公園がいくつもあり、基本的に娯楽というものが少ないこの国の市民にとって、かけがえのない憩いの場となっている。公園なくして家族の週末はありえないと言っても過言ではなく、木曜の夜には(イランでは金曜日が安息日で休日)どの公園もゴザと夕食用の食材、煮炊き用のバーナーを持ち込み、ピクニックに興ずる家族連れで混雑している。その公園に、「男性の目を気にすることなく」「服装コードに縛られず、リラックスでき、運動もできる」という名目で、外からは見えない女性専用エリアを設けるというのだ。 このニュースについて知人のイラン人男性に意見を聞くと、「女性がリラックスできる場が増えるのはいいことだね」と答えた。しかし、隣にいた妻(24)は腹立たしげにこう反論した。 「そんなもの女性の自由の拡大とはまったく無縁で、社会から女性の存在を隔離したいだけよ。ルーサーリーなんて家に帰れば外せるし、何も公園でそんなエリアに入ってリラックスしたいなんて思わないわ」 しかし実際、公園で一人たたずむ若い女性に男がしつこく声をかけている場面は少なくない。 「本来、男女の間に仕切りを設けるのではなく、男性は女性に迷惑をかけたり不愉快な思いをさせない。そういうことを理解しあうことの方が大切なんだけどね」 このニュースについて、ある年配のイラン人男性はそう答えた。 イランでは、市バスは車体の中ほどに仕切りを設け、前後で男女を隔てている。地下鉄には女性専用車両があり、女性はその車両以外に乗っても構わないが、実際には夫婦でさえ別々の車両に乗ることを選ぶ。学校も大学に入るまでは完全に男女別学だ。 この夏の一連の風紀取り締まりを、私は5月から第7回国会がスタートしたせいだと思っていた。この国会は2月の国会選挙で圧勝した保守系議員が大半を占めるもので、彼らは選挙に勝利した以上、支持者に対して何らかのポーズを見せなければならない。その一環として、最も容易な女性への取り締まりを始めたのだろうと思っていた。 しかし当のテヘラン市民に訊ねると、国会が代わっても内閣までは代わっていないので政策そのものに大きな変化はないはずだという。それに、服装の取り締まりは今になって始まったものではなく、薄着になり始める初夏や、外国から要人を招いたりする直前にはよく行なわれるものらしい。つまり、最近になって政府がある方向に傾き出したというわけではないという。 締め付けたり、緩めたり、その繰り返しで当局は、若者の心理が一定の基準を超えないようにバランスよく操っているのだ。97年にハタミ政権が誕生して以来、この国の自由は増したと外国では報道され、確かにそれ以前に禁止されていた多くのことが徐々に問題にすらされなくなってきている。しかし、それも表面上のアメとムチに過ぎない。 「服装や文化の規制緩和はさして重要なことではない。女の子と街中を歩けることだって、たいした意味はない。そんなものは本当の自由ではないのだ」 以前私に語ったある学生の言葉が、今になって思い出される。 これからイランは核問題で国際的に孤立してゆくだろう。それに応じて国内での「引き締め」も強まるかもしれない。しかしそれとて外国へ向けたポーズに過ぎないことを、この国の国民は冷めた目線で見据えるだろう。そして、夏の酷暑がいつか過ぎ去るように、次の季節をしたたかに待つのかもしれない。 しかし、もし国連で経済制裁が決まったなら、破壊される国民経済を目の当たりに、かれらは自らの明日を本気で考え始めるかもしれない。
No.8 断食は反米の叫びと共に明ける

▲「エルサレムの日」は「『アメリカに死を』の日」の横断幕

▲不浄な動物として、イラン人はほとんど犬を飼いません。

▲多分イラン人も「やりすぎ・・・」と思ったはず。でも子供達は真剣です。

▲かわいそうなロバ。しかし大人も子供も大喜びでした。

▲エンゲラーブ広場を次々と通過してゆくデモ隊
10月16日午前4時過ぎ、ニュース速報のような電子音とともに、テレビの画面下に小さく「テヘラン地区 朝のアザーンまで30分」と表示が現れた。まもなく迎える夜明けのアザーン(礼拝呼びかけの朗誦)とともに、1ヵ月に及ぶ断食月が始まるのだ。 外を眺めると、通りを挟んだ向かいのアパートに明かりの灯る窓が4つ。人々はこの時間にわざわざ起きて朝食を食べ、その日の断食に備える。テレビ画面のカウントダウンは「あと10分」、「あと5分」と5分刻みの表示になり、早く食事を済ませるよう促す。 そしていよいよテレビから朝のアザーンが流れはじめた。近所のモスクからも、まだ白々ともしない未明の静寂の中、冷気とともにアザーンの朗誦が漂い流れてくる。5分ほどでアザーンが終わると、さきほど灯っていた窓明かりがぽつりぽつりと消え始める。もう一眠りするのだろう。 イスラム教徒にはイスラム五行と呼ばれる5つの義務がある。清浄・礼拝・喜捨・巡礼ともう1つ、年に1度、ヘジラ太陰暦の9月にあたるラマザン月に断食を行なうことだ。日の出から日没まで、日が出ている時間帯は食事だけでなくタバコや水を口にすることも禁じられる。また、声を荒げたり人と争ったりせず、喜捨に努め、忍耐力と自制心を養う。旅人、病人、妊婦、そして異教徒は例外とされるが、せっかくイランにいるのだ、イスラム教徒の断食がどういうものなのか、私も実行してみることにした。 ラマザン月第1日目の今日、商店街ではサンドイッチ屋やピザ屋といった軽食屋やレストランが軒並みシャッターを下ろしている。季節がら、もう収入の見込めないアイスクリームや生ジュースの専門店は、この日を境に衣料品やCD、生活雑貨などを売る店に衣替えしてしまった。 午後からはペルシャ語の授業があり、17時過ぎに乗り込んだ帰りのバスは大混雑していた。道路も渋滞している。車窓には、慌ただしく開店準備をするレストランや軽食堂が見える。およそ13時間に及んだ今日の断食がまもなく明けるのだ。誰もが空腹を抱えながらその瞬間を待ち望んでいた。願わくは、そのときまでにバスが目的地に到着し、何かを口に入れられる境遇にありたいものだ。 17時半を過ぎた頃、車窓から眺めたレストランに食事を取る客の姿を見つけた。どうやら日没を迎えたらしい。エンゲラーブ広場の終点にバスが到着したのは、それから15分ほどしてからだった。 断食明けの夕食は、毎夜家族とともにご馳走を囲むのが一般的だが、単身者や時間的に間に合わない人は近くの食堂に駆け込む。どこも満員だ。広場ではパック入りのジュースとビスケットを無料で配っている。相方がもの欲しそうに見ていたせいか、わざわざあとから走って追いかけてきて「どうぞ」と二人分を手渡してくれる男性がいる。女の子たちはたいていモゴモゴと何か食べながら歩いている。相方によれば、バスの女性エリアでは日没時間を過ぎた途端、ほとんどの女性がパンやビスケットをいそいそと取り出し、まずは隣の女性に勧め、人が口にするのを見届けてから食べ始めたそうである。 街なかにはお祭りムードが漂っていた。どの食堂も直径1メートルはある大鍋を2つ、店先に並べている。1つはアーシュ・レシテと呼ばれる、様々な野菜や豆をどろどろになるまで煮込んだうどん入りスープで、もう1つは七面鳥を1晩かけて形状がなくなるまで煮込んだハリムと呼ばれる白濁したスープである。どちらも宗教的な祭日によく出される特別料理だ。どんぶり1杯50円ほどで、若者や学校帰りの女の子たちが店先で立ち食いをしている。断食明けに欠かせない砂糖漬けのお菓子やケーキの菓子箱を携え家路を急ぐお父さんの姿も目立つ。私たちもその晩はアーシュ・レシテを立ち食いし、ミニシュークリームを500グラムほど買って家路に着いた。 初めて臨んだ断食は、思ったよりつらいものだった。外出中は人目があるが、家にいるとつい誘惑に負けそうになる。誰の強制でもない。禁煙のように、健康のためという目的があるわけでもない。ただ神と自分との関係において1ヵ月の断食がいかなる意味を持っているかが問われるのみである。そう問われれば、ムスリムでない私にとって断食はあまり意味などないのかもしれない。私はただ、このラマザン月に起こる様々な出来事を、イラン人とともに共有したかったのだ。まずこの空腹感の共有なくして、なにが共有できよう。 ところが、その意思がもろくも崩れ去る日が思いがけず早々とやってきた。ラマザン月4日、その日は朝からなぜか電話が使えず、八方尽くして原因を探ったが分からず、もともと調子の悪かったモジュラージャックが壊れたのかと思い、電気部品屋を探して商店街を歩き廻っていた。ようやく見つけた店は閉まっていたが、ガラス窓から奥を覗くと、なんと店主が食事をとっている。不心得なムスリムもいるものだと思い、他の店を探していると、車のなか、店の奥、あるいはすれ違いざま、いたるところで口をもぐもぐとさせて明らかに何かを食べている人たちの姿を目にした。アパートに帰ってみれば、階下に住む家族連れの部屋からもカチャカチャと昼食を囲むフォークとスプーンの音が聞こえてくる。 「みんな、食っとるやないか・・・・・・」 空腹と徒労感を抱えて帰宅した私と相方は、それから10数分後、どちらともなくお茶の支度を始めたのだった。 しかしその後、実際には私が思ったほどイラン人の断食実行率は低くないことが分かった。例えば、あるイラン人家族の家に招待されると、家族のなかでも食事に手をつける者と絶対につけない者がいる。ヒーターが故障して修理に人を呼べば、1人はお茶を口にし、1人は決して口にしない。断食をする者もしない者も、互いに相手の立場を尊重し、また、自らの立場を明確にしているその様子は、断食があくまで神と自分との約束以上のものでないことを物語っていた。断食はイスラム教徒の義務だからと強制されるものではないのだ。貧しい者の飢えの苦しみを体験するのに1ヵ月という期間は根拠がないし、第一、日没後は普段より豪華な夕食や甘いものを食べるというのでは、どこか矛盾していると言えなくもない。だから人々は、どういう断食を自ら課すのか、各々が考え、実行するのである。 11月12日、ラマザン月最後の金曜日は、「世界エルサレムの日」とされ、イラン全土で毎年、反米・反イスラエルの大きなデモ行進が行なわれる。 イランでしばしば行なわれる反米集会・デモは、官製デモであり、政府の呼びかけによるものだ。特にイスラエルに関しては、「この世から消滅させる」と公言してはばからない。イスラムの同胞であるパレスチナ人を長年虐殺し続けるイスラエルと、そのイスラエルを保護する米国を敵視することは、イスラム国家としての義務であると内外にアピールしているのである。この「世界エルサレムの日」も、イマーム・ホメイニが、毎年ラマザン月の最後の金曜日を「エルサレムの日」と名づけて、パレスチナが開放される日までアメリカ・イスラエルに対してデモを行なうよう世界のイスラム教徒に呼びかけたのが始まりだ。 その朝、拡声器によるシュプレヒコールで目が覚めた私は、急いで外に飛び出した。すでにエンゲラーブ広場はデモ隊で埋まりつつあった。 デモ隊は大小様々な集団から成り、西のアザディー広場方面から次々にここエンゲラーブ広場に到着しては、東よりのフェルドゥスィー広場方面へと抜けてゆく。前日のテレビで、公共機関や学校、保守系政党、バスィジィ(革命防衛隊の下部組織である市民動員軍)各組織やその家族にしきりに参加を呼びかけていた(実際には単に呼びかけるだけでなく、各機関や職場に前もって当局から通達があり、個人の意思とは関係なく職場単位で駆りだされるのがイランの官製デモである)だけあり、かなり大規模なデモ行進である。イランでは毎日のようにパレスチナ関連のニュースが流されるが、ここ数日はそれに輪をかけてパレスチナの悲惨な映像がエンドレスで流され続けていたせいもある。カメラを向けると、「俺たちはみんなバスィジィだ」と胸を張る男性もいれば、現政府に批判的であってもパレスチナには深い同情を寄せ、当局主導の官製デモと知りつつ参加した個人も少なくない。 「毎日、自分よりずっと小さな子供たちがパレスチナでは殺されている。黙って見てはいられない」友人2人でデモに参加した経営学専攻の男子学生は、そう語った。 その日、テレビのニュース番組では「パレスチナよ、ひとりではない」「最後までパレスチナと共に」などというテロップと共に、特別番組や今日一日のイラン各地でのデモの様子を放送し続け、翌日の新聞ではイラン全土で数百万人がデモ行進に参加したと発表された。 デモというものを、当局に何らかの政策変更を迫るための抗議行動だと考えれば、もともと政府が強硬な反米姿勢を取り続けるこの国で、国民が反米デモに参加する意味はあまりない。せいぜい政府の政治的動員力を内外に誇示する役割を担わされるのが関の山だ。それでも、所詮は動員デモと馬鹿にできないほど、今日のデモは力強く真面目なものに感じた。政治的にあまり意味がなくても、こぶしを空に突き上げ、「アメリカに死を!」「イスラエルに死を!」と大気を揺るがせるようなシュプレヒコールを挙げるイラン人の姿が、パレスチナ人に少しでも勇気を与える結果になれば、それで十分なのかもしれない。 11月15日、30日続いた断食月が明けた。街路を歩くと、昼間から営業しているサンドイッチ屋や、食べ歩きをしている女の子の姿を目にし、ようやくまた日常に戻ったのだと実感する。実際、断食をリタイヤしてからも、何度か朝食を食べそびれて外出し、実質断食に近い1日を何度も経験しなければならなかった。そのため、空腹の苦しみとともに、好きなときに物が食べられる自由というものを、断食月が明けた今、実感している。わずか1ヵ月という期間限定の制約でも、小さな自由の喜びを感じることができるのだ。完全に断食を実行した人たちにとっては、なおのことだろう。世界中のイスラム教徒たちが今日、その喜びを共有しているのかと考えると、いまさらながら中途でリタイヤしたことが悔やまれる。飢えの苦しみより、今日の喜びをこそ彼らと共有したかったと思う。
No.9 バム震災1周年を訪ねる



▲共同墓地。一周忌にテヘランから訪れた遺族。
▲共同墓地。家族が寄り添う墓表が目立つ。
▲再建された学校はまだ一校しかなく、ほかはコネックスを教室代わりに利用 している。

▲コネックスとテントを併用し暮す人々。

▲崩れ落ちたアルゲ・バム。

▲ユネスコは見放さなかった。

▲バザールのコンテナ店舗。
震災1周年を翌日にひかえた2004年12月24日、私は妻と2人、バム市郊外のアルグ広場に降り立った。テヘランから約1200キロ。20時間に及んだバスの旅だった。 市の中心部へ向かう乗り合いタクシーに乗り込むと、車窓には、半壊して今も無人のままの商店や、全壊してレンガの小山と化した家々、ぺしゃんこに押しつぶされた乗用車など、まるでつい昨日大地震が起こったかのような生々しい光景が、南国にふさわしいナツメヤシの木々が生い茂るジャングルを背景に延々と続いた。 バム市はイラン南東部ケルマン州にあり、ホルマと呼ばれるナツメヤシの甘い実とオレンジが産地の小地方都市である。この町の名が以前から世界的に知られているのは、町の郊外に残るアルゲ・バム(バム城砦)遺跡のおかげだ。南北約600メートル、東西約450メートルの要塞都市は、およそ200年前には放棄され、今は「死の町」の異名を持つ無人の廃墟である。遺跡そのものは2000年近い歴史を持ち、様々な時代の暮らしぶりや交易の様子を伝える貴重な文化遺産として、ユネスコの世界遺産候補にノミネートされていた。そんな矢先の2003年12月26日(イラン暦10月5日)、マグニチュード6.5の地震がこの地を襲い、近隣の集落も含めた人口の3分の1にあたる約4万5000人もの人が亡くなった。世界遺産候補アルゲ・バムも無残に崩れ落ちた。 町の中心エマーム広場でタクシーを降りると、鉄筋コンクリート作りのため全壊を免れたビルが表通りに多く残されていた。今日は休日なのでどこも閉まっているが、多くの建物の鉄筋がひしゃげ、いつ上階が崩れてくるか分からない。全壊したビルも少なくなく、歯が抜けたようにところどころ建物の代わりに列車のコンテナが店舗として置かれている。 裏通りへ入ると、沙漠のように砂の積もった小道の両脇に、家の門だけが点々と並ぶ。塀も人家も崩れ去り、門構えだけが倒れずに残ったらしい。その門をよりどころにするかのように、コネックスと呼ばれる仮設住宅が小道に沿って並ぶ。バムでは8割の家屋が全壊したと言われている。表通りの半壊の商店を2割とすれば、きっとその8割がもろい日干し煉瓦で作られた民家だったのだろう。ジャングルの小道をどこまで行っても、全壊を免れた民家は見当たらなかった。イラン赤新月社のロゴが入ったテントとコネックスを併用し、人々は復興とは程遠い生活を今も続けていた。 15人の親族を震災で亡くしたという老婆は、テントをアフガン人に賃貸しし、息子と2人でコネックスに暮していた。かつての住居である瓦礫の山を前に、何よりも早く家を再建させたいと訴えるが、その目処はまったく立っていないという。 町の誰もが私の質問にこころよく答えてくれた。家族をひとりも失っていない世帯はほとんどないといってよかった。コネックスを支給された時期は世帯によって差があり、震災半年後がもっとも多く、中には2ヵ月、3ヵ月前にようやく支給され、それまでテント暮らしを強いられていた世帯もある。コネックスはトタン屋根の箱型住居で、広さは8畳から12畳ほどと何タイプかある。電気と水道は通っており、ガスはおのおのプロパンガスを使用している。1世帯1コネックスが基本のようだ。瓦礫の中から絨毯や壊れていない家財道具を拾い出し、コネックスの中は感心するほどきれいに整っている。しかし内部は、夏は暑く、冬は寒い。私を招いたコネックスの家人は、「こんなものが生活と言えるかい?」と忌々しそうにコネックスの壁をこぶしで殴った。 みな一様に、家の再建こそが今一番必要なことだと言い、まるで合言葉であるかのように「政府は何もしてはくれない」という結論に達する。職を失い、男手を失い、多くの世帯に安定した現金収入がない今、自力で家を再建するのは不可能に等しい。積もり積もった苛立ちは、倒壊したかつての我が家を毎日のように目の当たりにすることで拍車がかかるのだろう。 「政府の発表では犠牲者数は4万5000人ほどだが、実際には6万か7万は下らないはずだ。こんな小さな町だからみんな見知った顔ばかりだが、どこに行ったのか、今では見かけなくなった人がたくさんいる。みんな死んでしまったのだろう」 死亡者数はもっと多いはずだという意見は多くの市民から聞いたが、それを確かめる根拠はない。町が閑散としているのは、他の町に住む親族を頼ってバムを離れていった人が多いせいもあろう。ただ、住民登録されていないアフガニスタンからの不法就労者などがそもそも犠牲者数に含まれていないばかりか、遺体が掘り起こされもせず、まだ地中に埋まったままという恐ろしい噂も聞く。 その晩は、震災後も細々と営業を続けていたというバムで唯一のゲストハウスに部屋を取ることができた。 昼間はテヘランの装いでは汗ばむほどだったが、夜間の冷え込みは思いのほかきびしい。頭から被った毛布は埃っぽく、1年経った今でも重く砂塵を含んでいる。地震が襲ったのは午前5時26分。この暗闇と寒さが、一体どれほど人々の絶望に拍車をかけたことだろう。 郊外にある共同墓地「ベヘシュティ・ザフロー(花の楽園)」は朝から墓参客の姿であふれていた。今日、ここで震災1周年の慰霊祭が行なわれる。この霊園はもともとイラン・イラク戦争の戦没者やその家族のためのごく小さな共同墓地に過ぎなかった。墓地から向こうは沙漠が広がり、震災後はその沙漠に向かって拡張に拡張が重ねられた。今はバム市街の震災犠牲者1万人近くがこの霊園に眠っている。 墓のひとつひとつの大きさが胸を打った。ゆうに車1台分はありそうな巨大な墓がほとんどで、それより小さな墓を見つける方が難しい。それらは家族、親族が揃って眠る墓なのだ。この震災での犠牲者は、重いレンガ作りの建築様式が災いし、ほとんどが家屋崩落による圧死だったと言われている。一室で寄り添い眠る家族が一瞬で犠牲となったのだろう。 午前10時頃には、イラン全土から集まった数万人の遺族たちが霊園に押し寄せ、あたりは一面、悲鳴に近い嗚咽に包まれた。うつむきながら墓石をいとおしげに撫でる遺族の姿に胸が熱くなる。ぼろぼろ涙を流しながら取材するイラン人記者もいる。赤新月社の軽トラックが花を配ってまわり、上空からも警察のヘリコプターが花を撒いた。 一方で、外国人である私に気軽に声をかけ、お供え物のお菓子や果物を勧めてくれる家族も多い。写真を撮っていいかと訊く私に、どうぞどうぞと墓石とともに親族一同で並んでくれる。 昼前、ますます混雑を極めてゆく霊園をあとにし、午後はまた小道や裏通りを歩いてまわった。震災1周年という、忌まわしい記憶を思い出させる日にもかかわらず、すれ違う誰もが笑顔で挨拶を返してくれる。車もバイクもクラクションを鳴らし、手を振って通り過ぎてゆく。 夕暮れどき、半壊の民家の屋上で布を結びつけた竹ざおを振り回す男の姿に足を止めた。その上空には鳩の群れが飛び交い、明らかに男が振り回す竹ざおの動きに反応していた。彼は、屋上から私たちの姿を見つけると、鳩を見においでと手招きした。 メフディーさん、32歳。彼の2階建ての自宅はすっぱりと右半分だけが崩れ落ちていた。敷地内に置かれたコネックスには身重の奥さんと、ケルマンやザヘダンといった近隣の町から今日のために訪れた親戚が集まっていた。そのなかでひとり終始穏やかな笑みを浮かべている優しそうな青年がいた。その青年は、両親と3人の姉妹、4人の兄弟をすべて震災で亡くし、彼ひとりが生き残ったという。彼のような震災孤児はかつて6000人ほどおり、現在そのほとんどがすでに遠い親族などに引き取られたが、それでもまだ数百人がケルマン市の孤児院で暮らしているという。 メフディーさんは、サントゥールというイランの伝統楽器のプロの演奏家で、私と妻のためにすばらしい演奏を披露してくれた。そのうえ夕食までご馳走になり、すっかり長居してしまった。別れ際、彼はひとつ頼みごとがあるのだがとおずおずと申し出た。 「君が日本に帰る際、お願いしたいことがあるんだ。もしまたイランに戻ってくるのなら、そのとき日本の鳩の雛を雄雌で一組、持ってきてもらえないだろうか」 日本からビザを送ってくれないかという申し出をこれまで耳にタコができるほど聞かされてきた私には、彼のリクエストは「かわいい」とさえ思えた。屋上の鳩小屋以外にも、敷地内には病気の鳩の治療小屋を設けられている。新聞の切り抜きを出してきたかと思えば、予想通り鳩に関する記事である。そして、海外の伝書鳩のレースについて熱っぽく語る彼に、他にもきれいな鳥、美しく鳴く鳥はいっぱいいるのに、なぜ鳩なんですか?と私は訊いた。 「鳩たちが飛び立つ瞬間が好きなんだ。大空へ向かって一斉に飛び立つとき、自分の日常の悲しみやつまらない思いまで一緒に空へと飛んでいってしまう気がするんだ」 何年もかけて築き上げてきたもの、それは財産であったり家族の絆であったりするが、そういったかけがえのないものが一瞬で崩れ去り、消えてしまうという点では、自然災害は戦争と何ら変わりがないのかもしれない。唯一、戦争と違う点は、ここに憎しみが存在しないことではないか。そうでなければ、この町の人々の優しさや理性は理解できない。互いの悲しみや絶望を思いやりながら、かれらはこの1年を過ごしてきたのだろう。 最終日、まだ訪ねていなかったアルゲ・バム遺跡へ向かった。拾った乗り合いタクシーの運転手の青年は、道中熱心に遺跡の歴史を説明してくれた。ずいぶん詳しいんだねと私が言うと、この町の人間なら誰でも知ってることさ、と照れもせず答えた。そして遺跡の入口で私たちを下ろすと、運賃を受け取らずに去っていった。 町の誇りであるアルゲ・バム遺跡は、しかし、無残としか言いようのない状態だった。城塞は崩れ落ち、こころときめく迷宮のようだった城内の市街地は、瓦礫の荒野と化していた。もはや城内を自由に探検することも叶わず、見学者のために設えられた1本の木道を往復することしかできない。世界遺産は見る影もなかった。 気の遠くなるような修復作業を横目に、私たちがそこから立ち去ろうとしたそのとき、遺跡の入口の石柱に、黄金のプレートがはめ込まれようとしていた。守衛の青年が、それがユネスコの認定章であることを教えてくれた。2004年6月2日、アルゲ・バムは「危機に瀕した世界遺産」として認定されたのだという。町の人へのせめてもの救いである。 初日にタクシーを降りたエマーム広場は、今日からまた日常の賑わいを取り戻していた。コンテナや半壊の店舗でたくましく商う人々、そしてこの2泊3日に出会った人々のことを思うと、この町がアルゲ・バムのように廃墟と化すことはありえず、生き残った以上生きていかねばならない人々の手によって、再び完全によみがえる日が来るだろうと確信する。それは遠い道のりだろうし、外部からの援助なくしては容易なことではないだろうが。
No.10 2006 FIFAワールドカップドイツ アジア地区最終予選 日本-イラン戦 観戦記



3月21日、ヒジュラ太陽暦を暦とするイランでは、閏年を除けば毎年この日に新年を迎える。1384年の正月は、新春の名にふさわしい、梅もほころぶ暖かな日差しとともに訪れた。人々は真新しい服で親戚まわりをし、子供たちはお年玉の金額に胸ふくらます。テレビでは、外国映画が目白押しだ。 今年は、その晴れやかな正月休みに、ワールドカップ・アジア地区最終予選日本戦という大イベントが加わった。かつて日本のアニメ『キャプテン翼』が国民的人気を博したほどのサッカー大国である。町を歩けば日本戦の話題には事欠かない。誰もが無邪気に「イランが勝つ!!」と私を挑発した。 年が明けて4日目、試合前日の24日のこと、わたしは日本、イラン両代表チームが公開練習をしているというアザディ・スタジアムへ足を運んだ。 ◎ イラン3、日本0、おしん7 アザディ・スタジアム正門は、100人を超す一団がイラン国旗を振り回し、騒然とした空気に包まれていた。バスを降りた私に矢のような視線が降り注ぎ、瞬く間に取り囲まれてしまう。 「日本人か?」 「そうだが」 「おー!ツバサがが来たぞ!」「ツバサだ、ツバサだ!」「ナカタは来てるのか?」「ナカムラは来てるのか?」と一瞬にしてモミクチャにされてしまった。 「2人とも来てますよ」 「おしんは?」 「おしんはちょっと……」 イランでの『おしん』放映はもうかれこれ20年近く前のことになるが、どう考えても『おしん』を観ていない世代でさえ日本人と見ると『おしん』を口にせずにはいられないらしい。『おしん』は1つの伝説なのである。 小学生の坊やが「イランと日本どっちが勝つ?」と下から見上げるように聞いてくる。彫りの深い、ただでさえギラリと光る無数の眼に囲まれて、わたしはつい言いよどむ。それをいいことに「2-0でイランだよ」「いいや3-0」「3-0だな」。誰もが日本に1点も入れさせたくないらしいのが癪に障る。 「1-1」だ、と私。 中途半端な答えに一同顔を見合わせる。 「アウエーで同点ってことはつまり、日本の方が強いってことさ」 「ナニィィィィ!!」とまた全員がいきり立ち、不毛な点数の言い争いが始まる。1人が叫ぶ。「イラン3、日本0、おしん7!」。どっと笑いが起きる。なぜかこれには誰も反論しなかった。 彼らはみなイラン代表選手の公開練習を観に来ていた。今はまだ日本代表が練習中で、中に入れてもらえない。待つことが苦手な若者たちにとって、私という存在は格好の暇つぶしとなった。 「カワグチが指を骨折したらしいけど、楢崎ってキーパーはどうなの?」 「サントスは今回来てるのか。レッドカード2枚もらったはずだけど」 「シンジョウも来てるのか?」 新庄? 新庄は確か野球の……。 「違うよ、シンジ オノだよ!!」 さすが練習を見に来るだけあり、対戦相手の選手のことまでよく知っている。 17時半、1台の大型バスが見えた途端、彼らの興奮は最高潮に達した。イラン代表選手を乗せたバスがようやく到着したのだ。手を振り、国旗を振り、絶叫する若者たち。 「イランの選手が到着したってことは、もうすぐ日本の選手が出てくる頃だな」 「そうしたらどうなっちゃうんだろう。怖いなあ」 「バスを襲ったりしないか心配してるの? 大丈夫だよ。そんなことするんだったら、真っ先に君を血祭りに上げてるよ」 30分後、練習を終えた日本の代表選手を乗せ、大型バスがスタジアムから出てきた。バスを取り囲んだ群衆は声を揃えて「イラン! イラン! イラン!」と拳を突き上げながらも、スモーク・ガラスの奥にヨーロッパリーグで活躍するナカタやナカムラといった馴染みの選手の顔を見つけようと必死になっている。その横顔に邪気はまったく感じられない。 「明日もこんな風に友好的でいてくれるの?」私の問いに隣の男は答えた。 「明日かあ。さあね、それは神のみぞ知る、だ」 ◎ 祭りはすでに始まっていた いよいよ試合当日を迎えた。今日は午後、現地日本人会とともに団体バスでスタジアム入りする予定だったが、朝のスタジアムの様子が見たくて一足先に出かけることにした。 スタジアムへは、直通のミニバスがテヘラン市街のあちこちから出ていた。運転手がイラン国旗を振り回し、「スタジアム!」と叫んでいるのですぐ分かる。 午前10時、スタジアム前には熱狂する若者を寿司詰めにしたミニバスが次々に到着しては、車内を空にして去っていく。そこから少し離れたスタジアムまで、若者たちの途切れることのない人波が続く。道々にはタバコ、飲み物、ひまわりの種、国旗売りなどの売り子が声を張り上げ、サンドイッチを売る屋台も数軒出ている。サンドイッチ売りの男の話では、スタジアムの門が開きチケットの販売が始まったのが午前7時。一階席のチケット(1万リアル=約120円)は30分ほどで完売したという。2階席は、なんと今日に限ってすべて無料開放されているらしい(ちなみに日本人専用席は15ドルであった)。 そんなわけで、わたしはチケットを買うこともなくボディチェックのみでスタジアム内に入場した。ボディチェックはかなり入念で、わたしは百円ライターを有無を言わさず没収された。火気厳禁らしい。数ヵ月前の韓国との国際試合で競技中グランドの韓国選手の足元に巨大な爆竹が投げ入れられ、試合中止になったという経緯もあるのだろう。 ボディチェックだけでなく、警棒を構えた軍事警察が完全な警戒網を敷いている。ときおり調子に乗った若者たちが彼らを挑発し、警棒で追い回されている。小競り合いを遠くから眺めていると、通りすがりの若者があきれたようにぼやいた。 「日本にあんなのあるかい? 見ろよ、国民を警棒でぶちのめして……」 スタジアムの2階席に上がると、まだ10時過ぎにもかかわらずフリーの2階席までかなり埋まり、既にサポーターたちは太鼓を打ち鳴らし、早くもウェーブが観客席をぐるぐると巡っていた。わたしに気づくと、「俺の隣に座れ!」と場所を開けてくれる人も何人かいる。昨日同様とりたてて敵意や危険を感じることはない。しかしこれから始まるのは演劇やコンサートではない。サッカーだ。わたしの身の安全が保証される場所は、試合が始まってしまえば、小さく隔離された日本人用観客席だけなのかもしれない。 昼前、押し寄せる人波をかきわけ、いったんスタジアムをあとにした。 ◎ 大人げないぞイラン人! 在留邦人日本人会を乗せた大型バス6台がスタジアムに到着したのは、午後4時過ぎのことだった。フリーの2階席にすら座れなかった若者たちが、スタジアム周辺にあふれている。男ばかり。イランではスタジアムでの女性のサッカー観戦は認められていない。ことサッカーに関してはその場の秩序が保たれなくなるおそれがあるからだ。バスに向かって若者たちが気勢を上げると、まるでサファリ・バスから野獣の群れを見下ろすかのように、企業の奥様方の顔が引きつる。イラン人との接触を極力避けるため、日本人席の真裏にあたるスタジアム入場口にバスの頭を1台ずつ突っ込ませて下車させるという、日本イラン両当局の配慮ぶりであった。 薄暗い通路を過ぎると、西日に照らされた鮮やかな芝生が目に飛び込む。地鳴りのようなイラン人サポーターの喚声に足がすくむ。目が回りそうなほどウエーブがぐるぐる回っている。おまけに突然大音響で鳴り出すダンス音楽。踊り出すイラン人。 (朝からずっとあのテンションのまま!?) 思わず呆然として、ついイラン人への愛しさがこみ上げてくる。 日本人席の左右には、イラン人との無用な接触を避けるため10メートルほどの緩衝地帯が設けられている。両者を隔てる鉄パイプで組まれた柵沿いには、警官が何人も配置されている。警官の目を盗みながら、日本人の女の子に向かって手を振ったり、カメラを向けたり、手を合わせて拝むような仕草でおどけて見せる若者がいる。いつまでこんなに友好的な空気が続くのだろうか、と思っていた矢先、「バコンッ」という音とともに何かが頭上から降ってきた。水の入ったペットボトルが2階席から投げ込まれたのだ。その後も小石や棒切れなどが散発的に落ちてくる。こうした事態を予測していた日本人学校の関係者が、用意していたヘルメットを子供たちに配布する。ほかにも独自でヘルメットを持参した企業や団体も見られた。 18:05、キックオフ。 日本人席は、向かって右半分が青一色に統一された日本からの遠征サポーター、左半分が服装もばらばらな在留邦人という配置だ。在留邦人にも熱烈なサッカーファンはいるが、「せっかくの機会だから」的な見学派が多数を占めるのは否めない。一方で、日本から10数万円も払ってこの試合だけのために遠征してきたサポーターたち。両者の間に温度差があるのは仕方がないことだが、在留邦人側に身を置くわたしとしては、ついひとこと言い訳したくなる。ハンドマイク片手に指揮をとる3人の応援団の1人でも在留邦人側に足を運んでくれたなら、その温度差がもう少し埋まっていたのは確かである、と。 前半25分、イランに先制点を取られてしまった。イラン人たちが必要なとき以外立ち上がらない(さすがに疲れが出はじめているのかもしれない)のに対し、日本人は遠征組も在留組も総立ちで声援を送り続ける。 日本のファインプレーやラフプレーのたびに2階席から物が降ってくるのは困ったものだった。そのうち左右のイラン人観客の挑発に中指を見せつけ睨み返す日本人も出てきた。 後半21分、MF福西が至近距離から左足のボレーシュートを決めると、ゴールの喜びと同時に、わたしたちはハッと頭上後方を振り返る。案の定、ペットボトルやらアイスクリームやら、降ってくる降ってくる。もはや反射神経が作用するまでになってしまった。 しかしその9分後の後半30分、またもやイランFWハシェミアンのヘディングシュートが決まり、イランにリードを許してしまう。一斉に左右のイラン人観客から「ザマミロー!」の罵声の嵐とともに、上から物が……。 グラウンドには時折、韓国戦に使われたあの手製の爆竹が投げ込まれ、10万人の喚声にも劣らない爆音と黄色い噴煙を上げている。日本人席に落とされないことを祈るばかりだ。 日本人観客は90分間総立ちでの応援を続けたが、その願い届かず、イラン1点リードのまま試合終了を迎えた。 イラン人観客は右手でVサイン、左手で人差し指1本を掲げ、2-1で勝利したことを日本人観客に誇示して見せ、「ザマアミロー!」「参ったかコノヤロー!」と目を剥いて挑みかからんばかりである。自分たちの100分の1の人数にすぎない相手に対して、この容赦のなさ……。 帰りの道は大渋滞し、日本人会のバスはしばしば興奮冷めやらぬイラン人たちに取り囲まれた。相変わらず2-1と指で誇示するものもいれば、日本へ帰国するツアーバスと思ってにこやかに手を振ってくれるものもいる。 娯楽の少ないこの国にあって、サッカー観戦は丸一日を費やし日ごろの鬱憤を晴らすお祭りなのかもしれない。だとしたら、きっと最高の祭りになったことだろう。身を切る寒さのなか、帰る足もない彼らは、もうしばらく祭りの余韻に浸っていたいのに違いない。 その晩、空港で報道関係者や日本人サポーターたちの何人かに話を聞いたところ、試合結果はともかく、総合してイランという国に悪い印象を持ったという人には不思議と出会わなかった。もちろん上から物を投げることへの不快感や、柵越しに噛み付くように威嚇してくるイランの若者たちに「怖かった」と漏らす人も多い。しかし、アウエーでの試合やヨーロッパリーグなどの観戦経験のある60代の男性は、「あんなもんだよ。むしろきちんとしてたよ。イデオロギーとか、中国みたいな動員もなく、彼らはサッカーをわかった上でやってることだから、怖いとは思わなかったよ」と好印象を語った。0泊3日の弾丸ツアーではなく個人でやってきた29歳の男性は、「町は思ったより近代的で、空気も景色もきれいだった。バザールとかは正月休みでどこも閉まっていて残念だったけど。イラン人は友好的だったよ。試合前から『3-0』とか『2-0で俺たちが勝つ』とか結構あつかましい連中だなって思ったけど(笑)」。 今回初めてこの国を訪れた日本人たちは、サッカーを純粋に楽しみ、イラン代表選手の強さを冷静に受け止め、かすかに感じ取った異国の空気や手触りを胸に、日本へと戻っていった。カリカリしていたのは、イラン在住ゆえついイラン人に注文をつけてしまいがちなわたしだけだったのかもしれない。
No.11 イラン大統領選挙リポート『革命から26年・イラン人の選択』その1
1.選挙戦のハードル 6月15日、テヘラン市街中心部にあるテヘラン大学スタジアムで、改革派のモスタフィ・モーイン候補(56)の集会が開かれた。 モーイン候補は、かつてハタミ政権で科学技術相を勤めたが、ハタミ政権の保守派への妥協的な政策に抗議して辞任している。自由と民主化、男女同権、政治犯の釈放、そして憲法改正にまで踏み込む急進的な改革派として、現体制に不満を抱く階層から支持を得ている。イランの人口構成は25歳以下が5割、30歳以下ともなると7割を占める。1979年のイラン革命を知らず、革命の理念などどこ吹く風の若者にとって、政教一致のイスラム体制は窮屈なものでしかない。モーイン候補の選挙戦はこうした若い世代をターゲットに得票を伸ばそうとしていた。 スタジアムの周囲は交通規制が敷かれ、治安部隊や警官が厳重な警備にあたるなか、支持者が列を成してスタジアムへと向かう。若者、特に女性の姿がやはり目立つ。モーイン候補の選挙スローガン『ふるさとよ、もう一度おまえを建設する』の鉢巻きを締めた支持者で2万5000人収容のスタジアムは徐々に埋まりつつあり、これからサッカーの試合でも始まるかのような熱気につつまれていた。投票日を2日後に控え、これがモーイン候補の最大にして最後の選挙集会である。 ここまでにいたる道のりは決して平坦ではなかった。イランの選挙でしばしば取りざたされるのが護憲評議会の資格審査である。護憲評議会とは、国会から選ばれた法律家6人と最高指導者(現在はアリ・ハメネイ師)の裁量で選ばれた聖職者6人、計12人で構成される評議会で、国会で承認された法案をイスラム憲法に照らし合わせて審議し、拒否したり、国会に差し戻す権限を持つ。また、各種選挙の立候補者の事前審査も行ない、信仰心や現体制への忠誠度の如何によって、その資格を剥奪する権利も有する。2004年の第7回国会選挙では80名以上の現職改革派議員の立候補資格を剥奪し、その結果多くの改革派議員や改革を支持する国民が選挙をボイコットして保守派が「大勝利」したことは記憶に新しい。そして今回の第9代大統領選挙も例外ではなかった。5月10日から14日にかけて行われた立候補申請に全国から1014人(内女性89人)もの届け出があったが、護憲評議会の審査に通ったのはわずかに6人、そのなかにモーイン候補は含まれていなかったのである。 審査を通った6人のうち改革派の候補者は、保守派に妥協的との批判もある前国会議長のメフディ・キャルビ師(68)だけで、あとは前大統領アキバル・ハシェミ・ラフサンジャニ師(71)を除けば保守派で固められていた。改革派陣営から批判が噴出したのは言うまでもない。モーイン候補を推薦した改革派最大政党イラン・イスラム参加戦線は、モーイン氏の立候補資格剥奪の根拠を早急に示すよう護憲評議会に強く要求した。 こうした批判を受けて、翌23日、ハッダード・アーデル現国会議長が資格審査の再考を護憲評議会に促すよう、最高指導者アリ・ハメネイ師に嘆願。ハメネイ師の要請を受け、24日、護憲評議会はモーイン氏とモフセン・メフラリザーデ副大統領(49)の2名に選挙戦出馬資格を与えることをしぶしぶ承諾したのだった。 モーイン氏の出馬資格剥奪がハメネイ師の鶴の一声で覆された背景には、国民に失望感が広がるのを食い止め、これ以上の投票率悪化を防ぎたいとのラフサンジャニ師や一部の当局者の思惑があったものと思われる。しかし、このモーイン氏の復活劇が、のちのち改革派陣営に取り返しのつかない痛手をこうむらせるのである。 2.保守派の面々 こうして保守派4人と改革派3人、両派の中間に身を置くラフサンジャニ師の計8人による公式選挙活動が25日、スタートした。 保守派4人は以下の通りである。マフムード・アフマディネジャード現テヘラン市長(49)、アリ・ラリジャーニ前国営放送総裁(48)、モフセン・レザイ公益評議会書記、兼革命防衛隊司令官(51)、最後にモハンマドバーケル・カリバフ前警察長官(44)である。 保守派内で設立された調整委員会はこれまで再三にわたり、4人のなかから統一候補を擁立しようと試みていた。なぜなら、この4人のなかから大統領が選ばれ、改革派からの大統領誕生を阻止するのが至上命題だからだ。保守派はバスィジ(動員予備軍、つまり保守派傘下の民兵組織)や革命防衛軍、宗教諸財団、またそれらが運営する企業などの関係者を含め、全人口の1割にあたる約700万人の組織票を有していると言われる。4人もの候補が乱立しては、せっかくの組織票が意味をなさない。 ところが、保守4人組の足並みはまったく揃わず、統一候補擁立は難航した。4人とも革命防衛隊出身で、年齢も近く、多感な20代前後でイラン革命を経験しているなどの共通点からか、「あいつが降りないなら俺も降りない」という意地の張り合いが多々見受けられた。選挙へのスタンス、政策なども微妙に違っており、アフマディネジャード氏は故ホメイニ師の再来を思わせる原理主義的理想を掲げ、ラリジャーニ氏はイスラム回帰に重点を置きながらも幾分ソフトなイメージを、レザイ氏は現職が革命防衛隊司令官だけありタカ派的発言を好み、カリバフ氏は自らを『実践主義者』であり『改革をもたらす保守』と形容するなど政策面では他の3者よりリベラルな発言が目立った。 保守派が統一候補への合意を見ないまま、正式立候補届出期間がはじまる5月10日を迎えた。そこへ満を辞して現れたのがラフサンジャニ師であった。彼はそれまで各保守陣営から再三にわたり立候補を乞われながら、決断を先延ばしにしてきた。一方で国民には選挙への参加を強く促し、保守派各候補にはすみやかに統一候補を打ち立てるよう要請してきた。 ラフサンジャニ師は1989年から97年まで2期大統領を務め、イラクとの8年戦争により疲弊した国内経済の建て直しに力を注いだ。しかし政治的民主化には関心が薄く、そのうえ一族そろって大金持ちで、収賄の噂も耐えない。そのため2000年の国会選挙ではテヘラン区から出馬したものの最下位ぎりぎりで当選を果たしている。当選結果に不満だったのかすぐに国会議員を辞職、公益評議会議長(最高指導者により任免)という要職に就任した。公益評議会は、国会で通った法案に護憲評議会が拒否権を発動し、国会との話し合いが紛糾した際、両者の調停役を果たすという役割を担っている。最高指導者の意思を色濃く反映した護憲評議会と、国民の意思を反映した行政府および立法府、この両者を調停し、ときに超越する立場にある公益評議会の議長職であるラフサンジャニ師は、明らかに大統領を凌ぐ権力を保持しており、敢えて再び大統領の座に就く必要はないように思われる。その彼がいよいよ立候補を表明した。 「次の選挙では勝者は圧倒的な得票数で当選しなければならない」 こうした発言から、自身が立候補するのであれば、高い投票率と圧倒的な得票数で当選を果たしたいという意向が伺える。先の国会選挙での苦い記憶からかもしれない。国民の信託を負った大統領として、欧米を相手に大きな駆け引きに乗り出すのでは、との憶測も見られた 3.ボイコット派のねらい こうして役者が揃い、5月25日、イラン全土で8人の候補による選挙運動が幕を開けた。テヘランには各候補の選挙本部と、主だった広場に選挙事務所が設置され、運動員は夜陰にまぎれて交通標識や公共施設にまでポスターを貼り始めた。テレビや新聞各紙でも投票日に向けた選挙企画が始まった。 しかし、国民の関心はラフサンジャニ師の危惧を裏付けるものだった。 「投票? なんのために投票するのさ。もしするとしても投票用紙に横線一本引いて出してやるよ」。 市街の警備にあたっていた徴兵の若者は吐き捨てる。 「どいつもこいつも嘘つきさ。せめて俺だけは嘘つきになりたくないからね」 投票に行かないという人には、単なる無関心層と、積極的投票拒否者の2種類があった。後者はノーベル賞受賞者シリーン・エバディ女史をはじめ、人権活動家などが呼びかける投票ボイコットに賛同している。曰く、国民の信託を受けていない機関、役職がこの国の主権を握っている現状で、力のない大統領を選んでも意味がないというものだ。彼女たちの指す機関、役職とは、先に挙げた護憲評議会であり共益評議会であり専門家会議(選挙で選出されるがイスラム法学者に限られる)であり、国軍最高司令官(最高指導者により任免)、司法長官(最高指導者により任免)であり、また最高指導者自身(前途専門家会議で選出)である。 しかしそもそも、この国の統治理念が国民主権ではなく、神権統治であるということかを理解しなければならないだろう。忽然と姿を消した第12代目イマームの再臨を待つ間、神の代理として聖職者がこの世を統治すべしというのが故ホメイニ師の革命思想であり、現在のイラン・イスラム共和国の根幹を成している(イランの国教であるイスラム教シーア派は、預言者モハムマドの血筋を重視し、モハムマドのいとこで娘婿のアリーを初代イマームとし、彼の直系を代々イマーム職として崇めてきた。イマームは11台目まですべてが暗殺され、多数派のスンニー派に対する反権力、反体制の象徴となった。10世紀半ばに12代目イマームは忽然と姿を消したが、それは人間には感知できない存在と化しただけであり、いつかこの世の悪を駆逐するため「再臨」すると信じられている)。 積極的ボイコット派は、選挙での投票率を低下させることで、この国の統治者が国民の支持を得ていない、つまり合法的な統治者でないことを内外に明らかにし、国連をはじめとする諸外国に圧力をかけやすくし、最終的に国民主権を取り戻すのがねらいである。そこまでの事態に至らなくても、低い得票率で当選した大統領では、核交渉その他の席で欧米諸国に足元を見られる。ラフサンジャニ師がしきりに高い投票率と得票率にこだわるのはそのためだ。しかし、国営メディアの呼びかけにもかかわらず、国民の関心はいまだ高まる気配を見せなかった。
No.12 イラン大統領選挙リポート『革命から26年・イラン人の選択』その2

▲ラフサンジャニ師のポスターに「大泥棒」の落書き。

▲モーイン支持集会を後にするイブラヒム・ヤズディ元外務大臣。

▲「ヤーレ・ダベスターニー」を合唱するモーイン支持の若者。
4.ハタミ政権8年の成果 『新しい思考、新しい政府、新しい政策』 『新しい風、イラン人の明るい明日のため』 『実践主義者、改革者』 『国民と、新しい言葉で』 これらは改革派候補の選挙スローガンではない。上から順にレザイ、ラリジャーニ、カリバフ、アフマディネジャード各保守派候補のキャッチフレーズや選挙スローガンである。 彼らの政策は、『生活水準の改善』『雇用創出』『腐敗撲滅』『社会正義』の4点が判で押したように共通しているが、原理保守派のアフマディネジャード氏を除けば、内閣への女性採用やアメリカとの関係改善、外資の積極的導入など、およそ保守派に似つかわしくない政策も掲げている。なかでもカリバフ候補は『あらゆる組織を〈改革〉し、政治的、個人的〈自由〉を保護する』とまで言い切る。 あたかも改革派のようなこうした保守陣営の振る舞いに、当の改革派陣営は苛立ちを隠さず「国民を騙している」と非難する。しかし、裏を返せば保守派はこうした言説を唱えなければもはや選挙に勝てないという認識があるのだろう。先の国会選挙でも保守派は議席確保のため衛星アンテナの合法化やアメリカとの関係改善などを叫ばざるをえなかったという。 ハタミ時代の8年では何も変わらなかった、というイラン人は多い。しかし果たして本当にそうだろうか。ラフサンジャニ内閣時代に初めてイランを訪れた筆者は、コミテと呼ばれる宗教警察が市民の生活をかぎまわり、欧米文化の流入阻止に当局が血道を上げているイランを見た。しかし10年経った今、若者は周囲をはばからず大音響でロックを聞き、テヘラン中心街の映画館では最新のハリウッド映画が上映される。路上で、公園で、婚姻関係にない若い男女が手をつなぎ語らう。「そんなものは本当の自由とは呼べない。本当の自由というのは……」と難しい話を始める政治青年もいるが、たわいもない日常の喜びすら禁止され、こそこそ隠れてやらなければならなかった時代の閉塞感や窮屈さが、ハタミ政権下でどれだけ緩和されたことか。 イランの政治改革は、改革派が叫び、保守派がそれを握りつぶして自ら実行に移すと言われている。一見、改革派に力の限界があるように見えて、実はかれらの叫びが国民の意識を育て、のちのち保守派が実行に移さざるを得ない状況に追い込んでいるとは言えないだろうか。ハタミ時代の空気を吸ったものは、もはや時代が逆行してゆくことを許さないだろう。そして、不採算な国有企業の民営化、地下資源開発への積極的な外資導入、さらに選挙におけるより民主的なプロセスを謳った『選挙法改正法案』や、憲法における大統領の権限を保障する『大統領権限強化法案』(いずれの法案も護憲評議会により却下)の成立等、ハタミ時代が成しえなかった政治的、経済的改革を、いずれ保守派主導で進めていくことが予想される。 ▲ラフサンジャニ師のポスターに「大泥棒」の落書き。 5.キーパーソン 選挙活動が始まる以前から、イランでは政党や新聞社、NGOなど様々な機関が世論調査を行ない、立候補者の支持率を測ってきた。その結果はおおよそ似通ったもので、首位はラフサンジャニ師、2位を保守派のカリバフ候補と改革派モーイン候補が僅差で競うというものだ。しかし、首位のラフサンジャニ師が支持率30パーセントを越えることはなく、50パーセントの得票率がなければ当選できないことから、本番では1位と2位の決戦投票になるだろうと前々から予想されていた。 保守派のなかで抜きん出た人気を博しているカリバフ候補は、警察関係者は政治活動を行えないという法律により、警察長官を辞任して立候補に及んだ。長官在任中は警察のイメージ改善に努め、イランで初めて婦人警官を採用している。いかなる派閥、政党にも属さず、右でも左でもない『実践主義者』であると自称。最有力候補であるラフザンジャニ師との対決姿勢を立候補当初から明確にしている点など、他の保守系候補者と一線を画してきた。 カリバフ氏もモーイン氏も、最初の投票でラフサンジャニ師に勝つ見込みは薄い。しかし、決戦投票に及んだ場合、両者ともラフサンジャニ師の得票を上回る可能性が十二分にあった。というのは、決選投票になれば保守派700万の組織票がカリバフ氏に集中するの確実で、それに彼自身の人気票を加えればラフサンジャニ師を凌駕することも不可能ではない。モーイン氏の場合は、最初の投票をボイコットした層が決戦投票では重い腰を上げ、彼に一票を投じる可能性が高い。 ある学生はモーイン氏への投票動機をこう語った。 「モーインははっきり言って大統領の器じゃない。どうせラフサンジャニが当選するよ。でも僕はモーインに入れる。ラフサンジャニに高い得票率で当選してほしくないんだ。だっておかしいと思わないか? 国会選挙で最下位ギリギリで当選したやつがどうして大統領になれるんだ?」 ハタミ政権の改革が保守派の抵抗で実らなかったため、モーイン氏の改革路線にも懐疑的な若者は多い。それでもラフサンジャニ師よりは「マシ」と考える人はもっと多いに違いない。 そのラフサンジャニ師は、選挙を意識してか最近めっきりリベラルな発言が多くなった。ニューヨーク・タイムズのインタビューに対しては、『イスラムの教義では、本来個人の生活の領域にまで踏み込んではいけない。人々の生活の秘密まで暴いてはいけない。人々は心の安寧と安全を感じ、追求できるというのがイスラムであるべきだ』と答え、AFPに対しては『衛星放送ともインターネットともたたかうことはできない(衛星放送合法化やネット検閲に言及したもの)』と答え、イランでも大きく報道された。いつしか改革派寄りの新聞はラフサンジャニ師を保守派候補とは離し、改革派候補の写真と同列に並べるようになっていた。 もっとも、彼の発言を鵜呑みにするほどイラン人はバカではない。イラン学生通信のインタビューで『国民はあなたのことを大富豪だと思っているようですが』と訊かれ、『わたしはコム(テヘラン南部の宗教都市)に小さな土地を持っているだけですよ』と平然と答えるタヌキぶりである。 ただ、彼の経験と政治手腕だけは認めるという人は多い。自身のテクノクラートで石油省などを押さえているラフサンジャニ師は、地下資源開発や老朽化した石油施設のメンテナンスに対する外資の導入に積極的で、その点では経済自由化を求める改革派とともに、外資導入を嫌う保守派に対抗してきた。 イラン経済は石油収入に頼りすぎており、そうした構造から脱却すべきなのは言うまでもない。しかし、その石油収入さえアメリカのイラン・リビア制裁法によって危機的状況を招いている。自国の技術だけでは油田開発は進まず、アメリカ製のパーツ無しでは老朽化した石油施設も修繕できない。そのため自国内で必要な石油まで精製する余裕がなく、原油を海外に売って、精製されたものを買っているという現状だ。 アメリカの制裁は、イランへの航空機や部品の提供も禁止しており、日本やヨーロッパ諸国もアメリカ市場での制裁を恐れ、右にならえを決め込んでいる。そのためイランは、老朽化した旅客機などの保守点検を海外で行ない、闇市場での部品調達を余儀なくされている。国内線の航空機事故は多く、ハタミ大統領はこうしたアメリカの制裁措置は無辜な国民の命を奪うものだと強く非難している。WTOへの加盟申請も5月26日にようやく始まったが、これも過去9年にわたり23回もアメリカの拒否にあって実現しなかったものだ。 アメリカとの関係改善は、ラフサンジャニ師だけでなくほとんどの候補が政策のひとつとして挙げているが、欧米が交渉相手と見込んでいるのはラフサンジャニ師ただ1人だろう。 ▲モーイン支持集会を後にするイブラヒム・ヤズディ元外務大臣。 ▲「ヤーレ・ダベスターニー」を合唱するモーイン支持の若者。 6.モーイン陣営の闘い 『今回の参戦の主な目的は、自分たちの国が今どうなっているのか気づいていない50パーセントのイラン人を守るためである』 モーイン氏と、その支持母体であるイラン・イスラム参加戦線やイスラム革命戦士協会は、投票ボイコットではなく、あくまで選挙で勝ち、現体制下つまり憲法の枠内で政治を変えてゆくことを選んだ。かれらの指摘するポイントは、投票ボイコット派と同様、選挙で選ばれない個人、機関へ権力が集中していることへの批判である。 『護憲評議会の干渉と、行政が法を実行できないことが憲法の抱える問題である』 モーイン氏のこの発言は、ハタミ政権が断念した『大統領権限強化法案』の趣旨をまさしく受け継ぐものであるが、かれらは一歩進んで憲法のタブーにも言及する。 『自分はイスラム憲法に忠誠を誓うが、それは憲法に意見を持っていないということではない。憲法にはあいまいな点がいくつかある。そのひとつに、大統領の権力範囲とその責務とのつり合いの問題がある』 モーイン氏が〈急進的改革派〉と呼ばれる由縁は、イスラム憲法のタブーに果敢に挑戦するからだけでなく、『イラン国民は独裁者を必要としていない』などといった過激な発言にもよる。 モーイン候補の支持集会でボランティアをしていたコンピューター技師の青年(29)はモーイン氏のこうした発言も支持すると言った。 「宗教指導者は政治に関わらないでほしい。宗教的に暮らしたい人はそうし、そうでない人はそうする自由があるべきだ。父親たちの世代はイスラム革命の理念を望んだかもしれないが、俺たちは違うんだ」 イランでは、名指しで最高指導者を非難することは禁止されている。しかし、『独裁者』が誰を指しているかは明白だ。モーイン支持者はその報いを共有しながらここまで闘ってきた。 「みんな襲撃を恐れて早めに会場を出るのさ」 スタジアム入口で警備にあたっていたボランティア(モーイン支持者はすべてボランティア)の会社員男性(39)は、演説半ばで出口へと向かう人の流れを指差して言った。これまでモーイン候補の支持集会はたびたび暴徒の襲撃を受け、頭蓋骨骨折の大怪我を負った支持者もいる。この会社員も一昨日路上で襲われ、足に痛々しい傷を負っていた。 演説を終えたモーイン支持の有力者がスタジアムを去るときは、暴徒の襲撃から守るため、若者が手をつないで大きな人の輪でその有力者を囲って車まで送り届ける。 「今はまだ安全だ。集会が終わって外へ出たら、気をつけた方がいい」 スタジアムの外では無数の警官が警備についていたが、「やつらはあてにできない」という。 モーイン候補の演説で集会が幕を下ろすと、観客席にいた支持者がグラウンドに降り、大騒ぎになった。かれらは手と手をつなぎ、気勢を上げる。誰かが歌い始めた歌が、いつしか大合唱に変わった。 学友よ 君は僕らと共にある 鞭が僕らを打ち据え、嗚咽と痛みがこみ上げる 黒板から僕と君の名は消されてしまった 不正と弾圧の手は残り、僕らの身には未開の荒地が広がるだけだ 僕らはみんな雑草だ 善人のままでは死んだも同然 僕と君の手でこのカーテンを引き裂かなくてはならない 僕と君以外の誰がこの痛みを癒せるというのか 学友よ 『ヤーレ・ダベスターニー』という、革命前から若者たちに歌い継がれている歌で、今は反体制を象徴する歌となっている。警官が立ち入らないこのスタジアムのなかで、かれらはいつまでも繰り返し歌い続けた。 スタジアムの外に出ると、治安部隊の兵士が警棒片手にずらっと待ち構えていた。その警棒は必ずしも暴徒襲撃に備えたものではないことがまもなく判明する。集会のあったスタジアムからまっすぐ南へ向かえばエンゲラーブ広場があり、その道は学生デモのお決まりのコースなのである。治安部隊は南へ向かう若者たちを途中の十字路でさえぎり、エンゲラーブ広場へ向わないよう左折を迫る。抵抗を示す者には容赦なく警棒が飛ぶ。そのたびに女学生が「治安部隊は味方!味方!」と声を揃える。 この日、当選の可能性が薄いといわれた保守派のモフセン・レザイ候補が立候補を辞退した。残る7人の候補はそれぞれイラン全土に散らばり、最後の演説とともに長かった選挙運動に幕を下ろした。
No.13 イラン大統領選挙リポート『革命から26年・イラン人の選択』その3

▲テヘラン大学前の路上に設けられた投票箱。

▲決戦投票前、路上集会で激論を交わすラフサンジャニ支持者とアフマディネジャド支持者。
7.改革派、敗れる 6月18日午前9時、開票結果を待つモーイン候補の選挙本部はどんよりと重苦しい空気に包まれていた。選挙運動員や新聞記者たちが集まっていたが、昨夜は誰も一睡もしていない。チャイとヌンとチーズだけの簡単な朝食をつまみながら、これまでの開票結果について疲れた表情で議論を交わしていた。 まだ半分ほどしか開票されていなかったが、結果は思いがけぬものだった。首位は予想通りラフサンジャニ前大統領だが、2位を争そうと思われていたモーイン候補とカリバフ候補が4位、5位と低迷し、これまでの世論調査でほとんど上位に登ったことのないキャルビ師とアフマディネジャード候補が接戦で首位のラフサンジャニ師を追い上げていた。 「なぜなのかわからない。アフマディネジャードは何かしたかもしれない。例えば偽造身分証を使って複数回投票させたり、もともと投票箱に彼の票を仕込んでおいたり、もちろん何の証拠もないよ。でも保守派候補のなかでさえ彼の人気は低かったんだ。やっぱりこの結果はおかしい」 モーイン支持の日刊紙「エクバル」の若い記者は憤る。 「国民は体制が変わることを望んでいたはずだ。この選挙の結果によって、特にアフマディネジャードが当選するようなことにでもなれば、誰もがおかしいと感じ、より一層の体制変換を望むだろう」 その日に乗ったタクシーの運転手もモーイン候補に投票していた。しかし、彼はモーイン候補の『独裁者は要らない』といった発言などは知らなかった。はたしてモーイン候補やその支持者の声はどこまで普通の人々の耳に届いていたのだろうか。 その日の夕方、開票結果が明らかになった。投票率は62%と予想を上回り、得票率はラフサンジャニ師21.8%で首位、保守強硬派の現テヘラン市長アフマドィネジャード氏20.1%、穏健改革派のキャルビ前国会議長18・2%、そして上位3位を占めると予想されたカリバフ前警察庁長官と改革派のモーイン元科学相はそれぞれ14.5%と14・3%に留まった。 キャルビ師とモーイン氏の両方が決戦投票行きを逃したことで、改革派陣営の落胆は大きい。特に終盤で突如2位から3位に転落したキャルビ陣営の落胆と疑心は激しく、『票の入れ替えがあった』と不正を訴え、最高指導者ハメネイ師に票の再集計を求める要請を出した。 両者は声明のなかで、アフマディネジャード氏に近い保守派動員組織バスィジや革命防衛隊、また保守派寄りの選挙監視機構の干渉があったと指摘。モーイン氏も『弾圧』と『ファシズムの危険』があると警告した。 護憲評議会は20日、キャルビ陣営からの要請を受け入れ、テヘランなど主要4都市の投票箱を無作為に100個選び、その開票結果を調査した。しかし、不正行為の証拠となるようなものは何も見つからず、これによりラフサンジャニ師とアフマディネジャード氏の決戦投票が24日に行なわれることが決まったのだった。 日刊紙「エクバル」を訪ねると、イラン・イスラム参加戦線・党中央委員会委員長のハディ・ヘイダリ氏が迎えてくれた。建物には受付の男性と、他1名しか見当たらない。「エクバル紙」と、キャルビ師寄りの日刊紙「オフトーベ・ヤズド」は昨日発禁処分を受けていた。キャルビ師が最高指導者ハメネイ師に出した、票の再集計を嘆願する手紙に、ハメネイ師の息子が特定の候補を支持していたことへの批判が含まれ、それを全文掲載したかどで発禁処分を食ったのだ。発行再開の目処はまだ立っていないという。 「改革派は(ラフサンジャニ師を含めて)全部で1600万票、保守派は1200万票。改革を求める人間の方が多いことははっきりしているんです。結局、彼ら保守派はアフマディネジャードに組織票を集めることに成功したんですよ」 改革派はキャルビ師とモーイン候補で票が真っ二つに割れてしまった。一方、保守派はアフマディネジャード氏に票を集めることに最後の最後で成功した。その方法はバスィジや革命防衛隊を全国に放って金品をばらまいたとキャルビ師が批判しているが、真実は明らかではない。だが、仮にそうした不正があったとしても、保守派1200万票は組織票700万票に比べて多すぎる。 「我々は決戦投票に向け、党を挙げてラフサンジャニ師を支持することに決めました。もちろん、本心じゃない。でも、アフマディネジャードを当選させるわけにはいかないんです」 ―ラフサンジャニ師が当選し、もし彼の内閣にモーイン氏や参加戦線党首レザー・ハタミ氏が招かれたら、受けますか? 「受けますよ。党をあげて支援する以上、ラフサンジャニはそうせざるを得ないでしょう。政治ですから」 経済自由化を求めるラフサンジャニ師を大統領に、改革派からは大物人権派が閣僚に加わる。あるいはそれも悪くないかもしれない。 8.民衆の心理 『我々の究極のゴールは、すべてのイスラム規定が固く守られるイスラム政権を樹立することです』 アフマディネジャード候補は選挙戦のさなか、ひたすらイスラムの価値、イスラム革命の理念を説き続けた。曰く、『イスラムは完全な宗教である』『イスラムこそが真実の繁栄を導く』『イスラム政府の義務は正義の確立』……。具体性に乏しかったが、正義と平等というメッセージは、貧困層の胸にダイレクトに届いていたのかもしれない。特に記憶に残ったのは、『人は貧困には耐えられるが、差別と不公平には耐えられない』という言葉だ。 26年前のイラン・イスラム革命は、もともとは王制打倒が民衆の目的であり、イスラム政権樹立は革命後の権力闘争の産物だと言われる。当時はオイルショックによって産油国イランに未曾有の好景気が訪れていた。社会は急速に財を成してゆく者と、その機会すら与えられない大多数の貧困層とに二分された。貧困層は、時代に取り残される孤独と、アメリカからもたらされる俗悪な文化への敵意、そして自分たちの伝統と文化が失われてゆく不安を募らせ、革命へのエネルギーへと昇華させていったのだ。 テヘラン中心街ハフテ・ティール広場そばのアフマディネジャード選挙本部を訪ねてみた。喪服のように上下黒で固めた男達に混じって僧侶の出入りも激しい。テヘラン州の選挙対策責任者レザー・ハー氏が答えてくれた。 「これまでの政府は石油やガスの売買だけに熱心で、それによって潤うのはわずか2500人程度の関係者にすぎなかった。アフマディネジャードの政府は全人口7000万人のための、民衆の政府なのです。石油やガスは神からの贈り物なので、すべての国民にその利益を還元しなければなりません」 ―どのように還元するのですか? 「例えば、国民がいま必要としているものをよく検討し、そこに投資します。特に、若者が抱える諸問題の解決が先決です。一例ですが、イランには5100万ヘクタールの耕作可能な土地がありますが、実際に開墾されているのはわずか900万ヘクタールにすぎません。残り80%にあたる4200万ヘクタールを開墾する事業に石油収入と無職の若者を投入するという案もあります」 これまで一次投票でアフマディネジャード氏に投票したという若者に会うと、必ず「アフマディネジャードはどんな人?」と私は訊いた。返ってくる答えは決まって次のようなものだった。 「いい人さ。テヘラン市長なのに生活は質素で、家も下町にあって小さくて、僕らと変わらない生活をしている。お昼ご飯はいつもお弁当を自宅から持ってくるんだ」 下町の宗教的な家庭で育った子供たちでなく、繁華街でたむろして、女の子が通るたびに冷やかしているような悪がきでさえこう答える。 アフマディネジャード候補は「民衆」の心をうまく捕らえていた。 ▲決戦投票前、路上集会で激論を交わすラフサンジャニ 支持者とアフマディネジャド支持者。 9.希望の灯 22日、日刊紙「シャルク」は決戦投票を翌々日に控えたその日の朝刊で、改革派支持派に街へ出て議論しようと呼びかけた。開始は夕方6時、場所はテヘラン市街の5つの広場が指定された。 ヴァリアスル広場ではほぼ時間通り、6時過ぎから人が集まり始めた。どこかで議論が始まると周囲に人垣ができ、その人垣の誰かと誰かがまた議論を始める。あちこちに10人程の人垣が自然に生まれ、それを見た通行人がまた集まり、いつしか広場の東と西にそれぞれ500人は下らない群集が出来上がっていた。「シャルク」紙が紙上で呼びかけたのはラフサンジャニ師とモーイン氏の支持者だけだったが、そこにはほぼ同じ数のアフマディネジャード支持者までが集まり、さらに議論をエスカレートさせていた。公式な政治集会ではなく、新聞社が呼びかけた、広場という公共スペースでの自由集会だからこそ成り立つ光景なのだろう。互いにまったく思想の違うもの同士が、いたるところで、誰はばかることなく自分の信条、国の将来について話し合い、思いを吐露している。それは感動的な光景だった。 外国人である私を見つけて話しかけてきたのは21歳の学生だ。 「僕は1回目の投票には行かなかったけど、決戦投票は行くよ。アフマディネジャードが大統領になったら26年前に逆戻りだからね」 24歳の新聞記者の女性も真剣な顔で言う。 「あたしはアフマディネジャードが本当に怖い。ラフサンジャニは大嫌いだけど、最悪よりはマシな選択だわ」 それを聞いた青年が返す。 「静かで、穏やかな生活が一番じゃないか。僕は宗教と伝統を大事にしたい」 夜9時を過ぎても激論集会は終わらなかった。始めるのも、終わらせるのも、人々の意思である。今日の集会が終わっても、今日の日のようなイランがずっと続いていくことを祈りたい。 24日、決戦投票が行なわれ、翌日開票結果が明らかになった。 総投票数27,959,254票 投票率56% マフムード・アフマディネジャード 17,248,782票 得票率61.6% アキバル・ハシェミ・ラフサンジャニ 10,043,489票 得票率 35.9% アフマディネジャード政権は9月より始動する。 26年前、故ホメイニ師が弱者、被抑圧者の救済を掲げて立ち上げた革命政権は、その翌年のイラクのサダム・フセインによるイラン侵攻で急遽戦時体制を余儀なくされ、革命の理想は置き去りにしたまま8年の戦争に突入した。戦後の復興を終え、体制が安定した今こそ革命の理想をよみがえらせようというのがアフマディネジャード氏の本意であるなら、それは興味深い試みである。4年後の選挙が答えを用意しているだろう。
No.14 イラン核問題 情報操作といじめの構造



2月初旬、前期試験が終わったばかりの閑散としたキャンパスで、偶然クラスメートのひとりハサンと出くわした。彼は私を見ると、にやりと笑って口を開いた。 「サラーム、元気か? 昨日、日本は賛成票を入れてくれたなあ。日本人ってのは、ちょっと昔に原爆落とされたこと、もう忘れちまってるのか?」 昨日2月4日のIAEA(国際原子力機関)の緊急理事会において、日本を含む27ヵ国がイラン核問題の安全保障理事会への付託に賛成票を投じた。「安保理への付託」という言葉は、3年前アメリカによるイラク開戦に道を開いた安保理決議1441を連想させるように、これまで数年にわたってイランへの脅し文句であった。それがとうとう現実になってしまった。もちろん、そこで即イラン攻撃が審議されるわけではない。まずは経済制裁からじわじわと始めることになるだろう。いずれにしても、これまでIAEAの枠内の問題であったイラン核問題が、安保理という国際舞台で料理されることになったのは、イランにとっては致命傷だ。IAEAでの協定はけっして義務ではないが、安保理での決議は、違反すればすなわち国際法違反として制裁の対象となる。 「いいや。日本人は原爆を落とされたことを忘れてはいないよ。戦争を早く終わらせるためだったとアメリカは言うけど、結局は実験材料にされたんだ。それは1つの歴史的事実として忘れないけど、いつまでも恨んでいたって仕方ない」 私がそう言うと、彼は鼻を鳴らすようにこう答えた。 「そうだな。それに、原爆2発も打ち込まれて戦争にも負けて、国は米軍基地でいっぱいだけど、最後は経済で勝ったんだしな」 彼が言いたいことはわかっていた。この世界には正義もくそもない。アメリカの言いなりになって繁栄するか、逆らって潰されるかだ。どんなにイランが正義を唱えようと、西側のメディアが伝えるのは、「世界の秩序を守るアメリカがならず者のテロ国家による核兵器入手を懸命に阻止しようとしている」という構図ばかりである。 イランの石油事情 ハサンは続けた。 「イランは核エネルギーの技術を獲得する権利がある。核兵器が欲しいって言ってるんじゃない。どうしてイランだけが持っちゃいけないんだ? イランの石油はあと40年ほどで枯渇してしまう。天然ガスはまだたっぷりあるけど、石油はできるだけ節約していかなければならない。そのためにも原子力発電が必要なんだ」 イランの石油埋蔵量は、1999年時点で930億バレルとされている。採掘量は1日379万バレルほどなので、単純計算すれば約60年後に尽きることになるが、人口の増加など時とともにエネルギー消費は増すと考えれば、40~50年後に枯渇するという計算も間違いではない。この事実は、国家財政を原油輸出による収入に頼りきっているイランにとって火急の懸案事項であり、代替エネルギーの確立とともに、石油の国内消費の節約が求められている。 イランの抱える「石油問題」についてもう少し説明したい。まず、イランは世界第4位の原油輸出国でありながら、国内消費用の石油を大量に外国から輸入している。原油はたっぷりと出るが、精油施設の不足と老朽化のため、国内で精製された石油だけでは国内消費をまかなえず、わざわざ海外から国際標準価格で買い入れているのである。それをリッター10円ほどの国内価格で流通させるために、せっかくの原油収入を補助金として投入することになる。目下イラン政府の目標は「石油輸入中止」であり、そのために国内の精油施設の増加や改良とともに、国内消費を抑えるため正月明け(イラン正月3月21日)にはいよいよガソリンの配給制を始めることが決まっている。 こうした背景のもと、イランは石油の代替エネルギーとして原子力発電を求めているわけだが、いつの間にか世界では「イランは核兵器製造を目論んでいる」という印象が先走っている。 伝えられないイランの主張と権利 では、なぜ「イランは核兵器製造を目論んでいる」という欧米の主張がまかり通っているのか。そこには、明らかにマスコミの意図的な報道の仕方がある。 核問題に登場する専門用語は、一般の人には難しい。例えば、争点となっている「ウラン濃縮」という作業は何を指しており、実際どれほど危険なものなのか。そうした説明を抜きにして、「ウラン濃縮活動は国際社会への挑戦である」とか、「イランが核兵器製造につながるウラン濃縮を諦めないかぎり―」などというアメリカ政府ばりの記事を載せて、アメリカのイラン戦略の一翼を担おうとしている日本のメディアのなんと多いことか。 まず、ウラン濃縮とは何か。天然ウランの中で、原子力発電や核兵器に利用されるウラン235の比重を高めることである。天然ウランを遠心分離器に入れると、軽いウラン235だけが中心付近に残る。この作業を繰り返してウラン235の比重を高めることが、いわゆるウラン濃縮作業である。 ウラン235は濃縮比率に応じて、低濃縮ウラン(5%以下)、高濃縮ウラン(20%以上)、そして兵器級ウラン(90%以上)の3つに分かれる。原子力発電に必要なのは低濃縮ウランであり、イラン政府が求めているのはこれである。IAEA(国際原子力機関)の監視の下で低濃縮ウランによる核エネルギーの平和利用(つまり原子力発電)を行なうことは、世界のあらゆる国に認められた権利であり、当然、日本もIAEAの監視下でこの低濃縮作業を行なっている。イランもまた、原発のための低濃縮作業だけが目的であり、ひそかに高濃縮を行なわないようIAEAの監視を受けると表明しているにもかかわらず、世界中からこれほどの非難と圧力を受けているのはなぜか。アメリカと敵対しているからである。 アメリカの言い分は、「低濃縮の技術を獲得すれば、いずれ高濃縮、そして兵器級ウランを獲得することも可能だ」とか、「イランは高濃縮の実験を密かに行おうとしている」といったものだが、長年にわたりイランの核開発を監視してきたIAEAは、そういった証拠は一切ないと退けている。にもかかわらず、こうしたいわれなき非難ばかりを流す報道が巷にあふれ、イランの主張と権利に関しては沈黙が守られているのが現状である。 無駄だった3ヵ国協議 先に述べたように、イラン側の主張は、発電用のための低濃縮作業を自国で行ない、それ以上の濃縮作業を行なわないようIAEA(国際原子力機関)の監視を受け続ける、というものだ。それを認めないアメリカがイランを軍事攻撃することを恐れたイギリス、ドイツ、フランスの欧州3ヵ国は、何とかイランに核開発を放棄させようと、2003年以来、独自にイランと交渉を重ねてきた。 この欧州3ヵ国との交渉のさなか、2004年11月、イランは一時高まった安保理付託への危機を回避するため、一切の濃縮活動を停止することに合意した。この停止は、しかし、イランと欧州3ヵ国が何か恒久的な合意事項に達するまでの一時的な措置であり、交渉はここからが本番となる。この交渉期間におけるメディアの報道は巧みである。たとえば、ほとんどの記事で見られるのが、「ヨーロッパ側は○○のような提案をしたが、イランは受け入れなかった」とか、「ヨーロッパ側は○○するように強く要請したが、イランはその姿勢を変えなかった」という修辞法が取られ、常に「ヨーロッパ側が説得と努力を重ね、(イランのために)外交的解決を目指しているにもかかわらず、イラン側は自らの主張に固執し、強硬姿勢を崩さない」という印象を読む者に与えている。そしてそれをイランの"瀬戸際外交"と名づけ、まるでイランがより大きな経済的見返りを得るために欧州3ヵ国を"牽制"し、"揺さぶり"をかけ、わざと交渉を長引かせているかのような書き方をするメディアもある。明らかに読む者に北朝鮮を想起させようとの意図が感じられる。 本来、この件に関する報道は、イランが何を求め、それに対して英独仏がどのような妥協案を提示したか、というものであるべきだ。なぜなら、そもそもイラン側の主張には何も後ろめたいものはなく、それをヨーロッパ側が譲歩させようとしているのだから。 交渉の争点は、単純である。イラン側の主張は「核燃料(発電用低濃縮ウラン)とその技術の自国での開発」。それに対してアメリカの意を酌む英独仏は、「イランの核開発の一切の放棄」を求め、見返りとして経済援助やWTOへの加盟促進などを申し出た。この交渉が合意を見ないことは、双方の要求のあまりの食い違いから明らかである。イランが「時間の無駄だった」と憤るのも無理はない。 2006年1月10日、業を煮やしたイランは、欧州3ヵ国との合意を破棄し、研究用のウラン濃縮作業を再開する。それが引き金となり、去る2月4日の安保理付託となったわけだが、日本のメディアは「イランは協定違反をしたのだから、安保理付託はやむをえない」→「このようにイランは違反を繰り返してきた」→「だから核兵器開発を疑われても仕方がない」という論法の大合唱である。この濃縮停止の協定が合意された時、イラン側が口をすっぱくして「これは自主的な措置で、停止する研究活動の内容や期間はイランが独自に決定する」と述べていたにもかかわらず。 最近になってロシアが、核燃料をロシアで製造し、それを提供しましょうと申し出た。あくまで濃縮はロシア側で行ない、濃縮技術のノウハウまではイラン側には伝えず、核燃料だけを渡す、というものだ。メディアの論評の中には、「イランの核開発が本当に平和利用が目的なら、この提案を受け入れるはずだ」と決め付けているものがある。しかし、技術を与えない、ということはつまり、先進国が後進国に後進性を強いるということである。イランはこの人をバカにしたような提案を、しかし安保理付託が決まった今、一蹴することができないでいる。 欧米ロシアに翻弄されたイラン近代史 エネルギー政策は国の根幹である。たとえ積年の信頼関係がある友好国でも、自国のエネルギー政策をその国の手に握られてしまうことは躊躇される。いわんや、相手は欧米ロシアである。 イランの近代史は、欧米ロシアによる裏切りと搾取の歴史である。ヨーロッパ列強がイランに政治的介入を始めたのは18世紀後半から20世紀初頭に王制を敷いたカージャール朝の時代だ。当時、ヨーロッパで戦争が起こるたびに、どの国も要衝の地にあったイランと同盟を結びたがった。だが、彼らはイランを利用するだけして、自分の都合が変わると、イランへの約束の支援を中止したり、同盟を破棄したりした。 とりわけイギリスとロシアがイランの商業的利権を奪い合い、イランを半植民地化していった。国民には不人気で脆弱この上ないカージャール朝政府だったが、農民の反乱が起こればイギリスとロシアが鎮圧することになっていた。互いに敵対していた英露だったが、イランに関しては利害の一致から、協力してカージャール朝政府の延命に努め、甘い汁を吸い続けた。 1908年、イランで初めての石油が発見され、イギリスによって設立されたアングロ・ペルシアン石油会社にその利権は委ねられた。石油の利権にロシアもまた注目し始めた頃、イギリスはさらなる石油利権の確保のため、当時コサック旅団長であったレザー・ハーンにクーデターを起こさせ、カージャール朝を廃し、パハレヴィー王朝を創設させる。しかし、民族主義者であったレザー・ハーンはその後、英露の干渉に抵抗するようになり、ドイツへと心情的に傾斜していく。1941年、英露はイラン国内のドイツ人勢力を駆逐するという名目でイランに連合軍を進駐させ、レザー・ハーンを廃位に追い込んだ。しかし、真の目的はイラン国内の石油利権をドイツに奪われないためだった。 第2次大戦後、主権の回復と国内経済の復興のためには、イギリスに握られている石油産業を取り戻すことが必要である、という意識がイラン国民の間に広がり始める。それは瞬く間に国民的運動のうねりとなり、1950年、モハンマド・モサッデク議員を中心に進められた石油国有化に関する法案がついに満場一致で議会を通過する。同年、モサッデクが首相に選出されるとともに、アングロ・イラニアン石油会社(アングロ・ペルシアン石油会社の後身)の国有化が宣言された。 こうしてイランは自国の石油資源を自国の権利として取り戻すことに成功したが、喜びも束の間、怒ったイギリスは世界中にイランの石油を買わないよう圧力をかけ、国際司法裁判所に訴えるとともに、国連安保理にも提訴した。西側諸国はイランの石油をボイコットし、イランは危機的な財政難に陥る。そして1953年、これまでイギリスが独占していたイランの石油利権に割り込む最大のチャンスと見たアメリカが、CIAの画策によって国王派にクーデターを起こさせ、モサッデク政権を転覆させてしまう。こうして、わずか3年ほどで、イランの独立と民族主義の象徴であった石油国有化の夢は、大国の思惑に踏みにじられる結果に終わった。その後、石油資源は欧米メジャーの管理下に置かれるとともに、アメリカの保護を得た国王による独裁政治が、1979年のイラン・イスラム革命まで続くことになる。 イラン・イスラム革命によって、イランにおける一切の権益を失ったアメリカは、現在まで一貫してイラン敵視政策をとり続けている。クリントン政権はイラン・リビア制裁法(イランおよびリビアと多額の商取引をした外国企業を米国市場で制裁する法律)を発動し、イランの主たる輸出品である石油や天然ガスなどのエネルギー分野でイランと新たな契約を結ぼうとする国に圧力をかけ、契約を破棄させてきた。これまで幾度となく中国とロシアがイランに原子炉の建設を約束してきたが、アメリカによる圧力でことごとく中断された。日本が2000年に開発権益を獲得したアーザーデガーン油田も、開発が決まれば日本から巨額な投資が流れるとして、ブッシュ政権は「核拡散防止とテロ対策」の面から日本に強く中断を求めている。最近ようやく契約がまとまりつつあったインド・パキスタンへの天然ガスパイプラインの建設計画も、「イランに対して何らかの経済制裁が発動された場合、交渉継続を断念するつもりだ」とパキスタン首相が発言し、イラン政府はこの契約がいかに彼らにとって有益なものであるかを説明するのに必死である。 このような歴史体験を持つイランに、欧米ロシアは、自分たちを信用し、核技術を完全に放棄するよう迫っているのである。ロシアが、今後、イランとの関係悪化やアメリカからの圧力で、核燃料の提供を突然破棄しないという保証がどこにあるだろう。その時ヨーロッパ諸国がイラン側に立ち、イランが納得する代替案を提示してくれる保証など、あるはずもない。 日本の姿勢を問う 安全保障理事会への付託によって、これまでアメリカが個人的に世界に対して圧力をかけてきたイランへの経済制裁を、今度は国際的な取り決めとして実行できるようになる。イランの対応次第では、軍事攻撃もいずれ検討されるかもしれない。その前にアメリカかイスラエルが単独でイランを爆撃する可能性も十分にある。 「アメリカの攻撃? 怖くないよ。攻められたらもちろん戦うよ」 サーズ奏者の芸術学部生が静かに答える。 30歳のタクシードライバーは、 「国内の弾圧や革命に巻き込まれるのはごめんだけど、イラン人のことなんか何も知らないアメリカに攻められて、統治されるのはごめんだね。そんなときは戦うよ」 情報統制の厳しいイランだが、こと核問題に関しては、イラン人は世界中のどこよりも正しい情報をメディアから得ていると言えるかもしれない。イラン政府が核兵器保有を意図しているかどうかはイラン人の間でも意見が分かれるが、少なくとも現段階では核エネルギーが焦点である。その権利を奪うためにアメリカが攻めてくるというのであれば、戦わないわけにはいかない。 イランの若者の多くが、アメリカの音楽、映画、ファッション、そして自由にあこがれ、現体制の窮屈さに辟易としている。だからといって、ひとたびアメリカが爆撃を始めたら、国民がこぞって体制転覆のために蜂起するなどと、アメリカが誤解していないことを祈るばかりだ。 一方日本は、イラン核問題の安保理付託に際し、新聞各紙は社説などで、「最悪の事態(イラン空爆のことか、それともイランによる原油輸出停止のことか)を招かないよう、イランは自重すべきだ」とアメリカの恫喝そのままの論法で、本末転倒なイラン批判を展開している。 いつだったか、川口順子外相がハタミ政権のハラジ外相と会談した際、こんなやりとりがあった。川口外相がIAEAの非難決議をイランは素直に受け入れるべきだと忠告したのに対し、ハラジ外相は「これは国のプライドの問題なのです」と政治家らしからぬ返答をしたのだ。ひょっとしたらハラジ外相は、日本人なら理解してくれるかもしれないと思って、こんな言葉を吐いたのではないか。その時ふと、そう思った。 先に述べたモサッデク政権による石油国有化が実現したあと、イギリスによる圧力で石油の買い手が見つからず窮していたイランに、日本は手を差し伸べた数少ない国の1つだった。当時、イランが国の独立をエネルギーの国有化に見出したように、日本政府もまた、戦後アメリカから買い続けていた原油を、自前で調達するようになるのが真の独立だと考えていた。そんな日本が目を付けたのが、買い手が付かず安かったイラン原油である。イギリスの強い反対を押し切り、出光石油のタンカー日章丸が神戸港を発ったのは1953年3月。当時イギリスは、イランの原油を購入したタンカーを片っ端から海上で拿捕しており、日章丸はイギリス統治下のシンガポールを避け、遠回りを余儀なくされながらも、翌月、イランのアーバーダン港に無事入港した。日章丸入港のニュースにイラン国中が沸いたという。 イギリスは日本政府に激しく抗議するとともに、東京地裁に提訴した。日本政府はこれは一私企業の取引であるという態度を貫き、東京地裁もまた、イランの石油国有化の正当性を擁護し、イギリスの訴えを退けたという。 今、小泉政権はもちろん、マスメディアまでが、アメリカの意に反してイランの正義を代弁することなど、思いも及ばないらしい。 「日本は経済でアメリカを倒した」 この言葉が、賞賛から皮肉へと急速に変わっていくのを、ひしひしと感じる今日このごろである。
No.15 イラン核問題②「強硬派」政府の巧みな舵取り

1.喜びに沸くイラン 4月10日、イランのアフマディネジャード大統領は国民に向け、「明日、大変喜ばしいニュースを皆様にお伝えします」と発表した。その日はきっと、「喜ばしいニュースって何だ? もったいぶりやがって」と家庭や職場、またホワイトハウスで話題にのぼったに違いない。そして翌日、イラン国民と世界中が注目を集める最高の舞台で、アフマディネジャード大統領は高らかに宣言したのである。「イランはとうとう3.6パーセントの低濃縮ウランの製造に成功しました!」 その晩の国営ラジオのニュースでは、「人々は広場に繰り出したり、電話をしあったりして、ともに喜びを分かち合いました。また、街路ではお祝いのお菓子を配る市民の姿も見られた」などと報じられた。大袈裟な……、と笑ってラジオを聴いた翌日、私もそのお菓子をもらうことになった。 「先進技術の獲得」に関するニュースを、イランの国営メディアは好んで流す。国威高揚のためは勿論だが、おそらく国民もこの手のニュースは好きなのだろう。イランを含めたイスラム諸国では、なぜ現代かくもイスラム世界は西洋キリスト教世界に遅れをとっているのか、というテーマがかなり重要なテーマとして議論されている。実際、中世まで、イスラム世界の科学の獲得と蓄積に対する熱意はすさまじく、文明としてはキリスト教世界を凌駕していたのである。かつて世界帝国を築いた栄光のペルシャの歴史を持ちながら、今では石油だけが頼りの途上国に甘んじるばかりか、「悪の枢軸」などと西側から後ろ指をさされている現状に憤懣やるかたない思いを抱いているイラン人は多い。ムスリムとして、またペルシャの末裔として二重の劣等感を抱えたイラン人が、このウラン濃縮技術獲得のニュースに小躍りするのも無理はない。しかも、これだけ国際的な圧力を受け、西側の手助けもなく獲得した最先端技術である。 その後、国内メディアからは、「核技術はその国の発展の度合を測るものである」とか、「核技術は先進国と途上国を隔てる指標である」といった言葉までが聞かれた。そのせいか、テヘランで町の声を拾ってみても、「核技術万歳」という回答ばかりが耳につく。 「イランにとって、核のエネルギーは石油に代わるエネルギー源として必要だよ。何より経済的だ。施設を整えて技術を獲得するまでは金も時間もかかるけど、その過程を終えればいつまでも安く安定してエネルギーを供給できる」コンピューター機器販売店の男性(40歳)は歯切れ良く答えた。 このウラン濃縮成功のニュースは、国連安保理がイランに対し、4月28日までにウラン濃縮に関する作業を一切中止するよう求めている最中の出来事だった。 「中止なんてしないよ。ロシアと中国はイランの味方だし、イギリスも中立に近い。安保理に付託されても問題ない」会社員の男性(35歳)は答えた。濃縮成功という既成事実と国民の支持を得て、イラン核開発は加速し始めていた。 2.風向きの変わったイラン情勢 4月15日、テヘラン市内で催されていたイラン石油博覧会が盛況のうちに閉幕した。閉幕後の会場付近は、テヘランでもめったに見かけないネクタイ姿の外国人ビジネスマンや報道関係者であふれ、その中を1台の大型バスが他を押しのけるように会場を後にした。中国人関係者を乗せた貸切バスである。時あたかも、アメリカ議会がイランのエネルギー分野に巨額の投資をした外国企業に米国政府が経済制裁を加えることを義務づけるイラン自由支援法案の可決を目指している最中だった。 一方、ウラン濃縮に成功したイラン政府は、度重なる西側からの中止要請や、空爆や小型核兵器の使用も辞さないというアメリカの「心理戦」に屈することもなく、とうとう濃縮作業停止期限である4月28日を迎えた。 この日、IAEA国際原子力機関のエルバラダイ事務局長は国連安保理に報告書を提出した。この報告書の内容如何によっては、安保理における今後のイラン核問題へ対応が決まる。8ページにわたる報告書には、イランが安保理やIAEAの要請を無視してウラン濃縮を続けたことへの批判はもちろん書かれていたが、今年2月までのIAEAに対するイランの協力姿勢をある程度評価もしていた。また、これまでイラン側から申告された核物質以外、何も問題となるものは発見されていないこと。しかし、まだ未解決な問題も多く、さらなるイランからの協力と信頼の醸成措置が必要であること。そして最後にIAEAは本件に関し、何ら結論には達しておらず、今後どのよう措置が取られるべきか判断を下すことはできない、と結んでいる。これに対しイラン政府は即日、「IAEAの枠組みにおいてのみ協力を続ける」という声明で回答した。 ところがアメリカの反応は、イランにウラン濃縮停止を求める決議を国連安保理に提出し、もしイランがこれに従わなければ経済的あるいは軍事的制裁措置を許す国連憲章7章を適用する、というものだった。ほとんどの日本のマスコミはそれにならい、「IAEAの報告書はイランの協力不履行を非難するもので、イラン核問題は今後、法的拘束力のある制裁措置を議論する、新たな段階に入った」という一方的な主旨でこのニュースを伝え、勝手に話の舞台を安保理に進めてしまった。 イラン核問題が「新たな段階」に入ったのは確かだが、実際には上記のような事態とは正反対で、むしろイラン人を安心させる材料が整えられつつあった。 ロシアはイランへの防空ミサイルシステムの売却をアメリカの中止要請を拒否して履行する予定だと表明し、中国は30日、イランと1000億ドル(11兆円)にものぼる石油と天然ガスの契約に近々調印する意思を伝えている。それを踏まえてか、これまでアメリカの中止要請により紛糾していたイランからのパイプライン敷設計画を、パキスタンが合意した。このパイプラインはパキスタンを経由してインドへ到達する予定だが、中国への延長も考慮されているという。 日本が15億ドルの開発予算を投じたイランのアザデガーン油田開発を、アメリカの中止要請にもかかわらずまだ手放していないことを思えば、1000億ドルを投じた中国が、今後国連安保理によるイランへの経済制裁や軍事制裁に同意するはずはない。 イランが停止期限である4月28日を守らなかったことで、アメリカとその同盟国が国連安保理でイラン制裁決議を目指す一方、そこでの中露の拒否権は必至であり、結局アメリカは自国の議会で可決されたイラン制裁法案(イラン自由支援法案)で他国の企業を脅す以外に策はないというのが現状のようである。 4月10日、イランのモッタキー外相がスイスのBerner Zeitung紙との会見で語った言葉が印象的だった。「我が国は27年間にわたり、アメリカによる種々の制裁下に置かれてきたが、今ではどのようにして制裁に対処したらよいのか、よく学んできた」 3.アメリカの攻撃はあるか テヘランの街角は普段と変わらない。公園では老人たちがチェスを楽しみ、街路樹の桑の実を子供たちが取り合い、八百屋の店先にはクルディスタン地方から出荷されたイチゴが山積みされ始め、あちこちで少しずつワールドカップの話題が登り始めた。この日常がある日突然失われるということは想像しづらい。しかし、バグダットもそうだったと聞く。アメリカ侵攻の直前まで、普段と変わらぬ日常が繰り広げられていたそうだ。 国連安保理でイランへの軍事的制裁措置が取られる可能性は現在ほとんどないと言ってよいが、アメリカが単独で攻撃を開始する可能性は、アメリカ自身が否定していない。当のテヘラン市民はこの潜在的な危機に対し、どう考えているのだろうか。 「アメリカが攻めてくる可能性? ないと思います。イランはアフガニスタンやイラクとは政治状況が違います。イギリスや中国、ロシア、ヨーロッパ諸国とも良い関係を保っているし。特に、今、ロシアと中国はイランに武器を売ってくれている。仮にアメリカが攻めてきても、武器を売って支援してくれると思いますよ」海外留学を直前に控えた女子大生のMさんはそう答える。 テヘラン大学の金曜礼拝で警備員をしている55歳の男性も、「アメリカはイランを攻撃することはできないよ。イランは、アフガニスタンやイラクとは違うんだ。国民はまとまっているし、軍備も整っている。他国との友好的な関係もある。彼らは絶対勝つことはできない。もし、アメリカが攻撃するとしたら、まず核施設を爆撃するだろうね。でもそのあと地上軍を派遣してテヘランを制圧するまで何日もかかるだろう。その前にイランがホルモズ海峡を封鎖してしまったらどうなる? 彼らの地上軍がテヘランに達する前に、世界は大混乱になって、戦争の継続をアメリカに許さないだろう」と自信満々に答えた。 アメリカの攻撃の可能性についてテヘラン市民に聞いてみると、判で押したようにこうした答えが返ってくる。それらは国営メディアを通した政府要人の発言そのままである。市民は核問題に関して、新聞やテレビを通して情報を得ているし、関心も低くない。しかし官製メディアや当局の厳しい統制下で活動するメディアから得られる情報は、正論である一方で、画一的であり、イラン人のアイデンティティーをくすぐる意図的なものが多い。 「アメリカはイランの実力をよく知っている。彼らはイラクとアフガンで手一杯だ。もうひとつ前線を広げる余裕はないよ。今イランを攻撃すればどうなるか、良く分かっているはずだ」35歳の会社員が答える。 つまり、イラン政府ひいてはイラン人は、「アメリカ政府はそんなにバカじゃない」と評価しているわけである。だが、イラクでの失敗はどうなのか。アメリカの情報機関はそんなに信頼に値するのだろうか。アフマディネジャード大統領がイランのウラン濃縮成功のニュースを伝えたその翌日、アメリカのローブ大統領補佐官がアフマディネジャード大統領を「交渉のできるまともな人間ではない」とこき下ろした。ローブ氏はさらに、「イランは奇妙な歴史感覚やイデオロギーで凝り固まった人たちに導かれており、(外交的解決は)難しくなるだろう」と発言している。アメリカ人の若者の75パーセントが地図上でイランの場所を指定できないという、ナショナル・ジオグラフィックによる調査結果が先日メディアに流れたが、他国への無関心と無理解は政治の中枢にも及んでいるのではないか。大統領を補佐する人間が、近い将来戦争をするかもしれない国に対してこの程度の認識で、果たしてアメリカは正確な情報に基づく合理的な政策の取れる国と言えるのだろうか。私は多くのイラン人のようには楽観できない。 テヘラン中央部のエンゲラーブ広場でピザ屋を営むフサイン氏は、官製メディアの情報統制に縛られない意見を持っていた。それは、彼の置かれた特殊な環境がそうさせたものなのかもしれない。 「イランの核開発の権利? ま、誰に聞いたって『必要だ、権利がある』って言うだろうな。けど本当は内心どうでもいいと思っているはずさ。核エネルギーがあっても国民1人1人の生活はたいして変わりはしないよ」 ≪代替エネルギーとしては?≫ 「そもそも石油の輸出による利益は国民の懐には入ってこない。核エネルギーによって国内の石油消費を抑えて輸出に回したところで、どうせその利益も一部の人間が分捕ってしまうさ」 ≪電気代が安くなったりはしませんか?≫ 「さあね。そんなことより頻繁に起こる停電をなんとかしてほしいよ」 ≪アメリカの攻撃の可能性は? 怖くはありませんか?≫ 「正直。怖いとか、僕の場合、そういう次元じゃないんだ。戦争になったら即前線に出なければならない。それはもうどうしようもない義務なんだ。あとは、残された家族や子供たちへの心配。それだけだ」 フサイン氏は既に11年前に兵役を終わっているが、予備役兵として登録されているため、有事の際はすぐ召集がかかる手はずになっているという。イランでは、毎年100万人近い若者が2年間の兵役義務に就くが、そのうち体力その他で秀でた600人ほどの兵士が予備役として登録されるという。 ≪アメリカの侵略に対して戦うという気持ちは?≫ 「防衛戦がいつも正しい戦争とは限らない。戦争はしょせん、国のトップどうしが始めるものさ」 イランを取り巻く情勢は、この1ヵ月でずいぶんと変わった。国際情勢の追い風に乗って、イランは近隣諸国や中国、そしてロシアとの関係をさらに強化してゆくことだろう。軍事、エネルギー政策では、ロシア、中国、中央アジア諸国で構成される上海協力機構へのオブザーバー参加が決まっており、また地域間の経済交流ではイスラム南西・中央アジアのASEANとも呼ばれるECO経済協力機構で、正式メンバーとして活動を活発化させている。 1979年のイスラム革命以降、西側世界とも共産主義陣営とも対峙し、革命の輸出を恐れた中東諸国からは疎まれ、世界の異端児を地で行ってきたイランだが、冷戦構造が崩壊し、中露の台頭とアメリカの衰退を機に、今、少しずつ世界の中で自らの地位を築きつつあるように見える。 核問題という国家の一大事が一転、孤立主義から協調外交へと重心を移すきっかけとなるなら、アメリカの圧力もある意味、功を奏したと言えるかもしれない。
No.16 レバノン戦争とイラン-イスラムの大義に揺れる大国-

▲テヘラン:町なかにはあちこちにヘズボッラーの指導者ハサン・ナスロッラー師を支援するポスターが。

▲学生組織によって張られたポスター。「レバノンの虐げられた信仰深い勇敢な若者たちの固い拳が、今、侵略者たちの醜い顔に振り下ろされ、彼らの硝子のような自尊心が打ち砕かれている」

▲20年計画で中国西安からイタリアローマを目指す「地球と話す会」の隊長・合田大次郎さんと大村さん(左)。今回は14回目の遠征で、首都テヘランからイラン北西部のタブリーズを目指すという。出発の朝。
◆志願する若者たち レバノン戦争に対する安保理決議が審議されている最中、テヘラン中心部にあるテヘラン大学の正門前では、保守派学生たちによるイスラエルへの抗議集会が開かれていた。特設ステージの上から学生が気勢を上げると、手にレバノン国旗やレバノンのシーア派組織ヒズボッラーの黄色い小旗を手にした聴衆からどよめきのようなシュプレヒコールが上がる。 「アメリカに死を! イスラエルに死を! イギリスに死を!」 ステージの袖から2人の学生がそれぞれアメリカ国旗とイスラエル国旗を持ち出してくると、それまで周囲を取り巻いていたメディアのカメラが一斉に彼らを取り囲んだ。お決まりの国旗炎上の儀式である。最初からアルコールでも含ませてあるのか、2枚の国旗は瞬く間に灰と化した。 集まっているのは主にバスィージと呼ばれる動員組織(革命防衛隊の下部組織でもある)のメンバーや、バスィージや宗教系団体に所属する保守派学生である。主催団体には10以上の団体名を連ねてあるが、夏休みでほとんどの学生が地方に帰省しているためか、聴衆はせいぜい50~60名といったところだ。しかし、壇上の学生は大群衆に語りかけるかのような絶叫で、声明文を読み上げる。 「1つ! 我々はイスラム共同体、特にイラン国民と政府に対し、迫害下にあるレバノン国民への全面的支援、とりわけ財政的、軍事的支援を、できうる限り行なうよう要請する。 1つ! 我々学生たちはヒズボッラー戦士たちの隊列に加わる準備ができており、各大学の専門家はレバノン再建のため全面的な支援を行なう準備ができていることをここに宣言する。 「1つ! 我々は……」 イスラエル軍によるレバノン侵攻が始まってからというもの、義勇兵としてヒズボッラーの抵抗運動に身を投じようというイラン人学生の姿を、新聞などで幾度か目にした。全国に「レバノン志願兵派遣」のための登録本部が設けられ、登録用紙に必要事項を書き込む学生の姿が報じられた。 新聞の報道によれば、登録用紙にはいくつかの質問が書かれているという。「アラビア語の知識はあるか」、「どのような武器を扱えるか」、「どのような領域で、レバノンの同胞たちを支援することが可能か」などの質問である。異国の戦争に自ら身を投じようという学生たちの存在にも驚きだが、それ以前に、彼らは果たして戦地で役に立つのだろうかという疑問が先に立つ。イランでは学生は卒業後まで兵役を猶予されているからだ。 「なあに、用紙に名前だけ書いてそれで終わりさ。中には本気なやつもいるかもしれないけどな」 自分も17歳の息子がいるというタクシー運転手は、志願兵のニュースをそんなふうに笑い飛ばす。 -もしあなたの息子さんが志願兵としてレバノンに行きたいと言ったら? 「まだ徴兵前だから行っても何もできやしないさ。それでも行きたいって言うんなら、行かせてやるよ。同じイスラム教徒を助けるためだ」 イスラム教徒には「防衛ジハード思想」というものがある。イスラム教徒の住む地域を「イスラム共同の家」ととらえ、異教徒がそこへ攻撃をしかけた場合、たとえ遠く離れていようとイスラム教徒は同胞を助けるべく「ジハード(聖戦)」に赴くか、武装闘争を物理的に支援しなければならない。アフガニスタンへのソ戦侵攻と米軍による空爆、イラクにおける駐留英米軍、あるいはチェチェン、パレスチナ、カシミール……、それら「異教徒によるムスリムへの虐殺」に対し、外国から多くの「義勇兵」が参加したのは、この防衛ジハード思想によるものである。 ◆イラン政府のジレンマ レバノン戦争が始まってしばらくすると、テヘラン市街のいたるところに、豊かなあごひげを蓄えたヒズボッラーの指導者ハサン・ナスロッラー師のポスターが張られるようになった。大きな広場や交差点には数メートル四方の巨大ポスターも見られる。その数はイランの最高指導者ハーメネイー師のものより多いかもしれない。 「ハサン・ナスロッラーは優れた指導者です。イランでも尊敬されていますよ。イラン人は一般的にアラブ人が嫌いですが、彼だけはイスラエルに対し勇敢に戦いを挑んでいますからね」 国営企業に勤める30代の男性はこう答えた。 長いゲリラ活動の末、2000年にレバノン南部からイスラエル軍を撤退させた実力は、ヒズボッラーがシーア派組織であるにもかかわらず、広くイスラム社会で認知されるきっかけとなり、彼の名声をも不動のものにした。 ヒズボッラーは1982年、レバノン内戦のさなかに設立され、レバノンにおける反イスラエル闘争とシーア派の地位向上の中心的役割を果たす組織となった。アメリカはヒズボッラーを「テロ組織」と認定しているが、その内実は軍事部門と民生部門に別れ、民生部門ではベイルート南部や貧困地帯で学校や病院、診療所の設立などの福祉活動に力を入れるとともに、テレビ、ラジオ、新聞など独自のメディアを有し、その広範な活動から常にレバノン国会に議員を送り出してきた合法政党でもある。その理念はイランのイスラム革命の影響を強く受けていると言われ、表向きイランは否定しているが、財政的にも軍事的にもイランの支援を受けていると言われる。そのためアメリカは、今回のイスラエルのレバノン侵攻当初から、イランを非難してきた。イスラエルがレバノン南部に落とした爆弾が、その破片からアメリカ製であることをヒューマン・ライツ・ウォッチが指摘している一方で、アメリカはヒズボッラーが打ち放つミサイルやロケット弾を、さしたる証拠もなくイラン製だと決めつけ、紛争の長期化の責任を一方的にイランに押し付けてきた。英米のこうした非難をかわすのは、イラン政府も慣れたものである。しかし、たとえ義勇兵とは言え、イラン国籍の若者がヒズボッラーと合流したとあっては話が別だ。 7月も半ばを過ぎた頃から、若者たちのレバノン行きを否定する発言が、イランの政府関係者から相次いだ。バスィージの司令官も「(志願兵登録センター等は)国の正式な機関とはまったく関係がなく、(民間の)宣伝活動にすぎない」と述べ、火消しにやっきになった。 今回、イスラエルがレバノン南部への空爆および地上部隊の派遣により本格的な戦争を開始したのは、ヒズボッラーによって2人のイスラエル兵を人質に取られたことを口実に、この際、ヒズボッラーを徹底的に叩いて壊滅させようというのが真のねらいだったと言われる。と同時に、これまでヒズボッラーを支援してきたシリアとイランも巻き込み、一機に中東大戦争に発展させ、アメリカの大中東計画を遂行してしまおうという意図を、イラン政府が警戒していなかったはずはない。イスラエル軍は今回、シリア・レバノン国境付近を何度も空爆し、トラックに果物を積み込もうとしていたシリア人農夫33名を殺害している。また、シリア国境付近に無人偵察機を飛ばすなどして散々シリアを挑発してきた。まずシリアに、そしてシリアと盟友関係にあるイランに戦火が拡大する可能性をイラン政府は十分警戒していたはずである。 イラン政府は、国家としては当然の行動として、戦争に巻き込まれぬことを第一命題としながら、その一方で、イスラム諸国会議機構にレバノン支援の会議も持ちかけ、内外に反米・反イスラエルのプロパガンダを打ちまくり、国内に対しては、ムスリムとしての精神的な支援こそレバノン市民とヒズボッラーの戦士たちを勇気付けるものだと呼びかけた。町の至るところに張り出されたハサン・ナスロッラー師のポスターも、募金を呼びかけるバスィージのテント小屋も、そうした活動の一環であろう。国営企業や官公庁では、月の給料の1日分をレバノン市民のために寄付しましょうと呼びかける張り紙が張られ、応じる社員も多いと聞く。 「中東で事が起こったからといって、すぐに軍隊を送れという話にはならないよ。彼らは彼ら自身の国のために戦っているんだ。僕らはそれに対し、こうしてお金を集めて政府に預け、食糧や毛布やテントや医療品を送る。君たちの国のピースウイングジャパンがやっていることと変わらないさ。つまりNGOだよ」 着飾った、派手な女の子が行き交う週末の繁華街、粛々と募金活動を行なう黒服のバスィージの青年が私に語ってくれた。そのテント小屋では、募金とともに、ヒズボッラー所有の衛星チャンネルの映像を大型テレビで流していた。 「こうしてヒズボッラーの映像を流すことも文化的支援の一環さ。何より大切なのは、ムスリムとして自分の存在を示し、彼らに1人ではないことを教えてあげることさ」 ◆イランを突き動かすもの イラン政府による保守派学生への懐柔策にもかかわらず、イスラムの大義に忠実な学生義勇兵の第一陣がいよいよレバノンへと旅立ったのは、7月も終わりに近づいた頃だった。しかし、彼らはトルコとの国境でイラン側から出国を阻まれ、2日間の座り込み抗議の末、ようやく出国スタンプを押されたが、今度はトルコ側に入国を拒まれているという。彼らはヒズボッラーの旗をはためかせ、カーキ色の軍服に目出し帽といういでたちだったため、トルコ側から「普通の旅行者の格好をしてきてください」と言われているという。 それからわずか数日後、ヒズボッラーからイランの若者に宛てて、次のようなメッセージが届いた。 『目下のところ前線は限られており、増援部隊の必要性はありません。我々ヒズボッラーはまだ戦力の10パーセントしか使用しておらず、必要ならまず自身の全部隊を召集し、その後、レバノン市民に支援を求める予定です。日々、イラン国民の皆様からは、レバノンでの支援、参加方法をお問い合わせ頂き、感謝しています(以下略)』 その後、彼らが無事トルコに入国を果たしたというニュースも、第二陣が出発したというニュースも聞かないまま、8月14日の停戦合意を迎えた。この日、テヘランでは、ヒズボッラーの勝利を祝して、夜空に花火が打ち上げられ、あちこちで通行人にお菓子やジュースが振る舞われた。そして翌日にはもう、町中からバスィージのテント小屋が姿を消していた。 イランは政教一致の宗教国家である。政府は保守的で、その政府を支える保守層の中でも最も過激なグループとして、バスィージといった民兵組織が存在する。と思っていたが、このレバノン戦争の間、彼らさえ手を焼く保守層があることを知った。それはむしろ、「層」という言葉で表現するより、若者の純粋さであり熱狂そのものである。 この国の総人口の55パーセントは24歳未満である。この若さというエネルギーは、27年前のイスラム革命を成就させ、1997年の大統領選挙では改革派のハタミ政権を生み出し、1999年には暴力的な反体制デモをイラン全土に吹き荒れさせ、そうかと思えば昨年、保守強硬派と呼ばれるアフマディネジャードを大統領の座に据えた。今回、レバノン戦争へ志願した若者は、実際のところごく少数派に過ぎない。しかし、この小さな火種が、場合によってはどう転ぶか分からないという恐ろしさを、イラン政府はよく知っていたのかもしれない。 1ヵ月あまりに及んだレバノン戦争は、数日後にはもうイランからその痕跡を消しているだろう。しかし、アフガニスタンではタリバン残党による米軍への攻撃が再燃し、イラクでは混迷から回復する道筋さえ見えず、パレスチナでは相変わらずイスラエルによる圧政が続いている。自国の安全保障とイスラムの大義というジレンマは、これからも中東の大国を悩まし続けてゆくだろう。
No.17 イラン核開発・現地紙に見る世論の推移 2006/9/15

▲街のキオスク。新聞はここで(テヘラン)
◆日本より多い新聞数 テヘラン市街が動き出す午前6時、街角のキオスクが店を開く。店の脇には、すでに暗いうちに配達されていたその日の朝刊の束が、10個ほど山積みにされている。 「一番売れるのはハムシャフリー、うちでは500部仕入れるよ。次はジャーメジャム、それにシャルグがそれぞれ150部。俺かい? 俺はスポーツ新聞しか読まないけどね」 キオスクの販売員はそう答えながら、新聞の束を手際よく店先に並べてゆく。数えてみると、普通紙、スポーツ紙合わせて、ざっと60紙は下らない。各州に無数の地方紙があることを考えれば、この国の新聞の数は相当なものである。 イランの新聞の歴史を紐解けば、1837年に初めての日刊紙が創刊され、1905年の立憲革命まで、およそ70年をかけて新聞メディアが民主主義と言論の自由を育んでいった歴史がある。現在のイスラム共和国体制下にあっては、新聞創刊に当局の認可が必要なのは勿論のこと、内容がイスラム体制に反していないかという厳しい制約がある。にもかかわらず、これほど多くの新聞がしのぎを削っているのは、ラジオとテレビという放送メディアが国営部門に限られているため、成熟したこの国の言論が、新聞を通してしかその発露を見出せないのかもしれない。ここ数年、発禁処分を受けた多くの新聞、あるいはそのために活躍の場を失ったジャーナリストたちがウェブジャーナルを開設する動きも活発だが、各家庭でのパソコン普及率の低さを思えば、キオスクでコイン1、2枚で気軽に買える新聞に勝る情報メディアはないだろう。 しかし、イランの新聞数の多さには、もう1つ理由がある。それは、政党や自治体の機関紙が多く含まれることである。テヘランで最大の発行部数40万部(2000年まで全国紙だったが当局の要請により現在はテヘラン市のみで販売)を誇るハムシャフリーはテヘラン市が発行元である。それに続く発行部数を持つジャーメジャムはイラン国営放送のオフィシャルペーパーである。イラン第2の発行部数を持ちながら今年になって発禁処分を受けたイランはイラン国営通信のものだった。さらに、発行部数十万前後の政党系日刊紙が無数に存在する。 こうした中、政党や政府機関とまったく繋がりを持たない有力日刊紙として、シャルグが挙げられる。2003年7月に創刊された若い新聞社だが、発禁処分を乗り越えて、今も発行を続ける改革穏健派の有力紙として国民の信頼は厚い。発行部数は伏せられているが、25万部から30万部と推定され、国内3番目の発行部数と言われている。 テヘラン市民にどの新聞をよく読むのかと尋ねると、多くの人がハムシャフリー、ジャーメジャム、シャルグといった上位3紙の名をすべて挙げる。つまり、左右織り交ぜて、バランス良く情報を取り入れようという姿勢が窺える。あるタクシードライバーは筆者の質問にこう答えてくれた。 「新聞を選ぶ基準は、それが右寄りか左寄りかじゃなく、自分自身だよ」 つまり、紙面を見て、自分で判断して、その日の新聞を決めるということだ。配達制度の整った日本にはない柔軟性である。 ◆包括案への回答をめぐる報道 8月23日、キオスクに並んだ新聞各紙は、ヨーロッパ包括案に対しイランが回答を与えたというニュースを一面トップで伝えた。この包括案は約2ヵ月前に国連安保理常任理事国とドイツを加えた6ヵ国によってイランに提示され、各種の見返りを与える代わりにウラン濃縮活動を即時停止するよう求めたものだった。これに対する回答期限が8月22日。回答内容はイラン政府の要請で公表されなかったが、最大の焦点であるウラン濃縮の即時停止をイランが拒否したことだけは明らかにされた。 23日付のアーフターベ・ヤズド(改革派・イラン・イスラム参加戦線)は、包括案への回答が公開されなかったことに対し、こうした秘密主義によって国内から幅広い意見を集めることができない点と、じき欧米の政府高官やメディアから回答内容が少しずつ漏れてくることを指摘し、「イラン人が海外メディアから情報を得ることを奨励しているようなものだ」と批判した。この批判は見事に的中し、当事国のメディアでありながら、西側から伝えられる情報に振り回されるような報道が、その後の国内各紙に目立った。 24日、包括案へのイランの回答に対する西側からの反応がひと通り出揃うと、この日のレサーラト(保守派・イスラム連合党)は一面トップで、「アメリカの破壊連合は崩壊寸前」、「ヨーロッパ諸国はアメリカを支持してアフガニスタン、イラク、レバノンに巻き込まれたが、さらなる深刻な竜巻には巻き込まれたくないと思っている。イランとの関係における中国、ロシア、フランスの莫大な経済的利益は、アメリカが意図する制裁拡大にとって深刻な障害である」というニューヨークタイムズの記事と、「イランへの経済制裁は、イランが石油を武器にして抵抗した場合、より大きな損害を西側諸国にもたらすだろう」というワシントンポストの記事を引用した。ケイハーン(保守強硬派)もまた、一面トップに「イランの回答は5+1の相違を広げた」との見出しで前述のニューヨークタイムズの記事を引用し、さらにユナイテッドプレスが「イランへの経済制裁で石油価格の高騰は避けられない」と報じていることを伝えた。 26日付のレサーラトは、「脅しはもういい。我慢にも限度がある」との大見出しで、「もしその限度を越えたなら、イラン国民は議会にNPT脱退を迫るだろう。イラン国民は政府に抑止力のため核兵器を作らせるかもしれない」との、モハンマドレザー・バーホナール国会副議長の発言を一面トップで伝え、多くの新聞もこの発言を報じた。 保守系各紙が、イランの権利の強調と、西側の反応への苛立ちによる挑発的な記事を伝える中、改革派、穏健派に属する新聞には、対話の道を探る姿勢が目についた。23日付、カールゴザラーン(穏健改革派・建設奉仕党)は社説の中で、「イランでは核活動を中断する意思は少なくとも公式には存在せず、西側にもこのイランの希望に柔軟に接する兆候は見られない…(中略)、もし両者が互いにまったく柔軟に接する用意がないと気付いたなら、イラン核問題における政治的、技術的論争は、威信の戦いの色を帯び……抑制は誰からの手からも奪われるだろう」と懸念を述べている。 また、シャルグは24日、紙面一面を割き、「核戦略の手本 日本と北朝鮮の経験」と題する特集記事を載せた。この特集記事では、「対照的なこの2国から、我が国の核政策決定者は学ぶことができる」とし、北朝鮮の核開発の経緯と、戦後日本の核開発の経緯を詳細に描き、照らし合わせている。「北朝鮮の指導者が、もし核兵器獲得が自国の地位と名誉を国際社会で押し上げると考えていたのなら、実際、このような変化は起こっていないばかりか、他国に比べ、より貧しく、より経済は遅れ、国際社会でより低い地位を得たと言わねばならない」と、「国家の威信」を声高に叫ぶイラン首脳陣を批判する一方、戦後日本が国際社会の懸念から独自の核開発を妨げられ、日本の核開発が平和目的だとIAEAから完全に承認されるまで20年近い歳月を要したことや、日本が国際社会から信頼を得るために、率先して軍縮条約等に調印してきたことなどが述べられ、行動と忍耐によって国際的信頼を勝ち取ってゆくことの必要性を訴えるとともに、自国の権利の主張に偏りがちな現政府の国際アピールの仕方に忠告を与えている。 こうした姿勢に少なからず影響を与えたのは、8月2日のドイツのフィッシャー元外相のイラン訪問ではないかと思われる。彼はイラン・イスラム参加戦線党首(当時)レザー・ハータミー氏との会談で、西側はイランの平和的核開発の権利を十分理解しているとした上で、万が一、イランが核兵器を入手した場合、トルコ、サウジアラビア、エジプトなど中東諸国が次々に核兵器獲得に走り、中東での核競争が開始されることは最悪の事態であり、西側の何よりの懸念がそれであることを真摯に伝えた。そして、イランと西側の信頼がまだ醸造されていないのがこの問題の根本であり、両者が互いに一歩後退し、交渉をやり直すべきだと訴えた。 その後、保守系各紙の間でさえ信頼構築という言葉がイラン核問題のキーワードとして語られるようになった。1人の人間の真摯な訴えがメディアの空気を変えることもある。アメリカの恫喝的な一言でそれが覆ってしまうのも、国際問題が所詮、人と人との心の問題であることを物語っている。 ◆アメリカとの関係 前述したシャルグの特集記事の中で、次のようなくだりがあった。 「たとえアメリカの信頼を得られなくても、それ以外の国々の信頼を得ることで、アメリカを恥じ入らせることができるだろう。国際的信頼を得ることはイランに機会を与え、国際的信頼を失うことはアメリカに機会を与える」 このくだりから察するところ、イランにとって、アメリカという国はもはや国際社会の中に含まれないということである。 日本人にとって、アメリカを無視して国際社会を捉えることは難しい。日本で報じられるイラン核問題への論評には、決まって「イランは国際社会に背を向けるのか」、「対イラン決議は国際社会の重大な警告だ」と主張が見られ、こうした表現からは、日本にとって国際社会とはアメリカそのものであるという見方さえできる。なぜなら、イランの核開発に対し断固阻止を叫んでいるのは、実際のところアメリカだけだからである。 一方、イラン人にとってアメリカとは、巨大な存在でありながら、革命以来27年間にわたって自分たちを「悪の枢軸」、「テロ支援国家」と罵倒し続け、諸外国に自国への経済制裁を強要してきた国である。 中国と家具の貿易を行なっている筆者の友人は、国連による経済制裁の可能性について、「俺たちはずっと経済制裁を受けてきた。今さら何の制裁だよ」と意にも介さない様子だった。アメリカによる敵対、制裁は、今やイラン人にとって当たり前の事実であり、今後もアメリカ無しでやっていく覚悟が、人々の内に無意識に芽生えていたとしてもおかしくはない。昨年のイラン大統領選挙では、改革派、保守派双方の立候補者がこぞってアメリカとの関係改善を公約の1つに掲げたが、その結果は、唯一そうした公約を掲げなかったアフマディネジャードの勝利であった。そして今、この穏健改革派の新聞でさえ、アメリカを必要のないものと切って棄てている。 イランの民主化を叫び続けてきたアメリカに、今、熱心に手を差し伸べているのは、皮肉なことにイラン政府である。シャルグが29日に伝えたところでは、イラン石油国有公社がアメリカの石油会社にイランの石油産業プロジェクトへの参加を呼びかけたという。同公社の専務理事によれば、目下、アメリカではイラン制裁法によって2000万ドルを越えるイランのエネルギー部門への投資は禁止されているが、こうした呼びかけによってアメリカの政治家の考え方が変わるかもしれないからだという。 また、26日のハムシャフリーは、イギリスの日刊紙ガーディアンが暴露した、包括案へのイランの回答内容を一部引用して報じた。それによると、イランは回答の中で、アメリカによる一部の主要な制裁の解除と、アメリカがイランの現体制の変更を追及しないという確約を求めているという。そして、こうした要求が実現されるならば、ウラン濃縮作業の停止もあり得るという。 イランの回答がガーディアンの報じた通りであるならば、イラン政府は核問題の解決とともに、対米関係も一気に解決してしまおうという魂胆なのだろうか。逆境をチャンスに変える見事な綱渡りと言える。今後のアメリカの対応に注目したい。
No.18 選挙が変えるイラン

▲無秩序に張り巡らされた選挙ポスター。テヘラン

▲専門家会議、地方議会、国会中間選挙の三つの投票箱が並ぶ、モスク内の投票所。テヘラン
◆イスラム民主主義 イランは「イスラム共和国」である。最高指導者が神の代理人として国家を統治する「神権統治」と、それとは一見相反しそうな「民主主義」。この2つの原則を国是としている。イランではこれを宗教民主主義(イスラム民主主義)と呼んでいるが、民主主義の部分をどう実現するのかというと、大統領、国会議員、地方議会議員、そして、最高指導者の任免権を持つ専門家会議議員を国民が直接投票によって選ぶことで成り立っている。このうちの国会中間選挙と、さらに地方議会、専門家会議の議員選挙が2006年12月15日、イラン全土で同時実施された。 今回の選挙は、昨年5月に行なわれた大統領選挙に比べると、選挙運動に対する制約が多く、街頭演説なども許可されないため、国民の間での盛り上がりも認知度もいまひとつであった。町の人にインタビューしてみても、立候補者がどういう人物なのかよく分からないため、投票に行くかどうか分からないという人が多い。特に専門家会議の議員は普段あまり表には出てこない高齢の法学者ばかりで、大の大人でも候補者の名前と顔の見分けがつかないという。 専門家会議は、豊かな見識を備えた86名の、主にイスラム法学者(つまりお坊さん)で構成される任期8年の評議会である。その役割は、最高指導者の職務を監督し、病気や死亡の際に新たな最高指導者の選出を行なうことだ。つまり、間接的ではあるが、国家の最高指導者を国民が選ぶことができるという点で、イランの標榜する宗教民主主義を支える最も重要な機関であると言える。そして、現在の最高指導者ハーメネイー師が高齢であるため、今回の専門家会議選挙は特に重要であると見られていた。ただし、最高指導者が存命中は、専門家会議の仕事は年にわずか2回の会合のみであり、しかも非公開であるため、それがどういう内容のものなのか、国民にはまったく知らされていない。 イランの民主主義のもうひとつの柱、地方議会選挙は、今回で第3回目を迎える。第1回地方議会選挙は、第1期ハタミ政権の1年目である1998年、彼の公約の1つとして実現した。この選挙では、改革派が原理主義派(保守派のこと。イランでは改革派に対する保守派の総称として用いられる)をくだして各市町村の議席の多数を獲得した。しかし、第2回市町村議会選挙が行なわれた2002年は、原理主義派が勝利し、テヘラン市議会では現大統領アフマディネジャードがテヘラン市長に選出されている。 1998年の市議会開設とともに、市の予算が国家予算から独立し、市は各種使用税など独自の歳入を確保できるようになった。さらに現在、公共交通機関、電話、電気、ガス、水道、交通警察など、その運営が国から市へ委譲されることが検討されている。国政レベルの影響力はなくとも、より国民の生活に密着した行政府として、市町村議会の重要性は高まっている。 ◆連合形成への歩み イランの無数の政党、政治グループは、選挙になると改革派と原理主義派(保守派)の二派に分かれて相争うため、連合形成が勝敗の鍵となる。投票日へ向けて、長い時間をかけて調整を行ない、原理主義派連合、改革派連合を形成し、双方、統一候補者リストの作成を目指す。そういう意味では多数政党制でありながら二大政党制に近い。しかし、原理主義派、改革派共に、無数の政党の意見をとりまとめ、統一候補者リストの提出に至るのは至難の業である。先の大統領選挙では、結局最後まで調整がつかず、保守派は3人、改革派は4人に候補者が割れ、票の拡散を招いた結果、改革派が惨敗した。 こうした大統領選挙の結果は、今回の両陣営の連合形成に大きな影響を与えている。原理主義派は、大統領選勝利によって、その後かえって内部分裂を招いたと言われる。1700万票という圧倒的な得票数で勝利したアフマディネジャードの支持派は自信を強め、その非妥協的で急進的な政策から、改革派のみならず比較的穏健な原理主義派からも距離を置かれるようになっていった。そして今回の選挙では、結局、各派の努力もむなしく、最終的に原理主義派は大きく2つに割れた。1つはアフマディネジャード政権支持派の「奉仕の芳香」、もう1つはガーリバーフ・テヘラン市長(大統領選ではアフマディネジャード氏に破れた)を支持する「原理主義大連合」である。一方、改革派は、改革派の3大政党、「国民信頼党」、「建設の奉仕者」、「イラン・イスラム参加戦線」が「改革派連合」として共闘することが決まり、地方議会選挙での統一候補擁立に成功した。「国民信頼党」は、前国会議長キャルビー師が率い、「建設の奉仕者」、「イラン・イスラム参加戦線」はそれぞれラフサンジャニ師、ハタミ師と関わりのある政党である。この改革派連合の共闘は画期的なもので、改革派メディアは選挙前から、今回の選挙では勝敗そのものよりこの三党の連合形成の方に大きな意義があると評するほどだった。 こうして、原始主義派大連合、奉仕の芳香、改革派連合の三つ巴の争いは、12月15日、投票日を迎えた。 ◆大統領派の惨敗 15日は朝から、国営放送が投票所の様子を繰り返し生中継していた。 「あなたはなぜ投票所に足を運んだのですか。今のお気持ちは?」 投票箱に列を作る市民にレポーターがマイクを向ける。選挙権をもらったばかりの15歳の少年は生真面目な顔でこう答える。 「国の運命を決めるためです。とても嬉しいです」 ちなみに、知り合いのある15歳の女子中学生は、「知らない人ばかりだから、白紙で投票する」と言っていた。4年後の選挙からは、選挙権が18歳以上に引き上げられることが決まっている。確かに、15歳の中学生にとって、今回の選挙は難しすぎる。 投票日から3日後の18日には各州における3つの選挙の開票結果がほぼ明らかになった。 まず、地方議会選挙の結果は次のようなものである。全州での各派の得票率は、改革派連合39.7パーセント、原理主義大連合28.7パーセント、奉仕の芳香3.4パーセント、無党派28.2パーセント。各市町村で改革派と原理主義派が票を分け合っているが、全体としては改革派の勝利と言っていい。さらに無党派の当選者の多くが今後、改革派と共同歩調を取るだろうと言われている。 一方、専門家会議議員選挙では、そもそも原始主義派大連合、奉仕の芳香、改革派連合それぞれの候補者リストがかなり重複していたため、地方議会選挙のように各派の得票率を正確に割り出すことはできない。たとえば、テヘラン選挙区(定数16人)では、各派の候補者リストにのぼった16名のうち、ラフサンジャニ師やロウハニー師(ハタミ政権で核交渉チームのリーダーを務めた)を始めとする7人もの法学者が、改革派連合と原理主義大連合双方のリストに名を連ねている。 ラフサンジャニ師は先の大統領選挙で、穏健な原理主義派の候補として立候補しながら、改革派陣営の一員としても振舞い、特にアフマディネジャード氏との決戦投票では完全に改革派陣営の支援を受けて戦った。そして、今回の専門家会議議員選挙でも、原理主義大連合、改革派連合双方のリストに名を載せて、同じような立場を演じている。 その一方で、アフマディネジャード大統領の政策を支持する奉仕の芳香は、この2名を自派のリストから排除し、大統領の精神的支柱であるメスバフ・ヤズディー師やホシュバクト師といった強硬右派の法学者を中心に候補者リストを出してきた。したがって、専門家会議議員選挙における各陣営の勝敗は、テヘラン選挙区におけるラフサンジャニ師派対、メスバフ・ヤズディー師派の勝敗で計ることができる。そして蓋を開ければ、ラフサンジャニ師が2位に50万票以上もの差をつけ、150万票の得票数でトップ当選を飾ったのに対し、メスバフ・ヤズディー師は88万票で6位当選に留まった。さらにロウハニー師が84万票で7位当選を果たしたのに対し、ホシュバクト師は落選した。次期最高指導者を任命する可能性が高い今期の専門家会議の選挙で、穏健保守派が勝利した意味は大きい。 テヘラン地区から欠員2名を選ぶ国会中間選挙でも、改革派系のソヘイラー・ジェロウダールザーデ氏と、原理主義大連合のハサン・ガフーリーファルド氏が当選を果たし、奉仕の芳香が押した候補者は落選した。 ◆過激主義の敗北? 原理主義大連合の勝利と、改革派連合の躍進、そして、奉仕の芳香の敗北という結果で選挙は幕を閉じた。 アフマディネジャード大統領派の敗北を、海外メディアの多くは、ホロコーストや核問題などに関する過激発言や急進的な対外政策、とりわけ核問題で国連安保理による非難決議を招き国家を危機に陥れたことへの国民の回答であると評した。 しかしイランでは、一部の強硬派が再三NPTからの脱退を叫ぶ中、国際社会でイランが孤立せぬよう、あくまでNPTに留まり、国際法規の枠内で核開発を進めるというこれまでの方針を堅持してきたアフマディネジャード政権に対し、国民はさほどの危機感を持っていなかったし、むしろイラン人にとっては、核兵器所有を公言したイスラエルになんの懸念も示さず、何ひとつ法的逸脱のないイランに非難決議を採択した安保理に対する怒りや不信感の方が強かったはずである。アフマディネジャード政権の対外政策には、確かにハタミ政権時代のような妥協が一切見られないのも確かではあるが、欧米中心の「国際社会」に対する挑戦と、自国の権利の主張という点では、現政権のプロパガンダはある程度国民の間に浸透し、支持を受けていたといっていい。今回の選挙結果に対する欧米メディアの分析、つまり奉仕の芳香の敗北が現政権の対外強硬路線に対する国民の警告であるとの見方は、そうであってほしいという欧米メディアの幻想でしかない。 では実際のところ、奉仕の芳香の敗因は何なのか。まず今回の地方議会選挙で国民が求めていたものは、カリスマ性でもイデオロギーでもなく、経済政策であり、市政を担う実務能力であった。改革派連合のテヘラン地区の候補者リストには、ハタミ政権下の閣僚級が顔をそろえ、原理主義大連合のリストには前警察庁長官やテヘラン市議会議長、また現職テヘラン市議など、立候補者の専門性と実務能力を最大限アピールする内容であったのに対し、奉仕の芳香のリストは、「大統領支持派」であること以上にアピールポイントを持たない貧弱なものだった。 統計によれば、ハタミ政権下で維持していた7パーセントの経済成長率が、アフマディネジャード政権下では4.5パーセントまで低下している。イランの経済成長20年計画では、若年人口の増加に合わせて年間50万人の雇用創出が求められているが、この2年間で達成した雇用はわずか20万人だという。その一方で、ここ数ヵ月間で20万人から40万人もの人が職を失った。もっとも、一般市民はこうした統計など見ていない。話を聞いた多くのテヘラン市民が言うのは、改善されない物価高や生活の諸問題である。 15ヵ月前、「正義と公正」、「弱者救済」の旗を掲げ、大統領選を制したアフマディネジャード大統領は、「もしかしたら何かを変えてくれるかもしれない」と、まるで救世主のように国民の目に映った。しかしそれから15ヵ月、こつこつと市民のためになる法案も通してきたが、それ以上に目立ったのは、イラン全州訪問や、アフリカ諸国、南米諸国への訪問、性急な核開発、また、反米基金の設立などといった、国民の生活とは関わりのない動きだった。有能なテヘラン市長時代の実務能力と、生活の改善を期待していたイラン国民が、この15ヵ月間の大統領の経済的業績に失望し、その批判票として改革派連合、大原理主義連合の側に一票を投じたというのが、今回の選挙結果だったのではないだろうか。 ◆今後の展望 ところが、選挙結果が明らかになって以降、国内の改革派系メディアからも、奉仕の芳香の主な敗因は核問題での強硬路線を始めとする彼らの過激主義であるとする論調が出始めた。改革派系の新聞は、選挙結果を論評する際、「穏健・改革」という言葉と対置させるかのように「過激主義」という言葉で見出しを飾り、必要以上に現政権が過激主義であることを煽り立てた。こうした論調は選挙前にはさほど見られなかったもので、欧米メディアの論調に便乗したかのように見える。いずれにせよ、現政権派の敗北を目の当たりにし、昨年の大統領選挙の際の1700万票という国民の圧倒的支持はもはやないものと思い、現政権へのおおっぴらな非難を解禁したかのようである。 改革派は今後、各地方議会において、原理主義派とある程度の妥協を強いられることを受け入れているようである。改革派連合の選挙参謀も、地方議会における原理主義派と改革派連合の共同作業は経済20年計画の推進であると語っている。また、そのような共闘は、地方議会内での大統領支持派の勢力を完全に抑え、原理主義派と大統領派の亀裂をこのまま、あるいはこれ以上大きくすることにもつながる。 改革派と原理主義派をつなぐ役割を果たすのは、改革派に極めて近い穏健原理主義派の面々であり、その中心的存在としてラフサンジャニ師が今後大きな政治力を振るうことは間違いない。 各派はすでに、来年2月の第8期国会選挙と、その翌年の第10期大統領選挙を見据えている。どちらも今回の連合形成の体験を貴重なものとし、経済政策重視の姿勢をさらに打ち出すことで、国民の支持獲得に努めるだろう。だがその前に、たとえ短いスパンでも何らかの成果を出さない限り、次の選挙では勝てないことも、各派は今回の選挙で学んだはずだ。 イラン国民は批判票を投ずることで、生活への不満を為政者に訴えてきた。しかし、訴えても無駄だと考え、投票にすら行かない市民は、まだまだ多い。
No.19 核施設のまちナタンズに行く

▲ナタンズ市 野菜の朝市


▲遊んでくれたアフガン人兄弟
▲アービヤーネ村郊外の田園
◆イラン核技術国民記念日 イラン暦ファルヴァルディーン月20日、西暦で言えば今年の4月9日を、イラン政府は核技術国民記念日と名づけ、国中で祝祭の式典を執り行なうと発表した。この日は、昨年の2006年4月10日、イランが3.6パーセントの低濃縮ウランの製造に成功したことを公表した日であり、その1周年目に当たるこの日をイラン核技術国民記念日と名付け、式典を催すとともに、新たにまた政府から「嬉しいお知らせ」があるという。イラン中部、ナタンズ核施設での特別式典には大統領も出席すると聞き、私は9日早朝、ナタンズへと向かった。 ナタンズの核施設はテヘランからそう遠くない。テヘランの長距離バスターミナルからバスに揺られること3時間、バスはテヘランから南に246キロのカーシャーンに着く。カーシャーンよりさらに南75キロ先のナタンズ市までは乗り合いタクシーが頻発しており、核施設は、カーシャーンとナタンズ市のほぼ中間に位置している。 カーシャーンで乗り込んだ乗り合いタクシーには、ナタンズ市在住の男性が同乗した。彼に、イランの核政策をどう思うか聞いてみた。 「これ以上、問題を大きくするべきじゃないと思うけどね。イランには長距離ミサイルの技術がすでにあるから、核弾頭を搭載する技術くらい、たやすいものさ。もちろん、政府が核兵器を持たないと言っているのは信用してるよ。でも、西側が信用していない以上、問題は大きくなってゆくばかりだよ」 この2年間の間に、アメリカとイスラエルがイランの核施設を攻撃するかもしれないという報道が繰り返し行なわれてきた。そうした報道は次第に具体性を帯びてきており、今年2月には、イスラエル空軍がナタンズ空爆を意図して英領ジブラルタルまでの往復飛行訓練を行なっているとする報道があり、またペルシャ湾に停泊中の米空母による4月空爆説が、ロシアの国営放送によって3月と4月に繰り返し報じられていた。もしアメリカが核施設を空爆すると、そこから数10キロしか離れていないナタンズ市を含めた周辺地域は放射能汚染で壊滅する可能性がある。核施設のそばで暮らすことに不安はないのだろうか。 「それは大丈夫。核施設本体は地下深くにあり、しかも厚いコンクリートの壁で覆われてるからね。貫通弾? 知ってるよ。それでも地下施設に被害を与えるのは無理だと思う」 そうこうするうちに、運転手が前方を指差し、核施設に着いたよと教えてくれた。一面の荒野と、背後にはうっすらと砂色のキャルキャス山脈が横たわっている。低い鉛色の空の下で、数基の高射砲が頼りなげに空を睨んでいる。 施設の門前には数台のパトカーが停まり、関係者のものと思われる車両も見られるが、私がインタビューをしたかった熱狂的な保守系市民の姿は見られない。時刻は午前11時、幸い式典はまだ始まっていないらしい。施設内への入場を試みるが、許可証を持った関係者以外、立ち入りはできないと丁重に断られた。 周囲を見回してみると、1人の若者が風上に背を向け、寒そうに芝生の上に座り込んでいる。話しかけてみると、彼も式典のためにカーシャーンからやってきたのだという。 「大統領に会えると思ったんだ。会って、仕事をくれって頼もうと思ったんだけどね」 26歳のバスィージ(市民動員軍)だという彼は、現在無職で、アフマディネジャード大統領に直訴するためにやって来たという。バスィージ出身の大統領になら自分の声が届くかもしれないと思ったのだろう。 バスィージ青年と話し込んでいると、パトカーが脇に停まり、職務質問してきた。このとき、パスポートを家に忘れてきたことに気が付いた。早朝、慌しく家を出たせいだ。 「ちょっと来なさい」 式典どころではなくなってしまった。私はそこで1時間ほど待たされたあげく、カーシャーンの警察署まで連行されることになった。パトカーがカーシャーンへ向かう途中、あろうことか『祝!核技術国民記念日』の横断幕を掲げ、核施設へと向かう、市民を乗せた何台ものバスとすれ違った。カーシャーンの警察署では、穏やかながら4時間近く事情聴取され、夕方になってようやく解放された。パスポート不所持では宿にも泊まれないため、そのままテヘランに一旦戻るしかなかった。 その晩、テヘランの夜空には打ち上げ花火が上がり、テレビのニュースではナタンズ核施設での式典の模様と、施設前で熱狂的にイランの核の権利を叫ぶ市民の姿が映し出されていた。そしてこの日、イラン全土の学校では朝9時に鐘が鳴らされ、全校生徒で「核エネルギーは我々の明らかな権利!」、「アメリカに死を!」、「イスラエルに死を!」、「神は偉大なり!」の大合唱が唱えられたという。 ◆再びナタンズへ 翌日の各紙の朝刊は、前日のナタンズ核施設でのアフマディネジャード大統領の演説の写真を1面トップで飾った。私はそれらの新聞に目を通しながら、再びバスに揺られて南を目指していた。核施設周辺住民の話をもっと聞いてみたいと思ったのだ。 保守系、改革系、どの新聞も、一面の見出しは『イランは核エネルギーの産業化段階に入った』、あるいは『3000機の遠心分離機に6フッ化水素を注入』でほぼ統一され、紙面は祝賀ムード一色である。昨年12月の専門化会議議員選挙と地方評議会選挙で大統領派が完敗し、改革派が大幅に議席を伸ばした際、改革派系各紙はここぞとばかりにアフマディネジャード政権の性急な核政策を非難し、アメリカに付け入る隙を与えて国を危機に陥れるべきではないとする論評を載せたものだが、今朝の朝刊はすっかり保守系各紙と足並みを揃えている。私は、昨夜テレビで見た、アーガーザーデ原子力庁長官の談話を思い出す。 「我が国の若い研究者たちは自らの人生をイランの核開発に捧げてきた。核施設に泊まあり込んで、毎日16、17時間も働いた。海外の企業も研究者も我々のそばにはいなかった―」 これは言ってみれば、イラン人にとって、現在進行形の『プロジェクトX』なのだ、とそのとき私は思った。昨日の式典ではアフマディネジャード大統領も涙ぐんでいたという。改革派各紙の論陣までもが思わず愛国主義に流されてしまうのも無理もない気がした。 前日と同様、カーシャーンでバスを降り、ナタンズ市行きの乗り合いタクシーに乗り換える。核施設の前を通過する際、なにげなく前日の式典と記念日について運転手に話題を振ってみる。 「そりゃ嬉しいよ。祝うべきことさ。アメリカや西側にあれだけ圧力を受けながら成し遂げたことなんだから!」 「アメリカ人やイスラエル人のことをどう思いますか?」 「彼らの政府のやり方は気に食わないけど、べつにアメリカ人やイスラエル人そのものに対し、悪意はないよ。ユダヤ人はもともとイラン人と仲が良かったんだ。アケメネス朝だったかな、王妃はユダヤ人だったし、イスラエルのゴッズ寺院もペルシャが建ててやったんだ。あの時代はイスラムもユダヤもなかったからね。でも今だって、イスラエルの前の首相はイランのヤズド出身なんだよ。イラクの前アメリカ大使もハリーザーデって名前だったから、あれもイラン系だろう。それより日本はどうなんだよ。原爆まで落とされて、それでもアメリカとずいぶん仲良くやってるよな。アメリカ人に対する憎しみはないのか?」 イランでは、アメリカやイスラエル政府を罵る言葉は至るところで耳にするが、国民そのものに対する感情を尋ねると、この運転手のように至って冷静な答えが返ってくる。イランはまだアメリカともイスラエルとも戦争をしておらず、アメリカやイスラエル兵の手で無残に同胞を殺されるという経験がない。それが、イラン人にこうした理性を残している所以かもしれない。一方で、20万人近い犠牲を伴ったイラクとの8年戦争を経て、イラン人はいまだにイラクの国民に対する嫌悪感を捨て切れず、米軍占領下のイラクの惨状を見ても、概して冷淡である。同じように、ひとたびアメリカによる空爆が始まれば、イラン人のこうした理性も瞬く間に消し飛んでしまうに違いない。 タクシーは荒野の中の一本道を恐ろしいスピードで走り続ける。スピードメーターは壊れていて、時速何キロなのかは分からない。右手に見えていたキャルキャス山脈の山並みが険しさを増し、鋭い岩盤の頂に残雪がところどころ見られるようになると、左手前方に、緑に包まれたナタンズ市が見えてきた。 ◆ナタンズの沈黙と日常 ナタンズ市は人口1万5000人ほどの、ありふれた地方都市だ。キャルキャス山中には桃源郷のような美しい山村が散らばり、そうした周辺住民も含めれば、3万人近い人々がこの一帯に暮らしている。ナタンズ核施設は、実際にはこの町より若干カーシャーン寄りにあり、施設で働く労働者もほとんどカーシャーンの人だと聞く。しかし、ひとたびアメリカによる核施設への攻撃が始まれば、まっさきに放射能汚染で壊滅するのは、風向きから考えて、施設の南部に位置するこのナタンズ市周辺地域である。 タクシーは親切にも町の中心イマーム広場の宿の前まで送ってくれた。この小さな広場を中心にバザールとも呼べない小規模な商店街が広がり、その先には、藁を混ぜた土塀作りの旧市街がある。迷路のような旧市街の中には、水パイプの軸を作る木工職人や、陶器職人の店があり、その先にこの町の歴史遺産である古いモスクがある。このモスクの建立は10世紀のブワイフ朝時代にさかのぼり、その後14世紀のイルハーン朝期に増築され、ほぼ今の形となった。金曜モスクとして現在も現役で、夕方の礼拝時間になると、モスクのスピーカーから礼拝を呼びかけるアザーンが流れる。旧市街の暗い小道にアザーンがこだますると、あちらこちらの家から、男たちが木戸を開けて顔を出し、互いに挨拶を交わしながらモスクへと向かう光景が見られる。 翌朝、宿を出ると、イマーム広場のすぐそばでは野菜の朝市が開かれており、イラン人の食卓に欠かせないハーブ類が山積みで売られていた。写真を撮ってよいかと男性の売り子に尋ねると、それは勘弁してくれと立て続けに首を振られた。イランでは頼まなくても向こうから「俺を撮れ」と言ってくるのが普通なのだが、ここでは若い男性の売り子のほとんどから撮影を拒否され、「あのじいさんならきっと撮らせてくれるよ」などと教えられる始末だった。 昨日は昨日で、宿をとる際、宿のオーナーはわざわざ役所に電話して、外国人を泊める許可を求めていた。この町自体が明らかに外国人を警戒している様子で、これまでイランでは体験しなかったことばかりだ。 その後、町の人に昨夜の宿のことや、撮影拒否の話をしたところ、「まあ、核施設のこととか、色々あるからね。でもあんまりそういうことは話さない方がいいよ」と忠告してくれた。イラン国中が核技術国民記念日に沸く中、当のナタンズ市民は、この問題を避けるかのように、普段と変わらずひっそりと暮らしている。 そんなナタンズだが、金曜モスクは今日も何組かの外国人ツアー客でにぎわっている。ツアー客が甘やかすからだろう。小学生の子供が私を見ると駆け寄ってきて、「ペンをちょうだい」とねだる。身なりのこぎれいな普通の子供たちがそんなことを言うので、「乞食でもないのにそんなことを口にするもんじゃない」と説教してみるが、けらけらと笑いながら行ってしまった。 しばらく旧市街を歩いていると、また下校途中の小学生に出会った。その二人組みはこぎれいな身なりとは言い難く、坊主頭で、背の低い方の子は明らかに兄弟のお古と思われるぶかぶかのセーターを着ていた。写真を撮らせてくれと頼むと、「アフガン人なの?」と訊いてくる。 「違うよ。日本人だよ」 「カーブルから来たの?」 「だから違うってば」 「写真ならあっちで撮ろうよ」 彼らはそう言うと、私を先導して駆け出した。着いた先は、誰かの私有地のようだが、辺り一面ユリに似た小さな白い花が咲き乱れ、桜の木も満開である。そこで彼らは木に登ったり、花を摘んだりしながら私に写真を撮らせてくれた。聞けば、やはり2人は兄弟とのことだ。上の子がモハンマド君12歳、下の子がアリー君10歳。 「もっときれいな場所もあるよ!」と彼らはまた私を先導して歩き出した。道路を外れて、誰かの農園をそのまま横切って行く2人を、急ぎ足であぜ道沿いに追いかける。数分歩くと、さきほどよりきれいな花畑にたどり着いた。彼らに撮った写真を送ってあげようと思い、住所を聞いてみたが、2人とも正確な自分の住所を知らないという。家に行ってみれば分かるだろうと思い、そのまま2人の家へと向かった。 途中、彼らは何人かの人を指差しては「あれはアフガン人だよ」と教えてくれる。なぜ分かるのかと訊くと、知ってる人だからと答える。 「君たち、もしかしてアフガン人?」 「そうだよ!いつかカーブルに行くんだ。その前にゴムとマシュハドにも行って、マシュハドには親戚がいるんだ。それからキャルバラにも参拝して、あ、あのおじさんもアフガン人―」 「お父さんは何してる人?」 「レンガ積みだよ」 弟のアリーがどこかへ消えたかと思うと、しばらくしてキュウリとリンゴの入ったビニール袋を片手に嬉しそうに戻ってきた。バザールまでひとっ走りして、知り合いのアフガン人の売り子からもらってきたのだと言う。キュウリをぽりぽりと3人で頬張りながら歩き続ける。もうずいぶん町外れまで来てしまった。 「もうすぐだよ。近くにはイマームザーデ(歴代イマームを祭る参拝所)があるんだ」 そのイマームザーデもかなり過ぎて、周囲が農園ばかりになった頃、ようやく彼らの家に到着した。壁があちこち剥がれ落ちた古い家だ。あいにく両親は留守で、家には番地の札も付いていない。残念だが、住所は諦めるほかなさそうだ。 彼らはイマームザーデに遊びに行こうと誘ってくれたが、私はそろそろこの町を出発しなければならなかった。小さな手のひらと握手を交わし、2人の家をあとにした。 ◆アメリカへの不信感 その日の午後、私はナタンズの町から程近い、キャルキャス山中のアービヤーネ村に向かった。アービヤーネ村は、山の斜面にある、赤土の壁で統一された美しい景観の村として有名で、観光客にも人気がある。 しばらく村を散策してみるが、平日のせいもあって実に閑散としている。観光客向けに整備された村のメイン道路には、ぽつりぽつりとお土産のドライフルーツを売る老人がたたずんでいる以外、誰一人目にしない。聞けば、若い人たちは皆、都市部へ働きに出ているという。町で売られている電気乾燥のドライフルーツとは違い、ここのドライフルーツは天日干しで、そのためか甘みが強くておいしい。しかし季節柄かリンゴと梨しかない。他にお土産らしいものは見当たらず、安い食堂や宿もない。せっかく海外の旅行ガイドにも乗っている有名な村なのに、これでは観光客がお金を落とそうにも、落としようがない。 村を出ようとしたところ、中年男性ばかりが乗った1台の乗用車が私の傍らで停まった。私がナタンズ方面に向かうと知ると、乗せていってくれるという。彼らはサーデラート銀行の監査役で、アービヤーネ村支店の監査のため、村から40キロほど離れたバードルード市からやってきていた。車を運転しているのは、アービヤーネ村支店の支店長である。 車中では話がはずみ、幹線道への分岐で下車する予定が、せっかくだから今夜はバードルードまで一緒に行って、彼らの寝泊まりする銀行支店に泊まってゆけということになった。 バードルードはナタンズの北東20キロの地点にあり、鉄道や古くからの街道沿いにあることから、ナタンズ市より幾分活気がある。人口は2万人ほど。「風の河」を意味するバードルードは、その名の通り風が強い。町の周囲は、この町の特産であるザクロの広大な果樹園に囲まれ、果樹園の新緑が、荒野を渡ってくる強風を和らげる役目を果たしている。 町の中心街にあるサーデラート銀行の前で監査役の2人と私を車から降ろすと、アービヤーネ村支店長は村へと帰っていった。イランでは銀行の建物の上階は、たいていその支店の支店長宅になっているが、ここでは関係者の宿泊所になっていた。今夜ここへ誘ってくれた監査役のモフセニーさんとジャアファリーさんは、1週間近くここに寝泊まりしながらアービヤーネ村支店へ毎日通っていたという。だが、その仕事も今日でようやく終わり、明日は本店に帰れるのだそうだ。モフセニーさんはさっそく家に電話をかけ、明日は家に帰れると家族に報告している。 「こんなふうにいつも地方を飛び回っているんですか? 家族と離れ離れで、大変なお仕事ですね」 私がそう言うと、ジャアファリーさんは、「いや、地方出張はローテーションになっていて、1ヵ月に1回、1週間の出張が回ってくるんだ。会社も考えてくれているよ。イラン人にとって、家族は何より大切なものだからね」と言い、モフセニーさんの電話が終わるや、今度は自分がかけ始めた。 テレビでは夕方のニュースが始まっていた。イラクで拉致され、最近解放されたばかりの在イラク・イラン領事館の二等書記官のニュースが流れていた。この二等書記官はイラク北部アルビルのイラン大使館に勤務中、米軍の急襲を受け、そのまま連れ去られて行方不明になっていた人だ。4月に入ってようやく解放され、イランに帰還すると、拘束中に激しい拷問を受けたことを公表した。アメリカはこの件への関与を否定しているが、イランはCIAの関与を確信し、国連や国際赤十字を通してアメリカに抗議している。 テレビの画面には、二等書記官の身体に残る生々しい拷問の傷跡が映し出されている。足には何箇所もドリルによって開けられた穴が残り、脊髄も損傷している彼は、車椅子での生活もままならない。 「見なよ。あれがアメリカのやり方だ。人間性のかけらもない。イラン人は絶対あんなことはしない。文化の違いだよ。アメリカは歴史がないからな。人間性の面で培われてきたものもないんだよ。あれでよくよその国の人権がどうこう言えるよ。イラン航空機爆破事件を知っているか? 1988年にペルシャ湾で、アメリカ艦艇によってイランエアーの航空機が撃墜され、乗客290人が殺されたんだ。そういうことを平気でする国なんだ」 ジャアファリーさんはテレビを見ながら憤っている。どうにも怒りが収まらないらしい。私はそのときになって、サーデラート銀行がアメリカによって経済制裁の対象銀行にされていることを思い出した。ジャアファリーさんは頷くと、こう言った。 「そうだとも。そのせいで、まあ、いくらかの損害は受けたよ。うちを介してイランと貿易を行なっていたヨーロッパの企業は、他の銀行に変えざるを得なかったしね」 ドアのベルが鳴ったかと思うと、階下からアービヤーネ支店長が鍋を抱えて上がってきた。遅くなって申し訳ないと挨拶しながら、絨毯の上に食布を敷いて、ご飯や鳥のトマト煮、ヨーグルト、ハーブのサラダなどを並べ始める。奥さんの手料理だという。わざわざアービヤーネ村に戻って取ってきたのだそうだ。私たち3人が食事をしている間も、支店長はキッチンで食器を荒い、食後のお茶の用意までして、さらに私のために明朝のバスの時間をバス会社に電話で問い合わせてくれた。支店長は食後の鍋や皿を集めると、「何か他に御用はないですかな」と丁重に尋ね、この1週間の監査役の苦労をねぎらい、帰っていった。監査役2人は、別に偉そうにふんぞり返っているわけでは決してないが、やはり監査する側とされる側では、立場がずいぶんと違うようである。 食べ過ぎて動けないという私を、モフセニーさんが散歩に誘ってくれた。あらかた店を閉め、閑散とした夜の商店街をぶらぶらと2人で話しながら歩く。 「アフマディネジャード政権というのは、イラン人にとって、どうなんでしょう。この1年半、よくやっていると思いますか?」 「ああ、良くやっていると思うよ。ハタミ政権に比べれば色んな違いはあるけれどね。例えば? そうだね、ハタミ政権では、表現の自由や欧米との関係改善が進んだよね。一方、アフマディネジャード政権は、その逆の面もあって、幾分過激な言動も見られるけど、国内の団結や、地域諸国や途上国との関係強化を進めている。ハタミ政権とアフマディネジャード政権は正反対の性格のように映るけど、どちらも目的は1つ、国家の発展だ。そういう意味では同じだよ。改革派だ、保守派だと争っても、国の発展を目指すという意味では同じなんだ」 「アフマディネジャード政権の核エネルギー政策は少し性急だと思いませんか? 下手したらこれを口実にアメリカは攻めてきますよ」 「いいかい、アメリカの目的はイランに核開発を放棄させることなんかじゃない。イランのイスラム共和制を崩壊させることが目的なんだ。革命から28年、アメリカはいつだってそのチャンスを狙って、言いがかりをつけてきた。核開発も口実の1つに過ぎないんだ。たとえイランがアメリカのご機嫌を取って核開発を中断したとしても、また別の口実を持ち出してくるだけさ。つまり、我々が核開発を進めようが進めまいが、アメリカの政策は変わらないってことさ」 「でも、近い将来、もしアメリカが期限を設けて、例えば1ヵ月以内に核開発を停止しなければ、地域の安定を乱す要因と見なし、イランの核施設を空爆する、というような最後通牒を突きつけてきたら、イラン政府と国民はどういう選択を取るんですか? つまり、戦争してでも核開発を進めるつもりですか?」 「まずね、イラン政府は性急な結論を出さないで、戦争でも核開発停止でもない選択肢を模索するだろうね。それともう一つ、アメリカがイランを攻めることはないと思うよ。イラクとアフガニスタンであれだけ苦い経験をしてるんだから」 「そうでしょうか。アメリカがイラク攻撃をほのめかしていたとき、世界中は、アメリカはアフガニスタンで手いっぱいだからと、イラク攻撃には半信半疑でした。しかし、結局アメリカはイラクを攻撃しました。イラン人は少し楽観的すぎやしませんか?」 「イランは、イラクともアフガニスタンとも違う。イランの団結や軍事力、地域諸国とのつながりは、アフガニスタンやイラクの比じゃない。さっきも言ったけど、イランは改革派と保守派で分裂しているわけじゃない。冗談でアメリカが来てくれたらなあなんて言ってる若者たちだって、ひとたび侵略者が攻めてきたら、きっと銃を持って戦う。この団結と軍事力に対し、アメリカは勝利できない」 私はモフセニーさんの話を聞きながら、以前に何度も似たようなやり取りを繰り返してきたことを思い出した。核問題だけに注目していると、つい全体が見えなくなってしまう。本当はイラン人にとって、イラン核問題に対するアメリカの横槍など、これまで繰り返されてきた言いがかりの1つにすぎないこと。アメリカの言い分などいちいち聞いていたら何もできないこと。アメリカの真の目的がイスラム共和制の崩壊であること。これらアメリカ政府のイランに対する根本的な悪意を、イラン人は既存の事実として受け入れてしまっているのだということを、私はようやく思い出した。 散歩を終えて宿舎に戻ると、ジャアファリーさんが暇そうにテレビを見ている。モフセニーさんが私とのやり取りをかいつまんで説明すると、ジャアファリーさんはやおら起き上がって、我が意を得たりといった顔で語り始めた。 「そうさ、アメリカはイランには勝てない。アメリカだってよく分かっているはずさ」 「アメリカにそれだけの分別があればいいんですけどね……。だって、アメリカって結構目論見違いの失敗を繰り返してますよ。イランの団結や軍事力だって、しっかり把握しているかどうか、怪しいもんです」 「いいさ、仮に攻めて来たら来たで、戦うだけだ。それが正義だ。国を守るために戦うこと以上に尊い行ないはない。そうじゃないか? イラン人の意識は、間違っているか?」 「いえ……。イラン人はみんな、イマーム・ホサインなんですね」 私がそう言うと、「よく分かってるじゃないか!」と2人は満足げに笑った。イマーム・ホサインはシーア派3代目イマームで、ササン朝最後の皇帝の娘を娶ったことなどから、古くからイラン人に人気がある。西暦680年、4000人のウマイヤ朝軍に対して、73人で立ち向かい、自らの正義と信仰を貫いて殉教したキャルバラの悲劇は、毎年イスラム暦モハッラム月に行なわれる追悼行事アーシュラーを通して、今もイラン人を陶酔させてやまない。イマーム・ホサインはシーア派にとって、権力と圧制に対する正義の戦いのシンボルであり、近代では革命や戦争の中で常に重要なファクターとして精神的かつ政治的な役割を果たしてきた。イマーム・ホセインの物語の中では、死は勇ましく、尊く、そして美しいものなのだ。 翌朝、私は2人に別れを告げ、テヘランへ戻る車中の人となった。 荒野の中を、比較的古いアスファルト道が北へと伸びている。荒野にはラクダ草に混じって、黄色い小さな花が随所に見られ、砂漠にもはかない春が訪れていることを教えてくれる。そんな景色の中に、点々と高射砲台が見えはじめ、核施設のそばまでくると、それは数100メートル置きに並ぶようになった。朝の7時前からすでに砲手は砲台に上り、何もない曇り空を睨んでいる。聞いた話では、核施設に対する空爆ないしミサイル攻撃には、まず迎撃ミサイルが応戦し、これら無数の高射砲はその後の補完的な役割を果たすのだという。 地中深く、厚いコンクリート壁に覆われたウラン濃縮施設を破壊するため、アメリカとイスラエルは、普通のバンカーバスター(地中貫通弾)ではなく、小型核を搭載した核バンカーバスターを使用するのではないかと言われている。そのため、ナタンズは、広島・長崎以降、世界で初めて核攻撃される危険が最も高い場所と言われている。 以前、アフマディネジャード大統領は演説の中で、「核施設が攻撃されて破壊されたなら、さらに良いものをまた作ればいい」と国力を誇示する発言を行なった。この発言には、周辺住民の甚大な被害に対する視線はない。同じように、アメリカとイスラエルは、「核施設という軍事目標へのピンポイント攻撃」の了解を、いずれ世界に求めるかもしれない。しかし、核施設への'ピンポイント'攻撃などありえないということを、世界の人々は知ってほしい。
No.20 物価高騰 イランの場合

▲米
◆イラン再訪 今年、2008年5月、ほぼ1年ぶりにイランに戻った。1年で首都テヘランの様子が様変わりするはずはないが、かつて暮らした地区を訪ねてみると、ファーストフード店やこぎれいなブティック、新しい銀行などが目に付き、改めて1年という時の流れを痛感した。 1年前と比べて、もうひとつ目に付くのは、物価の高騰である。交通費、賃貸料、雑貨、食品、程度の差こそあれ、ほとんどすべてのものの値段が、1.5倍から2倍近くに跳ね上がっている。公式発表では、今年のインフレは20パーセントというが、それどころではない。 この異常な物価の値上がりは、世界規模での原油価格高騰とそれに伴う物価の高騰、そして西側による経済制裁に原因がある、と政府はさかんに言う。一方で、野党系列のメディアはそうした大統領の発言を責任転嫁であると非難し、保守派の重鎮たちからさえも、現内閣の経済政策へ非難の声が上がっている。 だが、この物価高騰には、政府の経済政策のまずさとともに、別の人為的な側面もかなり影響しているようだ。 例えば、1年ほど前、テヘランでは洗濯機用洗剤が店頭から消えた。その後少しずつ市場に出回るようになったが、価格は以前の3倍近く跳ね上がり、十分店頭に並ぶようになった今も価格は下がらない。 砂糖が品薄であるとメディアで流され、騒ぎになったこともあった。トマトが品薄で通常の3倍以上の価格がしばらく続いた時期もある。そしてつい最近では、チャイ、つまり紅茶がなくなるという噂が流れ、人々が買いだめに走った。小売店はそれに便乗して値上げしたが、それでも1人で何箱も買いだめする人の姿が見られた。結局、それも風評に過ぎないことがのちにわかった。 もはや、どれが本当の品不足で、どれが人為的な風評なのか判別できず、次はどの業界が甘い汁を吸う番なのかと巷ではささやかれるまでになった。 ◆米の価格高騰 こうした人為的な側面が最も強調されているのが、この国の主食である米の価格高騰である。 イランでは米はおおまかに、1級米、2級米、外国米などと分類されるが、とりわけ1級米はこの1年で3倍以上も値上がりし、1キロの値段が5000トマン(約600円)するものも珍しくない。2級米はその半額ほど。主にインドやパキスタン、タイから輸入される外国米はさらに安い。 新聞などでは、米の価格高騰の原因について、いくつかの推測が挙がっている。例えば、① 世界的な食糧価格の一環に過ぎず、輸入米の価格が高騰したため。 ② 昨年、降水量が少なく、今年、市場に出回っている国内産米の量が例年に比べて少ないから。 ③ 今年の降水量が少なく、来年市場に出回る米が少なくなることが予想されるため、国民が買いだめに走っている。 ④ 米の価格を吊り上げるための経済マフィアの暗躍。 ⑤ 政府内にインサイダー取引を行なう者がある。 ①については、政府がさかんに繰り返してきた主張だが、イラン人はそもそも外国米をほとんど食べないと言っていい。「イラン人にとって米に代わる食べ物はない」と言われるほど、彼らは独特の香りを放つイラン米に固執する。あまり人気のない外国米の価格が国内産米の価格全体にこれほど影響を及ぼしているとは考えにくい。 ②についてはどうやら風評であり、③についてはある程度事実であるようだ。今年の水不足については、テヘランでも、季節の変わり目の雨が例年より少なかったように感じる。地方のダムの入水量が例年の数分の1であるとのニュースも目にする。そうしたことから、来年度市場に出回る米は少ないだろうと予想し、人々が買いだめに走っているという。 そこで早速、近所の米屋に訊いてみた。すると、今年は例年に比べ、確かに米がよく売れているという。一部、人々が買いだめに走っていることも否定しないという。しかし、だからといって米が不足しているわけではなく、倉庫には常に1級米から外国産米まで在庫は豊富にあるという。とすれば、需給関係からではなく、意図的な価格の吊り上げがどこかで行なわれていると見ることが妥当である。 そうしたことを踏まえ、とうとう④や⑤の可能性がメディアで取りざたされ、政治家の発言の中にも見られるようになった。 ◆闇業者の暗躍 以前、国内の米の価格高騰を、世界的な食糧価格高騰の一環であると言っていた政府も、次第に経済マフィアの暗躍を口にするになった。 アフマディネジャード大統領は6月23日に行なったメディアとのインタビューで、経済マフィアのやり方について述べ、「国民はそれが誰だかわかっていると思う。だから私がそれをAさんとかBさんなどと名指しするつもりはない」と語った。 国民誰もが知っている人物。この国の経済を自由自在に操れるような大物。そう聞いて浮かぶのは、この国の実質ナンバー2であり、何かとアフマディネジャード大統領と反目し合っているラフサンジャニー師ということになるのだろうか。 「ラフサンジャニーだけじゃない。政府の中には情報を流用して、自分の利益にしている人間がいっぱいいるよ」 「イランではいつの時代も、こっそり自分のポケットをいっぱいにしているやつらがいたもんさ。今だって変わらんよ」 町の人は、この物価高の責任が誰かといったことにはあまり関心がないらしい。もちろんラフサンジャニー師が関与している証拠はなく、だから大統領も名指しはしない。いずれにせよ、市民は怒りをあらわにすることもなく、どこか諦めた様子で、暴風雨が吹き去るのを待つかのように、この物価高にもじっと耐えている。その姿には、歴史を通して、異民族の侵入、支配階級による圧制、大国の介入に常に晒され、乗り越えてきたイラン人の諦観が垣間見られる。 ◆夏の終わりに イランでは、米とともにナン(パン)が主食である。街中には焼き立てのナンを売るナン屋があちこちにある。そのナン屋の行列が最近長くなったと言われる。米を食べる量を控え、ナンでお腹を満たす家庭が増えたのだ。米と違い、小麦は政府が補助金を出し、価格の変動を抑えているため、ナンの値段も1年前と変わっていない。 イラン人は国産米をこよなく愛する。外国米など食べれる代物じゃないという言葉もよく聞く。ところが最近、インド米の人気が急上昇しているという。イランの米どころ、カスピ海沿岸に住む私の友人は、初めて食べたインド米のうまさに驚き、「いっぱい食べ過ぎて太るから、買わない方がいい」とまで言った。 さっそく近所の米屋を覗いてみると、以前は2種類だったインド米が、4種類の品揃えに増えている。売れ行きは上々だそうだ。値段はイランの2級米程度。試しに少し買って、その晩、炊いてみた。これが本当にうまい。イラン米の独特の香り、味を存分に備えている。幸い転じて福となすとはこのことだろうか。 しかし、気を良くしてばかりはいられない。この夏は例年にない水不足と、そのための電力不足で、イランでは毎日2時間の計画停電が夏の間中実行された。まもなく迎える秋の収穫に、この水不足がどれほど響くことになるのか心配されている。また、こうした不安が巷に広まり、人々が新たな買占めに走ったり、闇業者が暗躍することになるのが、最も危惧される。
NO.21 革命勝利30周年

▲「革命記念日 アザディータワー」
(ここから)行進の終点アザディー広場。30年前、フランスから帰国したホメイニー師をテヘラン市民はこの広場で盛大に出迎えた。

▲「革命記念日 露店」
メインストリートのアザディー通りだけでなく、主な行進ルートにも市が立っている。

▲「革命記念日 ステージ」
行進への親子連れの参加を見込んで、子供向けのイベントが多く目に付く。
2009年2月10日、イランはイスラム革命勝利30周年記念日を迎え、各地で盛大なセレモニーが行なわれた。毎年この日は革命記念日として国民の祝日とされ、イラン全土で行進が行なわれる。今年も、政府の呼びかけで、首都テヘランでは朝9時半から、事前に指定された市内8ヵ所で行進が開始された。 8つの行進は、市内西部にあるアザディー(自由)広場を目指す。午前10時半には、アザディー広場に通じるアザディー通りは、各方面から合流した人々で埋まっていた。 この行進のメインストリートとなるアザディー通りの歩道には、様々な団体のブースや、テレビとラジオ各局のステージが設けられ、多種多様な催しが行なわれている。歌謡ショーもあれば、著名な聖職者の演説もあり、人気のある子供向け番組の収録が行なわれているステージの前では、集まった親子連れで押し合いへし合いになっている。消防署の前を通りかかれば、レンジャー部隊がビルの壁面の垂直降下を披露している。驚いたのは、12歳くらいの少女の一団が、揃いの衣装でステージの上で踊りを披露していることだ。厳格なこの宗教国家で、その光景はあまりにまぶしく、華やかなものだった。 路肩には様々な露店が地面に品物を並べ、ちょっとしたバザールになっている。こうした露店は数年前までは許可されていなかったという。衣服や日用雑貨の露店とともに、イランの冬の風物詩、そら豆の煮付けや砂糖大根の煮込みの屋台もあちこちに見られ、市民はそれらを冷やかしながら、アザディー広場へ向かって、楽しそうにそぞろ歩いている。 ようやく前方に、ゴール地点のアザディータワーが見えてきた。だが、その威容を遮るかのように、衛星打ち上げロケット・サフィール2号の実物大模型が、誇らしく群集を出迎えている。多くの人がこのロケットの前で記念写真を撮っていた。 この人工衛星は去る2月2日、革命30周年を記念して打ち上げられた。海外から一切の援助を受けず、衛星打ち上げロケットも、人工衛星も、そして管制システムも、すべてイラン人研究者の手によって作られたことが内外に対して喧伝され、革命後30年間の成果として誇示された。 常に西側からの制裁にさらされ、最先端技術と呼ばれるものがほとんど入ってこないイランでは、この自力での人工衛星打ち上げ成功のニュースは、国民のプライドを十分にくすぐるものとなった。 「まずアメリカに言いたい。イランは外国に頼ることなく、すべて自分で出来る。それを誇りに思う。こうして衛星だって作った」。 衛星ロケットの前で私に声をかけてきた20歳の青年は、そう語った。彼はあと10日で兵役を終えるという。 黒ずくめに不精髭をたくわえた、一目で熱狂的保守層と分かる初老の男性が話しかけてくる。 「革命直後はまだ海外から小麦も大麦も、あらゆる食糧を輸入に頼っていた。俺はバンダレアッバースの港で働いていたからよく覚えているよ。それが今じゃあ何だって自給できている。地下鉄、高速道路、造船、そして人工衛星だって作った。国中の村々に電話が通じるようになり、携帯電話まで持っている。最高指導者バンザイ!政府バンザイ!若者バンザイ!みんな大好きだ。こうして日本からやってきて俺の話を聞いてくれるお前さんにも感謝したい。俺はこの国を離さない!」 家族とはぐれてしまったという45歳の男性会社員は、革命から今日までの30年間をどう評価するかとの問いに、次のように答えてくれた。 「革命後、政府が決めた5ヵ年計画や様々な開発計画がこれまで継続されているのは嬉しいし、国民もそれを支持してきた。決めた通りに進んでいるかと言えば、必ずしもそうではないし、もう少しうまくやれたかもしれない。でも、それは普通のことだと思う。とにかく、最高指導者が当時、王政の欠陥を見て、変えたいと望んだことは、変えている。それは評価したい」 多くの人が異口同音に、現体制への支持と肯定の言葉を率直に語った。この行進とセレモニーを、純粋にお祭りとして楽しむために多くの市民が足を運んでいる一方、政府が保守層や学校児童、公務員、各宗教団体に動員をかけ、テヘラン南部の村や近郊の街からも大型バスのキャラバンを組んで人々をかき集めてきたという背景から、こうした結果になるのは当然かもしれない。 帰りに乗ったタクシーの運転手は、27歳、革命を知らない世代だ。マイクを持たない私の問いかけに、彼は革命への思い入れなど全くないと無関心に答えた。 イランでは、30歳未満、つまり革命後に生まれた人口が、総人口の7割近くを占める。今後、革命理念の更なる風化は避けられないという現実に対し、現体制は抗うことなく、最善の舵取りを模索しているように見える。かつてはアメリカとイスラエルへの抗議デモだった革命記念日の行進が、今や純粋なお祭りに変わりつつあることがそれを物語っている。
NO.22 イランに「おくりびと」はいるのか?―テヘラン共同墓地ベヘシュト・ザハラーを訪ねて

▲イラン最大の共同墓地ベヘシュト・ザハラー墓地の正門

▲遺体洗浄場の建物

▲遺体洗浄室の浴槽

▲洗浄を終えた遺体

▲埋葬地の一区画
映画「おくりびと」のオスカー受賞のニュースは、映画大国イランでも、主要紙の文化欄や芸術欄で少なからず取り上げられた。そこでは、真摯な社会的ドラマとして評価されてはいるものの、この映画がイランで公開されることは、まずないだろう。男性の納棺師が女性の遺体を着替えさせたり、身体を拭いたりすることは、イスラムの倫理に触れるからだ。 イランには、納棺師という仕事は存在しない。なぜなら、棺桶そのものが存在しないからだ。死者は洗浄されたのち、白布で包まれ、そのまま墓穴に納められる。強いて言うなら、遺体を洗い、最後の処置を施し、白布に包む仕事が納棺の仕事に当たる。イスラムでは、果たしてどのように人を「おくる」のか。それを見るため、テヘラン郊外の共同墓地ベヘシュト・ザハラーへ向かった。 ◆テヘラン市民の行き着く場所 テヘランから南へ40分ほど車を走らせた郊外に、広大な共同墓地ベヘシュト・ザハラーがある。イスラム教徒は土葬であるため、衛生面や場所を取ることなどを考慮し、たいていどこの町でも、郊外の荒野に広大な共同墓地を擁し、ほとんどの市民がそこへ葬られる。ベヘシュト・ザハラー墓地も、人口800万のテヘラン市民の共同墓地として、今も拡張を続ける総面積434ヘクタールの広大な墓地だ。 墓地の門を車でくぐると、直線道路が延々と続き、その左右には、木立に囲まれた墓地がどこまでも続いている。 「ここは1つの国みたいなもんだよ。大統領も、軍隊も、芸能人も、一般市民も、みんなここに眠っているんだから」 今日、ここへ私を案内してくれたスィーロスさんが言う。 「もう何回も来たことあるけど、広すぎて道順が覚えられないね」 私たちが探していたのは、ガッサール・ハーネと呼ばれる遺体洗浄場だ。 イランでは、自宅に遺体を安置し、通夜や葬儀を催す習慣はない。家族が亡くなれば、その当日か、遅くてもその翌日には埋葬される。埋葬にあたって、遺体とその関係者がまず訪れるのが遺体洗浄場である。 ようやくたどり着いた遺体洗浄場は、周囲の静寂とは対照的に、喪服に身を包んだ数百名の人々であふれかえっていた。突然の訃報に、まだ心の整理もできていない人々が、いたるところで泣き崩れている。 大理石でできた建物から、洗浄を終えた遺体が担ぎ出されてくるたびに、「ラー イラーハ イッラッラー(アッラーの他に神はなし)」の掛け声と、遺族の泣き叫ぶ声があたりに響き渡る。遺体洗浄場の入り口は、男性用、女性用に分かれており、誰でも自由に建物の中に入り、遺体の洗浄を見学できる。 見学サロンは、部屋の左右両面に張られたガラス窓越しに、洗浄室の様子を覗き込むことができるようになっており、どこか産婦人科の新生児室を思わせる。洗浄室には、石造りの台座と浴槽が4セット置かれ、緑のつなぎにゴム長靴とゴム手袋、腰痛対策の太い革ベルトといういでたちの洗浄人の男たち5、6人が待機している。 遺体は、黒いナイロンの袋に入れられ、担架で運ばれてくる。それを2人がかりで石の台座に乗せると、ナイロンの袋を開け、遺体の着ているものを手際よくハサミで切り、あっという間に丸裸にしてしまう。今度はそれを空の浴槽に横たわらせ、身体全体にシャワーをかける。大きなスポンジで立てた泡で身体中を包み込むように洗い、防腐剤入りの液体をバケツで身体全体にかけ、身体に傷口などがあれば、そこに薬品をふりかける。そして、再び台座に戻すと、ビニールと何枚もの白布で身体を巻き、頭と足の先を白い帯で縛り、再び担架に載せて、遺族の待つ外へ送り出す。1人あたり、ものの5分もかからない。手馴れた作業だ。 次々に運び込まれ、運び去られてゆく遺体。病院で長い闘病の末に亡くなった遺体には、それとわかるタグが付いている。一方、事故や、自宅で亡くなった場合には、必ず検死が行なわれ、そうした遺体には、喉元から下腹部付近にかけて、縦一文字の派手な縫合跡が見られる。 見学サロンでは、自分の親族の遺体が運ばれてくるまで、他人の遺体洗浄を興味深げに見学する人が多い。ナイロンから遺体が顔を出すたびに、ギャラリーからのため息や舌打ちが響く。それが若者であれば、「かわいそうに」、「事故かな」、「病気だろ」とささやきが漏れる。 実際、20代と思われる若者の遺体が多いのに驚かされる。建設現場で鉄筋の下敷きになって亡くなったという青年の洗浄では、遺族や友人の泣き叫ぶ声がサロンに響いた。小児癌だろうか、骨と皮だけになった10歳くらいの男の子の遺体には、直視できず、首を振りながら立ち去る人も少なくなかった。縫合跡のある、20代の若者の洗浄では、ガラス窓に頭を打ちつけ、「なぜ先に行く」とつぶやきながら、その様子を見守る父親の姿があった。 「自殺だってよ。薬で」 まわりにいる誰かがささやく。 「あの父親、麻薬中毒だな。しゃべり方でわかる」 イスラムでは、自殺は、完全に楽園への扉が閉ざされる、償いようのない罪とされる。そこに至るまで、この青年はどれほどの精神的ストレスに苦しんだのだろう。見渡せば、この父親以外、彼の洗浄を見守る人の姿はないようだった。 洗浄室の男たちの仕事は、少々荒っぽいものだった。シャワーも薬液も顔面から浴びせかけるし、けっして邪険な扱いではないものの、遺族の見ている前でもう少し丁寧にできないものかと思った。そもそもこの作業を5分で終わらせること自体、無理がある。だが、日に100体以上の遺体がここに運ばれてくるのだから、5分で1体を終わらせなければ、日が暮れてしまう。イスラムでは、埋葬は日没前に終わらせなければならない。それは彼らの腕にかかっているのである。 遺体洗浄の光景は、たとえ無残な手術跡があろうと、事故による無残な損壊があろうと、目を背けたくなるようなものではけっしてなかった。それはおそらく、彼らが亡くなって一両日中であるため、遺体がまだ新しく、その表情に至っては、生きた人間の安らかな寝顔となんら変わりがないからだった。顔にシャワーをかけられた瞬間、驚いて目を覚ますのではないかと思えるほど、人間らしさを残していた。 不謹慎を覚悟で言えば、私は、次々と運ばれてくる遺体を見ているのが、とても面白かった。死には、それぞれ理由があり、その人の人生が滲む。死体という、最も無防備な姿を眺めるのは、その人の人生を覗き見ているような感じさえした。裏を返せば、同性とはいえ、大勢に赤の他人に自分の遺体の洗浄を見学されるのは、ずいぶんなプライバシーの侵害である。洗浄中、死者の尊厳をかろうじて守っているのは、下腹部に掛けられた1枚の布切れだけだ。 スィーロスさんが横から私につぶやく。 「ここに来ると、本当に人生について考えてしまうよ。つまらないことで人といがみ合っていることが本当に馬鹿らしく思えてくる。だって、人生なんていずれ、ほら、こんなふうに終わるんだから」 テヘラン市民のスィーロスさんにとっては、これら4つの浴槽は、いずれ必ずそのうちの1つに自分も横たわり、同じようにシャワーと薬液を頭から掛けられる場所なのだ。私とは、抱くリアリティーの質が違うのは当然だ。 ◆死者の行く末を案じる 洗浄を終えた遺体は、親族の男たちの肩に担がれ、埋葬場所へと向かう。私は、24歳で肝臓を病んで亡くなったという青年の葬列とともに歩いた。 この青年のいとこだという男性が、肩を抱えられながら泣き崩れる人たちを指差し、あれが故人の母親、あれが半年前に結婚したばかりのお嫁さん、などと教えてくれる。つい昨日亡くなったばかりなのだから、死者との別れもまだ十分にできていないのだろう。泣き叫び、全身で悲しみを表している。 埋葬地には、網の目のように墓穴が掘られている。実際には、1つ1つ掘られたものではなく、巨大なプールのようなものをブルドーザーで掘り、その内部をレンガの壁で格子状に区切り、その1スペースが1人用の墓穴となる。深さは2メートルほどあり、上下2段に区切って埋葬することも可能だ。 埋葬を前に、ここで最後の儀式が行なわれる。墓穴に横たわった死者に、最後の礼拝を行なわせるのだ。白布の結び目を解き、死者の顔を少しだけ外に出してやり、その顔をメッカの方角に向けさせる。そして、あたかも生きている人間が礼拝を行なっているかのように、近親者がその肩をゆすってやる。次に、聖職者が死者に向かって特別な祈りを捧げ、その中ではイスラムの預言者やイマームたちの名が唱えられる。埋葬された夜、死者の傍らに天使が現れ、そうしたことを試問するからだ。死者はそれに正しく答え、晴れてあの世へと旅立って行く。 最後に、遺体の上から泥が流し込まれる。泥で遺体を封じ込めると、上から石板で閉じ、その上にさらに土が盛られる。 墓穴の中に、故人の遺品を忍ばせる習慣はない。現世への執着を最も醜いこととするイスラムでは、物品を埋葬することはもちろん、死者に化粧をほどこしたり、美しく着飾らせたりすることさえ、無意味な行為とされる。イスラムでは、来世に持ってゆくべきものは、現世の行ないだけであるとされる。それによって、最後の審判の日、地獄行きか天国行きが決まるからだ。 「裸でこの世に生まれてきたのだから、裸でこの世を去ってゆけばいい。死者に金持ちも貧乏もないでしょ」 スィーロスさんによれば、残された遺族にとって何より重要なのは、死者が楽園にゆけるかどうかだけだという。 死者を送り出した後、遺族は3日目、6日目、40日目に、改めて死者の追悼式を行なう。近所のモスクを2時間ほど借り切り、お坊さんを呼んで礼拝を行ない、その後、招待客に昼食を振舞う。遺族は40日忌まで黒い服を着て喪に服す。 盛大な追悼式を催す代わりに、自宅で身内だけの簡単な式を行ない、浮いたお金を貧しい人に寄付する遺族もいる。また、週末には、甘いナツメヤシの実を商店で買い、他のお客にふるまうため、レジの横に置いてゆく人もいる。こうした寄付やふるまいは、死者の魂を安らかにし、その旅路を平穏なものとするためだ。 映画「おくりびと」の魅力の1つは、日本人ですら気づかなかった、死者をおくる様式美に触れることだ。イランにはイランの、イスラムにはイスラムの、死者をおくる様式美というものがあるのなら、それを見てみたい。そう思って訪ねたベヘシュト・ザハラーの遺体洗浄場だったが、彼らの仕事の中に、洗練された美はなかった。彼らの仕事は、死者を清めるというよりも、埋葬後の、腐敗による臭気や伝染病の発生を防ぐための処置という意味合いの方が強い。 この違いは、現世を仮の住処とし、来世の永遠こそを重んじるイスラムの死生観によるものだろう。イスラムでは、残された遺族にとって何より重要なのは、死者の来世での魂の安らぎであり、死者が楽園にゆけるかどうかだ。残された遺族の心情を慮ることではない。そのため、遺体の洗浄に様式美が伴う必要は全くないのだ。 では、遺族の心情に重きを置く、日本の納棺師のような仕事は、イスラムの死生観の前では無意味な存在となってしまうのだろうか。 後日、映画「おくりびと」を観たイラン人の友人は、その感想をこう述べた。 「納棺師の仕事によって、残された人の心が救われたり、考え方が変わったりする。それだけでも、とても意味のある仕事だと思う」 人の心は、時に、宗教や習慣の違いを容易に乗り越えてしまえるほど、柔軟なものなのかもしれない。さもなければ、この映画がオスカーを取ることなど、なかっただろう。
No.23 第10期イラン大統領選挙 1

▲街頭で道行く車に支持を訴えるムーサヴィ候補の支持者たち

▲アフマディネジャード候補を支持する商店 テヘラン南部の下町で

▲路上での市民による討論

▲幅広い年齢層に広がるムーサヴィー候補の支持者
6月12日に大統領選挙の投票が行なわれてから、まもなく2週間が経とうとしている。しかし、いまだにテヘランをはじめとするイランの主要都市では、散発的な騒乱が起きており、今後それが沈静化してゆくのか、それとも抑えようのない火の手となってイラン全土を覆ってしまうのか、まったく予測できない状態になっている。今期イラン大統領選挙のこれまでの流れを振り返ってみたい。 ◆前例のない選挙戦 今回の大統領選挙は4人の候補者で争われた。現職のアフマディネジャード大統領(保守強硬派)、革命防衛隊の元総司令官レザーイー(保守穏健派)、元国会議長で国民信頼党党首キャッルービー(改革派)、イランイラク戦争時代に首相を務めたムーサヴィー(改革派)の各氏である。 選挙戦が進むに連れ、保守派の支持を糾合するアフマディネジャード候補と、ハータミー元大統領などの改革派の支持を集めるムーサヴィー候補の保革対決という構図が色濃くなってきた。しかし、いずれも過半数を獲得することなく、この2名による決戦投票が行なわれるだろいうというのが大方の予想だった。 選挙運動は、内外のメディアが目を見張るほど盛大で活気があり、そして自由なものだった。学生や若者を中心に、テヘランでは毎日のように大きな広場や目抜き通りに各候補者の支持者が集まり、道行く車に自分の候補への支持を呼びかけたり、ポスターを配ったり、スローガンを叫び、歌い、議論し、明け方まで騒いだりし、その様子はイランの選挙史上、類を見ないものだった。 選挙に対する熱気とこうした自由な空気を生み出すのに大きな役割を果たしたのは、イラン国営放送の選挙特番だった。 選挙の投票率は、体制の正当性を証明する目安となるため、政府は選挙のたびにメディアを通じて、投票は国民の義務だとさかんに呼びかける。だが、今回の大統領選挙では、呼びかけるだけでなく、候補者1人1人に17.5時間ずつ時間を割り当て、くじ引きで決まった順で、政策説明や専門家との答弁、選挙用ドキュメンタリーの放映などといった様々なテレビ番組に出演させ、有権者に支持を呼びかける機会を4人の候補者に平等に提供したのだ。中でも最も注目を浴びたのが、各候補総当たりで行なわれた1対1の討論番組だった。その中でも物議を醸したのが、アフマディネジャード候補とムーサヴィー候補の討論だった。 ムーサヴィー候補は、アフマディネジャード候補のホロコースト発言や、イギリス兵の長期にわたる拘束といった、この4年間の彼の外交政策の数々が、いかにイランの品位を貶め、イラン人のパスポートを無価値にしたかと糾弾した。アフマディネジャード候補は、ムーサヴィー候補を支持しているラフサンジャニ師の名を挙げ、彼の家族がいかに収賄に手を染めていたか(これを口にするのはこれまで完全なタブーとされていた)、また、ムーサヴィー候補の夫人が不正に学位を取得しているなどと言って非難した。それはもはや討論とは呼べない、中傷合戦、なじり合いと言ってもよいもので、険悪な空気のまま幕を閉じたのだった。 街角での市民による討論が始まったのは、その頃からだった。もともとイラン人は話し好き、議論好きである。誰かが討論を始めれば、すぐ人垣ができ、その隣で新たな討論が始まり、いつのまにか数十人、あるいは100人以上の大討論会が繰り広げられる。いつしか若者だけでなく、幅広い年齢層が草の根で選挙活動に参加するようになっていた。そして、メディアもそれを好ましいものとして積極的に報道した。選挙への熱は否応にも高まっていった。 ◆3候補による異議申し立て そうして迎えた投票日。投票所には午前中から長蛇の列ができた。4年前の大統領選挙では、午前中の投票所など閑散としたもので、人々は投票終了間際の夕方から、夕涼みがてら投票に向かったものだった。今回は高い投票率が期待された。 そして一夜が開け、集計結果が発表された。アフマディネジャード64%、ムーサヴィー36%。アフマディネジャードの圧勝だ。投票率は85%という驚異的な数字に達した。 海外のメディアも、そしてイランの国営メディアでさえ、今回の選挙を、変化を求める国民的な大きなうねりとして、これまで好意的に伝えていた。多くの人が、何か新しい時代が始まるような気がしていた。4年前の大統領選挙より20%も増した高い投票率が意味しているものは、普段選挙には興味のない人たちまでもが、何かを変えたいという思いから、重い腰を上げて投票所に足を運んだことではなかったのか。なのに、どうしてその結果が、現状維持を求める人たちの圧勝なのか。 聞いてみると、私の周囲でアフマディネジャード大統領に投票した人はけっして少なくない。ムーサヴィー派の拠点の1つであるテヘラン大学の学生の女の子でさえそうだった。彼女は言った。 「大統領になる人は、庶民の生活と同じレベルの生活をしている人じゃないと駄目よ。お腹が減っていない人が、空腹の苦しみを理解できるはずないでしょ」 汚職とは無縁な、清貧で庶民派の大統領。それは4年前の選挙で、常に黒い噂の耐えないラフサンジャニ元大統領との決戦投票だからこそ効力を発したイメージであって、今回の選挙では、悪化の一途をたどる失業率やインフレなど、国内の経済政策が焦点のはずではなかったのか? 「ムーサヴィーは自分の経済政策についてたいしたことは語ってないわ。ただアフマディネジャードの政策を批判して、自分はあれをやる、これをやると主張してただけ。彼の掲げる自由とか変化とかのスローガンに一部の若い人たちが踊らされていただけよ」 確かにアフマディネジャード大統領には、根強い支持層がある。彼を支持する人は口を揃えて、アフマディネジャードほど小さな辺境の村まで出かけていった政治家はいないと口にする。確かに、アフマディネジャード大統領はこの4年間、せっせと地方全州を回ってきた。彼はどこへ行っても大群衆に囲まれ、一般市民からの陳情書を山のように受け取っていた。改革派支持者が浮かれていたのはテヘランだけのことで、地方では、まだまだ彼の人気は衰えていなかったのだろう。 だが、それにしては極端な結果が報じられている。イラン国営通信が報じた4人の候補の生まれ故郷の開票結果によれば、レザーイー候補の出身地の村では、900票のうち830票がアフマディネジャードに、ムーサヴィー候補の村では、7000票のうち5000票がアフマディネジャードに、そしてキャッルービー候補の町では6万4000票のうち4万票がアフマディネジャードの得票となっている。そして彼がテレビ討論の中で痛烈に批判したラフサンジャニ師の生まれ故郷でも、やはりアフマディネジャードが圧勝している。 すぐに他の3人の候補者から、開票結果に対する異議が唱えられた。中でもムーサヴィー候補は敗北を受け入ず、必ず自分が勝利しているはずだとし、票の再集計を求め、法的処分に訴えると声明を出した。 それに呼応するかのように、午後からテヘラン各地区の広場に、ムーサヴィー支持の若者らが集まり、抗議の声を上げた。一部が暴徒と化し、治安部隊は集会を解散させるため、広場にいる若者を男女かまわず無差別に殴打し、催涙弾も放った。選挙前の自由な空気が、もう別の世界の出来事のようだ。(つづく)
No.24 第10期イラン大統領選挙 2

▲数十万人規模と言われた改革派による行進
現職のアフマディネジャード大統領の圧勝という開票結果を受け、他の3候補が大規模な不正があったと声を上げ、その支持者らはデモを強行し、テヘラン市街は一気に騒乱状態に飲み込まれようとしていた。事態を重く見た最高指導者のハーメネイー師が、ムーサヴィー候補と会見したのは開票翌日の14日の夜だった。 この会見でムーサヴィー候補は、把握している不正行為のいくつかをハーメネイー師に訴え、ハーメネイー師は、開票結果に対する異議申し立ては、法で認められた権利であるとし、選挙を監督する護憲評議会に審査を行なわせると約束した。 ◆革命後最大のデモ 改革派とその支持者らは、この会見の結果に一縷の希望を託すことになった。一方で、保守派の法学者と法律家で固められている護憲評議会が開票結果を覆すことなどあり得ないという悲観論もあった。いずれにしても、改革派にとってなすべきことは、政府に圧力をかけてゆくことだった。翌15日、ムーサヴィー候補とキャッルービー候補の呼びかけで行なわれたデモ行進は、数十万人という、革命後最大規模の参加者を記録した。 当局はこのデモ行進に許可を与えず、デモを強行する場合、排除のためには実弾使用も辞さないと前もって警告していた。この日の午後3時頃、行進のスタート地点、エンゲラーブ広場には、わずか500名ほどの参加者が集まっているに過ぎなかった。彼らがテヘランを東西に貫くアーザーディー通りをアーザーディー広場に向かって歩き始めると、瞬く間に行進は膨れ上がり、途中、ムーサヴィー候補とキャッルービー候補が演説を行なった際には、その数は最高に達した。 私がアーザーディー通りに着いたのは7時過ぎだったが、人の数は少しも減っていなかった。誰もが笑顔で行進を楽しんでいるのが印象的だった。スローガンは叫ばれず、代わりに、スローガンの書かれた画用紙を掲げて歩いていた。そのため、これだけの大群衆にもかかわらず、行進は静かで平穏に保たれていた。 途中、ある箇所に通りかかると、若者らが「右に向かってピースサインを」と呼びかけた。右手にはバスィージ(革命防衛隊傘下の民兵組織)の施設があった。そして別の若者は群衆に向かって、自分の唇に人差し指を当て、けっしてスローガンを叫んだり野次を飛ばしたりしないよう注意を促した。騒いで彼らを刺激し、デモへの攻撃や鎮圧の口実を与えないようにするためだ。それでも時おり、スローガンを叫んでしまう若者がいる。そんな時にはまわりの人たちが、「スローガンを叫ぶな!」といさめるのだった。 しかし、平穏に行なわれていたこの日のデモ行進も、日が暮れてからは騒乱に変わった。別のバスィージの施設から黒煙が立ち上り、治安部隊による威嚇射撃が実弾に変わり、一部の暴徒が投石や焼き討ちを行なった。当局側の発表で、この夜だけで最低7名が亡くなった。 ◆絶たれた希望 デモや抗議集会は毎日途切れることなく行なわれ、日が暮れてからは、100人単位ほどの小さなグループが市街のあちこちで「アッラーは偉大なり」とスローガンを叫びながら練り歩く姿が見られた。治安部隊との散発的な衝突も絶えなかった。 当局側は、外国人によるデモの取材をいっさい禁止とし、テヘランに支局を構える海外メディアの記者に対しては、支局外での取材では記者証を無効とし、もし治安部隊に捕まっても身の安全は保障しないと脅しをかけた。 内外のジャーナリスト、改革派の大物政治家、学生の活動家らが次々と逮捕されていった。 落選した3候補とその支持者らの要求は、あくまで選挙の再投票、つまりやり直しである。しかし、護憲評議会は一部の票の再集計を主張していた。そんな中、6月19日のテヘラン金曜礼拝で、最高指導者ハーメネイー師が説教を行なうことになった。 ムーサヴィー支持者らは、ハーメネイー師に最後の希望を託していた。普段、金曜礼拝の説教など見向きもしない人たちまで、この日の説教だけはテレビに噛りつくようにして見ていた。自分たちが危険を犯して1週間続けてきた抗議運動が、最高指導者の英断に結びつくことを祈って。 しかし、その期待はあっけなく裏切られた。ハーメネイー師の口からは、再選挙はあり得ないこと、自身がアフマディネジャードを支持していること、そして、これ以上の抗議運動には重い代償が伴うという、デモ終結への最後通牒が言い渡されたのだ。 この演説を聞いた改革派の支持者らの多くは、「終わった」という思いと、「始まる」という思いの2つを胸に抱いたに違いない。「終わった」とは、最高指導者が完全に自分たちの要求を拒んだことで、再選挙の実施という、体制維持という大前提のもとで行なってきた要求に一縷の望みもなくなったということである。実際、これまでの改革派の運動は、反政府運動であり、けっして反体制運動ではなかった。多くの疑惑があっても、本当に、どの程度の不正があったのかは誰にもわからない。しかしこれほどの国民からの抗議があるのなら、政府は民主主義を標榜する以上、その声に耳を傾ける義務がある。ところが、政府の回答は、改革派を根絶やしにするような大弾圧であり、それに対する最高指導者のお墨付きだった。このことへの怒りと絶望が、人々にこの騒乱を反体制運動へ向かわせるのではないかという「始まり」の予感を持たせたと思う。 最高指導者の説教の翌日、テヘラン各地でデモ隊と治安部隊が衝突し、火の手が上がり、ヘリコプターが飛び交い、町は騒然とした空気に包まれた。(続く)
No.25 第10期イラン大統領選挙 3

▲護憲評議会による票の一部再集計の様子を放映するイランのテレビ・ニュースチャンネル
20日にテヘラン各地区で激しい騒乱が起ってから、比較的静かな日が続いた。24日には、国会前での抗議集会が夕方から予定されたが、失敗に終わった。改革派支持者らが集まる前に、治安部隊がその地域一体を裏通りに至るまで完全に占拠し、誰も近寄れないようにしてしまったからだ。この治安部隊のやり方は、デモ隊の集結を未然に防ぎ、治安部隊との全面的な衝突を回避する点で功を奏していると言える。規模が膨れ上がったデモを無理に鎮圧すれば、犠牲者が膨らみ、収集がつかなくなる恐れがあるからだ。 大統領選挙の監督権限を持つ護憲評議会は、6月29日に全体の10パーセントの票の再集計を行なうと約束していた。一方、ムーサヴィー候補とキャッルヴィー候補は、あくまで選挙のやり直しを求めていた。双方の折り合いがつかないまま、とうとう29日を迎え、護憲評議会は2候補の代表者が欠席する中、一部票の再集計を行なった。そして、大方の予想通り、選挙の健全性を宣言し、アフマディネジャード大統領の再選を発表したのだった。 改革派の支持者たちの目には、すべてが茶番に映ったに違いない。数十万という数がテヘランでデモ行進に参加し、今回の選挙結果に異議を訴えている中、当局はそれを徹底的に弾圧し、この2週間近くの間に多くの改革派政治家や活動家、ジャーナリストを逮捕、拷問しておいて、何が健全な選挙だと思っているだろう。そして海外のメディアのほとんどは、そうした声を代弁し、デモ弾圧の映像を繰り返し流しは、あたかも「自由を求めるイラン市民」対「強硬派政府」の戦いがイラン全土で繰り広げられているかのような報道を行なった。 しかし、実際には、イラン国内は割れている。アフマディネジャード大統領の支持者の多くは、「もう終わったことなのに」と改革派のデモを冷ややかに眺め、ムーサヴィーらの要求に対しては、「選挙に負けたから最初からやり直せなんて話があるか。選挙結果はいつも世論調査通りになる訳じゃない」と苛立ちを隠さない人も多い。政府の強硬な弾圧姿勢に対して、疑問を投げかける声も聞かれない。 一方、デモや騒乱に参加している人をすべて改革派とひとくくりにすることもできない。ムーサヴィーが呼びかけるデモ行進や抗議集会は、当局との衝突を避けるために、けっしてスローガンを叫ばず、静かに、平和的に行進を行なうことが守られていた。もちろん、こうした平和的なデモに参加する人たちの中にも、治安部隊やバスィージの挑発によって、暴徒と化す若者たちもいただろう。しかし、多くは平和的な行進が終われば解散し、それ以降も残ったり、新たにその時間から加わったりする者たちが、声高にスローガンを叫び、暴徒と化しているという声は、一般市民からも聞かれるものだった。 いずれにせよ、29日に護憲評議会が一方的に票の再集計を決行し、選挙結果を覆すほどの大きな不正はなかったと発表したことで、ムーサヴィー側はこれ以上、法の枠内で選挙結果に異議を唱える術を失った。にもかかわらず、ムーサヴィーもキャッルービーも、異議申し立てを取り下げる気はまったくないようだ。つまり、最高指導者が約束し、実行させた再集計の結果も受け入れないということであり、ここまであからさまな最高指導者との対決姿勢は、革命後30年間の中で初めてと言ってよいものだった。 イランイスラム共和国は、「ヴェラーヤテ・ファギーフ(イスラム法学者による統治)」を国是とする。「イスラム体制」は、お隠れ状態にあるシーア派12代目イマーム・マハディーが再臨するその日まで、神に変わってこの世を統治する権限を与えられているのだ。したがって、イスラム体制とその最高指導者に敵対することは、神に敵対することに等しい。この論理から、保守派の聖職者の中には、ムーサヴィーを極刑に処せとの声も上がっている。 神権統治のこの国では、最高指導者の権威は絶対でなければならない。真の宗教的権威者として人々を導かなければならない。ところが今回の騒乱では、最高指導者の言葉に、一部の人々は従わなかった。体制は宗教的権威を補おうと、政治的、軍事的権威を行使した。それによって騒乱は一時的に収まったが、体制はいずれ、そのツケを払わされることになるかもしれない。
No.26 アメリカ大使館占拠記念日
11月4日。今朝は、この秋一番の冷え込みだった。 昨日は、テヘランにしては珍しく、朝からの雨が終日降り続き、深夜には暴風雨になった。このままもう一日雨が続けば、明日のデモも中止かな、などと淡い期待が胸をよぎったが、一夜明け、朝の目覚ましがなったときには、まぶしい朝日がカーテンの隙間からこぼれていた。 今日、11月4日、イラン暦アーバーン月13日はアメリカ大使館占拠記念日である。1979年、イスラム革命が勝利したその年、急進派学生たちが、「スパイの巣窟」とされたアメリカ大使館を急襲、占拠し、大使館員らを444日間に渡って人質にとった。それ以来、この日は反米、反覇権主義の記念日となり、また、学生の日ともされている。 毎年この日には、保守派の学生たちが旧アメリカ大使館前に集い、「アメリカに死を」、「イスラエルに死を」のお決まりのスローガンが叫ばれる。そうした官製デモには興味はないが、今年は違う。9月に行なわれた「世界ゴッツの日」同様、改革派が便乗デモを呼びかけているのだ。 しかし、改革派は場所を発表していなかった。恐らく、これまで集合場所や行進ルートを事前に発表したことで、治安部隊や体制派市民に先を越されてきた経緯から、今回あえて未発表にしたものと思われる。体制派はもちろん旧アメリカ大使館前に集合することになっているが、改革派のデモは、恐らく市内のいくつかの中心的広場で分散して行なわれることになるだろう。旧アメリカ大使館にも近く、これまでのほとんどのデモの舞台となってきたハフテティール広場ならハズレはないだろうと目星をつけ、家を出た。 朝のバスは込んでいる。新型インフルエンザはイランでも広がりつつあるが、満員のバスの中でもマスクをつけている人は一人もいない。僕は持ってきたマスクをつけようとしたが、あろうことか耳に回すゴムが片方切れていた。下駄の鼻緒が切れたような嫌な気分だった。 しかし、実際、今日のデモはそれほど恐れるには価しない、と僕は自分に言い聞かせる。記念日といっても、平日だ。仕事のある一般の人が参加できる時間帯じゃない。改革派のデモの規模は、1ヵ月半前のゴッツの日ほど膨れ上がることはないだろう、と考えた。 20分ほどでバスはヴァリアスル広場に近づいた。繁華なこの広場には、平日の午前中にふさわしい人出が見られたが、店という店は破壊や焼き討ちを恐れて軒並みシャッターを降ろしている。そして、街路の至るところに5人、10人のグループで警備にあたる治安部隊の姿があった。 目指すハフテティール広場まであと1キロほどだというのに、道路は車両通行止めで、バスはこれより先には進めないという。バスや車を降りた人々の群れが、歩行者天国となった広い道路を、ハフテティール広場へと流れてゆく。 そのときだった。若い男女5、6人のグループが、改革派のシンボルであるピースサインを高々と掲げ、「ヤー、ホセイン!ミールホセイン!」(※)と叫んだのだ。次の瞬間、周囲の数十人が、その次の掛け声ではさらに多くの人が、そして、声は瞬く間に水の波紋のように広がり、あっという間に1千人近い人たちが一斉に声を上げた。 大地を揺るがすような叫びの中で、僕はひとり、呆気に取られて立ちすくんでいた。 こんなに多くの人が、という驚きと同時に、この国の失業率が20%近いことを思い出した。職を持っていたとしても、イランでは多くは個人経営で、決まった時間に出社しなければならないサラリーマンは少ない。デモは休日でなければ盛り上がらないということは決してないのだ。 行く手に小さな小競り合いが見えた。そこは北からの道路がぶつかるT字路で、やはりこの先のハフテティール広場を目指す人の流れが次々と合流していた。治安部隊が展開し、そこで人々の流れを食い止めていた。ハフテティール広場行きをそこで阻止するつもりらしい。 プロテクターで身を固めた治安部隊は、10人ほどの単位で行動し、騒ぎの場所へゆっくりとにじり寄っては、デモ隊を後退させる。時おり乾いた空砲が聞こえるが、催涙ガスはまだ使われず、衝突も起きていない。しかし、誰か一人でも投石を始めれば、一気に騒乱が始まる緊迫した空気に満ちていた。退路を確保しながら、しばらく様子を見る。カメラを出せるような空気ではない。イラン人ですら、カメラ付き携帯を手で隠すように撮影をしている。デモの取材では小型のデジカメですら目立ってしまう。高画質のカメラ付き携帯を買わなければと痛感した。 道路の向こうで、一人の青年が治安部隊に取り押さえられた。その途端、辺り一帯から、「ウォー」と鬨の声が上がる。この声には、いつも戦慄と武者震いを覚える。身も心も高揚して、一緒に雄叫びを上げたくなる。もし彼らと声を合わせることが出来たなら、恐れはそのまま勇気へと変わり、きっと、怖いものなど何もないという気持ちになるに違いない。この戦慄と興奮は、麻薬のような恍惚感を人を与える。僕はこの感覚を得たいがために、恐怖を押し殺してまで、またデモの只中に足を運んできたのではないかとさえ思う。もしかしたら、多くの人がそうなのかもしれない。 それからまもなくして、治安部隊の前で後退する人の流れとともに、僕はヴァリアスル広場に戻った。そこもすでに多くの改革派市民であふれ、あちらこちらからスローガンの合唱が聞かれた。 腕時計を見ると、すでに11時半近かった。とっくに職場に着いていなければならない時刻だ。旧アメリカ大使館はもちろん、ハフテティール広場でさえ、この様子ではたどり着けそうもないのは明らかだった。騒乱の前に立ち去らねばならない悔しさと安堵の両方を抱えながら、僕は市バスに飛び乗った。 バスはテヘラン市街を南北に貫くヴァリアスル通りを北へ向かう。行く先々で、気勢を上げる人々の姿を路上に見た。治安部隊との衝突も始まり、催涙ガスに逃げ惑い、互いにタバコの煙を掛け合う人々の姿もあった。 バスは治安部隊のバイク部隊と何度もすれ違う。彼らは無線で連絡を受けては、市内のあちこちを転戦しているようだ。そんなバイク隊の一つが僕の乗ったバスの脇を通り過ぎようとしたとき、道路の向こうから彼らに向けて一斉に投石が始まり、バイク隊も特殊な銃で応戦を始めた。イラン人の乗客たちもさすがに焦って、「ドアを閉じろ、早くバスを出せ!」と運転手に向かって口々に怒鳴っている。 突然、バスの後部半分の女性エリアから、改革派学生の愛唱歌「ヤーレ・ダベスターニーエ・マン(学友たちよ)」の合唱が始まった。 学友よ 君は僕らと共にある 鞭が僕らを打ち据え、嗚咽と痛みがこみ上げる 黒板から僕と君の名は消されてしまった 不正と弾圧の手は残り、僕らの身には未開の荒地が広がるだけだ 僕らはみんな雑草だ 善人のままでは死んだも同然 僕と君の手でこのカーテンを引き裂かなくてはならない 僕と君以外の誰がこの痛みを癒せるというのか 学友よ 溌剌としたその歌声を聞きながら、僕は思った。この混乱はこの先まだまだ続くだろう、と。この国がこれまで、国民と体制の団結を内外に誇示するために行ってきたパレードや官製デモは、今、分裂と反体制を叫ぶ場として、変化を求める市民に絶好の機会を与えている。こうした官製デモやパレード、セレモニー、記念日に類するものは、それこそ年に10回以上ある。その一つ一つが危険な暴発をはらんだものなら、はたして政府はその全てに、正しく対処してゆけるのだろうか。 ※ ホセインは預言者ムハンマドの孫であり、シーア派3代目イマーム。シーア派イスラム教徒にとって抵抗と殉教というイデオロギーの象徴的存在。ミールホセインは、先の大統領選挙の結果に異議を唱えた改革派候補、ムーサヴィー元首相のファーストネーム。
No.27 イスラム革命勝利記念日 2010年2月11日

▲官製デモの行進 女性は圧倒的にチャードル姿が目立つ

▲最高指導者のポスターを自転車に取り付けていた男性.

▲様々な売り子がお祭り気分を盛り上げる
◆厳戒態勢の祝日 2月11日の革命記念日(※1)を前に、もう1年が経ったのかと、時の過ぎ去る速さに唖然としてしまう。昨年の革命記念日では、様々な出店や歩行者天国を楽しむ体制派市民の姿に、官製デモも悪くないなと感じたものだった。こんなことなら来年は妻と子供も連れてきてやろうなどと呑気なことも考えたが、あれから1年、今年の革命記念日は1人で出かけてゆくのも気が引けるほど緊張が高まっている。 政府は例年通り、数え切れないほどの政府機関や公的機関の職員、家族を動員し、デモ行進への参加を国民に呼びかけていた。一方、改革派も、抗議デモの開催を呼びかけていた。激しい衝突の起こったアーシュラーの騒乱(※2)からおよそ1ヵ月半、今回の顛末がどのようなものになるのか、内外が注目していた。 毎年、革命記念日の官製デモは、イラン全土の市町村で様々な規模で催され、首都テヘランでは市街7ヵ所から始まる行進が、テヘランの西の玄関口アーザーディー広場の終点で合流し、同広場で昼前に行なわれる大統領の演説を大群衆で盛り上げる手順となっていた。 朝10時、私は、多くのデモ隊が通過する市街中心部エンゲラーブ広場にやってきた。直径100メートルほどの広場の周囲には、飲み物やお菓子、子供向けの冊子やCDなどを配布する様々な機関や団体のブース、民族音楽のステージ、革命の写真展、赤新月社の献血車などがところ狭しと並び、「アメリカに死を!」などのお馴染みのスローガンを叫びながら歩行者天国を楽しむ黒ずくめの体制派市民で賑わっていた。その数に匹敵する治安部隊のものものしい警戒さえなければ、その様子は昨年の革命記念日のお祭りムードと何ら変わりないものだった。 「ちょっとちょっと、ミスター! 何やってるの?」 携帯電話に自分の声を吹き込んでいたら、さっそく制服の警官5人に囲まれた。幸い今日は職場がらみの仕事で来ているため許可証がある。首からかけた許可証を見せると、少し困惑した様子で解放してくれた。この1枚の許可証がなければ、この時点で拘束、そして良くて国外追放、悪くてスパイ罪で拘留か。人や行動への評価が、お上の許可ひとつで180度変わってしまうのは、なんともバカらしい話に思えた。 ※1革命記念日: アメリカの傀儡政権として君臨していたパフラビー王政が打倒され、国王の海外逃亡と入れ替わるように、フランスに追放されていた革命の指導者ホメイニー師が帰国し、1979年のこの日、ホメイニー師によって革命勝利宣言が出された。 ※2アーシュラーの騒乱: イスラム教の預言者ムハンマドの孫である3代目イマーム・ホセインの殉教を悼む儀式アーシュラーは、シーア派最大の宗教儀式である。去る12月27日に行なわれたアーシュラーでは、例年通りの追悼儀式とともに、改革派の抗議者らによる大規模な反政府デモも行なわれ、治安部隊との激しい衝突が起った。神聖な追悼儀式を汚したとして、当局と体制派市民の強い反発を招いた。 ◆保守派の市民たち エンゲラーブ広場を後にし、5キロ先のアーザーディー広場へ向かって歩くことにした。 テヘランを東西に貫くこの目抜き通りは、体制護持のスローガンを叫びながら歩く官製デモでほぼ埋め尽くされている。その数は数十万規模か。この人出に加え、沿道にはびっしりと治安部隊が待機し、ビルの屋上では銃を構えた要員が目を光らせている。改革派のデモ隊が入り込む余地はまったくない。 テヘランの大学で建築学を学んでいるという真面目そうな青年が話しかけてきた。今日の行進になぜ参加したのかと訊ねてみた。 「動機は1つや2つではありません。イスラム教徒でありシーア派である私たちは、統治体制に関して理想や考えがあります。歴史を見返せば、私たちが自らのアイデンティティーを取り戻すことができたのは、(イスラム共和制になってからの)この31年間だけです。長い歴史において私たちは、宗教的にも国民としても権利を奪われ、従属を強いられてきましたが、今は地域で最も有名な国となり、自分たちの意見を堂々と語ることができる。そのために私たちは革命で多くの殉教者を出しました。それを守っていかなければなりません。こうした信条は、その強弱の差はあっても、すべてのイラン人が持っているものです」 こうして誰かにマイクを向けて話していると、何度も私服警官に肩を叩かれ、道路脇に誘導される。彼らが手荒なまねをすることはなく、取材許可証を確認するとすぐに解放してくれる。改革派との衝突が予想される今日、外国人に対する完全な取材規制が敷かれており、海外メディアは大統領の演説が予定されているアーザーディー広場の中でしか取材活動を許されていないからだ。 テヘランの高校生だというグループが、楽しげに私を冷やかす。インタビューさせてよと頼むと、興奮気味にマイクの前に立って話し始めた。 「この行進はイランの壮大な力を示すものであり、そこに参加するのは神の神聖な命であり、僕らはそれを自らの義務と考えています。最近の騒乱に参加した者たちは、権力を欲するだけの偽善者であり、チャンスとばかりに機会を利用しているだけです。そしてMKO(※3)といった反体制テロ組織を海の向こうから国内に呼び込もうとしている。デモを起こして騒いでいる彼らはけっして我々の国民ではありません」 体制への支持と、 改革派への激しい嫌悪をよどみなく語ってくれる彼らは、私が私服警官に連れていかれると、解放されて戻ってくるまで心配そうに待っていてくれる。 海外のメディアは、この日のデモを、食事とお土産付きの1日バスツアーと称して、テヘラン周辺の村落から村人を大量にかき集めてきただけの動員デモだと笑うかもしれない。それも事実だ。でも、純粋に最高指導者やアフマディネジャード大統領、そして法学者による統治というこの国の原則を支持してやまない人たちが、今日この場に馳せ参じているのも事実だ。 80年代、生まれたばかりの革命政府を守るため、イランイラク戦争に従軍し、命をかけて戦った人たちや、その戦いで命を落とした「殉教者」の遺族たち。あるいはそうした価値観を支持する人たちが、今この国の体制を支えている。彼らは、政府から手厚い保護を受け、その人生は、経済的にも精神的にも体制と一体化したものである。体制が唱える理念や価値観は、そのまま彼らの価値観であり、彼らの思想も、叫ぶスローガンも、体制の枠を超えることはない。つまり、彼らにとっては、このイランイスラム共和国には、完全な思想の自由、言論の自由、表現の自由があるに等しい。反体制のスローガンを叫んで拘束され、それで言論の自由がないと主張している改革派の抗議デモなどは、彼らにとって理解しがたいものでしかないのだ。 古ぼけた自転車に、「アメリカに死を!」のプラカードを苦心して取り付けようとしている老人がいる。写真を撮っていいかと訊ねると、「おお!もちろんだ」と笑顔で胸を張り、緊張した面持ちで自転車とともにカメラの前に立ってくれる。 彼らは善良な市民なのだ。その一方で、改革派の抗議デモを「暴徒」、「破壊者」、「外国の手先」、「敵」と呼んではばからず、治安部隊の流血の弾圧も支持する。そんな体制派市民と接していると、善悪の区別をどこで引いていいのか分からなくなる。 ※3MKO: ムジャヒディン・ハルク(イスラム人民戦士機構)。イランの反体制派組織。イスラム革命では反王政として宗教勢力と共闘する立場にあったが、革命後、政教一致の現体制が成立すると弾圧の対象となる。拠点を海外に構え、イスラム体制の打倒を目指し、イラン国内でのテロ活動など武装闘争を展開する。 ◆遠い団結への道のり 昼過ぎ、なんとかゴールのアーザーディー広場に到着したときには、残念ながら大統領の演説は終わっており、群衆は解散し始めていた。歩行者天国だった通りには市バスが走り始め、路上に散らかった無数のポスターやゴミが、雨交じりの強い風に舞っていた。私もそろそろ職場へ戻らなければならない時刻だった。 タクシーの運転手は、私が記者証を首から提げているのを見ると、今日の行進の様子はどうだったかと尋ねてきた。 「なかなかの人出でしたよ」 「騒がしくなるのはこれから夜にかけてさ。今ごろヴァリアスル広場やアーリアシャール広場では衝突が始まってる頃さ。見なよ」 見ると、治安部隊のバイクが数十台、これまでも幾度かデモの行われた市街西部のアーリアシャール広場に向かって疾走してゆく。 「死者が出なければいいけど」 「死者は出ないに越したことはないけど、彼らには声を上げる権利があるんだ。その権利を奪われるのなら、路上に出るしかないじゃないか」 「お子さんは?」 「いるよ。1人は大学生だ」 「デモへは?」 「行くなと言ってあるさ。今日みたいな日は特に、家にいろと強く言ってきたよ」 運転手が言っていたように、この日の午後、市街数ヵ所で小規模な衝突があったらしい。 この晩、妨害電波によってBBCやVOAをはじめとする衛星放送の主要なチャンネルはまったく映らず、改革派のデモ参加者が撮影したデモの様子を確認することはできない。ネットもメールもほとんど繋がらない。デモに参加しようとした改革派の指導者が体制派のグループの襲撃を受けて負傷したことや、多くの改革派のデモ参加者が拘束されたことだけが、海外メディアの配信記事で確認できただけだ。 一方、国営メディアでは、革命記念日の行進に数百万の大々的な参加があったとし、国民の団結と連帯を内外に誇示する報道が繰り返しなされ、最高指導者や政府高官は国民の英雄的な参加を称えた。 情報を完全に閉ざされ、国営メディアの勇ましい声だけが鳴り響くこの国で、改革派も体制派も、自分の信じたいと思う情報だけを信じ、相手への敵意をたぎらせてゆく。こんな状況で、どんな和解の糸口が見つかるというのだろう。
No.28 イランの政変はどこへ向かう

◀︎テヘラン市街西部の玄関口アーザーディー(自由)広場。イラン現代史の様々な場面で重要な役割を果たしてきた。広場中央に立つアーザーディータワーは夜間、美しくライトアップされる。
◆改革派からのデモの呼びかけ 中東アラブ諸国の政変を受け、イランでも2月14日から反政府デモが開始された。2009年6月の大統領選挙の不正疑惑に端を発した抗議デモは、選挙からおよそ半年間続いた後、現在までほぼ1年余りにわたって頓挫していた。それがアラブ諸国の政変が飛び火した形で突如復活した。 2月に入ってから、抗議運動の指導者であるミールホセイン・ムーサヴィー元首相と、メフディー・キャッルービー元国会議長は声明の中で、エジプトとチュニジアの国民との連帯を叫ぶためのデモ行進を14日に行なうと発表し、内務省にデモを行う許可申請を行なった。 イラン政府はこれまで、アラブ諸国の抗議運動に支持を表明し、それを独裁と覇権主義に抵抗する市民運動として賞賛するだけでなく、32年前のイラン・イスラム革命を手本としたイスラムの覚醒であるとし、自らのイスラム体制を正当化する材料として大々的に喧伝してきた。その手前、改革派からの「連帯のデモ行進」の許可申請を受理するか否かが注目されていた。受理しなければ、アラブ諸国の政変への支持と矛盾すると非難され、受理すれば、多くの改革派、または反政府勢力の市民が街頭に出て、アラブ諸国の政変が飛び火したかのような騒乱を招きかねないからだ。 結局、イラン政府はこれまでの改革派市民に対する強硬姿勢を貫き、このデモを不許可としたばかりか、街頭での不穏な動きには断固たる措置を取ると表明した。こうした中、1年以上のブランクを持ちながら、どれだけの市民が危険を覚悟でこのデモに参加するのか。私はまったく予想が出来なかった。 ◆イラン反政府デモの再燃 14日のデモ当日、午後3時過ぎには、テヘラン市街中心部のエンゲラーブ広場を始め、かつてデモが展開された主な広場や通りに、かなりの人が集まっていると情報が入った。すでに治安部隊が催涙弾を放ち、市民との衝突も起っているという。 私は夕方、職場を後にすると、恐らくはデモ隊が最終的に集結すると思われるアーザーディー広場に向かった。市内の交通は混乱し、市中心部へ向かう公共交通機関はほぼ麻痺していた。 タクシーを乗り継いでようやくアーザーディー広場に着いてみると、そこは思いがけなく、普段と変わらない夕方の喧騒しかなかった。プロテクターに身を固めた治安部隊の姿を多く目にするが、デモ隊らしき人影は見当たらず、ものものしい警備を横目に帰宅を急ぐ人々であふれていた。アーザーディー広場へ至るアーザーディー通りの警戒は厳重で、デモ隊はここまで到達できなかったのか、あるいは私が訪れたタイミングが悪かったのかは分からない。そこからわずか北にあるアーリアシャフル広場でも、治安部隊とともに、バスィージ(体制派市民の動員軍)の若者たちが、威勢よくバイクを乗り回している姿だけが目についた。 翌日のBBCのニュースで、14日のデモには数万人の市民が参加した他、地方の大都市でもデモが行われ、2人の犠牲者と多数の逮捕者が出たと報じられた。 イラン政府は、このデモは、アメリカやイスラエルと繋がりのある破壊者、ならず者、MKO(イランの反体制テロ組織)、王政支持者、バハーイー教徒(イランの現体制下では弾圧の対象となっている)らによって引き起こされたものだと断じ、デモを呼びかけた改革派の指導者たちを激しく糾弾した。イラン国会では、一部の議員らが、ムーサヴィー、キャッルービー両氏を処刑すべきだと気勢を上げた。 その後、18日と21日に、14日のデモの犠牲者を追悼する4日忌と7日忌のデモが行なわれた。 ◆アラブ諸国とイランの相違 チュニジアのベンアリ政権の崩壊、エジプトのムバラク大統領の辞任、そしてリビア、バーレーン、イエメンなどで騒乱が拡大する中、果たしてイランの抗議運動はこれらアラブ諸国の政変に続くものとなるのか。私はそうは思えない。イランでは、西洋的な自由主義を求める多くの市民が現体制に不満を抱く一方で、現在のイスラム体制とイスラム革命の理念を支持する保守層もまだまだ厚いからだ。 エジプトの革命では、わずかな数の親大統領派が、ほんの数日、抗議デモに抵抗を見せた。しかしイランでは、政府が一声かければ、数百万近い体制派市民をテヘランに集め、デモ隊に対峙させることが出来るだろう。さらに、エジプトでは軍が中立を守ったのに対し、イランには体制に忠誠を誓う13万人の革命防衛隊がいる。たとえエジプトやチュニジア以上の規模で抗議デモが起ったとしても、イラン政府には、他のアラブ諸国の政府や国王のように、デモ隊の要求の一部にさえ、譲歩することはありえない。 さらに、イランの改革派による抗議デモは、まったく統一されていない。もともと選挙のやり直しを求めて始まった運動は、次第にアフマディネジャード大統領の辞任、さらには体制変革へと先鋭化しながらも、指導者であるムーサヴィー元首相も、キャッルービー元国会議長も、体制の枠内での自由化、民主化を求めるに留まり、一部のデモ参加者から不満が出ている。14日以降行なわれている抗議デモも、ある者は体制への不満を、ある者は経済への不満を訴え、また、社会に対する鬱憤を晴らすために暴れたいだけだの者もいるだろう。失業や不況への不満を訴える市民が多くいながらも、このデモでは、それに対する明確な要求も目的も叫ばれてはいない。 目下、改革派の指導者2人の住居は、政府によって完全に封鎖され、通信も遮断されており、2人の安否も定かではないという。改革派のグループは声明を出し、この封鎖を解かなければ、3月2日に再度デモを行なうと表明している。しかし、この抗議運動がどこへ向かおうとしているのか、今はまだ、当のイラン市民ですら分からない。
No.29 在テヘラン・イギリス大使館襲撃事件
先月29日に発生した、イランの学生たちによるイギリス大使館襲撃事件は、世界で大きく報道されたものの、その真相は事件から1週間たった今も明らかにされていない。果たして、この襲撃が学生たちの自発的意思で行なわれたものなのか、それともイラン政府が背後で操っていたのか、だとしたらイラン政府の目的は何なのか。西側諸国は早々にイラン政府を黒幕と決め付け、イギリス政府は事件の翌日には在ロンドン・イラン大使館の閉鎖を決めた。ノルウェーは在テヘラン大使館を一時閉鎖し、ドイツ、フランス、オランダは自国大使を本国に召還した。イラン政府はこうした決定を性急なものと非難し、政府要人の間からは襲撃した学生達を擁護し、イギリスを非難する発言がさかんに寄せられた。 ◆イギリスの黒い経歴 イラン近代史に刻まれたイギリスの経歴は、イラン人の記憶に消えることのない怨念を残している。1979年にイスラム革命が成就するまで、イギリスはアメリカとともに、民衆を弾圧するパフラヴィー朝を常に支持しながら、イランの石油資源を自らの管理下に置き、宗主国のように振る舞ってきた。イラン政府の言葉を借りれば、イスラム革命勝利後もイギリスは態度を改めることなく、イランの新体制を崩壊させる努力を続けている。2009年のイラン大統領選挙後の騒乱では、イギリスBBCペルシャ語放送の扇動的な報道は、イランの政府と現体制を支持する階層にとって目に余るものだったろう。そして、近年のイランの核問題、人権問題、その他、イランが非難の的となるあらゆる国際問題において、率先してイランを非難する側に立ってきたのがイギリスだった。 ◆事件の背景 このたびの大使館襲撃事件の発端は、IAEA国際原子力機関におけるイランへの非難決議、駐米サウジアラビア大使暗殺計画に関する国連総会での対イラン決議採択、国連人権理事会における対イラン非難決議、さらに核問題に関連する欧米諸国による金融独自制裁の強化という出来事が、このわずか2ヵ月間ほどの間に立て続けに起ったことによる。このうち人権理事会のものを除いた決議や制裁は、どれも根拠が非常に曖昧で、西側諸国のでっち上げと見るアナリストも少なくない。イギリス政府はこれら全てにおいて賛同あるいは主導的な役割を果していたが、イランの政府と国民のプライドを最も傷つけた最近の出来事は、在テヘラン・イギリス大使館による、テヘラン市内の所有地における大量の樹木の伐採だった。 テヘラン市北部の閑静な一角に、イギリス大使館が所有し、その職員らの官舎が置かれたゴルハク庭園がある。この庭園の樹齢50年から150年の樹木300本以上が、最近、イギリス大使館の独断で伐採され、焼却された。全般的に乾燥した気候のイランでは、緑生い茂る森や林はそれだけで価値がある。樹木の伐採はたとえ自分の所有地であろうと、当局へ届け出る義務がある。テヘラン市はイギリス大使館による伐採を違法なものとして司法当局に提訴したが、違法云々よりも、イラン国民にとっては、イギリスのこの宗主国然とした振る舞いこそが我慢のならないものだった。 こうして、イギリス大使館襲撃の前日に当たる11月28日、最高指導者ハーメネイー師は「イラン海軍の日」の演説で、イギリスに対する怒りを爆発させる。それに呼応するかのように、一夜明けた29日の正午、大使館襲撃のわずか2時間前、イランの政府系ファールス通信は、「我々は、アーバーン月13日(アメリカ大使館占拠記念日)をイギリスに対して繰り返す。そして、ゴルハク庭園の返還とイギリスとの断交を政府に要求する」としたイスラム系学生団体の声明を報じた。 ◆どこまでがシナリオか 大使館前には1000人近い、主に学生たちで構成されるデモ隊が集結した。このデモは事前にイラン当局の許可を得ており、当局からイギリス大使館側に通達され、イギリス大使館側の要請に従って、警備のための治安部隊も多数配備されていた。 集結したのは、バスィージ(革命防衛隊傘下の市民動員軍)に所属する学生がほとんどだろう。基本的に、政府の指示なくバスィージがデモを挙行することはない。そのため、このデモも完全な官製デモであり、いわば学生を利用してイギリスに抗議と圧力を加えるための政府の手段の1つである。だからといって、その後に起った大使館内乱入も政府の意思だろう、と考えるのは早計である。興奮した学生たちが暴走したという見方もけっして否定できないからだ。何もかも予定調和の官製デモだったからこそ、治安部隊はこの暴走に対処できず、国営テレビもうっかり生放送を続けてしまった可能性も否めない。 ◆保守派内部の抗争の道具へ 翌日から、イランの政界からは、イギリス大使館乱入事件に対する2つの異なる姿勢が見受けられた。1つは、ラーリージャーニー国会議長を始めとする最高指導者に近い筋からの、イギリスのこれまでの振る舞いを非難し、学生たちを擁護する意見だ。そしてもう1つが、内閣閣僚やテヘラン州知事といったアフマディネジャード大統領に近いグループからの、事件に遺憾を示し、イギリスに対して謝罪に近い配慮を見せるコメントだ。 国際舞台で矢面に立ち、各国のイラン大使館を管轄する内閣が、今回の事件に対して国際的慣習に則った常識的対応をするのは当然のこととして、最高指導者と国会議長に近い派閥が、あえてイギリスを怒らせ、国際社会でイランの評価を落とすような強硬なコメントを発している理由は何なのか。そんなことをしていったい誰が得をするのか。 ここからは私の推測だが、イギリスをあえて怒らせる理由は、イランがイギリスとの国交をもはや必要としていないからではないだろうか。イランへのスパイ活動と発展の妨害にしか興味のない国との国交など、百害あって一利もない。いっそアメリカやイスラエルとのように国交を断絶してしまった方が良い。イラン体制指導部がもしそう考えているのなら、学生による大使館乱入は、それが政府のシナリオであれ、暴走であれ、いずれにせよ次の国会選挙のための道具に過ぎない。今、学生たちを擁護し、イギリスへの非難を表明することによって、国内のナショナリズムを刺激し、保守層の支持を取り込むことができる一方、それができない大統領と内閣は人気を失うことになるからだ。 次回の国会選挙は、改革派の参加しない、保守派だけの選挙になることが見込まれている。イギリスとの関係を悪化させるついでに、選挙でアフマディネジャード大統領派に差をつけるために、体制指導部の一部が大使館乱入事件を利用したというのが私の見立てである。
No.30(最終回)イラン危機と市民の声

◀︎春分の日に始まるイラン暦の新年ノールーズの飾りを並べる商店街。人々は、身の回りの品々を新調し、新たな年に備える。この時期だけは、制裁も物価高もどこ吹く風
◆戦争への危機感 イスラエルによる対イラン攻撃の可能性が示唆されている中、イラン政府は依然として「核の平和利用」の権利を声高に叫び、一歩も譲歩する姿勢を示さない。イランの核開発が表ざたになった2003年以降、イラン攻撃のシナリオは毎年のように提示されてきたが、今度ばかりはイスラエルのプロパガンダと切り捨てられない現実味を帯びている。イラン政府が、「攻撃を受ければ断固たる回答を示す」と強硬姿勢を貫き、ホルモズ海峡での軍事演習を繰り返す中、当のイラン国民は現在の情勢をどう見ているのか。 「戦争が始まる可能性より、始まらない可能性の方が高いと思う。どんな攻撃に対しても、政府は倍にして報復すると言っているし、イスラエルにイランを攻撃する度胸はないでしょう」(テヘラン大外国語学部女子大生) 「戦争は起こらないよ。中国とロシアが拒否権を発動するだろうから、国連による軍事介入はあり得ない。イランがホルモズ海峡を封鎖したら話は別だが、それをやれば中露も拒否権を出すに出せなくなり、世界を敵に回すことになるから、ホルモズ海峡封鎖は絶対にやらない。EUがイラン産原油禁輸制裁を今年夏に発動するまでに、イラン側はなんらかの措置を取るだろう。例えば、今イラン政府の高官たちがトルコに行ったり南米諸国に行ったりしてるのは、ベネズエラ辺りにイランの原油を安く買い上げてもらう相談でもしているんだろう。いずれにせよ、イランの指導者はホルモズ海峡を封鎖して自分から戦争を招くほどバカじゃないよ」(テヘラン電気店店主) 「イラク、アフガニスタンと戦争続きで、イランとの新たな戦争をアメリカ国民は許さないよ」(テヘラン弁当屋店主) 「戦争は起こるかもね。国にとっての損害? そんなことはこの国の政治家にとってはどうでもいいことだよ。彼らは自分のポケットマネーで戦争を始めるんじゃない。国民の税金でやるんだから」(テヘラン食堂従業員) 「いつでも受けて立つよ。戦争ってのは、万全の体制を整えて、地の利がある自分の領土で迎え撃つ方が勝つものなんだ。俺は(イラン・イラク戦争の)前線にいたからわかる」(テヘラン・タクシー運転手) 「戦争になったら、また殉教者がたくさん出て、みんなイスラム共和国バンザイって叫んで、それで政府は安泰。彼らにとってはその方が助かるんじゃない?」(テヘラン・国営企業勤務) 「戦争が起こるかどうかはわからないけど、起こったなら、僕は進んで戦地に行くよ。多分まわりの友達もみんなそう。言っとくけど、僕はバスィージ(イランの体制派民兵組織)じゃないからね(笑)」(テヘラン・工科大学学生) 市内に研究用原子炉、そして郊外には軍事転用を疑われる核施設を備え、真っ先に攻撃の対象となる可能性がある首都テヘランでは、食料品の買いだめが始まっているという噂もある。しかし、概して市民の間に危機感はなく、また、国家の未曾有の危機に際して行動を起こそうとする動きも見られない。 ◆経済制裁への市民の憤り イスラエルによる対イラン軍事攻撃の可能性とともに、経済制裁によるイラン国民の困窮が西側メディアによって報じられている。それはまるで、制裁が効果を上げていると説くことで、イスラエルに攻撃を思いとどまらせようとする海外メディアの善意のようにさえ受け取れる。とはいえ、海外メディアの記者からインタビューを受ければ、水を得た魚のように生活の窮状を雄弁に語るのがイラン人だ。仮に2年前、3年前にインタビューが行なわれたとしても、同じような回答が市民から得られただろう。 イランに対する西側の制裁は、1979年のイスラム革命の勝利以降、30年以上にわたって大なり小なり形を変えて続けられてきた。実際、激しいインフレも高い失業率も今に始まったことではない。昨年末から報じられているイランの中央銀行と原油そのものに対する西側の独自制裁は、これまでの制裁の中でも決定的なものと言われているが、こうした現状は果たしてイランの市民生活にどのような影響を与えているのだろうか。 私設両替商が軒を連ねるテヘラン中心街のフェルドゥスィー通り。どの両替所も、『外貨有りません』の張り紙が張られている。世界市場の動きとは反対に、イラン国内では自国通貨リアルの暴落と、外貨の高騰がこの数ヵ月続いており、私設両替所で外貨を手に入れることはほぼ不可能になった。海外旅行や海外送金に外貨を要する市民は途方に暮れている。 最近、アメリカの制裁対象に指定されたイラン・テジャラト銀行の行員は、外貨が市場に出回らない理由を、欧米諸国によるイラン産原油禁輸措置の決定によるものだとした。 「石油の輸出が止まればいずれ外貨がイランに入ってこなくなり、国内は外貨不足になる。それを見越した金持ちや両替商が、手持ちの外貨を手放さず、溜め込んでいるんだよ」 国内での外貨の高騰によって、輸入品の価格が上昇している。一方で、肉や野菜、乳製品といった国内産は、ここ何年も続くインフレ以上の値上がりはしていないと、国営企業に勤めるゼイナブさんは言う。 「イランの中央銀行と原油に対する制裁が決定されてからまだ2ヵ月しかたっていない。市民生活への直接的な影響はまだ出ていないと思うけど、海外でお金を下ろそうとしたらそれが止められていたり、渡航ビザが取れなかったり、そういうことに対する精神的な疲労を市民は感じている」 さらに、2月に入ってから、ベルギーに本拠地を置く国際的な銀行決済ネットワーク・SWIFTが、アメリカ財務省の要請を受け、このネットワークからのイランの追放を検討している。 中国から家具を輸入するホセイニーさんは、「SWIFTから除外されたら、もう終わりだよ。イランは北朝鮮のように完全に孤立する。僕は田舎でジャガイモでも作るしかない」と溜息まじりに答えた。 SWIFTは、210ヵ国、9000社以上の金融機関が加盟する国際ネットワークで、SWIFTからの除外は、イランの銀行が発行するLC(信用状)が価値を失うことを意味し、イラン国内の貿易業者は海外と一切の取引ができなくなる。ホセイニーさんは怒りの矛先を、イラン政府と西側の双方に向ける。 「常に対立姿勢で歩み寄ることを知らない今の政府のやり方のおかげで、国民がどれほど不便な思いをしているか。でも、SWIFTからの除外は完全に僕らのような個人業者の首を絞めるものだ。市民を追い詰めて、政府への不満を煽るのが欧米のねらいだとしたら、それは検討違いで、むしろ全くの逆効果だ」 イランの多くの市民は、すべての問題を西側諸国に転嫁する政治家の言葉を鵜呑みにすることも、盲目的な政府批判を繰り広げるもなく、現状への憤りを内に溜め込んでいるかのようだ。 SWIFTはアメリカの要請に対し、自社だけが名指しされるのは遺憾だとし、米グーグルや米マイクロソフトなどの、メールを含めた関連サービスのイランからの撤退を要請している。これが実現すれば、欧米はイランを世界の中の孤島と化すことが出来る。一方で、イラン政府は、海外からの有害な情報を遮断するため、かねてから推進してきた国内専用インターネット回線の普及に本腰を入れることになるだろう。
※大村さんは3月16日に帰国するので、今回が最終回となります。
6年にわたりイランの人々の生の声を伝えていただきました。イラン情勢をこのようにリアルに伝える報道はほかにはなかっただけに、とても残念です。『シルクロード・路上の900日』のようなエネルギーあふれる本をまた執筆してくださることを期待します。