東南アジアの仏足石
- Aya Kimura
- 16 時間前
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東南アジアの仏足石
鈴木峻(すずきたかし)
A5判横組み・上製・220ページ・オールカラー
定価4000円+税
ISBN978-4-8396-0342-7 C3022
仏陀の足跡への崇拝は信仰の原点か? 仏足石の謎をさぐる旅の記録と考察。252点の仏足石のカラー写真。東南アジア歴史研究と仏教研究に必読の書です。
鈴木 峻(すずき たかし)
1938年8月5日満州国・牡丹江市生まれ。
1962年東京大学経済学部卒業。住友金属工業、調査部次長、シンガポール事務所次長、海外事業部長。タイスチール・パイプ社長。鹿島製鉄所副所長。(株)日本総研理事・アジア研究センター所長。
1997年神戸大学大学院経済学研究科兼国際協力研究科教授。2001年東洋大学経済学部教授。2004年定年退職。その間、東京大学農学部、茨城大学人文学部非常勤講師。立命館大学客員教授。
経済学博士(神戸大学、学術)。
2012年9月~2014年6月、タイ、ラオス、カンボジアに数次にわたり仏足石調査旅行。
主な著書『東南アジアの経済』(御茶ノ水書房、1996年)、『東南アジアの経済と歴史』(日本経済評論社、2002年)、『シュリヴィジャヤの歴史』(2010年、めこん)、THE HISTORY OF SRIVIJAYA under the tributary trade system of China (英文。2012年、めこん)、『扶南・真臘・チャンパの歴史』(2016年、めこん)、THE HISTORY OF SRIVIJAYA,ANGKOR and CHAMPA(英文。2029年、めこん)
目次
第1章 東南アジアの仏足石概論
1. 東南アジア各地の仏足石
2. 2種類の仏足石
3. シュリヴィジャヤと大乗仏教
4. 古い仏足石
5. シュリヴィジャヤ時代の仏足石
6. 法顕の耶婆提
7. モン族と仏足石
8. スコータイ・アユタヤ時代の仏足石
9. マレー半島の仏足石
10.絢爛豪華な108紋仏足石
第2章 マレー半島の仏足石と通商ルートの歴史
1. 初期の素朴な仏足石
2. 足型の仏足石に
3. 深彫り、装飾化していく仏足石
4. クラ地峡の通商ルートからタクアパルートへの転換
5. さまざまなタイプの仏足石
6. 108吉祥紋の大型仏足石
第3章 仏足石を訪ねて
1. サムイ島
2.サティンプラ
3.プーケット・タクアパ周辺
4 ビエンチャン
5. ナコーンシータムマラートでの国際セミナーとスコータイ
6. イサーン(タイ東北部)
7.シーテープとサラブリー
8.ペッチャブリー、フアヒン方面(旧羅越)
9.ウボンラーチャターニー、パークセー、ワット・プー、カンボジア
10. アンコール・ワット
11. プノンペン
12. アンコール・ボレイ
13. バンコク国立博物館
14.タイ中部・北部
15.チャンタブリー
付章 ビルマの仏足石
仏足石所在地リスト(タイ・ラオス)
索引
【まえがき】
仏足石は仏足跡とも日本語では書かれるが、最近のものは石(岩)に刻んだも
のだけでなく、大型化し、青銅などで作られたものが増えているため、「仏足跡」
と表記されるケースが増えてきた。英語ではBuddha('s) Footprint(s)である。本
書では「仏足石」と記述する。
仏足石はブッダが入滅後、そのお姿を形にすることは恐れ多いとして遠慮さ
れ、紀元2世紀の初めごろようやくガンダーラで仏像が作られるまでは、ブッダ
の「足型」が崇拝の対象になっていたと考えられる。足底には次第に仏教関係の
法輪などの紋様が加えられた。インドでは古来国王や聖人の足(特につま先)に額
をつけたり、接吻して「敬意を表する」習わしがあったとされる。仏足石崇拝に
はその伝統が引き継がれたものであろう。ヒンドゥー教にも足裏崇拝の跡が残
されている。ヴィシュヌ神やシヴァ神の足裏も崇拝の対象であった。これはア
ーリア系民族の習慣だともいわれる。
初期の仏足石は「足型」の上にはブッダのお姿があるものとして「両足」が信
者のほうに向けられたものが「基本」になっている。信者が足先に額をつけて崇
拝できるように便宜を図られたようである。仏像は当初はあり得なかったので、
「足型」そのものが崇拝の対象となり、インドの周辺国に広まっていった。現在
は「片足」の仏足石のほうが多くなっている。日本では中国への留学僧が転写し
持ち帰った図面をもとに我が国最初の仏足石が刻まれたのは773年とされ、それ
は奈良薬師寺に保存され、今は「国宝」に指定されているが、その後全国各地に
約300基の仏足石が存在する。
仏足石の研究では薬師寺元管長の松久保秀胤長臈が我が国における最高の権
威者であるが、氏姓学の大家として名高い丹羽基二博士も『図説世界の仏足石』
(名著出版、1992年)という労作を残されている。私は仏足石については素人研究
者であるが、タイ、マレーシア、ラオス、ミャンマーの仏足石を実際に観察した経験を多少なりとも記録にとどめたくこの書物をしたためた次第である。もちろん
対象はタイだけでも1000基を優に超えており、農村部にも拡散されており、個
人で実見できるものは少ないが、その中でも代表的なものを収録した。
私が直接ご指導いただいたのは薬師寺の松久保秀胤長臈である。松久保長臈
が拙著『シュリヴィジャヤの歴史』(めこん、2010年)をご覧になり、仏足石も調べ
たらどうかという御示唆をいただいたことが、私の仏足石調査の出発点である。
その結果、私には思いがけない発見があった。それはシュリヴィジャヤ帝国
が大乗仏教を「国教」としていたということである。シュリヴィジャヤ帝国の勢
力が広まるところ、大乗仏教も広まった。ジャワ島の「ボロブドゥール寺院」は
シャイレンドラ王朝の残した大乗仏教遺跡であるが、シャイレンドラ王国はシュ
リヴィジャヤ帝国の一部であり、それがのちに一時シュリヴィジャヤ帝国のリー
ダーになったということが判明した。
スマトラ南部のジャンビ(Jambi)にも「ムアロ・ジャンビ(Muaro Jambi)」という
大乗仏教の大コンプレックスがある。ここには仏足石は存在しないが世界最大
級の大乗仏教寺院群がある。ジャンビが「三仏斉」(チャイヤー、ケダ、ジャンビの連
合王国)の一角であったことは間違いない。ジャンビは680年台にシュリヴィジ
ャヤの征服を受け、その主力属領になってから、本格的な仏教国になったもの
と思われる。ジャンビも東西貿易の拠点の1つになっていたことが窺われる。国
王にはたぶんシュリヴィジャヤの貴族の1人が派遣されたものと思われる。
また「真臘」の後の「クメール王朝」もシュリヴィジャヤの属領であったという
推論が成立する。アンコール王朝が「東西貿易の中継点」であったという通説は
実は間違いであった。アンコールは814年から300年間も中国に「朝貢使節」を
出していないのである。814年は水真臘の朝貢ということになっているが、実際
はジャヤヴァルマン2世統治下の「クメール王国」であったものと思われる。そ
の後はクメール朝はシュリヴィジャヤ本部から朝貢使節を出すことを禁じられ
ており、アンコール王朝がそれに300年間も従っていたのである。シュリヴィジ
ャヤとは「別系列」(ピマーイ王家)のスーリヤヴァルマン2世の登場によってよう
やくアンコールは独自に北宋に使節を送ったのである(1116年)。前回は水真臘(実
はアンコール王朝)の朝貢が814年であった。南宋は12世紀末には朝貢制度を廃止
してしまい。ジャヤヴァルマン7世が送った朝貢使節が最後となった(1200年)。8世紀の後半(760年頃)シャイレンドラ王国の海軍はチャイヤー(Chaiya)周辺
を占拠(750年頃)していた「水真臘」軍を破り、余勢をかつてメコン川流域に侵
攻し、そこで「水真臘王国」を亡ぼした。後にシュリヴィジャヤ本部から派遣さ
れたと考えられる若き司令官ジャヤヴァルマン2世が802年に征服したカンボジ
アの諸王をプノン・クレンに集め、「クメール王朝」の開祖となる宣言を行なっ
たのである。彼はシャイレンドラの出身というより、シュリヴィジャヤ帝国本部
から派遣された人物ではないかと推察される。仏教徒であったが、「水真臘王国」
の地方君主を懐柔するために、あえて「シヴァ教徒」と調和させるべく「Devaraja
or God King」なる概念を取り入れた。これは「神格化された王」という意味であ
り、シヴァ教的な王と解釈すべきなのである。
「SKT碑文(クメール王朝の歴史を記す)」に見るジャヤヴァルマン2世の「ジャワ
からの独立宣言」は政治的ジェスチャーと見るべきであり、彼の本質は「大乗仏
教徒」であった。彼の死後、ジャヤヴァルマン2世の協力者であった地元の有力
者のインドラヴァルマン1世(在位877-889年)一家に権力を奪われた。ジャヤヴ
ァルマン2世の後継者には息子のジャヤヴァルマン3世(在位834-877年)がいた
が、インドラヴァルマン1世によって事実上歴史から消されてしまった。その後
クメール王朝はシヴァ神を信仰する王がジャヤヴァルマン4世(在位928-942年)
まで続いたが、彼らは宗主国たるシュリヴィジャヤ帝国の認めるところとはなら
ず、ラジェンドラヴァルマン2世(在位944-968年)によって王権を奪われた。ジャ
ヤヴァルマン4世はアンコールの地を捨ててコーケー(Koh Ker)に新たなシヴァ
教的首都を建設したが、ラジェンドラヴァルマン2世はジャヤヴァルマン4世を
滅ぼしたのちアンコールに遷都した。コーケー遺跡はすべてシヴァ教の遺跡し
か残されておらず、仏教遺跡はかけらもない。
ラジェンドラヴァルマン2世の治世からは大乗仏教が改めて積極的に導入され、
やがてクメール王朝の「本流」となる。彼はシュリヴィジャヤの参謀本部の置か
れていたナコーンシータムマラート(Nakhon Si _ammarat)から軍事力の支援と政
治的指示を受けていたものと思われる。アンコール王朝は最終的にジャヤヴァ
ルマン7世に見る如く「大乗仏教国」として大成したのであった。アンコール王
朝はいわば「封建制」であり、地方ごとに小王国が複数存在していたものと思わ
れる。地方の小王国の国王は概して「シヴァ教徒」であったが、仏教は一般庶民
の間に広まったと考えられる。クメール王朝に大乗仏教が本格的に広まるのは
ジャヤヴァルマン2世以降であった。インドラヴァルマン一族もそれを覆すこと
はできなかったものと思われる。ジャヤヴァルマン4世のコーケー遷都がシュリ
ヴィジャヤ体制への抵抗であったが、それは許されなかった。
タイ地域、マレー半島の仏足石の存在・分布と比較すると、顕著な差が見ら
れる。もちろんカンボジアやメコン・デルタ地域には扶南時代に仏教が信仰さ
れており、530年ごろ没したと考えられる扶南最後の王ラドラヴァルマンは仏教
徒であったと伝えられている。メコン・デルタ地域にはオケオの近くの岩の上に
仏足石と見られるものは存在するが、それが仏足石かどうかは不明である。
インド商人と仏僧はメコン・デルタの扶南地域にはさほど進出していなかっ
たものと考えられる。義浄は、扶南の地には仏教が普及していたが前期真臘の
王たちによって仏教徒が迫害されたという主旨のことを述べている。
「人多事天、後乃仏法盛流、悪王今並除滅、無僧衆、外道雑居」(南海帰寄内法
伝)と真臘の王は仏教を弾圧し、仏僧がいなくなったと書いている。外道とはヒ
ンドゥー教のことである。