【書評再録/2000年以前】
インドネシア

ワヤンを楽しむ 松本 亮著

- ジャワ影絵芝居の魅力-

▼評者・船津 和幸(信州大学助教授)信濃毎日新聞1995年4月9日掲載

 なんともしゃれた美しい本である。まず装丁の演出が心憎い。ワヤンとはジャワの影絵芝居のことである。用いられるワヤン人形は水牛の皮に繊細な透かし彫りを施した極彩色の一級の工芸品であるが、本書を包むカバーにはワヤン世界をつかさどる宇宙支配神ブトロ・グルのワヤン人形が象徴的に配されている。更紗やバティック文様に縁取られたページはジャワ特有の豪しゃなムードを醸し出し、迫力のカラーフォト二百余点はワヤン世界にいやおうなく誘う。そしてふと外れた宇宙支配神のカバーの下に華麗なワヤン人形の細密画が現れる劇的趣向。ジャワの世界観のライトモチーフの見事な装丁化である。
 人形遣いダランは絶妙な語り口の即興と操りで、ジャワの民衆と共に生きる古代の英雄や神々、森羅万象の霊魂、祖霊の影を白幕クリルに現出させる魔術師である。本書はワヤンの魅力や周辺のすべてを網羅する「手ごろな入門書」の概観を呈してはいるが、名ダランに劣らぬ著者の巧みな語りの魔術により、いつしかワヤンに凝縮されたジャワ文化の特質が鮮やかに現出させられる。
 著者によれば、先行する絵巻物の芸能から影絵芝居が成立したのは、十四,五世紀にイスラム神秘主義がジャワに浸透した時期と一致する。その布教者たちは民衆に定着していたインド伝来の二大叙事詩に独特の解釈を加え、ヒンドゥーの神をおとしめ英雄の役割を変ずることで、アッラーの名を出さずして教義を広めたという。
 かくて、インドでは絶対神のシヴァもワヤンの世界では人間に恩恵を与え同時に災厄や悲劇を引き起こす不条理なブトロ・グルとなる。演目「ラウォノの誕生」の暴虐非道の魔王ラウォノは、神聖な知識を行使した人間に対するブトロ・グルの報復として、生を承け不死身の力を与えられるも、結局はラーマーヤナの英雄ロモに退治される。これすべて神のさしがねである。
 また演目「デヴォ・ルチ」では、マハーバーラタの英雄ビモが内なる神デヴォ・ルチからイスラム神秘主義の奥義を啓示される主役だ。こうした改変こそがワヤンを独自な無常感を備えた花形芸能としたのだ。
 イデア(真実在)界の影のみを見る人間を「洞窟の囚人」に例えたのはプラトンであったが、人間存在とは白幕に踊る変幻自在の影絵芝居の観客なのか、幕の向こう側のワヤン人形こそ真実で、操るダランこそ神なのか。「同時にその両側を見るわけにはゆかぬ。裏と表は死者と生者の世界のありように似ている」とは著者、珠玉のつぶやきである。「ワヤンは美しい魔もの」とはワヤンに魅了されて四半世紀という著者の偽らざる実感であろう。

ハッタ回想録 モハマッド・ハッタ著・大谷 正彦訳

▼GAIKO FORUM「書評フォーラム」欄1994年1号掲載

 本書は、スカルノと共に「インドネシア独立の父」とされるハジ・モハマッド・ハッタの回想録である。一九〇二年スマトラに生まれたハッタは、四五年インドネシア独立と同時にスカルノの下で副大統領に就任、その後、首相、外相も兼任し、文字通りインドネシア独立の揺籃期にその国家指導に奔走した人物である。
  しかし五六年、共産党との協力問題でスカルノと対立し訣別する。その後、六五年の九・三〇事件後、スハルトらの新体制を支持、七〇年に大統領顧問を最後に引退し、八〇年に死去している。現在、ジャカルタの空港「スカルノ・ハッタ国際空港」の名でインドネシアを訪れる若い世代の日本人にもその名が知られている。
 このハッタの人物像については訳者もあとがきで触れているように、やはりスカルノとの対比で描き出される。スカルノが「私は芸術家だ。美しいものを愛する、美しい女を愛する、そして私の民族を愛する」と語ったように情熱の革命家であったのに対し、ハッタは「謹厳な読書人で、克己心と道義心に厚く正義感あふれるイスラム教徒」だった。
 こうしたハッタの性格を反映してか、この回想録は、終始、淡々とした筆致で、出来事や情景が描写されてゆく。ハッタという人物の独特の抑制された性格にある種の強い魅力をさえ感じさせる。つまりスカルノとの訣別を「墓場までもってゆく」決意、あるいは二〇年代以来の営営たる苦難の独立運動や、オランダ留学と流刑、日本軍当局との関わり、といった強い感情なしに"回想"できないはずの事柄を、一七世紀のイギリス日記文学風の淡泊さで語り続ける。スマトラとジャワのあの清澄な自然の背景、素朴で敬虔な人々のイスラム信仰、そしてハッタ自身のしなやかな批評精神。これらのせいか、五〇〇頁を超える大著にもかかわらず、ほとんど疲労感を感じることなく読み進める。インドネシアと二〇世紀のアジアを知るための好著であり、難解な翻訳事業を完成させた訳者とトヨタ財団の助成を評価したい。

おいしいBALI 増田 妙著

▼京都新聞1995年3月20日掲載

 インドネシアのバリ島は、日本人も多く訪れる観光の島。きれいなビーチや古典舞踊、ガムラン音楽がセールスポイントだが、二十代の女性である著者は、それらに全く関心がない。著者を引き付けるのは、菓子を中心とするバリの日常の食べ物だ。
  増田妙著『おいしいBALI』は、バリの市場や食堂、路上の屋台などで著者が地元の人たちと交じって食べた物の数々を紹介。活字や写真は一切ない。著者の手書きの文字とイラストをそのまま使っており、絵日記のような風情がある。
  バリ各地で食べたおかずの違いや、バナナの葉に包んだ持ち帰り用などを、丁寧に絵にかき、注釈を加える。また、製菓衛生士の免許を持つ著者は、もち菓子、ゼリー入り飲み物、甘いかゆなど、バリの豊富な菓子の事情を詳しく伝える。
  肩の力を抜いたアジアとの付き合い方が、素朴な味がする本書から伝わってくる。

インドネシア全二十七州の旅 小松 邦康著

▼読売新聞「読書・新刊EXPRESS」欄1995年3月20日掲載

 1万3000以上の島があるインドネシア。東西の距離は5000`もあり、アメリカ大陸より長い。根っからの旅人である著者が、6年間をかけてインドネシアの27州を制覇、旅の途上で出会った人々と自然をスケッチした。バルセロナ五輪で東南アジア初の「金メダルカップル」となった恋人同士のバドミントン選手。「おしん」にあこがれて芸能界に入り、トップアイドルとなった少女。日本の政府開発援助(ODA)で建設されるダムに、複雑な表情を見せる大学教授。「幸運のイルカ」を海に探す女子高生。花の島・フローレスを襲った大地震と津波。そして、独立へ苦闘する東ティモール・・…。肩が凝らず読めるが「日本は本当にアジアを知りつくしているのだろうか。・・…(アジアと先進国との)『架け橋』になれるだろうか?」という最後の問いかけは重い。

インドネシアのポピュラー・カルチャー 松野 明久編

▼篠崎 弘・Music Magazine「ブック」欄1996年4月号掲載

 音楽、映画、演劇、テレビ、文学の各ジャンルについて、若手研究者を中心とした8人の計14論文を収録。巻末には索引もついている。
 良くも悪しくもアマチュアらしさのあふれた本、とでもいえばいいか。
 良さは例えばジョグジャカルタの流しの歌手を描いた「マリオボロのプガメンを追いかけて」やティーンエイジャーの生態を活写した「ビデオ・クリップとABG」、若い新興中産階級の誕生をベストセラー小説に読み解く「ルプス−お祭り騒ぎの物語」などに見られる。いずれも大衆文化の送り手、受け手の中に入り込んで、ディテールの中に潜む本質をサラリと描き出している。豊かな好奇心と軽いフットワークで書かれた文章は面白い。三つとも書き手が若い女性らしいのは偶然か。
 悪しきアマチュアリズムの見本は、例えば冒頭の「インドネシアのポピュラー音楽概説」。このタイトルからは、伝統音楽から大衆音楽の発生と発展、そして現状までを扱った論文を期待するのが当然だろう。これは大テーマだ。幅も奥も深い。たくさんの研究者や評論家が取り組んでいて、なお未だまとめきれていないテーマだ。
 ところが著者は「インドネシア語で歌われている全国区のヒット曲に的を絞ろう」と実に簡単に対象を限定した上で、その対象を「私の印象に従っ」て@歌謡曲Aアーティスト系Bおしゃれなポップ、などと分類してしまう。これでは羊頭を掲げて何とかの類い。いささか乱暴ではないか。「ポップ・インドネシアの近況」程度の題ならさほど失望もなく、それなりの読み物として楽しめたろうに。散見される「まだ少ないみたいだ」「コンサートも盛況だけど」といった文体が、著者のスタンスを物語っているようだ。
 私はアジアのポピュラー音楽に触れてあれば旅行ガイドの類いでも買い込んで読んでしまう人間で、たいていは新しい知識や違う見方に触れて感心するのだが、こうした文体で語られる情報を信頼することだけはできない。実際に研究者から勉強不足を指摘されかねない部分も多い。
  本の帯には「インドネシアおたく大集合」とある。おたくは情熱と情報量でしばしばプロの専門家を凌駕するはずだ。今アジアは何でも活字になる時代。おたくの書くものの方が面白いという典型的なジャンルでもある。なまじ総論的な書名を掲げずに、気ままで興味本位のおたくの視点を押し通すべきではなかったか。

日本占領下・インドネシア/旅芸人の記録 猪俣 良樹著

- 軍直営"ドタバタ劇団"の興亡-

 一九四二年三月。日本軍がジャワ島に上陸し、八日間でオランダ軍は全面降伏。三百年も続いてきたオランダのインドネシア支配があっさりとひっくり返ってしまったものだから、さあ大変。オランダ語は全面禁止。欧米文化も否定せよ、というわけで大衆娯楽のトップバッターだったアメリカ映画も上映禁止。代わりに日本映画を大量に送り込んでみたのだけれど「暗い」「つまらない」。映画館はガラガラ。日本精神なるものをインドネシアの「文化水準の低い土人」の人々に伝えるはずが、画面に映し出された日本の民衆の暮らしぶりを観て「なんだ、我々と同じくらいビンボーじゃないの」とバレてしまう。
  これではいけない。そこで軍の宣伝部が考え出したのが、サンディワラと呼ばれる大衆演劇の劇団をひとつ作って、日本を礼賛する政治宣伝を織り込んだ公演をして回るということだった。日本軍直営の旅する劇団「ビンタン・スラバヤ(スラバヤの星)」の誕生である。
 宣伝工作の一環だから、やりたい放題インドネシアのスター俳優や歌手を投入できる。観衆を呼び寄せるためには、たっぷりと娯楽的要素も盛り込まなければならない。劇団のテーマソングから始まって、ファッションショー、歌と踊り、曲芸や漫才が劇の間にはさまるというごった煮おもしろ状態。これは演劇というよりはボードビルショーだ。当然ながら大ヒット。公演が終わると、観客は翌日の切符をとるために、そのまま外に並んだというほどだ。軍による内容のチェックはあったが、結果的には「キモノ、サヨナラ、トナリグミ、祖国の呼び声、時代の英雄、サムライ精神」、こんなものを適当にちりばめておけばOKだったと言う。
  だが、戦争が終われば娯楽の王様はふたたびアメリカ映画に。サンディワラの栄光の歴史は短かった。この本は埋もれかけていたサンディワラの資料を捜し、現地で人々を訪ね歩いて著されたノンフィクション。労作である。
▲山崎 幹夫(映像作家)・北海道新聞「ほん」欄1996年11月10日掲載

人間の大地(上・下)
プラムディヤ・アナンタ・トゥール著 押川 典昭訳

- 植民地支配下の目覚め-

 相次ぐ事件の連続は、善玉悪玉のいり乱れるジャワの影絵劇ワヤンにも似て、読者はこの小説に引き込まれるに違いない。と同時に、植民地支配下の民族の目覚めがどんな形ではじまったかも知るだろう。そんな迫力とスケールの大きさを感じさせる小説である。
舞台はオランダの植民地支配下にあったインドネシア。四部作の第一部にあたる本書は、十九世紀末から二十世紀はじめにかけて、新時代(モデルン)という言葉が相応しいころのことである。
  白人と混血の通うスラバヤの高等学校で、ジャワ王族の血をひくミンケは唯一人の原住民(プリブミ)であり、ヨーロッパの文化に敬意を払う学生であった。混血の同級生につれられて、敷地内に村が四つもある大農場主の館を訪れたところから話は始まる。
  ミンケはそこで白人の妾(ニャイ)であるプリブミの女傑オントソロと、その娘で混血の美女アンネリースと知り合う。若い二人は恋におち、曲折を経て結婚する。その曲折が長くミステリー仕立てであるところに、ストーリーの面白さがあるが、それは一応おいて結末を急げば、アンネリースの兄に当たる白人技師が突然現れて、ニャイが独力で拡張してきた大農場を奪うだけでなく、アンネリースまでも夫ミンケから引き裂いてしまう。
 原住民であるために一切の権利を認められないオントソロとミンケは、「白人法廷を向こうにまわして戦う最初のプリプミになる」覚悟をし、あらゆる手だてをつくすが、結局は敗北する。だがミンケの心にはジャワ人としての強い自覚が目覚めていた。ミンケに同情し、その闘いを支援する白人もいた。副理事官一家や医師、教師、それにアチェ戦争で片脚を失った仏人画家など。オランダ人の間にも、現地人との協力を説く考え方や、さらに進んだ急進派なども生まれて、時代は大きな変わり目にあった。インドネシア最初の民族主義団体ブディ・ウトモが誕生するのはこれから数年後である。
  著者プラムディヤは一九二五年東ジャワに生まれ、独立革命期に獄中で作家として出発、二十代で早くも代表的作家に数えられていたが、一九六五年の九・三〇事件で逮捕された。十年に及ぶブル島流刑中に同房の仲間に語り聞かせ、出獄後一九八〇年に出版された本書で、一躍文名を高めた。第二部、第三部も出版されたが発禁になったという。訳文は読みやすく、巻末の丁寧な訳注はインドネシア社会の複雑な事情を知るうえで有益である。
▲毎日新聞1986年3月24日掲載

-民族主義の「旅」語る-

 本書は四部から成るプラムディアの大長編小説の第一部である。プラムディアはインドネシアの四五年世代を代表する作家である。四五年世代とは一九四五年から四九年の民族独立革命を戦った世代を言う。現在のスハルト「新秩序」体制が「革命の功労者」としてその体制を正統化するように、四五年世代にとってナショナリズムとは、インドネシア国民の夢と理想を実現する「事業」であった。プラムディアはそうした四五年世代の一人として、事業としてのナショナリズムをめぐる物語をつむいできた。
  本書は、彼がブルの流刑地で幾度となく他の政治犯に、そして何よりも彼自身に語ってきた物語が文字として結晶したものである。
  ここでは、一九世紀末のスラバヤのオランダ人、華僑、ユーラシアン、原住民などの作り出す植民地的世界を背景に、洋式学校で教育を受けるジャワ人青年ミンケとオランダ女王よりも美しいユーラシアンの少女アンネリースの恋を中心として物語が展開する。そして、ミンケが東インドの現実との格闘のなかで、次第に一人の民族主義者として成長していくその精神的軌跡が語られる。
 しかし、本書は第四部「ガラスの家」をもってはじめて完結する長編であり、その意味でミンケとアンネリースの未来については語るべきではないだろう。ここでは、それに代えて、次のことだけを記しておきたい。
 それは、この小説が事業としてのナショナリズムを、一人の民族主義者ティルトアディスルヨ(ミンケ)の「旅」を通して物語っているということである。従って、プラムディアのまなざしは、直接にはミンケの生きた一九世紀に向けられてはいるが、実はその先に「革命の功労者」の跳梁する現代インドネシアが見据えられているのである。
▲南日本新聞1986年3月29日掲載

- 不可思議な迫真力が-

 私・ミンケは、一九世紀末、オランダ統治下東ジャワに住む青年。プリブミと呼ばれる現地民としては上層に属するが、植民地支配にたいする懐疑の感情と思考をはぐくんでいる。高等学校で卓抜の学力をみせながらも、白人や混血者から侮蔑をうけている。このミンケが、若くして筆をとり、美しい混血女性を妻とし、プリブミの社会的主張をつらぬく。しかし、妻と財産とをオランダ人の理不尽によって奪われる…抵抗と挫折の記録。
  主人公ミンケの行跡をたどって概括すると、以上のようになる。ただし、これではきれいごとづくしで、台無しだ。ミンケは東ジャワ随一の秀才で、妻アンネリースは輝くばかりの美人にして、働き者ときている。
  けれども、この小説のほんとうの主人公は、ママことニャイ・オントソロなる女性である。ニャイは、単身でジャワにきたオランダ人工場支配人の現地妻。かの女は、かりそめの夫をたくみにあしらいつつ、みずから農園を拡げ、混血の娘を気丈に育てあげる。夫は身をもちくずし、母娘によるオランダ人への報復は成功したかにみえる。この娘が、ミンケの妻となる。
 ところが、オランダにいる夫の嫡子がやにわに出現し、法律と計略とによって、ニャイとミンケ夫婦から、財産と幸福をはぎとる。だがオランダ植民地主義の権化とでもいえる嫡子は、小説の中では、ほとんど姿をかくしたままである。   現地妻のたくましくも壮絶な戦いと、オランダ人の黒い影。この二つのモチーフの周辺に、植民下のインドネシアの現実がうかびあがり、えてして陥りがちな左翼抵抗文学の英雄譚から、みごとに作品を救いだしている。
 民族の自立意識の生成をテーマとするベストセラー歴史小説でありながら、インドネシアで発禁という現代的な衝撃をもたらしたのも、こうした、抵抗と抑圧というモチーフが、不可思議な迫真力をもって、インドネシア人読者をゆすぶるからであろう。
▲毎日新聞1986年4月21日掲載

すべての民族の子(上・下)
プラムディヤ・アナンタ・トゥール著・押川 典昭訳

- 大河のような現代史-

 本書はインドネシアを代表するプラムディアの大河小説全四部のうち、第一作『人間の大地』に続いて翻訳刊行された第二部にあたる。物語は、オランダ支配下のインドネシアを舞台に、新しい民族意識がめざめ民族運動が生まれてくる過程を、主人公ミンケの成長と重ねあわせて、滔滔と流れる大河のように展開していく。まことに壮大な史劇である、といえよう。
  時は十九世紀のまさに終わろうとするジャワ島のスラバヤ。近郊は水田地帯とさとうきび畑が延々と広がっている。さとうきびはオランダに大きな利益をもたらしている。ミンケは、ジャワ貴族の末裔、オランダ人子弟用の高等学校に学び、聡明で誇り高い青年に育っていく。オランダ語に熟達し友人の多くはオランダ人。原住民でありながら超エリートとして破格の待遇を受け、得意の絶頂にある。しかし、ミンケの運命は暗転する。混血の美少女アンネリースを愛して結婚するが、植民地法で無効とされ、彼女はミンケや母オントソロ(ジャワ人)から切り離されてオランダへ連れ去られる。この背景には、オントソロが、オランダ人農園主の現地妻として、夫の死後築いてきた農園の資産を、彼女から奪いとろうとする企みがあった。第二部はアンネリースの死から始まって、農園資産の譲渡を、法律をたてにして迫るオランダ人に、ミンケがオントソロとともに「口だけを武器として」、闘うところで終わる。この間にミンケは、世界の変化と新思潮を学び、また、足元の農民社会に触れて、知が力であることを自覚する知識人・民族主義者として生まれ変わろうとする。本書の題名も、主人公が普遍的な世界に出合うことに由来している。
 とはいえ、本書の魅力は、その思想性だけにあるのではない。作者は、何よりもまず天性の物語作家として、南国の前世紀末の社会と人間を、血の通った姿で再現してみせる。東南アジアの歴史と社会のみならず、人々の魂と誇りに触れるための、格好の書である。また訳者の訳業も見事の一語につきる。
▲土屋 健治(京都大学助教授)・北海道新聞1988年8月29日掲載

足跡 プラムディヤ・アナンタ・トゥール著・押川 典昭訳

- 被植民者の苦悩描く-

 『人間の大地』『すべての民族の子』という既刊の第一部、第二部に続いて邦訳が刊行された現代インドネシア文学を代表する大長編小説の第三部である。「プリブミ」すなわちオランダ領東インドの現地民であるミンケを主人公としたこの作品は、次の第四部『ガラスの家』で完結する。
  本書は、一九〇一年から一二年にかけての出来事を中心に、主人公ミンケがバタビア(ジャカルタ)、バンドンなどに移動するにつれ舞台は移り変わる。ミンケは医学校の学生となるためにバタビアを訪れる。そこで彼は一つの屈辱を味わうことになる。  西洋風の服装を改め、デスタル(かぶり物)詰め襟服、バティックの腰衣、そしてはだしという「ジャワ人」のスタイルをしなければならないのだ。被植民者として強要される民族衣装、もちろんそれは民族主義を奨励するものではなく、植民者オランダ人との差異性を際立たせるためのものなのである。
  しかし、第一部、第二部と同様に、ここでもミンケはその優秀な頭脳と能力を発揮し、「プリブミ」としては例外的に、上流の植民者層と対等に議論し、交流するという、いわば「貴種」として活動する。彼は医学校を退学し、日刊紙「メダン(広場)」を創刊し、民族主義派のジャーナリストとして、ナショナリズムの大きなうねりの中で活躍するのである。  中国人の安山梅や、パリから手紙を送ってくるメイサロなど、彼の周囲には女性たちの姿が途切れずに現れる。しかし、最初の妻アンネリースとの結婚が不幸に終わったように、植民地において「プリブミ」のナショナリストであるという条件下で、個人としても彼は決して本当に幸福にはなれないのだ、すべての被植民者たちと同じように。
  ハビビ政権が誕生して、三十年ぶりに著者の国外出国が認められたが、著作の発禁という措置は依然として続いている。作者プラムディヤにとっても、主人公ミンケにとっても、激動の一世紀の苦悩は続くのである。
▲川村 湊(文芸評論家)・長崎新聞1999年4月25日掲載

- オランダ統治下のインドネシア 小説に託す民族的自覚の創造-

   最近の新聞報道によれば、インドネシアのアチェ特別区の独立運動組織は武装闘争を停止して、国家による人権侵害を国際社会に訴える方針に切り替えたという。インドネシアの華人社会に対して、政府は中国語禁止政策を三〇年ぶりに解禁したという記事も見られる。
 ここでいうアチェとはなにものか、インドネシアの中国人とはどういう生活をしてきたのか。こういうことを、われわれはほとんど知らない。
  アチェ人はオランダ植民地体制の下で何度も独立戦争を試みて、オランダ軍から過酷な弾圧をこうむってきたし、戦後ままた、独立の意思を棄てていない。また、中国人は前世紀からインドネシアに到来し、着々と生活基盤を固めてきたが、オランダ植民地体制下では、中国人とインドネシアの人々はなかよく共存してきた。
 アチェ人をはじめインドネシアには多くの民族があり、各民族はそれぞれに独自の対オランダ独立戦争を遂行してきた。その歴史なしには、現在の歴史を理解することはできない。歴史学的書物は客観的事実を教えるが、民衆が過酷な人生を生きる時に、何を感じ、何を考えたかは歴史書では知ることができない。それは本書のような大河小説で学ぶほかはない。
  アチェ人の執拗な独立要求はオランダ支配の時から持続してきたこと、また中国移民とインドネシアの諸島の民衆は、オランダ支配下では互いに刺激しあい、友好的であったことを、この小説は実に感動的に描いている。専門家には自明のことだろうが、門外漢はこの小説で初めて新しい事実を学ぶことができる。インドネシア人としての自覚がまだなかった時代に、その民族的自覚をいわば創造し、部族意識を解消しながら無数の部族を一個の国民のなかに溶け込ますには、長い努力の歴史があった。本書では、それは現地人が全国新聞を作る運動として描かれる。
 本書は『ゲリラの家族』『人間の大地』『すべての民族の子』の続編である。本書『足跡』は、オランダ統治下のインドネシアの、二〇世紀前半、つまり独立以前のインドネシアにおける民族の自覚の形成過程を描いている。主人公ミンケは、いまや全国新聞を発行するジャーナリストへと成長し、新聞を利用して、隷属に慣れた民衆を自立した一個の人格へと覚醒させる困難な闘争を開始する。
 オランダの弾圧は厳しく、民衆をあくまで無能で無知の二級市民として扱う。隷属からの脱出が精神的にいかに困難であるかを、プラムディヤは如実に描く。支配者のオランダ人、混血の人々、ネイティブの上層階級と下層階級、これらの階級的身分的差別はどのようであったかが、本書で初めて教えられる。
 最後の部分は感動的である。ネイティブのなかでもっとも下層の虐げられた女性が、一個の自立した人格として立ち上がる。暗闇はなお続くが、既にそこに未来のインドネシアが女性の姿をとって立ち上がる。インドネシアを理解する最良の書。
▲今村 仁司(東京経済大学教授)・「エコノミスト」1999年7月20日号掲載

香料諸島綺談 Y・B・マングンウィジャヤ著・舟知 恵訳

- 官能的島民 目くるめく絵巻-

 インドネシアのマルク(モルッカ)諸島は、良質の香料を産するゆえに、十六世紀以来ヨーロッパ各国の進出闘争の舞台となった。ポルトガル、スペインに続き、十七世紀の初頭設立されたオランダ東インド会社(本書ではVOCと記されている)によって、オランダの直接支配下に入る。昔、高校世界史の授業でこんなふうな筋書きを習ったものだ。
  この作品はその時代、香料諸島と呼ばれていた島々に暮らしていた人びとの数奇な運命の物語である。読みはじめて、私は通り一遍だった歴史の知識が、換羽期の鳥の羽毛のように虚しく抜け落ちていくのを感じた。作者は列強の代表者たちを大型の鮫に、確執しあう島国の王たちを中型魚の鰹に、船大工ミオティのような人びとを群れなす小鰯たちにたとえている。単純な筋書きではない。美しい南海をおびただしい血で汚しながら鮫と鰹と小鰯たちが、権利をめぐる必死の駆け引きや生きのびるための数々の秘策をくり広げる面白さは、一度手にとったら置くのが惜しくなる。
  インドネシアの文学は、ほとんど日本では紹介されていないので比べる機会が少ないけれど、本書の奥行きの深さは、作家としてのマングンウィジャヤ氏の才能の豊かさを信じさせるものである。濃密な文体が、読んでいる私の五官に働きかけ、香料諸島の海と浜と森、官能的な島民の世界を目くるめく絵巻きのように現出させる。
  しかも作者には別の意図もあるらしい。一五九四年に始まり一六二一年に終わるこの物語は五章だてになっているが、ところどころで唐突に現代の島民に対して行った聞き取り調査票や幽閉中のスルタンの釈放願いの手紙などが挿入されてくる。あたかも快い叙事詩の流れにのみ、読者の身をまかせることを防ぐかのように。作者は他のエッセーでこう書いているそうだ。「歴史は我々の生活にぐんと身近に触れる興味ぶかいフィルムであり、ドラマであり、コメディであり、またとりわけ深い意味にみちた悲劇である」と。この作品にはそれらすべてがつまっているのである。
  インドネシアをはじめ、多くのアジアの国々のことを私たちは知らなさすぎるのではないか。地図の上ではこんなに近いのに。理解するための重要な手だての一つが、文学であることにまちがいはないだろう。その意味でも会えてうれしい本であった。
▲加藤 幸子・信濃毎日新聞「読書」欄掲載

ナガ族の闘いの物語 レンドラ著・村井 吉敬、三宅 良美訳

- 開発と腐敗の体制/弾圧下で鋭く風刺-

 昨今のインドネシアの通貨・経済危機は、燻り続けてきたスハルト政権に対する民衆の不満を、さらに増幅させそうだ。
  インドネシアはオランダに統治され、日本軍の支配も挟んで、独立をかちとった。だが、大きな発展と引き換えに、言論の自由や人権の弾圧を許して今日に至っている。この間、大勢の人びとが政治犯となって捕らわれたり処刑されたりした。
  常に民衆の側に立って闘ってきたそのひとりが、著者のレンドラだ。彼は十代から、詩、短編小説、戯曲、演出などと幅広い活躍をしている。だが、体制から逮捕されるなどの弾圧を受けてきた。
 この本は、戯曲と詩と解説から成り立っている。ナガ族の物語の戯曲は一九七五年に上演されたもので、開発と腐敗を鋭く風刺した作品だ。
  レンドラの言葉は上品で、民衆の心の深さを柔らかくゆったりと引き出している。拳を振り上げた「反体制物」という次元からはほど遠い。それが作品の芸術性の高さで、彼の人気の秘密なのだろう。
  「伝統というのは社会のたましいの表われであろう。伝統というのは本然の性じゃ。(略)社会はたましいと体を持つ。社会の体、それはならわし習慣、組織、そして法」
 「すべてが効率的でなきゃ、いかんのか、エッ?効率的なものが有益なのか?・・…こりゃ、たまげた!あんたは恋に落ちるときも、効率的なのか?信仰も効率的でなくちゃ、いかんのか?」
 「わたしたちが闘っている価値は、空に刻まれ、地球に刻まれ、(略)口から口へと伝わっていく」
  「詩」の編の作品も、どれもが思慮深いもので魅力的だ。アジアの詩に親しみのない私たちだが、インドネシアをフィールドにしている学者が訳しているだけに、臨場感があって分かりやすい。
  混沌とした苦悩のなかにあるわたしたちにも、大切なものは何かを考えさせられる。
▲大石 芳野・読売新聞「読書」欄1998年2月15日掲載

電報 プトゥ・ウィジャヤ著・森山 幹弘訳

- インドネシアの暮らしと心描く-

 報道の規制が厳しかったこともあって、インドネシアについて私たちはさしたる知識を持ち得てこなかった。スハルト政権の崩壊に至るまでの惨劇によって、にわかに彼の国が近くなったような気がする。
  ところが、インドネシアの人びとや生活、文化的な価値観、社会状況・・…などを思い巡らせても、ほとんど浮かんでこないのではないだろうか。それほど遠い人びとが、ぐんと近づくのがこの本だといっても過言ではない。著者はアメリカに留学したのち、来日して京都大学の東南アジア研究センターで学んでいるから馴染みのある人もいると思う。
 この作品『電報』は、それ以前の一九七三年に出版された。ごくごく平凡なインドネシア人の暮らしを題材にした小説だ。
 通信が発達していない地域にとって、電報は欠かせない緊急手段だ。日本でもそう昔のことではなく、「ハハシス スグカエレ」といった事態に使われた。
 この物語も同様に、故郷バリ島の母親の病気そして死亡を伝える電報を軸に、主人公「ぼく」と十歳の養子の少女を中心に描かれている。さらに、言論の自由が厳しく規制された息詰まる状況から、抜け出たい人々の思いも行間に滲む。
 バリ島の出身という著者の性格が、随所で生かされる。たとえば、現実から逃避したような夢、空想、想像、といった類いに耽る主人公の姿は、そのままバリ島の人びとを思わせるし、多民族構成のインドネシアの人たちのなかにも見られる様子だ。表現の工夫に力と技が感じられる。
  主人公の少女に対する気持ちが、時に女、時に幼子という気持ちの揺れに、きわどさが漂う。が、露骨な表現にならないのは、丹念に練り込まれた巧みな構成力による夢と現の妙だろう。インドネシアを旅していると、いつしか私も南の人になった気分になるのは、こうした人びとの豊かな精神に感化されるのかもしれない。
▲大石 芳野・読売新聞1998年7月5日

渇き イワン・シマトゥパン著・柏村 彰夫訳

 著者であるイワン・シマトゥパンは1928年スマトラ島の港町シボルガ生まれのバタック人である。彼は東ジャワのスラバヤ医学学校に入学するが、実習の際に失神し、血を見るのに耐えられなくなり中退。その後オランダ、フランスに留学し、人類学、演劇、哲学を学ぶ。その間オランダ人女性と結婚し二男をもうけるが、妻は病死。インドネシア帰国後再婚するも離婚。その後、ホテル住まいをしていたが経済的理由により断念。最後は薬代にも事欠くほどの困窮状態に陥り1970年に42歳の若さで生涯を終えている。
 本書は元ゲリラであり、大学を退学し、自発的に移民となった主人公が、異常なほどに長引く旱魃を機に移民村を棄て、「前進」する過程で経験するさまざまな出来事を通じて、人間のもつトラウマ、疎外、生の不条理−著者自身が強く感じていたであろうもの−をユーモアを織り交ぜつつ、さまざまな反フォーマル・リアリズム的手法で描写した作品である。登場人物はすべて名前をもたず、主人公ですら「男」と表現され、「ずんぐり」、「顎鬚」などの身体的特徴や「神父」、「移住局の役人」などの役職で呼ばれており、さらに地名もなく、日時も特定できないという抽象性のなかで、物語は展開されている。
  このようにイワンの著作は、従来の観点からみると小説らしからぬ手法を用いている等、さまざまな批判を受けた。しかし、60年代の終りから70年代にかけてのインドネシアでの社会・政治的な混乱の中で起こった、従来のリアリズム文学の慣習を問い直すという革新運動のなかで、イワンはその旗手とみなされるようになった。そして、彼の死後、独特のスタイルを持った小説として次第に受け入れられるようになった。
難解な抽象的表現が数多くあるにもかかわらず、淀みのない翻訳に仕上がったのは訳者の柏村彰夫氏の力量と10年にもわたる根気強い翻訳作業によるところがおおきいとおもわれる。
▲THE TOYOTA FOUNDATION REPORT No.94(2001年1月)掲載

カルティニの風景 土屋 健治著

- 新しいインドネシア論-

 四月二十一日はインドネシアの民族英雄でもあり、インドネシア女性解放運動の先駆者ともいわれるカルティニの生誕を記念する日である。カルティニが生まれてから九十六年目(亡くなったのは一九〇四年、二十五歳)の一九七五年のその日、私はこの本の著者土屋健治さんに西ジャワのバンドン市で会い、先学の話に耳を傾けていた思い出がある。
  翌七六年のその日に、私は初めてカルティニという女性を意識することになった。この記念日が留学中の大学で祝われたからである。印象は好ましいものではなかった。式典はインドネシアのさまざまな民族衣装を着飾った青年男女のファッションショーを、クバヤとサロンで着飾った上流夫人たちが見守るといった他愛もないものだったからだ。その日にもう一つの不快な経験もあった。郡役場の女性役人から賄賂をせびりとられたのである。「何がカルティニだ!」見当はずれな思いがあとを引き、私はカルティニをなるべく見ないようにしてきた。
 カルティニは、前世紀末から今世紀初頭のオランダ人にとっては「古き良き時代」、インドネシア人にとっては、やがてきたりくる「民族の時代」の直前を懸命に生き急ぎ、夭折した女性である。上流植民地官僚の娘として生まれたカルティニは、良質な部分としてのヨーロッパ近代に触れることのできた幸運な立場にあった。どんなに才気あふれていようが、彼女は植民地の人間であり、ジャワの女性であった。彼女にとって「闇」は植民地そのものであり、女性の自立を縛るジャワであった。そして、まだ見えてこない「光」は多分「良い近代」といえるようなものだった。一九一一年にオランダで出版された彼女の書簡集の題が「暗黒を超えて光明へ」とされたことがそのことを物語っている。
  本書はただカルティニの生涯を追う伝記ではない。「インドネシア民族」なるものが、あるいは「インドネシア人の共有し得る風景」なるものが、十九世紀末にどのようにして成立していったかをカルティニを通じて、当時の絵画を通じて、また植民地都市空間に生まれたメスティーソ文化(クロンチョン音楽など)を通じて解きほぐしてゆこうとするざん新なインドネシア政治文化論である。カルティニを百年以上の時代の流れの中で捉えんとするスケールの大きな作品である。
 「インドネシア民族」のたましいの遍歴が絵物語のように展開されているだけでなく、土屋さんのたましいの遍歴をもこの作品では読みとることができる。私の十五年前の浅はかな思いが恥ずかしい。いつの日にか「うるわしのインドネシア」の「反世界」の遍歴についてもこのような珠玉の書が生まれることを期待したい。
▲村井 吉敬・信濃毎日新聞「読書」欄1991年12月15日掲載

- インドネシア たましいの共鳴-

 なだらかな裾野を引く青く彩られた山々、ゆったりと浮かぶ雲、その雲や橋の影を映す川面、そして水田と樹々の緑・・…このインドネシアの田園風景を表紙に配した土屋健治『カルティニの風景』の同じ本二冊が書棚に並んでから、早、四年が経とうとしている。
  一冊めは発刊とともに深い感銘をもって読了。その四年後、二冊めを著者の遷化に際する香典返しとして戴いた。見返しには、原稿の一節と自著が特別に刷られていた。穏やかで繊細でありながらユーモアと包容力に溢れた人柄そのままの手跡には、しかし、志半ばにして逝かざるをえなかった人の切歯するような無念さが漂っている気がして、今なお直視できないでいる。
 そして、そのやるせない想いは、あとがきの末尾にある、「本書を書きながらずっと考えていたのは、実は、自らの生を未来に向かって燃やし尽くした人びとについての『人の死』ということではなかったかと思う」という文章に接するとき、ひときわ強まる。著者もまた予期せぬままに「自らの生を未来に向かって燃やし尽くし」て、この一書を書き上げたのである。
  一九〇四年、二十五歳の短い生涯を終えた女性、カルティニ。土屋は、その書簡集と、冒頭に記したような民族の魂や祖国の美を描き出す風景画と、クロンチョン音楽のそれぞれ各々が辿った旅路を香気立つ玲瓏たる文章で綴り出す。それは著者の豊饒なる感性が、インドネシア・ナショナリズムの心性と時代の心象風景とに、みごとに共鳴して成った稀有の僥倖の所産である。
  土屋健治、享年五十二歳九ヵ月。インドネシアを真に愛し、それゆえにその現状と研究のあり方を心底から憂い、憤った人。今や即ち亡し。だが、その智・情・徳を備えた人格が、私には著作のみならず最も記憶に残る作品そのものとして今に存る。
▲山室 信一(京大人文研教授)・読売新聞「読書・書棚から」欄1999年1月24日掲載

ジャワの音風景 風間 純子著

 ジャワ島で最も人気の高い大衆演劇クトプラ。その劇団と生活をともにした見聞録。クトプラを中心にしてくりひろげられるジャワの音風景が、著者のしなやかな感性と溶け合って、さわやかな感動をもたらす。西洋音楽を専攻していた著者が、どのようにしてアジアの音の世界と出合ったのか。現代のアジアの心を見事に伝える作品。
▲朝日新聞1994年7月10日掲載

- 芸能のある場所・「ジャワの音風景」を読む−

 芸能ライターと学者の、無能と怠慢に対して、強烈な批判を発している本である。著者は批判を意図していないし、批判する文章は一行もない。しかし、この作品の完成度は、想像力あるライターや学者たちにとって痛烈な批判であるはずだ。
 英語以外の外国語ができる芸能ライターはおそらくほとんどいないだろうし、大衆芸能を研究する学者、あるいは生活に近い事柄を研究する学者もきわめて少ない。とすれば、ジャワの大衆演劇クトプラを軸に、ジャワの芸能と社会について一冊の本を書き上げられる日本人は、『ジャワの音風景』の著者風間純子しかいない。彼女以外誰にも書けない本である。最初に読んだときは内容のおもしろさに心を奪われて気がつかなかったのだが、二度目に読んだときに、この本のもっともすばらしい点に気がついた。それは、私の知らない世界なのに、読んで内容がよく理解できるということだ。著者も学者ではあるが、一般読者がわかる文章になっているというのは、あたり前のようでいて実際はかなり難しいことなのである。
 インドネシアに留学した著者は、クトプラという大衆演劇に出会う。クトプラは歌あり踊りありお笑いありの伝統芸能だが、ジャワ人の生活に今も生きいきと存在しているという点で、「保存会」によって保存されている日本の伝統芸能とはまるで異なっている。
芸能は、保存された時点で生命を失う。権力者が「保存する価値がある」と認定するような芸能に、活力があるわけはない。したがって、保存されないクトプラという芸能は、思いっ切り猥雑であり下品であり、それゆえに生き続けているのであるが、それゆえにインテリたちには見下されている。
 芸能と芸人の明と暗にも著者の筆が進むのは、クトプラの劇団に居候し、行動をともにするということまでやっているからだ。対象に近づきつつ、ミーハーの追っかけにはならず、研究者の目はクトプラの歴史やジャワ社会と芸能の関係、芸能と政治といった、芸能をとりまく周辺の情況にも目を配っている。それが、研究者だけを相手にした専門書の枠を大きく超えた名作になった理由である。
 この本の魅力をひとことで言えば、臨場感である。芸能のある場に身を置いた者が、その音風景を日本の読者に伝えることに成功したことである。現在も日本で数多く発表されている映画評や音楽評といったものが、結局のところ作品論や監督論や歌手紹介だけで終わり、その芸能がある場には言及しない。中国映画を紹介しても、中国の映画館やそこで映画を見ている中国人のことなど思考になく、インドネシア音楽を紹介してもその音楽を聴いている人たちのことは無視してきた。芸能を、フィルムやCDに保存されたもので判断することがあたり前になってしまった。
  しかし、この本では、ジャワの芸能とともに育った人たち、一日の仕事を終えてステージ前にやってきた人たち、芸人という人気者でありながら芸人であることで見下される人たち、こういう人々についても著者の眼差しは届いている。虫の目と鳥の目の両方で、クトプラをめぐる芸能世界を眺め、記録する試みが見事に成功している。
 この本を読みながら、教育についても考えた。私は出来の悪い生徒だったから、西洋古典音楽に洗脳されることはなかった。どんな音楽も、おもしろいかおもしろくないかという自己の判断だけを基準にしてきた。一方、東京芸術大学進学を目標とする生徒であった著者は、当然西洋古典音楽で完全武装し、それ以外の音楽は聴こえない耳を育てていた。ところが、見事芸大入学をはたした著者は、大学でガムランを聴き、インドネシア音楽の方がおもしろくなってしまった。芸大にガムランの楽器を持ち込んだのが小泉文夫であり、著者は小泉の最後の教え子にあたる。小泉文夫が日本人に伝えたかったことをわたし流にまとめれば、「世界にはさまざまな音楽があり、西洋古典音楽はそのひとつにすぎない」ということだ。
 小泉文夫の教えを、学校や放送や著作で受けたかつての若者たちが、最近やっと表だった活動をするようになったという印象がある。西洋のものさしではかれないものは音楽ではない、とする西洋古典音楽至上主義者はまだ大多数だが、ロウソク一本の光は見える。
▲前川 健一・「本の窓」(小学館)1994年11月号掲載

アルジュナ、ドロップアウト Y・ANM・マサルディ著・押川典昭訳

 思うがまま無軌道に生きる中流家庭の青年をユーモラスに描き、インドネシアで話題を呼んだ三部作の二作目。作中人物の名は影絵劇ワヤンに登場する神々のもので、伝統劇のパロディーともなっている。父親に恋人をとられ家出した主人公アルジュナが、祖母の住む古都ジョクジャカルタで、恋愛騒動や大学進学をめぐるいざこざを起こす。
▲朝日新聞「新刊抄録」欄1995年10月1日掲載

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